南林寺 (鹿児島市)

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南林寺
山号 松原山
宗旨 曹洞宗
寺格 福昌寺末寺
本尊 釈迦如来
創建年 弘治3年(1557年)
開山 得翁俊可和尚
(追崇)心厳良信
開基 島津貴久
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南林寺(なんりんじ)は鹿児島県鹿児島市南林寺町にかつて存在した曹洞宗寺院で、山号は「松原山(しょうげんさん)」であった。

沿革[編集]

松原神社

弘治3年(1557年)、島津氏15代当主であった島津貴久によって福昌寺の末寺として建立、貴久死後はその菩提寺となる。宝暦6年(1756年)10月の「松平又三郎家中分限帳」での寺社高400石。寺内に末寺の源舜庵などが併設されていた。

明治2年(1869年)の廃仏毀釈により廃寺となり、跡地に島津貴久を祭神とする松原神社が建立された。境内は明治時代には遊興の地としてにぎわっていたという。

残った墓地の方はそのまま市民墓地として供用されたが、大正8年(1919年鹿児島市の市街地拡大により撤去され[1]、ほとんどの墓石は鹿児島市営の草牟田墓地、郡元墓地、露重墓地、興国寺墓地へ移転させられた。南林寺墓地には約13万5千基の墓があったが、墓地廃止後に無縁墳墓3500余が残った。このうち著名人の墓を「南林寺由緒墓」として残している。墓地廃止に伴い鹿児島市は無縁墳墓台帳を作成し庁内に保管し閲覧に供していたが、現在この台帳は廃棄したとしている。

南林寺由緒墓[編集]

南洲寺の隣りに、南林寺墓地にあった名士の墓をまとめたものである。幕末の藩士や剣術家の墓が多い。なお1列目は南洲寺及び月照の墓から一番遠く、4列目は南洲寺及び月照の墓に近い側にある。[2]

1列目

2列目

  • 阪本清彦
  • 雨的
  • 宮下文蟻
  • 阿曽美久永 戊辰戦争戦死者
  • 橋口与助 戊辰戦争戦死者
  • 岩下半之助 戊辰戦争戦死者
  • 森山新五左衛門永治
尊王攘夷派の志士、森山永賀の息子。寺田屋事件で藩主の使者に抵抗したとして死罪となり切腹。
島津斉彬の側役である名越彦太夫高房の次男[4]薩摩藩江戸藩邸留守居役。慶応3年12月25日 (旧暦)江戸幕府の命により庄内藩が藩邸を襲撃し戦死。
戒名「風松堂清山涼心居士」、薩摩藩郡奉行。西郷隆盛の上司であり、不作時でも年貢取り立てを手加減しないようにするとした酷薄な藩の政策と対立して辞職した。
  • 山本正誼
藩士・造士館初代教授、『島津国史』編者。近思録崩れに巻き込まれ、その一部始終を「文化朋党実録」として残す。
  • 宮原清右衛門正行
  • 東郷実羔
  • 猪谷徳蔵
  • 東郷実行、藩士・日置流弓術師範[3]
  • 東郷重張、藩士・日置流弓術師範[3]。実行先祖。
  • 平田翠屏、藩士・は宗高。[3]
  • 坂本廉四郎清東 剣術家

3列目

  • 美玉三平 生野の変平野国臣と挙兵したが失敗し戦死。
  • 後醍院真柱 国学者・吉備津神社宮司
  • 入佐助八 戊辰戦争戦死者
  • 二階堂右八郎 戊辰戦争戦死者
  • 伊地知愛四郎 戊辰戦争戦死者
  • 森山新蔵平永賀
幕末の西郷隆盛派の藩士。島津久光と対立し山川港の船中に軟禁される。その後寺田屋事件で息子が死んだことを知り、自刃。

4列目

  • 加藤清風 藩士・天真流[3]
  • 松恵丸慰霊墓
  • 加賀武兵衛
  • 志賀親
  • 薬丸半左衛門 藩士・剣術家、薬丸自顕流師範。大山綱良らの師匠。
  • 山之内次郎 戊辰戦争戦死者
  • 東郷愛之進實古 薩摩藩英国留学生の一人で、戊辰戦争で戦死。
  • 指宿五左衛門平永健
示現流剣士。八月十八日の政変後、七卿落ちで福岡にいた五卿を京都へ送る警護の途中、大坂で襲撃され奮戦の末、戦死。

備考[編集]

  1. ^ 南林寺墓地の整理 p.367 鹿児島市史 鹿児島市編 大正13年(1924年)6月16日発行
  2. ^ 太原久雄「南林寺に蔵む」参照
  3. ^ a b c d e f g h i j k 大正13年、鹿児島市発行の「南林寺由緒墓志」参照
  4. ^ 敬天愛人別刷『戊辰・西南戦争と名越彦太夫』参照

参照文献[編集]