百里奚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

百里 奚(ひゃくり けい)は、中国春秋時代宰相五羖大夫(ごこたいふ)または百里傒とも呼ばれる[2]孟明視中国語版の父。事績は『史記』及び『孟子』などの諸子の書に散見される。

放浪の旅[編集]

百里奚はの出身と言われているが、1世代前の時代にの国に百里という名の大夫がいたことが『春秋左氏伝』に記されており、そこから百里奚の出身地は許との説もある。[要出典]

その後、百里奚はへと向かうが、入国した後に飢えで倒れたところを斉の人の蹇叔中国語版に助けられる。そこで世話になった百里奚は、当時の斉公(桓公の兄の襄公か、従兄弟の公孫無知のいずれか)に仕官しようとするが、蹇叔に止められる。後に斉公は臣下に弑されたことから、百里奚は危機を上手く回避できたことになる。

次に百里奚は、周王朝の王子頽中国語版恵王の叔父)に仕えようとするが、ここでも蹇叔に止められる。王子頽は紀元前675年に恵王を追い、一時的に王位に就くが、2年後の紀元前673年に敗死したため、ここでも百里奚は危機を回避できたのである。

その次に百里奚は、王室に連なる姫姓文王の伯父・虞仲(雍)の系統)へと仕官しようとするが、ここでまた蹇叔に止められる。しかし百里奚は彼の諌めを聞かずに虞の大夫として仕官し、それ以降蹇叔とは音信不通になってしまう。

虞の大夫時代[編集]

紀元前655年冬に、献公が虞侯にと名馬を贈り、虞の親戚に当たる(開祖は武王の異母弟の霍叔処)と(開祖は文王の弟の虢仲)を討伐する時にその街道を通過してよいかと虞侯に要求した。これに対し百里奚は、賢臣として名高い宮之奇中国語版と共に虞侯を諌めたが、虞侯は両人の耳を貸さずに、献公の要求に快く応じてしまう。

果たして献公は虢と霍を壊滅したその帰途に突如、虞を襲撃してこれを滅ぼして、虞侯を初めとして百里奚らを捕虜として、下僕とした(いわゆる仮道伐虢の故事)。まさに蹇叔が懸念した通りの事態に陥ってしまったのである。

下僕として秦に[編集]

百里奚はこれを嫌って国外へと逃亡し[4]、楚で捕虜となった。穆公の家臣に見つけ出され、穆公は楚の里人に「私の家臣の百里奚を引き渡してもらいたい」と依頼し、メヒツジの皮5枚(五羖)を謝礼として里人に与えた。こうして百里奚は秦に連れ戻された。これに由来して百里奚は五羖大夫と号するようになった[5]

秦の宰相に[編集]

穆公は連れ戻された百里奚と国事について三日三晩語り合い、彼に国政をあずけることを決めた。百里奚は「わたしは亡国の家臣に過ぎません。宰相はご辞退したい」と言ったが、穆公は「虞が滅んだのはあなたの罪ではない、あなたの意見を取り上げない愚かな虞侯の責任だ」として、百里奚を宰相とした[5]。ときに百里奚70余歳。

百里奚は徹底した徳政を行い、周辺諸国を慰撫する政策をとった。これにより周辺の10カ国が秦に服属することを申し出で、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、国力を大いに増大させた。このことは、始皇帝の代に秦が中国を統一する基盤となった。[要出典]

また清廉潔白で、冬でも外套を着ず、国内を巡察するときは衛兵に武器を持たせなかったという。[要出典]更に百里奚は、彼がかつて世話になった親友の蹇叔の登用を穆公に薦め、それを受けて穆公は蹇叔を秦へと招聘し、上大夫とした[5]

穆公三十二年、秦の穆公が鄭国から内通する者の連絡を受け、百里奚の息子の孟明視を大将として出陣させた。しかし、百里奚・蹇叔は遠征に反対し、「遠征して勝てたためしがない」と泣いて止めたが、穆公は出撃させ、敗北した[5]

百里奚が宰相になったとき、すでに90歳を越えていたものと思われ、死んだときは100歳近かっただろうといわれる。死因は定かでないが、『史記蒙恬伝に「蒙毅曰く『昔、わが秦の穆公は、三良(3人の立派な臣)を殺し(殉死させ)、百里奚を処罰されましたが、罪を犯したわけではありませんでした。それゆえ号(諡号)を繆(穆と同じ:誤ると同義)と申し上げるのです』」とあり、処刑された可能性を記している。穆公は過ちを認識し、それ故に子の孟明視を重用したとも考えられる。百里奚が没すると秦の男女はみな涙を流し、子供たちも歌声をあげなかったとされている。[要出典]

子の孟明視や親友の蹇叔も百里奚の死後、宰相となって穆公をよく補佐した。孟明視は敗北を許され、後に晋を攻めて大勝した。『新唐書』宰相世系五下によれば、のちの秦の武安君白起は百里奚の子孫であり、更に白起の子孫からは唐の詩人白居易が出ているという。

百里奚を題材にした小説[編集]

  • 宮城谷昌光「買われた宰相」『侠骨記』所収、講談社、1991年。ISBN 4-06-205200-8

脚注[編集]

  1. ^ 『武英殿本二十四史』史記秦本紀の該当箇所
  2. ^ 百里傒という表記は武英殿版の『史記』秦本紀に見られる[1]
  3. ^ 小竹訳 1962, p. 37.
  4. ^ 東洋史学者の小竹文夫は、百里奚が虞君の無能を悟り、虞国から既に逃亡していた可能性を示唆している[3]
  5. ^ a b c d 小竹訳 1962.

参考文献[編集]

関連項目[編集]