古事記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。114.150.69.31 (会話) による 2012年5月18日 (金) 20:54個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎古事記中巻: typo)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

古事記(こじき、ふることふみ)は、その序によれば712年(和銅5年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ))によって献上された、現代確認できる日本最古[1]歴史書である。上・中・下の全3巻に分かれる。原本は存在していないが、後世の写本の古事記の序文に書かれた和銅年及び月日によって、年代が確認されている。

『古事記』に登場する神々は多くの神社で祭神としてまつられ、今日に至るまで日本の宗教文化と精神文化に多大な影響を与えている。

概要

成立の経緯を記している序によれば、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの。一般的に「誦習」は「暗誦」することと考えられているが、荻原浅男(小学館日本古典文学全集)は、「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読する意に解すべきであろう」という。

『古事記』の書名は、もともと、固有名詞ではなく、古い書物を示す一般名であり、正式名ではないといわれている。書名は安万侶が付けたのか、後人が付けたのかは明らかでない。読みは「フルコトブミ」との説もあったが、今日では一般に音読みで「コジキ」と呼ばれている。

日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、序文で天武天皇が

撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
訓読文:帝紀を撰録せんろくし、旧辞を討覈とうかくして、偽りを削り実を定めて、後葉につたへむとおもふ。

と詔したと書かれていることから、勅撰と考えることも出来る。天皇と祭神を結びつける事により、天皇の権力の正統性を確立することを目的としていたと見ることも出来る。史料の上では序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明点や矛盾点が多いとする見解もあり、また日本書紀における続日本紀のような古事記の存在を直接証明する物証も存在しないため、後述する古事記偽書説の論拠となっている。

構成

『古事記』は帝紀的部分と旧辞的部分とから成り、天皇系譜が『帝紀』的部分の中心をなし、初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の大事な出来事などについて記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して天皇の大葬の(もがり)の祭儀などで誦み上げるならいであった。それが6世紀半ばになると文字によって書き表された。『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

『帝紀』や『旧辞』は、6世紀前半ないし中葉頃までに、天皇が日本を支配するに至った経緯を説明するために、朝廷の貴族によって述作されたものであり、それらを基にして作成されたものであり、民族に伝わった歴史の伝承ではないと主張する人もいる。一方、広く民衆に受け入れられる必要もあったはずで、特に、上巻部分はそれらを反映したものが『古事記』ではなかったかとの主張もある。

内容は神代における天地(アメツチと読まれる)の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話伝説などを含む)を収録している。また、数多くの歌謡を含んでいる。

なお、日本神話での「高天原」という用語が多用される文書は、「祝詞」以外では『古事記』のみである。

『古事記』目次 

古事記序

  • 古伝承とその意義
  • 天武天皇と古事記の企画
  • 太安万侶(おおのやすまろ)の古事記撰録(せんろく)

古事記上巻

古事記中巻

  • 神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)神武天皇
  • 神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと)綏靖天皇
  • 師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)安寧天皇
  • 大倭日子鍬友命(おおやまとひこすきとものみこと)懿徳天皇
  • 御真津日子可恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)孝昭天皇 
  • 大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)孝安天皇
  • 大倭根子日子賦斗迩命(おおやまとねこひこふとにのみこと)孝霊天皇
  • 大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)孝元天皇
  • 若倭根子日子毘々命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)開化天皇
  • 御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)崇神天皇 
    • 后妃(こうひ)と御子(みこ)
    • 三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ)
    • 建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆
    • 初国知らしし天皇
  • 伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)垂仁天皇
    • 后妃と御子
    • 沙本毘古(さほびこ)と沙本毘売(さほびめ)
    • 本牟田智和気王(ほむちわけのみこ)
    • 円野比売(まとのひめ)
    • 時じくの香(かく)の木の実
  • 大帯日子於斯呂和気天皇(おおたらしひこおおしろわけのすめらみこ)景行天皇
    • 后妃と御子 
    • 倭建命(やまとたけるのみこと)の熊襲征伐
    • 出雲建(いずもたける)討伐
    • 倭建命の東国征討
    • 美夜受比売(みやずひめ)
    • 思国歌
    • 八尋白智鳥(やひろしろちどり) 
    • 倭建命の子孫
  • 若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)成務天皇
  • 帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)仲哀天皇
    • 后妃と御子
    • 神功皇后の神がかり
    • 皇后の新羅遠征
    • 香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の反逆
    • 気比大神(けひのおおかみ)
    • 酒楽(さけくら)の歌
  • 品陀和気命(はんだわけのみこと)応神天皇
    • 后妃と御子
    • 大山守命(おおやまもりのみこと)と大雀命(おおさざきのみこと)
    • 矢河枝比売(やかはえひめ)
    • 長髪比売(かみながひめ)
    • 国栖(くず)の歌
    • 百済の朝貢
    • 大山守命の反逆
    • 天之日矛(あめのひほこ)の渡来
    • 秋山の下氷壮夫(したひおとこ)と春山の霞壮夫(かすみおとこ)
    • 天皇の子孫

