渋川満頼
| 時代 | 室町時代前期 - 中期 |
|---|---|
| 生誕 | 文中元年/応安5年(1372年) |
| 死没 | 文安3年3月13日(1446年4月9日) |
| 改名 | 長寿王丸(幼名)→満頼→道鎮(法号) |
| 別名 | 武蔵次郎 |
| 戒名 | 瑞祥院道鎮秀岳 |
| 官位 | 従五位下、右兵衛佐、左近衛将監 |
| 幕府 | 室町幕府九州探題、備中・摂津・安芸・豊前・肥前守護 |
| 主君 | 足利義満→義持 |
| 氏族 | 渋川氏 |
| 父母 | 父:渋川義行 |
| 兄弟 | 満頼、満行、義長 |
| 妻 | 斯波義将娘 |
| 子 | 義俊、俊詮、氏重 |
渋川 満頼(しぶかわ みつより)は、室町時代前期から中期にかけての武将・守護大名、九州探題。
生涯
[編集]幼少期
[編集]文中元年/応安5年(1372年)、渋川氏6代当主・渋川義行の次男として誕生。室町幕府3代将軍足利義満から偏諱を受け、満頼と名乗る。
天授元年/永和元年(1375年)、僅か4歳で父を亡くすが、同年に父が守護だった備中を受け継ぎ明徳4年(1393年)まで務めた。天授5年/康暦元年(1379年)から弘和2年/永徳2年(1382年)まで摂津守護、応永元年(1394年)から応永7年(1400年)まで安芸守護も務めた[1][2]。
反探題勢力との抗争
[編集]応永3年(1396年)からは足利義満に罷免された今川貞世(了俊)の後を継いで亡父と同じ九州探題の職に任じられた。この任命は舅の管領斯波義将の関与が推測されている[3][4][5]。同年に豊前守護も兼任したが、翌応永4年(1397年)に大内義弘に交替した[3][6]。
探題となってからは肥前千葉氏、筑前少弐氏、肥後菊池氏の服属と北九州経営に務め、少弐貞頼・菊池武朝と戦った[1][7]。筑前博多を本拠に置くと承天寺と宗像大社を掌握、肥前は一門子弟を通じて経営に一定の成果を収め、肥前を探題の分国と定めて渋川氏が九州における一勢力として戦国時代前期まで存続する基盤を築いた[1][3][8]。しかし探題に就任した応永3年(または翌応永4年)に少弐貞頼・菊池武朝が反乱を起こし、幕府から貞頼討伐命令を受けた大内義弘・大友親世の支援を背景に貞頼と戦ったが反乱は収まらず、終息は貞頼と和睦した応永8年(1401年)までかかった。この間、満頼が武朝へ懐柔工作を図ったという噂が大友氏の重臣吉弘直輔(了曇)の宛先不明の書状から確認され、島津氏にも援軍要請した話が『薩藩旧記雑録』に伝わっているが、いずれも真偽は不明[9][10]。
応永11年(1404年)に肥前千葉氏が内紛を起こし千葉胤基と家臣の鑰尼泰高が衝突すると、満頼は胤基へ、貞頼は泰高に味方したため再び貞頼と対立、合戦となった。この時も大内氏・大友氏の支援を得て翌応永12年(1405年)の戦いに勝利、肥前・筑前の支配を強化し北九州の安定を果たした[10][11]。とはいえ肥前経営は反乱勢力との戦いで難航、養父郡綾部(綾部城)に入り拠点にしたが、応永9年(1402年)と応永12年に赤星氏に綾部城を攻められ博多へ逃れている[8]。一方、肥後守護も兼任したとされ、頻繁に阿蘇惟村や詫磨満親らに文書を送り、惟村に肥後国人の軍事指揮権を委任したり、肥後守護職や兵粮料所を預け置くなど厚遇、満親にも本領安堵や所領拡大を働きかけた。それぞれの息子とも結びつき、応永12年と翌応永13年(1406年)に満親が子の詫磨親家に所領を譲ると応永16年(1409年)に相続を安堵、応永13年に惟村が子の阿蘇惟郷へ譲った阿蘇神社大宮司職を応永19年(1412年)に安堵した[12]。
満頼は諸大名の統制においては了俊に及ばないものの無難にその任を務め、筑前より肥前に本拠を遷し、綾部に守護館を設けた。これが渋川氏代々の館となった。
