射水神社

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射水神社
射水神社 拝殿
射水神社 拝殿
所在地 富山県高岡市古城1-1
位置 北緯36度44分54.7秒
東経137度1分16.8秒
主祭神 瓊瓊杵尊
社格 式内社名神大または小)
越中国一宮
国幣中社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 神明造
例祭 4月23日
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射水神社 鳥居
射水神社 境内
高岡古城公園にある前田利長像前から見た射水神社の境内。

射水神社(いみずじんじゃ)は、富山県高岡市高岡古城公園内にある神社式内社名神大社または小社)、越中国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社神紋は祭神の瓊瓊杵尊にちなみ「稲穂」。

祭神[編集]

歴史的には、伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ)の祖神とされる二上神(ふたがみのかみ)であった。二上神は二上山(ふたがみやま)山麓の二上射水神社に祀られている。

歴史[編集]

創建から江戸時代[編集]

創建は奈良時代以前のこととされる。社伝によれば、当神社は二上山を神奈備とし、太古よりその麓に鎮座していたが、養老元年(717年)に行基が勅を受けて二上山麓に別当寺を建立し、二上神を二上権現と称して祀ったのだと言う。別当寺は山号を「二上山」、寺号を「養老寺」と言い、二上山全体を境内として社地殿閣広大であったと伝えられている。しかし、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]によれば、この養老元年開基説については疑問を呈する向きが多いと言う。

当神社は二上神の名で度々六国史に登場し、神階の陞叙を受けている。以下は時系列的に並べた神階の授与である。

いずれの陞叙も高瀬神社と同時・同階で、共に越中国最高位の神社として朝野の崇敬を受けていた。 『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)12月27日の条では、二上神の祢宜と祝(はうり)が把笏に預かったことが記載されているが[3]、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]によれば、古代に笏を把ることを許されたのは伊勢神宮と諸大社の神職のみであったと言う。

8世紀後半に成立したと言われる『万葉集 巻17』には、大伴家持によって当神社を詠んだ和歌[4]が収録されている。

千妙聖人が著述したものに、長寛元年(1163年)白山中宮の長吏隆厳が私注を加えて成立したと伝えられる『白山之記』[5]には、聖武天皇の治世である神亀年間に越中国から能登国が分立した際[6]、越中国二宮であった当神社が一宮になったこと、その後、越中国に新気多(気多神社)が奉祝されると、新気多と当神社の間に一宮争いが起こり、当神社が無力の間に新気多が一宮になった、との記事がある。

延長5年(927年)には『延喜式神名帳』へ記載され、式内社となった。『延喜式神名帳』では越中国射水郡の式内13社を大社1座・小社12座としているが、当神社は『延喜式』写本のうち「出雲本」において名神大社と記載されている。しかし、「宮内省図書寮本」や『延喜式』最古の写本である「九条本」では気多神社が名神大社と記載されている。これについて、一般的に「出雲本」は誤記とみなされ、現在は「宮内省図書寮本」や「九条本」を支持して気多神社を名神大社する説が有力となっている、と『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]では述べている。しかしながら、『延喜式』の「名神祭」の項には、気多神社も当神社も記載が無い。

橋本芳雄は『式内社調査報告 第17巻』で上記に対し異説を唱えている。それによれば、大伴家持が越中国国守として在勤したのは、ちょうど能登国が越中国に合併されていた時期で、大伴家持の歌日記のごとき『万葉集』の巻17、巻18、巻19には当時の様子が詳細に詠われているにもかかわらず、越中国府の間近にあったはずの気多神社に関する記述が全く見えないのは、この頃まだ気多神社が存在していなかったことを暗示しているのではないか、と推定している。その上で、気多神社が『延喜式神名帳』で名神大社とされながら、射水郡式内社13座の最後に配列されているのは、創立年次が最も新しいことを暗示しているのではないか、と推察した。さらに同書では、当神社を名神大社とする「出雲本」が古い時代の形を留めており、『白山之記』[5]にある一宮争いの記事などから、本来の名神大社は当神社であったのが、国府に近い気多神社が、天平宝字元年(757年)前後に気多大社から分祠された後、国府の権力を背景に名神大社を獲得したのではないか、と推測している。六国史を通覧した際も、当神社や高瀬神社が6度登場するのに対し、気多神社は全く記載がなく、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]では「不思議な現象と見るべきであろう。」と述べている。

