「食堂車」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎新幹線: 小修正
Doratea (会話 | 投稿記録)
→‎ゆふいんの森: (矛盾のないよう、改変)
256行目: 256行目:


===== ゆふいんの森 =====
===== ゆふいんの森 =====
「[[ゆふ (列車)|ゆふいんの森]]」の場合はビュフェであるが、目的地の[[由布院駅|由布院]]まで[[博多駅|博多]]からでも2時間程度のため、移動中の[[喫茶店]]としての側面が強く、<!--食事らしい-->食事は[[駅弁]]を除き提供さていない。かつては[[カレーライス]]や[[スパゲッティ]]などド関係も充実していたが、現状は[[地ビール]]などのドリンク類やおつまみ程度に限られており、食事<!--と見做せるもの-->は「[[やきそば|あんかけ堅焼きそば]]」のみとなっている。
「[[ゆふ (列車)|ゆふいんの森]]」の場合はビュフェであるが、目的地の[[由布院駅|由布院]]まで[[博多駅|博多]]からでも2時間程度のため、移動中の[[喫茶店]]としての側面が強く、食事メニューの提供は[[駅弁]]と[[軽食]]に限ら。かつては[[カレーライス]]や[[スパゲッティ]]などホットミールのメニューも充実していたが、現状は[[地ビール]]などのドリンク類やおつまみ程度に限られており、ホットミールは「[[やきそば|あんかけ堅焼きそば]]」のみとなっている。


=== 私鉄 ===
=== 私鉄 ===

2010年5月23日 (日) 08:47時点における版

食堂車からの車窓 2007年 イタリア
食堂車からの車窓
2007年 イタリア

食堂車(しょくどうしゃ)とは、鉄道客車鉄道車両)の一種で、広義には車内に調理を含む供食設備を設けているものをいう。本項では、日本国内の食堂車と海外の食堂車についてわけて解説を行う。

日本の食堂車

日本国内で食堂車を連結する理由に以下のものがあげられる。

  1. 長距離列車として運行されるため、食事時間帯と重なることから乗客への供食という観点。
  2. 運転距離としては最長2~3時間程度ではあるが、乗客へのサービスの一環として。

前者は日本全土に建設・運営を行ってきた日本国有鉄道(旧・国鉄)→JR各社に連なる私営鉄道・官営鉄道によるものに多く、後者は地方鉄道法軌道法による都市間ないしは観光鉄道が起源とした20世紀後半以降現在に連なる私鉄・民鉄によるものが多い。そのため本項では、前者を「国鉄・JR」、後者を「私鉄」と分類した上で解説を行う。

国鉄・JR

国鉄では1970年代(昭和50年代前半)までは、ほとんどの長距離列車に食堂車が連結されていたが、列車の速度向上や長距離列車の廃止等により運転時間が短縮されてきたことから、食堂車を連結する列車は減少の一途をたどり、現状では本州 - 北海道を結ぶごく少数の夜行列車に限られている。

歴史

山陽鉄道 食堂付1等車
山陽鉄道 食堂付1等車
鉄道省時代の食堂車 1935年頃
鉄道省時代の食堂車
1935年
明治から第二次大戦まで

日本初の食堂車は、1899年5月25日私鉄山陽鉄道(現・山陽本線)が運行した官設鉄道京都~山陽鉄道三田尻(現・防府)間の列車に連結した食堂付1等車である。当初は瀬戸内海航路への対抗とともに1等車の付随施設の側面が大きかった。なおこの時の車両は、山陽1227 - 1229号、国有後のホイシ9180形と考えられている[1]。官営鉄道(国鉄)では1901年12月15日[2]に、日本鉄道では1903年に導入された[3][4]

この時は1等2等車の客しか使用できず、官営鉄道・日本鉄道でも同様の措置をとっていた[3]。3等車の客には当時行儀の悪い者が多かったため、1等客に不愉快な気持ちを抱かせないようにする配慮、あるいは本来の座席より良い車両で漫然と時間をすごすことの防止[5]であったとされる。その後、1903年10月から山陽鉄道では閑散時間帯には3等客への部分開放を行ったが、3等車から1・2等車を通って食堂車へ来るのは禁じられ、駅に停車している時に車両の外を移動することと身なりを整えることが求められたという。鉄道院でも、1919年8月から「一部食堂車に改造を加え、あるいはその連結位置を変更」して列車全体の旅客に開放した[6]。なお、食堂車を挟んで1等・2等車と3等車を分ける施策は、戦後の初期まで続けられた。詳細については、下記も参照。

当初は上級旅客の利用が前提であったことや和食より洋食が調理加工の幅が単純である為にどの食堂車もいわゆる洋食を専門に供給していた「洋食堂車」が連結していたが、1901年より第二次世界大戦前にかけて、鉄道利用の大衆化が進んだこともあり一部の列車においては洋食以外にも和食を給する「和食堂車」を連結するものも現れた。例として、1929年に愛称が付けられた特別急行列車富士」は1等・2等車のみで編成された関係で洋食を給していたが、3等車のみで編成されていた「」(さくら)では和食を給していた。そして1934年以降になると洋食を提供する食堂車は、「富士」と1930年に運転を開始した「」(つばめ)、更に山陽本線(京都 - 下関間、なお1935年からは呉線経由となる)において1等展望車を連結するなど格式の高かった急行7・8列車、更に東京 - 神戸間運転で1・2等車のみによって組成された急行17・18列車(いわゆる「名士列車」)の4往復と1937年に運転を開始した「」(かもめ)のみになり、他はすべて和食堂車になった[7]

大戦前は特別急行列車・急行列車に限らず、山陽本線・東北本線日光線参宮線日豊本線根室本線などの準急列車普通列車にまで和食堂車が連結されていた[8]

日中戦争太平洋戦争による運行や物資統制により、特急列車や一部の長距離の急行列車を除いて定食が簡素化し、単品の料理も一人一品の制限やテーブルクロスの廃止など風当たりの強い物となり、1944年4月に一時的に中断した。使用が停止された食堂車は各地に疎開留置されたり3等車に改造されたが、3等車に改造されたものの一部では旧調理室部分を利用する形で配給制ではあるが食料などを提供したものが存在した。

第二次大戦後

戦後は、占領軍の支配下により1945年から占領軍専用列車の食堂車の営業から再開した。その後、1949年9月の特急列車「へいわ」(翌年「つばめ」に改称)復活と同時に、同列車と東京~鹿児島間の急行1・2列車(戦前の「櫻」→急行7・8列車、後の「霧島」)に連結・営業を復活させ、以後順次拡大していった。しかし、1960年代頃より普通列車・急行列車が徐々に客車から電車気動車化されると急行形電車ではビュフェに転換、気動車では特急用車両のみ食堂車が製造されたことから、食堂車は客車による夜行列車ないし特急列車中心の営業となった。

