大中臣淵魚

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大中臣淵魚
時代 平安時代初期
生誕 宝亀5年(774年
死没 嘉祥3年3月3日850年4月18日
官位 従四位上神祇伯
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇
氏族 大中臣氏
父母 父:大中臣継麻呂
兄弟 貞麻呂、広河、淵魚
美濃雄、良人安子
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大中臣 淵魚(おおなかとみ の ふちな)は、平安時代初期の貴族神職但馬守大中臣継麻呂の三男。官位従四位上神祇伯

経歴[編集]

大同4年12月(810年1月)従五位下叙爵弘仁6年(815年神祇大副に任ぜられる。のち、弘仁13年(822年)従五位上、弘仁14年(823年正五位下天長5年(827年)正五位上、天長7年(829年従四位下・神祇伯と嵯峨朝末から淳和朝にかけて順調に昇進した。

仁明朝の天長10年(833年)従四位上・摂津守に叙任。長らく神祇伯を務め、天長10年(833年賀茂大神奉幣[1]承和9年(842年)には伊勢・八幡祟りによる日照りを鎮めるために祈祷を行っている[2]。また、弘仁6年(815年)から承和9年(842年)にかけて28年に亘って伊勢神宮祭主も務めた。承和10年(843年)上表して致仕し、官界を退いた。

嘉祥3年(850年)3月3日卒去。享年77。最終官位は散位従四位上。

人物[編集]

慎み深い一方、きめ細かく行き届いた性格で、神事を良く理解し熟達していた。病のために自邸で伏せるようになると、人や物に交わることなく一人奥深く籠もって静かに過ごし、病人のための薬や食事を摂りつつ、死期を待っていたという[3]

官歴[編集]

注記のないものは『六国史』による。

系譜[編集]

「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。

脚注[編集]

  1. ^ 続日本後紀』天長10年6月8日条
  2. ^ 『続日本後紀』承和9年7月19日条
  3. ^ 『続日本後紀』嘉祥3年3月3日条
  4. ^ a b 「中臣氏系図」『群書類従』巻第62所収

参考文献[編集]