城北中学校・高等学校
| 城北中学校・高等学校 | |
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| 国公私立の別 | 私立学校 |
| 設置者 | 学校法人城北学園 |
| 校訓 | 着実・勤勉・自主 |
| 設立年月日 | 1941年(昭和16年) |
| 創立者 | 深井鑑一郎 |
| 共学・別学 | 男女別学(男子校) |
| 中高一貫教育 | 併設型(中学7・高校9クラス) |
| 課程 | 全日制 |
| 設置学科 | 普通科 |
| 高校コード | 13698A |
| 所在地 | 〒174-8711 |
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東京都板橋区東新町2-28-1
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| 外部リンク | 公式サイト |
城北中学校・高等学校(じょうほくちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都板橋区東新町に所在する私立中・高等学校。
目次 |
[編集] 概要
府立四中(現・東京都立戸山高等学校)で、40年間校長を勤めた深井鑑一郎を創設者として、元教員やOBらにより開校された。
戦前の開校から、旧制高校や士官学校への進学をめざす校風であったため、現在でも伝統的に人格形成や大学進学教育に力を入れている。また、先取り授業や文理分け(高2 - 3年)など、旧制中学式の制度を継承している。校地は約1万2千坪で、卒業生は3万人を越える。
[編集] 沿革
- 1891年(明治24年) - 深井鑑一郎、私立共立中学校教諭に就任。
- 1896年(明治29年) - 東京府城北尋常中学校(旧・共立中学)6代校長に深井鑑一郎が就任。(1901年、東京府へ移管)
- 1935年(昭和10年) - 府立四中・深井鑑一郎校長、補習科を分離し、新宿区市ヶ谷左内町に私立城北高等補習学校を開校。
- 1941年(昭和16年) - 城北高等補習学校寄宿舎を仮校舎として城北中学校を開校。初代校長に深井鑑一郎が就任。
- 1943年(昭和18年) - 現在地に移転。2代校長に近藤薫明が就任。
- 1948年(昭和23年) - 学制改革により、中・高の六年制となる。
- 1950年(昭和25年) - 中学の女子募集を停止。
- 1951年(昭和26年) - 市ヶ谷校地が帰属し、城北予備校を開校(1987年廃校)。
- 1956年(昭和31年) - 公立高校併願受験者への入学金延納制度を開始。
- 1980年(昭和55年) - 埼玉県川越市に城北埼玉高等学校を開校(現・城北埼玉学園)。
- 1980年(昭和55年)頃 - 中学入試の2回目募集(2月4日)を開始。
- 2005年(平成17年) - 7代校長に帖佐正雄が就任。
[編集] 交通
- 東武東上線 上板橋駅南口より徒歩10分
- 東京メトロ有楽町線・副都心線・西武有楽町線 小竹向原駅1番出口より徒歩20分
- 関東バス・国際興業バス(高円寺駅北口 - 赤羽駅東口)「小茂根」バス停より徒歩10分
- 生徒は許可を得れば小竹向原駅から自転車通学をすることができる。
[編集] 校風・教育
- 初代・深井校長が、長く四中で教育方針とした「着実・勤勉・服従」を「自主」に直して、校訓とした。東京都立戸山高等学校の学校案内では「本当の自分になる戸山」、城北では「自分(君)らしく生きる、学ぶ」(心身ともに健全で自律的な生徒)と題されている。
- 毎日、授業の前に約1分間、目を閉じ、姿勢と呼吸を正す「静座」を行う。開校から続けられているもので、1年行うことで1日分の時間に値すると言われる[誰?]。