キシ80 20車内 1985年
キシ80 20車内
1985年
日本食堂の食堂車用洋食器 1968年頃
日本食堂の食堂車用洋食器
1968年頃
日本食堂の食堂車用和定食飯碗 1968年頃
日本食堂の食堂車用和定食飯碗
1968年頃

1958年、最初の電車特急列車として20系→151電車を用いて運行を開始した「こだま」号は「ビジネス特急」として運行されたことや試作的な要素があったため、当初は半室食堂車で3等車との合造車となるビュフェ車(モハシ20→モハシ150→モハシ180)のみであった。これが半室食堂車を「ビュフェ」と呼ぶことの初出とされる。本格的な全室食堂車は1960年の「つばめ」電車化の際に登場したサシ151形で、後に登場した特急列車用食堂車キサシ80形・キシ80形サシ481・489形サシ581形・キサシ180形に構造・デザインが踏襲されている。

急行列車が電車化された際には、半室食堂車のビュフェとして連結した。ビュフェでは調理設備が食堂車に比べて簡略化されており運営人員も少ないことから、本格的な調理を行なうことは少なく比較的簡単に労力をかけずに調理できる軽食飲料が中心となったが、1961年12月に電子レンジをサハシ153-23に設置しテスト運用を行ったところ結果は良好で、以後は調理済みの冷凍食品や冷蔵食品を電子レンジで再加熱して利用者に供する事が出来る様になり、メニューの幅も広がった。また東海道本線急行列車群では寿司[9]を、東北本線急行列車群信越本線急行列車群・中央本線急行「アルプス」などではそばうどん丼物を供していた[10]

営業面では、1949年の東海道本線の特急列車運転を契機に復活した食堂車では日本食堂(現・日本レストランエンタプライズ<NRE>)の1社が担当したが、1953年より特急「つばめ」の食堂車を帝国ホテルが担当[11]したほか、都ホテル(現・都ホテルズ&リゾーツ)・新大阪ホテル(現・リーガロイヤルホテル)に続いて鉄道弘済会上越線列車で営業した聚楽[12](現・聚楽ティ・エス・エス[13])も参入。さらに1970年代には鉄道弘済会系の大鉄車販・金鉄車販(現・北陸トラベルサービス)・中国車販・九州車販(現・西日本トラベルサービス)なども在来線急行ビュフェ営業に参入し、食堂車・ビュフェ黄金時代を支えた。

1970年代以降

しかし、在来線においては1970年代以降は食堂車の営業休止もしくは不連結となるケースが多くなった。これには以下のような理由がある。

  1. 1972年に発生した北陸トンネル火災事故の出火原因が、当初は食堂車の石炭コンロとされたため[14]、裸火を使っての調理が禁止となり電気レンジを持たない旧型食堂車は必然的に使用できなくなった。
  2. 国鉄の財政難により、廃車となった旧型車の代替車両製造が予算的に困難になった。
  3. 食堂事業者の人員(特に女子従業員の)確保が難しくなった。
    • 給与水準がそれほど高くない割には労働条件が厳しかったことも一因。
    • 労働条件が通常の食堂と異なり、「常に揺れる」・「厨房が狭い」・「専門化されアラカルトメニューの豊富さをまかなえない」などの特殊性があるが、事業者側も利用率の減少によりそれに対するノウハウを伝える様な教育制度を採用しなかったという面もある。
    • また、相次ぐ特急列車増発により食堂車営業列車が急激に増え、人員面に余裕が無いことから特急と急行(ビュフェも含む)が並存していた線区では特急列車の食堂営業のみに絞る傾向も強まった。
  4. 通常の飲食店と異なり利用客が限られることによる回転の悪化。更に自由席代わりにビールやコーヒー一杯で長時間占領するマナーの悪い乗客も目立ってきた。
  5. 昼行特急列車の増発並びに新幹線との連携、さらには長距離移動での航空機利用の一般化により夜行列車の需要が長距離であっても減退してきたことにより、夜行列車自体の運行区間の短縮及び効率化を図るために相対的なサービス低下を余儀なくされた。
  6. 新幹線を含む昼行特急列車の増発による特急列車の一般化やスピードアップなどで乗車時間が短縮され、比較的高価である食堂車での食事を摂る必要性が減少した。
  7. 1980年代以降になると、コンビニエンスストアなどにおける弁当販売の普及などにより、食習慣の変化などから食堂車の利用率が低下した。また、コンビニエンスストアの弁当は食堂車のメニューや駅弁と比べ廉価であることから大きな影響を及ぼした。このことは、現在でも車内販売や駅弁業者の撤退に引き継ぐ形にまで影響する。
  8. さらに極端な例では利用客が多く、運営面でも黒字であったにもかかわらず、国鉄による車両運用合理化という事情だけで一方的に編成から外されて廃止に追い込まれたケースさえあった。1985年3月ダイヤ改正で食堂車の連結が中止された特急「雷鳥」「白山」などがその一例であった。
特急「白山」食堂車さよなら営業 サシ489-4 1985年
特急「白山」食堂車さよなら営業
サシ489-4
1985年

これらの状況から在来線では、ビュフェ車連結の電車急行列車では1976年11月に中央東線の「アルプス」、信越本線の「信州」・「妙高」を最後に、食堂車連結の昼行特急列車は1986年「おおとり」・「オホーツク」を最後に連結が中止された。だが一方で1985年には「雷鳥」に和式グリーン車「だんらん」(サロ481形500番台)が登場した。この車両はサシ481形を改造したもので、旧調理室はビュフェとし軽食類の提供を行うという新たなサービス展開の提案がされた。しかし、1989年に和式グリーン車そのものが廃止されたために当該車両は一部が廃車、一部が通常座席のサロ481形2000番台に改造されビュフェ部分はラウンジに改装されたためにビュフェサービスは終了した。また、このコンセプトは「白山」に連結されたラウンジ&コンビニエンスカーでカレーライスや弁当類などの軽食を電子レンジで暖めて販売するスタイルに承継された。

分割民営化以降

原則的に分割民営化後は、1990年までに電車・気動車の食堂車は淘汰され、東京 - 九州間の寝台特急(いわゆる「九州ブルトレ」)、青函トンネル開通後に運転が開始された「北斗星」「トワイライトエクスプレス」の対北海道寝台特急のみで食堂車営業が継続された。

対北海道の2列車では、事前にみどりの窓口で食事券を購入するコース料理の予約制と「パブタイム」と呼ばれるコース料理終了後に設定される予約不要のスナック的営業を行い、従来の「予約不要で食事を取るための食堂車」から、「列車内での食事を楽しむエンタテインメントとしての食堂車」というコンセプトへの転換が図られた。

