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[[岐阜県立大垣商業高等学校]]在学中は陸上競技を行っており、競輪学校には適性試験で合格している。卒業成績も85位だったが、選手になって以後メキメキと頭角を現し成長していった。そして中部地区を代表する先行選手として、[[競輪の競走格付け#GIII (G3)|記念競輪]]でも多く優勝するなどの活躍を見せた。 |
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当時横綱と呼ばれた[[吉岡稔真]](福岡・65期)、[[神山雄一郎]](栃木・61期)と並ぶほどの逸材と言われたが、なぜか長い間[[競輪の競走格付け#GI (G1)|特別競輪]]のタイトルには恵まれず、「[[無冠の帝王]]」とも呼ばた。 |
当時横綱と呼ばれた[[吉岡稔真]](福岡・65期)、[[神山雄一郎]](栃木・61期)と並ぶほどの逸材と言われたが、なぜか長い間[[競輪の競走格付け#GI (G1)|特別競輪]]のタイトルには恵まれず、「[[無冠の帝王]]」とも呼ばた。 |
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出場はならなかったが、2000年のシドニー五輪を目指し、最終選考会に出場。ナショナルチームのメンバーとして<ref>[http://jcf.or.jp/files/200302.pdf p.2 「ナショナルチーム」および「強化指定選手」の選考について] - シクリスムエコーNo.95 2003年2月号</ref>2001年の「ワールドカップ第3戦」(イタリア)で銀メダルを獲得するなどの結果も出した<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/gamble/keirin/news/20140317-OHT1T00178.htm ダービー、競輪祭、GP連覇の山田裕仁が引退へ] - スポーツ報知、2014年3月18日</ref>。 |
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特に[[2002年]]から翌[[2003年]]にかけての活躍はまさに神懸かり的で、日本の競輪史上に「山田時代」を築いたといえる。 |
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その後は再びタイトルに恵まれない時期が続いたが、[[2007年]]4月、[[観音寺競輪場]]での[[ふるさとダービー]]を制し、3年4ヶ月ぶりのビッグレース制覇を果たした。[[2009年]]は[[東西王座戦]]の西王座決定戦で2着となったほか特別競輪の決勝に2度進出するなどで年間の獲得賞金が上位になったことから、[[2010年]]は自身初のS級S班格付となった。さらにはS級S班格付となった初レース[[SSカップみのり]]09を[[小嶋敬二]]の番手から抜け出して優勝し、2003年以来約6年半ぶりのGI勝利で史上3人目の40代(41歳6ヶ月)GI優勝を果たした。自力のレースは減っていった(脚質は「両」)。 |
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[[2012年]]、近年は思うような成績を残せていないことや、ホームバンクである大垣競輪場での同年のGIII記念競輪に |
[[2012年]]、近年は思うような成績を残せていないことや、ホームバンクである大垣競輪場での同年のGIII記念競輪に斡旋されなかったことが引き金となり、選手生活からの幕引きの機会を計っていたという(この年の12月に同県の盟友・[[山口幸二]]が引退したが「(大垣から)ダブルでやめるのはまずい」ということから)<ref>日刊スポーツ、2014年3月22日10面 山田裕「すっきり」ラストラン</ref>。 |
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そして[[2014年]]のGI・[[第67回日本選手権競輪]]、地元・中部地区の[[名古屋競輪場]]で行われる大会を以ってラストランとする意 |
そして[[2014年]]のGI・[[第67回日本選手権競輪]]、地元・中部地区の[[名古屋競輪場]]で行われる大会を以ってラストランとする意嚮という情報が、開催直前のスポーツ紙で取り上げられた<ref>[http://www.nikkansports.com/race/public_race/news/p-rc-tp1-20140317-1271474.html 山田裕仁ダービーで引退 GP3勝の名手] - [[日刊スポーツ]]、2014年3月17日付。</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/race/public_race/news/f-rc-tp1-20140321-1273429.html 山田裕仁、ラストランは5着/名古屋] - 日刊スポーツ、2014年3月22日付。</ref>。 |
