「カツラノハイセイコ」の版間の差分

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'''カツラノハイセイコ'''([[1976年]][[5月13日]] - [[2009年]][[10月8日]])は[[日本中央競馬会]]に所属していた[[競走馬]][[種牡馬]]。[[ハイセイコー]]の初度産駒一頭で、父が現役時代に勝てなかった[[東京駿|日本ダービー]]・[[天皇#天皇賞 (春)|天皇賞(春)]]を優勝
'''カツラノハイセイコ'''(欧字名:{{Lang|en|Katsurano Haiseiko}}、[[1976年]][[5月13日]] - [[2009年]][[10月8日]])は[[日本]][[競走馬]][[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|title=種牡馬情報:種牡馬成績 |カツラノハイセイコ|JBISサチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000085885/sire/mainall/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>。1979年の[[JRA賞最秀3歳牡馬|優駿最優秀4歳牡馬]]である<ref name="jbis" />


輸入種牡馬全盛の中、[[父内国産馬]]の[[ハイセイコー]]初年度産駒として1979年の[[東京優駿]](日本ダービー)優勝。さらに1981年の[[天皇賞(春)]]を優勝した。ハイセイコーが[[タケホープ]]に敗れた2レースを制した。
馬名の「カツラノ」とは[[馬主]]の「桂土地株式会社」の[[冠名]]で、「ハイセイコー」でないのは「[[競走馬#競走馬名|競走馬名]]は9文字以内」という制限のためである。


== 生涯 ==
現役時にあわせ[[馬齢]]は旧表記とする。


== 戦績 ==
=== デビューまで ===
コウイチスタアは12戦1勝で[[競走馬]]を引退し、仔分けによって鮫川三千男牧場にて[[繁殖牝馬]]となった<ref name="優駿1990-1-23">『優駿』1990年1月号 23頁</ref><ref>{{Cite web|title=コウイチスタア|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000023709/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>。牝系は[[小岩井農場の基礎輸入牝馬]]の1頭であるフロリースカップに遡ることができ、フロリースカップの娘のスターリングモアは1929年に鮫川三千男の祖父、由太郎が当歳で買い取って[[帝室御賞典]]を含む10勝の活躍を見せた<ref name="優駿1990-1-23" />。そのスターリングモアから、第三スターリングモア、ミタケと牝系は連なり、そのミタケにアイルランド生まれのジャヴリンが配合されたのがコウイチスタアであった<ref name="優駿1990-1-23" />。スターリングモア系からは、[[桜花賞]]と[[天皇賞]]を制した[[ヤシマドオター (競走馬)|ヤシマドーター]]や、天皇賞を制した[[リキエイカン]]などを生み出していた<ref name="優駿1990-1-23" />。
=== 誕生 ===
母・コウイチスタアは競走馬時代を12戦1勝で終えた。鮫川三千男牧場の仔分けでその母系は[[小岩井農場の基礎輸入牝馬]]の1頭であるフロリースカップに遡り、その娘のスターリングモアは[[1929年]]に鮫川の祖父が当歳で買い取って[[帝室御賞典]]を含む10勝を挙げた。このスターリングモアの子孫には[[ヤシマドオター (競走馬)|ヤシマドオター]]・[[リキエイカン]]などがいる。母の父・ジャブリンは[[1957年]]に[[アイルランド]]で産まれた名血で、[[1965年]]より日本でも供用された。コウイチスタアも当然繁殖馬として期待されたが、4年間も不受胎が続いていたためか、あわや「[[繁殖牝馬]]失格」のレッテルを貼られる寸前の馬であった。鮫川は元々[[タケホープ]]を配合させようと考えていたが、コウイチスタアがあまり馬格のない馬であったため、体が大きくスピードのありそうな[[種牡馬]]ということで、中距離が得意で540kgに達する<ref>[[1974年]][[有馬記念]]時点</ref>巨漢馬であった[[ハイセイコー]]を交配。結果的に生まれたカツラノハイセイコは最盛期でも450kg台と牡馬としては小柄の部類で、鮫川の思惑とは異なることとなったが<ref>カツラノハイセイコに限らずハイセイコーの初年度産駒(55頭)は父に似ない小柄な馬が多く誕生していた。</ref><ref>のちに「父親(ハイセイコー)と似ていない馬はよく走る」([[大川慶次郎]]談)と言われるようになるが、産駒デビュー前であり当時の競馬関係者にはそのような認識はなかった。</ref>、初年度のハイセイコー産駒の中ではまだ評価されていたほうであった。


そんな牝系を背景にコウイチスタア自身も繁殖牝馬として期待されていたが、初めの4年間で不受胎や[[双子]][[流産]]を繰り返していた<ref name="優駿1990-1-23" />。5年目の1975年、[[仔分け]]の相方のオーナーである桂晃一により「若くて元気のいい」という理由で[[ハイセイコー]]が配合された<ref name="優駿1990-1-23" />。1976年5月13日、[[北海道]][[浦河町]]の鮫川三千男牧場にて[[黒鹿毛]]の牡馬(後のカツラギハイセイコ)が誕生した<ref name="優駿1990-1-23" />。産まれた仔は、脚が長いものの腹袋が充実しておらず「バランスの悪い」体格で評価は低かった<ref name="優駿1990-1-23" />。鶴のように首を曲げる「ツル頸」になりながらもパワーは感じ取れる走法で、悍性が強かったという<ref name="優駿1990-1-23" />。
=== 3 - 4歳 ===
[[1978年]](旧3歳)[[9月1日]]の[[札幌競馬場|札幌]]で[[作田誠二]]を背にデビューしたが、勝ち馬から10馬身以上の大差を開かれて4着。[[京都競馬場|京都]]での4戦目からは鞍上を[[福永洋一]]にバトンタッチし、1番人気に推されたダート1200mの未勝利戦で初勝利を挙げる。その後は掲示板こそ外さなかったものの、芝の特別戦2鞍ともに2着・3着と惜敗で終えた。[[1979年]](旧4歳)になると突如覚醒。正月の京都から始動して呉竹賞(400万下)・ジュニアカップ(800万下)・4歳ステークスを軽々と3連勝し、一躍[[クラシック (競馬)|クラシック]]の有力候補となった。呉竹賞までは福永が騎乗していたが、ジュニアC以降は福永の兄弟子である[[松本善登]]が騎乗。その後は東上して初重賞の[[スプリングステークス]]では1番人気に推され、ここで重賞3連勝を達成するリキアイオーの逃げは捕らえられなかったものの首差の2着。敗れたものの[[皐月賞]]への期待を膨らませたが、調整のために滞在していた[[美浦トレーニングセンター|美浦トレセン]]の水道水を嫌って飲まなかった影響か直前で熱発してしまい、どうにか間に合って当日は5番人気であった。レースでは道中は後方に置かれたが、直線では持ち前の根性で追い上げて[[ビンゴガルー]]の2着となった。父子制覇の夢は幻に終わったが、皐月賞後は[[東京競馬場]]へ移動。東京の水は良く飲んだこともあって馬体も回復の兆候を見せ、東京コースに慣れさせるために[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]へ出走。[[メジロアサマ]]産駒のメジロエスパーダに次ぐ2番人気に推されたが、早仕掛けで末脚をなくして[[テルテンリュウ]]の3着に終わる。[[東京優駿|日本ダービー]]では同世代の実力が均衡するなか、父が勝てなかったダービーを勝たせたいというファン心理も手伝って僅差の1番人気に支持される。レースでは道中はインコースの10番手あたりでじっくりと進め、4コーナーで先頭に立つと、直線は割るように伸びて逃げ込みを図ったリキアイオーを交わしにかかった。内がハイセイコ、中央がリキアイオー、外がテルテンリュウという位置取りで3頭の叩き合いとなったが、直線で抜け出しを図ろうとしたテルテンリュウが内にささり、リキアイオーは脚が上がって脱落。その煽りを受けて、[[嶋田功]]騎乗のリンドプルバンは抜け出す進路が塞がれた。残り100mでテルテンリュウを振り切るが、体勢を立て直したリンドプルバンが猛追。ハイセイコはそれをハナ差でねじ伏せて、父がタケホープにさらわれたダービー制覇の夢を叶えた。リンドプルバンは嶋田を背に4歳中距離特別を勝ってダービーに臨んでいたが、奇しくもタケホープと同じであった。写真判定の際には1、2着の結果が出るのに約10分ほどを要した(斜行に対しての審議の実施の有無については不明)が、鞍上の松本は当時45歳・騎手生活25年目にして初のクラシック制覇となった。かつては[[シンザン]]で[[有馬記念]]を制した松本ではあるが、この頃は[[調教師]]試験を毎年受験しており、この時点では現役最年長の騎手であり最高齢でのダービー制覇となった<ref>その後、[[増沢末夫]]が[[1986年]]の日本ダービーで[[ダイナガリバー]]に騎乗して優勝し、最年長記録を更新している。</ref>。父内国産馬の勝利は[[1959年]]の[[コマツヒカリ]]以来20年ぶりで、勝ち時計の2分27秒3は当時のダービーレコードであった。ダービー後は夏の間に熱発や鼻骨骨折に見舞われたこともあり、万全の状態で秋を迎えられなかった。何とか体調を戻して[[中京競馬場|中京]]で行われた[[京都新聞杯]]に出走したが、ファインドラゴンの10着と敗れた。更にレース後には脚部不安や馬には珍しいとされる[[肺炎]]を罹ったため、菊花賞を断念して長期休養に入った。


