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|王朝=秦
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|在位期間=[[紀元前247年|前247年]]五月丙午<ref name=ShinHon70>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/qin-ben-ji/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史書』秦本紀 70 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref> - [[紀元前210年|前210年]]七月丙寅<ref name=ShikiSikou46>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」46]]</ref>
|在位期間=[[紀元前247年|前247年]][[5月7日]] - [[紀元前210年|前210年]][[9月10日]]
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|生年=[[紀元前259年|前259年]]([[正月]][[1月 (旧暦)|1月]]?<ref>『[[史記索隠]]』が引く『[[竹書紀年]]』よると、[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の治世以前の年始は[[冬]][[10月 (旧暦)|10月]]と記述されている。</ref>)
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|父=[[荘襄王 (秦)|荘襄王]]
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|母=趙姫<ref name="Huang">Huang, Ray. ''China: A Macro History'' Edition: 2, revised. (1987). M.E. Sharpe publishing. ISBN 1563247305, 9781563247309. pg 32.</ref>
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'''始皇帝'''(しこうてい、[[紀元前259年]] - [[紀元前210年]]<ref>{{cite news |url=http://www.travelchinaguide.com/attraction/shaanxi/xian/terra_cotta_army/qin_shihuang_1.htm |title=Emperor Qin Shi Huang -- First Emperor of China |publisher=TravelChinaGuide.com |language=英語|accessdate=2011-12-20}}</ref><ref name="Wood1">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. Macmillan publishing. ISBN 0312381123, 9780312381127. p 2.</ref>)は、[[戦国時代 (中国)|中国戦国時代]]の[[秦]][[王]](在位[[紀元前246年]] - [[紀元前221年]])<ref name="duik">Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition: 5, illustrated. (2006). ''World History: Volume I: To 1800''. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78.</ref>。[[姓]]は'''嬴'''(えい)、[[諱]]は'''政'''(せい)。現代中国語では、'''始皇帝''' ({{lang|zh-hans|Shǐ Huángdì}}, <small>シーフアンティ</small>) または'''秦始皇''' ({{lang|zh-hans|Qín Shǐ Huáng}}, <small>チンシーフアン</small>) と称される。彼は紀元前221年に中国統一を成し遂げると最初の[[皇帝]]となり<ref name="duik" />、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した<ref name="Ren">Ren, Changhong. Wu, Jingyu. (2000). ''Rise and Fall of the Qin Dynasty''. Asiapac Books Pte Ltd. ISBN 9812291725, 9789812291721.</ref>。


中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。彼は中国の歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した<ref name="duik" />。始皇帝は巨大プロジェクトを実行し、初期の[[万里の長城]]や、等身大の[[兵馬俑]]で知られる[[秦始皇帝陵及び兵馬俑坑|秦始皇帝陵]]の建設、国家単位での交通規則の制定などを、多くの人民が払う犠牲の上に行った。また、[[焚書坑儒]]を実行した事でも知られる<ref name="Ren" />。
'''始皇帝'''(しこうてい)は[[秦|秦朝]]の[[皇帝]]。[[姓]]は'''嬴'''(えい)、[[諱]]は'''政'''(せい)。現代中国語では、'''始皇帝''' ({{lang|zh-hans|Shǐ Huángdì}}, <small>シーフアンティ</small>) または'''秦始皇''' ({{lang|zh-hans|Qín Shǐ Huáng}}, <small>チンシーフアン</small>) と称される。


== 「始皇帝」の名 ==
元来は[[秦]]王として[[紀元前246年]]に即位した。[[紀元前221年|前221年]]には史上初めて中国を統一し、[[中国の歴史|中国史上]]はじめて'''[[皇帝]]'''を称した。
[[Image:始皇帝 (篆文).svg|thumb|right|100px|始皇帝 <br />''Shǐ Huángdì''<br />小篆体で書かれた「始皇帝」]]
=== 意味 ===
[[周]]の時代及びその後([[紀元前700年]] - [[紀元前221年]])の[[中国]]独立国では、「王」の称号が用いられていた。紀元前221年に[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に終止符を打った[[秦]]王政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は彼自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。これが時に「始皇帝」と略される<ref name=Yoshi107>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.107-113、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐1]]</ref>。
* 「始」は「最初(一番目)」の意味である<ref name="Wood2">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. Macmillan publishing. ISBN 0312381123, 9780312381127. pp 23-24, 26.</ref>。始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」という称号を受ける<ref>Hardy, Grant. Kinney, Anne Behnke. (2005). ''The Establishment of the Han Empire and Imperial China''. Greenwood Publishing Group. ISBN 031332588X, 9780313325885. p 10.</ref>。
* 「皇帝」は、神話的な[[三皇五帝]]から二つの漢字を抜き取って作られた<ref>‘‘The Great Wall''. (1981). Luo, Zhewen Luo. Lo, Che-wen. Wilson, Dick Wilson. Drege, J. P. Contributor Che-wen Lo. McGraw-Hill. ISBN 0070707456, 9780070707450. pg 23.</ref>。ここには、始皇帝が[[黄帝]]の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている<ref>Fowler, Jeaneane D. (2005). ''An Introduction to the Philosophy and Religion of Taoism: Pathways to Immortality''. Sussex Academic Press. ISBN 1845190866, 9781845190866. pg 132.</ref>。
* さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた<ref>{{cite book |last=Lewis |first=Mark Edward |title=The Early Chinese Empires: Qin and Han |year=2007 |publisher= [[ハーバード大学]]出版局Belknap Press |isbn=067402477X, 978-0674024779 |page=52 |url=http://books.google.com/books?id=EHKxM31e408C&lpg=PA52&dq=the%20early%20chinese%20emperors%20lewis%20%22was%20most%20frequently%20used%20as%20an%20epithet%20of%20Heaven%22&pg=PA52#v=onepage&q&f=false}}</ref>。
* 元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を自ら創り出した<ref name=Yoshi107 />。


=== 『史記』における表記 ===
== 略歴 ==
[[司馬遷]]が著した『[[史記]]』には、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記が見られる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にて<ref name=ShinHon70 /><ref name="shijichapter5">[http://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7005&variant=zh-hant Wikisource ''Records of the Grand Historian'' Chapter 5].</ref>や6章(「秦始皇本記」)冒頭や14節<ref>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」1]]</ref>、「秦始皇」は「秦始皇本記」章題で使われる<ref name="shijichapter6">[http://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7006&variant=zh-hant Wikisource ''Records of the Grand Historian'' Chapter 6].</ref><ref>Book.sina.com.cn. "[http://vip.book.sina.com.cn/book/chapter_78679_53894.html Sina]." ''帝王相貌引起的歷史爭議.'' Retrieved on 2009-01-18.</ref>。秦王政は二つの文字「皇」と「帝」を合わせて新たに「皇帝」という言葉を造ったところから、「秦始皇帝」の方が正式だったと考えられる<ref>see ''Chinese Emperors'' by Ma Yan. ISBN 978-1-4351-0408-2.</ref>。
=== 出生 ===
父の子楚(後の[[荘襄王 (秦)|荘襄王]])は[[趙 (戦国)|趙]]の[[邯鄲]]で捨て駒同然の人質となっていたが、大商人[[呂不韋]]の支援により[[孝文王 (秦)|孝文王]]の太子となり、後に秦王に即位した。子楚は呂不韋から愛人を譲り受けたが、この愛人との間に生まれたのが政である。


== 生誕と幼少期 ==
しかし、その愛人は子楚の元にやってきた際には既に懐妊していたと言われ、これに従えば始皇帝の父親は子楚ではなく呂不韋となる。この風聞は当時広範囲に流布していたと考えられ、『[[史記]]』でも呂不韋列伝に史実として記載されているが、秦始皇本紀には記載されていない。[[司馬遷]]は両論併記を採用したともいえる。『史記』秦始皇本紀所収の[[班固]]の上書部では「呂政」と表記されており、始皇帝と秦王室の血縁関係を否定しているが、これは[[前漢|漢朝]]が秦朝の正統性を否定する意味合いが強い。また、同時代の[[春申君]]にも同様の故事が存在することから、史実でないとする[[歴史家]]もいる。また子楚が後見人である呂不韋の愛人と通じて懐妊させたために、呂不韋が已む無く愛人を子楚に差し出したと考える歴史家もいる。この呂不韋を始皇帝の実父とする風聞が広く流布した背景には、始皇帝に悪意を持つ六国の遺民によって、始皇帝に不利な風聞が広められたことも要因として挙げられる。
=== 人質の子 ===
誕生時につけられた始皇帝の[[諱]]は「政」という。彼は秦ではなく[[趙 (戦国)|趙]]の首都・[[邯鄲]]で生まれた。そのため「趙政」とも呼ばれた<ref name="RGH">‘‘Records of the Grand Historian: Qin Dynasty'' (English translation). (1996). Ssu-Ma, Ch'ien. Sima, Qian. Burton Watson as translator. Edition: 3, reissue, revised. Columbia. University Press. ISBN 0231081693, 9780231081696. pg 35. pg 59.</ref>。父は後に[[荘襄王 (秦)|荘襄王]]となる秦の公子・「子楚」(別名:異人)。彼は[[休戦協定]]の[[人質]]として趙に送られていたが<ref name="Huang" />、祖父の[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]はしばしば約束を破って軍事攻撃を仕掛けていた。子楚の父・安国君(後の[[孝文王 (秦)|孝文王]]は昭襄王の次子で、子楚自身にも20人以上の[[兄弟]]がおり、しかも彼は[[妾]]腹であった。子楚は秦王を継ぐ可能性がほとんど無いどころか、いつ殺されても仕方が無い空手形に等しく、趙も彼を冷遇していた<ref name=Yoshi21>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.21-30、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐1]]</ref>。


そんな彼に、[[韓]]の裕福な商人であった[[呂不韋]]が目をつけた。大金を投じて安国君の正室ながら子を産んでいなかった華陽夫人に工作活動を行い、また子楚へも交際費を出資し評判を高めた<ref name="Ren" />。子楚は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、子楚は呂不韋の妾の趙姫<ref name="Huang" />を気に入り譲り受けた。彼女は、昭襄王48年(前259年)の正月に男児を産んだ。正月にちなみ「政」と名づけられたこの赤子が、後に始皇帝となる<ref name="Wood1" /><ref name="RGH" /><ref name=Yoshi21 />。
政の容貌や性格について、[[史記]]には「鼻が高く、目は切れ長で、声は豺狼([[ヤマイヌ]])の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主」と記載されている。


=== 即位 ===
=== 血筋に対する議論 ===
[[漢]]時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は子楚の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を子楚に与えた際、彼女は既に妊娠していたという<ref name="Huang" /><ref name=ShikiRo5>[[#史記「呂不韋列傳」|「呂不韋列傳」5]]</ref><ref name=Yoshi30>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.30-37、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐2]]</ref>。[[後漢]]時代の[[班固]]も『[[漢書]]』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/wu-xing-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『漢書』五行志下49 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。
[[紀元前258年]]、政誕生直後に秦が趙を攻め邯鄲を包囲する。趙が報復として処刑が決まった父子楚を呂不韋が逃がすために工面するが、政母子は邯鄲に残されかくまわれた。


始皇帝が[[非嫡子]]だという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている<ref name=Wood2/>。それは、呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点から[[臨月]]の期間と政の[[誕生日|生誕日]]との間に矛盾が生じるという<ref name="LuAnnal">Lü, Buwei. Translated by Knoblock, John. Riegel, Jeffrey. ''The Annals of Lü Buwei'': Lü Shi Chun ''Qiu : a Complete Translation and Study''. (2000). Stanford University Press. ISBN 0804733546, 9780804733540.</ref>。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲル両教授も、「これは作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた<ref>{{Cite book|title=The Annals of Lü Buwei|others=Knoblock, John and Riegel, Jeffrey Trans.|publisher=Stanford University Press|year=2001|isbn=978-0804733540}} p. 9</ref>。
[[紀元前251年]]、子楚が帰国した後、[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]が薨去し、[[孝文王 (秦)|孝文王]]が秦の王となり子楚が太子となる。子楚が太子となったことを知った趙は政母子を丁重に秦へ返した。


[[郭沫若]]は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定した<ref name=Yoshi30 /><ref group="2-">郭沫若 著、『中国古代の思想家たち』(上・下)「呂不韋と秦王政との批判」、野原四郎・佐藤武敏・上原淳道三 訳、岩波書店</ref>。
[[紀元前250年]]、孝文王が薨去した。これによって子楚は荘襄王として即位すると、呂不韋は[[丞相]]として政権を掌握した。
#『史記』の説は子楚と呂不韋について多く触れる『[[戦国策]]』にて一切触れられていない。
#『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、[[楚 (春秋)|楚]]国の[[春申君]]と[[幽王 (楚)|幽王]]が実は親子だという説明があり、これは呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、また[[小説]]的過ぎる。
# 『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姬」(邯鄲の歌姫<ref name=ShikiRo5 />)と「趙豪家女」(趙の富豪の娘<ref name=ShikiRo6>[[#史記「呂不韋列傳」|「呂不韋列傳」6]]</ref>)の異なる説明がある。また、政は「大期」(10ヵ月または12ヵ月)を経過して生まれたとあり<ref name=ShikiRo5 />、事前に妊娠していたとすればおかしい。
[[陳舜臣]]は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦莊襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した<ref name=Chin154>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.154-194、乱世の果て]]</ref>。


=== 死と隣り合わせの少年 ===
[[紀元前246年]]、荘襄王が薨去すると、13歳であった政が秦王に即位する。即位当初は呂不韋が実権を掌握していたが、政は弟である[[成キョウ|成蟜]]の謀反と実母の愛人である[[ロウアイ|嫪毐]]による反乱を鎮圧した後、[[紀元前238年|前238年]]には呂不韋を中央から遠ざけて[[親政]]を始めた。
政の祖父・安国君は亡くなった兄の代わりに太子となった。だが曽祖父の昭襄王は子楚らに一切配慮せず趙を攻め、紀元前253年にはついに邯鄲を包囲した。趙側は人質の子楚を処刑しようと捕らえたが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし彼には妻子を連れる暇など無かったため、政は母と置き去りにされた。趙はこの二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった<ref name=Yoshi30 />。陳舜臣は、敵地の真っ只中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している<ref name=Chin154 />。


