真清田神社
| 真清田神社 | |
|---|---|
|
拝殿と境内 | |
| 所在地 | 愛知県一宮市真清田1-2-1 |
| 位置 | 北緯35度18分27.20秒 東経136度48分7.51秒 / 北緯35.3075556度 東経136.8020861度座標: 北緯35度18分27.20秒 東経136度48分7.51秒 / 北緯35.3075556度 東経136.8020861度 |
| 主祭神 | 天火明命 |
| 社格等 |
式内社(名神大) 尾張国一宮 旧国幣中社 別表神社 |
| 創建 |
(一伝)初代神武天皇33年 (一伝)第10代崇神天皇年間 |
| 本殿の様式 | 三間社流造 |
| 例祭 | 4月3日(桃花祭) |
| 主な神事 | 太々神楽、駒牽神事(10月15日) |
| 地図 | |


真清田神社(ますみだじんじゃ、旧字体: 眞淸田神󠄀社󠄁)は、愛知県一宮市真清田にある神社。式内社(名神大社)、尾張国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
概要
[編集]愛知県北西部、一宮市の中心部に鎮座する。創建は詳らかでないが、古代に尾張地方を治めた尾張氏の奉斎に始まるとされ、尾張氏祖神の天火明命を祭神とする。中世には尾張国の一宮に位置づけられ、一帯の地名「一宮」はこの真清田神社の社格に由来する。現在でも一宮市の市章は真清田神社の神宝がモチーフとされるように、古くから一宮地域の発展に関わってきた古社である。
社殿は第二次世界大戦中の一宮空襲で焼失したため、現在見られるものは戦後の再建である。そのうち、本殿・祭文殿(さいもんでん)などは神社建築としての造形を評価され、国の登録有形文化財に登録されている。また国の重要文化財の木造舞楽面12面、朱漆器25点をはじめとして、多くの文化財も伝世する。そのほか、創建日とされる4月3日に行われる例祭は「桃花祭(とうかさい)」として知られる。
祭神
[編集]祭神は次の1柱[1]。
- 天火明命(あめのほあかりのみこと)
本地仏は『真清田神社縁起』では毘盧遮那仏、『神道集』では地蔵とする[2]。
祭神について
[編集]現在、真清田神社の祭神は上記の通り天火明命とされるが、かつては国常立尊祭神説や大己貴命祭神説など複数説が存在した[3]。これらのうち国常立尊祭神説は、『真清田神社縁起(古縁起)』(室町時代末期頃成立)に記される説で、最も古い時代に遡る[4]。国常立尊は神話では天地開闢の時に最初に現れた神とされ、『古縁起』では崇神天皇の時に国常立尊を勧請して祀ったとする[4]。しかし近年では、同書が続けて真清田神社を日本中の一宮と主張していることから、伊勢神宮と比肩するために天照大神より古い国常立尊が持ちだされたものと考えられている[4]。一方、大己貴命祭神説は『大日本国一宮記』に見える説で、出現は室町時代末期から江戸時代初期頃に遡り、諸文献に散見される[4]。
これらに対して天火明命祭神説は、江戸時代に吉見幸和や栗田寛により唱えられたものである[4]。天火明命は、『日本書紀』『古事記』の神話では天照大神の孫神(天忍穂耳命の子神)とされ、『先代旧事本紀』では饒速日命と同一視される神である。そしてこの天火明命に比定する説において、社名の「マスミ」が真清鏡(ますみのかがみ)のように鏡に関係する語であるとして、鏡作氏や尾張氏の祖神の天火明命が祭神だと想定された[4]。しかしながら、尾張氏は尾張地方に広く勢力を持った氏族ではあるが、真清田神社との関係を示す文献・伝承は知られていない[5]。また尾張氏を鏡作氏とする文献も存在せず、実際には鏡作氏は三上氏の支流であったと見られる。
歴史的には、中世末期から江戸時代までは国常立尊祭神説が主流で[5]、明治の時点での祭神は国常立尊のほか天照大御神・月夜見神・大己貴神・大竜王神の5柱となっていた。しかし『特選神名牒』において「天照大御神」が「天火明命(天照国照彦天火明尊)」の誤記と見なされ、かつ他の4柱が省略され天火明命1柱とされた関係で、以後は現在まで天火明命1柱説が採用されている[4]。なお、『真清田神社史』では国常立尊祭神説を荒唐無稽としながらも、天火明命と大己貴命については、それぞれ尾張氏の祖先神と奉斎神(土地神)であった可能性を指摘する[4]。