桂土地株式会社の桂晃一が用いる冠名の「カツラノ」と、父ハイセイコーから[[競走馬#競走馬名|競走馬名]]は9文字以内の定めに則って[[長音符]]を除いた「ハイセイコ」を組み合わせて「'''カツラノハイセイコ'''」と命名された。
=== 5歳 ===
[[1980年]](旧5歳)は[[肺癌]]で倒れた松本に代わって[[河内洋]]が手綱を取り、[[9月7日]]に[[阪神競馬場|阪神]]で行われたサファイヤステークスから復帰した。8頭中6番人気ながら[[ニチドウアラシ]]の2着に入って復活をアピールし、[[京都大賞典]]ではシルクスキーの3着に入る。その後は[[天皇賞 #天皇賞 (秋)|天皇賞(秋)]]を見据えて東上し、1番人気に推された[[目黒記念|目黒記念(秋)]]では前走対戦したシルクスキーや[[カネミノブ]]などを退けて勝利。馬体はダービーの頃よりも20kg増え、充実の秋を迎えたとファンに見なされ、続く本番の天皇賞(秋)では1番人気に支持される。当日は2番手追走も[[プリテイキャスト]]の大逃げに幻惑し、後続馬にもズブズブ差されて6着に敗れた。次走の[[有馬記念]]ではファン投票こそ堂々の1位であったが、天皇賞の後遺症から[[メジロファントム]]・カネミノブに続く3番人気で出走。直線で早めに先頭に立つが、肝心のところで外によれてしまい、[[ホウヨウボーイ]]に完全に差し切られながら根性で差し返そうとしてハナ差届かず。ホウヨウボーイの2着に敗れた。


=== 6歳 ===
=== 競走馬時代 ===
[[1981年]](旧6歳)は[[3月8日]]の[[マイラーズカップ]]から始動。前年のダービー馬である[[オペックホース]]との珍しい「マイル重賞でのダービー馬対決<ref>1600m重賞でのダービー馬対決は[[2009年]][[安田記念]]([[ウオッカ]]vs[[ディープスカイ]])まで実現しなかった。</ref>」に注目が集まったが、レース当日は3番人気であった。直線で最後方からウエスタンジョージ以下をごぼう抜きにし、4着に終わったオペックホースとのダービー馬対決を制した。続く[[大阪杯]]では1番人気に推されたものの、59kgの斤量と不良馬場で動きも悪くサンシードール<ref>鞍上の[[栗田伸一]]はこれが重賞初制覇となった。</ref>の6着に敗れる。次走の[[天皇賞 #天皇賞 (春)|天皇賞(春)]]では直前に飼い葉量が落ちて完調とまではいかず、さらに体調を崩したという情報まで流れる始末であったが、[[モンテプリンス]]・ホウヨウボーイなど有力な関東馬が西下しなかったため、リンドプルバンに次ぐ2番人気に支持された。ダービー以来の440kg台に落ちたハイセイコは道中を中団馬群でしっかり脚を溜め、淀の坂を下りてペースが上がってもじっと我慢。4コーナーを回った瞬間に素早く動き、直線で馬群の真ん中を割って先頭に躍り出る。そこへ奇しくも父と同じ[[大井競馬場|大井]]出身の[[カツアール]]が外から襲い掛かり、勢いはカツアールが有利かと思われたが、ハイセイコは驚異の粘りを見せて先頭を譲らず。カツアールに何度もぶつけられながらも、持ち前の根性で200m近い叩き合いを制し、ついに一度も抜かれることもなくクビ差振り切って勝利した。父が敗れた舞台で再び勝利して見せたハイセイコは続く[[宝塚記念]]ではファン投票1位、当日も1番人気に支持された。レースでは先に抜け出したカツアールの雪辱を許したが、絶望的な位置から突っ込んで2着を確保。その後は[[第1回ジャパンカップ]]を目指したが、深管骨瘤を悪化させてそのまま引退。[[11月22日]]に京都で[[引退|引退式]]が行われたが、ハイセイコ引退から約1か月後の[[12月14日]]、ダービー勝利時の鞍上であった松本が48歳という若さで亡くなっている。


