皇學館大学

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皇學館大学
大学本部(伊勢学舎、2010年(平成22年)8月12日撮影)
大学本部(伊勢学舎、2010年(平成22年)8月12日撮影)
大学設置 1962年
創立 1882年
学校種別 私立
設置者 学校法人皇學館
本部所在地 三重県伊勢市神田久志本町1704
キャンパス 伊勢学舎(三重県伊勢市)
学部 文学部
教育学部
現代日本社会学部
研究科 文学研究科
教育学研究科
ウェブサイト 皇學館大学公式サイト
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皇學館大学(こうがっかんだいがく、英語: Kogakkan University)は、三重県伊勢市神田久志本町1704に本部を置く日本私立大学である。1962年に設置された。大学の略称は皇學館大だが、大学スポーツでは皇學大も使用している。非公式には系列校と同じく「學館」(がっかん)と呼ばれることもある。

概観[編集]

大学全体[編集]

1882年(明治15年)に伊勢神宮祭主であった久邇宮朝彦親王令旨によって林崎文庫に設置された神宮皇學館を母体とする[1]。主として神職や教員の養成にあたり、1903年(明治36年)に官立旧制専門学校内務省所管の宗教系旧制専門学校)を経て、1940年(昭和15年)には旧制官立大学文部省所管)になるが、第二次世界大戦終結後は国家神道を推進した機関の一つとして、いわゆる神道指令を受けて廃学・解散した。その後旧制神宮皇學館大學の関係者らによって神宮皇學館大學再興期成会 が結成され、現在の大学は1962年(昭和37年)に私立大学として、いわば「再興」されたものである。[2]


神宮の外宮内宮のほぼ中間の倉田山に大学本部(伊勢学舎、文学部教育学部現代日本社会学部)校地が所在する。
2011年(平成23年)3月までは、名張市にも名張学舎(社会福祉学部)があったが、2010年(平成22年)度より社会福祉学部の募集を停止、機能を伊勢の本部に統合することを決定して、名張市から撤退した。[3][4]。名張学舎跡地には、熊野市から近畿大学工業高等専門学校2011年(平成23年)4月に移転した。

令旨[編集]

1962年(昭和37年)に新制大学として発足した皇學館大学は、その建学の精神を元の神宮皇學館及び神宮皇學館大學より受継いでいる。1882年(明治15年)に、神宮の鎮座する伊勢に発足した神宮皇學館は、当時の文明開化旧物破壊の風潮に対して、日本古来の歴史伝統に基づいた学問の維持発展を目指した。1900年(明治33年)2月18日、当時の神宮祭主・神宮皇學館総裁賀陽宮邦憲王による令旨は、現在においても皇學館大学建学の精神を最もよく示すものとされている。内容は以下の通り。

 神宮皇學館教育ノ旨趣ハ、皇國ノ道義ヲ講ジ、皇國ノ文學ヲ修メ、之ヲ實際ニ運用セシメ、
以テ倫常ヲ厚ウシ、文明ヲ補ハントスルニ在リ。夫レ業勤メザレバ精ナラズ、事習ハザレバ達セズ。
況ンヤ本館期スル所ノ學ノ重且大ナルニ於テヲヤ。
 本館學生深ク此旨ヲ體シ、常ニ師長ヲ敬重シ、館則ヲ遵守シ、黽勉(びんべん)努力、以テ他日ノ成業ヲ期シ、
夙夜敢テ怠ルコト勿レ。

教育および研究[編集]

文学部の神道・国史・国文学科では神社本庁神職の資格が取得できる。大学でこの資格を取得できるのは、皇學館大学と國學院大學のみである。なお、宗教科教員免許を取得できる神道系学校は、皇學館大学のみである。

沿革[編集]

略歴[編集]

前史・神宮教院[編集]