一方、九州ブルトレでは従来からの営業スタイルで一定の評価と営業実績も維持されていたが、1990年3月の改正で東京~下関間の「あさかぜ3号・2号」にラウンジカーが登場し、サービスカウンターでうなぎ御飯カレーライス牛丼焼そばたこ焼きシュウマイなど温かい料理を提供した。

だが、この頃より利用客が減少してゆき1991年6月1日で「みずほ」・「出雲1号・4号」の食堂車営業が終了となった。ただし食堂車は引き続き連結され供食内容を見直し売店として営業するスタイルの変更となり、日本食堂の従業員が電気レンジ以外の設備を利用して暖かい食事の提供を行った。1993年3月の改正で、九州ブルトレ全列車の食堂車営業が終了し売店営業に移行した。

以後の九州方面夜行列車の売店営業の推移は以下のとおり。

  • 1994年12月ダイヤ改正で「みずほ」廃止。
  • 1997年11月ダイヤ改正で「富士」・「はやぶさ」が売店営業の食堂車が編成から外され、下関「あさかぜ」が長野新幹線開業による車内販売員の従業員確保で売店営業を休止。
  • 1998年8月中旬、「出雲」の売店営業が「サンライズ出雲」運転開始による下りダイヤ繰り下がりで営業を終了。売店営業列車が東京~長崎の「さくら」のみとなる。
  • 1999年12月ダイヤ改正で「さくら」は「はやぶさ」との統合により売店営業の食堂車連結を中止しサービス終了。売店営業休止後も食堂車が連結されていた列車は、「フリースペース」として2006年に列車廃止するまで残存した。
新幹線

1964年開業の東海道新幹線では、東京 - 新大阪間を当初は「ひかり」で4時間、「こだま」で5時間、翌年より約1時間短縮されそれぞれ3時間10分・4時間程度と運転時間が短く、0系電車では本格的な食堂車の連結は見送られ、12両編成中に35形ビュフェ・普通合造車を2両連結して営業した。ビュフェ部はテーブルと回転椅子を装備した着席式で、メニューの上でも比較的食堂車に近い機能を有していた。

大阪万博を控えた1969年夏頃より輸送力増強を目的として16両編成化されたが、「ひかり」編成と「こだま」編成に分離し「こだま」編成では5号車を売店車(25形400番台)に差し換え、以降「こだま」用編成はビュフェ1両が正規となった[15]

1972年山陽新幹線岡山暫定開業時も、引き続き食堂車の連結は見送られた。

0系食堂車 36-1
0系食堂車
36-1
0系ビュフェ車 37-1012
0系ビュフェ車
37-1012
37形ビュフェ内部
37形ビュフェ内部
37形ビュフェ厨房
37形ビュフェ厨房
100系食堂車 168-9001(試作車)
100系食堂車
168-9001(試作車)
100系V編成 食堂車車内
100系V編成
食堂車車内
100系G編成カフェテリア 148形車内
100系G編成カフェテリア
148形車内
0系「ウエストひかり」 37-7301 ビュフェ客室
0系「ウエストひかり」
37-7301
ビュフェ客室
0系「ウエストひかり」 37-7301 ビュフェ厨房
0系「ウエストひかり」
37-7301
ビュフェ厨房
200系ビュフェ 237形車内
200系ビュフェ
237形車内

1975年博多開業に際して、最速の「ひかり」でも所要時間が6時間以上となるために、1974年より既存のひかり編成に36形食堂車が組み込まれることとなり博多開業を前に一度に96両が製造された[16]。新幹線では車体長が在来線より5m長く幅も50cm広いことから、在来線の設計を基本にしながらも食堂内の山側は4人掛け海側は2人がけのテーブル設置とし、山側に独立した通路を設け通り抜ける乗客と食堂車利用者の分離を図った[17]。1976年の22次車では狭窓に設計変更された1000番台区分が3両追加増備され、36形は計99両が製造された。また、同時にビュフェ車は立食式の簡易形に設計変更された37形に移行した。

1985年にデビューした100系電車では、食堂車は2階建車両で2階は客席、1階は厨房と売店と通り抜ける乗客の通路とした168形を組み込んだX編成として製造された。しかし、1987年の増備車からはスピードアップにより食堂車利用客が減少しつつある状況を踏まえて、食堂車から1階をカフェテリア、2階をグリーン車とした148形を組み込んだG編成に移行した。ただし、1989年から西日本旅客鉄道(JR西日本)が製造したグランドひかり用V編成では、東京 - 博多での営業運転が主体となるため再び168形食堂車とした組成に変更された。

全盛期には、定期列車の「ひかり」では全列車食堂営業が行われていたが、カフェテリア車により食堂営業は縮小に転じ、さらに1992年の「のぞみ」運転用に開発された300系電車では食堂車が製造されなかったこと。1995年には0系「ひかり」食堂車は営業休止[18]となり、2000年には100系食堂車の営業も終了し、東海道山陽新幹線での歴史に幕を閉じた。

またこれとは別にJR化後の1988年3月13日ダイヤ改正で運転が開始された「ウエストひかり」では、旅客需要の小さい山陽新幹線を運営するJR西日本が、航空会社との競合が激しい京阪神 - 北九州市福岡市間での運転で最も売り上げを見込まれたことから、サービス政策上ビュフェを営業することとなった。これには0系37形のビュフェ室を拡大し椅子とテーブルを設置するなどの大幅なアコモ改良を行い投入した。しかし、2000年に「ひかりレールスター」へ発展的解消をとげ運転ならびにビュフェの営業を終了した[19]

1982年開業の東北新幹線上越新幹線では運転時間が短いため237形ビュフェ車のみとしたが、2003年に営業を終了した。また、100系同様に2階建車両も製造されたが、200系電車では食堂車は製造されずカフェテリア車の248形とされた。

これら新幹線でも営業終了の理由は在来線と同様なもので利用率低下があったほか、次にあげる要因がある。

  1. スピードアップによる乗車(所要)時間の短縮したことなどの状況を踏まえ、JR各社も不要と判断しており後継車両に食堂車・ビュフェ車が製造されなかった。
  2. 首都圏-九州といった1,000kmを超える長距離移動では航空機利用が一般化したため、食堂車利用につながる長距離移動の需要も激減した。

営業担当業者は、博多開業の時点で日本食堂・ビュフェとうきょう(ジェイアール東海パッセンジャーズジェイダイナー東海→ジェイアール東海パッセンジャーズ)・帝国ホテル列車食堂・都ホテル列車食堂の4社が担当していたが、上越新幹線開業で聚楽が、JR化後に運転開始された「ウエストひかり」で丸玉給食・にっしょく西日本(→Jウェストラン→現・ジェイアール西日本フードサービスネット)が新たに加わり合計7社が食堂営業を行っていた。当時の時刻表には列車ごとに担当の会社が記載されており[20]、また一部では、ステーキカレーなど一部の特化メニューによって営業を行う事例も見受けられた。