== 引退後 ==
==== 3歳(1978年) ====
[[栗東トレーニングセンター]]の[[庄野穂積]]厩舎に所属し、3歳夏に北海道の牧場から直接[[札幌競馬場]]に入った<ref name="優駿1990-1-23" />。担当となった[[厩務員]]、松尾一吉は「これといった印象もなく、ただ牝馬のあとばかりついて歩く変な馬<ref name="優駿1990-1-23" />」と振り返っている。デビューからしばらくは深管骨瘤の痛みを抱えながら、レースに出走した<ref name="優駿1990-1-24">『[[優駿]]』1990年1月号 24頁</ref>。
引退後は[[日本中央競馬会]]に種牡馬として1億2000万円で買い取られ、[[青森県]][[上北郡]][[七戸町]]の[[日本軽種馬協会]]七戸種馬場にて種牡馬生活に入った。繁殖牝馬の質が低く、順風満帆で恵まれた環境ではなかったが奮闘し、テツノセンゴクオー・[[カネユタカオー]]など複数の[[地方競馬全国協会|地方]]活躍馬を送り出す。中央では[[ユウミロク]]が[[優駿牝馬|オークス]]で[[メジロラモーヌ]]の2着に入り、古馬時代には[[カブトヤマ記念]]も制覇。ユウミロクは母としての活躍の方が目立っており、[[ユウセンショウ]]・[[ゴーカイ]]・[[ユウフヨウホウ]]という重賞勝ち馬三兄弟を送り出した。[[2000年]]にJRAが実施した[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]では62位に選ばれた。種牡馬引退後は[[栃木県]][[那須塩原市]]の那須種馬場で余生を過ごしていたが、[[2009年]][[10月8日]]に[[老衰]]のため死去<ref>{{Cite web |url=http://www.jra.go.jp/news/200910/100805.html |title=カツラノハイセイコ号が死亡 |author= |publisher=JRA |accessdate=2009年10月8日 |date=2009-10-08}}</ref>。


9月1日、札幌競馬場の[[新馬|新馬戦]](ダート1000メートル)に[[作田誠二]]が騎乗してデビューしたが4着に敗れた<ref name="優駿1990-1-24" />。初勝利は、作田から[[福永洋一]]に乗り替わった4戦目の未勝利戦であった。その後条件戦2戦し、3着以内となったが勝利には至らず、3歳を終えた<ref name="優駿1990-1-24" />。
=== おもな産駒 ===
*[[ユウミロク]]([[カブトヤマ記念]]、[[優駿牝馬]]2着)
*テツノセンゴクオー([[東京記念]]・[[金盃]]([[大井競馬場|大井]]))
*[[カネユタカオー]]([[宇都宮競馬場|栃木]]三冠)
*ハルナオーギ([[関東オークス]])


== 年度別競走成績 ==
==== 4歳(1979 ====
年が明けた1月7日の呉竹賞で、[[上がり (競馬)|上がり]]3ハロンを35秒台で駆けて2勝目を挙げた<ref name="優駿1990-1-24" />。福永は「今の4歳でこんな凄い脚を使える馬は少ないよ。こりゃ大物だ」と振り返っていた。続く[[ジュニアカップ]](800万円以下)は先約のために福永から、その兄弟子である[[松本善登]]に乗り替わり参戦し、直線の末脚で後方との差を広げて連勝とした<ref name="優駿1990-1-24" />。これ以降、しばらく松本が騎乗を続ける。2月17日の[[京都競馬場]]の[[オープン競走]]では、中団から抜け出して福永が騎乗するレッドルーラーを問題にせず、3連勝となった。庄野はこの時期の3連勝についてカツラノハイセイコの能力を評価し、末脚について父ハイセイコー以上のものを持っているとしていた<ref name="優駿1990-1-24" />。
*1978年(6戦1勝)

*1979年(8戦4勝) - 優駿賞最優秀4歳牡馬
===== 皐月賞 =====
**1着 - [[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]、2着 - [[皐月賞]]、[[スプリングステークス]]、3着 - [[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]
3月25日の[[トライアル競走|皐月賞トライアル]]、[[スプリングステークス]]に参戦するために、3月3日に東上して[[美浦トレーニングセンター]]で調整を行った<ref name="優駿1990-1-24" />。スプリングステークスでは、[[朝日杯3歳ステークス]]を制した[[ビンゴガルー]]や、[[弥生賞]]を制した[[リキアイオー]]などが出走したが、それを上回る評価を得て1番人気に推された<ref name="優駿1990-1-24" />。逃げるリキアイオーに対して、後方に位置。追い込んだものの、リキアイオーにクビ差届かず2着に敗れた<ref name="優駿1990-1-24" />。続いて4月15日の皐月賞に向けて美浦トレーニングセンターで調整されていたが、4月になってから[[発熱|熱発]]を催し、食事量が減少するなど体調が悪化した<ref name="優駿1990-1-24" />。庄野は皐月賞回避を検討したが、何とか出走できる状態に持ち直した<ref name="優駿1990-1-24" />。馬体重をスプリングステークスよりも減らしての出走となり、5番人気という評価であった。松本も「スプリングステークスを10とすれば3か4の出来」という状態での出走であった。スタートから後方に位置し、直線に入ってから追い上げて2着となった<ref name="優駿1990-1-24" />。勝利したビンゴガルーに4分の3馬身遅れた敗戦であった。松本は状態が良ければ東京優駿制覇は可能と展望していた<ref name="優駿1990-1-24" />。
*1980年(5戦1勝)

**1着 - [[目黒記念|目黒記念(秋)]]、2着 - [[有馬記念]]、3着 - [[京都大賞典]]
==== 東京優駿 ====
*1981年(4戦2勝)
[[東京優駿]](日本ダービー)が行われる[[東京競馬場]]のコースに慣らすために、5月6日のトライアル競走である[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]に出走<ref name="優駿1990-1-24" />。メジロエスパーダに次ぐ2番人気となり、最後の直線入り口で先頭に立ったが、[[テルテンリュウ]]やサエキヒーローに交わされた3着に敗れた<ref name="優駿1990-1-24" />。そして5月27日の東京優駿(日本ダービー)に出走した。父ハイセイコーが[[タケホープ]]に敗れた舞台に挑む息子に、勝利を望むファン心理も手伝い、前走、前々走で敗れたはずのビンゴガルーやテルテンリュウを上回る1番人気の支持を集めた<ref name="優駿1990-1-24" />。
**1着 - [[天皇賞|天皇賞(春)]]、[[マイラーズカップ]]、2着 - [[宝塚記念]]

スタートから有利とされる「ダービー・ポジション」の10番手につけ、周辺にテルテンリュウとビンゴガルーが位置した<ref name="優駿1990-1-24" />。第3コーナーから動き出し、最終コーナーで3番手まで押し上げ、馬場の最も内側を走った<ref name="優駿1990-1-24" />。残り300メートルで外から追い上げるテルテンリュウがぶつかりながら競り合ってきたが、残り100メートルでテルテンリュウを競り落とした。テルテンリュウの追い上げの際に不利を受けて一時停滞したリンドプルバンが盛り返して、カツラノハイセイコと並んだところが決勝線通過であった<ref name="優駿1990-1-24" />。