明治維新以前、伊勢神宮では神職の養成や神道・学問の研究、文書の保存などを神宮文庫の前身にあたる豊宮崎文庫や林崎文庫が主に担っていたが(神宮文庫・沿革の項を参照)、大教宣布[5]近代社格制度の整備に代表される、新政府の神道国教化の推進政策の影響を受け、神宮でも本格的な教導職の養成機関を作り、全国への神道の布教をはかる動きが起こった。そこで、当時神宮少宮司の地位にあった浦田長民らが中心となって設立したのが神宮教院であるが、これが皇學館の源流である[6][7]1872年(明治5年)10月28日教部省に「神宮教院開設届」が提出され、翌1873年(明治6年)には全国からの新入生を集めて神宮教院が開校した。1876年(明治9年)の「神宮教院規則」によると、生徒は8 - 15歳程度までの「幼学生」と16 - 18歳程の「講習生」に分けられ、寮生活の中で教学を修めることになっていた。幼学生の多くは近隣から通学していたが、小学校が近くの地区に設立されると、ほとんどの生徒はそちらに転校したため、教院生の数は激減することとなった。一方で講習生には県外出身者が多かった[7]

1876年(明治9年)10月、神宮教院はその規則が改定され、神宮教院本教館として新たに置かれた。皇學館直接の母体となったのはこの本教館である。教職員は館長・大教授・大管事1人ずつの下に、中教授・中管事、小教授・小管事、寮長、舎長が配置され、学生の学年は下等(普通学生)・中等・上等(それぞれ専門学生)に三分されていた。修業年限は4年と10か月で、授業形態は、下等から上級に進むにつれ、授読や授講から輪講、独習が多くなっていった。上等段階の学習では、キリスト教の『聖書』も使用されており、その内容の多岐さから、布教活動のための人材養成としての側面をうかがうことができる[7]

また、神宮教院は全国を13の教区に分けて布教活動を行っていたが、この教区制が本教館へ全国からの学生を確保する役割も果たしており、北は仙台、南は薩摩と幅広い地域からの出身者が学んでいた。1879年(明治12年)には、定員を50名にし、15 - 25歳の、終生教義に従うことを願った者に入学資格を与え、年限を4年とすることなどを定めたが、学生間の対立激化が直接の契機となって、本教館は1881年(明治14年)12月9日の布達をもって閉校せざるを得なくなった。社会的にも、当時の神道をめぐる政策の情勢が、祭政一致から分離の方向に動きつつあり、教導職の意義が揺らいでいたことも間接的に影響していたと考えられる[7](教導職は1884年(明治17年)に廃止)。

神宮皇學館の創設[編集]

神宮教院本教館が廃止されてから半年に満たない1882年(明治15年)4月30日久邇宮朝彦親王より「今般林崎文庫ニ皇學館設置候条、此旨相達候事」なる布達が出され、同年7月6日には内務卿皇典講究所賛襄の山田顕義宛に「皇學館設置ノ儀向」が提出され、教育機関の再興運動が始まった。ただし、学校の設立は順調に進んだわけではなく、内務省からの設置認可は1883年(明治16年)5月26日にようやく下り、生徒を募集して教育活動を本格的に始めたのは1885年(明治18年)以降のことであった(開校式は1883年(明治16年)4月28日に挙行)。皇學館の教育目的から教導職の養成はなくなり、基礎教養を授けた上で神道の専門教育を施すという新たな目標が掲げられた。設立当初は小学校との両方に籍を置く児童もいたが、1886年(明治19年)の小学校令公布によって、そのような幼年者は小学校に転籍され、皇學館は中等課程以上の学校となる方向付けがとられた。1887年(明治20年)には皇學館から神宮皇學館に改称され、学科は尋常科(尋常小学校卒業程度の者を対象・4年制)とその上級にあたる高等科(4年制)に編成し直された。のち、一時期は尋常中学校相当のレベルに短縮されたものの、専門教育機関としての体裁を整える方向に進み、幾度の改定を経て、1899年(明治32年)には、予科生を全員三重県立第四中学校に移して予科を廃したことで、本科(4年制)・専科(3年制)からなる専門学校となった。1898年(明治31年)には予科・本科生に徴兵猶予の資格が、1899年(明治32年)9月には中等学校教員の無試験検定資格(歴史科・国語漢文科)が認定され、1902年(明治35年)2月には本科卒業生に奏任官、専科卒業生に判任官相当の神職資格が付与されることとなった。そして、名実ともに1903年(明治36年)9月1日より、「神宮皇學館官制」に基づく、内務省管轄の官立専門学校(ただし専門学校令によらない)として認定されるに至った[8]

学園の充実[編集]

以後、神宮皇學館は「国体ヲ講ジ、道義ヲ明ニシ、之レガ発揮ト実践トヲ期スル」ことを目標に教育活動を行い、環境の広報・発展に努めた。本科は中学校卒業・専門学校入学者検定合格者を対象とする4年制の課程であるのに対して、専科は中学校3年終了もしくは16歳以上を入学資格とする速成課程であったが、1917年(大正6年)には専科卒業者にも教員免許が認定されるように科目の改正が行われ、1921年(大正10年)9月には文部省より専門学校に準じる学校に指定され、1924年(大正13年)には本科卒業者を高等学校および大学予科卒業者と同等とすることが認められた[9]

しかし、学校の水準や地位が向上した一方で、大正時代末期には創立当初の精神に立ち帰るべきとの声が高くなり、制度の改革がなされた。背景には、神道を学んだり神職に就いたりすることよりも、中等学校教員免許を無試験で取得することを目的にして入学する者が多く、事実上は教員養成所と変わるところがないという当時の現状に対する批判が関係者の間で高まったことにある。事実、1927年(昭和2年)の卒業生の就職状況では、本科卒業者の4分の3近くが教職にあった。1925年から1926年の間に行われた改正では、本科の上に1年間の研究科を設け、専科を廃止して新たに神職養成部を置くことや、科目に「神道科」を追加することが行われた。神職養成部は、高等小学校卒業者を対象とする4年制の普通科として置かれることとなり(1931年(昭和6年)より尋常小学校卒業者対象・5年制に改定)、中等教育段階で普通神職を養成することを目標に生徒を募集した。それでも教員志望者・就職者は減少することなく、神宮皇學館は全国の中等諸学校に卒業生を送り続けていった[9]

なお、施設・環境面では、それまで宇治山田市治館町にあった校地が教育に不適であるとして、1916年(大正5年)から3年の歳月をかけ、市内の倉田山に総面積2万3千超坪の大規模な学園用地を造成し、以後同地を皇學館の本拠地とした。1928年(昭和3年)の大講堂完成をはじめ、1930年代には教室や寮などの各施設が整備・充実されていき、一大学園としての姿を整えていった。1932年(昭和7年)には創立50周年を記念して館歌が制定された[9]

大学昇格と廃校[編集]

大学令1918年(大正7年)に定められたことで、神宮皇學館を単科大学に昇格させる議論自体は1920年代より以前から一部で挙がっていたが、昇格計画が表面化したのは「大学昇格期成同盟会」が卒業生らによって組織された1934年(昭和9年)のことであった。1935年(昭和10年)には第1回調査会が、内務省神社局神宮司庁といった関係官庁と学校、同盟会によって開かれたが、翌年の第3回調査会で、神社局により、内務省管轄での大学設置は不可能であり、神職養成のための大学を置くことは困難で、勅令手続きも難しいとの回答がなされたことで、昇格運動はひとまず学校の充実に向かうこととなった。しかし、同年頃から、伊勢神宮を中心として、国民精神高揚を目指して宇治山田市を聖地化する「大神都聖地計画」案が具体化したことで、精神的施設の必要性の観点から、神宮皇學館の大学昇格が再び浮上することとなった。1937年(昭和12年)から市会、県会、皇學館、三重県選出の国会議員らが一致して昇格運動を積極的に行った結果、1940年(昭和15年)には文部省所管の官立大学として、「神道精神の闡明」を掲げた神宮皇學館大學が置かれることが決定し、同年4月には予科第1期生を迎えて開学した。なお、内務省管轄の神宮皇學館は募集を停止し、全在籍者の卒業をもって廃止することとなった。1941年(昭和16年)には、従来の神宮皇學館に代わって神職を養成する附属専門部(3年制)が開設され、翌年には学部(3年制)が開かれた。予備教育を施す予科は別として、学部・専門部の学科課程は神道関係の科目が多く、「皇国固有ノ教学ノ基本ニ培フ学術ノ理論及応用ヲ教授」することが使命とされた[10]

大東亜戦争中、旧・神宮皇學館は、1942年(昭和17年)9月に本科、1944年(昭和19年)2月に普通科最後の卒業生を送り出して廃止され、1943年(昭和18年)には、文系学生の徴兵猶予が停止されたことで学部学生の約4割にあたる151名が同年12月に入営した。1945年(昭和20年)に入ってからは倉田山の校地が宇治山田空襲によって建物の多くを焼失し、8月15日の日本の降伏以降、神宮皇學館大学は国家神道を担ってきた一機関としてその命運がいよいよ危機的なものとなった。存続をはかるために、同年10月24日、大学は「皇學館大学」と改称し、神道科目を削減することを文部省に願い出、学生の側も12月に大会を開き、国家神道色を払った上で大学を存続するよう、文部省に宛てた決議文を作成したが、連合国軍最高司令官総司令部神道指令を同年12月15日に発したことや、その他の大学存続案(私立学校に転換、または他大学との合併など)が決まらなかったこともあり、神宮皇學館大學は1946年(昭和21年)3月14日の勅令によって廃学・解散となった。職員は希望調査の上での転任となり、卒業生以外の学生は他の大学や高等学校・専門学校に移っていった。校地は宇治山田市が購入し、図書などは名古屋大学などに移管され、皇學館の歴史は一時中絶した[11]

再興[編集]

皇學館は廃止されたものの、卒業生を中心に学校を再興する気運は強く、1946年(昭和21年)9月1日には三重県知事に私立各種学校としての「伊勢専門学館」設置申請が館友代表の早川満三郎より提出された。神道指令では私立の神職養成所の設置は禁じられていなかったため、早川はかつての皇學館との違いを強調することで認可を同月10日に得、10月に授業を開始したが、三重県軍政部は教職員の多くが神宮皇學館で務めていた者であることを問題視し、「超国家主義的」であるとして同年内に閉鎖させた。次の試みとして、非皇學館出身者を校長に迎えた「清明高等学院」を1948年(昭和23年)に開いたが、入学者が少なかったために、これも自然廃校となった[11]

大学再興運動は、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本が独立する状況下で再び活発化する。「日本文化研究所」の設置を目指す財団法人五十鈴会が1951年(昭和26年)に発足し、翌年には「神宮皇學館大學再興期成会」が結成された。1954年(昭和29年)、五十鈴会第2回全国大会では「日本文化の最高学府」として大学を再興すること決議され、同年9月20日には神宮大宮司宛に皇學館を短期大学として設置する案が提出され、宇治山田市議会でも大学再興の請願が採択されたが、1955年(昭和30年)、神宮は大学でなく、より純粋な神職養成所としての「神宮皇學館」を開くことを決定した。当時の関係者の一部からは「大学を再開しても学生が集まらない」、「大学を開設することで國學院大學との間で競合関係が生まれるのは好ましくなく、國學院を唯一の神道大学として充実させるべき」などの懸念や、伊勢の地にはより実践的な養成施設を置くべきであるとの意見が出されていたことからも、再興運動が一枚岩でなく、順調に進まなかったことがうかがえる。だが、運動が挫折したわけではなく、1959年(昭和34年)に吉田茂を会長に戴いた「皇學館後援会」が発足した。会長の吉田以外に、同後援会には副会長として池田勇人、財界からは石坂泰三足立正小林中杉道助太田垣士郎らが参加した。彼らが全国の財界人に働きかけて賛助を呼びかけたり、県が後援会からの協力要請を採択したりして大学設置への動きは加速し、1962年(昭和37年)2月17日には、関係者の長年の悲願だった大学の設置が文部省より認可された。同年4月25日には開学式が挙行され、神宮皇學館大学の再興が完成した[12]