- 2代・近藤校長の「体を動かさなければならない」という考えから、戦前は池袋・上板橋間の歩行登校、戦後は豊島園などのマラソン大会、21世紀になってトレッキング(競歩)が行事として行われている。
- 中学入試は他校と同一の2月1日(募集120名)と、併願が可能な2月2日、4日(160名)があり、2月11日の高校入試(90名)では、国公立高校の合格発表日まで入学手続き金の延納手続きができる。中学の補欠合格者は、連続受験者が優先されている。
- 1980年代の担任6年持ち上がりから、1997年(平成9年)に3期制が取られ、中3より選抜クラスが設けられた。1990年代までは一貫生(中学入学生)・一般生(高校入学生)と呼ばれたが、現在は中入・高入生などの呼び方が一般的になった。
- 都立校を母体とするが、公立での勤務経験がある教員は少数派である。近年では、芸術科を除く教科から校長・副校長・教頭が出されている。
[編集] 年間行事
- 4月 - 入学式 大町山荘(高入生1年)、自然体験学習(中入生高1)
- 5月 - 大町山荘(中1)、遠足(中2・中3)
- 6月 - 演劇鑑賞会、生徒会長選挙、授業参観・保護者会
- 7月 - 理科校外学習(中1 - 中3)、補習会(中1)、夏期林間学校(中2)
- 8月 - 大町学習室(高3)、ホームステイ(希望者)
- 9月 - 防災避難訓練、体育祭、文化祭(城北祭)
- 10月 - オープンキャンパス、研修旅行(中3)
- 11月 - マラソン大会(中1・中2)、トレッキング大会(中3、高1)、授業参観・保護者会、理科自由研究発表会(中学)、音楽鑑賞会、合唱祭(中1・中2)
- 12月 - 冬期講習会、補習会(中1)
- 1月 - 書初め展、英検(中2・高1)、スキー教室、冬期林間学校(中3)
- 2月 - 中学・高校入試、漢字検定(中1・中2)、私の主張コンクール(中1・中2)
- 3月 - 卒業式、研修旅行(高2)
[編集] 城北祭
- 体育祭は9月半ばに、文化祭は9月末に行われる。かつては連続して催された時代もあった。
- 正門のアーチは1946年(昭和21年)の第1回より60年、中学生の理科発表は約30年、校舎の垂れ幕と図書委員会の古本市は20年以上続いている。ラジオ部や、OBが演奏の指揮・編曲なども行う吹奏楽部、前年度の展示を翌年冊子にして配布する地理部などの方式が、長く続いている。
- 1981年(昭和56年)、後夜祭で行われた人間イスが、約1ヶ月間ほどギネスブックの世界記録を更新した。また、2001年(平成13年)頃には文化祭実行委員会に地域振興部門が設けられ、町内会の御輿を担いだり、後夜祭で盆踊りが行われた。
- 講堂で行われる少林寺拳法部の模範演技は、学校説明会でも披露されるほか、弓道部では本物の弓と矢を使っての風船割りが体験できる。
- 2000年(平成12年)頃より、来場者が出演するミスコンが行われている。
- 1989年(平成元年)までは、パンフレットのカット絵を漫画研究同好会が担当していたが、翌年から写真となった。パンフレットにある城北祭の回数は、元々は開校×年目を指すもので、実際の回数よりも5回ほど多い。
- 以前は同日開催であったが、近年は9月第2土日に東京都立戸山高等学校、3週に城北埼玉高等学校、4週に城北高等学校と分散されている様である。
[編集] 部活動
- 文化部と運動部員の比率は、高校が3対7、中学は2対8(2008年入学案内)である。
- 1954年(昭和29年)より13年間は、毎年いずれかの体育部が国体・全国大会への出場を果たした。
- 部誌の定期刊行が長い団体は地理部・鉄道研究部・漫画研究部、連続入賞団体として囲碁将棋部・吹奏楽部、公演団体としてはグリークラブ(声楽部)などがある。吹奏楽部の定期演奏会は、4月5日前後(こよみの「清明」、第2代近藤薫明校長の命日)に行われている。
- 1996年(平成8年)頃には、卒業記念の寄贈として運搬用の軽トラックが購入された。
