早稲田大学ラグビー蹴球部

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早稲田大学ラグビー蹴球部
原語表記 早稲田大学ラグビー蹴球部
クラブカラー えんじ
愛称 ワセダ
創設年 1918年
代表 島田陽一
監督 山下大悟
所属リーグ 関東大学ラグビー対抗戦グループ
ファースト
ジャージ
公式サイト
http://www.wasedarugby.com/
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早稲田大学上井草グラウンド
試合前に校歌斉唱をする早稲田大学の選手たち(2013年9月・筑波大学戦・秩父宮ラグビー場

早稲田大学ラグビー蹴球部(わせだだいがくラグビーしゅうきゅうぶ、Waseda University Rugby Football Club)は、関東大学ラグビー対抗戦グループに所属する早稲田大学ラグビー部。愛称ワセダ。略称早大(そうだい)。一大学の部でありながら、日本国内で随一の人気がある。[1]日本代表に幾多の選手を送り、かつ代表の戦術理論に多大な影響を及ぼしてきた。全国大学タイトル24回(東西対抗9回・大学選手権15回)と全国タイトル28回(大学タイトル24回・日本選手権4回)は、全国大学最多記録である。全国クラブラグビーフットボール大会で、全国クラブ最多10回の優勝をしている神奈川タマリバクラブは、2000年にOBが中心となって発足したクラブチームである。またOBらが所属しているワセダクラブM.F./G.B関東社会人リーグ1部に所属している。(2016年現在)

概要と歴史

  • 1918年11月7日、創部。慶應京都三高同志社に次ぐ日本で4番目のラグビーチームであった。創部当時の名称は「早稲田大学蹴球部」。部訓-緊張・創造・継承-
  • 1927年オーストラリア遠征が行われる。当時オーストラリアでは2-3-2システムのセヴンフォワードを軸とする展開戦法が行われていた。この遠征によりフォワードのカバープレー(スクラムブレイク後のフォワード-フランカー・NO.8-のオープンプレーへの参加)を学び、その後早稲田ラグビーを語る上で、しばしば用いられる「ゆさぶり戦法」を編み出すこととなる。まさしく部の方向性に大きな影響を与えた遠征であった。1927年から1932年の間に「ゆさぶり」戦法完成。この遠征で敵のウォークライに対抗して「佐渡おけさ」を踊り、敵地では好評だった。同年、慶應から初勝利。
  • 柯子彰川越藤一郎等バックスに名プレーヤーを配し、早稲田バックス理論の集大成とも言うべき川越理論により黄金期を迎える。この頃世界に先駆けシャローディフェンス完成。この戦前の川越理論は戦後の大西理論と比肩すべき傑出したもので、事実大西自身に多大な影響を与えた。(川越藤一郎は、かの有名なニュージーランド遠征で名をはせる大西ジャパンにブレーンとして参画する。)特に川越キャプテン率いる昭和12年度のチームはシーズン無敗を誇り、部史によれば史上最盛期と述べられている。いわゆる史上最強組である。後年大西鐡之祐は昭和10年前後の早稲田のラグビーを部史上最もレベルの高かった時期と述べている。
  • ラグビーが敵性スポーツと見なされたことから弾圧を受けたが地下壕にボールや用具を隠し、戦後の復興に備えた。1950年、大西監督は野上・川越・柯子彰の協力の下、エイトとゆさぶりの研究に着手-この年をもってエイトFWにおける早稲田式シャローデイフェンスがほぼ確立される。同年3・3・2フォワードとホイール作戦により2連覇達成。戦後1950年代に黄金時代を築き、この頃から「荒ぶる」が歌われる。50年代末から60年代に入り低迷。大西鐡之祐監督が復帰し低迷にピリオドを打つ。有名なサインプレー「カンペイ」はこの第二期大西監督時代の1962年に生まれた。
  • 1969年1977年には、関東大学対抗戦で60連勝(2分を含む)・対社会人を含めた公式戦36連勝を達成。同時期に大学選手権13年連続決勝進出・2連覇3回、日本選手権優勝3回を記録、史上最大の黄金期を迎えた。
  • 強力フォワードを擁した「縦の明治」に対して、軽量フォワード・バックス中心の展開ラグビーは「横の早稲田」と言われた。自陣ゴール前で見せる厳しく粘り強いディフェンスは「ゴール前3m の奇跡」と言われる早稲田のお家芸である。必殺のタックルで相手プレイヤーを倒し、一気に攻守を逆転する様は「アタックル」(アタックとタックルの掛け合わせの造語)と呼ばれ、これも早稲田のお家芸とされる。
  • 1981年早明戦の連敗を阻止すべく大西監督3度目の登場。北島監督をして史上最強と言わしめた明治スクラムに対抗すべくローバーシステムを採用する。また津布久をSOに配置(結局、津布久の負傷によりこの構想は頓挫する)。ダブルライン導入。(なおダブルラインの理論そのものはすでに昭和47年の著書「ラグビー」で紹介されている。)絶対不利と目された早明戦に勝利。対抗戦優勝時に「荒ぶる」を歌う。
  • 1987年、早明戦[2] に勝利し、さらに大学選手権の決勝で同志社を破り、11年ぶりに全国大学ラグビーフットボール選手権大会優勝を果たし、また日本選手権では東芝府中を破り、16年ぶりの優勝を果たした。[3]
  • 1995年、低迷中のチーム再建を果たすべく木本監督就任。OB会の要請もあり、当初長期的にチームの指導に携わる予定であったが、癌により急逝。早明対抗戦における劇的な逆転勝利は強烈なインパクトを与えた。ダブルライン、戦略的なドライビングモールの活用(ペネトレーティングモール)、パント攻撃に見られるキックとゆさぶりの調和、ライン全体でのディフェンスラインの突破などまさしく、早稲田らしい「ゆさぶり」攻撃の復活と言える。大西、木本、2人の大きな理論的支柱を失ったことで、以降チームは試行錯誤を重ね、清宮監督の登場によりFW重視へと決定的な転換期を迎える。早稲田ラグビー史におけるまさしく-最後の「ゆさぶり」-であった。
  • 2002年、東伏見から上井草へグラウンド移転。2002年度には13年ぶりの大学選手権制覇を果たした。この頃から早稲田のフォワード平均体重は100kgを超え、インターナショナルレベルに到達する。(参考:2007年W杯フランスのFW平均体重は104kg,早稲田のFW平均体重は103kg,またV7を達成した神戸製鋼のFW平均体重は97kgである。)同時に国際級の重量FWを軸にトライを量産。-「横の早稲田」から「縦の早稲田」へ,「バックス」の早稲田から「フォワード」の早稲田へ-歴史的な転換期を迎える。なおこの時期、連勝街道を驀進しながらも視聴率・観客動員数は減少の一途をたどった。
  • 2006年、日本選手権2回戦でトップリーグ4位のトヨタに28-24で勝ったものの、次の準決勝にて東芝府中相手に0-43の完封負け。日本選手権において早稲田が完封負けを喫したのは史上初。
  • 2008年度対抗戦で帝京大学に敗れ、2000年早明戦以来の連勝記録が53で止まった。さらに早明戦でも敗れ8年ぶりにシーズン2敗を記録。対抗戦優勝を帝京に譲った。しかし大学選手権では決勝で帝京を破り雪辱、5回目の連覇となる15回目の優勝を遂げた。ただこれ以降大学選手権優勝を逃していて、対抗戦優勝も2010年度以来遠ざかっている。
  • 2014年度は早明戦が秩父宮ラグビー場で開催された。