なお祭神の性格に関しては、過去の祭神に龍神が見えることから水神の性格が指摘されるほか[6]、『赤染衛門集』の記述から農業神の性格も指摘される[2]。
歴史
[編集]創建
[編集]創建について現在の真清田神社社伝では、祭神の天火明命は大和国葛城地方(現・奈良県葛城地方)の高尾張邑を出て、神武天皇33年3月3日に当地で鎮祭されたのが始まりとする[1]。
一方古文献では、真清田神社の創建に関して初代神武天皇の時とする説、第10代崇神天皇の時とする説の2説が知られる[7]。
上記の文献はいずれも中世以降の成立になるため、これらの伝承の真偽や、神武天皇や崇神天皇の時期に淵源を求めた理由は明らかとなっていない[7]。このうち神武天皇33年3月3日という年月日については、すでに存在した桃花祭(3月3日)から逆に創造されたとする説がある[7]。これら文献を受け『真清田神社史』では、尾張氏が大和葛城地方から尾張に進出し、崇神天皇頃にあたる尾張氏一族の倭得玉彦命(『先代旧事本紀』「天孫本紀」に見える人物)の時期に神社が創祀されたと想定している[8]。
社名「ますみだ」の語源は明らかでないが、後述のように文献では「真清田」「真墨田」の2種類の用字が存在する[5]。この相違に関して、『延喜式』のみ「墨」の用字であることから、『延喜式』の表記が実は『弘仁式』(820年)の古い表記の踏襲と推測する説がある[9]。歴史的には、その後は好字「清」の表記が定着した[9][5]。なお『延喜式』神名帳では美濃国各務郡に村国真墨田神社(岐阜県各務原市)とも見え、真清田神社との関連が指摘される[9]。
概史
[編集]| 年 | 真清田神 | 大縣神 | 熱田神 |
|---|---|---|---|
| 822年 | -- | -- | 従四位下 |
| 833年 | -- | -- | 従三位 →正三位 |
| 847年 | 無位 →従五位下 | 無位 →従五位下 | -- |
| 853年 | 従五位上 →従四位下 | 従五位下 →従四位下 | -- |
| 859年 | -- | 従四位下 →従四位上 | 正三位 →従二位 |
| 従二位 →正二位 | |||
| 865年 | 従四位上 →正四位上 | -- | -- |
| 873年 | -- | 従四位上 →正四位下 | -- |
| 神名帳 | 名神大 | 名神大 | 名神大 |
| 一宮制 | 一宮 | 二宮 | 三宮 |
国史での初見は承和14年(847年)[原 1]で、「真清田天神」の神階が無位から従五位下に昇叙されたとある[10]。その後、仁寿元年(851年)[原 2]に「真清田神」は官社に列し、またその神階が仁寿3年(853年)[原 3]に従四位下、貞観7年(865年)[原 4]に正四位上に昇叙されている[10]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では尾張国中島郡に「真墨田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[5]。また『尾張国内神名帳』(尾張国内神名牒)では、「正一位 真清田明神」と記載されている[10]。
永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」に「尾張国一宮 八丈五疋」とあるのを初見として、平安時代末期以降に真清田神社は尾張国で一宮の地位にあったとされ[2]、これは現在の一宮市の市名の由来にもなっている[5]。一宮に次ぐ尾張国二宮は大縣神社(犬山市宮山)、三宮は熱田神宮(名古屋市熱田区)とされるが[2]、神階・格式の点では熱田神宮の方が尾張国で最高位にあり矛盾する[2]。この点については古来諸説が挙げられているが、今日では尾張国府との距離関係の反映とする説や、東海道における京からの位置関係の反映とする説が一般視されている[2]。