承平年間の兵火により、社殿が焼失した。『中世諸国一宮制の基礎的研究』[7]によれば、縁起もあったが乱世の時代に散失し、別当養老寺の住職も逐電して堂社破滅におよんだが、別当の慈尊院、本覚坊、金光院の3ヶ寺だけが祈祷を勤め、お札を献上していたことが『二上山大権現由来記』に記されている、と述べている。『富山県史 史料編2 中世』[8]に所収された『後土御門天皇綸旨』よれば、その後の文明7年(1475年)に越中国の棟別銭によって社殿が造営されたと言う。

戦国時代末期の天正年間にも社殿が焼失するが、江戸時代に入り加賀藩の祈祷所となって復興した。慶長15年(1610年)加賀藩初代藩主前田利長により御供田が寄進され、同時に越中4郡から知識米(初穂米)軒別1升2合の徴収が許された。この徴収には二上山所属の山伏があたり、大国様のように袋を担いだ彼らは「ガンマンブロ」と通称されて、泣く子も黙るほど民衆に恐れられた、と『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]では述べている。『式内社調査報告 第17巻』によれば、この徴収制度はかなり古くからあった慣習を、加賀藩が復活させたものと考えられているのだと言う。

明治時代以降[編集]

明治時代に入ると、明治元年(1868年)国教政策により神仏分離令が出された。

金沢藩においては[9]、明治2年(1869年)7月に二上山養老寺の知識米取立て指止め令が出される。『高岡市史 下巻』[10]によれば、知識米取立て指止めは、この年が大凶作であったため貧農の難渋を少しでも和らげるため発せられたもので、寺院の抑圧を直接の目的とはしていなかったが、神仏分離令により僧徒が神社へ関与することを禁じていたため、これを機に江戸時代初期から続いていた知識米の一円徴収は自然消滅し、山伏の大部分は四散して壮大を誇った別当寺は見る影も無く荒廃、養老寺は金光院と慈尊院の2坊が細々と法燈を継ぐ状況となったと言う。この様な状況の中で二上山大権現は射水神社と改称し、社僧還俗して神職となった。

明治4年(1871年)には旧社格制度により国幣中社に列格された。

明治8年(1875年)9月16日、高岡城本丸跡の現在地に遷座した。
『高岡市史 下巻』[10]によれば、明治5年(1872年)5月に権宮司へ就任した関守一が社殿改築の志を抱き、奔走の結果、高岡城本丸跡への遷座について明治7年(1874年)7月8日官許を得たのだと言う。遷座の表向きの理由は、二上山麓の社地が狭いうえ墓地に隣接して不浄少なからず、かつ山間に僻在して、到底神徳発揚の地では無い、と言うものであった。これにより往古からの産土神を奪われることとなった二上村民は、由緒を無視した暴挙であるとして必死の抵抗を試みたが、官命による正式の遷座であるため如何ともすることができなかったと言う。さらに同書によれば、時流のどさくさに乗じて強引に押し切った感はあっても、官許を得た正式の遷座であることから高岡側は喜び、町を上げて協賛したのだと当時を伝えている。明治7年(1874年)10月25日高岡側へ遷座の趣旨を説明し、各町から人足を供出して地均しを行った。同年11月18日地清祓、12月6日地鎮祭、翌8年(1875年)6月17日には上棟祭、そして同年9月16日に遷座祭を行った。

遷座当日、二上村の氏子は別れを惜しんで神輿に取りすがり号泣し、さらに御神体や神宝を社殿の天井裏や民家に隠したとも言われる、と『高岡市史 上巻』[11]では当時の様子を伝えている。『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]でも、遷座の様子を同様に記している。

この遷座に関して、『高岡市史 下巻』[10]大正13年(1924年)当神社宮司を勤めた高野義太郎が著した『射水神社志』の一節が掲載されている。それによれば、権宮司 関守一 氏は数百年にわたる養老寺社僧の専横を憎む余り、神代からの聖地である二上山麓の故地を捨てて遷座したのだと言う。祠官関家は二上山に30代奉仕し、越中神主頭として大宮司の栄職を継いで来た家柄で、射水神社の遷座は数百年間社僧に虐げられた反抗の結果に外ならない、と述べられている。『高岡市史 上巻』[11]や『中世諸国一宮制の基礎的研究』[7]においても、遷座について同様の記述がなされている。『高岡市史 下巻』[10]では、上記の『射水神社志』の一節を引き、高野義太郎宮司の推論は恐らく当たっており、そうであるなら、この遷座の一件も神仏分離令に端を発する廃仏毀釈の旋風がもたらした出来事の一つではないか、と考察している。

『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]によれば、遷座の3日後、二上の氏子達は新社殿までの道のりが遠いことを理由に二上山麓の旧社地に分社を創立することを出願し、明治10年(1877年)許可を得て二上射水神社が残されることになったのだと言う。このため、二上山内には射水神社の摂末社があり、また、古来から伝わる築山神事と獅子舞が二上射水神社のみで催されることになってしまった。

明治33年(1900年)6月27日、市街地の6割を焼き尽くした高岡大火により社殿が焼失したが、明治35年(1902年)に再建された。現在ある神明造の社殿は、この時に再建されたものである。

第2次世界大戦の終戦に伴い旧社格は廃止され、その後、当神社は神社本庁が包括する別表神社となった。また、二上の射水神社が独立の神社となり、正式名称を「越中総社射水神社」とした。それに対して高岡古城公園の当神社は「越中総鎮守射水神社」と称している。[12]

昭和50年(1975年)、日本書紀天武天皇3年(674年)頒幣を賜った記述が見えることにより鎮座千三百年式年大祭が斎行され、昭和天皇より幣帛御奉納を受けている。

祭事[編集]

例祭日は4月23日で、他に神事として正月に左義長が行われる。

摂末社[編集]

摂社[編集]

  • 日吉社
    • 鎮座地:二上山第一峯山頂(奥の御前)
    • 祭神:大山咋神 (おおやまくいのかみ)
  • 悪王子社
    • 鎮座地:二上山第二峯山頂(前の御前)
    • 祭神:地主神 (じぬしのかみ)
  • 院内社
    • 鎮座地:二上山前面北の峯山頂(院内の谷)
    • 祭神:菊理媛神 (くくりひめのかみ)

末社[編集]

  • 諏訪社
    • 鎮座地:二上山前面西麓(上二上)
    • 祭神:建御名方神 (たけみなかたのかみ)
  • 高岡市護国神社
    • 鎮座地:古城公園内(椿山)
    • 祭神:殉国の英霊

現地情報[編集]

所在地
高岡古城公園内に鎮座する。
交通アクセス

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g 谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』(白水社、1985年11月)。
  2. ^ 日本紀略』にある『日本後紀』逸文の記述より。
  3. ^ 日本文徳天皇実録』の記述によれば、同時に高瀬神社も把笏に預かっている。
  4. ^ 大伴家持は「射水川 い行き廻れる 玉匣 二上山は 春は花 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神柄や 許多貴き 山柄や 見が欲しからむ すめ神の 裾廻の山の 渋谿の」と詠んだが、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』によれば、ここに詠われた「すめ神」とは二上山の神を指しているのだと言う。
  5. ^ a b 『白山之記(しらやまのき)』は白山比咩神社所蔵文書典籍のうち最古のもので、「白山縁起」の名称で国の重要文化財に指定されている。
  6. ^ 『白山之記』には「但能登國越中能登郷也、聖武天皇御時神龜年中立國之間、・・・」と記されているが、能登国が越中国から分立した正しい時期は天平宝字元年(757年)で孝謙天皇の御代である。
  7. ^ a b 中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月 より。
  8. ^ 富山県『富山県史 史料編2 中世』(富山県、1975年)。
  9. ^ 廃藩置県は明治4年(1871年)7月14日の発令なので、この時はまだ地方行政府が金沢藩であった。
  10. ^ a b c d 高岡市史編纂委員会編『高岡市史 下巻』(青林書院新社、1969年12月)。
  11. ^ a b 高岡市史編纂委員会編 『高岡市史 上巻』 青林書院新社 1959年9月 より。
  12. ^ 明治の強硬遷座以来続く両社の対立について『高岡市史 下巻』では、二上村が合併したことで現在は両社とも同じ高岡市内となっており、対立感情を拭い去って和解の努力をするよう望んで止まない、とコメントしている。高岡市史編纂委員会編(『高岡市史 下巻』(青林書院新社、1969年12月)。

参考文献[編集]

  • 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第10巻 日本紀略前編』 ㈱吉川弘文館 1965年5月
  • 高岡市史編纂委員会編 『高岡市史 上巻』 青林書院新社 1959年9月
  • 高岡市史編纂委員会編 『高岡市史 下巻』 青林書院新社 1969年12月
  • 富山県 『富山県史 史料編2 中世』 富山県 1975年
  • 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』 ㈱白水社 1985年11月
  • 神道大系編纂会編 『神道大系 神社編33 若狭・越前・加賀・能登国』 神道大系編纂会 1987年12月 (『白山之記』を所収。)
  • 神道大系編纂会編 『神道大系 神社編34 越中・越後・佐渡国』 神道大系編纂会 1986年7月
  • 中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月
  • 全国一の宮会編 公式ガイドブック『全国一の宮めぐり』 全国一の宮会 2008年12月

関連項目[編集]

外部リンク[編集]