古事記下巻

  • 大雀命(おおさざきのみこと)仁徳天皇
    • 后妃と御子
    • 吉備の黒日売(くろひめ)
    • 八田若郎女(やたのわきいらつめ)と石之日売(いはのひめ)
    • 速総別王(はやぶさわけのきみ)と女鳥王(めどりのきみ)
    • (かり)の卵(こ)
    • 枯野という船
  • 伊邪本若気王(いざほわけのみこ)履中天皇
    • 墨江中王(すみのえのなかつのきみ)の反逆
    • 水歯別王(みづはわけのきみ)と曾婆可理(そばかり)
  • 水歯別命(みずはわけのみこと)反正天皇
  • 男浅津間若子宿迩王(おさつまわくごのすくねのみこ)允恭天皇
    • 后妃と御子
    • 氏姓の制定
    • 軽太子(かるのひつぎのみこ)と軽大郎女(かるのおほいらつめ)
  • 穴穂御子(あなほのみこ)安康天皇
    • 大日下王(おおくさかのきみ)と根臣(ねのおみ)
    • 目弱王(まよわのきみ)の変、眉輪王の変
    • 市辺之忍歯王(いちのべのおしはのきみ)
  • 大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)雄略天皇
    • 后妃と御子
    • 若日下部王(わかくさかべのきみ)
    • 赤猪子(あかいこ)
    • 吉野宮
    • 葛城(かづらき)の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)
    • 袁努比売(をどひめ)、三重采女(うねめ)
  • 白髪大倭根子命(しらかのおおやまと)清寧天皇
    • 志自牟(しじむ)の新室楽(にひむろうたげ)
    • 歌垣(うたがき)
  • 石巣別命(いわすわけのみこと)顕宗天皇
    • 置目老女
    • 御陵(みささぎ)の土
  • 意富迩王(おおけのみこ)仁賢天皇
  • 小長谷若雀命(おはつせのわかさざきのみこと)武烈天皇
  • 袁本矛命(おほどのみこと)継体天皇
  • 広国押建金日王(ひろくにおしたけかなひのみこ)安閑天皇
  • 建小広国押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと)宣化天皇
  • 天国押波琉岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにわのすめらみこ)欽明天皇
  • 沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)敏達天皇
  • 橘豊日王(たちばなのとよひのみこ)用明天皇
  • 長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)崇峻天皇
  • 豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)推古天皇

表記

本文はいわゆる変体漢文を主体としつつも、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらい微妙な部分は一字一音表記で記すという表記スタイルを取っている。歌謡部分はすべて一字一音表記で記されており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣の研究対象である。上代特殊仮名遣の「モ」の書き分けは『古事記』のみにみられるものである[2]。また一字一音表記の箇所のうち、一部の神の名などの右傍に と、中国の文書に記載されていた漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している[3]

歌謡

『古事記』は物語中心の記述法であるが、そのなかに多くの歌謡が挿入されている。これらの歌謡のなかには、もと民謡や俗謡であったものが、物語に合わせる形で適宜はめこまれたというものが相当数含まれている可能性が高い。

改竄説

『古事記』本文の記述以外には編纂の記録が直接は見当たらず、最古の写本も南北朝時代のもの(#写本を参照)であるため、それより以前の姿をそのままにとどめているかどうかに疑義を抱く改竄説も出されているが、考古学的な反論もある(#『古事記』偽書説も参照)。