真清田神社は古来多くの社領を有したが、それらは「真清田荘」として荘園化し、平安時代末には八条院領のうち安楽寿院領に含まれた[11]。嘉禎元年(1235年)の文献によると、社領は水田129町9反300歩、うち定田は96町120歩で、旧中島郡のほか葉栗郡・愛智郡・海東郡・海西郡一帯に分布したとされる[3]。中世期の他の文書からも、社領が広範囲に渡った様子が指摘される[3]。また天文年間(1532年-1555年)からは佐分氏が神職を務めるようになった(幕末まで世襲)[3]。その後天正12年(1584年)には大地震で社殿が崩壊し、豊臣秀吉に社領も没収されて社勢は衰えたという[10]。
江戸時代に入ると徳川氏から庇護を受けて復興し、尾張藩主松平忠吉から社領200石の寄進、さらに寛永4年(1627年)には藩主徳川義直から105石余の寄進を受け、336石6斗余の社領を有するようになったという[3]。寛永16年(1639年)には義直から細別を記した黒印状が下されたほか[3]、寛文5年(1665年)には4代将軍徳川家綱から朱印状が下されている[10]。
明治維新後、明治18年(1885年)に近代社格制度において国幣小社に列した[1]。かつて「真清田大名神」「真清田大明神」「一宮真清田大神」「一宮大明神」と称された社名も、明治に現在の「真清田神社」に統一された[6]。その後、大正3年(1914年)に国幣中社に昇格した[1]。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
| 年月日 | 参拝者 | 備考 |
|---|---|---|
| 1955年(昭和30年)9月23日[12] | 高松宮宣仁親王 | |
| 1956年(昭和31年)11月25日[13] | 北白川房子 | 元皇族、伊勢神宮祭主 |
| 1961年(昭和36年)11月5日[12] | 高松宮宣仁親王 | |
| 1961年(昭和36年)11月26日[12] | 北白川房子 | |
| 1964年(昭和39年)1月14日[12] | 高松宮宣仁親王 | |
| 1964年(昭和39年)10月14日[14] | 高松宮宣仁親王 | 名古屋市の産業施設を視察後 |
| 1968年(昭和43年)12月18日[12] | 高松宮宣仁親王、喜久子妃 | 吊り灯籠一対を寄進 |
| 1971年(昭和46年)10月6日[15] | 高松宮宣仁親王、喜久子妃 | 高松宮は戦後9回目。一宮市、尾西市の毛織物工場を視察後 |
| 1975年(昭和50年)11月3日[12] | 高松宮宣仁親王 | 摂社・服織神社の鎮座10周年祭 |
神階
[編集]境内
[編集]

境内は約30,090平方メートル[17]。社殿は昭和20年(1945年)の一宮空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である[18]。昭和26年(1951年)から再建計画が立てられ、昭和32年(1957年)までに本殿・祭文殿・渡殿・拝殿・廻廊透塀・神饌所・社務所などが再建された[18]。これらのうち、本殿及び渡殿(1棟)、北門及び透塀(1棟)、祭文殿(1棟)がそれぞれ国の登録有形文化財に登録されている。主要社殿の詳細は次の通り。
- 本殿
- 三間社流造で、屋根は銅板葺。檜材で南面して建てられ、内部は前室(外陣)・中陣・内陣で区切り、四周には縁が廻らされている。昭和29年(1954年)の再建[19][18]。
- 渡殿(わたどの)
- 本殿前面に建てられ、本殿と祭文殿をつなぐ。間口1間・奥行3間の切妻造妻入で、屋根は銅板葺。昭和29年(1954年)の再建[19][18]。
- 祭文殿(さいもんでん)
- 渡殿前面に建てられている。桁行3間・梁間3間の広い1室で、切妻造平入、屋根は銅板葺。昭和31年(1956年)の再建[20][21]。
- 祭文殿の両脇からは翼廊(廻廊)が延び、東に祭具所、西に神饌所が建てられている。また祭文殿正面には拝殿が建てられている。