邯鄲のしぶとい篭城に秦は軍を引いた。そして前250年に昭襄王が没し、1年の喪を経て安国君が即位して孝文王となった。呂不韋の工作どおり子楚が太子となり、趙は国際信義上、10歳になった<ref name=Yoshi287>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.287-291、秦の始皇帝年譜]]</ref>政とその母を秦の[[咸陽市|咸陽]]に送り返した。ところが孝文王はわずか3日後に亡くなり、紀元前249年に「奇貨」子楚が即位・荘襄王となった。呂不韋は[[丞相]]に任命された<ref name=Yoshi30 />。
政は[[韓]]の公子[[韓非]]が記述した「[[韓非子]]」に感動し韓非の思想を取り入れようとした。だが、呂不韋の食客で韓非の同門である[[李斯]]が韓非を自殺に追い込んだため李斯を重臣として採用した。李斯主導の下に[[法家]]思想を政治に採用し、君主独裁、[[郡県制]]、厳罰主義を推進し、強力な独裁体制を築いた。また秦軍の少数精鋭化も断行した。外征面では将帥に[[王翦]]、[[王賁]]親子や[[李信]]などを起用し、韓・趙・[[魏 (戦国)|魏]]を次々に滅ぼした。


== 即位 ==
[[紀元前227年]]、[[燕 (春秋)|燕]]の[[太子丹]]は隣国の趙が秦に滅ぼされたことで危機感を抱き、政の[[暗殺]]を計画して[[荊軻]]を刺客として送りこんだ。荊軻は、秦軍の改革に反対して家族を処刑され、秦から亡命していた将軍[[樊於期]]の首を持参して使者として秦王政に拝謁。巻物の中に隠した[[匕首]]で政を襲撃した。殿上に武器を持って上がることは秦の法で禁じられていたため、衛兵や家臣たちは荊軻を阻止できずにいた。政は長剣を帯びていたがうまく鞘から抜くことが出来ず、生命の危機に直面したが、侍医の機転によって長剣を抜き、荊軻を斬殺した。この暗殺計画に憤慨した政は王賁に命じて燕を攻撃し、翌年に滅亡させている。
=== 若年王の誕生 ===
荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした<ref name=Yoshi30 />。しかし前246年、荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ<ref name="Ancient">Donn, Lin. Donn, Don. ''Ancient China''. (2003). Social Studies School Service. Social Studies. ISBN 1560041633, 9781560041634. pg 49.</ref>。まだ若い彼を補佐するため、呂不韋は[[相国]]となり[[戦国七雄]]の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行し<ref name=Wood2/>、[[仲父]]と呼ばれる程の権威を得て、多くの[[食客]]を養い『[[呂氏春秋]]』編纂なども行った<ref name=Yoshi38>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.38-45、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐3]]</ref>。


=== 呂不韋失脚 ===
[[紀元前225年]]、秦は最大の敵国である楚を攻撃するが失敗、楚軍は逆に秦へ侵攻してきた。これに対して政は既に引退していた王翦を将軍として全権を委ねた。王翦は楚軍を撃退してそのまま楚に攻め込み、[[項燕]]([[項羽]]の祖父)率いる楚軍を壊滅させて楚を滅亡させた。
しかし呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは故・荘襄王の妻であり今や[[大后]]となった趙姫とまた関係を持っていた事である。発覚すれば身の破滅に繋がるが、大后がなかなか手放してくれない<ref name=Yoshi45>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.45-53、第一章 奇貨居くべし‐始皇帝は呂不韋の子か‐4]]</ref>。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男・[[ロウアイ|嫪毐]]を見つけた<ref name="Mah">Mah, Adeline Yen. (2003). ''A Thousand Pieces of Gold: Growing Up Through China's Proverbs''. Published by HarperCollins. ISBN 0060006412, 9780060006419. p 32-34.</ref>。顎鬚と眉を抜き、[[宦官]]に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、[[侯爵]]を与えられた<ref name=Yoshi45 />。やがて大后は妊娠した。人目を避けるため旧都・雍([[鳳翔県]])に移った後、嫪毐と大后の間には二人の男児が生まれた<ref name="Mah"/><ref name=Yoshi45 />。


この破廉恥は秦王政9年(前238年)、22歳の時に露見する。[[元服]]の歳を迎え、彼はしきたりに従い雍に入った<ref name=Yoshi45 />。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があった<ref name=ShikiRo12>[[#史記「呂不韋列傳」|「呂不韋列傳」12]]</ref>と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという<ref name=Chin154 />。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう<ref name="Mah" />。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が大后の[[印章]]を入手し[[軍隊]]を動かした[[クーデター]]に失敗したとも言う<ref name="Mah" />。結果的に嫪毐は一族そして大后との二人の子もろとも殺された<ref name="Mah" /><ref name=Yoshi45 />。
[[紀元前221年]]、秦は戦国六国の中で最後に残った[[田斉|斉]]を滅ぼし、中国統一を達成した。


事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の業績や弁護もあり、相国罷免と封地の河南での[[蟄居]]が命じられたのは翌年となった<ref name=Yoshi45 /><ref name=Yoshi287 />。だが呂不韋の名声は依然高く、多くの客人が彼の元を訪れていた。秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った<ref name=Yoshi45 />。
=== 統一 ===
{{Quotation|{{Lang|zh-tw|君何功於秦。秦封君河南,食十萬戶。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!}}</br></br>秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体どんな繋がりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。|史記「呂不韋列伝」14<ref name=ShikiRo14>[[#史記「呂不韋列傳」|「呂不韋列傳」14]]</ref>}}
[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]には、七国の君主すべてが[[王]]を名乗っていた(秦王が西帝、斉王が東帝と称したことはあった)。統一事業を達成した後に旧来の称号は相応しくないと考えた政は、家臣たちに対し新しい称号の考案を命じた。
[[流刑]]の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒[[自殺]]した<ref name=Wood2/><ref name=Mah/>。[[吉川忠夫]]は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した<ref name=Yoshi45 />が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した<ref name=Chin154 />。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した<ref name=Chin154 />。


== 秦王政の専制 ==
家臣たちは古の[[三皇五帝|三皇]]で最も尊敬を集めた泰皇の使用を上奏したが、既存の称号に満足しない政は泰皇の「皇」と太古の「帝」号を複合した'''皇帝'''の称号を使用することを宣言した。また同時に王命を'''制'''、王令を'''詔'''、天子の自称として'''朕'''(後に真人に改めた。始皇帝死後は再び朕が使用された)の使用を定めた。さらに[[諡|諡号]]制度は子や臣下が先君を批評することになり、不敬であるとの理由で廃止し、以後は自分を始皇帝とし、後は二世皇帝、三世皇帝……、と呼称することを定めた。
=== 李斯と韓非 ===
秦王政による親政が始まった年、[[灌漑]]工事の技術指導に招聘されていた韓の[[鄭国]]が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「[[逐客令]]」が提案された<ref name=Yoshi54>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.54-62、第二章 駆客令‐秦国の発展‐1]]</ref>。これに対し反対を表明した者が[[李斯]]だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、「逐客令」が発布されれば彼も地位を失う位置にあった。しかし彼の論は的確だった。秦の発展は外国人が支え、[[穆公 (秦)|穆公]]は[[虞 (春秋)|虞]]の大夫だった[[百里奚]]や[[宋 (春秋)|宋]]の[[蹇叔]]らを登用し<ref name=Yoshi54 />、[[孝公 (秦)|孝公]]は[[衛]]の[[王族]]だった[[商鞅]]から<ref name=Yoshi62>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.62-69、第二章 駆客令‐秦国の発展‐2]]</ref>、[[恵文王 (秦)|恵文王]]は[[魏 (戦国)|魏]]出身の[[張儀]]から<ref name=Yoshi69>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.69-74、第二章 駆客令‐秦国の発展‐3]]</ref>、昭襄王は魏の[[范雎]]から<ref name=Yoshi74>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.74-80、第二章 駆客令‐秦国の発展‐4]]</ref>それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は[[性悪説]]の[[荀子]]に学び、人間は環境に左右されるという[[思想]]を持っていた<ref name=Yoshi54 />。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた<ref name=Yoshi81>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.81-88、第三章 統一への道‐六国併合‐1]]</ref>。


商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた<ref name=Yoshi62 />。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『[[韓非子]]』に感嘆した。著者の[[韓非]]は韓の公子であったため、事が有れば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に<ref name=Yoshi287 />使者の命を受けた韓非は謁見したが、既に彼は故国に絶望し自らを覇権に必要と売り込んだ<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/chu-jian-qin/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『韓非子』《初見秦》|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}</ref>。しかし、これに危機を感じた李斯と[[姚賈]]の謀略に嵌り死に追いやられた<ref name=Yoshi81 />。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/gu-fen/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『韓非子』《孤憤》1 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}</ref>、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書([[詩経]]・[[書経]])ではなく法が教えである。師は先王ではなく菅吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり<ref name=KanGo>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/wu-du/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『韓非子』《五蠹》10-13 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}</ref>、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である<ref name=KanGo />という箇所にも共感を得た<ref name=Yoshi81 />。
広大な領土の統治には、始皇帝の子を封建して統治することが臣下より提案されたが、李斯は[[周|周朝]]が封建した諸侯により滅亡した史実を挙げてこれに反対、郡県制を施行すべきと進言した。郡県制を採用した始皇帝は全国を三十六郡(後に四十八郡)に分割し、それぞれに守(行政担当)・尉(軍事担当)・監(監察担当)を設置し、郡の下部に県を設置して統治した。また[[亭]]と称される交番を制度化して街道の十里ごとに設置、人夫徴発や治安維持、官吏用宿泊施設として活用した。また都城・咸陽には全国の富豪十二万戸を強制移住させた。さらに滅ぼした六国の王宮に模した建物を咸陽に建てた。


=== 韓・趙の滅亡 ===
始皇帝は、民間の武器所持を禁止して没収し、中国統一の象徴として巨大な像を作った。さらに[[度量衡]](度=長さ、量=体積、衡=重さの単位)、[[貨幣]]、車の幅を統一(「軌を一にする」の故事)した。また、[[漢字]]はそれまで地方ごとに異なる字体が使用されていたが、これを改め、秦の字体を標準字体として採用した。
秦は強大な軍事力を誇り、先代・荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた<ref name=Yoshi30 />。秦王政の代には、魏出身の[[尉繚]]の意見を採用し、他国の人間を買収して様々な工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった<ref name=Yoshi81 />。


韓非が死んだ3年後の秦王政17年(前230年)、韓は陽翟が陥落して王が捕縛されて滅んだ<ref name=Yoshi81 />。次の標的になった趙には、王の臣・[[郭開]]への買収工作が既に完了していた。[[田斉|斉]]との連合も情報が漏れ、[[旱魃]]や[[地震]]災害<ref>Hk.chiculture.net. "[http://hk.chiculture.net/php/sframe.php?url=http://hk.chiculture.net/0105/htmlBackup/0105c12.html HKChinese culture]." ''破趙逼燕.'' Retrieved on 2009-01-18.</ref><ref name="Haw">Haw, Stephen G. (2007). ''Beijing a Concise History''. Routledge. ISBN 978041539906-7. p 22 -23.</ref>につけこまれた秦の侵攻にも讒言で[[李牧]]・[[司馬尚]]を解任させてしまい、簡単に敗れた。趙の王は捕らえられたが、公子は代郡([[河北省]])に逃れたが、王は捕虜となり国は秦に併合された<ref name=Yoshi88>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.88-94、第三章 統一への道‐六国併合‐2]]</ref>。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った<ref name=Yoshi88 />。
ここに、後世の中国統一王朝の範となる、精密で合理的な支配体制を有する中央集権国家が誕生した。


=== 皇帝して ===
=== 暗殺未遂燕の滅亡 ===
{{Main|荊軻}}
[[ファイル:Greatwall-SA11.jpg|250px|thumb|万里の長城(写真の[[レンガ]]の長城は[[明]]代のもので、始皇帝時代のものは[[版築]][[土塁]]でできていた。また位置も明代よりも北方にあった)]]
[[燕 (春秋)|燕]]は弱小な国であった<ref name="Firsteselect">Sima Qian. Dawson, Raymond Stanley. Brashier, K. E. (2007). ''The First Emperor: Selections from the Historical Records''. Oxford University Press. ISBN 0199226342, 9780199226344. pg 15 - 20, pg 82, pg 99.</ref>。同国の[[燕太子丹|太子・丹]]はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。この頃、彼に対する秦の扱いはかつての趙が政へ向けた態度同様に礼に欠いた<ref name=Yoshi88 />。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。有り得ない事に丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は彼の帰国を許したという<ref name=Yoshi88 />。実際は脱走したと思われる<ref name=Chin196>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.196-227、天下統一]]</ref>丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった<ref name=Yoshi88 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/ci-ke-lie-zhuan/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史書』刺客列傳 26|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。
[[紀元前214年|前214年]]、北方の[[匈奴]]による進入を防ぐために[[万里の長城]]を修復し、将軍[[蒙恬]]に命じて 30 万の軍勢で匈奴を討伐させ、[[オルドス地方]]に版図を広げ、さらに[[箕子朝鮮]]を服属させた。また罪人を兵として徴兵し、南の[[嶺南 (中国)|嶺南]]([[ベトナム]]北部)を征服して郡を設置した。その際に揚子江の支流・[[湘江]]と、広東地方の西江へと流れる漓江を結ぶ運河[[霊渠]]を築いた。


[[Image:Jingkeciqinwang.png|thumb|left|300px|逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。{{仮リンク|武氏祠|zh|武氏祠}}石室。]]
[[紀元前213年|前213年]]、李斯の進言により周朝の再興を願い秦朝を批判する[[儒者]]を牽制するため、医書や農書などの実用書を除く書籍の焼却処分を実施している([[焚書]])。翌年には不老不死の仙薬作りを命じられていた[[侯生]]と[[盧生]]が、仙薬が完成できないことを恐れて逃亡、これに怒った始皇帝は[[咸陽市|咸陽]]の学者<!--儒者だけではない-->たちを拘束し、460 人を穴埋めにした([[坑儒]])。始皇帝の長子であった[[扶蘇]]が始皇帝のこうした施政に諫言したが、逆に始皇帝の怒りを買い、扶蘇は蒙恬の下へと送られて北方防衛に当たることとなった。
両国の間にあった趙が滅ぶと秦は幾度となく燕を攻めたが、武力では太刀打ちできなかった<ref name="Firsteselect" />。丹は非常の手段である[[暗殺]]計画を練り、[[荊軻]]という人物に白羽の矢を立てた<ref name="Ren" /><ref name="Firsteselect" />。秦王政10年(前227年)、荊軻は{{仮リンク|秦舞陽|zh|秦舞陽}}を供に連れ、督亢(とくこう)の地図と秦の裏切り者・{{仮リンク|樊於期|zh|桓齮}}の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ<ref name="Firsteselect" /><ref name=Yoshi88 />。地図の箱を手にした秦舞陽が差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は[[天子]]に威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た<ref name="Firsteselect" />。受け取った秦王政が開いた地図の巻物から現れた[[短刀]]を手に、荊軻は襲い掛かった。秦王政は身をかわしたが、護身用の剣を抜くのに手間取った<ref name="Firsteselect" />。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可無く殿上に登る事を秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出す他無かった。しかし従医の[[夏無且]]が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り倒した。二人のいつわりの使者は処刑された<ref name="Firsteselect" /><ref name=Yoshi95>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.95-101、第三章 統一への道‐六国併合‐3]]</ref>。


秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた。暗殺未遂の翌年には首都・[[北京市|薊]]を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された<ref name=Yoshi95 />。その後の戦いも秦軍は圧倒し続け、[[遼東]]に逃れた燕王は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた<ref name=Chin196 /><ref name=Yoshi95 />。
始皇帝は五回に及ぶ大規模な巡幸を行い、同時に全国の交通網整備([[古代道路]])が推進され、中国国内の長城を破壊した。この巡幸は[[項籍|項羽]]と[[劉邦]]も見物しており、項羽は「{{lang|zh|彼可取而代也}}」(彼は取りて代はるべきなり / やつに取って代わってやる)と述べ、劉邦は「{{lang|zh|嗟乎大丈夫當如此也}}」(ああ、大丈夫當に此くの如くなるべきなり / ああ、立派な男たるものまさにかような者であるべきだ)と述べたと伝えられている。


=== 魏・楚・斉の滅亡 ===
[[紀元前219年|前219年]]の二度目の巡幸では[[泰山]]での[[封禅]]の儀式が行われている。この儀式の詳細を古例に詳しい[[儒家]]に尋ねたが、古代の儀式であったため儒家の回答も一定でなく、結局始皇帝は儒家の発言を無視して儀式を行い、記念に泰山刻石を設置した。
次に秦の標的となった魏は、かつて五ヵ国の[[合従]]軍を率いた[[信陵君]]を失い弱体化していた。それでも、[[黄河]]と梁溝を堰き止めて首都・[[開封市|大梁]]を水攻めされても3ヶ月は耐えたが、秦王政12年(前225年)に降伏し、魏も滅んだ<ref name=Yoshi95 />。


そしてついに、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った<ref>''Sima Qian: The First Emperor''. Tr. by Raymond Dawson. Oxford University Press. Edition 2007, Chronology, p. xxxix</ref>。秦王政は若い[[李信]]と[[蒙恬]]に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍は、しかし楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は老将軍・[[王翦]]に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした<ref name=Chin196 /><ref name=Ousen>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/bai-qi-wang-jian-lie-zhuan/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『史書』白起王翦列傳10-12|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。
[[紀元前218年|前218年]]の三度目の巡幸では博浪沙(はくろうさ)を通過した際に、大きな鉄鎚が始皇帝の車めがけて投げつけられた。[[張良]]による始皇帝暗殺計画であったが、鉄鎚は副車に当たり暗殺は失敗に終わった。始皇帝は犯人捜索を命じたが、張良は逃げのびている。


最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相・[[后勝]]とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ<ref name=Yoshi101>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.101-106、第三章 統一への道‐六国併合‐4]]</ref>。秦が戦国時代に幕を引いたのは秦王政17年(前221年)、彼は39歳になっていた<ref name=Yoshi101 />。
=== 晩年 ===
始皇帝は中国統一の頃から[[不老不死]]を求めて[[方士]]を重用するようになった。前出の侯生と盧生も方士出身であるが、特に[[徐福]]の事績は有名である。二度目の巡幸で始皇帝は斉に滞在し、徐福に対して東方にあるという[[蓬莱 (伝説)|蓬莱]]国へ向かい、仙人を連れてくるようにと命じた。この蓬莱は[[日本]]の事を指していると言われ、日本各地には徐福の最期の地といわれる場所が複数ある(徐福伝説)。


== 始皇帝王朝 ==
徐福を初めとして方士たちは不老不死には懐疑的であったと思われ、いかがわしい方士によって国庫から金銭が詐取される事態になっていた。また始皇帝は方士以外にも宦官である[[趙高]]を重用し、自らは咸陽周辺の数百の宮殿を復道<ref>道路の上にさらに架け渡した道路。</ref>や甬道<ref>道の両側に壁があり外から通行人を認識できない道路。</ref>で連絡してそこを行き来し、自ら朝廷に赴くことも少なくなり、趙高らを通して朝政を執るようになっていった。
[[Image:Cin Shihhuang Shaanxi statue.jpg|195px|thumb|right|現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像]]
=== 皇帝 ===
中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の[[王綰]]・[[馮劫]]・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は[[周]]の時代こそ天下にただ一人の称号だったが[[春秋時代|春秋]]・戦国時代を通じ諸国が成立してそれぞれの元首が名乗っていた。統一を成し遂げたからには「王」の上位に相当する号が求められた。王綰らは、[[五帝]]さえ超越したとして三帝のひとつ「[[秦皇]]」の号を推挙し、併せて指示を「命」から「制」、布告を「令」から「詔」、自称を謙譲的な「寡人」から「朕」にすべしと答申した。秦王政は号のみ自ら変え、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した<ref name=Yoshi107 />。


また秦王政は、王の行いを評して死後贈られる[[謚]]の制度を、臣下が君主をあげつらうものとして廃止した。そして自らを「始皇帝」とし、次代から「二世」「三世」と数える様に定めた。なお、この始皇帝は死後の称号として指示したもので、在位中は「皇帝」または「今皇帝」と呼称された<ref name=Yoshi107 />。以下、本文では「始皇帝」の表現を用いつつ、年号は秦王政xx年から始皇xx年と表記する。
蒙恬による匈奴遠征も、この時期に方士が持参した預言書に「秦を滅ぼすものは胡なり」と記載されていたことから胡族(異民族)討伐の動機になったとも言われる(後に、この胡とは異民族の事ではなく、二世皇帝の[[胡亥]]であると言われた)。


=== 五徳終始 ===
始皇帝は方士による仙薬(一説では[[水銀]])で健康を害するようになった。[[紀元前210年|前210年]]の五度目の巡幸では、みずから海へ出て大魚を射殺したが、その直後に発病し、咸陽へ帰還できないまま巡幸の途中で崩御した。趙高によって崩御は咸陽に帰還するまで秘匿されることとなり、始皇帝の遺体の[[死臭]]を隠すため、趙高は始皇帝の車の後ろに魚の干物を乗せた車を用意させ、始皇帝崩御を隠し通した。
始皇帝はまた[[五行思想]](地、木、金、火、水)も取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を以って栄えたと考えられる。続く秦王朝は次の徳を持つとし、それは「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた<ref name="Wood4">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. Macmillan publishing. ISBN 0312381123, 9780312381127. p 27.</ref>。五行の「水」は他に、[[方位]]の「[[北]]」、[[季節]]の「[[冬]]」、[[数字]]の「[[6]]」でも[[象徴]]された<ref>Murowchick, Robert E. (1994). ''China: Ancient Culture, Modern Land''. University of Oklahoma Press, 1994. ISBN 0806126833, 9780806126838. p105.</ref><ref name=Yoshi114>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.114-123、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐2]]</ref>。


=== 政治 ===
始皇帝は長子の扶蘇を後継者とする遺詔を趙高に托していたが、扶蘇が皇帝に即位することで自らの権勢が危うくなることを恐れた趙高は、李斯と結託して胡亥を後継者とする遺詔を捏造した。始皇帝崩御の翌年には[[陳勝・呉広の乱]]が発生し、秦は一気に滅亡へと突き進んでいく。
始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した<ref name="Clements">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. Sutton Publishing. ISBN 0750939591. pp. 82, 102-103, 131, 134.</ref>。[[政治]]支配は[[中央集権]]が採用されて被征服国は独立国の体を廃され<ref name= Imperialism>Imperialism in Early China. CA. 1600BC - 8AD'. University of Michigan Press. ISBN 0472115332, 9780472115334. p 43-44'</ref>、代わって36の[[郡]]が置かれ、後にその数は40以上に増えた<ref name="Haw" />。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた<ref name="Chang">Chang, Chun-shu Chang. (2007). ''The Rise of the Chinese Empire: Nation, State, and Imperialism in Early China, CA. 1600BC - 8AD''. University of Michigan Press. ISBN 0472115332, 9780472115334. p 43-44</ref>。これは[[郡県制]]を中国全土に施行したものである<ref name=Yoshi114 />。


統一後、臣下の中では従来の[[封建制#中国史における封建制|封建制]]を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く<ref name= Imperialism>Imperialism in Early China. CA. 1600BC - 8AD'. University of Michigan Press. ISBN 0472115332, 9780472115334. p 43-44'</ref><ref name=Yoshi128>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.128-136、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐4]]</ref>と強行に主張した李斯の意見が採られた<ref name=Yoshi114 />。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された<ref name="Veeck">Veeck, Gregory. Pannell, Clifton W. (2007). ''China's Geography: Globalization and the Dynamics of Political, Economic, and Social Change''. Rowman & Littlefield publishing. ISBN 0742554023, 9780742554023. p57-58.</ref>。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった<ref name="Chang" /><ref>The source also mention ch'ien-shou was the new name of the Qin people. The may be the Wade-Giles romanization of (秦受) "subjects of the Qin empire".</ref>。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった<ref name="Chang" />。
始皇帝の子孫は、二世皇帝の胡亥の権力を脅かすとして趙高らに罪を着せられて男女を問わずほとんどが処刑され、また、胡亥の死後に三世皇帝に即位した[[子嬰]]も、秦を滅亡させた項羽によって処刑された。


== 始皇帝大土木事業 ==
=== 経済そ ===
始皇帝と李斯は、[[度量衡]]や[[通貨]]、[[荷車]]の[[軸 (機械要素)|軸]]幅(車軌)、また[[位取り記数法]]<ref>{{cite book|和書|author=監修:今井秀孝|title=トコトンやさしい計量の本|chapter=第1章 計るって何だろう|pages=22-23|publisher=[[日刊工業新聞社]]|year=2007年|edition=第1刷|isbn=978-4-526-05964-3}}</ref>などを統一し、[[市制 (単位系)|市制]]の標準を定めることで経済の一体化を図った<ref name="Veeck" /><ref name=Yoshi123>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.123-128、第四章 天下統一‐皇帝の誕生‐3]]</ref>。さらに、各地方の交易を盛んにするため[[道路]]や[[運河]]などの広範な[[交通]]網を整備した<ref name="Veeck" />。各国でまちまちだった通貨は[[半両銭]]に一本化された<ref name="Chang" /><ref name=Yoshi123 />。そして最も重要な政策に、[[漢字]][[書体]]の統一が挙げられる。李斯は秦国内で[[篆書体]]への一本化を推進した<ref name=Yoshi128 />。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた<ref name=Fuji69>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.69-70、四 皇帝の文字 文字改革]]</ref>。臣下が用いる文字は「[[隷書体|隷書]]」として、[[中国の書家一覧#程邈|程邈]]という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい<ref name=Fuji93>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.93-97、五 政治の文字 隷書]]</ref>。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した<ref name="Chang" /><ref name=Yoshi128 />。
[[ファイル:Guerriers Xian.jpg|right|400px|thumb|兵馬俑]]
始皇帝は外征とともに大土木事業を数多く実施し、その負担は民衆の生活を圧迫した。これは後世から暴君と呼ばれる理由の一つとなっている。しかし[[万里の長城]]建設のように、必要性の高い事業も多く実施している。漢代になると[[匈奴]]には[[冒頓単于]]が登場して強勢となり、漢軍を打ち破っている。匈奴の勢力拡大を牽制させるために長城を建設し、蒙恬による匈奴遠征を実施した始皇帝は先見の明があったとも言える。


度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書([[権量銘]])が刻まれている<ref name=Fuji75>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.75-79、四 皇帝の文字 度量衡]]</ref>。
また、韓の[[鄭国]]は秦を疲弊させるために大規模な[[灌漑]]事業を行わせた。鄭国の目論みは発覚するものの、秦には鄭国のような技術者がいなかったために始皇帝は鄭国を処刑せずに事業を継続し成功させ、今まで荒野だった土地を豊かにさせる結果となり、現代まで引き継がれている。
{{Quotation|{{Lang|zh-tw|廿六年 皇帝尽并兼天下 諸侯黔首大安 立号為皇帝 乃詔丞相状綰 法度量則 不壱嫌疑者 皆明壱之}}</br>始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。</br> |青銅詔版<ref>{{cite web|url=http://abc0120.net/words03/abc2010051201.html |title=青銅詔版の権量銘|publisher=考古用語辞典|accessdate=2011-11-20}}</ref><ref name=Fuji75 />}}


== 大土木工事 ==
しかし、咸陽の大拡張工事、美女を三千人集めたという[[阿房宮]](「[[阿呆]]」の語源と言われる)、[[1974年]]に発見された[[兵馬俑]]を初めとする大規模な[[始皇帝陵]]造営などは大きな財政負担となり、その工事に民衆を強制的に徴用したことから陳勝・呉広の乱が発生した。従って、大土木工事は秦帝国崩壊の直接的な原因であると言える。
[[Image:Epang-Palast.jpg|170px|thumb|right|阿房宮図。清代の袁耀作。]]
=== 咸陽と阿房宮 ===
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし{{仮リンク|十二金人|en|12 Jin Ren}}を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた<ref name=Yoshi151>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.151-157、第五章 咸陽‐阿房宮と驪山陵‐3]]</ref>。咸陽城には滅ぼした国から鐘鼓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の[[渭水]]北岸では手狭になった<ref name=Yoshi151 />。


始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な[[阿房宮]]建設に着手した。ここには[[恵文王 (秦)|恵文王]]時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には[[磁石]]が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きな[[庇|ひさし]](四阿旁広)を持つ<ref name=Yoshi151 />巨大な宮殿であった<ref name=Chin228 />。
== 歴史的評価 ==
[[ファイル:Cin Shihhuang Shaanxi statue.jpg|200px|thumb|始皇帝の銅像]]
始皇帝に先見性があり有能な皇帝であったことは広く認められている。始皇帝が人材を好んでいたことを示す話として[[韓非]]や[[尉繚子]]らに対してのものがある。秦が崩壊した原因の一端は始皇帝にあるが、その一方でもし始皇帝がこの時代にいなければ、中国の統一は実現されず、分裂したまま歴史が進んだのではないかとも推測できる<ref>作家[[陳舜臣]]は『小説十八史略』にて、「始皇帝がいなければ、中国はヨーロッパの様な分裂した国家群になっていただろう」と述べている。</ref>。


