中島真人
中島真人 なかじま まひと | |
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生年月日 | 1935年1月1日 |
出生地 | 山梨県甲府市 |
没年月日 | 2008年5月18日(73歳没) |
出身校 | 拓殖大学商学部 |
所属政党 | 自由民主党 |
親族 | 中島克仁(息子) |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1995年7月 - 2007年7月 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1979年 - 1995年 |
中島 真人(なかじま まひと、1935年1月1日 - 2008年5月18日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、山梨県議会議員(3期)を務めた。
略歴
山梨県立韮崎高等学校と拓殖大学商学部を卒業。その後、山梨県立高等学校の教諭となる。1979年の山梨県議会議員選挙に出馬し初当選。3期務めた。1995年の第17回参議院議員通常選挙で山梨県選挙区から自由民主党公認候補として出馬し、現職の磯村脩(民主改革連合)や新進党の赤池誠章らを破り初当選。
在職中は自民党山梨県連の会長を務めたほか1998年に発足した小渕内閣では大蔵政務次官、2003年の小泉再改造内閣では内閣府副大臣に就任した。しかし2005年の郵政解散を発端とする第44回衆議院議員総選挙では県連が態度を曖昧にしたことにより党本部との軋轢を招いたことから選挙後に県連会長を辞任。2007年5月に県連会長へ復帰したが健康面に不安を抱えるようになったため、同年7月の第21回参議院議員通常選挙に不出馬を表明し、政界から引退。
引退から1年後の2008年5月18日午前2時、山梨県甲府市の病院にて死去。享年74(満73歳没)。
息子の中島克仁は外科医師であったが、第46回衆議院議員総選挙においてみんなの党公認候補として出馬、比例当選している。
人物
上記郵政選挙における対応のまずさをはじめ、鈴木宗男による献金問題(通称「ムネオマネー」)[1][2]や西松建設による政治資金規正法違反[3]の時も名前が出てくることなど疑惑が絶えない状況が続いていた。
自民党と対立する民主党議員ではあるが同じ元教諭という間柄から輿石東と仲がよく、山梨県知事選挙ではともに山本栄彦を支持して共闘しているほか、山梨県教職員組合の政治献金問題が発覚した際には「輿石と中島がバーターで参議院選挙に取り組んだ」と報道されている[4]。但し輿石とのバーターについては事実無根であると反論し、その後の取材を一切拒否している。
一方で同じ韮崎高校出身で自民党議員だった横内正明とは何かと対立していた。2003年の山梨県知事選挙では堀内光雄とともに横内を批判し対立候補で民主党から推薦を受けていた山本栄彦を支援したため横内は落選、また翌2004年の第20回参議院議員通常選挙に関しては横内が自民党からの出馬を表明したのにも関わらず県連会長としてこれを認めず、自民党は山梨県選挙区での公認候補を断念する事態となり、輿石の圧勝をサポートすることになった(横内は比例区から出馬したが落選)。2007年の山梨県知事選挙においても当初の不出馬の確約を反故にして出馬を表明した横内に対して「県連を分裂させる行為である」と批判し、自分の後継者としても難色を示すなど[5]その後県知事に当選した横内の元を訪れ和解をアピールした堀内に対し[6]、中島と横内との関係は最後まで改善されることはなかったが、中島の死後横内は会見で哀悼の意を述べている[7]。
脚注
- ^ 「宗男マネー貰った42国会議員」(週刊ポスト2002年7月5日号)
- ^ 「ムネオマネーが送られた国会議員の面々」(しんぶん赤旗2002年3月10日記事)
- ^ 西松建設の違法献金事件(Yahoo!トピックス)
- ^ 『産経新聞』2004年11月24日記事
- ^ 次期参院選山梨 中島氏が不出馬表明(2006年9月26日、山梨日日新聞)
- ^ どうなる衆院山梨2、3区 刺客の傷、癒えぬ自民 整わず臨戦態勢(2008年7月5日、MSN産経ニュース)
- ^ 【知事会見録】山梨・横内正明知事 富士山世界遺産登録へ努力(2008年6月2日、MSN産経ニュース)