内容

構成は、

  1. 上つ巻(序・神話)
  2. 中つ巻(初代から十五代天皇まで)
  3. 下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)

の3巻より成っている。

序を併せたり

撰者である太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)が天子に奏上する形式に倣って記した序文である。

序第1段 稽古照今(古を稽へて、今に照らす)
ここでは天地開闢からはじまる『古事記』の内容の要点を挙げ、さらに、それぞれの御代の事跡は異なるがほぼ政治に誤りはなかったと述べている。
臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、気象未だ效(あらは)れず。名もなく為も無し。誰れかその形を知らむ。
臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形
…歩驟(ほしう)各異(おのおのこと)に、文質同じくあらずと雖も、古を稽(かむが)へて風猷を既に頽れたるに縄(ただ)し、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふことなし。
雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 照今以補典敎於欲絶
序第2段 『古事記』撰録の発端
ここでは、まず、天武天皇の事跡を厳かに述べた後、天武天皇が稗田阿禮に勅語して、『帝記』・『旧辞』を暗誦させたが、時世の移り変わりにより文章に残せなかった経緯を記している。
…ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく「朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」とのりたまひき。時に舎人(とねり)ありき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年はこれ二八。人と為り聡明にして、耳に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき。すなはち、阿禮に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつよのふること)を誦み習はしめたまひき。
於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭
序第3段 『古事記』の成立
ここでは、元明天皇の世となって安万侶に詔が下り、稗田阿禮の暗誦を撰録した経緯を述べ、最後に内容の区分について記している。経緯では言葉を文字に置き換えるのに非常に苦労した旨が具体的に記されている。
…ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、阿禮阿禮の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。
於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然、上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難
…大抵記す所は、天地開闢より始めて、小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。故、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下、日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を上巻となし、神倭伊波禮毘古天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、品蛇御世(ほむだのみよ)以前を中巻となし、大雀皇帝(おほさぎのみかど)以下、小治田大宮(をはりだのおほみや)以前を下巻となし、併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首
和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶

上巻(かみつまき)

天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫降臨を経てイワレヒコ(神武天皇の誕生までを記す。いわゆる「日本神話」である。

天地開闢ののち七代のが交代し、その最後にイザナギイザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで、山の神、海の神などアニミズム的なさまざまな神を産んだ。こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまった。そのなきがらは出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わってしまう。

イザナギは黄泉の国の穢れを落とすため、を行い、左目を洗ったときに天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗ったときに月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗ったときに須佐之男命(スサノオノミコト)を産む。その後、最初に生んだ淡路島の幽宮で過ごした。これら三神は三貴子と呼ばれ、神々の中で重要な位置をしめるのだが、月読命に関してはその誕生後の記述が一切ない。スサノオノミコトは乱暴者なため、姉のアマテラスに反逆を疑われる。そこで、アマテラスとスサノオノミコトは心の潔白を調べる誓約を行う。その結果、スサノオノミコトは潔白を証明するが、調子に乗って狼藉を働いてしまう。我慢の限度を越えたアマテラスは天岩屋戸に閉じこもるが、集まった諸神の知恵で引き出すことに成功する。

一方、スサノオノミコトは神々の審判を受けて高天原を追放され、葦原中津国の出雲国に下る。ここまでは乱暴なだけだったスサノオノミコトの様相は変化し、英雄的なものとなって有名なヤマタノオロチ退治を行なう。次に、スサノオノミコトの子孫である大国主神が登場する。大国主の稲羽の素兎(因幡の白兎)や求婚と受難の話が続き(大国主の神話)、スクナヒコナとともに国作りを進めたことが記される。国土が整うと国譲りの神話に移る。天照大御神は葦原中津国の統治権を天孫に委譲することを要求し、大国主と子供の事代主神はそれを受諾する。しかし、子の建御名方神は、始めは承諾せず抵抗するが、後に受諾する。葦原中津国の統治権を得ると高天原の神々は天孫ニニギを日向の高千穂降臨させる。次に、ニニギの子供の山幸彦と海幸彦の説話となり、浦島太郎の説話のルーツともいわれる海神の宮殿の訪問や異族の服属の由来などが語られる。山幸彦は海神の娘と結婚し、彼の孫の神武天皇が誕生することをもって上巻は終わる。

上巻に出てくる主な神々

中巻(なかつまき)

初代神武天皇から15代応神天皇までを記す。神武東征に始まり、ヤマトタケル神功皇后の話などを書いてある。2代から9代までは欠史八代と呼ばれ、系譜などの記述にとどまり、説話などは記載されていない。そのため、この八代は後世に追加された架空の存在であると説かれているが、実在説も存在する。なお、「神武天皇」といった各天皇の漢風諡号は『古事記』編纂の時点では定められていないため、国風諡号のみで記されている。

中巻に出てくる主な人物

1代神武天皇
神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)、畝火の白檮原宮(かしはらのみや)に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県畝火山の東南の地)。一百三十七歳(ももあまりみそぢまりななとせ)で没。御陵(みはか)は畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり(奈良県橿原市)。
2代綏靖天皇
神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)、葛城の高岡宮に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県御所市)。四十五歳(よそぢまりいつとせ)で没。御陵は衝田(つきだの)岡にあり(奈良県橿原市)。
3代安寧天皇
師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみのみこと)、片鹽の浮穴宮に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県大和高田市)。四十九歳(よそぢまりここのとせ)で没。御陵は畝傍山の御陰(みほと)にあり(奈良県橿原市)。
4代懿徳天皇
大倭日子鉏友命(おほやまとひこすきとものみこと)、軽の境岡宮に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県橿原市)。四十五歳(よそぢまりいつとせ)で没。御陵は畝傍山の真名子(まなご)谷の上にあり(奈良県橿原市)。
5代孝昭天皇
御眞津日子訶惠志泥命(みまつひこかゑしねのみこと)、葛城の掖上宮に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県御所市)。九十三歳(ここのそぢまりみとせ)で没。御陵は掖上(わきがみ)の博多(はかた)山の上にあり(奈良県御所市)。
6代孝安天皇
大倭帯日子國押人命(おほやまとたらしひこくにおしびとのみこと)、葛城の室の秋津島に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県御所市)。一百二十三歳(ももあまりはたちまりみとせ)で没。御陵は玉手(たまで)の岡の上にあり(奈良県御所市)。
7代孝霊天皇
大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとこのみこと)、黒田の庵戸宮(廬戸宮)(いほとのみや)に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県田原本町)。一百六歳(ももあまりむとせ)で没。御陵は片岡の馬坂の上にあり(奈良県王寺町)。
8代孝元天皇
大倭根子日子國玖琉命(おほやまとねこひこくにくるのもこと)、軽の境原宮に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県橿原市)。五十七歳(いそぢまりななとせ)で没。御陵は剣池の中の岡の上にあり(奈良県橿原市)。
9代開化天皇
若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおほびびのみこと)、春日の伊邪河宮(いざかはのみや)に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良市)。六十三歳(むそぢまりみとせ)で没。御陵は伊邪(いざ)河の坂の上にあり(奈良県奈良市)。
10代崇神天皇
御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにゑのみこと)、師木(しき)の水垣宮(みずがきのみや)に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県桜井市)。一百六十八歳(ももあまりむそぢまりやとせ)で没。戊寅の十二月に崩りましき。御陵は山邊(やまのべ)の道の勾(まがり)の岡の上にあり(奈良県天理市)。
11代垂仁天皇
伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)、師木の玉垣宮に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県桜井市)。一百五十三歳(ももあまりいそぢまりみとせ)で没。御陵は菅原の御立野の中にあり(奈良市)。
12代景行天皇
大帯日子淤斯呂和氣天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)、纏向(まきむく)の日代宮に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県桜井市)。一百三十七歳(ももあまりみそぢまりななとせ)で没。御陵は山邊の道の上にあり(奈良県天理市)。
倭建命(やまとたけるのみこと)
能煩野(のぼの、三重県鈴鹿郡)に至りまし、歌ひ竟(を)ふる即ち崩りましき。御陵を作る。ここに八尋白智鳥(やひろしろちどり)に化りて、天に翔りて濱に向きて飛び行でましき。………河内国の志磯(しき)に留まりましき。故、其地に御陵を作りて鎮まり坐さしめき。すなわちその御陵を号けて、白鳥の御陵と謂う。
13代成務天皇
若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)、志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(滋賀県大津市)。九十五歳(ここのそぢまりいつとせ)で没。乙卯の年の三月十五日に崩りましき。御陵は沙紀の多他那美(たたなみ)にあり(奈良県奈良市)。
14代仲哀天皇
帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、穴門(あなど、下関市長府)、また筑紫の詞志比宮(かしひのみや)に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(福岡市香椎)。九十五歳(ここのそぢまりいつとせ)で没。壬戌の年の六月十一日に崩りましき。御陵は河内の恵賀の長江(ながえ)にあり(大阪府南河内郡)。
神功皇后
息長帯日(比)売命(おきながたらしひめのみこと)。皇后は御年一百歳にして崩りましき。狭城の楯列の稜に葬りまつりき(奈良県奈良市)。
15代応神天皇
品蛇和氣命(ほむだわけのみこと)、軽島の明宮(あきらのみや)に坐してまして、天の下治(し)らしめしき(奈良県橿原市)。一百三十歳(ももあまりみそとせ)で没。甲午の年の九月九日に崩りましき。御陵は川内(かふち)の恵賀の裳伏(もふし)の岡にあり(大阪府南河内郡)。

下巻(しもつまき)

仁賢天皇から推古天皇までは欠史十代ともいわれ、欠史八代と同じく系譜などの記述にとどまり具体的な著述が少ない。これは、書かれた当時においては、時代が近く自明のことなので書かれなかったなどといわれている。

下巻に出てくる主な人物

16代仁徳天皇
大雀命(おほさざきのみこと)、難波の高津宮に坐(ま)してまして、天の下治(し)らしめしき(大阪市)。八十三歳(やそぢまりみとせ)で没。丁卯の年の八月十五日に崩りましき。御陵は毛受(もず)の耳原(みみはら)にあり(大阪府堺市)。
17代履中天皇
伊邪本和氣命(いざほわけのみこと)、伊波禮(いはれ)の若櫻宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。六十四歳(むそじまりよとせ)で没。壬申の年の正月三日に崩りましき。御陵は毛受にあり(大阪府堺市)。
18代反正天皇
水歯別命(みづはわけのみこと)、多治比(たじひ)の柴垣宮に坐してまして、天の下治らしめしき(大阪府南河内郡)。六十歳(むそとせ)で没。丁丑の年の七月崩りましき。御陵は毛受野(もずの)にあり。
19代允恭天皇
男淺津間若子宿禰命(をあさづまわくごのすくねのみこと)、遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県明日香村)。七十八歳(ななそぢまりやとせ)で没。甲乙の年の正月十五日に崩りましき。御陵は河内の恵賀の長枝(ながえ)にあり(大阪府南河内郡)。
20代安康天皇
穴穂御命(あなほのみこと)、石上(いそのかみ)の穴穂宮(あなほのみや)に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県天理市)。五十六歳(いそぢまりむとせ)で没。御陵は菅原の伏見の岡にあり(奈良市)。
21代雄略天皇
大長谷若健命(おほはつせわかたけのみこと)、長谷(はつせ)の朝倉宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。一百二十四歳(ももあまりはたちまりよとせ)で没。己巳の年の八月九日に崩りましき。御陵は河内の多治比の高鸇(たかわし)にあり(大阪府南河内郡)。
22代清寧天皇
白髪大倭根子命(しらにのおほやまとねこのみこと)、伊波禮(いはれ)の甕栗宮(みかくりのみや)に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県橿原市)。没年、御年の記載なし。
23代顕宗天皇
袁・之石巣別命(をけのいはすわけのみこと)、近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)に坐してまして、天の下治らしめすこと八歳なりき(大阪府南河内郡)。三十八歳(みそぢまりやとせ)で没。御陵は片岡の石坏(いはつき)の岡の上にあり(奈良県香芝市)。
24代仁賢天皇
意・命(おけのみこと)、石上の廣高宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県天理市)。没年、御年の記載なし。
25代武烈天皇
小長谷若雀(おはつせのわかささのみことぎ)、長谷の列木宮(なみきのみや)に坐してまして、天の下治らしめすこと八歳なりき(奈良県桜井市)。没年記載なし。御陵は片岡の石坏のおかにあり。
26代継体天皇
哀本柕(おほとのみこと)、伊波禮の玉穂宮(たまほのみや)に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。四十三歳(よそじまりみとせ)丁未の年の四月九日に崩りましき。丁未の年の四月九日に崩りましき。御陵は三島の藍の御陵なり(大阪府三島郡)。
27代安閑天皇
広国押建金目(ひろくにおしたけかなひのみこと)、勾(まがり)の金箸宮(かなはしのみや)に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県橿原市)。乙卯の年の三月十三に崩りましき。御陵は河内の古市(ふるち)の高屋村にあり(大阪府南河内郡)。
28代宣化天皇