- 北門
- 本殿真北に位置する。切妻造の薬医門。北門から東西には透塀が延びる。昭和30年(1955年)の再建[22][21]。
なお空襲で焼失した社殿は、典型的な尾張造として知られた。楼門はその空襲による焼失を免れたが、これも昭和36年(1961年)に再建されている。
中世期の真清田神社の様子を知る絵図としては、「真清田神社古絵図」(一宮市指定有形文化財)がある。この絵図は室町時代頃の社頭と桃花祭の様子を描いたもので、主要社殿として朱塗りの本殿・縦長拝殿・勅使殿・楼門、その左右に末社・神庫、さらに境内両端や参道には東神宮寺、西神宮寺、新八幡社、山王社の様子が表されている。また中央の広場では山車2台とともに当時の風俗の様子が描かれている[23]。一宮市博物館では、この絵図に基づいた1/150スケールの復元模型が展示されている。
摂末社
[編集]現在(1994年時点)の摂末社は、摂社2社(境内2社)・末社36社(境内11社・境外25社)の計38社。
かつて室町時代には別宮4社(四所別宮)・末社88社があったというが、江戸時代の延宝年間(1673年-1681年)頃には末社45社(別宮不明)、『真清探桃集』(江戸時代中期)の頃には別宮は荒廃し末社10余社の状態であった[24]。明治から大正にかけての摂末社整理ののち、昭和40年(1965年)に服織神社の新設、平成5年(1993年)に三明神社の復興がなされたほか、境内外末社も変遷を経て現在に至っている[24]。
摂社
[編集]- 三明神社(さんみょうじんしゃ)
- 祭神:本宮荒魂
- 例祭:3月25日
- 別名「印珠宮」「三明印珠宮」。旧四所別宮のうち筆頭(第一別宮)。本殿裏手に鎮座。
- 「三明印珠宮」の別名は3種の印珠を蔵したことに由来するという。本宮の荒魂を祀るとして重要視され、桃花祭では本宮の山車(東車)とともに三明神の山車(西車)が出される。中世の古絵図のうちでは、本宮西側にある宝形造の寺院風建物に比定される。江戸時代頃には拝殿西側に独立して祀られていたが、大正元年(1912年)に末社犬飼社に合祀され、平成5年(1993年)に再び独立社として復興された。この三明神社に関しては、かつて7月7日に行われた吉祥祭が知られるほか、祭祀背景に仏教的要素が指摘される[25]。

末社
[編集]現在の境内末社は次の11社。社殿はいずれも昭和20年(1945年)の焼失以後の再建[27]。
- 神明社
- 三末社 - 服織神社東側に3社を併祀。
- 天神社
- 3社のうち西社。祭神は天神七代神、伊弉冉命、速玉男神、事解男神、訶遇突智神、市杵島姫神。明治44年(1911年)から大正元年(1912年)の間に旧第二別宮の七代宮(天神七代神)に愛宕社・熊野社・厳島社・新愛宕社を合祀[29]。
- 犬飼社
- 3社のうち中央社。祭神は犬飼神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、神功皇后、猿田彦命、真神田曽根連、本宮荒魂、菊理姫命。大正元年(1912年)に元々の犬飼社(犬飼神)に住吉社・三明神社(1993年に境内摂社として分祀)・白山社・古守社を合祀[28]。
- 愛鷹社
- 3社のうち東社。祭神は愛鷹神、瀬織津姫神、速秋津姫神、速佐須良姫神、気吹戸主命、木花咲屋姫神。大正元年(1912年)に元々の愛鷹社(愛鷹神)に祓戸社・浅間社を合祀[28]。
- 天神社
- 愛宕社
- 三末社東側、小山の上の3社のうち中央社。防火の神[30]。
- 須佐之男社
- 秋葉社
- 三末社東側、小山の上の3社のうち東社。祭神は訶遇突智神。元は境外の神社であったが、戦後に真清田神社境内に遷座[28]。
- 稲荷社
- 楼門内東方に鎮座。祭神は倉稲魂命。元は境外の神社であったが、戦後に真清田神社境内に遷座[28]。
- 厳島社
- 境内南東の神池に鎮座。祭神は市杵島姫神。
- 八龍神社
- 境内末社のうちでは最も新しい平成元年(1989年)の創建。元は厳島社に祀られた龍神石が、神仏分離で日泰寺に移り、再び真清田神社に還ったときに創建された[28]。