- ホームページの登場は生徒会(閉鎖)、文化祭実行委員会(ブログを開始)、水泳部(閉鎖)、ラジオ部、弓道部、グリークラブ、アメリカンフットボール部、吹奏楽部などが早く、中には学校のサイト(2000年設置)より早いものもあった。
- 存在する部活
[編集] 主な出身者
- 小島宣夫 - 元産経新聞社副社長
- 山本康 - 元キリンビール副社長
- 前田武彦 - 放送作家・タレント
- 日比野弘 - 日本ラグビーフットボール協会名誉会長(城北中→東京都立大泉高等学校)
- 二木謙一 - 國學院大學名誉教授
- 岡崎俊城 - JALUX社長
- 磯部徳彦 - 城北埼玉高等学校前校長
- 山岡賢次 - 衆議院議員、民主党国対委員長
- 小和田哲男 - 歴史学者、静岡大学教授
- ベンガル - 俳優、劇団東京乾電池を結成
- 吉村辰明 - 豊島区議会議員、61代議長
- 近藤文彦 - 城北埼玉学園理事長、城北埼玉中学校を開校。
- 辻よしなり - フリーアナウンサー・タレント
- 深沢邦之 - お笑いタレント、Take2
- 増保輝則 - 前神戸製鋼コベルコスティーラーズ監督
- 塩澤敏彦 - 元サッカー選手
城北高等補習学校
- 安倍晋太郎 - 元衆議院議員、元外相、官房長官 / 安倍晋三の父
- 丸谷才一 - 作家、芥川賞受賞
- 安岡章太郎 - 作家、芥川賞受賞
- 古山高麗雄 - 作家、芥川賞受賞
- 清岡卓行 - 作家、詩人、芥川賞受賞
- 川口松太郎 - 作家、直木賞受賞
- 工藤幸雄 - 詩人、ポーランド文学者
[編集] 施設
- 講堂
- 旧講堂は、1945年(昭和20年)に中島飛行機三鷹工場の廃屋150坪を移築した、食堂兼用の建物であった。1971年(昭和46年)に改築された現講堂(約1000席)は武蔵大学に似た外観で、式典や発表会、芸術鑑賞、文化祭などの他、初期には校長訓話の時間や入学試験の会場にも用いられた。
- 近年は後夜祭の会場になり、バンド演奏が行われる様になった。また同窓会定時総会後の親睦会は、地下の食堂で開かれている。完成当初は週末に他校のクラブの発表などにも利用されていた。最近はもっぱら音楽系団体の練習に使用され、本番の定期演奏会は外部の公共ホールが利用されている。
- 大町山荘
- 1965年(昭和40年)に完成。JR大糸線信濃大町駅から約8キロの距離にあり、大型バスで移動を行う。玄関の建物は篠崎慶一・元美術科教諭のデザインで、建坪380坪、96名(当初は150名)収容。蔦温泉の給湯権を得て、1年中温泉が出る。
- 毎年、廊下などに中1生の絵画が飾られ、敷地内でキノコの栽培も行われている。新入生の入寮(4-5月)、中2の夏季林間学校、高3の夏の学習室、1月のスキー教室や中3の冬季林間学校に使用される。
- 2008年(平成20年)に、同窓会の募金活動などでOBの設計による改修工事が行われ、2009年(平成21年)に第9回長野県建築文化賞(長野県知事賞)を受賞した。
[編集] 校歌
- 開校5年後の1946年(昭和21年)に制定された。作詞は武田祐吉・國學院大學教授(元東大嘱託・1958年没)、作曲は新任の市村丈一(旧姓梨本・2009年4月没)教諭。市村は長野県須坂高等学校・長野県長野高等学校教諭などを経て、佐久長聖高等学校の校歌の作曲も手がけている。
- 毎年、入学式と卒業式の際にグリークラブによる斉唱が行われるが、伴奏を伴う機会は少なく、通常は1,3番で歌われる。
- 2・3番の歌詞を組み直すと、以下の様なものにもなる。
- 2番 末遥かなる石神井の 流れの水のさやけさよ 清明我あり努力の世界 ここにぞ培う公民の業
- 3番 みなぎらひゆく武蔵野の 沃野の土のたくましさ 決然今立つ正義の思想 ここにぞ養う勤勉の道
※さやか(清か) - くっきり澄んで見える。はっきりとする。
[編集] 歴史