建小広国押楯(たけおひろくにおしたてのみことのみこと)、檜垌(ひのくま)の廬入野宮(いほりののみや)に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県明日香村)。没年、御年の記載なし。
29代欽明天皇
天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろにわのみこと)、師木島の大宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。没年、御年の記載なし。
30代敏達天皇
沼名倉太玉敷(ぬなくらふとたましきのみこと)、他田宮(をさだのみや)に坐してまして、天の下治らしめすこと、十四歳なりき(奈良県桜井市)。甲辰の年の四月六日に崩りましき。御陵は川内の科長(しなが)にあり(大阪府南河内郡)。
31代用明天皇
橘豊日(たちばなのとよひのみこと)、池邊宮に坐してまして、天の下治らしめすこと、三歳なりき(奈良県桜井市)。丁未の年の四月十五日に崩りましき。御陵は石寸(いはれ)の掖上(いけのうえ)にありしを、後に科長の中の稜に遷しき(大阪府南河内郡)。
32代崇峻天皇
長谷部若雀(はつせべのわかささぎのみこと)、倉橋の柴垣宮(しばかきのみや)に坐してまして、天の下治らしめおと、四歳なりき(奈良県桜井市)。壬子の年の十一月十三日に崩りましき。御陵は倉椅の岡の上にあり(奈良県桜井市)。
33代推古天皇
豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)、小治田宮(をわりたのみや)に坐してまして、天の下治らしめすこと、三十七歳なりき(奈良県明日香村)。壬子の年の十一月十三日に崩りましき。御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長の大き稜に遷しき(大阪府南河内郡)。

写本

現存する『古事記』の写本は、大きく、「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる[4]

現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の1371年(南朝:建徳2年、北朝:応安4年)から翌1372年(南朝:文中元年、北朝:応安5年)にかけて真福寺[5]の僧・賢瑜によって書写された真福寺本古事記三帖(国宝)である。奥書によれば、祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。道果本(上巻の前半のみ。1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)写)、道祥本(上巻のみ。1424年(応永31年)写)、春瑜本(上巻のみ。1426年(応永33年)写)の道果本系3本は真福寺本に近く、ともに伊勢本系統をなす。

その他の写本はすべて卜部本系統に属し、祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町後期写)である。

『古事記』の研究

『古事記』の研究は、近世以降、特に盛んにおこなわれてきた。江戸時代の本居宣長による全44巻の浩瀚な註釈書『古事記伝』は『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。宣長の打ち出した国学による「もののあはれを知る」合理研究は、漢式の構造的な論理では救済不能な日本固有の共感による心情の浄化プロセスの追究であった。

第二次世界大戦後は、倉野憲司武田祐吉西郷信綱西宮一民神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。特に倉野憲司による岩波文庫版は、初版(1963年(昭和38年))刊行以来、重版の通算は約100万部に達している。

20世紀後半になり、『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。成立論の代表としては津田左右吉石母田正があり、作品論の代表としては、吉井巌・西郷信綱・神野志隆光がいる。

『古事記』偽書説

『古事記』には、近世以降、偽書の疑いを持つ者があった。賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義・中沢見明・筏勲・松本雅明・大和岩雄・大島隼人らは、『古事記』の成立が公の史書に記されていないことなどの疑問点を提示し、偽書説を唱えている[6]

偽書説には大体二通りあり、序文のみが偽書であるとする説と、本文も偽書であるとする説に分かれる。概要を以下に記す。

  • 序文偽書説では『古事記』の序文(上表文)において『古事記』の成立事情が語られているが、それを証する外部の有力な証拠がないことなどをもって序文の正当性に疑義を指摘し、偽書の可能性を指摘している。
  • 本文偽書説では、『古事記』の神話には『日本書紀』より新しい神話の内容を含んでいるとして、より時代の下る平安時代初期ころの創作、あるいは、岡田英弘のように、伊勢国国学者本居宣長によって改作されたものであるとする。

しかし、偽書説は、上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。上代特殊仮名遣のなかでも、『万葉集』・『日本書紀』の中ではすでに消失している2種類の「モ」の表記上の区別[7]が、『古事記』には残存しているからである。これは偽書説を否定する重要な論拠である[8][9]。ただし序文には上代特殊仮名遣は一切使われていない。

なお、序文偽書説の論拠の一つに、『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、『古事記』序文のみ「太安萬侶」という異なる漢字表記になっているというものがあった。ところが、1979年(昭和54年)1月に奈良市此瀬(このせ)町より太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに

左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳[10]

とあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。

また、太安万侶の墓誌銘を含む平城京から出土した大量の木簡の解析により、当時の日本語の研究が飛躍的に進歩したことにより、古事記成立当時にはすでに古事記に書かれている書き言葉としての日本語は一般的に使用されていることが判明した。それにより序文中の「然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。」は序文の作成者が当時の日本語の使用状況を知らずに想像で書いたものではないかという指摘がなされている。

刊行本

注釈本

朗読

脚注

  1. ^ 山口佳紀神野志隆光校訂・訳 『日本の古典をよむ(1) 古事記』 小学館2007年(平成19年)、3頁。ISBN 978-4-09-362171-7
  2. ^ 上代特殊仮名遣とは上代の文献に見られる万葉仮名の特殊な使い分けのことである。本来、仮名遣とは現代仮名遣の「お」と「を」のように同音のものを異なる文字で書き分けることであるが、上代特殊仮名遣の場合は音韻の違いを表しているので特殊仮名遣と呼んでいる。通説によれば、上代日本語は、キヒミ・ケヘメ・コソトノモヨロの13音節とこれらの濁音節がそれぞれ甲乙の二類に書き分けられている。ただし、「モ」の書き分けは古事記のみにみられるものである。
  3. ^ 古事記序文講義 山田孝雄述、編志波彦神社・鹽竈神社
  4. ^ 青木周平 「古事記の諸本」『古代説話 記紀編』 桜楓社1988年(昭和63年)4月20日、pp. 14-19。ISBN 4273022451
  5. ^ もともと、古事記を所蔵していたのは現在の岐阜県羽島市に存在する真福寺であったが、徳川家康の命により、真福寺の一院である「宝生院」が名古屋城下に移転され、写本も同時に移転させられた。これが現在の大須観音である。詳細は当該項目を参照。
  6. ^ 鈴木祥造古事記偽書説の歴史とその意義について」『歴史研究』第5巻、大阪教育大学歴史学研究室、1967年11月、pp. 2-3,11,15、ISSN 0386-9245、NCID AN00254720、2009年11月11日閲覧 
  7. ^ 発音上の相違と言い換えても差し支えない。
  8. ^ ちなみに、偽書説を採る場合、その制作者として有力視されている多人長の『弘仁私記』(813年(弘仁4年))では上代特殊仮名遣が完璧に再現されている。
  9. ^ ただ、「偽書」とは著者や執筆時期といった来歴をいつわった書物のことであり、『古事記』の場合、その来歴が書かれている序文が偽りであるなら『古事記』すべてを偽書とみなすことに問題はない。もし、序文がなければ、『万葉集』と同じく、単に来歴不明の古書として扱われていただろう。
  10. ^ 太字引用者

関連項目

外部リンク