現在[編集]

その後、1968年(昭和43年)には戦前の校地を伊勢市より購入して旧来の姿を整え、文科系の学部・学科を中心に規模を拡大し、神道系大学として、神職養成課程や附属神道研究所に見られるような独自色を打ち出している。また、高校や中学を併設した。

年表[編集]

戦前の神宮皇學館大學

神宮皇學館[編集]

  • 1873年(明治6年)
    • 1月10日、神宮教院が創設される。
  • 1876年(明治9年)
    • 10月、神宮教院本教館を設置する。
  • 1881年(明治14年)
  • 1882年(明治15年)
  • 1883年(明治16年)
    • 4月、林崎文庫講堂において、神宮皇學館開館式を挙行する。
  • 1887年(明治20年)
    • 10月、宇治浦田町(現在の神宮道場所在地)に校舎を新築し移転する。
  • 1896年(明治29年)
    • 12月、宇治館町に新校舎竣工。浦田町時代の校舎はそのまま移築し、寄宿舎として使用する。
  • 1900年(明治33年)
    • 2月18日、伊勢神宮祭主であり神宮皇學館総裁であった賀陽宮邦憲王が令旨を発する。令旨は現在まで皇學館全体の建学の精神とされている。
  • 1902年(明治35年)
    • 神宮皇學館創立記念日を4月30日と定める。服制・帽章(桜花)を制定する。
  • 1903年(明治36年)
  • 1905年(明治38年)
    • 神宮皇學館の学生服制・帽章を改訂する。帽章は桜花を「皇學」の字に改める。
  • 1919年(大正8年)
    • 1月、度会郡浜郷村神田久志本の倉田山丘陵に移転する。
  • 1920年(大正9年)
  • 1940年(昭和15年)
  • 1941年(昭和16年)
  • 1942年(昭和17年)
  • 1943年(昭和18年)
    • 9月21日、附属専門部の第1回卒業式が行われる。
  • 1944年(昭和19年)
    • 神宮皇学館官制廃止ノ件 (昭和19年勅令第197号)により、内務省所管の神宮皇學館、廃止。一切の財産は文部省所管の神宮皇学館大學に移管される。
  • 1945年(昭和20年)
    • 9月20日、学部の第1回卒業式(3名卒業、後日1名追加)が行われる。
  • 1946年(昭和21年)
    • 2月20日、学部第2回卒業式、附属専門部第3回卒業式と共に離別式を行い、学園を解散する。
  • 1946年(昭和21年)
    • 3月14日、神道指令に基づく「神宮皇學館大學官制」廃止の勅令(昭和21年勅令第135号)が公布され、神宮皇學館大學は3月31日限りで廃止される。

皇學館大学[編集]

  • 1951年(昭和26年)
    • 復活運動が繰り広げられ、財団法人五十鈴会設立される。
  • 1952年(昭和27年)
    • 神宮皇學館大學再興期成会が結成される。
  • 1959年(昭和34年)
  • 1962年(昭和37年)
  • 1966年(昭和41年)
  • 1967年(昭和42年)
    • 大学に出版部を設置する。図書の刊行を始める。
  • 1970年(昭和45年)
    • 短期大学に神職課程を設置し、男女共学とする。「皇學館女子短期大學」を「皇學館短期大學」と改称。
  • 1973年(昭和48年)
    • 4月、附属図書館を新築竣工する。大学院文学研究科博士課程(国文学専攻・国史学専攻)を設置する。
  • 1975年(昭和50年)
    • 4月、文学部に教育学科を設置する。
  • 1976年(昭和51年)
    • 皇學館短期大学を廃止する。
  • 1977年(昭和52年)
    • 4月、文学部に神道学科を設置する。
  • 1978年(昭和53年)
    • 4月、神道研究所・史料編纂所を設置する。
  • 1981年(昭和56年)
    • 4月、神道学専攻科を設置する。百周年記念講堂を竣工する。
  • 1989年(昭和64年/平成元年)
    • 4月、神道博物館を設置する。
  • 1990年(平成2年)
    • 4月、大学院に文学研究科修士課程神道学専攻を設置する。
  • 1995年(平成7年)
    • 7月12日、神宮皇學館大學戦歿学徒慰霊祭を斎行する。
  • 1997年(平成9年)
    • 4月、情報処理センターを設置する。
  • 1998年(平成10年)
  • 2000年(平成12年)
    • 4月、文学部にコミュニケーション学科を設置する。
  • 2002年(平成14年)
    • 4月、大学院に社会福祉学研究科修士課程(社会福祉学専攻)を設置する。
  • 2003年(平成15年)
    • 4月、地域福祉文化研究所を社会福祉学部に設置する。
  • 2004年(平成16年)
    • 4月、大学院文学研究科に教育学専攻修士課程・神道学専攻博士後期課程を設置する。
  • 2008年(平成20年)
    • 4月、文学部教育学科を教育学部教育学科に改組する。
    • 6月、教育開発センターを設置する。
  • 2009年(平成21年)
    • 1月16日、社会福祉学部入学者の減少により、同学部を募集停止し、2011年に名張学舎を閉鎖することを公表する。
    • 10月、学生支援センターを設置する。
  • 2010年(平成22年)
    • 4月、現代日本社会学部現代日本社会学科を新設する。
  • 2011年(平成23年)
    • 4月、名張学舎を閉鎖し、社会福祉学部社会福祉学科を伊勢学舎に統合する。
  • 2012年(平成24年)
    • 2月、皇學館サービス株式会社を設立する。
    • 4月、大学院に教育学研究科教育学専攻修士課程を設置する。大学院社会福祉学研究科廃止。
  • 2013年(平成25年)
    • 4月、研究開発推進センターを設置する。

基礎データ[編集]

所在地[編集]

組織[編集]

学部[編集]

大学院[編集]

専攻科[編集]

  • 神道学専攻科
    • 神道学専攻

附属機関[編集]

皇學館大学記念館(旧・神宮皇學館本館)
国の登録有形文化財
  • 附属図書館[13]
    附属図書館は約34万冊を蔵書とする。平成26年3月25日に1階及び2階にラーニングコモンズが開設された他、無線LANの提供、PC等電子機器の貸出、蓋のある飲物に限っての摂水の許可など、新たな取組みが進められている[14]。又学外の者の入館も認められており、条件を満たせば貸出も認められている[15]
  • 附置機関
    • 研究開発推進センター
    • 情報処理センター
    • 教育開発センター
    • 学生支援センター
  • 皇學館大学出版部

大学関係者一覧[編集]

施設[編集]

[編集]

学部生向けに男女別の学生寮がある。男子寮を精華寮、女子寮を貞明寮と称する。入学手続きの際に入寮を希望し入寮が許可された学生は入学より2年間寮で生活することができる。また寮の定員に対して希望者多数の場合は実家が遠方の者から優先的に入寮となる。大学として寮の整備には特に力を入れており、その整備充実が積極的に図られている。寮は教育寮であり、寮生には大学の行事である正装での月例神宮参拝、寮内の神殿での夕拝、毎朝の朝拝・清掃等の行事が義務付けられており、寮生活の中で人との協調性や上下関係などを身につけることとなる。

精華寮は基本的に二人部屋であり各班には談話室や冷蔵庫が設けられている。規律には厳しく寮内での飲酒は厳禁であり、喫煙に関しては寮内外で禁止されている。朝拝7:15から始まり教育勅語を奉読。また夕拝は大祓詞を奏上するが基本的に神道学科生のみが参加する。

学生生活[編集]

参拝見学[編集]

毎年5月上旬に、全学生を対象に実施。寺社博物館等の施設(皇學館大学ゆかりの地)を参拝し、皇學館大学の同一性を確認することを目的としている。学年ごとにコースが違うため、4年間で4通りのコースを回ることとなる。

学園祭[編集]

皇學館大学の学園祭は伊勢学舎内で開催され、「倉陵祭」(そうりょうさい)と呼ばれている。かつて名張学舎で行われていた学園祭は「皇名祭」(こうみょうさい)と呼ばれていた。例年、11月初頭前後に3日間開催される。

対外関係[編集]

大学COC事業(地(知)の拠点整備事業)の一環として、玉城町が推進する玉城豚のブランド力向上に協力している[16][17]

他大学との協定[編集]

国内
国際・学術交流等協定校

附属学校[編集]

関連書籍[編集]

  • 皇學館百二十周年記念誌編纂委員会編『皇學館百二十周年記念誌 群像と回顧・展望』皇學館、2002年
  • 皇學館百二十周年記念誌編纂委員会編『皇學館百二十年史年表』皇學館、2002年
  • 三重県総合教育センター編『三重県教育史 第1 - 3巻』三重県教育委員会、1980年 - 1982年

脚注[編集]

  1. ^ 神宮祭主久邇宮朝彦親王の令達により、林崎文庫内に皇學館を創設
  2. ^ 沿革・理念(2018年(平成30年)9月23日閲覧)
  3. ^ 名張学舎を2010年(平成22年)度から伊勢に統合 経済的補助も検討 皇學館大学会見 - 伊賀タウン情報 YOU(2011年(平成23年)3月18日閲覧)
  4. ^ 皇學館大学社会福祉学部 名張市から撤退へ 2010年(平成22年)度から募集停止 - 伊賀タウン情報 YOU(2011年(平成23年)3月18日閲覧)
  5. ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
  6. ^ 『三重県教育史 第1巻』第2章 近代教育の胎動 第3節 教導職の教化活動、p.285 - 292
  7. ^ a b c d 『三重県教育史 第1巻』第3章 近代教育の創始 第3節 創設期の中学校、p. 608 - 612
  8. ^ 『三重県教育史 第1巻』第4章 近代教育の形成 第3節 中等普通教育及び専門教育の整備、p. 908 - 913
  9. ^ a b c 『三重県教育史 第2巻』第6章 大正期の教育 第6節 三重高等農林学校の開設と高等専門教育、p. 250 - 262
  10. ^ 『三重県教育史 第2巻』第8章 昭和初期の教育 第6節 高等専門教育の展開 p. 756 - 770
  11. ^ a b 『三重県教育史 第3巻』第14章 新学制下の学校教育 第6節 大学・短大・高等専門学校教育 p. 423 - 426
  12. ^ 『三重県教育史 第3巻』第14章 新学制下の学校教育 第6節 大学・短大・高等専門学校教育 p. 897 - 900
  13. ^ 附属図書館
  14. ^ 図書館ラーニングコモンズ
  15. ^ 学外の方へ
  16. ^ 玉城産豚ブランド化プロジェクト”. 皇學館大学COC CLL活動report. 皇學館大学. 2017年12月15日閲覧。
  17. ^ 関俊彦「玉城豚 食べ比べて 伊勢 皇学館大生が調査」中日新聞2017年2月8日付朝刊、伊勢志摩版12ページ

外部リンク[編集]

座標: 北緯34度29分13秒 東経136度43分36秒 / 北緯34.48694度 東経136.72667度 / 34.48694; 136.72667