タイトル

2007年度全国大学選手権にて
1932、1933、1936、1937、1941、1942前期、1948、1950、1952、1953、1958、1965、1967、1968、1970、1971、1972、1973、1974、19751、1976、1981、1982、1987、19901、2001、2002、2003、2004、2005、2006、2007、2009、2010
196519661968219701971197319741976、1987、1989、2002、2004、200520072008
準優勝:16回(196419671969197219751981、1986、1990、1992、1995、1996、2001、2003、200620102013
1932、1933、1937、1941、1948、1950、1952、1953、1958
1965、1970、1971、1987

※年は全て年度。

1明治大学と同率1位
2慶應義塾大学と同点両校優勝

慶明2校との対戦成績

慶應義塾大学

大会 試合数 早稲田大学
勝利
引き分け 慶應義塾大学
勝利
関東大学対抗戦
(定期戦・早慶戦
92 65 7 20
大学選手権 9 7 1 1
合計 101 72 8 21
※招待試合・練習試合・ジュニア選手権等は含まない。2015年度現在。
なお、1923年第6回極東選手権競技大会のラ式蹴球(ラグビー)競技決勝で対戦があり、11-6で慶應が早稲田を破り優勝している[6]

明治大学

大会 試合数 早稲田大学
勝利
引き分け 明治大学
勝利
関東大学対抗戦
(定期戦・早明戦
91 52 2 37
大学選手権 12 5 0 7
合計 103 57 2 44
※招待試合・練習試合・ジュニア選手権等は含まない。2015年度現在。

戦績

平成以降のチームの戦績は以下のとおり。

年度 所属 勝敗 順位 監督 主将 大学選手権
1989 - 7勝1敗 2位 佐藤秀幸 清宮克幸 優勝 決勝 45-14 日本体育大学
1990 - 7勝1分 1位1 高橋幸男 堀越正巳 準優勝 決勝 13-16 明治大学
1991 - 7勝1敗 2位 高橋幸男 相良南海夫 準決勝 12-22 大東文化大学
1992 - 7勝1敗 2位 小林正幸 富野永和 準優勝 決勝 27-30 法政大学
1993 - 6勝2敗 2位 益子俊志 藤浩太郎 2回戦 21-22 京都産業大学
1994 - 7勝1敗 2位 宿澤広朗 山羽敦文 準決勝 41-50 大東文化大学
1995 - 6勝2敗 2位 木本建治 小泉和也 準優勝 決勝 9-43 明治大学
1996 - 6勝2敗 2位 石塚武生 中竹竜二 準優勝 決勝 22-32 明治大学
1997 A 5勝2敗 2位 石塚武生 石川安彦 2回戦 18-69 京都産業大学
1998 A 3勝2敗1分 3位 日比野弘 山崎勇気
→正木宏和
準決勝 26-53 関東学院大学
1999 A 5勝2敗 4位 日比野弘 小森允紘 2回戦 6-43 同志社大学
2000 A 5勝2敗 3位 益子俊志 江原和彦 2回戦 25-38 関東学院大学
2001 A 7勝0敗 1位 清宮克幸 左京泰明 準優勝 決勝 16-21 関東学院大学
2002 A 7勝0敗 1位 清宮克幸 山下大悟 優勝 決勝 27-22 関東学院大学
2003 A 7勝0敗 1位 清宮克幸 大田尾竜彦 準優勝 決勝 7-33 関東学院大学
2004 A 7勝0敗 1位 清宮克幸 諸岡省吾 優勝 決勝 31-19 関東学院大学
2005 A 7勝0敗 1位 清宮克幸 佐々木隆道 優勝 決勝 41-5 関東学院大学
2006 A 7勝0敗 1位 中竹竜二 東条雄介 準優勝 決勝 26-33 関東学院大学
2007 A 7勝0敗 1位 中竹竜二 権丈太郎 優勝 決勝 26-6 慶應義塾大学
2008 A 5勝2敗 2位 中竹竜二 豊田将万 優勝 決勝 20-10 帝京大学
2009 A 6勝1分 1位 中竹竜二 早田健二 2回戦 20-31 帝京大学
2010 A 6勝1敗 1位 辻高志 有田隆平 準優勝 決勝 12-17 帝京大学
2011 A 5勝2敗 2位2 辻高志 山下昂大 2回戦 26-28 関東学院大学
2012 A 4勝3敗 4位 後藤禎和 上田竜太郎 準決勝 10-38 帝京大学
2013 A 6勝1敗 2位 後藤禎和 垣永真之介 準優勝 決勝 34-41 帝京大学
2014 A 5勝1敗1分 2位 後藤禎和 大峯功三 セカンドステージ敗退
2015 A 4勝3敗 4位3 後藤禎和 岡田一平 セカンドステージ敗退

1明治大学と同率1位
2明治大学・筑波大学と同率2位
3慶應義塾大学と同率4位

4度の日本一

日本ラグビーフットボール選手権大会(通称:日本選手権、前身の『日本協会招待NHK杯争奪ラグビー大会』を除く)で優勝した大学チームは、当校を含めて5校ある(2012年現在)が、複数回の優勝経験があるチームは当校だけである。下記は当校日本一の試合時におけるフィフティーンである。

※太字はキャプテン。

荒ぶる・北風

「荒ぶる」はラグビー蹴球部の第二部歌。大学選手権に優勝した時のみ歌うことが許される特別な歌である。そのときの最上級生のみ、冠婚葬祭のときにも歌うことが許される。それ故、優勝チームの下級生からは「自分の代でも荒ぶるを絶対歌います」という決意が異口同音に語られる。近年はフィールドに全部員・コーチ・OBが円陣を組み、主将の発声に続いて斉唱する。第一部歌は「北風」と呼ばれ、現在は、試合前の出陣のロッカールームなどで通常よりも早いテンポで歌われている。

「北風」
北風のただ中に 白雪踏んで
球蹴れば奮い立つ ラグビー早稲田
抜山の威力 蓋世の意気
男児の勢数あれど 早稲田ラグビー ラララララ
早稲田ラグビー ラ
「荒ぶる」
荒ぶる吹雪の 逆巻く中に
球蹴る我等は 銀塊砕く
早稲田のラグビーは 斯界になびき
いざゆけ我らが ラグビー早稲田
ララ早稲田 ララ早稲田
ララララ早稲田

主な選手

在籍した選手

関連書籍

所在地

脚注

  1. ^ 2006年度における主要チームのリーグ戦における平均観客動員 関西学生Aリーグは不明である。対抗戦、リーグ戦は 関東ラグビーフットボール協会、トップリーグは TOP LEAGUE OFFICIAL SITE より計算。ただし、トップリーグに関しては無料招待者数が観客動員数に含まれている可能性がある。また、早慶明の3大学の平均観客動員数は、日本国内における2006年の代表の試合の観客動員数(平均6433人)よりも多い。
  2. ^ この試合は雪の早明戦と呼ばれている。
  3. ^ この優勝が日本選手権での大学勢最後の優勝である。(2014年現在)
  4. ^ 日比野弘『新版早稲田ラグビー史の研究』早稲田大学出版部、2007年1月。 
  5. ^ 2011年1月9日時点で決勝進出30回、13大会連続決勝戦進出、優勝15回は大会記録。なお、決勝戦での敗戦数15も大会記録である。
  6. ^ 運動年鑑. 大正12年度 朝日新聞社編 P294

関連項目

外部リンク