連結位置
在来線

戦前までの列車編成は、食堂車で等級を区分してかつ上の等級の車両を下の等級の乗客が極力通り抜けないように編成されていた。戦後になっても基本的に踏襲されたが(あさかぜの例を参照)、連結両数の増加に伴いフレキシブルに対応される様になった。

東海道・山陽新幹線

0系・100系ともに16両編成の8号車が食堂車とされた。これは以下の理由によるものである。

  • 編成の中間で両先端からの利用客を考慮したため。
  • 最大運転時間6時間以上のため、調理のみならず食器も洗うために水も大量に必要となる。そのための排水溝(ピット)が名古屋駅岡山駅のホーム上の8号車停車位置の真下に設置されたため。
    • 在来線であれば汚水は走行中に外へ捨てていたが[21]、運転速度の速い新幹線では気密上の問題からもこのシステムを採用できない。
    • トイレでは汚水を浄化し、洗浄水として再利用するシステムが開発されたが、食堂車では衛生上の問題から再生水は利用できない。そのため汚水を床下のタンクに溜め込み、途中駅での停車中に汚水を排水する方法が採用された。

構造

狭義での食堂車・ダイニングカーは、市中のレストラン並みに労力のかかる本格的な料理の調理・供給が可能な調理設備と接客に充分なテーブル席を備える本格的なものを指す。広義には簡易食堂車であり一般の座席車との合造となっている場合が主流の「ビュフェ(車)[22]」も食堂車に含められる。ビュフェでは立食スタイルが一般的で、カウンターに椅子すらない場合やカウンター席があってもその数は少ない。なお、国鉄・JR在来線における車両記号は、食堂車・ビュフェとも「シ」で表記される。

全室食堂車
オシ17 2055
オシ17 2055

マシ35形までは、客席に4人席と2人席を備えた定員30名が標準で厨房内の調理設備は石炭レンジと氷冷蔵庫を使用していた。1956年に登場した10系客車のオシ17形では、車体幅が拡張された事で車内レイアウトが見直され、客席のテーブルを4人掛けとして定員40名に増加し、以後の食堂車の標準となった。

調理室の電化については、マシ35形の姉妹形式であるカシ36形に電気レンジや電気冷蔵庫を装備したが、電力発生量が充分ではなく故障が多かったことから、マシ35形と同じ設備へ改修して編入した。

ナシ20 24
ナシ20 24
サシ489-4
サシ489-4

電化調理設備の実用化は、電源車からの集中給電方式採用し固定編成を前提とした20系客車のナシ20形で達成された。その後、分散電源方式を採用した14系客車のオシ14形、さらに再び集中電源方式に変更となった24系客車のオシ24形に基本設計は踏襲されている。

電車特急用食堂車は、151系電車のサシ151形が基本的には既に登場していたナシ20形をベースに当初より完全電化として設計された。大量に電力を消費をすることから、自車に70KVAの電動発電機(MG)を搭載した。また回送運転台を客室側妻面に設け、編成組成上の要ともされた。後に開発・製造されたサシ481・489・581形でも基本設計は踏襲されたが、サシ151形の使用実績を基に回送運転台が調理室側妻面にも増設されている。

キシ80 26
キシ80 26
キサシ180形
キサシ180形

気動車特急用食堂車は、第1次製造分となったキハ81系でもサシ151形と同様の完全電化を採用したために、床下には大型水タンク3個のほかに発電用に燃料噴射特性を変更したDMH17H-GエンジンとDM63形発電機を組み合わせた発電セットを搭載した。これらの搭載スペース確保のために走行用エンジンは搭載できず付随車のキサシ80形として製造された。しかし、以下の問題点が露呈した。

  • 無動力のキサシ80形を含んだ編成は元々非力であったが、これに加えて長距離の高負荷運転を課せられる中で、エンジントラブルが続出した。
  • 先頭車と食堂車のみに電源を搭載し、先頭車は非貫通構造でもあるため編成を組成する際のフレキシビリティに欠ける。

このため2次製造分のキハ82系からは、全国に特急網を完備する上で比較的短編成で使用される事も考慮したために食堂車も走行用エンジンを2基搭載した上で電源供給もキハ82形もしくは81形からとし、調理用水タンクを床上の厨房側車端に移設する設計変更を行ったキシ80形に移行した。このため食堂定員が40人から左右1卓ずつ減り8卓32人となった。

1968年に登場したキハ181系では、500PSを単機で発揮する DML30HSAエンジンを搭載したため再び付随車となりキサシ180形とされ、定員も40人に戻った。ただし、発電セットは搭載されずキハ181形から電源供給される形を採った。

なお、製造期間が長期に亘ったために途中でテーブル・椅子のFRP化などの改良が行われたほか、客車ではオシ14形以降、電車ではサシ181形100番台・サシ481-15以降・サシ489形・サシ581形、気動車ではキシ80 37とキサシ180形が、複層ガラスの間に手巻き式のブラインド(ベネシャンブラインド)をはめ込んだ方式に設計変更となり、従来のカーテンは廃止された。

なお、全室食堂車でありながらビュフェとした車両も存在する。夜行・寝台急行列車に用いるために製造されたオシ16形[23]がそれで、寝台設営・解体の際の避難場所と言う位置づけもあったため「フリースペース」に準ずる扱いから来ている。

半室食堂車(ビュフェ)

1958年に登場した国鉄初の電車特急「こだま」では、試作要素もあったために当初は軽食中心かつ立食スタイルを採用する半室食堂車のビュフェとされたが、このコンセプトは1960年6月に153系電車で運行を開始した東京~大阪間の急行「せっつ」に組み込んだサハシ153形に引き継がれ、以後のサハシ165・169形451・455形にも踏襲された。

これらの車両が製造された時期は、冷房化される以前もしくは1等車のみが冷房化されていたが、ビュフェ内部は冷房を完備していたことや調理も電化されていたために自車給電用に40KVA MGが搭載されていた。後の普通車冷房化に際し、一部の車両は冷房用電源供給も兼ねた110KVA MGに換装されたためにビュフェが営業休止措置となった以降も編成から抜く事が難しく1980年代前半までは編成に組み込まれたままの列車も多く見られた[24]

JR化後に製造された食堂車

分割民営化後に東日本旅客鉄道(JR東日本)・九州旅客鉄道(JR九州)で食堂車を新造したほか、改造名義だが車体新造された食堂車が北海道旅客鉄道で登場している。

24系客車「夢空間」ダイニングカー
オシ24 901
オシ24 901

1989年にJR東日本が、次世代寝台列車用車両の方向性を検討するため24系夢空間のダイニングカーとして東急車輛製造で製造させた試作車両。展望室を有していたために列車の最後尾に連結された。一般の24系客車とともに編成を組成され「北斗星」系統をはじめとする臨時列車や団体専用列車で運用されたが、2008年3月で営業運転を終了し廃車。現在では、埼玉県三郷市ショッピングセンターららぽーと新三郷」で展示されている。  

サハシ787形車内 2002年
サハシ787形車内
2002年
マシE26-1
マシE26-1
サハシ787-1 - 14

1992年にJR九州が製造した787系電車に連結されていたビュフェ車。九州新幹線開業による運用距離・時間の短縮に伴い2003年に営業を終了し、現在では全車サハ787形200番台に改造されている。

マシE26-1

1999年にJR東日本が製造したE26系客車の食堂車。編成全体が2階建車両として設計・製造されたことから、1階が編成中の通り抜け廊下と従業員用寝台、2階が客席、上野寄り車端部(いわゆる「平屋部分」[25])に厨房を設置している。「カシオペア」で現在も運用されている。

キシ80 501

1988年5月にJR北海道が苗穂工場で保留車のまま承継されたキシ80 29を改造した食堂車。ジョイフルトレイントマムサホロエクスプレスに組み込むために合わせた車体を新造し載せ換えたもの。車体は座席車のハイデッカー構造ではなく平屋構造であるが、車体断面形状は他車と揃えられている。また食堂定員が、片側を1列としたためオリジナル車の32人から24人に減少している。1998年冬の運行から編成から外されたが、そのまま苗穂運転所で留置され2002年に廃車となった。

現状

オシ24 704 当初から客車として製造された食堂車 スシ24 504 当初は電車として製造され客車化改造された食堂車
オシ24 704
当初から客車として製造された食堂車
スシ24 504
当初は電車として製造され客車化改造された食堂車

2024年現在運行されているものでは、夜行列車の「北斗星」・「カシオペア」・「トワイライトエクスプレス」にのみ連結されているスシ24形がナシ20形の電化調理設備と客席を基本的に踏襲している狭義の本格的食堂車である。スシ24形はもともと24系客車に存在したオシ24形とは全く別の車両で、485系電車のサシ481形・489形からの改造編入車であるため、寝台車特有の高い屋根から一転して低屋根にAU13形[26]分散式冷房装置の並んだスタイルのほか裾絞りの車体など異彩を放っている[27]

JR九州久大本線を走る「ゆふいんの森」で運用されるキハ71系キハ72系にはビュフェが設置されているが、食堂車を示す車両記号「シ」は使用しておらず、全室普通車の「キハ」となっているほか、肥薩線の「SL人吉」ではオハ50 701にビュフェが設置・営業されている。

北斗星・カシオペア
「北斗星」食堂車「グランシャリオ」 JR北海道所属車 「北斗星」食堂車「グランシャリオ」 JR東日本所属車
「北斗星」食堂車「グランシャリオ」
JR北海道所属車
「北斗星」食堂車「グランシャリオ」
JR東日本所属車

「北斗星」(グランシャリオ)・「カシオペア」(ダイニングカー)の両食堂車は、出発時より21時すぎまでの間は「ディナータイム」として和洋食ともコース料理のみの予約制営業である。ディナータイム終了後、21時30分頃(利用状況により変動あり)から23時(オーダーストップは22時30分頃)までは「パブタイム」となり、列車利用者であれば予約なしでも利用できる。ハンバーグステーキやビーフシチュー(単品・定食)・スパゲッティ・カレーライス・ビール・ワイン等のドリンク類などが用意される。ただし、食材上野でしか積み込まないため、上りの札幌発では売り切れか売り切れ間近となっていることも多い。

翌朝6時30分より朝食営業を行っており、こちらは予約なしで利用が可能。メニューは和定食・洋定食・ドリンク類などが用意される。現在はおかずを統一しているため、おかず以外ではご飯・味噌汁(和定食)かパン・スープ(洋定食)のどちらかを選択するだけとなっているが、和定食は積込食数が少ないため早めに売り切れることも多い。

トワイライトエクスプレス
スシ24 2
スシ24 2
「トワイライトエクスプレス」食堂車
「ダイナープレヤデス」

「トワイライトエクスプレス」の食堂車「ダイナープレヤデス」は、17時30分から21時頃までを乗車前からの予約定員制である「ディナータイム」とし、季節ごとに内容の変わるフランス料理フルコース(1万2000円)を提供している。以後、21時頃から23時頃までを上記の「北斗星」・「カシオペア」と同様に「パブタイム」とし、ビーフピラフの他、ビールワインなどドリンク類、地鶏のから揚げやフレンチポテト、ミックスナッツといった軽いおつまみを提供している。なお、「北斗星」・「カシオペア」とは異なり、和風日本海懐石御膳(6000円)は食堂車で食べることはできず、ルームサービス(A寝台のみ)かサロンカーなどで食べることになっている。

この他に車内でのみ販売するプレヤデス弁当(1500円)は、オーダー後に食堂車の厨房で調製したものを提供する。

翌朝6時から9時までは「モーニングタイム」となっており、和・洋の朝食を提供している。30分刻みの定員制であり、希望者は乗車後に車内で和食・洋食のいずれかと利用時間を予約をすることになっている。

ただし、和定食は数が限られており、予約の聞き取りは1号車より行う為(ウエルカムドリンクサービス時)、B寝台乗車の場合は和定食を予約できない事もある。

大阪発では13時から16時まで、ビーフシチュー、カレーライスやサンドイッチなど品数限定ではあるが「ランチメニュー」を提供しており、現在の日本の列車で朝昼夕3食を提供する唯一の列車である。一方、札幌発は14時台と遅いため「ティータイム」として発車後から16時頃までコーヒー紅茶程度のみ提供している。

ゆふいんの森

ゆふいんの森」の場合はビュフェであるが、目的地の由布院まで博多からでも2時間程度のため、移動中の喫茶店としての側面が強く、食事メニューの提供は駅弁軽食に限られる。かつてはカレーライススパゲッティなどホットミールのメニューも充実していたが、現状は地ビールなどのドリンク類やおつまみ程度に限られており、ホットミールは「あんかけ堅焼きそば」のみとなっている。

私鉄

国鉄・JR以外の日本の鉄道事業者(いわゆる私鉄。以下単にこう称する)では、主に座席指定席を有する特別急行列車を運行する会社での事例が多い。

歴史

私鉄で初めて食堂車を連結したのは南海鉄道(現・南海電気鉄道)である。電化以前の1906年に1等・喫茶室の合造客車を製造し、大阪和歌山間の急行列車に連結され1日2往復で運転開始している。この車両は1917年に廃車となったが、電化後の1924年に登場した電7系に日本の電車では初となる食堂車の電付6形が製造された。手荷物室・特別室・本格的な厨房を備えた食堂の合造車であったため、俗に「クイシニ」と呼ばれた。

