中臣大島
時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 持統天皇7年3月11日(693年4月21日) |
官位 | 直大弐・神祇伯 |
主君 | 天武天皇→持統天皇 |
氏族 | 中臣連→中臣朝臣→藤原朝臣→中臣朝臣 |
父母 | 父:中臣渠毎 |
子 | 馬養 |
中臣 大島(なかとみ の おおしま)は、飛鳥時代の貴族・漢詩人。氏姓は中臣連のち中臣朝臣、藤原朝臣、中臣朝臣。中臣渠毎の子。官位は直大弐・神祇伯。
経歴[編集]
中臣鎌足・金の後を継いで中臣氏の氏上的な立場となり[1]、天武・持統朝で内政・外交の両面で活躍した。また、持統朝では神事での活動も目立ち、律令国家確立期にあって、政祭両面で重要な役割を果たした[2]。
天武天皇10年(681年)3月に川島皇子・忍壁皇子らと共に、天武天皇より『帝紀』および上古の諸事(『本辞』『旧辞』など)を記し校定するよう命ぜられる。特に大島と平群子首は自ら筆を執って記したという(この時の冠位は大山上)[3]。同年12月に小錦下に叙せられる。天武天皇12年(683年)伊勢王・羽田矢国らと共に判官・録史・工匠らと共に全国を巡行して諸国の境界区分を行った。しかしこの時は区分を完成させることはできなかった[4]。天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により連姓から朝臣姓に改姓し、その後時期は不明ながら藤原朝臣姓に改姓している。
朱鳥元年(686年)正月に新羅使・金智祥を饗応するために、大島は河内王・大伴安麻呂・境部鯯魚・穂積虫麻呂と共に筑紫に遣わされた(この時の冠位は直大肆)。同年9月に天武天皇が崩御し、同月末に殯宮で諸官人が誄した際、大島は兵政官の事を述べる[5]。また、翌持統天皇元年(687年)8月に持統天皇の命令を受けて、黄書大伴と共に300名の高僧を飛鳥寺に招集し、天武天皇の衣服で縫製した袈裟を与えている[6]。その後、藤原不比等の立身に伴って[7]、大島は藤原朝臣姓から中臣朝臣姓に復姓している。
持統天皇4年(690年)持統天皇の即位の儀に際して、神祇伯として天神寿詞を読んだ[8]。また翌持統天皇5年(691年)の大嘗祭でも天神寿詞を読んでいる[9]。持統天皇7年(693年)3月11日に賻物を与えられており、この日に卒去したか。
人物[編集]
漢詩人として『懐風藻』に漢詩作品2首をが採録されている。また、草壁皇子のために粟原寺の建立を発願するなど[10]、仏教にも理解を示した[2]。
岡部伊都子や梅原猛らは談山神社所蔵の『栗原寺三重塔伏鉢』銘文に見える「比売朝臣額田」を額田王に比定して、大島を額田王の再婚相手とする説を唱えている。
官歴[編集]
『六国史』による。
- 天武天皇10年(681年) 3月17日:見大山上。12月29日:小錦下
- 天武天皇13年(684年) 11月1日:連姓から朝臣姓に改姓(八色の姓制定)
- 時期不詳:中臣朝臣から藤原朝臣に改姓
- 朱鳥元年(686年) 正月:見直大肆
- 時期不詳:藤原朝臣から中臣朝臣に改姓
- 持統天皇4年(690年) 正月1日:見神祇伯
- 持統天皇7年(693年) 3月11日:卒去(直大弐)
系譜[編集]
「中臣氏系図」『群書類従』巻第62所収による。
- 父:中臣渠毎
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:中臣馬養