写真判定には時間がかかったが、ハナ差でカツラノハイセイコの先着が認められた。着順掲示板にカツラノハイセイコの「7」が表示されて、勝利が確定すると松本は右手を上げ、約12万人の歓声と拍手を呼んだ<ref name="優駿1990-1-24" />。松本は、騎手デビュー25年目で[[クラシック (競馬)|クラシック]]初勝利となった。走破タイム2分27秒3は、1974年に[[コーネルランサー]]が記録したダービーレコードを0秒1更新した<ref name="優駿1990-1-25">『[[優駿]]』1990年1月号 25頁</ref>。父ハイセイコーは、[[内国産馬]]であり、父内国産馬が東京優駿を制したのは1959年の[[コマツヒカリ]](父:[[トサミドリ]])以来20年振りのことであった<ref name="優駿1990-1-25" />。

その後、[[肺炎]]や[[馬房]]で暴れたことによる[[鼻骨]]骨折などで満足に調教できなかった<ref name="優駿1990-1-26">『[[優駿]]』1990年1月号 26頁</ref>。秋の始動戦は、[[京都新聞杯]]だったものの10着に敗れて、菊花賞の出走を断念した<ref name="優駿1990-1-26" />。

==== 5 - 6歳(1980 - 81年) ====
松本が[[肺がん]]に倒れて[[河内洋]]に乗り替わり、9月7日の復帰戦となる[[サファイヤステークス]]は、8頭中6番人気の支持ながら2着。続く[[京都大賞典]]では3着に入った<ref name="優駿1990-1-26" />。

続いて[[天皇賞(秋)]]を目指して東上し、前哨戦の[[目黒記念(秋)]]で日本ダービー以来の勝利を挙げて、1番人気の支持で天皇賞(秋)に参戦<ref name="優駿1990-1-26" />。[[プリテイキャスト]]の大逃げに次ぐ2番手で進んだが、伸びを欠いて6着敗退、大逃げのプリテイキャストがそのまま逃げ切り勝利を果たした<ref name="優駿1990-1-26" />。(レースの詳細は、[[第82回天皇賞]]を参照。)ファン投票1位で臨んだ12月21日の[[有馬記念]]では、調教の内容が悪かったため3番人気に甘んじた<ref name="優駿1990-1-26" />。直線で先頭に立ったが、残り100メートルで斜行してしまい[[ホウヨウボーイ]]にハナ差かわされて2着に敗れた<ref name="優駿1990-1-26" />。

年をまたいで6歳は、3月8日の[[マイラーズカップ]]で始動し、3番人気ながら勝利。続いて、[[サンケイ大阪杯]]は不良馬場に負けて6着に敗れた<ref name="優駿1990-1-26" />。

続いて、4月29日の[[天皇賞(春)]]に出走。食欲がなくなり馬体重が減少し、直前の調教の内容が悪かったために体調不安説がささやかれていた<ref name="優駿1990-1-26" />。しかし、ホウヨウボーイやモンテプリンスなどが回避したため、2番人気に押し上げられた<ref name="優駿1990-1-26" />。中団から最終コーナーで抜け出し、外からカツアールが追い上げてきた。後方との差を広げて2頭での争いとなり、馬体を接触しながら競り合い、カツアールをクビ差退けて先頭で入線した<ref name="優駿1990-1-26" />。[[父内国産馬]]の天皇賞優勝は、1965年春の[[アサホコ]](父:[[ヒカルメイジ]](青森県産)以来16年ぶりであり、東京優駿(日本ダービー)優勝馬の天皇賞制覇は、[[ミハルオー]]、[[ハクチカラ]]、[[シンザン]]、[[タケホープ]]に次いで5頭目のことであった。庄野は「もうこんな凄い馬に巡り合うことはないでしょうね」と言い涙を流した<ref name="優駿1990-1-26" />。

6月7日、宝塚記念はファン投票1位に選出されて出走し、後方からカツアールを目指して追い込んだが1馬身4分の1届かず、2着に敗れた<ref name="優駿1990-1-26" /><ref>{{Cite web|title=第22回 宝塚記念 競走成績|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/takara/result/takara1981.html|website=jra.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>。

秋はその年に創設された[[ジャパンカップ]]、有馬記念を走り引退する予定であったが、目前の9月に深管骨瘤が悪化して引退を決意<ref name="優駿1990-1-26" />。[[第1回ジャパンカップ]]当日の11月22日、京都競馬場にて河内が騎乗し、日本ダービー優勝時の[[ゼッケン (競馬)|ゼッケン]]「7」を着用し[[引退式]]が行われた<ref name="優駿1990-1-26" />。約1か月後の[[12月14日]]、日本ダービーなど4歳時の主戦だった松本が48歳という若さで亡くなった<ref name="優駿1990-1-26" />。

=== 種牡馬時代 ===
引退後は[[種牡馬]]試験に合格し、[[日本中央競馬会]]に種牡馬として1億2000万円で買い取られた<ref name="優駿1990-1-26" />。[[青森県]][[上北郡]][[七戸町]]の[[日本軽種馬協会]]七戸種馬場に繋養された<ref name="優駿1990-1-26" />。見学に来た[[北里大学]]の学生100人の前でも種付けを淡々とこなし、[[芦毛]]の牝馬には段違いに興奮して種付けを行っていた<ref>『[[優駿]]』1990年1月号 27頁</ref>。

繁殖牝馬の質が低く、順風満帆で恵まれた環境ではなかったが奮闘し、テツノセンゴクオー・[[カネユタカオー]]など複数の[[地方競馬全国協会|地方]]活躍馬を送り出した。中央では[[ユウミロク]]が[[優駿牝馬|オークス]]で[[メジロラモーヌ]]の2着に入り、古馬時代には[[カブトヤマ記念]]も制覇。ユウミロクは母としての活躍の方が目立っており、[[ユウセンショウ]]・[[ゴーカイ]]・[[ユウフヨウホウ]]という重賞勝ち馬三兄弟を送り出した。[[2000年]]にJRAが実施した[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]では62位に選ばれた。種牡馬引退後は[[栃木県]][[那須塩原市]]のJBBA那須種馬場で余生を過ごしていたが、[[2009年]][[10月8日]]に[[老衰]]のため死亡した<ref>{{Cite web|title=カツラノハイセイコ号が死亡|url=http://www.jra.go.jp/news/200910/100805.html|website=www.jra.go.jp|date=2009-10-11|accessdate=2021-05-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091011001639/http://www.jra.go.jp/news/200910/100805.html|archivedate=2009-10-11}}</ref><ref>{{Cite web|title=カツラノハイセイコ死亡、79年ダービーV - 競馬ニュース : nikkansports.com|url=https://www.nikkansports.com/race/news/f-rc-tp0-20091008-553325.html|website=www.nikkansports.com|accessdate=2021-05-31}}</ref>。同時期に那須で死亡した[[ルション (競走馬)|ルション]]とともに合同の慰霊祭が行われた<ref>{{Cite web|title=カツラノハイセイコ・ルションの合同慰霊祭が行われる {{!}} 馬産地ニュース {{!}} 競走馬のふるさと案内所|url=https://uma-furusato.com/news/50929.html|website=uma-furusato.com|accessdate=2021-05-31}}</ref>。

== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=カツラノハイセイコの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/1976100765/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-05-29|language=ja}}</ref>の情報に基づく。
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
!競走日
! nowrap="" |競馬場
!競走名
!格
!距離<br/>(馬場)
!頭<br/>数
!枠<br/>番
!馬<br/>番
!オッズ<br/>(人気)
!着順
!タイム
!騎手
!斤量<br/>[kg]
!1着馬<br/>(2着馬)
|-
|[[1978年|1978]].{{0}}[[9月1日|9.{{0}}1]]
|[[札幌競馬場|札幌]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|
|ダ1000m(良)
|9
|5
|5
|{{0}}16.0{{0}}(6人)
|{{0}}4着
|{{0}}1:03.5
|{{0}}[[作田誠二]]
|52
|パンナムシロー
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[9月10日|9.10]]
|札幌
|3歳未勝利
|
|ダ1000m(不)
|11
|8
|11
|{{0}}27.6{{0}}(8人)
|{{0}}5着
|{{0}}1:01.3
|{{0}}作田誠二
|52
|チェリータイガー
|-
|{{0|0000.}}[[10月14日|10.14]]
|[[京都競馬場|京都]]
|3歳未勝利
|
|ダ1200m(良)
|10
|3
|3
|{{0}}11.6{{0}}(4人)
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|{{0}}1:15.2
|{{0}}作田誠二
|52
|シュウザンアロー
|-
|{{0|0000.}}[[11月11日|11.11]]
|京都
|3歳未勝利
|
|ダ1200m(良)
|14
|2
|2
|{{00}}1.9{{0}}(1人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}1:14.7
|{{0}}[[福永洋一]]
|53
|(シルクタイテー)
|-
|{{0|0000.}}[[12月2日|12.{{0}}2]]
|[[阪神競馬場|阪神]]
|かえで賞
|4下
|芝1600m(重)
|7
|4
|4
|{{00}}9.3{{0}}(4人)
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|{{0}}1:38.0
|{{0}}福永洋一
|53
|ネーハイジェット
|-
|{{0|0000.}}[[12月16日|12.16]]
|阪神
|さざんか賞
|4下
|芝1300m(良)
|14
|8
|13
|{{0}}35.6(10人)
|{{Color|darkgreen|{{0}}3着}}
|{{0}}1:17.2
|{{0}}作田誠二
|53
|イナドコトブキ
|-
|[[1979年|1979]].{{0}}[[1月7日|1.{{0}}7]]
|京都
|呉竹賞
|4下
|芝1400m(良)
|11
|7
|9
|{{00}}4.3{{0}}(2人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}1:23.6
|{{0}}福永洋一
|54
|([[ニチドウアラシ]])
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[1月28日|1.28]]
|京都
|[[ジュニアカップ|ジュニアC]]
|8下
|芝1600m(良)
|8
|7
|7
|{{00}}4.5{{0}}(3人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}1:36.8
|{{0}}[[松本善登]]
|54
|(テルテンリュウ)
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[2月17日|2.17]]
|京都
|4歳S
|
|芝1600m(良)
|11
|8
|10
|{{00}}3.4{{0}}(1人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}1:36.5
|{{0}}松本善登
|55
|(レッドルーラー)
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月25日|3.25]]
|[[中山競馬場|中山]]
|[[スプリングステークス|スプリングS]]
|
|芝1800m(稍)
|10
|3
|3
|{{00}}3.7{{0}}(1人)
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|{{0}}1:50.0
|{{0}}松本善登
|56
|リキアイオー
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月15日|4.15]]
|中山
|'''[[皐月賞]]'''
|
|芝2000m(良)
|15
|3
|5
|{{0}}12.9{{0}}(5人)
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|{{0}}2:02.4
|{{0}}松本善登
|57
|[[ビンゴガルー]]
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[5月6日|5.{{0}}6]]
|[[東京競馬場|東京]]
|[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]
|
|芝2000m(良)
|14
|3
|3
|{{00}}7.8{{0}}(2人)
|{{Color|darkgreen|{{0}}3着}}
|{{0}}2:01.2
|{{0}}松本善登
|56
|[[テルテンリュウ]]
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[5月27日|5.27]]
|東京
|'''[[東京優駿]]'''
|
|芝2400m(良)
|27
|3
|7
|{{00}}5.7{{0}}(1人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}2:27.3
|{{0}}松本善登
|57
|([[リンドプルバン]])
|-
|{{0|0000.}}[[10月21日|10.21]]
|東京
|[[京都新聞杯]]
|
|芝2000m(良)
|13
|8
|13
|{{0}}10.9{{0}}(4人)
|10着
|{{0}}2:02.5
|{{0}}松本善登
|57
|ファインドラゴン
|-
|[[1980年|1980]].{{0}}[[9月7日|9.{{0}}7]]
|[[阪神競馬場|阪神]]
|[[サファイヤステークス|サファイヤS]]
|
|芝1600m(重)
|8
|8
|8
|{{0}}21.3{{0}}(6人)
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|{{0}}1:36.6
|{{0}}[[河内洋]]
|57
|ニチドウアラシ
|-
|{{0|0000.}}[[10月12日|10.12]]
|阪神
|[[京都大賞典]]
|
|芝2400m(重)
|8
|2
|2
|{{00}}3.4{{0}}(1人)
|{{Color|darkgreen|{{0}}3着}}
|{{0}}2:32.6
|{{0}}河内洋
|57
|シルクスキー
|-
|{{0|0000.}}[[11月2日|11.{{0}}2]]
|東京
|[[目黒記念(秋)]]
|
|芝2500m(良)
|11
|5
|5
|{{00}}3.3{{0}}(1人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}2:32.5
|{{0}}河内洋
|58
|(シルクスキー)
|-
|{{0|0000.}}[[11月23日|11.23]]
|東京
|'''[[天皇賞(秋)]]'''
|
|芝3200m(重)
|11
|4
|4
|{{00}}3.9{{0}}(1人)
|{{0}}6着
|{{0}}3:30.1
|{{0}}河内洋
|58
|[[プリテイキャスト]]
|-
|{{0|0000.}}[[12月21日|12.21]]
|中山
|[[有馬記念]]
|
|芝2500m(良)
|12
|4
|4
|{{00}}6.7{{0}}(3人)
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|{{0}}2:33.7
|{{0}}河内洋
|57
|[[ホウヨウボーイ]]
|-
|[[1981年|1981]].{{0}}[[3月8日|3.{{0}}8]]
|阪神
|[[マイラーズカップ|マイラーズC]]
|
|芝1600m(稍)
|10
|8
|9
|{{00}}6.3{{0}}(3人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}1:37.5
|{{0}}河内洋
|58
|(ウエスタンジョージ)
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月4日|4.{{0}}4]]
|阪神
|[[サンケイ大阪杯]]
|
|芝2000m(不)
|8
|8
|8
|{{00}}3.9{{0}}(1人)
|{{0}}6着
|{{0}}2:08.0
|{{0}}河内洋
|59
|サンシードール
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月29日|4.29]]
|京都
|'''[[天皇賞(春)]]'''
|
|芝3200m(良)
|14
|4
|6
|{{00}}6.4{{0}}(2人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}3:20.6
|{{0}}河内洋
|58
|([[カツアール]])
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[6月7日|6.{{0}}7]]
|阪神
|[[宝塚記念]]
|
|芝2200m(良)
|13
|5
|6
|{{00}}3.1{{0}}(1人)
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
|{{0}}2:14.3
|{{0}}河内洋
|57
|カツアール
|}

