長平の戦い

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長平の戦い
Battle of Changping.png
戦争:戦国時代(中国)
年月日:紀元前260年7月
場所:長平(現在の山西省高平市
結果:秦の勝利
交戦勢力
指導者・指揮官
上将軍 白起
次将軍 王齕
総大将 趙括
前任者 廉頗
戦力
前期 ??万
後期 50万
兵力 45万
損害
戦死 25万
坑死 20万

長平の戦い(ちょうへいのたたかい)(中国語:長平之戰、Chángpíng zhī zhàn)は、中国の戦国時代にあたる紀元前260年7月の長平(現在の山西省高平市)においての間で行われた戦い。規模的には戦国時代最大の戦いに位置付けられる事もある。

秦の勝利に終わり、捕虜となった趙兵20万人が生き埋めにされた。ただしこの人数は誇張されているとの見方もある。この戦いの結果、趙は大きく国力を衰退させ、秦の優勢は動かし難いものとなった。また、秦の将軍・白起は20万を坑死させた捕虜処遇が遠因となって三年後に自決に追い込まれた。

秦と趙の開戦[編集]

は、紀元前360年頃から始まった商鞅の政冶改革とその後の巴蜀併合によって大幅に国力を増し、戦国七雄の中でも圧倒的な強盛を誇るようになっていた。紀元前306年に即位した昭襄王の時代になると、叔父の宰相魏冄と名将白起の活躍で更に勢力を拡大した。宰相が范雎に交代すると遠交近攻の外交政策の下でを繰り返し攻めて領土を奪っていた。

紀元前265年、秦軍は韓の野王(現在の河南省沁陽市)を占領した。その北に位置する韓の上党郡は国土が分断されて孤立する形となり、上党の郡守はこの地を北で国境を接する趙へ献上して趙軍の救援を仰ごうとした。趙の孝成王は上党郡受領の是非について弟の平陽君と叔父の平原君に意見を求めた。平陽君は「強大な秦の侵攻を招くだけです。」と反対し、平原君は「一滴の血も流さず一粒の金も捨てずに数十里四方が得られるのにどうして迷うのか。」と賛成した。孝成王は熟慮の末に平原君の意見を採用し、兵を送って上党郡を接収した。

紀元前262年、趙の横槍に憤った秦の昭襄王王齕を将軍とした遠征軍を上党郡に進ませた。上党の領民達は趙国内に入った長平の城邑に逃げ込み、王齕はこれを追ってそのまま趙に攻め入った。趙の孝成王は老将・廉頗に軍勢を与えて長平に入城させ、食糧を運び込み城壁を補強して防衛体制を整えさせた。

廉頗の迎撃[編集]

紀元前262年、長平に到着した秦軍と趙軍の間で三度の戦いが行われ、趙軍は兵は多かったが三度とも敗れた。秦軍の精強さを見た廉頗はこれ以上の正面戦闘を避けて、長平の城塞を活かした持久戦に持ち込む事にし、遠征中の弱点を抱える秦軍の疲労を待つ事にした。長平城に篭って守りに徹する趙軍の前に王齕は攻めあぐねて戦いは長期化し、二年の歳月が過ぎた頃には廉頗の狙い通り、秦軍には長期滞陣の疲れが見え始めていた。

この事態に焦った秦の昭襄王は将軍・白起を召し出して打開策を尋ねると、白起は「老練な廉頗は難しいですが、若年の趙括なら手があります。」と答えた。これを受けた宰相・范雎は旅人や行商人を装った多数の間者を各地に送り込み「秦軍は廉頗を侮っており、趙括が将になる事を恐れている。」という噂を流して趙全土に広まるよう仕向けた。

この話を聞きつけた趙の孝成王は、多勢にも関わらず前線の戦果の少なさを不満に思っていた事もあり、老将・廉頗を解任して若き将軍・趙括を総大将に任命した。趙括は名将と称えられた趙奢の子で、幼い頃から兵法に精通した天才として知られていたが、実際に戦場に出た事はほとんど無かった。重臣の藺相如は趙括の経験の乏しさを理由に交代を思い止まるよう孝成王を諌めたが聞き入られなかった。生前の趙奢は、我が子趙括が兵法書を丸暗記してるだけで机上の空論を弄んでる事を見抜いており「括に大任が下されたら辞退するように。」と趙括の母である妻に言い残していた。その為、趙括の母は孝成王に謁見を求めると我が子の総大将任命を取り下げてくれるよう嘆願した。孝成王は「我が子の栄達を喜ばぬ母がおろうか。」と驚くも結局取り下げなかったので、趙括の母は「では括が敗れても一族に罪が及ばないようお願いします。」と重ねて懇願し、孝成王はこれを承諾した。

秦の昭襄王范雎は長平城に篭る趙軍の総大将が趙括に代わった事を知ると、密かに白起を秦軍陣地に派遣して総大将に任じ、王齕を彼の副将とした。この紀元前260年夏の時点で長平に集結した趙軍は総勢45万を数え、秦軍はそれより少なく半数程度であったとも考えられている。

趙括の出陣[編集]

紀元前260年7月、長平城に着任して廉頗から指揮権を引き継いだ趙括は、自軍優勢な彼我の兵力差を確認すると、兵法書の理論に則って攻勢に出るべきと判断し、廉頗の篭城作戦を支持する武将達を更迭した。これを見越していた白起は秦軍本隊を長平城に向けて前進させ、また別働隊2万5千を迂回させて長平城の側面に伏せさせた。更に出撃した本隊と秦軍本陣をつなぐ経路の両脇に騎兵隊5千を伏兵として配置した。

秦軍の出現を見た趙括は全軍に総攻撃を命じて長平城から討って出た。白起は少し交戦すると兵士達に後退を命じて後方の本陣に逃げ込んだ。勢い付いた趙括は秦兵を追いかけ一気に敵陣を攻め落とそうとしたが、あらかじめ防備を固めていた秦軍の頑強な抵抗に遭って苦戦した。また急速な追撃で伸びきった隊列の側面に秦の騎兵隊が突入して後続の各隊を分断した為に趙軍は大混乱に陥った。その間に守りの薄くなった長平城に秦の別働隊が攻め込みこれを占拠したので、趙括は本陣とそこに蓄えていた食糧全てを失う事になった。

長平城を失った趙括は軍勢を集結させ、今いる戦場に急ごしらえの陣地を築かせる事にした。趙軍は窮地に陥ったがその兵力は未だ膨大であったので、白起は攻撃を控えてそのまま包囲網を敷き、同時に本国に対して追加の兵力派遣を求めた。趙の軍事力を消滅させる好機と判断した秦の昭襄王は国内の男子を総動員して白起の下へ送り、およそ50万人の秦兵が集結した。更に昭襄王自身も長平の前線まで赴いて将兵を励ました。白起は趙括の陣地に続くあらゆる街道に兵力を配置して固く封鎖し、救援に来た趙軍を次々と撃退した。趙括も繰り返し出撃して囲みを破ろうとしたが、判で押したように兵法書通りに動いたので尽く手を読まれて失敗に終わった。

こうして完全に包囲された趙軍には46日間も食糧が届かず、窮乏した兵士達は互いに殺し合ってその肉を食らい飢えを凌ぐ有様だった。焦った趙括はわずかに残った健常な手勢を率いて秦軍への突撃を敢行したが、全身に矢を受けてあえなく戦死した。総大将である趙括の死により、辛うじて生き延びていた20万の趙兵は降伏した。

坑死二十万[編集]

勝利を収めた白起は同時に20万の捕虜を抱える事になったが、秦軍にこれだけの人数を養える食糧の余裕はなく、かと言って捕虜を解放すれば趙軍の兵力回復につながる事は目に見えていた。余勢を駆って趙の首都邯鄲にまで攻め込み一気に戦争の決着を付けるつもりでいた白起は、趙兵そのものを抹殺する恐ろしい決断を下す事になった。捕虜全員を並ばせて深い溝を掘るよう命じ、ある程度掘り進んだ所で上から一斉に土砂をかけてそのまま生き埋めにした。飢えて衰弱していた捕虜達は這い上がる事すら出来ず、こうして20万を数える趙兵が一夜にしてこの世から消滅した。ただし240名の少年兵は助命されて本国への帰還を許された。

1995年5月に行われた長平古戦場の発掘調査では大量の人骨が出土しており、大規模な戦いが行われたという史実を裏付けるものとされている。「永禄第一尸骨坑」からのレポートによると、調査を終えた第一坑からはおよそ130名分の人骨が発見されている。他にも18個の骨坑が特定されており、それぞれの調査が続けられていた[1]。なお、人骨からは戦闘による損傷と思われるものが少なからず散見された為、より大多数が生き埋めになったという史実上の確証は得られていない。

その後[編集]

秦の宰相・范雎は、趙を攻略した際の白起の功績が自分の地位を脅かしかねないと危ぶむようになり、趙と一時和議を結ぶよう巧みに昭襄王を説いて秦軍の進撃を中止させた。この不本意な休戦は趙の早期攻略を阻み、その為に生き埋めにした趙兵達を含む多大な犠牲をも無駄にする決定だったので、激怒した白起は病気と称して以後の出仕を拒むようになった。

翌年になると昭襄王は再び趙への侵攻軍を興し、王齕を将軍とした秦軍は趙の首都邯鄲を包囲した。しかし恨みに燃える趙軍の激しい抵抗に遭って城攻めは難航した。また趙兵20万を生き埋めにした白起の悪評が引き金となり、趙の救援に向かった魏や楚など諸国の将兵までもが白起討つべしと目の色を変えて抗戦してきたので、苦戦を強いられた秦軍は敗退を重ねる事になった。業を煮やした昭襄王は繰り返し白起に出仕を求めて軍の指揮を取るよう要請したが、白起は病を理由に拒み続けて自宅から出ようとしなかった。やがて昭襄王は、命令を拒むだけでなく自らの悪評によって秦軍を苦戦に追い込んでる白起を憎むようになり、自決用の剣を送り付けた。

白起は昭襄王からの剣を黙って受け取ると、趙兵20万を生き埋めにした後悔の念を語り、これは天が自分に下した裁きであろうと答え、そのまま自刎した。

「私は死ぬべきなのだ。私は20万もの人々を生き埋めにした。私は天に対して罪を犯したのだ。」

脚注[編集]