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蒙恬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蒙 恬(もう てん、? - 紀元前210年)は、中国戦国時代末期のから秦朝にかけての将軍政治家蒙驁の孫。蒙武の子。蒙毅の兄。匈奴討伐、防衛・建設事業などに功績を挙げ、弟とともに始皇帝に重用されたが、趙高たちの陰謀によって自殺させられた。

生涯

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蒙氏は蒙驁の代により秦へ移り住んだ。若年期には獄法(刑法)を学び、獄官として勤め、文書や典籍の管理に従事した[1]

秦の天下統一

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始皇22年(紀元前225年)、秦王政は20万の軍を率いての攻略を李信と蒙恬に命じた。秦軍は軍を2つに分け、蒙恬は寝[注 1]を攻めて大勝する。しかし、城父で李信と合流したところを楚軍に攻撃され、最終的に秦軍は潰走した。大敗の翌年、秦王政は王翦と蒙恬の父である蒙武に60万の大軍を与えて再び楚を攻めさせ、紀元前223年に楚を滅ぼすに至った(楚の滅亡[1][2]

始皇26年(紀元前221年)、家柄を背景に秦の将軍となった[1][注 2]王賁・李信と共にを攻めて滅ぼし(斉の滅亡[1][2]、これにより六国を滅亡させた秦は天下統一を果たした[3]。蒙恬はその功績により内史(国都咸陽及び京畿を管轄する官職)に任じられた[1]

匈奴征伐

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天下統一後、蒙恬は10余年間にわたって上郡を拠点として辺境軍を統率し、その威は匈奴を震撼させた[1]。また、時期は不明ながら始皇帝の命を受けて西戎を討伐し、不服従のの諸族を南方へ移住させた[4]

始皇32年(紀元前215年)、方士の盧生が『録図書』という預言書を始皇帝に献上し、その書にある「亡秦者胡也(秦を滅ぼす者はなり)」 という文言を重く見た始皇帝は周辺の異民族の征伐に乗り出した。蒙恬は30万の軍を率いて北方の匈奴を討伐し、河南地[注 3](現在の内モンゴル自治区オルドス高原及び寧夏回族自治区北部一帯)を奪取した[1][3]。敗れた頭曼単于は北に移動し、蒙恬が存命の間は中原へ侵入することはできなかったという[5]

始皇33年(紀元前214年)、北西に出征して匈奴を斥逐すると、榆中から陰山山脈までに44を設置して九原郡とした。黄河を天然の防塞として利用し、河沿いに要塞を築いて防衛線を構築し、罪人を移住させて守備兵とした。さらに蒙恬は北上して黄河を渡り、高闕・陽山(ともに山名、陰山山脈の一部)と北假(現在の河套地域北部)を占領し、亭障(哨戒・防衛施設)を築いて戎人を駆逐した後、当地に罪人を中心に移住させて新設の郡県として充実させた[3][5]

大事業

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同年、秦は北狄の南下を阻止するため、後世に万里の長城と知られる大長城の建設に着手した[注 4]。蒙恬は秦・の北境の長城の修築を主管し、地形を利用して西は臨洮から東は遼東に至るまで連結させ、全長は万里(約4,000km)以上にも達した[1][3]。築造には常に数十万人を露営させて酷使したため、従事中の死者は膨大な数に上り、民は疲弊しきって十家のうち五家が反乱を望むほどであったとされる。また、始皇帝が同時期に進行させていた嶺南の征服事業も合わさって民に多大な負担が圧し掛かり、道端の木で首を吊って自殺する者が後を絶たず、野晒しの遺体が数百kmに渡って散乱していたという[6][7]紀元前213年には不正を行った獄吏たちが処罰され、建設の労働力として連行された[3]

始皇35年(紀元前212年)、始皇帝は天下巡遊を目的として、雍州の甘泉宮に繋がる雲陽から北方前線の九原郡にまで通じる道路(直道)の建設を蒙恬に命じた。山を切り開き、谷を埋め立て、整備した道路の距離は千八百里(約750km)に及んだが、蒙恬の存命中には完成しなかったとされる[1][3]

同年、盧生と侯生が始皇帝の人格と為政を批判して逃亡した。始皇帝は激怒し、咸陽の方士や儒者など諸生を全て取り調べさせ、結果、法を犯したと判断された460人余りが坑殺された(坑儒)。これに始皇帝の長子の扶蘇が諫言したところ、始皇帝は怒り、扶蘇を北方に送って上郡の蒙恬を監督するよう命じた[1][3]

度重なる功績により、始皇帝の蒙氏への信任と寵愛は大変なものとなっていた。蒙恬が外を担う一方で、弟の蒙毅は内にあって始皇帝の最側近として補佐した。蒙氏兄弟は忠信と名高く、他の将軍・大臣は誰一人として彼らと争おうともしなかった[1]

始皇帝崩御

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始皇37年(紀元前210年)、始皇帝が崩御した。始皇帝はいよいよ死が差し迫った時に、扶蘇に宛てて「兵を蒙恬に帰属させ、咸陽で葬儀を執り行え」とする璽書を遺し、中車府令の趙高に管理させていた。これは始皇帝が扶蘇を後継に指名したと捉えられるものであり、趙高の言によると蒙恬もまた最高位の官である丞相に任命されると目されていた。そこで趙高は現丞相の李斯と共謀して、末子の胡亥太子に立つよう説得し、自らの地位を護ろうと画策した。胡亥が応じると、趙高らは始皇帝の遺詔を偽造し、扶蘇と蒙恬に自殺するよう命じた(賜死[1][3][8]。以下、書状文の抜粋である[8]

今扶蘇與將軍蒙恬將師數十萬以屯邊,十有餘年矣,不能進而前,士卒多秏,無尺寸之功,乃反數上書直言誹謗我所爲,以不得罷歸爲太子,日夜怨望。扶蘇爲人子不孝,其賜劍以自裁!將軍恬與扶蘇居外,不匡正,宜知其謀。爲人臣不忠,其賜死,以兵屬裨將王離。
扶蘇は蒙恬将軍と共に数十万の軍を率いて辺境に駐屯し、十余年になるが、前進することもできず、士卒を大いに消耗させ、僅かな功績も挙げていないにもかかわらず、たびたび上書して直言し私の行ったことを誹謗し、太子として帰ることができないことを、日夜怨み続けている。扶蘇は人の子として不孝であり、その剣を賜り自裁せよ。蒙恬は扶蘇と共に外にありながら、事態を正さず、その意図を把握していた。人臣として不忠であり、その死を賜り、兵は副将の王離に帰属させよ。 — 『史記』李斯列伝

使者が到着すると、扶蘇は涙を流して即座に自殺しようとしたが、蒙恬は「陛下が私に辺境を守らせ、公子(扶蘇)に監督させたのは天下の大任であるからです。たった一人の使者が来ただけで、これが偽りでないとどうして分かりましょうか。再び請うてその後に死んでも遅くはありません」と制止した。しかし使者が数度催促すると、扶蘇は「父が子に死を賜るのにどうして再請などできようか」と言って自ら命を絶った。蒙恬は従わなかったため、拘束されて陽周の監獄に繋がれた。胡亥は扶蘇の死を聞くとすぐに蒙恬を釈放しようとしたが、趙高は蒙氏が再び重用されることを恐れ、また過去に蒙毅に処刑されかけたことを恨んでいたため、「先帝は賢者(胡亥)を太子に立てようと望んでおられましたが、蒙毅が反対していました。これは主君を惑わせていたことに他なりません」と胡亥に讒言し、蒙毅もまたの監獄に繋がれた[1][8]

最期

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胡亥が二世皇帝として即位すると、蒙氏は趙高により日夜毀害され、罪過を探して弾劾された。公子の子嬰は胡亥を諌めたが聞き入れられることはなく、蒙毅は胡亥が送った御史の曲宮という使者によって殺害された[1][注 5]

胡亥は蒙恬のもとにも使者を遣わし、「弟の蒙毅には大罪があり、その罪は内史(蒙恬)にまで及ぶ」として死罪を言い渡した。蒙恬は使者に対し、「私は囚われの身とはいえ、未だ30万の兵を擁する将軍であり、反逆するに事足りる。しかし必ず死ぬと知りながらも義を守るのは、先祖の教えを辱めず、先帝への恩を忘れないゆえである。事態がこうなってしまったのは、奸臣の謀反によるものであり、これは内部から皇帝を侵す手法である。過ちは正すことができ、諫言はそれを悟らせることができる。全体の状況を見極めることが聖王の統治の法である。私のこの言葉は罪を免れようとするためではなく、諫めてから死ぬためである。願わくば陛下には万民のために道理に従うことを心掛けていただきたい」と胡亥に伝えてくれるよう頼んだが、使者は「私は詔を受けて将軍に法を執行するのみである」と返した[1]

蒙恬は「私は天に何の罪があって、過ちもないのに死なねばならないのか」と嘆息してしばらく沈黙した後、「私の罪は確かに死に値する。臨洮から遼東に至るまで万里にわたって城塹を築いた。地脈を断たないことがあり得ようか。これこそ私の罪である」と述べると毒をあおって自殺した[1]

その後、蒙氏の子孫を名乗る人物は史書に現れず、二世皇帝の代に蒙氏は族滅されたことが確認できる[2]

評価

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司馬遷は『史記』蒙恬列伝において、「蒙恬が秦のために築いた長城や直道を見たが、まことに民の労力を顧みないものであった。秦が諸侯を滅ぼしたとき、天下の人心はまだ安定せず、戦乱で傷ついた者たちはまだ癒えていなかった。そのような時に蒙恬は名将でありながら、始皇帝を諫めようともせず、人々の苦しみを救い、老人や孤児の面倒を見て、民衆との融和を図ることにも努めず、かえって君主の意に迎合して功績を立てた。この兄弟が誅殺されるのも当然ではないか。どうして地脈を断ったことを罪とするのか」と厳しく批判した[1]

『史記』李斯列伝において、趙高の「君侯(李斯)ご自身の能力は蒙恬と比べてどうか?功績の大きさは?遠大な謀略と誤りのなさは?天下に怨みを持たれぬことについては?長子(扶蘇)の信頼は?」という問いに、李斯は「五ついずれにおいても私は蒙恬に及ばない」と答えたと記述されている[8]

逸話

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筆の発明者

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蒙恬が獣(主に兎)の毛を集めて作り、始皇帝に献上したのがの始まりとされていた。しかし1954年戦国時代の遺跡から筆(「長沙筆」[9])が発見されたのでこの説は覆された。後漢代の許慎の『説文解字』には「秦はこれを筆と謂い、楚は聿と謂い、は不律と謂い、燕は弗と謂う」と記され[10]、「聿」の字は殷代甲骨文字に現れており、筆は秦代以前から存在していたと考えられる。現在では蒙恬は筆の発明者ではなく、筆の改良者とされている[11]

蒙求』には、「蒙恬製筆,蔡倫創紙(蒙恬は筆をつくり、蔡倫は紙をつくった)」の句がある。

箏の発明者

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代の応劭の著書『風俗通義』には「ある人は蒙恬がを造ったのだと言う」という疑問形の記述がある[12]。つまり、「古箏は五弦だったが、蒙恬が十二弦に改良し、竹から木製に変えた」ということだが、しかし、特定の楽器が史書に現れる時点で既に一定の流布を経ているはずであり、おそらく編者の意で楽器の創造を蒙恬の功績に帰したと考えられる。あるいは実際に蒙恬が箏をのように改作した可能性もある。

脚注

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注釈

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  1. ^ 史記集解』には「寝丘」の事を指すとあり、具体的な位置について河南省沈丘県固始県の境界付近、安徽省阜陽市臨泉県の二説がある。
  2. ^ この記録により、先の20万の軍による楚攻めの指揮を執ったのは蒙恬ではなく父の蒙武とする言説がある。
  3. ^ 同じく黄河の南を由来とする中原の河南とは異なる。
  4. ^ この時代の万里の長城は版築を用いた土塁であり、高さも騎馬が乗り越えられない程度のものであったと考えられ、現存するレンガ仕立ての城壁に大規模改修されたのはの代である。
  5. ^ 『史記』蒙恬列伝による。同書、李斯列伝では蒙毅は蒙恬の死後に趙高によって処刑されたと記されている。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『史記』蒙恬列伝”. ja.wikisource.org. 2025年9月10日閲覧。
  2. ^ a b c 『史記』白起王翦列伝”. ja.wikisource.org. 2025年9月10日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 『史記』秦始皇本紀”. ja.wikisource.org. 2025年9月10日閲覧。
  4. ^ 『後漢書』西羌伝” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年9月8日閲覧。
  5. ^ a b 『史記』匈奴列伝”. ja.wikisource.org. 2025年9月10日閲覧。
  6. ^ 『史記』平津侯主父列伝”. ja.wikisource.org. 2025年11月9日閲覧。
  7. ^ 『史記』淮南衡山列伝”. ja.wikisource.org. 2025年9月10日閲覧。
  8. ^ a b c d 『史記』李斯列伝”. ja.wikisource.org. 2025年9月10日閲覧。
  9. ^ 長沙筆”. コトバンク 世界大百科事典 . 平凡社. 2023年3月7日閲覧。
  10. ^ 說文解字/03 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年9月12日閲覧。 “楚謂之聿,吳謂之不律,燕謂之弗。从𦘒一聲。凡聿之屬皆从聿。筆:秦謂之筆。”
  11. ^ ・崔豹『古今注』より。田淵実夫『筆』法政大学出版局、1978年、4-5頁。ISBN 978-4588203015 
  12. ^ 風俗通義/6 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年9月12日閲覧。 “「箏,五弦筑身也。」今並、涼二州箏形如瑟,不知誰所改作也。或日秦蒙恬所造。”

参考文献

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