名称「阿房」の由来には諸説あり、「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも<ref name=Yoshi151 />、四阿旁広の様子からつけられたとも<ref name=Yoshi151 />、始皇帝に最も寵愛された妾の名<ref>Chang, Kwang-chih. Xu, Pingfang. Lu, Liancheng. Allan, Sarah. (2005). ''The Formation of Chinese Civilization: An Archaeological Perspective''. Yale University Press. ISBN 0300093829, 9780300093827. pg 258.</ref>とも言われる。
[[儒教]]を重視する立場からは、焚書坑儒を行った始皇帝は[[暴君]]と位置づけられていた。しかし、近年は始皇帝は既存の封建体制を法治思想による新たな国家体制へ変革させたとして評価する意見もある。[[漢]]が[[前漢]]・[[後漢]]を合わせて約400年続いたのは、秦の政治的な成果を民衆の反発を受けることなく継承したことが大きい。


=== 始皇帝陵 ===
一方で、文化や背景の異なる六国を統一した後、急激な[[中央集権]]化、厳格な法治主義、統一直後からの大規模工事を行い、征服された国ばかりか自国の民衆の反感を買ったことは事実である。後世、詩人の[[李白]]は『国風』四十八<ref>{{Quotation|<poem>{{Lang|zh-tw|秦皇按寶劍 赫怒震威神}}(<ruby><rb>秦皇</rb><rp>(</rp><rt>しんこう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>寶劍</rb><rp>(</rp><rt>ほうけん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>按</rb><rp>(</rp><rt>あん</rt><rp>)</rp></ruby>じ、<ruby><rb>赫怒</rb><rp>(</rp><rt>かくど</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>威神</rb><rp>(</rp><rt>いしん</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>震</rb><rp>(</rp><rt>ふる</rt><rp>)</rp></ruby>う。)
始皇帝は秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しい事ではないが、始皇帝となった彼の陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:{{Coord|34|22|52.75|N|109|15|13.06|E|type:landmark}})が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された<ref name=Yoshi158>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.158-164、第五章 咸陽‐阿房宮と驪山陵‐4]]</ref>。

木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに[[水銀]]が流れる川が100本造られ、「[[天体]]」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ[[石弓]]が据えられたという<ref name=Yoshi158 /><ref>Man, John. ''The Terracotta Army'', Bantam Press 2007 p170. ISBN 978-0593059296.</ref>。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた<ref name=Yoshi158 />。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた<ref name=Yoshi158 />。

1974年3月29日、井戸堀りの農民たちが[[兵馬俑]]を発見したことで始皇帝陵は世界的に知られるようになった<ref>Huang, Ray. (1997). ''China: A Macro History''. Edition: 2, revised, illustrated. M.E. Sharpe publishing. ISBN 1563247313, 9781563247316. p 37</ref>。ただし始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される<ref>Jane Portal and Qingbo Duan, ''The First Emperor: China's Terracotta Arm'', British Museum Press, 2007, p. 207.</ref>。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して[[探針]]を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された<ref name="wright" />。

[[File:GreatWallChina1.png|thumb|200px|秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。]]
[[File:Lingqu Canal.jpg|thumb|200px|現代に残る[[霊渠]]]]
=== 万里の長城 ===
{{Main|万里の長城}}
中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できた訳ではなかった。それは北方および北西の[[遊牧民]]であった。戦国七雄が争っていた頃は[[匈奴]]も[[東胡]]や[[月氏]]と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし中国統一頃には勢力を強めつつあった<ref name=Chin228>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.228-257、万里の長城]]</ref>。始皇帝は[[蒙恬]]を北方防衛に当たらせた<ref name=Chin228 />。そして巨大な防衛壁建設に着手した<ref name="Haw" /><ref name="Li">Li, Xiaobing. (2007). ''A History of the Modern Chinese Army''. University Press of Kentucky, 2007.ISBN 0813124387, 9780813124384. p.16</ref>。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の[[万里の長城]]の前身に当たる。これは、過去400年間にわたり趙や[[中山国]]など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁を繋げたものであった<ref name="Clements">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. pp. 102-103.</ref><ref name=Chin228 /><ref>Huang, Ray. (1997). ''China: A Macro History''. Edition: 2, revised, illustrated. M.E. Sharpe publishing. ISBN 1563247313, 9781563247316. p 44</ref>。

=== 霊渠 ===
{{Main|霊渠}}
中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有靈渠」というものがある<ref>Sina.com. "[http://news.sina.com.cn/c/2005-07-26/15497329339.shtml Sina.com]." ''秦代三大水利工程之一:灵渠.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大[[運河]]の建設に着手し<ref name="Mayhew">Mayhew, Bradley. Miller, Korina. English, Alex. ''South-West China: lively Yunnan and its exotic neighbours''. Lonely Planet. ISBN 186450370X, 9781864503708. pg 222.</ref>、中国の南北を接続した<ref name="Mayhew" />。長さは34kmに及び、[[長江]]に流れ込む[[湘江]]と、[[珠江]]の注ぐ[[漓江]]との間を繋いだ<ref name="Mayhew" />。この運河は中国の主要河川2本を繋ぐことで秦の南西進出を支えた<ref name="Mayhew" />。これは、万里の長城・[[四川省]]の[[都江堰]]と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる<ref name="Mayhew" />。

== 天下巡遊 ==
中国を統一した翌年の紀元前220年から、始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西([[甘粛省]]東南・旧[[隴西郡]])と北地(甘粛省[[慶陽市]][[寧県]]・旧[[寧州 (甘粛省)|北地郡]])は<ref name=ShikiSikou18>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」18]]</ref>いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる<ref name=Yoshi165>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.165-173、第六章 天下巡遊‐刻石と『雲夢秦簡』‐1]]</ref>。

しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『[[書経]]』「虞書・舜典」にある[[舜]]が各地を巡遊した故事<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shang-shu/yu-shu/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『尚書』《虞書》《舜典》3-4|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-11-20}}</ref>に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には[[松]]の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された<ref name=Yoshi165 />。

[[Image:Qin tours.jpg|240px|thumb|right|始皇帝の天下巡遊路]]
順路は以下の通りである<ref name=Yoshi165 />。
*始皇28年(前219年、第1回):咸陽‐嶧山(山東省[[聊城市]])‐秦山(山東省[[泰安市]])‐黄(山東省[[竜口市]])‐腄(山東省[[煙台市]])‐成山(山東省[[文登市]])‐{{仮リンク|芝罘|zh|芝罘岛}}(山東省煙台市)‐瑯邪(琅邪、山東省[[諸城市]])‐彭城([[江蘇省]][[徐州市]])‐衡山([[湖南省]][[湘潭市]])‐南郡([[湖北省]]南部)‐湘山祠(湖南省[[湘陰県]])‐武關([[陝西省]][[丹鳳県]])‐咸陽<ref name=ShikiSikou1926>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」19-26]]</ref><ref group="注">[[#吉川2002|参考文献「秦の始皇帝」p.166]]では、衡山の後は湘山祠、南郡、武關の順序となっているが、ここでは『史記』「始皇帝本紀」26にならう。</ref>
*始皇29年(前218年、第2回):咸陽‐陽武([[河南省]][[原陽県]])‐之罘‐瑯邪‐上黨([[山西省]][[長治市]])‐咸陽<ref name=ShikiSikou2731>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」27-31]]</ref>
*始皇32年(前215年、第3回):咸陽‐碣石([[河北省]][[昌黎県]])‐上郡([[陝西省]]北部)‐咸陽<ref name=ShikiSikou3436>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」34-36]]</ref>
*始皇37年(前210年、第4回):咸陽‐雲夢(湖北省[[雲夢県]])‐海渚([[安徽省]][[桐城市]])‐丹陽(江蘇省[[南京市]])‐錢唐([[浙江省]][[杭州市]])‐會稽(会稽‐浙江省[[紹興市]])‐吳(江蘇省[[蘇州市]])‐瑯邪‐成山‐之罘‐平原津(山東省[[平原県]])‐沙丘(河北省[[平郷県]])<ref name=ShikiSikou4346>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」43-46]]</ref>

これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省[[雲夢県]]の戦国‐秦代の古墳から発掘された[[睡虎地秦簡]]の『編年紀』と名づけられた[[竹簡]]の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である<ref name=Yoshi173>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.173-180、第六章 天下巡遊‐刻石と『雲夢秦簡』‐2]]</ref>。

=== 封禅 ===
第1回目の巡遊は主に東方を精力的に廻った。途中の秦山にて、始皇帝は[[封禅]]の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ<ref name=Chin9>[[#陳1998|陳 (1998)、pp.9-41、秦山風物]]</ref>、かつて斉の[[桓公 (斉)|桓公]]が行おうとして[[管仲]]が必死に止めたと伝わる<ref name=Hou12>[[#史記「封禪書」|「封禪書」12]]</ref>。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え<ref name=Hou19>[[#史記「封禪書」|「封禪書」19]]</ref>、この儀式を遂行した<ref name=Yoshi195>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.195-202、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐1]]</ref>。

しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の[[成王 (周)|成王]]であり<ref name=Hou12 />、既に500年以上の空白があった。式次第は残されておらず<ref name=Chin9 />、始皇帝は儒者70名程に問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものは無かった<ref name=Hou20>[[#史記「封禪書」|「封禪書」20]]</ref><ref name=Yoshi195 />。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を遂行した<ref name=Chin9 /><ref name=Yoshi195 />。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、近郊の梁父山で「禅」の儀式を終えた<ref name=Yoshi195 />。

この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった<ref name=Hou20 />。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか<ref name=Yoshi195 />、我流の形式であったため後に正しい方法が判った時に有効性を否定されることを恐れたとも言われる<ref name=Chin9 />。吉川忠夫は、始皇帝は秦山で自らの[[不老不死]]を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた<ref name=Yoshi195 />。

=== 神仙への傾倒 ===
[[File:Xu Fu expedition's for the elixir of life.jpg|thumb|left|200px|不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した[[徐福]]の船。]]
秦山で封禅の儀を行った後、始皇帝は[[山東半島]]を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた<ref name=Hou22>[[#史記「封禪書」|「封禪書」22]]</ref>。僊人とは[[仙人]]の事であり、始皇帝が[[神仙思想]]に染まりつつあった事を示し<ref name=Yoshi202>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.202-206、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐2]]</ref>、そこに取り入ったのが{{仮リンク|方士|en|Fangshi}}と呼ばれる者達であった<ref name="Ong">Ong, Siew Chey. Marshall Cavendish. (2006). ''China Condensed: 5000 Years of History & Culture''. ISBN 9812610677, 9789812610676. p 17.</ref>。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛茍合之徒」<ref name=Hou23>[[#史記「封禪書」|「封禪書」23]]</ref>と、怪しげで調子の良い(茍合)話を以って権力者に媚び諂う(阿諛 – ごまをする)者たちであった<ref name=Yoshi195 />。

その代表格が、始皇帝が瑯邪で石碑(琅邪台刻石)を建立した後に謁見した[[徐福|徐市]]である。斉の出身である彼は、東の海に伝説の[[蓬莱 (伝説)|蓬莱山]]など仙人が棲む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人・{{仮リンク|安期正|zh|安期正}}を伴って帰還する<ref>Fabrizio Pregadio. ''The Encyclopedia of Taoism''. London: Routledge, 2008: 199</ref>ための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した<ref name=Yoshi202 /><ref name="Wintle" />。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐市の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた<ref name=Yoshi202 />。言い逃れも限界に達した徐市も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくる事はなかった。伝説では、[[日本]]にたどり着き、そこに定住したともいう<ref name="Ong" /><ref name=Yoshi218>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.218-227、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐5]]</ref>。

=== 刻石 ===
各地を巡ったし皇帝は、伝わるだけで7つの碑([[始皇七刻石]])を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った秦山そして琅邪、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。これらはいずれも現存せず、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれは無い<ref name=Yoshi165 />。碑文はいずれも小篆で書かれ、始皇帝の偉業を讃える<ref name=Yoshi165 />。

=== 逸話 ===
始皇帝の巡遊にはいくつかの[[逸話]]がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、[[鼎]]を探すため[[泗水]]に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある<ref name=ShikiSikou26>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」26]]</ref>。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが叶わなかった<ref name=Yoshi173 />。この件について[[北魏]]時代に[[酈道元]]が撰した『[[水経注]]』では、鼎を引き上げる綱を[[竜]]が噛み千切ったと伝える。[[後漢]]時代の{{仮リンク|武氏祠|zh|武氏祠}}石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている<ref name=Yoshi173 />。

『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かない事を条件に許可した。しかし臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという<ref name=Yoshi202 />。

== 暗殺未遂 ==
始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機に晒された<ref name=Yoshi232>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.232-237、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐1]]</ref>。

=== 高漸離の暗殺未遂 ===
{{Main|高漸離}}
荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。彼は燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼を潰されることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、彼は復讐を志していた<ref>Elizabeth, Jean. Ward, Laureate. (2008). ''The Songs and Ballads of Li He Chang''. ISBN 1435718674, 9781435718678. p 51</ref>。高漸離は筑に[[鉛]]塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を撃ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された<ref name=Yoshi232 /><ref name="Wu">Wu, Hung. ''The Wu Liang Shrine: The Ideology of Early Chinese Pictorial Art''. Stanford University Press, 1989. ISBN 0804715297, 9780804715294. p 326.</ref>。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした<ref name=Yoshi232 />。

=== 張良の暗殺未遂 ===
{{Main|張良}}
第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120[[斤]](約30kg<ref name=Chin228 />)の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった<ref name="Wintle">Wintle, Justin Wintle. (2002). ''China''. Rough Guides Publishing. ISBN 1858287642, 9781858287645. p 61. p 71.</ref>。この事件は、滅んだ韓の貴族だった[[張良]]が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった<ref name="Wintle">Wintle, Justin Wintle. (2002). ''China''. Rough Guides Publishing. ISBN 1858287642, 9781858287645. p 61. p 71.</ref>。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた<ref name="Mah" /><ref name=Yoshi232 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shuo-yuan/fu-en/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 儒家 説苑 復恩 14|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。

=== 咸陽での襲撃 ===
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた<ref name=Yoshi232 /><ref name=ShikiSikou33>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」33]]</ref>。

== 「真人」の希求 ==
天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、既に自らを過去に存在しなかった偉大な人間だと考えていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている<ref name=ShikiSikou24>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」24]]</ref>。このように[[五帝]]や三王([[夏 (三代)|夏]]の[[禹|禹王]]、[[殷]]の[[湯王]]、[[周]]の[[文王 (周)|文王]]または[[武王 (周)|武王]])を評し、遥かに広大な国土を[[法治主義]]で見事に治める始皇帝が彼らを遥かに凌駕すると述べている<ref name=Yoshi173 />。過去誰も達しなかった頂点を極めた始皇帝は、不可能な事など無いという考えに取り付かれ、ますます神仙への傾倒を深めた<ref name=Yoshi195 />。逐電した徐市<ref name="Ong" />に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に[[廬生]]は様々な影響を与えた<ref name=Yoshi206>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.206-211、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐3]]</ref>。

=== 『録図書』と胡の討伐 ===
廬生は徐市と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。彼は仙人こそ連れて来なかったが『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」<ref name=ShikiSikou36>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」36]]</ref>という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した<ref name=Yoshi206 />。

万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵と言えば先ず匈奴が挙げられた。始皇帝は北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍が[[オルドス地方]]を占拠すると犯罪者をそこに移し44の県を新設した。さらに現在の[[包頭市]]にまで通じる軍事道路「直道」を整備した<ref name=Yoshi206 />。

一方で南には[[嶺南 (中国)|嶺南]]へ圧迫を加え、そこへ逃亡農民や債務奴隷・商人らを中心に編成された軍団を派遣し<ref name=Yoshi206 />、現在の[[広東省]]や[[ベトナム]]の一部も領土に加えた<ref name="Haw" />。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた<ref name=Yoshi206 />。

=== 焚書 ===
胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、[[焚書]]の引き金になった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった[[淳于越]]が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった<ref name=ShikiSikou38>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」38]]</ref>。始皇帝はこれを李斯の諮問へ掛けたが、元より郡県制を推進した彼が意見に利を認めるはずが無かった<ref name=Yoshi211>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.211-218、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐4]]</ref>。そして始皇帝自身も旧習を否定する思想に染まっていた。彼が信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣う事は、切り株の番をするようなものだ」と論じられている<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/wu-du/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 法家 韓非子 五蠹 1|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。このような統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった<ref name=Yoshi211>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.211-218、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐4]]</ref>。始皇帝自身がこの思想に染まり、自らの治世を正しいものと考えていた事は、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる<ref name=Machi>{{cite web|url=https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/18048/1/ctr004_p001.pdf |format=PDF |title=秦の思想統制について|author=町田三郎|publisher=[[九州大学]]学術情報リポジトリ|accessdate=2011-12-20}}</ref>。

既に郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、体制の問題点が意識されていたか、または先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される<ref name=Machi />。しかし始皇帝の決定はきわめて反動的なものであった。『韓非子』「姦劫弒臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出しては喚き合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/jian-jie-shi-chen/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 法家 韓非子 姦劫弒臣3|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。始皇34年(前213年)、李斯はこのような妄言の根拠となる「古い本」すなわち占星学・農学・医学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を焼き捨てる建策を行い認められた<ref name="Lih">Li-Hsiang Lisa Rosenlee. Ames, Roger T. (2006). ''Confucianism and Women: A Philosophical Interpretation''. SUNY Press. ISBN 079146749X, 9780791467497. p 25.</ref>。特に『[[詩経]]』と『[[書経]]』の所有は、始皇帝の蔵書を除き<ref group="注">この蔵書は紀元前206年に[[項籍|項羽]]が咸陽宮に火をかけた事で消失した。''Records of the Grand Historian'', translated by Raymond Dawson in ''Sima Qian: The First Emperor''. [[オックスフォード大学出版局]], ed. 2007, pp. 74-75, 119, 148-9</ref>厳しく罰せられた<ref name=Yoshi211 />。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った<ref name="Clements">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. p. 131.</ref>。

=== 坑儒 ===
始皇帝は「後王思想」で言う批判を許さない君主の絶対的基準となった。ここにまたも方士らが取り入り、廬生は「真人」を説いた。真人とは『[[荘子 (書物)|荘子]]』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/hanfeizi/wu-du/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 道家 荘子 内篇 大宗師 1|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>、「内篇・斉物論」で[[神]]と言い切られた存在<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/zhuangzi/adjustment-of-controversies/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 道家 荘子 内篇 齊物論 11|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>を元にする超人を指した<ref name=Yoshi218 />。廬生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時には居場所を李斯に告げられたと疑い、周囲にいた宦者らすべてを処刑した事もあった<ref name=Yoshi218 />。

しかし「阿諛茍合」の類である真人の来訪など決して無く、やがて粛清を恐れた廬生は方士仲間の侯生とともに始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。これを知り激怒した始皇帝は学者を疑い尋問にかけた。彼らは言い逃れに他者の誹謗を繰り返し、ついには約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し<ref name="Wood5">Wood, Frances. (2008). ''China's First Emperor and His Terracotta Warriors''. p 33.</ref>、これがいわゆる[[坑儒]]であり、前掲の焚書と合わせて[[焚書坑儒]]と呼ばれる<ref name=Yoshi218 />。『史記』には、学者らを「諸生」<ref name=ShikiSikou38>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」41]]</ref>と表記しており様々な学派の人間が対象になったと考えられるが、この行為を唯一諌めた長子の[[扶蘇]]<ref>Twitchett, Denis. Fairbank, John King. Loewe, Michael. ''The Cambridge History of China: The Ch'in and Han Empires 221 B.C.-A.D. 220''. Edition: 3. Cambridge University Press, 1986. ISBN 0521243270, 9780521243278. p 71.</ref>の言「諸生皆誦法孔子」<ref name=ShikiSikou38 />から、儒家の比率が高かったものと考えられる<ref name=Yoshi227>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.227-231、第七章 方士と儒生‐封禅と焚書坑儒‐6]]</ref>。

讒言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた<ref name=Yoshi218 />。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが<ref name=ShikiSikou38 />、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。彼を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。しかし、いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった<ref name=Chin228 />。

坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した[[錬金術]]研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返る事ができるという究極の試験であった可能性を示唆する<ref name="Clements">Clements, Jonathan (2006). ''The First Emperor of China''. pp. 131, 134.</ref>。

== 祖龍の死 ==
=== 不吉な暗示 ===
『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した[[隕石]]に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻み付ける事件が起きた<ref name="LiangY">Liang, Yuansheng. (2007). ''The Legitimation of New Orders: Case Studies in World History''. Chinese University Press. ISBN 962996239X, 9789629962395. pg 5.</ref>。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された<ref name=ShikiSikou42>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」42]]</ref>上、隕石は焼き砕かれた<ref name="RGH" />。空から降る隕石に文字を刻む事は、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた<ref name=Yoshi232 />。

また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉壁を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖の事、それに山鬼の類に長い先の事など見通せまいと呟いた。しかし玉壁は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した<ref name=Yoshi232 /><ref name=ShikiSikou42 />。

=== 最後の巡遊 ===
末子の[[胡亥]]と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊<ref name=ShikiSikou43>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」43]]</ref>は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵([[南京]])から天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした<ref name=Yoshi238>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.238-243、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐2]]</ref>。また、海神と闘う夢を見たため[[弩]]を携えて海に臨み、芝罘で大魚を仕留めた<ref name=Yoshi238 /><ref name=ShikiSikou45>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」45]]</ref>。

ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方に止まっている正統な後継者である<ref name="Tung">Tung, Douglas S. Tung, Kenneth. (2003). ''More Than 36 Stratagems: A Systematic Classification Based On Basic Behaviours''. Trafford Publishing. ISBN 1412006740, 9781412006743.</ref>長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成し、信頼を置く宦官の[[趙高]]<ref name=Yoshi243>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.243-246、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐3]]</ref>に託した。7月、始皇帝は沙丘の平台(現在の[[河北省]]平郷<ref>{{cite web|url= http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter14/chapter140406.htm |title=中国百科 秦の始皇帝陵|publisher=CRI online |accessdate=2011-12-20}}</ref>)で亡くなった<ref name=ShikiSikou46 /><ref name=Yoshi238 />。伝説によると、彼は宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという<ref name="wright">{{cite book|title=The History of China|year=2001|author=Wright, David Curtis|publisher= Greenwood Publishing Group|isbn=031330940X|page=49}}</ref>。

== その後 ==
=== 隠された死 ===
始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ<ref name="Firsteselect" />、秘したまま一行は咸陽へ向かった<ref name="Firsteselect" /><ref>O'Hagan Muqian Luo, Paul. (2006). ''讀名人小傳學英文: famous people''. 寂天文化. publishing. ISBN 9861840451, 9789861840451. p16.</ref><ref>Xinhuanet.com. "[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/newscenter/2005-03/20/content_2719803.htm Xinhuanet.com]." ''中國考古簡訊:秦始皇去世地沙丘平臺遺跡尚存.'' Retrieved on 2009-01-28.</ref>。[[崩御]]を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった<ref name=ShikiSikou46 /><ref name=Yoshi238 />。死臭を誤魔化すため大量の魚を積んだ車が伴走し<ref name=ShikiSikou46 /><ref name="Firsteselect" />、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた<ref name="Firsteselect" />帰路において、趙高は胡亥に李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握り潰され、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた<ref name="Tung" /><ref name=Yoshi243 /><ref name=Yoshi246>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.246-253、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐4]]</ref>。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄に繋がれた<ref name=Yoshi246 />。

=== 二世皇帝 ===
始皇帝の死から2ヶ月後、咸陽に戻った20才の胡亥が即位し二世皇帝となり<ref name="Firsteselect" />、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢を掴んだ<ref name=Yoshi253>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.253-258、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐5]]</ref>。蒙恬や[[蒙毅]]を始め気骨ある人物はことごとく排除され、[[陳勝・呉広の乱]]を嚆矢に各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った<ref name=Yoshi253 />。そして李斯さえ陥れて処刑させた<ref name=Yoshi258>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.258-264、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐6]]</ref>。

しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には[[劉邦]]率いる軍に武関を破られた。ここに至り二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた<ref name=Yoshi264>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.264-270、第八章 祖竜死す‐秦帝国の崩壊‐7]]</ref>。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる[[子嬰]]を次代に擁立しようとしたが、彼によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、[[項羽]]に殺害された<ref name=Yoshi264 />。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥の事を指していた<ref name=Yoshi264 /><ref>{{cite web|url=http://ctext.org/lunheng/shi-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 儒家 論衝 實知 2|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。

== 人物 ==
『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用された<ref name=Yoshi81 />が、彼は一度暇乞いをした事があり、その理由を以下の様に語った<ref name=Chin154 />。
{{Quotation|{{Lang|zh-tw|秦王為人,蜂準,長目,摯鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。}}|史記「秦始皇本紀」4<ref name=ShikiSikou4>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」4]]</ref>}}
秦王政の風貌を、鼻は蜂準(高く尖っている)、眼は切れ長、胸は鳥膺(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)の様だと述べる。そして恩を感じる事などほとんど無く虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得ればまた他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後につきあうべきでないと断ずる<ref name=Chin154 /><ref name=Yoshi81 />。

将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れた後、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。この時、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った<ref name=Yoshi101 /><ref name=Chin196 />。
{{Quotation|{{Lang|zh-tw|夫秦王怚而不信人。}}|史記「白起王翦列伝」11<ref name=Ousen />}}
怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもつかない浅ましい人物を演じる事で、秦のほとんどと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて死を賜る命令が下りない様にしているのだと述べた。彼の頭には、[[白起]]が辿った末路という教訓があった<ref name=Chin196 /><ref name=Yoshi101 />。

方士の廬生と侯生が逃亡する前に始皇帝を誹謗した言が残っている。
{{Quotation|{{Lang|zh-tw|始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。上樂以刑殺為威,天下畏罪持祿,莫敢盡忠。(中略)。天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此,(後略)}}|史記「秦始皇本紀」41<ref name=ShikiSikou41>[[#史記「秦始皇本紀」|「秦始皇本紀」41]]</ref>}}

始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた<ref name=Yoshi218 />。

== 評価 ==
=== 暴虐なる始皇帝 ===
始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である[[漢]]の時代に形成された<ref name=Yoshi278>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.278-282、終章 秦時の轆轢鑽‐後世の始皇帝評価‐3]]</ref>。『[[漢書]]』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/wu-xing-zhi/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 漢書 五行志 下之上 54 |publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。この時代には「無道秦」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/shiji/gao-zu-ben-ji/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 史記 高祖本紀19|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>や「暴秦」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/han-shu/gao-di-ji-xia/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 漢書 高帝紀下 6|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/analects/zi-zhang/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 論語 子張 20|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2011-12-20}}</ref>。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった<ref name=Yoshi271>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.271-275、終章 秦時の轆轢鑽‐後世の始皇帝評価‐1]]</ref>。特に[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した<ref name=Yoshi271 />。詩人・政治家であった[[賈誼]]は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた<ref>Loewe, Michael. Twitchett, Denis. (1986). ''The Cambridge History of China: Volume I: the Ch'in and Han Empires, 221 B.C. – A.D. 220''. Cambridge University Press. ISBN 0521243270.</ref>。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった<ref>Lovell, Julia. (2006). ''The Great Wall: China Against the World, 1000 BC-AD 2000''. Grove Press. ISBN 0802118143, 9780802118141. pg 65.</ref>。

[[唐]]代の詩人・[[李白]]は『国風』四十八<ref>{{Quotation|<poem>{{Lang|zh-tw|秦皇按寶劍 赫怒震威神}}(<ruby><rb>秦皇</rb><rp>(</rp><rt>しんこう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>寶劍</rb><rp>(</rp><rt>ほうけん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>按</rb><rp>(</rp><rt>あん</rt><rp>)</rp></ruby>じ、<ruby><rb>赫怒</rb><rp>(</rp><rt>かくど</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>威神</rb><rp>(</rp><rt>いしん</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>震</rb><rp>(</rp><rt>ふる</rt><rp>)</rp></ruby>う。)
{{Lang|zh-tw|逐日巡海右 驅石駕滄津}}(日を逐って<ruby><rb>海右</rb><rp>(</rp><rt>かいゆう</rt><rp>)</rp></ruby>を巡り、石を駆って滄津に<ruby><rb>駕</rb><rp>(</rp><rt>か</rt><rp>)</rp></ruby>す。)
{{Lang|zh-tw|逐日巡海右 驅石駕滄津}}(日を逐って<ruby><rb>海右</rb><rp>(</rp><rt>かいゆう</rt><rp>)</rp></ruby>を巡り、石を駆って滄津に<ruby><rb>駕</rb><rp>(</rp><rt>か</rt><rp>)</rp></ruby>す。)
{{Lang|zh-tw|征卒空九寓 作橋傷萬人}}(卒を征して九寓空しく、橋を作って萬人傷つく。)
{{Lang|zh-tw|征卒空九寓 作橋傷萬人}}(卒を征して九寓空しく、橋を作って萬人傷つく。)
108行目: 264行目:
{{Lang|zh-tw|力盡功不贍 千載為悲辛}}(力<ruby><rb>盡</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>きて功<ruby><rb>贍</rb><rp>(</rp><rt>ゆたか</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>不</rb><rp>(</rp><rt>なら</rt><rp>)</rp></ruby>ず、<ruby><rb>千載</rb><rp>(</rp><rt>せんざい</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>為</rb><rp>(</rp><rt>ため</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>悲辛</rb><rp>(</rp><rt>ひしん</rt><rp>)</rp></ruby>す。)</poem>|李白『国風』四十八|nobullet=yes}}</ref>で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。
{{Lang|zh-tw|力盡功不贍 千載為悲辛}}(力<ruby><rb>盡</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>きて功<ruby><rb>贍</rb><rp>(</rp><rt>ゆたか</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>不</rb><rp>(</rp><rt>なら</rt><rp>)</rp></ruby>ず、<ruby><rb>千載</rb><rp>(</rp><rt>せんざい</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>為</rb><rp>(</rp><rt>ため</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>悲辛</rb><rp>(</rp><rt>ひしん</rt><rp>)</rp></ruby>す。)</poem>|李白『国風』四十八|nobullet=yes}}</ref>で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。


阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。[[北宋]]時代の『[[景徳傳燈録]]』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」<ref group="注">[[#吉川2002|参考文献「秦の始皇帝」終章のタイトルやp.277表記]]では「轆」でなく「車へんに度」の文字が使われている。仮に「轆」を用いる根拠は[http://edba.ncl.edu.tw/ChijonTsai/SIX/six-17.htm 雲門文偃] に基づく。</ref>という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった<ref name=Yoshi275>[[#吉川2002|吉川 (2002)、pp.275-277、終章 秦時の轆轢鑽‐後世の始皇帝評価‐1]]</ref>。
なお、[[中華人民共和国]]で[[文化大革命]]が発生すると、[[林彪]]の失脚を受けての批林批孔運動が高まり、始皇帝の[[焚書坑儒]]は[[階級闘争]]であると規定して讃美する論文が続出した。[[魯迅]]は始皇帝の[[焚書坑儒]]を[[ナチス]]の[[焚書]]とは明白に区別しており、前者に肯定的な評価を与えている。


=== 封建制か郡県制か ===
== 関連事項 ==
始皇帝の評価に関わらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ<ref name=Machi />、以後2000年にわたって継続された<ref name=Yoshi278 />。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。[[唐]]代の[[柳宗元]]は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した<ref name=Yoshi278 />。[[明]]の末期から[[清]]の初期にかけて活躍した[[王夫之|王船山]]は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由はこれに道理があるためだと封建制主張者を批判した<ref name=Yoshi278 />。
=== 史料 ===
『[[史記]]』「秦始皇本紀」


[[Image:First Emperor.jpg|right|300 px|thumb|始皇帝と臣下らの現代彫刻。[[西安市]]]]
=== 近代以降の評価 ===
清末[[中華民国|民]]初の[[章炳麟]]は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、全ての人間は平等であったと説いた。そしてもし彼が長命か、もしくは扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した<ref name=Yoshi278 />。

日本の[[桑原隲蔵]]は1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあった事、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であった事を述べ、始皇帝を弁護した<ref name=Yoshi278 />。

馬非百は [[歴史修正主義]]の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、[[蒋介石]]と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして国民新党による北伐と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。

[[文化大革命]]期には、始皇帝の再考察が行われた。当時は、儒家と法家の闘争という面から中国史を眺める風潮が強まった。[[中国共産党]]は儒教を反動的・反革命的なものと決め付けた立場から孔子を奴隷主貴族階級の[[イデオロギー]]([[批林批孔運動|批林批孔]])とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた<ref name=Yoshi278 />。

文字という側面から[[藤枝晃]]は、始皇帝は元来君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた<ref name=Fuji69 />。また、秦代の記録が多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた<ref name=Fuji68>[[#藤枝1999|藤枝 (1999)、pp.68-69、四 皇帝の文字 始皇帝の天下統一]]</ref>。

== 文化への影響 ==
<!-- この項目は、加筆前の日本語版および翻訳前の英語版において、出典が明記されているもの、または新たに加えることができたもののみを残す。また「せりふに名前が出てくる」程度のものは瑣末として消す。追加する場合は最低限出典を明記願います。 -->
=== エッセー・小説 ===
*[[アルゼンチン]]の[[作家]]である[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]](1899年 - 1986年)は、1952年に『続審問』({{lang|es|Otras Inquisiciones}})の中で「{{lang|es|La muralla y los libros}}」(「壁と書」も意味)を書いた。これは始皇帝についてのエッセーであり、万里の長城建設と焚書に対して否定的な見解を述べている<ref>Southerncrossreview.org. "[http://www.southerncrossreview.org/54/borges-muralla.htm Southerncrossreview.org]." "The Wall and the Books". Retrieved on 2009-02-02.</ref>。
*1956年の『Lord of the East』は、始皇帝の娘を主人公とした歴史小説である。彼女は恋人と駆け落ちをするが、本作の中で始皇帝は若いカップルに立ちはだかる障害として描かれている<ref>Openlibrary.org. "[http://openlibrary.org/b/OL6212357M Openlibrary.org]." ''The Lord of the East.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。
*[[カール・セーガン]]1985年の小説『コンタクト』では、文化大革命期の始皇帝陵発掘に関係した登場人物が、始皇帝の姿をした異星人の訪問を受ける<ref>Sagan, Carl. (1985). ''Contact''. Pocket Books. ISBN 0671701800. Pages 302-304, 368-370, 404-405.</ref>。
*『始皇帝復活』『始皇帝逆襲』、[[蕪木統文]]の小説<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=T_tWPQAACAAJ&dq=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D&hl=ja&sa=X&ei=0oPwTpXwFOn9mAW__uyoAg&ved=0CFYQ6AEwCDgK]</ref>。
=== 映画 ===
=== 映画 ===
*『[[秦・始皇帝]]』(1962年)。[[勝新太郎]]が始皇帝を演じた<ref>{{cite web|url= http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD13553/index.html |title=秦・始皇帝|publisher=goo映画|accessdate=2011-11-20}}</ref><ref name=uemura>{{cite book|和書|title=カリスマ先生の世界史|chapter=映画の世界史|author=植村光雄|publisher=PHP研究所|pages=70|url=http://books.google.co.jp/books?id=_P9CNEqywx8C&pg=PA70&dq=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D&hl=ja&ei=bqbTTv-WHsTHmAWnosnhDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CDAQ6AEwADgK#v=onepage&q=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D&f=false}}</ref>
* 日本
*『{{仮リンク|秦颂|en|The Emperor's Shadow}}』(1996年)。始皇帝と、彼の暗殺を試みた荊軻の友人に当たる高漸離との交流を描く。<ref>NYTimes.com. "[http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9A0DE1DF113DF93BA25751C1A96E958260 NYtimes.com]." ''Film review.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。
** [[秦・始皇帝]]([[1962年]]、[[大映 (映画)|大映]]、監督:[[田中重雄]]、始皇帝 役:[[勝新太郎]])
*『[[始皇帝暗殺]]』(1998年)。{{仮リンク|リー・シュエチエン|en|Li Xuejian}}演じる秦王政と、彼が愛した趙姫、そして暗殺者の荊軻の3者の愛憎を描く<ref>IMDb.com. "[http://www.imdb.com/title/tt0162866/ IMDb-162866]." ''Emperor and the Assassin.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref><ref>{{cite web|url= http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD2782/index.html |title=始皇帝暗殺|publisher=goo映画|accessdate=2011-11-20}}</ref><ref name=uemura />。
* 中国・香港
*『[[THE MYTH/神話]]』(2005年)。[[ジャッキー・チェン]]が[[蒙毅]]役を演じた。現代に生まれ変わった彼は考古学者になる<ref>IMDb.com. "[http://www.imdb.com/title/tt0365847/ IMDb-365847]." ''San wa.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref><ref>{{cite web|url= http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD8575/index.html |title= THE MYTH/神話|publisher=goo映画|accessdate=2011-11-20}}</ref>。
** [[テラコッタ・ウォリア 秦俑]]([[1989年]]、監督:[[チン・シウトン]]、始皇帝 役:[[陸樹銘]])
*『 [[テラコッタ・ウォリア 秦俑]]』(1989年)<ref name=uemura />。
** [[異聞・始皇帝謀殺]]([[1996年]]、監督:[[周暁文]]、始皇帝 役:[[姜文]])
* 『[[HERO (2002年の映画)|HERO]]』(2002年)<ref name=uemura />
** [[始皇帝暗殺]]([[1998年]]、監督:[[陳凱歌]]、秦王政 役:[[李雪健]])
** [[HERO (2002年の映画)|HERO]]([[2003年]]、監督:[[張芸謀]]、秦王政 役:[[陳道明]])


=== オペラ ===
=== TV番組 ===
*『{{仮リンク|秦始皇 (香港のTVシリーズ)|zh|秦始皇 (香港電視劇)}}』(1986年)。始皇帝の誕生から死までを描いた[[香港]]の[[亜州電視]]で放送された63話のTVシリーズ<ref>Sina.com. "[http://ent.sina.com.cn/r/m/2003-11-10/0821230366.html Sina.com.cn]." ''历史剧:正史侠说.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。
* [[譚盾]]「始皇帝」(''The First Empror'', 2006)
*『{{仮リンク|尋秦記|zh|尋秦記 (電視劇)}}』(2001年)。香港の[[無綫電視]]で放送された、{{仮リンク|黄易|zh|黄易 (香港)}}のSF小説を原作とするドラマ<ref>TVB. "[http://tvcity.tvb.com/drama/steppast/story/index.html TVB]." ''A Step to the Past TVB.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。
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*『[[:en:First Emperor: The Man Who Made China|First Emperor: The Man Who Made China]]』(2006年)。[[イギリス]]の[[チャンネル4]]で放送された始皇帝を描いたドキュメンタリー風ドラマ。{{仮リンク|ジェームズ・パックス|en|James Pax}}主演<ref>[http://documentarystorm.com/history-archaeology/the-first-emperor-the-man-who-made-china/ DocumentaryStorm]</ref>。
*『Secrets of China's First Emperor, Tyrant and Visionary』(2006年)。[[ナショナルジオグラフィック協会]]製作のドキュメンタリー<ref>Blockbuster. "[http://www.blockbuster.com/browse/catalog/movieDetails/395943 Blockbuster]." ''Secrets of China's First emperor.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。
*『{{仮リンク|China's First Emperor|en|China's First Emperor}}』(2008年)。[[アメリカ合衆国]]のテレビチャンネル「[[ヒストリー (TVチャンネル)|ヒストリー]]」製作のドキュメンタリー<ref>Historychannel.com. "[http://www.historychannelasia.com/china/ Historychannel.com]." ''China's First emperor.'' Retrieved on 2009-02-02.</ref>。

=== 音楽 ===
*『{{仮リンク|The First Emperor|en|The First Emperor}}』。始皇帝を描いた[[オペラ]]<ref>[http://www.metoperafamily.org/metopera/season/production.aspx?id=8798]</ref>。


=== 漫画 ===
=== 漫画 ===
* 『[[史記 (横山光輝)|史記]]』[[横山光輝]]作の漫画。司馬遷の史記を漫画化)
* 『[[史記 (横山光輝)|史記]]』[[横山光輝]]作の漫画<ref>[http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%B2%E8%A8%98-%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D-My-First-Big/dp/4091621619]</ref>
* 『[[鄭問|東周英雄伝]]』[[鄭問]]作の漫画。春秋戦国時代の人物を描いた[[オムニバス]])
* 『[[鄭問|東周英雄伝]]』『[[鄭問|始皇]]』、[[鄭問]]作の漫画<ref>[http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=3342565]</ref>。
* 『[[キングダム (漫画)|キングダム]]』[[原泰久]]作の漫画<ref>[http://www.news-gate.jp/2011/1118/10/]</ref>。
* 『[[鄭問|始皇]]』([[鄭問]]作の漫画。始皇帝を主人公とした作品)
* 『[[キングダム (漫画)|キングダム]]』([[原泰久]]作の漫画。始皇帝時代の武将、[[李信]]を主人公とした作品。[[集英社]]・[[週刊ヤングジャンプ]]で連載中)


=== ゲーム ===
=== ゲーム ===
*2005年発売のTVゲーム[[シヴィライゼーション|Sid Meier's Civilization IV]]では、中国の指導者として始皇帝が登場する<ref>Gamefaqs.com. "[http://www.gamefaqs.com/computer/doswin/file/932340/50165 Gamefaqs-165]." ''Civilization IV.'' Retrieved on 2009-02-03.</ref>。
* 『[[史記英雄伝]]』(主人公の妹の息子「セイ」として登場。最終的には始皇帝として国を統一し、最後の敵として立ちはだかる)

* 『[[真・三國無双 MULTI RAID 2]]』(三国志の時代に甦り、不老不死と帝国の復活を目論む。重要キャラであり、最終ボスでもある)
== 関連項目 ==
*[[中国の歴史]]
*[[中国帝王一覧]]
*[[和氏の璧]]
*[[秦氏]]-始皇帝の末裔を称した日本の氏族

== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|title=秦の始皇帝|author=[[吉川忠夫]]|publisher=[[講談社]]学術文庫|edition=第1刷|year=2002年|isbn=4-06-159532-6|ref=吉川2002}}
* {{cite book|和書|title=中国の歴史(二)|author=[[陳舜臣]] |publisher=講談社文庫|edition=第12刷|year=1998年(初版1990年)|isbn=4-06-184783-X|ref=陳1998}}
* {{cite book|和書|title=文字の文化史|author=[[藤枝晃]]|publisher=[[講談社]]学術文庫|edition=第1刷|year=1999年|isbn=4-06-159409-5|ref=藤枝1999}}
* {{cite book|title=史記|chapter=秦始皇本紀|author=[[司馬遷]]|publisher=「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容|url= http://ctext.org/shiji/qin-shi-huang-ben-ji/zh |language=漢文|ref=史記「秦始皇本紀」}}
* {{cite book|title=史記|chapter=呂不韋列傳|author=司馬遷|publisher=「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容|url= http://ctext.org/shiji/lv-bu-wei-lie-zhuan/zh |language=漢文|ref=史記「呂不韋列傳」}}
* {{cite book|title=史記|chapter=封禪書|author=司馬遷|publisher=「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容|url= http://ctext.org/shiji/feng-chan-shu/zh |language=漢文|ref=史記「封禪書」}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 脚注 ===
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== 関連項目 ==
== 読書案内 ==
{{wikisourcelang|zh|史記/卷006|『史記』巻六 秦始皇本紀 第六}}
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{{Commons|Cin Shihhuang}}
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* {{cite book|和書|title=秦の始皇帝 伝説と史実のはざま|author=[[鶴間和幸]]|publisher=[[吉川弘文館]] |edition= |year=2001年|isbn=9784062097321}}
* {{cite book|和書|title=始皇帝の地下帝国|author=鶴間和幸|publisher=講談社学術文庫|edition= |year=2001年|isbn=406209732X}}
* {{cite book|和書|title=ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国 ([[中国の歴史 (講談社)|中国の歴史]] 3)|author=鶴間和幸|publisher=講談社学術文庫|edition= |year=2004年|isbn=9784062740531}}
* {{cite book|和書|title=秦の始皇帝|author=鎌田重雄|publisher=河出書房新社|edition= |year=1962年|isbn=}}
*{{citation|last=Bodde|first=Derk|editor1-last=Twitchett|editor1-first=Denis|editor2-last=Loewe|editor2-first=Michael|title=The Cambridge history of China|year=1978|publisher=Cambridge Univ. Press|location=Cambridge|isbn=0521214475|chapter=The State and Empire of Ch'in|volume=1}}
*{{citation| last =Clements | first =Jonathan | title =The First Emperor of China | publisher =Sutton Publishing | year =2006 | isbn =978-07509-3960-7 }}
*{{citation|last=Cotterell|first=Arthur|title=The first emperor of China: the greatest archeological find of our time|year=1981|publisher=Holt, Rinehart, and Winston|location=New York|isbn=0030598893}}
*{{citation|last1=Guisso|first1=R.W.L.|last2=Pagani|first2=Catherine |last3=Miller|first3=David|title=The first emperor of China|year=1989|publisher=Birch Lane Press|location=New York|isbn=1559720166}}
*{{citation|editor-last=Yu-ning|editor-first=Li|title=The First Emperor of China|year=1975|publisher=International Arts and Sciences Press|location=White Plains, N.Y.|isbn=0873320670}}
*{{citation| last =Portal | first =Jane | title =The First Emperor, China's Terracotta Army | publisher =British Museum Press | year =2007 | isbn =9781932543261 }}
*{{citation|last=Qian|first=Sima|title=Records of the Grand Historian: Qin dynasty|year=1961|publisher=Columbia Univ. Press|location=New York|others=Burton Watson, trans}}
* {{citation| last =Wood | first =Frances | title =The First Emperor of China | publisher =Profile | year =2007 | isbn =1846680328 }}
* {{citation| last =Yap | first =Joseph P| title = Wars With the Xiongnu, A Translation From Zizhi tongjian | publisher =AuthorHouse | year =2009 | isbn =978-1-4490-0604-4 }}


== 外部リンク ==
* [[焚書坑儒]]
*[http://www.chinawikipedia.com/chinahistory.html History of China]
* [[中国帝王一覧]]
*[http://heritage-key.com/china/whats-inside-qin-shi-huangs-tomb "What's Inside Qin Shi Huang's Tomb?"]
* [[秦氏]]-始皇帝の末裔を称した日本の氏族
*{{DNB-Portal|118819097}}
** [[羽田孜]]、[[羽田雄一郎]]


{{先代次代|[[秦]]の[[中国帝王一覧|王]]|前246年 - 前221年|[[荘襄王 (秦)|荘襄王]]|―}}
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[[Category:中国の皇帝]]
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2011年12月29日 (木) 12:56時点における版

始皇帝
初皇帝
王朝
在位期間 前247年五月丙午[1] - 前210年七月丙寅[2]
都城 咸陽
姓・諱 嬴政
生年 前259年正月1月?[注 1]
没年 前210年9月10日(7月 [2]
荘襄王
趙姫[3]
陵墓 始皇帝陵

始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年[4][5])は、中国戦国時代(在位紀元前246年 - 紀元前221年[6](えい)、(せい)。現代中国語では、始皇帝 (Shǐ Huángdì, シーフアンティ) または秦始皇 (Qín Shǐ Huáng, チンシーフアン) と称される。彼は紀元前221年に中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり[6]、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した[7]

中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。彼は中国の歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した[6]。始皇帝は巨大プロジェクトを実行し、初期の万里の長城や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設、国家単位での交通規則の制定などを、多くの人民が払う犠牲の上に行った。また、焚書坑儒を実行した事でも知られる[7]

「始皇帝」の名

始皇帝
Shǐ Huángdì
小篆体で書かれた「始皇帝」

意味

の時代及びその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った王政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は彼自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。これが時に「始皇帝」と略される[8]

  • 「始」は「最初(一番目)」の意味である[9]。始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」という称号を受ける[10]
  • 「皇帝」は、神話的な三皇五帝から二つの漢字を抜き取って作られた[11]。ここには、始皇帝が黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている[12]
  • さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた[13]
  • 元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を自ら創り出した[8]

『史記』における表記

司馬遷が著した『史記』には、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記が見られる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にて[1][14]や6章(「秦始皇本記」)冒頭や14節[15]、「秦始皇」は「秦始皇本記」章題で使われる[16][17]。秦王政は二つの文字「皇」と「帝」を合わせて新たに「皇帝」という言葉を造ったところから、「秦始皇帝」の方が正式だったと考えられる[18]

生誕と幼少期

人質の子

誕生時につけられた始皇帝のは「政」という。彼は秦ではなくの首都・邯鄲で生まれた。そのため「趙政」とも呼ばれた[19]。父は後に荘襄王となる秦の公子・「子楚」(別名:異人)。彼は休戦協定人質として趙に送られていたが[3]、祖父の昭襄王はしばしば約束を破って軍事攻撃を仕掛けていた。子楚の父・安国君(後の孝文王は昭襄王の次子で、子楚自身にも20人以上の兄弟がおり、しかも彼は腹であった。子楚は秦王を継ぐ可能性がほとんど無いどころか、いつ殺されても仕方が無い空手形に等しく、趙も彼を冷遇していた[20]

そんな彼に、の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。大金を投じて安国君の正室ながら子を産んでいなかった華陽夫人に工作活動を行い、また子楚へも交際費を出資し評判を高めた[7]。子楚は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、子楚は呂不韋の妾の趙姫[3]を気に入り譲り受けた。彼女は、昭襄王48年(前259年)の正月に男児を産んだ。正月にちなみ「政」と名づけられたこの赤子が、後に始皇帝となる[5][19][20]

血筋に対する議論

時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は子楚の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を子楚に与えた際、彼女は既に妊娠していたという[3][21][22]後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている[23]

始皇帝が非嫡子だという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている[9]。それは、呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点から臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという[24]。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲル両教授も、「これは作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた[25]

郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定した[22][2- 1]

  1. 『史記』の説は子楚と呂不韋について多く触れる『戦国策』にて一切触れられていない。
  2. 『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、国の春申君幽王が実は親子だという説明があり、これは呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、また小説的過ぎる。
  3. 『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姬」(邯鄲の歌姫[21])と「趙豪家女」(趙の富豪の娘[26])の異なる説明がある。また、政は「大期」(10ヵ月または12ヵ月)を経過して生まれたとあり[21]、事前に妊娠していたとすればおかしい。

陳舜臣は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦莊襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した[27]

死と隣り合わせの少年

政の祖父・安国君は亡くなった兄の代わりに太子となった。だが曽祖父の昭襄王は子楚らに一切配慮せず趙を攻め、紀元前253年にはついに邯鄲を包囲した。趙側は人質の子楚を処刑しようと捕らえたが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし彼には妻子を連れる暇など無かったため、政は母と置き去りにされた。趙はこの二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった[22]。陳舜臣は、敵地の真っ只中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している[27]

邯鄲のしぶとい篭城に秦は軍を引いた。そして前250年に昭襄王が没し、1年の喪を経て安国君が即位して孝文王となった。呂不韋の工作どおり子楚が太子となり、趙は国際信義上、10歳になった[28]政とその母を秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか3日後に亡くなり、紀元前249年に「奇貨」子楚が即位・荘襄王となった。呂不韋は丞相に任命された[22]

即位

若年王の誕生

荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした[22]。しかし前246年、荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ[29]。まだ若い彼を補佐するため、呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行し[9]仲父と呼ばれる程の権威を得て、多くの食客を養い『呂氏春秋』編纂なども行った[30]

呂不韋失脚

しかし呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは故・荘襄王の妻であり今や大后となった趙姫とまた関係を持っていた事である。発覚すれば身の破滅に繋がるが、大后がなかなか手放してくれない[31]。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男・嫪毐を見つけた[32]。顎鬚と眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた[31]。やがて大后は妊娠した。人目を避けるため旧都・雍(鳳翔県)に移った後、嫪毐と大后の間には二人の男児が生まれた[32][31]

この破廉恥は秦王政9年(前238年)、22歳の時に露見する。元服の歳を迎え、彼はしきたりに従い雍に入った[31]。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があった[33]と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという[27]。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう[32]。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が大后の印章を入手し軍隊を動かしたクーデターに失敗したとも言う[32]。結果的に嫪毐は一族そして大后との二人の子もろとも殺された[32][31]

事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の業績や弁護もあり、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった[31][28]。だが呂不韋の名声は依然高く、多くの客人が彼の元を訪れていた。秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った[31]

君何功於秦。秦封君河南,食十萬戶。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!

秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体どんな繋がりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。 — 史記「呂不韋列伝」14[34]

流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した[9][32]吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した[31]が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した[27]。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した[27]

秦王政の専制

李斯と韓非

秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された[35]。これに対し反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、「逐客令」が発布されれば彼も地位を失う位置にあった。しかし彼の論は的確だった。秦の発展は外国人が支え、穆公の大夫だった百里奚蹇叔らを登用し[35]孝公王族だった商鞅から[36]恵文王出身の張儀から[37]、昭襄王は魏の范雎から[38]それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた[35]。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた[39]

商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた[36]。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事が有れば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に[28]使者の命を受けた韓非は謁見したが、既に彼は故国に絶望し自らを覇権に必要と売り込んだ[40]。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略に嵌り死に追いやられた[39]。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と[41]、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく菅吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり[42]、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である[42]という箇所にも共感を得た[39]

韓・趙の滅亡

秦は強大な軍事力を誇り、先代・荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた[22]。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収して様々な工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった[39]

韓非が死んだ3年後の秦王政17年(前230年)、韓は陽翟が陥落して王が捕縛されて滅んだ[39]。次の標的になった趙には、王の臣・郭開への買収工作が既に完了していた。との連合も情報が漏れ、旱魃地震災害[43][44]につけこまれた秦の侵攻にも讒言で李牧司馬尚を解任させてしまい、簡単に敗れた。趙の王は捕らえられたが、公子は代郡(河北省)に逃れたが、王は捕虜となり国は秦に併合された[45]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った[45]

暗殺未遂と燕の滅亡

は弱小な国であった[46]。同国の太子・丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。この頃、彼に対する秦の扱いはかつての趙が政へ向けた態度同様に礼に欠いた[45]。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。有り得ない事に丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は彼の帰国を許したという[45]。実際は脱走したと思われる[47]丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった[45][48]

逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠石室。

両国の間にあった趙が滅ぶと秦は幾度となく燕を攻めたが、武力では太刀打ちできなかった[46]。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という人物に白羽の矢を立てた[7][46]。秦王政10年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくこう)の地図と秦の裏切り者・樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ[46][45]。地図の箱を手にした秦舞陽が差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子に威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た[46]。受け取った秦王政が開いた地図の巻物から現れた短刀を手に、荊軻は襲い掛かった。秦王政は身をかわしたが、護身用の剣を抜くのに手間取った[46]。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可無く殿上に登る事を秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出す他無かった。しかし従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り倒した。二人のいつわりの使者は処刑された[46][49]

秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた。暗殺未遂の翌年には首都・を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された[49]。その後の戦いも秦軍は圧倒し続け、遼東に逃れた燕王は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた[47][49]

魏・楚・斉の滅亡

次に秦の標的となった魏は、かつて五ヵ国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。それでも、黄河と梁溝を堰き止めて首都・大梁を水攻めされても3ヶ月は耐えたが、秦王政12年(前225年)に降伏し、魏も滅んだ[49]

そしてついに、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った[50]。秦王政は若い李信蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍は、しかし楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は老将軍・王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした[47][51]

最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相・后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ[52]。秦が戦国時代に幕を引いたのは秦王政17年(前221年)、彼は39歳になっていた[52]

始皇帝王朝

現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像

皇帝

中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」はの時代こそ天下にただ一人の称号だったが春秋・戦国時代を通じ諸国が成立してそれぞれの元首が名乗っていた。統一を成し遂げたからには「王」の上位に相当する号が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三帝のひとつ「秦皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」から「制」、布告を「令」から「詔」、自称を謙譲的な「寡人」から「朕」にすべしと答申した。秦王政は号のみ自ら変え、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した[8]

また秦王政は、王の行いを評して死後贈られるの制度を、臣下が君主をあげつらうものとして廃止した。そして自らを「始皇帝」とし、次代から「二世」「三世」と数える様に定めた。なお、この始皇帝は死後の称号として指示したもので、在位中は「皇帝」または「今皇帝」と呼称された[8]。以下、本文では「始皇帝」の表現を用いつつ、年号は秦王政xx年から始皇xx年と表記する。

五徳終始

始皇帝はまた五行思想(地、木、金、火、水)も取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を以って栄えたと考えられる。続く秦王朝は次の徳を持つとし、それは「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた[53]。五行の「水」は他に、方位の「」、季節の「」、数字の「6」でも象徴された[54][55]

政治

始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した[56]政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され[57]、代わって36のが置かれ、後にその数は40以上に増えた[44]。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた[58]。これは郡県制を中国全土に施行したものである[55]

統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く[57][59]と強行に主張した李斯の意見が採られた[55]。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された[60]。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった[58][61]。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった[58]

経済その他

始皇帝と李斯は、度量衡通貨荷車幅(車軌)、また位取り記数法[62]などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った[60][63]。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路運河などの広範な交通網を整備した[60]。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された[58][63]。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した[59]。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた[64]。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい[65]。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した[58][59]

度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている[66]

廿六年 皇帝尽并兼天下 諸侯黔首大安 立号為皇帝 乃詔丞相状綰 法度量則 不壱嫌疑者 皆明壱之
始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。
— 青銅詔版[67][66]

大土木工事

阿房宮図。清代の袁耀作。

咸陽と阿房宮

始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人英語版を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた[68]。咸陽城には滅ぼした国から鐘鼓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった[68]

始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ[68]巨大な宮殿であった[69]

名称「阿房」の由来には諸説あり、「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも[68]、四阿旁広の様子からつけられたとも[68]、始皇帝に最も寵愛された妾の名[70]とも言われる。

始皇帝陵

始皇帝は秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しい事ではないが、始皇帝となった彼の陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:北緯34度22分52.75秒 東経109度15分13.06秒 / 北緯34.3813194度 東経109.2536278度 / 34.3813194; 109.2536278)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された[71]

木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという[71][72]。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた[71]。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた[71]