戦前の東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)で40年間校長を務めた深井鑑一郎は、四中の50周年にあたる1937年(昭和12年)の翌年、OBの西浦泰治教頭後任として、同校を退職した。
深井は1935年(昭和10年)、外部募集を行っていた四中補習科を分離して、城北高等補習学校(四中教員が多く講師を務めていた)を開校していたが、四中生の父兄である山種証券の山崎種二社長を誘って、私立中学を開校しようとする。これは実現に至らず、1940年(昭和15年)に、山崎が経営を引き受けた富士見高等女学校(現・山崎学園富士見高等学校)の校長に就任となった(日経・私の履歴書「山崎種二」編より)。
一方、1937年(昭和12年)に、四中の古賀米吉元教諭が市川学園を開校した。古賀の友人でもある近藤薫明四中教諭(第2代校長・1943年-1982年)は、四中で会計主任(OB)だった重信常直(のち城北高等学校事務長)を介して、深井に私立中の開校を打診し、自らが開校実務を引き受けることで、城北中学校を開校させた。
最初の候補地は、深井が個人で借りていた小竹向原の田畑だったが、この場所が東京都道318号環状七号線の用地にかかったことから、現・東京都立城北中央公園の一角が候補にあがった。いったん東武練馬の東武鉄道用地を借地し、市ヶ谷左内町の補習学校宿舎を仮校地として開校したが、1942年(昭和17年)に現校地を取得し、翌年に移転した。深井校長はこれを見ずして、1943年(昭和18年)3月24日に亡くなった。
この間に、のち2代目理事長となる井上源之丞(凸版印刷社長)より、4つの候補地が紹介される。これは市川学園と近すぎる京成沿線であったり、隣地が断崖絶壁(志村坂上)だったり、「城北」と言いにくい目蒲線沿線だったりして、残る東池袋の根津山(現在の南池袋公園付近)も、「地価が高い」(近藤教頭)として実現しなかった。戦後、この東池袋の地の多くは道路となるが、現・豊島岡女子学園が所有者の根津育英会と最初の売買契約を結んだのも、1941年(昭和16年)4月(移転は1948年)であった。
戦後は、5年制の中学から中・高3年制となって、各200名ずつの定員でスタートしたが、公立中の義務化・無償化に伴って、私立中学の休校、廃校、女子校への転向などが相次いだ時代であり、城北中の定員も以後、約30年間に渡って百名の時代が続いた。1947年(昭和22年)度に板橋区の中学生委託校となったことから、城北中学校でも女性教員を採用し、翌年より男女募集を行うこととなったが、高校は男子募集のままであったため女子の応募は少なく、1950年(昭和25)年度より男子校に戻された。
戦時中に接収されていた市ヶ谷の土地は城北学園の所有となり、1951年(昭和26年)に城北予備校として再スタートした。1956年(昭和31年)には約4000名の生徒を集め、中高の経営を支えたが、両校を兼任した近藤校長は以後30年間に渡って、午前中は中高、午後は予備校へと通うことになった。
城北の校歌は1946年(昭和21年)、近藤校長の母校・國學院大學の評議員のつながりで、武田祐吉・同大教授に作詞を依頼した。また。1950年(昭和25年)に豊島岡女子高等学校の校長となった二木友吉(同大OB)が、同年より入学手続きを公立高等学校の合格発表まで待つ制度を始めたが、城北でも1956年(昭和31年)よりこれに倣った。
この頃は私学助成がなかったため、この施策が好評を得て、高校の受験者は1963年(昭和38年)に8600名に達し、1970年(昭和45年)には入学生が千名を越えた。一方で大学の就学率も低い時代であったので、1967年(昭和42年)に隣地(現・桜川中学校)が売りに出された際に、高等専門学校の設置が計画されるが、当時の山田三郎太理事長の急死で取りやめになった。
その後、私立進学校の少なかった埼玉県からの受験者が増えたことから、1971年(昭和46年)頃には武蔵嵐山・深谷周辺に新設校を建てる構想も生まれ、1980年(昭和55年)に、85歳となった近藤校長はほぼ単独で城北埼玉高等学校(埼玉県川越市)を開校し、1987年(昭和62年)に城北予備校が50年を経て廃校となった。
