北アイルランド問題

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北アイルランド紛争
戦争:北アイルランド紛争
年月日1960年代 - 1998年
場所北アイルランドアイルランド共和国及びグレートブリテン島
結果ベルファスト合意
交戦勢力
イギリスの旗 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国


アイルランドの旗 アイルランド共和国

アイルランド共和派 アルスター忠誠派

北アイルランド問題(きたアイルランドもんだい)は、北アイルランドにおける紛争問題の総称である。長年におけるイギリスの最大の政治問題と言われている。イギリスやアイルランドではこの紛争を指して、「厄介事」(英語: The Troubles, アイルランド語: Na Trioblóidí)という婉曲的な表現が用いられる。

なお、アイルランドの統一を支持する者は、「北アイルランド」の呼称を嫌い、「6州 (6 Counties)」と呼ぶ場合が多い。統一支持者によればアイルランド全土は32であり、そのうち6州が「北アイルランド」とされている。

概要[ソースを編集]

19世紀以降、アイルランドの民族運動が高揚するにつれ、 イギリスではアイルランド人に自治権を付与しようとする意見があらわれてきた。しかしアイルランド独立運動が高まる中、17世紀にアイルランドに移住したイングランド系・スコットランド系入植者の子孫であるプロテスタント系住民は、カトリック系住民が多数をしめる新国家で少数派となることを恐れ、独立に反対する傾向が強かった。この傾向は32州のうち、プロテスタント住民が多数派を占める北部のアルスター地方にある6州でもっとも強かった。

1916年ジェームズ・コノリーが指導するイースター蜂起が起き、アイルランド全島が単一の独立共和国と宣言された。しかしこれは、イギリス軍に鎮圧された。

3年後の1919年アイルランド独立戦争が勃発した。1920年、イギリス政府はアイルランド統治法を制定し、北部6州はアイルランド議会で定める法の適用を受けないことを定め、アイルランドを北アイルランドと南アイルランドの2つに分割し、独自の議会を認め、それぞれの自治権を認めた。

1922年12月6日、英愛条約に基づいてアイルランド全島がアイルランド自由国としてイギリス自治領となった。しかしその翌日、北アイルランド政府はアイルランド自由国からの離脱を決定し、イギリスへの再編入を希望することをイギリス政府に公式に通告した。これにより、北アイルランドは独自の議会と政府を持つ、イギリスの構成国の1つとなった。一方、北アイルランド離脱後のアイルランド自由国は、1937年に自治領から独立の共和国へ移行し、1949年にはイギリス連邦も離脱した。

独立戦争を戦ったアイルランド共和軍 (IRA) の一部はアイルランド国防軍に加わったが、一部は英愛条約に反対し、非正規軍としてアイルランド内戦で国防軍と戦った。

「プロテスタント国家」[ソースを編集]

1921年から1971年にかけて、北アイルランドは東ベルファストに基盤を置くアルスター統一党政府により統治された。創設者のジェームズ・クレイグは、北アイルランドを「プロテスタントによるプロテスタント国家」であると述べている。

1920年代以降、IRAは時折、北アイルランド政府やその警察組織である王立アルスター警察隊英語版(RUC)に対し、断続的にテロ行為を行うようになった。

北アイルランド紛争[ソースを編集]

ベルファストを軍用多目的車でパトロールするイギリス軍、1981年

カトリック教徒が北アイルランドで被っていた就職や住居、そして政治上の差別は、多数派に有利な選挙システムにより成り立っていた。1960年代アメリカ合衆国における公民権運動の活発化により、北アイルランドでも差別撤廃への関心が強まった。カトリックによるデモが右派ユニオニストの影響下にある王立アルスター警察隊 (RUC) により暴力を用いて鎮圧されたため、社会不安が増加した。また、カトリック住民とプロテスタント住民との衝突も活発化した。

1966年、IRAに対抗するため、プロテスタント系の非合法の民兵組織アルスター義勇軍 (UVF) が組織され、カトリック住民に対するテロ行為を開始した。

1969年、北アイルランド各地でカトリック住民と現地警察との間に大規模な暴動が繰り返し発生した。騒乱を鎮めるため、8月14日にイギリス軍部隊が北アイルランドに派遣され、現地の警察に代わり町の警備につくことになった。現地警察に不信感を抱くカトリック住民は当初、イギリス軍を歓迎し、兵士たちにサンドイッチや紅茶などをふるまう姿が見られたが、軍と住民との間の友好関係は長続きしなかった。

1969年12月に行われたIRAの特別軍事会議は、アイルランド共和国の議会(ウラクタス)への参加の是非と北アイルランド問題への対応を巡って激しく対立した。マルクス主義の影響を受けていた主流派はオフィシャルIRAを組織して穏健主義を掲げたが、北アイルランドのカトリック・コミュニティを実力で守ることを選んだメンバーによってIRA暫定派が結成されることになった。 行動方針は1969年以前のIRAのものをほぼ採用した。それによると、北アイルランドのイギリス統治はもちろんのこと、アイルランド共和国 (Republic of Ireland) をも非合法であるとしており、上に挙げた暫定政府の正規軍であると認められていたIRA軍事協議会こそが統一アイルランド (Irish Republic) の正統政府であるとされている。このような正閏論的な主張は1986年に撤回されたが、IRA暫定派の政治組織であるシン・フェインは現在[いつ?]イギリス下院に議席を持ちながらも登院を拒み続けている。

紛争は、血の日曜日事件血の金曜日事件が発生した1970年代前半に頂点を迎えた。北アイルランド政府に解決能力がないと見たイギリス政府は1972年、ストーモント議会(北アイルランド議会)を廃止し、北アイルランドはイギリス本国政府の直轄統治下に入れられた。北アイルランドではRUCとイギリス軍、カトリック系のIRA暫定派IRAアイルランド国民解放軍英語版、プロテスタント系のアルスター防衛同盟アルスター義勇軍などが互いに攻撃・テロを繰りかえし、これらの事件による死者は3,000名に及んだ。テロは北アイルランドのみならず、イギリス本土、アイルランド共和国にも伝播していった。イングランドでの死者数は125名に及び、また西ドイツオランダジブラルタルなどヨーロッパ大陸でも、イギリス軍兵士を標的にするテロ行為や、IRAに対するイギリス軍特殊部隊の作戦などで18名の死者が出た。代表的な例として、1988年ジブラルタルにおける、IRA暫定派のメアリード・ファレルら3人が待ち伏せしていたイギリス軍の特殊空挺部隊に銃撃され、全員が死亡した事件などが挙げられる。

直接統治[ソースを編集]

ベルファストの家屋。1981年にハンガーストライキの末衰弱死したIRA暫定派のボビー・サンズを称える絵。

1972年から27年間、北アイルランドはイギリス政府に設けられた北アイルランド大臣英語版による直接統治下に置かれた。この統治に要する主要な法律は、通常の手続きに従いイギリス下院で可決・成立したが、多くの微細な取り決めは議会の審議を受けることなく枢密院令によって発布された。イギリス政府は地方分権を指向していたが、北アイルランド憲法法英語版サニングデール協定英語版、および1975年憲法制定会議英語版などによる北アイルランド問題解決の試みは、全て世論の支持を得られず失敗に終わった。

1970年代、イギリス政府は「アルスター化」の方針のもと、IRA暫定派に対する対決姿勢を維持した。IRA暫定派との対立の最前線にはRUCおよびイギリス軍予備役であるアルスター防衛連隊英語版 (UDR) があたった。政府の強硬姿勢により、IRAによるテロは減少したが、長期的にはどちらの勝利も望めないことは明らかであった。IRAのテロ活動に反対するカトリックも存在したが、差別措置を撤廃しない北アイルランド政府に対して彼らが好意的になることはなかった。1980年代になると、IRAはリビアから大量の武器を調達して攻勢に出ようと試みた。IRAに浸透していたMI5の諜報活動によりこの計画が失敗すると、IRAはその目標を準軍事的なものから政治的な方向へシフトするようになる。IRAの"停戦"はこの動きの一部であった。1986年にはイギリスとアイルランド政府がアングロ・アイリッシュ協定を調印し、政治的な解決を模索した。長期にわたる紛争により、北アイルランドは高い失業率に苦しめられ、1970年代から1980年代にかけて行われたイギリス政府のてこ入れによる公共サービスの近代化も、遅々として進まなかった。1990年代に入ると、イギリス・アイルランド両国の経済が好転し、紛争も沈静化する傾向が見えてきた。時代と共に、北アイルランドではカトリックの人口が増加しつつあり、全人口の40%以上を占めるようにまでなっている。イギリス政府は、「北アイルランドの帰属は住民の民主的決定に従う」としている。

地方分権による北アイルランド問題の解決[ソースを編集]

1996年になると交渉が再開し、1998年4月10日ベルファスト合意 (聖金曜日協定、グッドフライデー合意とも)により、北アイルランド議会や、アイルランド共和国と北アイルランド議会の代表で構成される南北評議会が設立され、ユニオニストとナショナリストの双方が北アイルランド政府に参加することとなった。しかし、ユニオニストの民主統一党、ナショナリストのシン・フェイン党の両党の党首と北アイルランド議会は、総選挙の延期を決定した。現在は各テロ組織の武装解除、北アイルランドの政治体制の変革、イギリス軍基地の撤退問題などが注目されているが、それまでの和平を担ってきた穏健派のアルスター統一党(ユニオニスト)と社会民主労働党(ナショナリスト)両党よりも、急進的な民主統一党とシン・フェイン党の党勢が拡大しており、予断を許さない状況にある。

2011年以降も、散発的な暴力事件が継続している[1] [2][3]。2013年にはベルファストの市庁舎でのイギリス国旗掲揚を中止することが議会で決定され、それに反対したユニオニスト側が議員の自宅や警官の車に放火するなど暴動事件を起こした。

なお、ナショナリストは大抵アイルランド系にしてカトリックであり、ユニオニストはスコットランド系にしてプロテスタントである傾向が強いのは事実だが、この図式は常に“正”ではない。また、北アイルランドでも無宗教の層が増え、北アイルランド問題を「宗教問題」とするのは誤りである。

影響[ソースを編集]

この問題による宗教的差別が原因で、北アイルランドの経済はサービス業を中心に打撃を受けた。

脚注[ソースを編集]

  1. ^ The troubles were over, but the killing continued. Some of the heirs to Ireland's violent traditions refused to give up their inheritance." Holland, Jack: Hope against History: The Course of Conflict in Northern Ireland. Henry Holt & Company, 1999, page 221. ISBN 0805060871
  2. ^ Draft List of Deaths Related to the Conflict. 2002-”. 2008年7月31日閲覧。
  3. ^ Elliot, page 188

関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]