薬丸兼義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

薬丸 兼義(やくまる かねよし、文化2年12月25日1806年2月13日) - 明治11年(1878年12月1日)は薩摩藩剣術師範。薬丸兼武の長子。幼名は、壱之助。通称ははじめ長左衛門、次いで半左衛門兼包兼義。当時の一般的な呼称は薬丸半左衛門であり、史料中には主にこの名で登場する。薬丸流(薬丸自顕流)の師範として弟の薬丸新蔵とともに剣名が高く、下級武士を中心に多くの弟子を育てた。弟子の中から維新の元勲が数多く出たため、「明治維新は薬丸流がたたきあげた」と言われた。

家格は小番[1]であり、明治3年(1870年)4月の「人別改帳」では3番組8番小番であったことが分かる。 また、代官就任時の役料から石高は50石以下。奄美大島徳之島の役人や代官[2]を勤める。

経歴 (月日は旧暦)[編集]

  • 文化12年(1815年)8月21日、初お目見え。
  • 天保6年(1835年)12月28日、同年7月14日に父兼武が屋久島で死去したため、家督相続。
  • 天保7年(1836年)8月15日、通称を長左衛門に改名する。
  • 天保9年(1838年)6月21日、通称を半左衛門に改名する。
  • 天保14年(1843年)、大島蔵方目付となり、奄美大島に赴任[3]
  • 弘化元年(1844年)、任期満了につき帰臥。
  • 嘉永4年(1851年)春、深見休八有安[4]の後任として徳之島蔵方目付となり、徳之島に赴任[5]
  • 同年4月16日、徳之島の亀津に着く。
  • 嘉永6年(1853年)春、任期満了につき帰臥。
  • 嘉永7年(1854年)1月22日、年功者ではなかったが、特別に代官に就任し、役料銀5枚30目を支給される[6]
  • 文久元年、藩主島津茂久の命により二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となる。当時、幕末の情勢により、武術を稽古する者が増え、演武館では手狭となったので、鹿児島城二ノ丸にも稽古所が置かれた。[7]
  • 同年6月、剣術師範となったことにより、切米5石を与えられる[8]
  • 文久2年(1862年)に島津久光が上洛。その際、什長としてこれに従う。
  • 元治元年に薬丸自顕流が二之丸稽古所での稽古から撤収する[9]
  • 明治11年(1878年)に死去。法名あるいは神号は南林寺由緒墓にある現在の墓石には記載されていない。

人物[編集]

父の兼武の代に薬丸自顕流は異端として排斥されていたが、兼義もまた剣名が高いことや示現流師範家の東郷家と和解したこともあり、天保年間の薩摩藩の軍制改革に際し剣術師範として取り立てられた。

復権したものの、薬丸家は兼武の代の没落によってかなり貧しくなっており[10]、兼義兄弟はかぼちゃばかり食べて暮らしていたため、「かぼちゃ薬丸どん」と呼ばれていた。

兼義は、城下士の下級武士を中心に数多くの弟子を育てた。その弟子の中から幕末維新に活躍する人物が数多く出ることになる。(弟子の名前は薬丸自顕流を参照)

島津久光が上洛した際には什長としてこれに従ったとき、配下から突出するものがないように気を配ったが、結果として寺田屋事件がおき、弟子達が同士討ちすることとなった。しかし、この寺田屋事件で薬丸流の名が高まり、入門者が増えることとなった。例えば、加治木郷では、それまで真影流(直心影流)が主流であったが、これにより薬丸流が広まることとなった。

維新後は官途に就かず就農した。

西南戦争でさらに弟子の多くを失い、戦後ほどなくして失意のうちに病死した。長子の兼文が流派を継いだ。墓は現在、南林寺由緒墓にあり、南州寺および月照の墓に近い列にある。

宅地[編集]

『鹿児島城下絵図散歩』によると、天保13年(1842年)の頃、現在の鹿児島市加治屋町の地に「薬丸半左衛門 759」とある。また、安政5年(1858年)の段階でも加治屋町に居住していたことがわかる。なお、文政4年(1821年)の『鹿児島城下明細図』の方には、父の「薬丸長左衛門」の名がどこにもなく、かわりに加治屋町には親族と思われるが続柄不詳の「薬丸半兵衛」が住んでおり、天保13年(1842年)の頃まで「薬丸半兵衛」が住んでいたことがわかる。なお、兼義の宅地のあった場所は現在、鹿児島市立病院本館が建っている。

また、兼義の宅地の近くにあった小道は「薬丸殿小路」と呼ばれた。

家族[編集]

    • 生家不明。1817年~1870年以降(明治3年4月の「人別改帳」によると当時54歳)
  • 子女(2男1女)
    • 兼文(壱之助、生没年は1850年(嘉永3年)5月13日~1914年(大正3年)6月24日)
    • 娘。1855年~1870年以降(明治3年4月の「人別改帳」では当時16歳)
    • 猪之丞1857年~1870年以降(明治3年4月時点で14歳)

参考文献[編集]

  • 『鹿児島市史III』
  • 松下志郎『奄美資料集成』南方新社
  • 『鹿児島県資料集1 薩藩政要録』
  • 塩満郁夫、友野春久 編『鹿児島城下絵図散歩』高城書房、2004年12月1日初版
  • 宮下満郎「池上四郎伝補説」(「敬天愛人」第20号別刷、西郷南州顕彰会、平成14年9月24日)
  • 村山輝志『示現流兵法』島津書房

脚注[編集]

  1. ^ 薬丸自顕流が下級武士を中心に行われたため薬丸家も下級武士だと書かれることが多い。しかしながら、薬丸家の家格は代々小番であるので、厳密に言うと家格の上では中級家臣でも上の方であった
  2. ^ 薩摩藩では地頭とは別に代官という職がある。地頭は家老や側用人などの藩の重役が兼務するのに対し、代官は藩内の席次が西郷吉兵衛の勘定方小頭より5つ下で、中級の職であった。
  3. ^ 『奄美資料集成』参照
  4. ^ この人物は真影流(直心影流)剣術師範であり、嘉永7年に江戸で死去したと『薩陽過去帳』にある。養子の深見休八有正は兼義同様に二之丸稽古所の師範15人のうちの一人となり、西南戦争に薩軍として参加。
  5. ^ 『奄美資料集成』参照
  6. ^ 『薩藩政要録』によると、この役料は持高50石以下の者がもらうことがしるされている。また、代々小番は10人扶持相当の家格であるが、代官職は5人扶持級の役職であった。但し、当時は代々小番でも5人扶持級の役職に就けない者もいた。
  7. ^ 「池上四郎伝補説」参照
  8. ^ 『示現流兵法』参照。
  9. ^ 「池上四郎伝補説」参照
  10. ^ 大久保利世西郷吉二郎の項にあるように、流刑者のでた家の家族は全員失職する。なお、一番重い終身流刑地の沖永良部島遠島の場合は、知行や財産まで没収される。〈山田尚二著「西郷吉二郎の、土持政照あて書間」(「敬天愛人」別刷)参照〉