- 三八稲荷社
- 祭神は倉稲魂命。元は「新稲荷社」として境内西北に鎮座したが、戦後に「三八稲荷社」に改称して現在地に遷座。社名「三八(さんぱち)」は、戦前まで真清田神社社前で開かれた織物中心の市「三八市」に由来する[28]。
このほか、境外末社として25社が分布する[31]。主なものとしては、旧第三別宮の神明社(一宮市真清田)・元伊勢の伝承地である浜神明社(一宮市桜)、旧第四別宮の大神社(一宮市天王)・大石社(一宮市桜)、真清田神社社家の祖神を祀る古守社(一宮市松降)がある[31]。『真清探桃集』では末社88社はいずれも境内社とし、これら現在の境外末社は「属社」の分類で24社を掲載する。これら境外末社は江戸時代には神職・社僧の控とされたが、その鎮座地はかつて中世期の真清田神社神領地であった可能性が指摘される[32]。
- 三末社
- 須佐之男社(左)、愛宕社(中)、秋葉社(右)
- 三八稲荷社
- 厳島社(右)、八龍神社(左)
旧別宮・旧摂社
[編集]『真清探桃集』(江戸時代中期)で挙げる旧別宮4社・旧摂社2社。
- 三明神社(旧第一別宮)
- 祭神:本宮荒魂
- 別名「印珠宮」「三明印珠宮」。『真清探桃集』とともに『真清田神社縁起(古縁起)』でも別宮に挙げる。本宮西側の鎮座とされる。現在は境内摂社三明神社として本宮本殿の裏手に鎮座[33]。
- 七代宮(旧第二別宮)
- 祭神:国狭槌尊、豊斟渟尊、埿土煮尊、沙土煮尊、大戸之道尊、大苫邉尊、面足尊、惶根尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊、本宮魂
- 別名「天神社」。『真清探桃集』とともに『古縁起』でも別宮に挙げる。楼門・勅使殿の間の西方で、東面して鎮座した。現在は境内末社天神社として摂社服織神社東側に鎮座[33]。
- 両神明社(旧第三別宮)
- 『真清探桃集』は別宮とするが『古縁起』は別宮としない。東西神明社から成る[33]。
- 西神明社
- 祭神:天照大神
- 別名「神戸神明」。楼門外の西脇に鎮座。別名の「神戸」は、鎮座地付近に神職が多く住したことに由来する。現在は境外末社神明社として本宮の南西に鎮座(北緯35度18分23.91秒 東経136度48分1.95秒 / 北緯35.3066417度 東経136.8005417度)[33]。
- 東神明社
- 祭神:天照大神
- 別名「浜神明社」。本宮東方に鎮座。別名の「浜」は、昔は浜辺だったという伝承に由来する。倭姫命による天照大神の遷幸地(元伊勢)の1つと伝える。現在は境外末社浜神明社として鎮座(北緯35度18分23.65秒 東経136度48分26.01秒 / 北緯35.3065694度 東経136.8072250度)[33]。
- 両天王(旧第四別宮)
- 『真清探桃集』は別宮とするが『古縁起』は別宮としない。東西天王社から成る[33]。
- 西天王社
- 祭神:大物主神、須佐之男神命
- 別名「大神天王」「大神社」。本宮西方に鎮座。『真清探桃集』は式内名神大社「大神神社」に比定するが、有力視はされていない。現在は境外末社大神社として鎮座(北緯35度18分31.50秒 東経136度47分27.86秒 / 北緯35.3087500度 東経136.7910722度)[33]。
- 東天王社
- 祭神:日本武尊
- 別名「花祇天王」「御免野天王」「大石社」。本宮東方に鎮座。天正年間(1573年-1593年)初め頃に一宮城守護社としてその鬼門の位置に移したという。現在は境外末社大石社として鎮座(北緯35度18分20.20秒 東経136度48分28.96秒 / 北緯35.3056111度 東経136.8080444度)[33]。
- 山王神社(旧摂社)
- 祭神:大己貴命
- 『真清探桃集』は摂社とするが『古縁起』では四所別宮の1つとする。新八幡宮と一対に、楼門前西脇に東面して鎮座した。古絵図では境内に本殿・拝殿・三重塔が描かれている。その創建は、天台宗系神宮寺の勢力の強さが背景に指摘される。天正年間(1573年-1593年)に社殿が崩壊し、廃社となった[34]。
- 新八幡宮(旧摂社)
- 祭神:応神天皇
- 別名「白旗新八幡」。『真清探桃集』は摂社とするが『古縁起』では四所別宮の1つとする。山王神社と一対に、楼門前東脇に南面して鎮座した。古絵図では境内に本殿・拝殿・鐘楼・末社が描かれている。大正元年(1912年)に境内末社神明社に合祀。
祭事
[編集]真清田神社で年間に行われる祭事の一覧[1]。
- 歳旦祭 (1月1日)
- 神楽始祭 (1月2日)
- 初午大祭 (3月旧初午)
- 勧学祭 (3月下旬)
- 短冊祭 (4月1日)
- 歩射神事、試楽祭 (4月2日)
- 例祭 (4月3日)
- 舞楽神事 (4月29日)
- 御田植祭 (5月第2日曜)
- 一宮七夕まつり (7月最終日曜までの4日間)
- 御衣奉献祭 (7月最終土曜)
- 輪くぐり (8月立秋前日)
- 太々神楽、駒牽神事 (10月15日)
- 太々神楽では、神童女が真清田神社に伝わる神楽9曲を舞う。駒牽神事は、境内で馬15頭を走らせてその足並みを見る神事である。
文化財
[編集]重要文化財(国指定)
[編集]- 木造舞楽面 12面(彫刻)
- 朱漆角切盤8枚、朱漆入角盤12枚、朱漆擎子5枚(附 銅鋺5口、銅皿20枚)(工芸品)
- 陵王
- 納曽利
- 還城楽
- 崑崙八仙
- 童舞
- 貴徳
- 散手
登録有形文化財(国登録)
[編集]愛知県指定文化財
[編集]- 有形文化財[41]
- 獅子頭 1面(工芸品)
- 木造舞楽面 7面(工芸品)
- 金銅釣燈籠 2基(工芸品)
一宮市指定文化財
[編集]その他
[編集]
- 五鈴鏡(ごれいきょう)
- 蘭奢待(らんじゃたい)
- 東大寺の正倉院(現在は宮内庁が管理)に伝わる名香の一部。長さ約1.5センチメートル[56]。戦国時代に織田信長が村井貞勝に分け与え、さらに貞勝が一宮城主関長安(関成政)に与えたのち、長安が真清田神社に奉納したものとされ[1]、長安による天正2年(1574年)5月付の奉納状が伝わっている[57][58]。しかし、寛永8年(1631年)閏10月付の「本殿造営の際に見つけたが、包紙と長安の奉納状だけで、中身の香木が無かった」という神主・佐分栄清による覚書も伝わっており[58][59](『真清探桃集』(上記)にも「(蘭奢待を納めた)小竹の筒の中には、長安の奉納状だけで蘭奢待は無くなっていた」との記述がある[58][60])、真相は謎である(一宮市博物館は「「あるのかないのか」不思議な由来[53]」と評している)。
- 神水舎
- 平安時代に弘法大師が雨乞いを祈願した際、「ご祭神が八頭八尾の大きな龍に乗って現れ雨を降らせた」という伝承が残る真清田神社。水神として崇拝され、江戸時代には尾張藩主も晴雨祈願を行った。
登場作品
[編集]関係地
[編集]現地情報
[編集]所在地
付属施設
- 宝物館
- 開館時間:午前10時 - 午後3時
- 舞楽面(国の重要文化財)など真清田神社の伝世品を展示する。
交通アクセス
関連文献
[編集]- 『国幣中社真清田神社御由緒』 真清田神社編、1918年(国立国会図書館デジタルコレクション)。
- 『古事類苑』 神宮司庁編、真清田神社項。
- 『古事類苑 第9冊』(国立国会図書館デジタルコレクション)199-202コマ参照。
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、55頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、309-310頁
- 上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、132-133頁
脚注
[編集]原典
出典
- 1 2 3 4 5 6 神社由緒書。
- 1 2 3 4 5 6 中世諸国一宮制 2000, pp. 102–113.
- 1 2 3 4 5 6 真清田神社(平凡社) 1981.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 真清田神社史 1994, pp. 62–70.
- 1 2 3 4 5 6 7 真墨田神社(式内社) 1989.
- 1 2 真清田神社(神々) 1987.
- 1 2 3 4 5 真清田神社史 1994, pp. 51–58.
- ↑ 真清田神社史 1994, pp. 144–145.
- 1 2 3 真清田神社史 1994, pp. 58–62.
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- ↑ 真清田荘(角川) 1989.
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- 1 2 真清田神社祭文殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 真清田神社史 1994, pp. 654–660.
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- ↑ 朱漆角切盤/朱漆入角盤/朱漆擎子 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
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- ↑ 一宮の文化財めぐり 1999, p. 26.
- ↑ 真清田神社史 1994, pp. 42–45.
- 1 2 企画展真清田神社 2019, p. 25.
- ↑ 一宮の文化財めぐり 1999, p. 25.
- ↑ 市章(一宮市ホームページ)。
- ↑ 企画展真清田神社 2019, p. 27.
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- ↑ 真清田神社史 1994, p. 265.
- ↑ 真清田神社史 1994, pp. 264–265.
- ↑ 『古事類苑 第9冊』(国立国会図書館デジタルコレクション)199コマ。
- ↑ 『古事類苑 第9冊』(国立国会図書館デジタルコレクション)200コマ。
- ↑ 真清田神社の周辺案内(公式サイト)。
- ↑ 油田遺跡説明板。
参考文献
[編集]- 神社由緒書
- 境内説明板
書籍
- 真清田神社発行書籍
- 『真清田神社史』真清田神社史編纂委員会、1994年。 NCID BN11089500。
- 事典類
- 太田正弘「真清田神社」『国史大辞典』吉川弘文館。
- 「真清田神社」『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490239。
- 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年。ISBN 4040012305。
- 「真清田神社」、「真清田荘」。
- その他文献
- 津田豊彦 著「真清田神社」、谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 10 東海』白水社、1987年。ISBN 4560022208。
- 田邊裕 著「真墨田神社」、式内社研究会 編『式内社調査報告 第8巻』皇學館大学出版部、1989年。
- 『一宮の文化財めぐり 増補改訂版』一宮市教育委員会、1999年。
- 中世諸国一宮制研究会 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708。
- 一宮市博物館 編『令和元年度企画展 真清田神社』一宮市博物館、2019年。 NCID BD08627932。
サイト
- “真墨田神社(尾張国中島郡)”. 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」. 2015年4月26日閲覧。
関連項目
[編集]- 雨を降らせて殺された竜#愛知県 - 旱魃に際し雨を降らせて殺された竜を弘法大師が真清田神社に竜神として祀る民話。