戦後、国鉄・JRの車両と同じ事例として本格的食堂車を製造したのは伊豆急行サシ191形のみである。1964年サントリーが後塵を拝していたビール事業テコ入れのために観光地でのPRも兼ねて、「10年間は食堂車で車内でサントリー製品を販売する」という契約で伊豆急行に贈与という形で登場した。食堂車を称してはいるが、前記のような理由から車内で本格的な食事が供される機会は少なく、ビアガーデンに類似した営業形態であった。

スウェーデン語デンマーク語などで乾杯を意味するスコールにちなみ「スコールカー」と名付けられたサシ191形はデビュー当初は話題になったが、当時国鉄が「あまぎ」など伊東線 - 伊豆急行線乗り入れ列車に食堂車を連結していなかったこともあって伊東線乗り入れに難色を示し、自社線内のみの営業となった。後年には伊東線へ乗り入れはのされたものの食堂車は伊東線内営業休止であったため、収益が上がらず次第に存在意義が薄れてしまった。結局、営業自体も早期中止となり[28]使用されないまま伊豆稲取駅の側線に留置され、契約の切れた1974年に普通車のサハ190形に改造され、2004年に廃車された。

また、私鉄の長距離列車としては最長でも2~3時間200㎞まであるため供食設備・メニューも茶菓・軽食中心になっている。戦後は、小田急ロマンスカー近鉄特急に存在したスナックカーでの調理スペースで調理(電子レンジで加熱)した軽食を座席まで運ぶシートサービス方式が主流で、東武鉄道100系(スペーシア)にはビュフェサービスが設置されているものの始発駅発車直後にスタッフが各座席にメニューを配り乗客が購入に出向く売店形式を採っている。ただし、これらの設備も通勤時間帯や走行距離の短い列車で運行され事例も多く見受けられる。一部列車では、スタッフの帰宅・出勤など人員の確保問題、着席サービスが優先であること、物品の補充問題などの理由により営業されない事例も多い。

現状

東武鉄道
東武鉄道100系(スペーシア)
ビュフェコーナー

東武鉄道では日光線特急スペーシア「けごん」・「きぬ」でビュフェサービスを行っている。

戦前に展望車トク500形」に供食設備を備えさせ、最後尾に連結したことが起源である。第二次世界大戦の激化に伴い列車そのものが廃止されたが、戦後には5700系・1700系の売店で茶菓の販売を再開。固定編成を採用した1720系DRCで本格的なビュフェを初めて採用。1990年デビューの100系(スペーシア)では、座席までスタッフが運ぶ「シートデリバリーサービス」を導入した[29]しかし、人件費等々の問題からデリバリーサービスについては1995年に廃止されており、現在では列車発車直後にメニューを配り、希望乗客はビュフェに出向き購入する売店形式に変更された。

なお、一部列車とJR線に乗り入れる「スペーシア日光・スペーシアきぬがわ」では営業休止。200・250系による伊勢崎線特急「りょうもう」および300・350系による日光線特急「しもつけ」・「きりふり」・「ゆのさと」にはビュフェの設置はなく、清涼飲料水自動販売機が設置されているのみである。

小田急電鉄
小田急ロマンスカー車内のシートサービス
お茶は缶入りや紙コップでなく車内専用のカップにて提供される

小田急電鉄では1935年の「週末温泉急行」運行で茶菓のサービスが車内販売形式で行われたが、戦中に列車とともに廃止。戦後1948年1910形でロマンスカー運行が復活した際に「走る喫茶室」の愛称で軽食茶菓のシートサービス[30]を再開した。これらの運営スタッフは日東紅茶が1948年の再開時から、森永エンゼルが1968年から参入し担当した。

しかし、以下の理由により1995年に上述サービスは一旦廃止となった。

  • 30000形「EXE」の増備により3100形「NSE」が廃車。同時にドアの開閉要員でもあったシートサービス要員が減少。
  • 箱根・江ノ島地区への行楽客輸送特化から、通勤・通学・買い物客の利用が主体になり、注文を受けてから提供まで時間がかかる「走る喫茶室」のサービスが実態と融合しなくなったことから利用客が減少した。

これらにより車両販売が代替する結果となったが、「ロマンスカーの復権」を合い言葉に2005年にデビューした50000形「VSE」ではシ-トサービスを復活させている。詳細は小田急ロマンスカーも参照。

また、厨房設備としては冷蔵庫コーヒーメーカービールサーバーなどは備えているものの、コンロなど加熱調理できる機材はない。

鹿島臨海鉄道
ひたちなか海浜鉄道

鹿島臨海鉄道ひたちなか海浜鉄道では2010年3月21日、22日の2日間、「メイドトレイン」を運行した。これは秋葉原などで多い、いわゆるメイド喫茶を列車内で行おうという試みであり、鹿島臨海鉄道では7000系マリンライナーはまなすを用い、ひたちなか海浜鉄道では旧型気動車を用い開催した。車両には特別な改造などは行わず、形式変更も無くあくまで車内販売として行われたが、マリンライナーはまなすではビールサーバーも設置し、生ビールの販売も行われた。また、車内販売のワゴンはJR西日本特急やくもで使用していた物の譲渡品であった。

本来食堂車とは乗客に対するサービスの一環として提供されていたものだが、「メイドトレイン」は乗客誘致を目的としており、乗車することそのものを目的とする、逆転の発想である。

海外の食堂車

北米

米国・アルトン鉄道の1885年の食堂車

歴史

アメリカ合衆国で本格的な食堂車が登場したのは1860年代である。それ以前にも供食設備を持つ客車は存在し、列車内における食事の提供は1830年代から行われていたようだが、継続的なサービスに繋がっていなかった。この時代、や車内では物売りが果物や軽食を販売し、食事時には食堂のある停車駅で食事のための停車時間がとられていたので、車内での飲食を望む優等旅客はそれほど多くなかった。

このような事情から、初期の食堂車のほとんどは客車の一部を食堂とした小規模なものであった。寝台車サービスで有名なプルマン社は1868年に全室食堂車「デルモニコ」を建造したが、これは例外的な存在であった。プルマン社は優等旅客への供食サービスにも力を入れていたが、その主役はホテル・カーと呼ばれる厨房付きの寝台車で、食事時には座席にテーブルが据え付けられ食事が提供された。

全室食堂車が流行したのは1870年代後半で、東部や中西部の鉄道会社はこぞって食堂車を建造し、コース料理の提供をはじめた。この傾向は貫通路が開発され、車両間の移動が簡単になったことで加速し、19世紀の終わりには長距離列車には食堂車の連結が当たり前となった。