1980年(昭和55年)頃より城北中学校の2回目募集(2月4日・約30名)が始まった。いわゆる2回入試の走りであるが、当初は2日間かけて入試を行う学校もあったため、市販の学校案内の記載では2月1日実施のままだった。その後、1986年(昭和61年)より中学入試日が2月1日から2日に変更されることとなり、2001年(平成13年)より1日が復活し、現在の3回入試となる。
元東京都立戸山高等学校長の原晋校長(3代・1982年-1985年)就任の年より10年近くかけて、在学年数の長い中学枠の増加と、高校枠の縮小が行われた。ほぼ全生徒数は変えずに、中高1対5(100対550名)だった定員が2対1(270対135名)に変更され、中高合わせて約250名の募集が削減された。
当時の原校長(東京都立戸山高等学校では高3まで文理混合クラス)は、城北の早稲田大学合格者が90名ありながら、東京大学合格者が3名程度だったことから、1984年(昭和59年)に高校入試を3教科から5教科に変更するが、大幅な定員割れが起こったことと氏の急死によって、2年で中止となった。1987年(昭和62年)より高校枠を絞った効果が表れて、早稲田大学合格者が100名を越える様になった。
宇川徹也校長(4代・1985年-1989年)は、それまでいなかった慶應義塾大学出身の教員を採用。夫人が共学時代の元教員だったこともあって、改築された現・高校棟の各階に女子トイレ用のスペースが設けられた。矢沢友一校長(5代・1989年-1997年)の時代は、女性講師などが7名(1997年)となった。加藤健治校長(6代・1997年-2005年)は、さらに高校枠を90名(中高1対3)に減らし、中3のクラスを高校棟に移した。 小竹向原駅は、古くは丸ノ内線の起点として計画された駅で、旧校舎時代から西門が設けられていたが、1983年(昭和58年)の有楽町線開業後も徒歩で20分ほどかかるため、西武池袋線の乗り入れまでは最寄り駅とされなかった。2007年(平成19年)頃より、駅と学校間の自転車通学を許可するという対応が始められた。
[編集] エピソード
- 明治期の城北尋常中(現・東京都立戸山高等学校)に一時、東條英機元首相が在学した。
- 旧城北高等補習学校の認可申請は1935年(昭和10年)4月15日で、2年後に建てられた市川学園も同日が創立記念日である。
- 1948年(昭和23年)に、現在地に移転した東京都立戸山高等学校で全焼火災が起こったことから、東京都立戸山高等学校では1961年(昭和36年)まで、城北では1982年(昭57年)まで、市川学園では2002年(平成14年)まで、教室に暖房が設置されなかった。
- 近藤薫明元校長は四中教諭時代に、牛込高等女学校長の就任を打診された事がある(35年史)。この頃に校長を引き受けた二木謙三の「静座法」(複式呼吸の本)を、旧制日彰館中学3年の近藤が愛読し、現在の「静座」誕生につながった。
- 現弓道場付近にあった旧東門(ときわ台方面)は、道がカーブで視界が悪いことなどから早い時期に廃止され、1982年(昭和57年)まで近藤校長邸が建っていた。旧西門(現グランド門)脇のイチョウの大木は1期生が植えたものである。
- あだち充の『クロスゲーム』、なかいま強の『ゲイン』の舞台の校舎は城北高等学校である。
[編集] 卒業生の進路
[編集] 書籍
- 「城北学園35年史」 城北学園
- 「城北新聞縮刷版」 城北学園 1985年
- 「私と城北」 近藤薫明著・城北埼玉学園 1987年
- 「府立4中・都立戸山高百年史」 東京都立戸山高等学校
- 「城北史」 城北学園 1992年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク