啓徳空港
啓徳空港 (旧・香港国際空港、閉港) | |||||||||
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IATA: | |||||||||
概要 | |||||||||
国・地域 | イギリス領香港→ 香港 | ||||||||
所在地 | 九龍城区 | ||||||||
種類 | 民間 | ||||||||
運営者 |
香港民航処 (香港民航處) (香港民航处) | ||||||||
標高 | 9 m (28 ft) | ||||||||
座標 | 北緯22度19分43秒 東経114度11分39秒 / 北緯22.32861度 東経114.19417度座標: 北緯22度19分43秒 東経114度11分39秒 / 北緯22.32861度 東経114.19417度 | ||||||||
滑走路 | |||||||||
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空港の一覧 |
啓徳空港 | |||||||||||||
繁体字 | 啟德機場 | ||||||||||||
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簡体字 | 启德机场 | ||||||||||||
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香港啓徳国際空港(ほんこんカイタックこくさいくうこう、ほんこんけいとくこくさいくうこう)は、香港・九龍のビクトリア・ハーバーに面した九龍城区、九龍半島の北東端にかつて存在していた国際空港である。香港の空の玄関、及びアジアの経由地として重要な役割を果たしていた。発着は国際線のみであった。1998年7月5日閉港。
正式な名称は「香港国際空港」(香港國際機場 / 香港国际机场)だったが(後述)、所在地付近の地名から「啓徳空港」(啟德機場 / 启德机场)と通称された。現在では日本語では、広東語読みとそれから音写されたアルファベット表記から「カイタック」または「カイタク」と読まれることが多かったが、日本語の音読みで「けいとく」とも読まれることもあった。
沿革
いきさつ
「啓徳」という地名の由来は、何啓(何啟 / 何启)と区徳(區德 / 区德)が経営した「啓徳営業有限公司」が、当時イギリスの植民地であった香港のビクトリア・ハーバーに面した九龍湾北岸の辺りを埋めたことから、新しくできた土地が、2人の名前であり会社名でもある「啓徳浜」(啟德濱 / 启德滨)と名づけられた。
空港完成
のちにアメリカ人のハリー・アボットが航空学校を設立するため、啓徳浜の一部を貸し滑走路を作ったが間もなく閉鎖された。1925年1月24日に運用開始し、その後1927年3月啓徳浜は香港植民地政府に徴用され、新しいイギリス軍用の空港として生まれ変わり、1937年には軍民両用の空港となった。これが「啓徳空港」である。
拡張
1941年12月8日のアジア太平洋戦争開始に伴い、イギリスとの間に開戦した日本軍がイギリスの植民地である香港を攻撃し、その際空港は猛烈な爆撃を受け、空港内にあったイギリス軍の航空機や施設がほとんど破壊された。同年12月25日に香港は陥落しイギリス軍が全面降伏、日本軍が空港を含む香港一帯を占領した。
1942年3月に日本軍は陸軍兵士や現地で雇用した労働者数千人を動員し、周辺の村々に加え、宋王台などの文化財さらに九龍城砦の城壁などを取り壊し、そこから得た石材で滑走路の延長など設備の充実を行った。その後は日本軍の香港広州地域の防衛拠点の一つとして使用したが、1945年に入ると連合国の攻撃により空港は再び爆撃を受け、甚大な被害を受けた。
戦後
第二次世界大戦終結に伴う日本軍の撤退後も、香港はイギリスから中華民国に返還されることもなく再びイギリスの植民地となった。香港に戻ってきたイギリス軍は、取り壊された宋王台の跡地を修復することなく、戦争が終結したにもかかわらず空港を修復するためにさらに取り壊しを進めそのまま利用した。現在空港跡地の近くにある宋王台の石碑は実はレプリカで、大きさは実物の三分の一に過ぎない。
さらなる拡張
その後、香港に拠点を置きアジア各国やオーストラリアへとの間を結んだキャセイ・パシフィック航空や香港航空の本拠空港となったほか、英国海外航空やカンタス航空、日本航空などの乗り入れも始まった。
また、1950年代には、デハビランド・コメットやボーイング707、ダグラスDC-8などの、従来のプロペラ機に比べ離発着に長い滑走路を必要とするジェット機の就航に伴い滑走路が延長されるなど、設備の充実が継続して行われ、1962年に正式名称が香港国際空港(香港國際機場 / 香港国际机场、Hong Kong International Airport)となった。
しかし1960年代に入り、アジア諸国の相次ぐ独立と経済発展を受けて、マレーシア・シンガポール航空やベトナム航空、大韓航空などを中心に乗り入れ航空会社、便数ともに増加し、それに伴い発着回数が増加するにつれて、滑走路の短さや滑走路が1本しかないこと、近隣への騒音被害、旅客数、貨物取り扱い量の増加によるターミナルの狭さ、スポットの少なさが問題となっていった。
新空港計画
しかしながら、これ以上の空港の拡張は隣接地の買収も難しいうえに、ビクトリア・ハーバーに面した九龍湾北岸を埋め立てする余裕もないことから、1970年代に入り新空港の必要性が叫ばれ、建設地の選定が進められた。
1984年に香港の中華人民共和国への移譲、返還が決まると、ランタオ島北側の赤鱲角(Chek Lap Kok、チェク・ラップ・コク)に、イギリス系の建設会社主導で新空港の建設が開始された。なおその後も乗降客や貨物の取扱高は増え続け、1996年の統計は乗降客数 2,950 万人、貨物 1.56 tにまで増加した。
閉港
1998年に、郊外の赤鱲角に新空港となるチェクラップコク国際空港が完成し、同年7月6日に新空港は開港した。この新空港開港により、啓徳空港は7月5日午後11時50分発の最終便をもって閉港となり、1925年に運用開始して以来73年間の歴史に幕が閉じられることとなった(機能全面移管)。
なお、使用されていた地上支援機材の一部は新空港へと陸送されたほか、正式名称と啓徳空港に割り当てられていたIATA空港コードのHKGとICAO空港コードのVHHHは新空港に引き継がれた。
閉港後の変化
閉港後、ターミナルビルは取り壊されずに残され、香港政庁の合同庁舎(啓徳政府大楼(啟德政府大樓 / 启德政府大楼)、Kai Tak Government Building)として、従前の設備を利用して税関や入国管理当局の訓練所などとして利用された。空港の閉鎖後、建物が取り壊されるまでに、滑走路はBEYOND、張惠妹などの大型コンサートに数回使用された。この他、出発ターミナルだった場所にゲームセンターや屋内ゴーカート乗り場などのアミューズメント施設も入居していたが、2004年9月頃から始まった工事により取り壊された。
運用当時は、航空機が市街地上空を通過する都合上、周辺は空港に近づくにつれ低いビルしか建てられない、という高さ制限が設けられていた。空港が無くなった現在はその規制も撤廃された。そのため、例えば高級住宅地の九龍塘では、従来12階建て相当の高さに規制されていたが、現在ではその内の数軒が30階建て程度のマンションに建て替えられるなど、景観に変化が出始めている。また、空港に誘導するための着陸誘導灯が無くなったため、市街地でのネオンサインの点滅が解禁となった。
今後の跡地の利用について
2009年12月時点で、空港跡地には大型客船ターミナルが建設される予定となっている。このターミナルは世界最大の客船も停泊可能としており、2013年から使用される予定である。また、この跡地には前述の客船ターミナルのほか、公営住宅や学校、政府庁舎なども建設される予定としている[1]。
施設
旅客ターミナル
開港後数回に渡り増改築を繰り返し、最終的に8つのゲートを持つ旅客ターミナルへと進化した。しかし、乗り入れ便数に対してボーディングブリッジの数が8基と少なく、多くの便が航空機との間のバスでの移動を余儀なくされていた。
なお、旅客ターミナル内には数多くのレストランやみやげ物店があり、発着エリア内には免税店や土産物店、航空会社のラウンジなどがあった他、旅客ターミナルに直結して「リーガル・エアポート・ホテル」(現在は「リーガル・オリエンタル・ホテル」と改名)があった。
その他
貨物ターミナルが旅客ターミナルと離れて置かれていた他、空港内の整備エリアには、当時主にキャセイパシフィック航空の整備を行っていた「香港エアクラフト・エンジニアリング(HAECO、中国語:香港飛機工程 / 香港飞机工程)」社のハンガーが置かれていた。
香港アプローチ・香港カーブ
啓徳空港は、滑走路13への着陸進入の際大きく機体を傾けつつ九龍仔公園上空近辺で機体を右旋回させ、ビル群すれすれの高さを飛行して着陸する「香港アプローチ(香港カーブ)」で有名だった。
しかし香港アプローチは、旋回する着陸進入の直前に ILS を解除しなければならないため、飛行すべき場所の目安として空港とは関係のないビルの屋上などに取り付けられた進入路指示灯を頼りにするという、パイロットにとっては相当な技量が要求されるものだった。それゆえに「世界一着陸が難しい空港」と称されていた。なお、旋回直前までの進入路の目安とするため、空港北西部の小さな丘に紅白で塗られたものは「チェッカーボード」と呼ばれ、啓徳空港のランドマークのひとつでもあった。
滑走路13へは、一旦西側に迂回し現在の香港国際空港上空あたりで約180度右旋回の後、啓徳空港の西側から東に向かって進入。この際本来なら空港の滑走路延長上から射出されている誘導電波 ILS に従って進入するが、旧空港は滑走路に対し48度オフセットで設定されて射出されている誘導電波 IGS に従い一旦進入し、空港から約5マイルに設定されたミドルマーカを通過後に大きく右旋回させ、地上に見える進入路指示灯の指示に従い滑走路へ進入する方式が多用された。
この滑走路13への最終進入態勢である香港カーブはパイロットの技量が問われ、香港を拠点としていたキャセイパシフィック航空のパイロットたちは安全と乗り心地を考えた結果、IGSエンゲージを早めにキャンセルし北側へわずかに進路を修正後、緩やかに右旋回をしバンク角も少なめにスムーズに着陸することを「秘伝の技」としてあみ出していた。逆に慣れていないパイロットは小刻みに変針して滑走路に降りる寸前まで機体の進路が定まらなくなりがちで、同時に乗り心地も揺れが大きく良くなく、接地地点が遠くなり着陸滑走する距離が短くなってしまったりすることもあった。さらに過密空港だったため、接地後航空管制官からすぐ誘導路へ待避指示が出ることが多く、着陸後ブレーキの急制動を掛ける。このことがパイロットの負担に拍車をかけていたことは想像に難くない。
それゆえ、着陸進入に失敗してゴーアラウンドしたり、着陸過走して滑走路先の海中に突っ込んだり、尻もち着陸をしたり、エンジンを地面に接触させたりするトラブルが多かった。
主な事故
香港アプローチ・カーブのためもあり、滑走路をオーバーランして海中に突入したり、着陸時にしりもちを起こすなどの小さな事故は多かったものの、パイロットが緊張するためか、着陸に失敗し市街地に突っ込むような事故は皆無であった。
また当時は、着陸誘導灯と誤認しないために、香港内の全てのネオンサインは点滅させてはいけない決まりになっていた(着陸誘導灯は、空港とは無関係の一般のビルの屋上に設置されていた)。
- 1946年9月25日:香港発ベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)行きのイギリス空軍ダグラスC-47輸送機が離陸後、九龍塘に墜落。19人死亡。
- 1951年3月11日:パシフィックオーバーシーズエアラインのダグラスC-54が離陸後、操作ミスで山に衝突。26人死亡。
- 1958年8月31日:沖縄発香港行きのアメリカ空軍のダグラスC-54輸送機が13/31滑走路と07/27滑走路の交差点で衝突事故を起こしたが、けが人はなし。残骸は07/27滑走路を塞いだため、空港側は翌日開放予定の13/31新滑走路を早めに開放した。
- 1965年8月24日:アメリカ陸軍のロッキードC-130輸送機が離陸直後、滑走路先の海中に突入。啓徳空港で起こった最悪の事故となる。59人死亡。
- 1967年6月30日:タイ国際航空のシュド・SE210 カラベル旅客機が着陸時にオーバーランし滑走路先の海中に突入。原因は台風下の悪天候での操作ミスだった。14人死亡、56人負傷。
- 1967年11月5日:キャセイ・パシフィック航空のコンベア880型機が離陸に失敗し、滑走路先の海中に突入。1人死亡、14人負傷。