フレッド・ハービー社ウェイトレスの制服

アメリカの食堂車は慢性的に赤字であった。優等旅客を対象とすることからメニューはフランス料理クレオール料理のコースが主流で客単価も高く、一流レストランと同等以上のサービスを提供するために多数の要員を必要としたことがそれ以上の費用を要した。このため、プルマン社は波動輸送用の数十両を除けば全室食堂車を経営することはなく、各鉄道会社は自社で食堂車を経営し旅客誘致の目玉としてサービスや味を競い合い、全盛期の1920年代には60の鉄道会社が1000両以上の食堂車を運営していた。食堂車運営にあたっては個々のサービスの向上は勿論の事、経営主体が同じであれば列車が異なっても同質のサービスを提供することが重視され、食器[31]やウェイター、ウェイトレスの制服の統一が図られた。アッチソン・トピカ・サンタフェ鉄道で食堂車を受託経営したフレッド・ハービー社の制服はその典型的な例で、この制服をまとった女性従業員「ハービー・ガール」は中西部から西海岸にいたる広大な営業エリアで提供された均質で高いサービスの象徴として好評を博した。 全盛期のアメリカの鉄道では、食堂車のほかにビュフェ・カフェカー・ランチカウンターカーといった簡単な厨房を持つ車両で供食サービスを提供するケースも多かった。その目的は、コース料理を必要としない普通旅客に対する安価な食事の提供と優等旅客の軽食や喫茶の需要に応えることにあり、長距離列車では目的に応じた設備を持つ車両が数両連結されるのが通常であった。

サンタフェ鉄道の食堂車厨房ワイングラスを散見できる
2004年

上記のようにアメリカの食堂車は1920年代から40年代にかけて全盛を極めたが、それ以降は急速に衰退する。優等旅客は航空機に、普通旅客は長距離バスグレイハウンド)にシェアを奪われ旅客は大幅に減少。多数の要員を必要とする食堂車の経営は成り立たなくなってしまった。多くの場合は列車の廃止とともに消滅したが、食堂車サービスのみ削減し車内販売に置き換えるケースも散見される。サザン・パシフィック鉄道では大陸横断の長距離列車でも自動販売機による軽食販売に置き換えるケースなどがあり、その劣悪なサービスがアムトラック成立の後押しをしたとも言われている。

カナダの長距離列車「カナディアン号」の食堂車

その後、アメリカの長距離旅客列車の多くは1971年にアムトラックに移行し、食堂車もアムトラックの経営となり現在に至っている。

現状

アムトラックのほとんどで供食設備を備える。夜行列車ではコース料理を提供する食堂車を連結しており、中距離列車もカウンターとテーブル席を備えたホットドッグサンドウィッチを提供するカフェ・カーを連結している。運転時間が長大であることと、駅構内の売店が少ないことなどがその理由である。カナダの旅客列車を運行するVIA鉄道においても事情は同様であるが、中距離列車では、供食車両を設ける代わりに航空機の機内食同様の食事のシートサービスが行われている。

ヨーロッパ

スペイン・タルゴの食堂車 2006年
スペイン・タルゴの食堂車
2006年
スペイン・タルゴのバー車
スペイン・タルゴのバー車

西ヨーロッパでは日本と同様、食堂車は減少・簡略化傾向にあるが、その様相は国ごとに異なる。

フランスでは、かつて「ル・ミストラル」などの優等列車ではフルコースフランス料理が提供されていたが、夜行列車を含めてサンドウィッチ程度の軽食を提供するビュフェ車以外は全廃されている。ドイツイタリアスペインなどに向かう国際列車に食堂車を連結するものがあるが、これらはすべて乗り入れ先の国側の鉄道事業者が運営するものである。ユーロスターなど一部の高速列車では狭義の食堂車は連結されていないが、2等車乗客向けにビュフェ車が連結されており、1等車の乗客には座席に飛行機機内食同様の配膳サービスが行なわれている。

ドイツでは、食堂車の慢性的な経営難により、国際列車や夜行列車を除く本格的な食堂車のビュフェ車(ビストロ)への改装が進められている。メニューは、他国に比べると豊富で経営規模も比較的大きい。

一方、イタリア・スイス・スペインでは昼行列車の食堂車のてこ入れが積極的に行われている。ユーロスター・イタリアの食堂車は本格的な厨房設備を擁する。スイスではファストフード店に似た供食設備を持った車両の試みも行われているほか、一部私鉄の列車にも食堂車が連結され大手私鉄のレーティッシュ鉄道では10両以上の食堂車を保有し、氷河急行などの特別列車のほか通常の急行列車の一部にも食堂車が連結される。スペインでは、国内の長距離列車・国際列車などでのフルコースメニューを中心としたサービスが継続されている。

西ヨーロッパの夜行列車の個室寝台車では、簡単な朝食のサービスを行う列車が多く、朝食料金は寝台料金に含まれている場合が多い。夜行列車の夕食・朝食時刻は前夜指定するのが通例だが、客席まで朝食が届けられる場合と夕食同様に指定した時刻に食堂車へ客が赴く場合の2種類が存在する。

中国

中国の食堂車 2001年
中国の食堂車
2001年
モンゴル鉄道の食堂車 2004年
モンゴル鉄道の食堂車
2004年

中華人民共和国の場合、広大な国土である上に長距離高速列車が存在しないため、現在でも24時間以上(最も長い広州 - ラサ間列車は55時間以上)かけて走破する列車が多数有り、寝台特急等の長距離列車には食堂車が連結されているケースが多い。

中国語では「餐車」(餐车:ツァンチョー cānchē)と呼ばれる。中華料理は地方によって味付けの違いに特色があるが、食堂車でも所属管理局によって味付けに地方色がある。朝食は料理のみの場合が多い。最近では、車内販売弁当も食堂車で調理している。短距離の特急の場合は、車内の売店で弁当・カップ麺フルーツ盛り合わせ・菓子などを用意して販売しているだけの場合が多い。

韓国

韓国では、セマウル号を中心にソウルプラザホテル運営の食堂車を連結し、車内で韓国料理の提供を行うなどしていたが、ソウルプラザホテルが運営から撤退し、その後アシアナ航空の機内食を担当しているランチベル社が事業を引き継ぎ運営していたが、2008年9月をもって撤退。現在は食堂車を改造し、軽食を中心とした「カフェ客車」として運用されている。過去には、車内でハンバーガーを提供するロッテリア運営の食堂車も存在した。2004年3月開業の韓国高速鉄道(KTX)には食堂車・ビュフェ車ともに連結されていないが、2010年3月2日より運行を開始したKTX-IIでは、スナックバーコーナーが設置されている。