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同大会4日目(3月21日)の1R・S級一般(2)を5着で終了後に記者会見を開いた。選手生活を振り返り2003年に優勝した平塚ダービー([[日本選手権競輪]])を、「一番の完成作品」と評した<ref>[http://www.e-shinbun.net/keirin/grade/2014/031842#yamada 引退記者会見] - イー新聞競輪</ref>。準決勝3個レースは吉岡の先行逃げ切りに始まり、神山も先行で辛くも3着で突破、山田も先行し1着<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/guest/raceresult?KCD=35&KBI=20030322&RNO=11 レース競走結果 2003/03/22(5日目)第11レース] - KEIRIN.JP</ref>。この準決勝戦を「一番の思い出」として挙げた<ref name="daily0527">[http://www.daily.co.jp/horse/2014/05/27/0006995717.shtml 【競輪】“帝王”山田裕仁が正式に引退] - デイリースポーツ、2014年5月27日付。</ref>。結果的に、決勝戦でこの3人が乗り合わせるものとしては、最後のレースだった<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/guest/FindKako?KCD=73&1=011812&2=011778&3=012250&KBI=20140329 過去同時出走検索結果] - KEIRIN.JP</ref>。 |
同大会4日目(3月21日)の1R・S級一般(2)を5着で終了後に記者会見を開いた。選手生活を振り返り2003年に優勝した平塚ダービー([[日本選手権競輪]])を、「一番の完成作品」と評した<ref>[http://www.e-shinbun.net/keirin/grade/2014/031842#yamada 引退記者会見] - イー新聞競輪</ref>。準決勝3個レースは吉岡の先行逃げ切りに始まり、神山も先行で辛くも3着で突破、山田も先行し1着<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/guest/raceresult?KCD=35&KBI=20030322&RNO=11 レース競走結果 2003/03/22(5日目)第11レース] - KEIRIN.JP</ref>。この準決勝戦を「一番の思い出」として挙げた<ref name="daily0527">[http://www.daily.co.jp/horse/2014/05/27/0006995717.shtml 【競輪】“帝王”山田裕仁が正式に引退] - デイリースポーツ、2014年5月27日付。</ref>。結果的に、決勝戦でこの3人が乗り合わせるものとしては、最後のレースだった<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/dataplaza/guest/FindKako?KCD=73&1=011812&2=011778&3=012250&KBI=20140329 過去同時出走検索結果] - KEIRIN.JP</ref>。 |
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*[[神山雄一郎]]とは競輪学校の同期生(61期)であったが、学校時の成績は競輪学校入学前から実績があった神山が圧倒し、選手としての成長も早かったためか、山田は常日頃より神山をライバル視し、「神山君だけには負けたくない」と口 |
*[[神山雄一郎]]とは競輪学校の同期生(61期)であったが、学校時の成績は競輪学校入学前から実績があった神山が圧倒し、選手としての成長も早かったためか、山田は常日頃より神山をライバル視し、「神山君だけには負けたくない」と口癖のように言っていた。 |
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*趣味の一つに[[競馬]]があり、[[地方競馬]]を中心として、[[馬主]]としても有名である。元[[騎手]]の[[安藤勝己]]とは中学校の先輩・後輩で、現在でも親交がある。また、[[プロレス]]観戦も趣味で、親友の[[山口幸二]]と頻繁に通う。さらに[[新日本プロレス]]の[[蝶野正洋]]らとも親交があり、[[nWoジャパン]]に属していた時期もある。 |
*趣味の一つに[[競馬]]があり、[[地方競馬]]を中心として、[[馬主]]としても有名である。元[[騎手]]の[[安藤勝己]]とは中学校の先輩・後輩で、現在でも親交がある。また、[[プロレス]]観戦も趣味で、親友の[[山口幸二]]と頻繁に通う。さらに[[新日本プロレス]]の[[蝶野正洋]]らとも親交があり、[[nWoジャパン]]に属していた時期もある。 |
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*大垣市内で「わのわ」という和食店を経営している。 |
*大垣市内で「わのわ」という和食店を経営している。 |
2015年8月21日 (金) 22:50時点における版
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個人情報 | ||||
本名 |
山田 裕仁 やまだ ゆうじ | |||
生年月日 | 1968年6月18日(55歳) | |||
国籍 | 日本 | |||
身長 | 183cm | |||
体重 | 88kg | |||
チーム情報 | ||||
所属 | 日本競輪選手会岐阜支部 | |||
期別 | 61期 | |||
分野 | 競輪 | |||
役割 | 選手 | |||
特徴 | 自在 | |||
プロ所属チーム | ||||
1988-2014 | 日本競輪選手会岐阜支部 | |||
グランツール最高成績 | ||||
主要レース勝利 | ||||
KEIRINグランプリ 1997、2002-2003 日本選手権競輪 2002-2003 競輪祭 2002-2003 全日本選抜競輪 1998 SSカップみのり 2009 ふるさとダービー 1回 S級S班 2010 | ||||
最終更新日 2014年5月26日 |
山田 裕仁(やまだ ゆうじ、1968年6月18日 - )は日本の元競輪選手である。岐阜県大垣市出身。日本競輪学校第61期卒業。現役時は日本競輪選手会岐阜支部所属。師匠は中嶋直人。初出走は1988年5月3日、京都向日町競輪場。初勝利は1988年9月8日、奈良競輪場。血液型はA型。元SKE48チームEの山田澪花は娘(長女)[1]。
戦績
岐阜県立大垣商業高等学校在学中は陸上競技を行っており、競輪学校には適性試験で合格している。卒業成績も85位だったが、選手になって以後メキメキと頭角を現し成長していった。そして中部地区を代表する先行選手として、記念競輪でも多く優勝するなどの活躍を見せた。
当時横綱と呼ばれた吉岡稔真(福岡・65期)、神山雄一郎(栃木・61期)と並ぶほどの逸材と言われたが、なぜか長い間特別競輪のタイトルには恵まれず、「無冠の帝王」とも呼ばた。
KEIRINグランプリ'97制覇、2002-2003年の大活躍
しかし、獲得賞金額上位で出場した1997年のKEIRINグランプリ'97で見事優勝した。この勝利で「無冠の帝王」を返上すると共に、特別競輪よりも上のランクのGPを一足早く取ってしまったことも話題となった。
その後は翌1998年の全日本選抜競輪で遅れ馳せながら特別競輪優勝を果たし、名実ともに中部地区だけでなく、競輪界を代表する選手となった。
出場はならなかったが、2000年のシドニー五輪を目指し、最終選考会に出場。ナショナルチームのメンバーとして[2]2001年の「ワールドカップ第3戦」(イタリア)で銀メダルを獲得するなどの結果も出した[3]。
特に2002年から翌2003年にかけての活躍はまさに神懸かり的で、日本の競輪史上に「山田時代」を築いたといえる。
その後
その後は再びタイトルに恵まれない時期が続いたが、2007年4月、観音寺競輪場でのふるさとダービーを制し、3年4ヶ月ぶりのビッグレース制覇を果たした。2009年は東西王座戦の西王座決定戦で2着となったほか特別競輪の決勝に2度進出するなどで年間の獲得賞金が上位になったことから、2010年は自身初のS級S班格付となった。さらにはS級S班格付となった初レースSSカップみのり09を小嶋敬二の番手から抜け出して優勝し、2003年以来約6年半ぶりのGI勝利で史上3人目の40代(41歳6ヶ月)GI優勝を果たした。自力のレースは減っていった(脚質は「両」)。
2012年、近年は思うような成績を残せていないことや、ホームバンクである大垣競輪場での同年のGIII記念競輪に斡旋されなかったことが引き金となり、選手生活からの幕引きの機会を計っていたという(この年の12月に同県の盟友・山口幸二が引退したが「(大垣から)ダブルでやめるのはまずい」ということから)[4]。
引退
そして2014年のGI・第67回日本選手権競輪、地元・中部地区の名古屋競輪場で行われる大会を以ってラストランとする意嚮という情報が、開催直前のスポーツ紙で取り上げられた[5][6]。
同大会4日目(3月21日)の1R・S級一般(2)を5着で終了後に記者会見を開いた。選手生活を振り返り2003年に優勝した平塚ダービー(日本選手権競輪)を、「一番の完成作品」と評した[7]。準決勝3個レースは吉岡の先行逃げ切りに始まり、神山も先行で辛くも3着で突破、山田も先行し1着[8]。この準決勝戦を「一番の思い出」として挙げた[9]。結果的に、決勝戦でこの3人が乗り合わせるものとしては、最後のレースだった[10]。
当初は、正式な引退手続きとなる選手手帳の返納はせずに[11]、6月に予定の日本競輪選手会岐阜支部長選挙への立候補を示唆した[12][13]。
しかし4月28日に実施された岐阜支部の総会において役員選挙に落選し、これにより選手会を退会して正式に引退することとなる[14]。その後選手手帳の返納など選手登録消除の手続きを行い受理され、5月26日付で正式引退となった[9]。「やり尽くしたし、燃え尽きた」との言葉と共に、今の競輪界について「もっと各関係団体が話せる場、環境を整えないとダメだと思う」等を呼びかけた[15]。
主な獲得タイトルと記録
- 1997年 - KEIRINグランプリ'97(立川競輪場)
- 1998年 - 全日本選抜競輪(青森競輪場)
- 2002年 - 競輪祭朝日新聞社杯争奪競輪王決定戦(小倉競輪場)、日本選手権競輪(立川競輪場)、KEIRINグランプリ02(立川競輪場)
- 2003年 - 競輪祭朝日新聞社杯争奪競輪王決定戦(小倉競輪場)、日本選手権競輪(平塚競輪場)、KEIRINグランプリ03(京王閣競輪場)
- 2009年 - SSカップみのり09(京王閣競輪場)
- 年間賞金王2回 - 2002年、2003年
- 年間獲得賞金2億円突破 - 2002年、2003年
- 年間史上最高賞金獲得 - 2億4,434万8,500円(2002年)
- 2014年3月21日現在の成績
- 通算成績2110戦612勝
- 生涯獲得賞金19億1782万5099円
競走スタイル
全盛期の捲りの強さは、横綱といわれた吉岡稔真、神山雄一郎にも匹敵するものがあった。「中部の指令塔」としての自負から、状況によっては仲間のために逃げることも厭わず、本命であっても過度に仲間を監護するあまりに自分を捨てて非難されたこともある。晩年は中部地区の若手が成長したことから追走主体の戦法をとることが多かった。
エピソード
- 神山雄一郎とは競輪学校の同期生(61期)であったが、学校時の成績は競輪学校入学前から実績があった神山が圧倒し、選手としての成長も早かったためか、山田は常日頃より神山をライバル視し、「神山君だけには負けたくない」と口癖のように言っていた。
- 趣味の一つに競馬があり、地方競馬を中心として、馬主としても有名である。元騎手の安藤勝己とは中学校の先輩・後輩で、現在でも親交がある。また、プロレス観戦も趣味で、親友の山口幸二と頻繁に通う。さらに新日本プロレスの蝶野正洋らとも親交があり、nWoジャパンに属していた時期もある。
- 大垣市内で「わのわ」という和食店を経営している。
- 2015年8月14日、京王閣競輪初日第11Rでシェーン・パーキンスが1着となり、山田がそれまで持っていたバンクレコードを更新した。これにより、山田が記録していたバンクレコードは全て塗り替えられた。[16]
脚注
- ^ プロ野球選手、Jリーガー、競輪選手、プロレスラー? AKB48ファミリーに増えるスポーツ選手の娘たち - 週プレNEWS(集英社) 2011年10月27日(2011年10月29日閲覧)
- ^ p.2 「ナショナルチーム」および「強化指定選手」の選考について - シクリスムエコーNo.95 2003年2月号
- ^ ダービー、競輪祭、GP連覇の山田裕仁が引退へ - スポーツ報知、2014年3月18日
- ^ 日刊スポーツ、2014年3月22日10面 山田裕「すっきり」ラストラン
- ^ 山田裕仁ダービーで引退 GP3勝の名手 - 日刊スポーツ、2014年3月17日付。
- ^ 山田裕仁、ラストランは5着/名古屋 - 日刊スポーツ、2014年3月22日付。
- ^ 引退記者会見 - イー新聞競輪
- ^ レース競走結果 2003/03/22(5日目)第11レース - KEIRIN.JP
- ^ a b 【競輪】“帝王”山田裕仁が正式に引退 - デイリースポーツ、2014年5月27日付。
- ^ 過去同時出走検索結果 - KEIRIN.JP
- ^ 【競輪】SKE山田澪花の父ラストラン p.1 - デイリースポーツ、2014年3月22日付。
- ^ 【名古屋ダービー】山田裕がラストラン、支部長選立候補へ - スポーツ報知、2014年3月22日付。
- ^ 日本競輪選手会の役員は現役選手としての登録が必要であるため。
- ^ 山田裕仁が正式引退、岐阜支部長選挙落選 GP3勝 今後は「白紙」 - スポーツニッポン、2014年4月29日付。
- ^ 山田裕仁「燃え尽きた」引退を正式に申し出 GP3度制覇 - スポーツ報知、2014年5月27日付。
- ^ http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/?path=2015khn/08/news20150814_03.html
関連項目
外部リンク
- 山田裕仁選手プロフィール - 競輪ステーション
- 山田裕仁 - サイクリングアーカイヴス(英語)
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