闇市

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闇市(やみいち)とは、何らかの物価統制する体制下で物資が不足した状況における、統制に外れ非合法に設けられた独自の市場経済原理で取引を行う市場。ブラックマーケット。「ヤミ市」と表記する場合もある。

日本の闇市

太平洋戦争前

日本では1923年大正12年)の関東大震災後、東京近郊露天市が成立している。また1939年価格等統制令昭和14年勅令第703号)が発せられ、産業資材生活物資が公定価格に一本化され物価が商工省下の価格形成委員会(中央・地方)により決定されるようになると、配給の不足を補うための闇市が形成されるようになった。

戦後の闇市

新橋にあった闇市。闇市を仕切っていた関東松田組の名前が見える。
闇物資を没収する警察官とMP。

一般的に日本の「闇市」として有名なものは、第二次世界大戦太平洋戦争後の連合国軍占領下の日本混乱期に成立した商業形態で、いわゆる不良在日外国人引揚者、罹災者、愚連隊らが戦災による焼跡などを不法占拠してバラック建てのを構えていたものを指す。朝鮮人はもともと内地においては寄留扱いであったため、戦中配給制度において隣組に参加することができず闇市場をすでに形成しており、この事が戦後の闇市で彼らが幅を利かせる一つの要因となった。

終戦直後の日本では、兵役からの復員外地からの引揚げなどで都市人口が増加したが、政府統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度が麻痺状態に陥り形骸化していた。都市部居住する人々が欲する食糧や物資は圧倒的に不足していた。

まず駅前などに空襲による焼跡や建物疎開による空地不法占拠された[1]工場や作業場などにまだ残っていた製品を持ち出すなど、家々からは中古日用品農家から野菜穀物イモなどの食糧など、各人がてんでに持ち込んだ品を扱う市場が成立した。次第にそれらの個人店は寄り集まり、小規模な商店街のような様相を呈するようになった。

大阪警察部長の証言では、不法占拠した外国人(第三国人)は主に朝鮮人で、彼らは地主に立ち退きを要求されると法外な金額を請求し、なかにはこれを繰り返して財をなしたものもあった[1]

不法占拠の出店は的屋(テキヤ)などの組織が地割を仕切るようになり、ゴザよしず張りなどでお互いの境界を仕切り、地面に品物を並べる店や、台上に品物を並べる店のほか、移動式の屋台なども存在するようになった。やがて焼け残った廃材などでバラック建ての店が建設された。

闇市では法外に高い価格で物品や食糧が取引きされた。庶民はどうしても必要なものはそこで手に入れるしかなく、品物は飛ぶように売れた。一般にこの時期の青空闇市は、警察のヤミ物資の取り締まりを見れば人々は急いで店じまいをして退散し、検挙を逃れることが多かった(実際にあったかは不明であるが、闇市を舞台とする映画小説では巡回当番や取り締まりの巡査賄賂として食料を渡して逃れる販売者のシーンが度々ある)。警察による闇市への取締に抗議する集団が警察と衝突する事件(渋谷事件長崎警察署襲撃事件など)がたびたび起きた。

文化的には、満州朝鮮半島台湾などの人々や、入植者が日本に引揚げたことでそれらの国の食文化も闇市を通じて広まった。

また、裁判官山口良忠闇米を拒否し、食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調餓死した。

闇市は土地の不法占拠にあたるため、1947年(昭和22年)に閉鎖と撤去が指導されたが、警察は当面、闇市を事実上黙認していた。戦後の統制の撤廃により需要が低下し、1949年(昭和24年)にGHQから闇市の撤廃命令が出されると青空闇市は規制され、やがて消滅した。なお1960年(昭和35年)に創設された刑法不動産侵奪罪は、これら土地の不法占拠に対し土地所有者の自力救済の限界という側面から誕生したともいわれている。

なおこの種の市場は終戦直後は「闇市」と蔑称で呼ばれたが、その後国民生活に必要であるとの認識から「ヤミ市」と表現されるようになった。

検閲

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はプレスコードなどを発して闇市の現状を報道禁止・検閲を実行し、闇市に関する事柄についても対象に加え言論を統制した。

主な闇市

闇市は日本各地の都市部に同時期に発生し、東京では新宿東口から新宿通りに成立していた箇所が知られる。現在では闇市の多くは商店街や繁華街となっており、かつての面影はない。

一部の地域の裏通りにかつての闇市を思わせる一角が残っていることがあり、例えば、新宿西口の思い出横丁歌舞伎町新宿ゴールデン街中野中野サンモール上野アメヤ横丁下北沢の駅前食品市場、吉祥寺ハモニカ横丁大阪鶴橋商店街[1]、大阪の五階百貨店、神戸の元町高架通商店街などが知られている。

北海道帯広市に存在していた闇市としては新興マーケット満蒙マーケット(のちに合法化され、→満蒙第1相互会館→ハトヤ百貨店)、電信通マーケットなどがある。

かつては、秋葉原、新橋、池袋溝口船橋、関西では梅田阿倍野・天王寺駅[1]三宮など、鉄道駅を中心に大規模な闇市があった。

関連する作品

映画
漫画
DVD
  • 『映像で綴る昭和の流行歌』(米軍の記録したカラー映像が使われている。)[2]

博物館

豊島区立郷土資料館や、江戸東京博物館の常設展示に闇市のコーナーがある。

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Graffiti, 2008

海外のブラックマーケット

ソ連崩壊後のロシアでも闇市・ブラックマーケットは興隆した。ロシア財政危機も参照。

北朝鮮にはチャンマダンという市場がある。

脚注

  1. ^ a b c d 水内 俊雄「スラムの形成とクリアランスからみた大阪市の戦前・戦後立命館大学人文科学研究所紀要 (83), 23-69, 2004-02-00
  2. ^ a b c d e 橋本健二『居酒屋の戦後史』2015年12月2日。ISBN 4396114508 

参考文献

外部リンク

関連項目