千栗八幡宮
千栗八幡宮 | |
---|---|
![]() 拝殿 | |
所在地 | 佐賀県三養基郡みやき町大字白壁字千栗 |
位置 | 北緯33度19分53.1秒 東経130度28分43.4秒 / 北緯33.331417度 東経130.478722度座標: 北緯33度19分53.1秒 東経130度28分43.4秒 / 北緯33.331417度 東経130.478722度 |
主祭神 |
応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 |
社格等 |
肥前国一宮 旧国幣小社 別表神社 |
創建 | 神亀元年(724年) |
本殿の様式 | 入母屋造 |
札所等 | 五所別宮 |
例祭 | 9月15日(放生会) |
主な神事 | 粥祭(3月15日) |
地図 |
千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)は、佐賀県三養基郡みやき町にある神社。肥前国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
祭神[編集]
- 主祭神
- 配神
歴史[編集]
『鎮西要略』によれば、神亀元年(724年)、当時の肥前国養父郡司・壬生春成が八幡神の神託を受けて千根(ちこん)の栗が生えている地に社を建てて八幡神を祀ったとされる。
『太宰管内志』に引用された『外部局日記』によれば、長保元年(999年)、八幡大菩薩千栗宮から油が湧出し、朝廷に献上された。
承平年間(931年 - 938年)に宇佐八幡宮の別宮となったとみられ、以後その五所別宮の一として崇敬を受けた[1]。
安貞2年(1228年)12月[2]、社殿が火災(神火)により焼失する。 寛喜2年(1230年)7月[3]、近衛兼経、土御門定通などの公卿達が参内して千栗宮、廣田神社の焼失の件を議論したことから重要な神社であることが分かる。
南北朝時代には当宮の西に千栗城が築かれている。応永10年5月[4]、九州探題渋川満頼、菊池武朝と千栗で戦う。戦国時代には神域も度々戦乱に巻き込まれ幾度か社殿も焼失した。天文3年(1534年)に大内氏配下の陶氏により社殿が焼かれるが、天正11年(1583年)に龍造寺政家が再興した。鍋島氏の畏敬により社領の寄進が行われた。
平安時代後期より肥前国一宮を称してきたが、近世になって式内社・河上神社(現 與止日女神社)との間で一宮の称が争われた。慶長14年(1609年)には後陽成天皇より「肥前国総廟一宮鎮守千栗八幡大菩薩」 の勅額を賜わった。
摂末社[編集]
- 武雄神社
- 鳩森稲荷神社
- 天満宮
祭事[編集]
年間祭事[編集]
- 祭旦祭 (1月1日)
- お粥祭、祈年祭 (春季大祭、3月15日)
- 名越祭 (8月1日)
- 秋季大祭 (放生会、9月15日)
- 御神幸 (9月第3日曜日)
- お火焚き神事 (12月31日)
粥祭[編集]
3月15日の粥祭は「おかゆさん」ともいい、粥を使ってその年の豊作・凶作を占う粥占である。2月16日、社前の祓川の水で粥をたき、筑前・筑後・肥前・肥後4箇国を表す4つの鉢に分けて神殿に納める。3月15日に取り出し、黴の出方を見る。五色の黴の生えた方角がその年豊作になる地方であるとする。
また、平成17年(2005年)の「おかゆさん」では珍しく「地震に注意」との結果が出た5日後に福岡県西方沖地震が発生し話題を集めた。そのため翌年の占いには関心が集まったが、過度の期待に対しては「参考程度にするべきである」といった批判の声もあった。
文化財[編集]
佐賀県指定有形文化財[編集]
- 社殿創設の絵図(2軸)
みやき町指定有形文化財[編集]
その他[編集]
- 乾珠・満珠
- 光格帝御宝扇
- 壬生春成公故事 など
現地情報[編集]
- 所在地
- 交通アクセス
- 最寄駅:JR九州鹿児島本線 久留米駅 (徒歩約35分)
- バス:久留米駅から西鉄バス40番目達原・佐賀行で「千栗八幡宮前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
脚注[編集]
関連図書[編集]
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、38頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、227-228頁
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 千栗八幡宮(みやき町観光協会)
- さが祭時記 まつりびと 千栗八幡宮行列浮立 - サガテレビ