信陵君

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

信陵君(しんりょうくん、? - 紀元前244年)は、東周戦国時代公子であり、政治家軍人。三代昭王の末子。無忌戦国四君の一人。大国によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、兄王に疑われて憂死した。前漢魏無知の父と伝わる[1]

兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて自分の手元においており、その数は三千人を超えた。

略歴[編集]

魏の公子と食客[編集]

ある時、安釐王と囲碁双六との説もある)を打っていた所、との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。その通り、信陵君は宴席を設けたが侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をしていた理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。

趙への援軍[編集]

紀元前258年長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都邯鄲を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して、晋鄙を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。信陵君の姉は平原君の妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の食客数百名を率いて自ら救援に行こうとした。

この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した。侯嬴は信陵君に手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきだと説いた。国軍を動かすために、王の手元から軍に命令を下すための割符を魏王の寵愛する姫に盗ませ[2]、将軍の晋鄙がこれを疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪うようを説いた。

信陵君は国境の城に出向き、割符を見せ、軍を率いていた晋鄙将軍に交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言ったため、やむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なお、これに前後して侯嬴は信陵君がいる方向へ、自らの命を手向けとするべく自刎した。

信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え、親子で従軍している兵は親を、兄弟で従軍している兵は兄を帰し、また一人っ子の兵も孝行させるために帰した。そうして残った兵を率いて戦った。秦軍を退けることはできたものの、勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として信陵君を歓待し、5城を献上しようとした。最初は信陵君もそれに応じようとしたが、食客に諭され以後固辞した。

趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて信陵君を馬鹿にした。信陵君は、毛公と薛公には以前から話をしたかっただけであるが、平原君は外面だけを気にすると考え、平原君との付き合いを止め国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達の半数が、身分に関係なく才を処遇する信陵君下に集まったと言う。

帰国[編集]

紀元前248年、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとしなかったが、毛公と薛公に諌められて魏へ帰国する。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五ヶ国の軍をまとめて秦の蒙驁蒙恬の祖父)を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが伺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。

失脚[編集]

函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、紀元前244年に過度の飲酒のために死去した。

死後[編集]

その後、秦からの侵攻を防ぎ得ずに次々と城を失った魏は、紀元前225年に滅亡する。

なお、信陵君が抱えた食客の中には、のちにの功臣の一人である張耳も含まれていた。

また前漢の初代皇帝である劉邦からも尊敬されており、大梁を通るたびに信陵君の祭祀を行った劉邦は、信陵君の墓守として5家にその役目を与えた。

脚注[編集]

  1. ^ 新唐書』巻七十二中、宰相世系表中、魏氏より。
  2. ^ かつて、魏王の寵愛する姫の父が殺されたときに、魏王を始めとした廻りの人に敵討ちを頼むものの、誰も相手にしなかった。しかし信陵君は頼まれるや、自らの客を使って犯人を見つけ出し仇を討ったため、この姫は信陵君に恩義を覚えている。

参考文献[編集]

  • 史記』巻77魏公子列伝