一方で李氏朝鮮と積極的に交易を行い、博多商人の支持を得て朝鮮との交易を維持した。これは肥前・筑前経営の安定で朝鮮から倭寇の禁圧にも力があると認められたことが背景にあり、応永26年(1419年)の応永の外寇以後に朝鮮が九州から朝鮮に遣使する通交者に対し、九州探題の外交文書(書契)を持って来るよう命じたことで日朝関係上重要な立場に立った満頼は自らを九州都督、鎮西節度使などと称した[1][13][14]。また朝鮮国王から貿易を許す印である図書を与えられて受図書人となった。
探題辞任後
[編集]応永13年、剃髪して道鎮と号し、応永26年に九州探題を辞任して子・義俊に譲る。以降、九州探題は渋川氏が代々世襲していくこととなった[1][15]。
探題辞任後は応永31年(1424年)に帰京、正長元年(1428年)に備中国総社宮の本宮造営の上棟で1番疋馬を務めたことが確認されている(2番疋馬は細川持元で備中守護細川頼重と同族)。満頼の疋馬参加は本宮造営に備中の国衙関係者が関与していたこと、国衙散在分を渋川氏が管轄していたことが想定されている[16]。文安3年(1446年)3月13日、京都で死去[17]。
満頼以降の渋川氏は彼と2人の弟満行・義長の3つの系統に分かれ、満頼・満行・義長の子孫はそれぞれ京都渋川氏、九州渋川氏、関東渋川氏となった。このうち京都渋川氏は満頼の死後は孫で義俊の子・義鏡が継承、九州渋川氏は義俊の後に探題となった渋川満直(満行の子で満頼の甥)の子孫が探題を受け継いでいった[18][19][20]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 国史大辞典編集委員会 1986, p. 64.
- ^ 今谷明 & 藤枝文忠 1988, p. 68-69.
- ^ a b c 今谷明 & 藤枝文忠 1988, p. 69.
- ^ 新熊本市史 1998, p. 408-409.
- ^ 谷口雄太 2022, p. 71-72,157-158.
- ^ 新熊本市史 1998, p. 412.
- ^ 佐藤和彦 & 錦昭江 2007, p. 47.
- ^ a b 杉谷昭 & 佐田茂 2013, p. 106.
- ^ 新熊本市史 1998, p. 412-416.
- ^ a b 佐藤和彦 & 錦昭江 2007, p. 47,50.
- ^ 新熊本市史 1998, p. 423.
- ^ 新熊本市史 1998, p. 418-429.
- ^ 今谷明 & 藤枝文忠 1988, p. 61-62,69-70.
- ^ 佐藤和彦 & 錦昭江 2007, p. 47-48.
- ^ 新熊本市史 1998, p. 410-411.
- ^ 谷口雄太 2022, p. 72-73,158.
- ^ 佐藤和彦 & 錦昭江 2007, p. 48.
- ^ 今谷明 & 藤枝文忠 1988, p. 70-71.
- ^ 新熊本市史 1998, p. 411.
- ^ 谷口雄太 2022, p. 72,158.
参考文献
[編集]- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 7 しな - しん』吉川弘文館、1986年。
- 今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典(下)』新人物往来社、1988年。
- 『新熊本市史 通史編 2 中世』熊本市、1998年。
- 佐藤和彦・錦昭江・松井吉昭・櫻井彦・鈴木彰・樋口州男共編『日本中世内乱史人名事典 下』新人物往来社、2007年。
- 杉谷昭・佐田茂・宮島敬一・神山恒雄『県史佐賀県の歴史 第2版』山川出版社、2013年。
- 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館、2022年。
関連項目
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