1974年3月29日、井戸堀りの農民たちが兵馬俑を発見したことで始皇帝陵は世界的に知られるようになった[73]。ただし始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される[74]。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された[75]

秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。
現代に残る霊渠

万里の長城

中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できた訳ではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていた頃は匈奴東胡月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし中国統一頃には勢力を強めつつあった[69]。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた[69]。そして巨大な防衛壁建設に着手した[44][76]。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身に当たる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁を繋げたものであった[56][69][77]

霊渠

中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有靈渠」というものがある[78]。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し[79]、中国の南北を接続した[79]。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間を繋いだ[79]。この運河は中国の主要河川2本を繋ぐことで秦の南西進出を支えた[79]。これは、万里の長城・四川省都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる[79]

天下巡遊

中国を統一した翌年の紀元前220年から、始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)は[80]いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる[81]

しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にあるが各地を巡遊した故事[82]に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央にはの木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された[81]

始皇帝の天下巡遊路

順路は以下の通りである[81]

これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である[87]

封禅

第1回目の巡遊は主に東方を精力的に廻った。途中の秦山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ[88]、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる[89]。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え[90]、この儀式を遂行した[91]

しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり[89]、既に500年以上の空白があった。式次第は残されておらず[88]、始皇帝は儒者70名程に問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものは無かった[92][91]。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を遂行した[88][91]。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、近郊の梁父山で「禅」の儀式を終えた[91]

この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった[92]。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか[91]、我流の形式であったため後に正しい方法が判った時に有効性を否定されることを恐れたとも言われる[88]。吉川忠夫は、始皇帝は秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた[91]

神仙への傾倒

不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐福の船。

秦山で封禅の儀を行った後、始皇帝は山東半島を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた[93]。僊人とは仙人の事であり、始皇帝が神仙思想に染まりつつあった事を示し[94]、そこに取り入ったのが方士と呼ばれる者達であった[95]。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛茍合之徒」[96]と、怪しげで調子の良い(茍合)話を以って権力者に媚び諂う(阿諛 – ごまをする)者たちであった[91]

その代表格が、始皇帝が瑯邪で石碑(琅邪台刻石)を建立した後に謁見した徐市である。斉の出身である彼は、東の海に伝説の蓬莱山など仙人が棲む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人・安期正中国語版を伴って帰還する[97]ための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した[94][98]。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐市の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた[94]。言い逃れも限界に達した徐市も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくる事はなかった。伝説では、日本にたどり着き、そこに定住したともいう[95][99]

刻石

各地を巡ったし皇帝は、伝わるだけで7つの碑(始皇七刻石)を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った秦山そして琅邪、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。これらはいずれも現存せず、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれは無い[81]。碑文はいずれも小篆で書かれ、始皇帝の偉業を讃える[81]

逸話

始皇帝の巡遊にはいくつかの逸話がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、を探すため泗水に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある[100]。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが叶わなかった[87]。この件について北魏時代に酈道元が撰した『水経注』では、鼎を引き上げる綱をが噛み千切ったと伝える。後漢時代の武氏祠石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている[87]

『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かない事を条件に許可した。しかし臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという[94]

暗殺未遂

始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機に晒された[101]

高漸離の暗殺未遂

荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。彼は燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼を潰されることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、彼は復讐を志していた[102]。高漸離は筑に塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を撃ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された[101][103]。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした[101]

張良の暗殺未遂

第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120(約30kg[69])の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった[98]。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった[98]。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた[32][101][104]

咸陽での襲撃

始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた[101][105]

「真人」の希求

天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、既に自らを過去に存在しなかった偉大な人間だと考えていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている[106]。このように五帝や三王(禹王湯王文王または武王)を評し、遥かに広大な国土を法治主義で見事に治める始皇帝が彼らを遥かに凌駕すると述べている[87]。過去誰も達しなかった頂点を極めた始皇帝は、不可能な事など無いという考えに取り付かれ、ますます神仙への傾倒を深めた[91]。逐電した徐市[95]に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に廬生は様々な影響を与えた[107]

『録図書』と胡の討伐

廬生は徐市と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。彼は仙人こそ連れて来なかったが『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」[108]という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した[107]

万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵と言えば先ず匈奴が挙げられた。始皇帝は北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍がオルドス地方を占拠すると犯罪者をそこに移し44の県を新設した。さらに現在の包頭市にまで通じる軍事道路「直道」を整備した[107]

一方で南には嶺南へ圧迫を加え、そこへ逃亡農民や債務奴隷・商人らを中心に編成された軍団を派遣し[107]、現在の広東省ベトナムの一部も領土に加えた[44]。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた[107]

焚書

胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金になった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった[109]。始皇帝はこれを李斯の諮問へ掛けたが、元より郡県制を推進した彼が意見に利を認めるはずが無かった[110]。そして始皇帝自身も旧習を否定する思想に染まっていた。彼が信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣う事は、切り株の番をするようなものだ」と論じられている[111]。このような統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった[110]。始皇帝自身がこの思想に染まり、自らの治世を正しいものと考えていた事は、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる[112]

既に郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、体制の問題点が意識されていたか、または先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される[112]。しかし始皇帝の決定はきわめて反動的なものであった。『韓非子』「姦劫弒臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出しては喚き合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある[113]。始皇34年(前213年)、李斯はこのような妄言の根拠となる「古い本」すなわち占星学・農学・医学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を焼き捨てる建策を行い認められた[114]。特に『詩経』と『書経』の所有は、始皇帝の蔵書を除き[注 3]厳しく罰せられた[110]。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った[56]

坑儒

始皇帝は「後王思想」で言う批判を許さない君主の絶対的基準となった。ここにまたも方士らが取り入り、廬生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも[115]、「内篇・斉物論」でと言い切られた存在[116]を元にする超人を指した[99]。廬生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時には居場所を李斯に告げられたと疑い、周囲にいた宦者らすべてを処刑した事もあった[99]

しかし「阿諛茍合」の類である真人の来訪など決して無く、やがて粛清を恐れた廬生は方士仲間の侯生とともに始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。これを知り激怒した始皇帝は学者を疑い尋問にかけた。彼らは言い逃れに他者の誹謗を繰り返し、ついには約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し[117]、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる[99]。『史記』には、学者らを「諸生」[109]と表記しており様々な学派の人間が対象になったと考えられるが、この行為を唯一諌めた長子の扶蘇[118]の言「諸生皆誦法孔子」[109]から、儒家の比率が高かったものと考えられる[119]

讒言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた[99]。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが[109]、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。彼を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。しかし、いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった[69]

坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返る事ができるという究極の試験であった可能性を示唆する[56]

祖龍の死

不吉な暗示

『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した隕石に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻み付ける事件が起きた[120]。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された[121]上、隕石は焼き砕かれた[19]。空から降る隕石に文字を刻む事は、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた[101]

また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉壁を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖の事、それに山鬼の類に長い先の事など見通せまいと呟いた。しかし玉壁は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した[101][121]

最後の巡遊

末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊[122]は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)から天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした[123]。また、海神と闘う夢を見たためを携えて海に臨み、芝罘で大魚を仕留めた[123][124]

ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方に止まっている正統な後継者である[125]長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成し、信頼を置く宦官の趙高[126]に託した。7月、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省平郷[127])で亡くなった[2][123]。伝説によると、彼は宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという[75]

その後

隠された死

始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ[46]、秘したまま一行は咸陽へ向かった[46][128][129]崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった[2][123]。死臭を誤魔化すため大量の魚を積んだ車が伴走し[2][46]、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた[46]帰路において、趙高は胡亥に李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握り潰され、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた[125][126][130]。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄に繋がれた[130]

二世皇帝

始皇帝の死から2ヶ月後、咸陽に戻った20才の胡亥が即位し二世皇帝となり[46]、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢を掴んだ[131]。蒙恬や蒙毅を始め気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を嚆矢に各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った[131]。そして李斯さえ陥れて処刑させた[132]

しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には劉邦率いる軍に武関を破られた。ここに至り二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた[133]。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、彼によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された[133]。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥の事を指していた[133][134]

人物

『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用された[39]が、彼は一度暇乞いをした事があり、その理由を以下の様に語った[27]

秦王為人,蜂準,長目,摯鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。 — 史記「秦始皇本紀」4[135]

秦王政の風貌を、鼻は蜂準(高く尖っている)、眼は切れ長、胸は鳥膺(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)の様だと述べる。そして恩を感じる事などほとんど無く虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得ればまた他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後につきあうべきでないと断ずる[27][39]

将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れた後、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。この時、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った[52][47]

夫秦王怚而不信人。 — 史記「白起王翦列伝」11[51]

怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもつかない浅ましい人物を演じる事で、秦のほとんどと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて死を賜る命令が下りない様にしているのだと述べた。彼の頭には、白起が辿った末路という教訓があった[47][52]

方士の廬生と侯生が逃亡する前に始皇帝を誹謗した言が残っている。

始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。上樂以刑殺為威,天下畏罪持祿,莫敢盡忠。(中略)。天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此,(後略) — 史記「秦始皇本紀」41[136]

始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた[99]

評価

暴虐なる始皇帝

始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝であるの時代に形成された[137]。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する[138]。この時代には「無道秦」[139]や「暴秦」[140]等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した[141]。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった[142]。特に前漢武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した[142]。詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた[143]。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった[144]

代の詩人・李白は『国風』四十八[145]で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。

阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。北宋時代の『景徳傳燈録』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」[注 4]という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった[146]

封建制か郡県制か

始皇帝の評価に関わらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ[112]、以後2000年にわたって継続された[137]。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。代の柳宗元は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した[137]の末期からの初期にかけて活躍した王船山は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由はこれに道理があるためだと封建制主張者を批判した[137]

始皇帝と臣下らの現代彫刻。西安市

近代以降の評価

清末初の章炳麟は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、全ての人間は平等であったと説いた。そしてもし彼が長命か、もしくは扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した[137]

日本の桑原隲蔵は1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあった事、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であった事を述べ、始皇帝を弁護した[137]

馬非百は 歴史修正主義の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、蒋介石と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして国民新党による北伐と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。

文化大革命期には、始皇帝の再考察が行われた。当時は、儒家と法家の闘争という面から中国史を眺める風潮が強まった。中国共産党は儒教を反動的・反革命的なものと決め付けた立場から孔子を奴隷主貴族階級のイデオロギー批林批孔)とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた[137]

文字という側面から藤枝晃は、始皇帝は元来君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた[64]。また、秦代の記録が多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた[147]

文化への影響

エッセー・小説

  • アルゼンチン作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899年 - 1986年)は、1952年に『続審問』(Otras Inquisiciones)の中で「La muralla y los libros」(「壁と書」も意味)を書いた。これは始皇帝についてのエッセーであり、万里の長城建設と焚書に対して否定的な見解を述べている[148]
  • 1956年の『Lord of the East』は、始皇帝の娘を主人公とした歴史小説である。彼女は恋人と駆け落ちをするが、本作の中で始皇帝は若いカップルに立ちはだかる障害として描かれている[149]
  • カール・セーガン1985年の小説『コンタクト』では、文化大革命期の始皇帝陵発掘に関係した登場人物が、始皇帝の姿をした異星人の訪問を受ける[150]
  • 『始皇帝復活』『始皇帝逆襲』、蕪木統文の小説[151]

映画

TV番組

音楽

漫画

ゲーム

関連項目

参考文献

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  • 司馬遷. “封禪書” (漢文). 史記. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容. http://ctext.org/shiji/feng-chan-shu/zh 

脚注

注釈

  1. ^ 史記索隠』が引く『竹書紀年』よると、前漢武帝の治世以前の年始は10月と記述されている。
  2. ^ 参考文献「秦の始皇帝」p.166では、衡山の後は湘山祠、南郡、武關の順序となっているが、ここでは『史記』「始皇帝本紀」26にならう。
  3. ^ この蔵書は紀元前206年に項羽が咸陽宮に火をかけた事で消失した。Records of the Grand Historian, translated by Raymond Dawson in Sima Qian: The First Emperor. オックスフォード大学出版局, ed. 2007, pp. 74-75, 119, 148-9
  4. ^ 参考文献「秦の始皇帝」終章のタイトルやp.277表記では「轆」でなく「車へんに度」の文字が使われている。仮に「轆」を用いる根拠は雲門文偃 に基づく。

脚注

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    秦皇按寶劍 赫怒震威神秦皇しんこう寶劍ほうけんあんじ、赫怒かくど威神いしんふるう。)
    逐日巡海右 驅石駕滄津(日を逐って海右かいゆうを巡り、石を駆って滄津にす。)
    征卒空九寓 作橋傷萬人(卒を征して九寓空しく、橋を作って萬人傷つく。)
    但求蓬島藥 豈思農扈春ただ蓬島ほうとうの薬を求む、に農扈の春を思わんや。)
    力盡功不贍 千載為悲辛(力きて功ゆたかならず、千載せんざいため悲辛ひしんす。)

    — 李白『国風』四十八
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脚注2

ここでは、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。

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読書案内

  • 鶴間和幸『秦の始皇帝 伝説と史実のはざま』吉川弘文館、2001。ISBN 9784062097321 
  • 鶴間和幸『始皇帝の地下帝国』講談社学術文庫、2001。ISBN 406209732X 
  • 鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国 (中国の歴史 3)』講談社学術文庫、2004。ISBN 9784062740531 
  • 鎌田重雄『秦の始皇帝』河出書房新社、1962。 
  • Bodde, Derk (1978), “The State and Empire of Ch'in”, in Twitchett, Denis; Loewe, Michael, The Cambridge history of China, 1, Cambridge: Cambridge Univ. Press, ISBN 0521214475 
  • Clements, Jonathan (2006), The First Emperor of China, Sutton Publishing, ISBN 978-07509-3960-7 
  • Cotterell, Arthur (1981), The first emperor of China: the greatest archeological find of our time, New York: Holt, Rinehart, and Winston, ISBN 0030598893 
  • Guisso, R.W.L.; Pagani, Catherine; Miller, David (1989), The first emperor of China, New York: Birch Lane Press, ISBN 1559720166 
  • Yu-ning, Li, ed. (1975), The First Emperor of China, White Plains, N.Y.: International Arts and Sciences Press, ISBN 0873320670 
  • Portal, Jane (2007), The First Emperor, China's Terracotta Army, British Museum Press, ISBN 9781932543261 
  • Qian, Sima (1961), Records of the Grand Historian: Qin dynasty, Burton Watson, trans, New York: Columbia Univ. Press 
  • Wood, Frances (2007), The First Emperor of China, Profile, ISBN 1846680328 
  • Yap, Joseph P (2009), Wars With the Xiongnu, A Translation From Zizhi tongjian, AuthorHouse, ISBN 978-1-4490-0604-4 

外部リンク


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荘襄王
前246年 - 前221年
次代


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