- 1988年8月31日:中国民航の広州発香港行きトライデントTr-2Eが着陸時にオーバーランし滑走路先の海中に突入。乗員6名、乗客1名が死亡。
- 1993年11月4日:中華航空の台北発香港行きボーイング747-400型機が着陸時にオーバーランし滑走路先の海中に突入。1名死亡。滑走路端に着水したために垂直尾翼が離発着の障害になるため、着水数日後に垂直尾翼が爆破処理され取り除かれ、さらに機体が引き上げられた後は空港内の整備区域に暫くの間保管されていたが、新造機で利用できる部品も多かったために後に解体された。
乗り入れ航空会社(一部)
ハブを置いていた会社
乗り入れていた航空会社
- 日本航空
- 全日空
- 日本エアシステム
- チャイナエアライン
- エバー航空
- 民航空運公司
- 中国国際航空
- 中国東方航空
- 大韓航空
- アシアナ航空
- フィリピン航空
- タイ国際航空
- マレーシア航空
- ロイヤル・ブルネイ航空
- シンガポール航空
- ロイヤル・ネパール航空
- エア・インディア
- スリランカ航空
- エミレーツ航空
- エル・アル航空
- KLMオランダ航空
- ブリティッシュ・エアウェイズ(英国海外航空)
- ブリティッシュ・カレドニアン航空
- エールフランス航空
- アリタリア航空
- ルフトハンザ航空
- アエロフロート航空
- スカンジナビア航空
- スイス航空
- カナディアン航空
- パンアメリカン航空
- トランスワールド航空
- ブラニフ航空
- ノースウエスト航空
- ユナイテッド航空
- デルタ航空
- ヴァリグ・ブラジル航空
- マダガスカル航空
- 南アフリカ航空
- カンタスオーストラリア航空
- ニュージーランド航空
日本からの経由地として運航していた航空会社
かつての日本-香港路線は、日本航空やキャセイパシフィック航空が最終目的地として運行していた他、日本航空やヨーロッパの航空会社がヨーロッパ路線として一般的であった南回りヨーロッパ線の寄港地として香港を選択していた。特に、世界一周便の一部としても運航していた英国海外航空(後のブリティッシュエアウエイズ)は、香港がイギリス領で、オセアニアにおけるイギリス連邦の主要国であるオーストラリアとの中継地点であったという事もあって便数が多かった。
また、古くから日本路線を運航していたスイス航空やスカンジナビア航空、ルフトハンザ・ドイツ航空やエールフランス航空、さらにはアリタリア航空などは、東京-香港間のみの区間利用者も利用することができた。さらに、ボーイング747が登場した後も離陸重量や航続距離が比較的短かった理由などから座席提供面での利用客も多かった。
さらに、日本航空の東南アジアやオーストラリア便の多くも香港を経由地としていた他、マレーシア航空やガルーダ・インドネシア航空、エア・インディアなどのアジアの航空会社も機材(ダグラスDC-6などのプロペラ機や、ボーイング707及びダグラスDC-8が主流だった時代)及び航続距離の関係から香港経由便が多かった。
アメリカのパンアメリカン航空やその路線を引き継いだユナイテッド航空、さらにノースウエスト航空や、カナダのカナダ太平洋航空も、以遠権を利用して、日本経由で香港まで運航していた。特にカナダ太平洋航空は、香港発東京経由で、バンクーバーからさらにメキシコシティとリマを経由して、ブエノスアイレスを最終目的地とした長距離路線を運航していた。また日本航空においても、自国日本経由で便名を変えずに香港-サンフランシスコ路線を運航していた。
しかしながら、1980年代後半のボーイング747-400を契機とする航続距離の長い旅客機の登場や、1990年代初頭の冷戦崩壊に伴うソビエト(シベリア)上空の開放による直行便の増加により南回り便が廃止されてゆくのに伴い、啓徳空港が廃港になる前には、日本 - 香港路線からヨーロッパの航空会社は全て姿を消していた。
また、アジアの航空会社の路線においても、直行便が主流になるに従い、香港経由便は減少していったが、アメリカの航空会社2社とエア・インディアなどが運航する路線については、最後まで運航が続けられた。
詳しくはヨーロッパ航空航路#南回りヨーロッパ線を参照。
参考文献
- ^ 「啓徳懐想~香港国際空港の歴史と魅力を紡いだメモリアル・ストーリー」(TOKIMEKIパブリッシング)
外部サイト
香港アプローチの模様: