枚聞神社
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| 枚聞神社 | |
|---|---|
|
勅使殿と長庁 | |
| 所在地 | 鹿児島県指宿市開聞十町1366 |
| 位置 |
北緯31度12分27.5秒 東経130度32分22.6秒座標: 北緯31度12分27.5秒 東経130度32分22.6秒 |
| 主祭神 | 大日孁貴命 |
| 社格等 |
式内社(小) 薩摩国一宮 旧国幣小社 別表神社 |
| 創建 | 不詳 |
| 本殿の様式 | 入母屋造銅板葺 |
| 例祭 | 10月15日-16日 |
| 主な神事 | ほぜ祭り(10月14日-16日) |
| 地図 | |
枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、鹿児島県指宿市開聞十町にある神社。式内社、薩摩国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
目次
祭神[編集]
- 主祭神
- 配祀神
- 五男三女神を配祀。
明治時代以後は近隣の神社を合祀している。祭神については海神(わたつみのかみ)説もある[1]。
歴史[編集]
創始の年月日は社伝でも不明であり、かなり古くからあった神社と考えられている。元々は開聞岳を神体とする山岳信仰に根ざした神社であったと考えられる。信頼できる史料での初出は『日本三代実録』貞観2年(860年)3月20日庚午条の神階昇叙記事で、この日に薩摩国従五位上開聞神が従四位下を加えられた[2]。開聞神は、貞観8年(866年)4月7日に従四位上を授けられ[3]、元慶6年(882年)10月9日に正四位下を授けられた[4]。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には「薩摩国穎娃郡 枚聞神社」として記載され、式内社に列している。
鎌倉時代以降は新田神社(薩摩川内市)と薩摩国一宮の地位を巡って激しい争いを繰り広げるようになる。戦国時代は島津氏の有力家臣であった頴娃氏の庇護下にあったが、元亀2年(1571年)に「証恩寺崩れ」と言われるお家騒動が起こり、その巻き添えとなって社殿を失った。しかし、すぐに島津氏の庇護を受けて再興、同氏は当神社の籤により作戦を決めたという。現在の社殿は慶長15年(1610年)に島津義弘が寄進したものを天明7年(1787年)に島津重豪が改築した物である。
外洋に面した立地から古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。
しかし江戸時代になると、宇佐八幡宮の五社別宮ともされていた新田神社の方が次第に重く扱われるようになったらしく、明治4年(1871年)5月に国幣小社に列したが、対して新田神社は同18年(1885年)に上位の国幣中社に列している。
第二次世界大戦後に近代社格制度が廃止されると、当社は神社本庁に参加、その別表神社に定められた。
神階[編集]
- 貞観2年(860年)3月20日、従五位上から従四位下 (『日本三代実録』)
- 貞観8年(866年)4月7日、従四位上 (『日本三代実録』)
- 元慶6年(882年)10月9日、正四位下 (『日本三代実録』)
境内[編集]
- 本殿
参道から本殿の方を向くと、本殿の屋根の上に開聞岳が位置する構造になっているが、現在は背後の樹木が繁茂して見通すことはできなくなっている。
主な祭事[編集]
- 神幸祭 (10月16日)
文化財[編集]
重要文化財(国指定)[編集]
鹿児島県指定有形文化財[編集]
- 本殿
指宿市指定有形文化財[編集]
- 琉球扁額7点 - 平成22年1月6日指定
現地情報[編集]
- 所在地
- 交通アクセス
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 黒板勝美編『日本三代実録』前後編、新訂増補国史大系普及版、吉川弘文館。初版1934年、普及版1971年。
関連図書[編集]
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、50頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、293-294頁
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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