* 表中の'''太字強調'''は、[[八大競走]]'''[[八大競走]]'''である。

== 種牡馬成績 ==

=== 主な産駒 ===
*[[ユウミロク]]([[カブトヤマ記念]]、[[優駿牝馬]]2着)<ref>{{Cite web|title=ユウミロク|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000160167/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>
*マルトラック([[ウインターステークス]]2着)<ref>{{Cite web|title=マルトラック|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000191355/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>
*サンアカネ([[北九州記念]]3着)<ref>{{Cite web|title=サンアカネ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000182105/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>
*テツノセンゴクオー([[東京記念]]・[[金盃]]([[大井競馬場|大井]]))<ref>{{Cite web|title=テツノセンゴクオー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000257633/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>
*[[カネユタカオー]]([[宇都宮競馬場|栃木]]三冠)<ref>{{Cite web|title=カネユタカオー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000210342/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>
*ハルナオーギ([[関東オークス]])<ref>{{Cite web|title=ハルナオーギ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000159993/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>
*ニホンベレーザ([[ダイオライト記念]])<ref>{{Cite web|title=ニホンベレーザ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000199211/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>
*デンタルスター([[しらさぎ賞]])<ref>{{Cite web|title=デンタルスター|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000210441/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>
*オルテプリンセス(北日本オークス)<ref>{{Cite web|title=オルテプリンセス|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000191313/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-31}}</ref>


== 血統表 ==
== 血統表 ==
101行目: 497行目:


== 脚注 ==
== 脚注 ==

=== 注釈 ===
<references group="注釈" />

=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*吉村昭「第46回日本ダービー 馬券を買う」 『優駿 1979年7月号 日本中央競馬会、1979年
*『[[優駿]]([[日本中央競馬会]])<!-- 以下参照先なしのためコメント化
1979年7月号
*福田喜久男「カツラノハイセイコのふるさと スターリングモアと鮫川三千男牧場」 『優駿 1979年8月号』 日本中央競馬会、1979年
吉村昭「第46回日本ダービー 馬券を買う」
1979年8月号
福田喜久男「カツラノハイセイコのふるさと スターリングモアと鮫川三千男牧場」 -->
**1990年1月号
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 47】父の血超えて カツラノハイセイコ」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
114行目: 520行目:
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[[Category:1976年生 (競走馬)|日かつらのはいせいこ]]
[[Category:1976年生 (競走馬)|日かつらのはいせいこ]]

2021年5月31日 (月) 10:05時点における版

カツラノハイセイコ
2000年4月8日
阪神競馬場功労馬特別展示
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1976年5月13日[1]
死没 2009年10月8日(33歳没)[2]
ハイセイコー[1]
コウイチスタア[1]
母の父 ジャヴリン[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 鮫川三千男[1]
馬主 桂土地(株)[1]
調教師 庄野穂積[1]栗東
競走成績
タイトル 優駿賞最優秀4歳牡馬[1](1979年)
生涯成績 23戦8勝[1]
獲得賞金 3億1216万200円[1]
勝ち鞍
八大競走 東京優駿 1979年
八大競走 天皇賞(春) 1981年
オープン 目黒記念(秋) 1980年
オープン マイラーズカップ 1981年
テンプレートを表示

カツラノハイセイコ(欧字名:Katsurano Haiseiko1976年5月13日 - 2009年10月8日)は、日本競走馬種牡馬[1]。1979年の優駿賞最優秀4歳牡馬である[1]

輸入種牡馬全盛の中、父内国産馬ハイセイコー初年度産駒として1979年の東京優駿(日本ダービー)優勝。さらに1981年の天皇賞(春)を優勝した。ハイセイコーがタケホープに敗れた2レースを制した。

生涯

デビューまで

コウイチスタアは12戦1勝で競走馬を引退し、仔分けによって鮫川三千男牧場にて繁殖牝馬となった[3][4]。牝系は小岩井農場の基礎輸入牝馬の1頭であるフロリースカップに遡ることができ、フロリースカップの娘のスターリングモアは1929年に鮫川三千男の祖父、由太郎が当歳で買い取って帝室御賞典を含む10勝の活躍を見せた[3]。そのスターリングモアから、第三スターリングモア、ミタケと牝系は連なり、そのミタケにアイルランド生まれのジャヴリンが配合されたのがコウイチスタアであった[3]。スターリングモア系からは、桜花賞天皇賞を制したヤシマドーターや、天皇賞を制したリキエイカンなどを生み出していた[3]

そんな牝系を背景にコウイチスタア自身も繁殖牝馬として期待されていたが、初めの4年間で不受胎や双子流産を繰り返していた[3]。5年目の1975年、仔分けの相方のオーナーである桂晃一により「若くて元気のいい」という理由でハイセイコーが配合された[3]。1976年5月13日、北海道浦河町の鮫川三千男牧場にて黒鹿毛の牡馬(後のカツラギハイセイコ)が誕生した[3]。産まれた仔は、脚が長いものの腹袋が充実しておらず「バランスの悪い」体格で評価は低かった[3]。鶴のように首を曲げる「ツル頸」になりながらもパワーは感じ取れる走法で、悍性が強かったという[3]

桂土地株式会社の桂晃一が用いる冠名の「カツラノ」と、父ハイセイコーから競走馬名は9文字以内の定めに則って長音符を除いた「ハイセイコ」を組み合わせて「カツラノハイセイコ」と命名された。

競走馬時代

3歳(1978年)

栗東トレーニングセンター庄野穂積厩舎に所属し、3歳夏に北海道の牧場から直接札幌競馬場に入った[3]。担当となった厩務員、松尾一吉は「これといった印象もなく、ただ牝馬のあとばかりついて歩く変な馬[3]」と振り返っている。デビューからしばらくは深管骨瘤の痛みを抱えながら、レースに出走した[5]

9月1日、札幌競馬場の新馬戦(ダート1000メートル)に作田誠二が騎乗してデビューしたが4着に敗れた[5]。初勝利は、作田から福永洋一に乗り替わった4戦目の未勝利戦であった。その後条件戦2戦し、3着以内となったが勝利には至らず、3歳を終えた[5]

4歳(1979年)

年が明けた1月7日の呉竹賞で、上がり3ハロンを35秒台で駆けて2勝目を挙げた[5]。福永は「今の4歳でこんな凄い脚を使える馬は少ないよ。こりゃ大物だ」と振り返っていた。続くジュニアカップ(800万円以下)は先約のために福永から、その兄弟子である松本善登に乗り替わり参戦し、直線の末脚で後方との差を広げて連勝とした[5]。これ以降、しばらく松本が騎乗を続ける。2月17日の京都競馬場オープン競走では、中団から抜け出して福永が騎乗するレッドルーラーを問題にせず、3連勝となった。庄野はこの時期の3連勝についてカツラノハイセイコの能力を評価し、末脚について父ハイセイコー以上のものを持っているとしていた[5]