台湾

日本の植民地時代より食堂車が存在し、中華民国の鉄道となってからも、洋食を提供する食堂車が連結されていたが、「莒光号」に連結されていた食堂車を最後に、1980年代に姿を消した。また、2002年自強号に半室ビュフェ車が連結されたが、外部業者への委託営業で、しかも多額の欠損を出した結果、短期間で営業を終了した。現在では、一部観光列車でのみ運用されている。

その他

この他、長時間走行を行う列車が存在する国や地域においては何らかの供食設備を持つ事が普通である。東ヨーロッパロシアなどの長距離列車は食堂車を連結し、インドの長距離列車は調理設備を持つ車両を連結し、調製した料理の客席へのサービスを行っている。

脚注

  1. ^ 長船友則『山陽鉄道物語―先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』、JTBパブリッシング、2008年、144頁。なお同所載の図によれば当初は長手方向に置かれた大テーブルの両側の席に旅客が着席する形だったようである。
  2. ^ 長船、146頁。
  3. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』No.761 p.9。
  4. ^ この他国有化された鉄道では関西鉄道讃岐鉄道成田鉄道の例がある。
  5. ^ 長船、143頁。
  6. ^ 『大正8年度鉄道院年報』1921(大正10)年、33頁。
  7. ^ 洋食堂車は、あくまでも洋食専門としており、和食堂車は、和食の他に比較的安価でかつ一般にも馴染み深い洋食となりつつあったライスカレーやコロッケなどの揚げ物は勿論、ビーフステーキなど洋食堂車でも扱う料理は取り扱っていた。戦後以後の食堂車は、この「和食堂車」から継承されていく。
  8. ^ ただし、普通列車では長距離・観光用のものに限られた。直行列車も参照のこと。
  9. ^ 新幹線開業後の山陽線転出後に職人の確保が困難となり、次第に営業休止となり1972年3月全ての寿司営業が中止されるとともにサハシ153形の営業列車はなくなった。
  10. ^ これらはあくまで各列車におけるメニューの中核をなすものであり、列車・運転時期によって多少異なるがそれ以外の料理(カレーライスやスパゲティなど)も提供されていた。
  11. ^ 営業開始を前に、乗務員をホテル内から募集したところ、30名程度の募集に対して、300名以上の応募者があったという。
  12. ^ 中華料理もあるユニークなメニュー提供が特徴であった。
  13. ^ 1999年に日本食堂と共同出資で設立。
  14. ^ 後の検証で出火原因は電気暖房関連の電気配線からの漏電によるものと判明。
  15. ^ 輸送力増強以外にもこだまのビュフェの利用率が低く2両運営では採算性などで問題が多かったこと原因のひとつだった。また「こだま」全編成の組み換えまでには至らず、1973年8月から1980年9月までのこだま用K編成47本中17本がビュフェ2両組み込みのまま1両は営業休止で売店扱いのままとされた。
  16. ^ 戦後、食堂車が新規かつ大量に製造されたのはこの時のみである。
  17. ^ 当初は通り抜ける客に食事を見られないように、食堂と通路を隔てる壁に窓を設けていなかったが、利用客から「食事しながら富士山を見られない」というクレームが多かったことを受け、1979年以降に通路側壁面に窓(通称:マウント富士)を設置する改造を施工。
  18. ^ 当初は3月のダイヤ改正で終了予定であったが、1月17日早朝に阪神・淡路大震災が発生し新大阪 - 姫路が不通になったのを受け営業停止。そのままダイヤ改正まで復旧しなかったため1月16日の「ひかり」45号が最終営業列車となった。
  19. ^ 「ウエストひかり」用R62編成に組み込まれていた37-7302は、その後も営業運転に用いられ、2008年3月14日に運用を離脱したが新幹線最後のビュフェ車でもあった。
  20. ^ 各社ともにメニューが異なっており、乗客の中にはわざわざ好みの会社が営業している列車に乗るというケースも見られた。
  21. ^ 2000年代においては在来線でも環境面の問題から循環式の汚水処理装置等を利用している例がほとんどである。
  22. ^ 国鉄・JR各社の用語では「ビュフェ」と表記されるが、車内の案内放送では車掌や食堂会社従業員が「ビュッフェ」と発音することもある。
  23. ^ 現在のロビーカーに相当する扱い(当時は「サロンカー」と称した)ともされる。
  24. ^ 松本運転所(現・松本車両センター)のサハシ165形は、電源供給の問題から1976年の営業休止後も1982年新前橋電車区(現・高崎車両センター)からクハ165形余剰車が転入するまで編成から外されなかった例がある。また583系電車では編成全体の圧縮空気容量の関係からサシ581形の空気圧縮機(CP)も必要であった事情から、編成から外せない理由もあった。
  25. ^ 「平屋」とは2階建車両の構造上、台車を乗せる部分をさす。通常の車両と同じ車両高さ・幅となる部分。
  26. ^ JR西日本所属のスシ24 1・2はAU12形。
  27. ^ スシ24形の中で特筆すべき車両としてスシ24 506があげられる。同車は1974年にサシ489-12として落成、1978年にサシ481-83へ改造、さらに1982年にサシ489に再改造されるも番号は12にもどらずそのまま83を継承、「北斗星」増発時にまたもや改造されスシ24 506となった。詳細はこちらを参照のこと。
  28. ^ 日本交通公社の時刻表1967年10月号の伊豆急行のページに「スコールカー連結」の表示あり。
  29. ^ 6号車の個室からインターホンで注文できるシステムも備えられていた。
  30. ^ かつて小田急3000形「SSE」が「あさぎり」として国鉄御殿場線に乗り入れていた際には、御殿場線時刻表にはビュフェのマークが配されていた。
  31. ^ 食器の質としても高く、鉄道会社独自のデザインが反映されたものであったために、これらを「レイルウェイ・チャイナ」と総称し、コレクションする趣味がアメリカでは盛んである。

参考文献

  • かわぐちつとむ『食堂車の明治・大正・昭和』(グランプリ出版、2002年) ISBN 4-87687-240-6
1994年7月から1997年5月まで『鉄道ジャーナル』に連載された記事の単行本化。
  • 岩成政和『食堂車ノスタルジー 走るレストランの繁盛記』(イカロス出版のりもの選書、2005年) ISBN 4-87149-653-8
  • 鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 10 国鉄客車開発記 1950』(電気車研究会、2006年)
星晃「食堂車の復興」(初出:『鉄道ピクトリアル』1953年2月、3月号 No.19、20) p54~p60
  • 交友社『鉄道ファン』2000年8月号 No.472 特集:食堂・オープンスペース
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年5月号 No.761 特集:食堂車
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2007年10月号 No.794 特集:ビュフェ

関連項目

外部リンク