皐月賞

3月25日の皐月賞トライアルスプリングステークスに参戦するために、3月3日に東上して美浦トレーニングセンターで調整を行った[5]。スプリングステークスでは、朝日杯3歳ステークスを制したビンゴガルーや、弥生賞を制したリキアイオーなどが出走したが、それを上回る評価を得て1番人気に推された[5]。逃げるリキアイオーに対して、後方に位置。追い込んだものの、リキアイオーにクビ差届かず2着に敗れた[5]。続いて4月15日の皐月賞に向けて美浦トレーニングセンターで調整されていたが、4月になってから熱発を催し、食事量が減少するなど体調が悪化した[5]。庄野は皐月賞回避を検討したが、何とか出走できる状態に持ち直した[5]。馬体重をスプリングステークスよりも減らしての出走となり、5番人気という評価であった。松本も「スプリングステークスを10とすれば3か4の出来」という状態での出走であった。スタートから後方に位置し、直線に入ってから追い上げて2着となった[5]。勝利したビンゴガルーに4分の3馬身遅れた敗戦であった。松本は状態が良ければ東京優駿制覇は可能と展望していた[5]

東京優駿

東京優駿(日本ダービー)が行われる東京競馬場のコースに慣らすために、5月6日のトライアル競走であるNHK杯に出走[5]。メジロエスパーダに次ぐ2番人気となり、最後の直線入り口で先頭に立ったが、テルテンリュウやサエキヒーローに交わされた3着に敗れた[5]。そして5月27日の東京優駿(日本ダービー)に出走した。父ハイセイコーがタケホープに敗れた舞台に挑む息子に、勝利を望むファン心理も手伝い、前走、前々走で敗れたはずのビンゴガルーやテルテンリュウを上回る1番人気の支持を集めた[5]

スタートから有利とされる「ダービー・ポジション」の10番手につけ、周辺にテルテンリュウとビンゴガルーが位置した[5]。第3コーナーから動き出し、最終コーナーで3番手まで押し上げ、馬場の最も内側を走った[5]。残り300メートルで外から追い上げるテルテンリュウがぶつかりながら競り合ってきたが、残り100メートルでテルテンリュウを競り落とした。テルテンリュウの追い上げの際に不利を受けて一時停滞したリンドプルバンが盛り返して、カツラノハイセイコと並んだところが決勝線通過であった[5]

写真判定には時間がかかったが、ハナ差でカツラノハイセイコの先着が認められた。着順掲示板にカツラノハイセイコの「7」が表示されて、勝利が確定すると松本は右手を上げ、約12万人の歓声と拍手を呼んだ[5]。松本は、騎手デビュー25年目でクラシック初勝利となった。走破タイム2分27秒3は、1974年にコーネルランサーが記録したダービーレコードを0秒1更新した[6]。父ハイセイコーは、内国産馬であり、父内国産馬が東京優駿を制したのは1959年のコマツヒカリ(父:トサミドリ)以来20年振りのことであった[6]

その後、肺炎馬房で暴れたことによる鼻骨骨折などで満足に調教できなかった[7]。秋の始動戦は、京都新聞杯だったものの10着に敗れて、菊花賞の出走を断念した[7]

5 - 6歳(1980 - 81年)

松本が肺がんに倒れて河内洋に乗り替わり、9月7日の復帰戦となるサファイヤステークスは、8頭中6番人気の支持ながら2着。続く京都大賞典では3着に入った[7]

続いて天皇賞(秋)を目指して東上し、前哨戦の目黒記念(秋)で日本ダービー以来の勝利を挙げて、1番人気の支持で天皇賞(秋)に参戦[7]プリテイキャストの大逃げに次ぐ2番手で進んだが、伸びを欠いて6着敗退、大逃げのプリテイキャストがそのまま逃げ切り勝利を果たした[7]。(レースの詳細は、第82回天皇賞を参照。)ファン投票1位で臨んだ12月21日の有馬記念では、調教の内容が悪かったため3番人気に甘んじた[7]。直線で先頭に立ったが、残り100メートルで斜行してしまいホウヨウボーイにハナ差かわされて2着に敗れた[7]

年をまたいで6歳は、3月8日のマイラーズカップで始動し、3番人気ながら勝利。続いて、サンケイ大阪杯は不良馬場に負けて6着に敗れた[7]

続いて、4月29日の天皇賞(春)に出走。食欲がなくなり馬体重が減少し、直前の調教の内容が悪かったために体調不安説がささやかれていた[7]。しかし、ホウヨウボーイやモンテプリンスなどが回避したため、2番人気に押し上げられた[7]。中団から最終コーナーで抜け出し、外からカツアールが追い上げてきた。後方との差を広げて2頭での争いとなり、馬体を接触しながら競り合い、カツアールをクビ差退けて先頭で入線した[7]父内国産馬の天皇賞優勝は、1965年春のアサホコ(父:ヒカルメイジ(青森県産)以来16年ぶりであり、東京優駿(日本ダービー)優勝馬の天皇賞制覇は、ミハルオーハクチカラシンザンタケホープに次いで5頭目のことであった。庄野は「もうこんな凄い馬に巡り合うことはないでしょうね」と言い涙を流した[7]

6月7日、宝塚記念はファン投票1位に選出されて出走し、後方からカツアールを目指して追い込んだが1馬身4分の1届かず、2着に敗れた[7][8]

秋はその年に創設されたジャパンカップ、有馬記念を走り引退する予定であったが、目前の9月に深管骨瘤が悪化して引退を決意[7]第1回ジャパンカップ当日の11月22日、京都競馬場にて河内が騎乗し、日本ダービー優勝時のゼッケン「7」を着用し引退式が行われた[7]。約1か月後の12月14日、日本ダービーなど4歳時の主戦だった松本が48歳という若さで亡くなった[7]

種牡馬時代

引退後は種牡馬試験に合格し、日本中央競馬会に種牡馬として1億2000万円で買い取られた[7]青森県上北郡七戸町日本軽種馬協会七戸種馬場に繋養された[7]。見学に来た北里大学の学生100人の前でも種付けを淡々とこなし、芦毛の牝馬には段違いに興奮して種付けを行っていた[9]

繁殖牝馬の質が低く、順風満帆で恵まれた環境ではなかったが奮闘し、テツノセンゴクオー・カネユタカオーなど複数の地方活躍馬を送り出した。中央ではユウミロクオークスメジロラモーヌの2着に入り、古馬時代にはカブトヤマ記念も制覇。ユウミロクは母としての活躍の方が目立っており、ユウセンショウゴーカイユウフヨウホウという重賞勝ち馬三兄弟を送り出した。2000年にJRAが実施した20世紀の名馬大投票では62位に選ばれた。種牡馬引退後は栃木県那須塩原市のJBBA那須種馬場で余生を過ごしていたが、2009年10月8日老衰のため死亡した[10][11]。同時期に那須で死亡したルションとともに合同の慰霊祭が行われた[12]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[13]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離
(馬場)



オッズ
(人気)
着順 タイム 騎手 斤量
[kg]
1着馬
(2着馬)
1978.09.01 札幌 3歳新馬 ダ1000m(良) 9 5 5 016.00(6人) 04着 01:03.5 0作田誠二 52 パンナムシロー
0000.09.10 札幌 3歳未勝利 ダ1000m(不) 11 8 11 027.60(8人) 05着 01:01.3 0作田誠二 52 チェリータイガー
0000.10.14 京都 3歳未勝利 ダ1200m(良) 10 3 3 011.60(4人) 02着 01:15.2 0作田誠二 52 シュウザンアロー
0000.11.11 京都 3歳未勝利 ダ1200m(良) 14 2 2 001.90(1人) 01着 01:14.7 0福永洋一 53 (シルクタイテー)
0000.12.02 阪神 かえで賞 4下 芝1600m(重) 7 4 4 009.30(4人) 02着 01:38.0 0福永洋一 53 ネーハイジェット
0000.12.16 阪神 さざんか賞 4下 芝1300m(良) 14 8 13 035.6(10人) 03着 01:17.2 0作田誠二 53 イナドコトブキ
1979.01.07 京都 呉竹賞 4下 芝1400m(良) 11 7 9 004.30(2人) 01着 01:23.6 0福永洋一 54 ニチドウアラシ
0000.01.28 京都 ジュニアC 8下 芝1600m(良) 8 7 7 004.50(3人) 01着 01:36.8 0松本善登 54 (テルテンリュウ)
0000.02.17 京都 4歳S 芝1600m(良) 11 8 10 003.40(1人) 01着 01:36.5 0松本善登 55 (レッドルーラー)
0000.03.25 中山 スプリングS 芝1800m(稍) 10 3 3 003.70(1人) 02着 01:50.0 0松本善登 56 リキアイオー
0000.04.15 中山 皐月賞 芝2000m(良) 15 3 5 012.90(5人) 02着 02:02.4 0松本善登 57 ビンゴガルー
0000.05.06 東京 NHK杯 芝2000m(良) 14 3 3 007.80(2人) 03着 02:01.2 0松本善登 56 テルテンリュウ
0000.05.27 東京 東京優駿 芝2400m(良) 27 3 7 005.70(1人) 01着 02:27.3 0松本善登 57 リンドプルバン
0000.10.21 東京 京都新聞杯 芝2000m(良) 13 8 13 010.90(4人) 10着 02:02.5 0松本善登 57 ファインドラゴン
1980.09.07 阪神 サファイヤS 芝1600m(重) 8 8 8 021.30(6人) 02着 01:36.6 0河内洋 57 ニチドウアラシ
0000.10.12 阪神 京都大賞典 芝2400m(重) 8 2 2 003.40(1人) 03着 02:32.6 0河内洋 57 シルクスキー
0000.11.02 東京 目黒記念(秋) 芝2500m(良) 11 5 5 003.30(1人) 01着 02:32.5 0河内洋 58 (シルクスキー)
0000.11.23 東京 天皇賞(秋) 芝3200m(重) 11 4 4 003.90(1人) 06着 03:30.1 0河内洋 58 プリテイキャスト
0000.12.21 中山 有馬記念 芝2500m(良) 12 4 4 006.70(3人) 02着 02:33.7 0河内洋 57 ホウヨウボーイ
1981.03.08 阪神 マイラーズC 芝1600m(稍) 10 8 9 006.30(3人) 01着 01:37.5 0河内洋 58 (ウエスタンジョージ)
0000.04.04 阪神 サンケイ大阪杯 芝2000m(不) 8 8 8 003.90(1人) 06着 02:08.0 0河内洋 59 サンシードール
0000.04.29 京都 天皇賞(春) 芝3200m(良) 14 4 6 006.40(2人) 01着 03:20.6 0河内洋 58 カツアール
0000.06.07 阪神 宝塚記念 芝2200m(良) 13 5 6 003.10(1人) 02着 02:14.3 0河内洋 57 カツアール

種牡馬成績

主な産駒

血統表

カツラノハイセイコ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ロックフェラ系
[§ 2]

ハイセイコー
1970 鹿毛
父の父
*チャイナロック
China Rock
1953 栃栗毛
Rockefella Hyperion
Rockfel
May Wong Rustom Pasha
Wezzan
父の母
ハイユウ
1961 黒鹿毛
*カリム
Karim
Nearco
Skylarking
*ダルモーガン
Dalmogan
Beau Son
Reticent

コウイチスタア
1968 黒鹿毛
*ジャヴリン
Javelin
1957 黒鹿毛
Tulyar Tehran
Neocracy
Sun Chariot Hyperion
Clarence
母の母
ミタケ
1960 鹿毛
タカクラヤマ *セフト
峰城
第三スターリングモアノ一 トビサクラ
第三スターリングモア
母系(F-No.) フロリースカップ系(FN:3-l) [§ 3]
5代内の近親交配 Hyperion 4×4、Nearco 4×5 [§ 4]
出典
  1. ^ [23]
  2. ^ [24]
  3. ^ [25][23]
  4. ^ [23]


脚注

注釈


出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 種牡馬情報:種牡馬成績 |カツラノハイセイコ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  2. ^ カツラノハイセイコが死亡 | 競馬実況web | ラジオNIKKEI”. keiba.radionikkei.jp. 2021年5月31日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『優駿』1990年1月号 23頁
  4. ^ コウイチスタア|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 優駿』1990年1月号 24頁
  6. ^ a b 優駿』1990年1月号 25頁
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 優駿』1990年1月号 26頁
  8. ^ 第22回 宝塚記念 競走成績”. jra.jp. 2021年5月31日閲覧。
  9. ^ 優駿』1990年1月号 27頁
  10. ^ カツラノハイセイコ号が死亡”. www.jra.go.jp (2009年10月11日). 2009年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月31日閲覧。
  11. ^ カツラノハイセイコ死亡、79年ダービーV - 競馬ニュース : nikkansports.com”. www.nikkansports.com. 2021年5月31日閲覧。
  12. ^ カツラノハイセイコ・ルションの合同慰霊祭が行われる | 馬産地ニュース | 競走馬のふるさと案内所”. uma-furusato.com. 2021年5月31日閲覧。
  13. ^ カツラノハイセイコの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2021年5月29日閲覧。
  14. ^ ユウミロク|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  15. ^ マルトラック|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  16. ^ サンアカネ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  17. ^ テツノセンゴクオー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  18. ^ カネユタカオー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  19. ^ ハルナオーギ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  20. ^ ニホンベレーザ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  21. ^ デンタルスター|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  22. ^ オルテプリンセス|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月31日閲覧。
  23. ^ a b c 血統情報:5代血統表|カツラノハイセイコ”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2015年8月13日閲覧。
  24. ^ 小林皓正(編)『サラブレッド血統マップ'93』コスモヒルズ、1993年、22-23頁。 
  25. ^ スペシャルウィークが社台スタリオンステーションを退厩”. 競走馬のふるさと案内所. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2015年8月13日閲覧。

参考文献

  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1990年1月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 47】父の血超えて カツラノハイセイコ」

外部リンク