「レキシントン (CV-2)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m lintエラー修正
編集の要約なし
(2人の利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 艦艇
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
| 名称 = USS レキシントン
|align="center" colspan="2"|[[Image:USS Lexington (CV-2) leaving San Diego on 14 October 1941.jpg|300px|USS Lexington(CV-2)]]
| 画像 = USS Lexington (CV-2) leaving San Diego on 14 October 1941 (80-G-416362).jpg
|-
| 画像幅 = 300
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
| 画像説明 =
|-
| 建造所 = [[クインシー (マサチューセッツ州)|マサチューセッツ州クインシー]]、[[フォアリバー造船所]]
| 発注||[[1916年]](巡洋戦艦として)<br />[[1922年]](航空母艦として)
| 運用者 = {{USNAVY}}
|-
| 計画 =
| 起工||[[1921年]][[1月8日]]
| 発注 = {{ubl|1916年(巡洋戦艦として)|1922年(航空母艦として)}}
|-
| 進水||[[1925]][[103]]
| 起工 = 192118
| 進水 = 1925年10月3日
|-
| 竣工 =
| 就役||[[1927年]][[12月14日]]
| 就役 = 1927年12月14日
|-
| 退役 =
| 最期||[[珊瑚海海戦]]で[[1942年]][[5月8日]]沈没
| 最後 = 1942年5月24日、[[珊瑚海海戦]]にて戦没。
|-
| 除籍||[[1942年]][[6月24日]]
| 除籍 = 1942年6月24日
| 母港 =
|-
| 愛称 = {{ubl|レディ・レックス (Lady Lex)|グレイ・レディ (Gray Lady)}}
! colspan=2 style="color: white; height: 30px; background: navy;"| 性能諸元(1942年)
| モットー =
|-
| 建造費 =
|[[排水量]]||建造:34,067 t<br/>基準:36,000 t<br/>常備:41,187 t<br/>満載:43,054 t<br/>最大:47,879 t
| 改名 =
|-
| 要目注記 =
|長さ||全長:888 ft(270.66 m)<br/>水線長:850 ft(259.08 m)
| 艦種 = [[巡洋戦艦]]→[[航空母艦]]([[改造空母]])
|-
| 級名 = [[レキシントン級航空母艦]]
|幅||全幅:106 ft(32.30 m)<br/>水線幅:105 ft-5.25 in(32.1 m)
| 排水量 = 34,067 [[トン数|トン]]
|-
| 基準排水量 = 36,000 トン
|吃水||満載:30 ft-4.75 in<br/>最大:33 ft-3.50 in
| 常備排水量 = 41,187 トン
|-
| 公試排水量 =
|飛行甲板||全長:866 ft-2 in(264 m)<br/>全幅:105 ft-11.25 in(32.28 m)
| 満載排水量 = 43,054 トン
|-
| トン数 =
|rowspan="3"|機関
| 総トン数 = 47,879 トン
|[[ターボ・エレクトリック方式]] 4軸推進
| 全長 = {{convert|888|ft|m|lk=on|abbr=on}}
|-
| 水線長 = {{convert|850|ft|m|abbr=on}}
|[[蒸気タービン]] 4基<br/>180,000[[馬力]](設計)<br/>202,973馬力(1928年)<ref name=ab12>Anderson & Baker, p312</ref>
| 垂線間長 =
|-
| 全幅 = {{convert|106|ft|m|abbr=on}}
|[[ボイラー]] 16基
| 水線幅 = 105 ft-5.25 in (32.1 m)
|-
| 深さ =
|速力||colspan=2|33.25[[ノット]](設計)<br/>34.59ノット(1928年)<ref name=ab12 />
| 吃水 = {{ubl|満載:30 ft-4.75 in|最大:33 ft-3.50 in}}
|-
| 高さ =
|航続距離||colspan=2|10ノット/10,000海里(設計)<br/>11ノット/10,950海里<br/>15ノット/9,490海里
| 飛行甲板 = {{ubl|全長:866 ft-2 in (264 m)|全幅:105 ft-11.25 in (32.28 m)}}
|-
| 機関 =
|乗員||colspan=2|2,791名(1942年:艦船1,940名、航空851名)
| 主缶 = [[ボイラー|水管ボイラー]]×16基
|-
| 主機 = [[蒸気タービン]]×4基
|兵装||5インチ 単装砲 12基<br/>1.1インチ 4連装機関砲 12基<br/>20 mm 単装機関砲 22基<br/>12.7 mm 機関銃 24挺
| 推進器 = [[ターボ・エレクトリック方式]]×4軸
|-
| 電源 =
|搭載機||colspan=2|78機
| 出力 = {{ubl|設計:{{convert|18,000|hp|kW|lk=on|abbr=on}}|最大:{{convert|202,973|hp|kW|abbr=on}}<ref name=ab12>Anderson & Baker, p312</ref>}}
|-
| 速力 = {{convert|33.25|kn|km/h|lk=on|abbr=on}}
|style="white-space:nowrap; font-size:smaller"|エレベーター|| 2基
| 最大速力 = {{convert|34.59|kn|km/h|abbr=on}}<ref name=ab12/>
|}
| 巡航速力 =
'''レキシントン'''('''USS Lexington, CV-2''')は、[[アメリカ海軍]]の[[航空母艦]]。[[レキシントン級航空母艦]]のネームシップ。
| 航続距離 = 10ノット航行時:10,000 [[海里]] (19,000 km)
| 燃料 = <!-- トン -->
| 乗員 = 2,791名(1942年:艦船1,940名、航空851名)
| 搭載能力 =
| 兵装 = {{ubl|{{仮リンク|Mk 9 8インチ砲|en|8"/55 caliber gun|label=8インチ連装砲}}×4門|[[Mk 10 5インチ砲|5インチ単装砲]]×12門}}
| 装甲 =
| 搭載艇 =
| 搭載機 = 78機
| C4I =
| レーダー =[[CXAM]]対空レーダー
| ソナー =
| 探索装置 =
| 電子戦 =
| その他 =
| 備考 =
}}
'''レキシントン'''('''USS Lexington, CV-2''')は、[[アメリカ海軍]]の[[航空母艦]]。[[レキシントン級航空母艦]]の[[ネームシップ]]。


[[アメリカ海軍]]において[[レキシントン]]の名を受け継いだ艦としては4隻目にあたる。「グレイ・レディ(Gray Lady)」「レディ・レックス(Lady Lex)」の愛称で呼ばれた。
[[アメリカ海軍]]において[[レキシントン]]の名を受け継いだ艦としては4隻目にあたる。「レディ・レックス(Lady Lex)」{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|p=76}}、「グレイ・レディ(Gray Lady)」の愛称で呼ばれた。


== 概要 ==
== 概要 ==
当初は[[レキシントン級巡洋戦艦]]として建造が開始されたが、[[ワシントン海軍軍縮条約]]に基づき[[巡洋戦艦]]としての工事は中止され、姉妹艦[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]と共に航空母艦へと改造された{{Sfn|大内、幻の航空母艦|2006|p=28}}{{#tag:Ref|航空母艦“レキシントン Lexington”{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1935|p=120|ps=原本222-223ページ(航空母艦レキシントン)}} 全要目{排水量33,000噸 速力34.24節 備砲20糎砲8門 12.7糎高角砲12門 搭載航空機 各種計76 起工1921年1月 竣工1927年12月 建造所 フオアリヴア造船所} 全長270.65米、幅32.30米、平均喫水7.35米。速力は實に180,000馬力で得るところの34.24節という高速力は、何と云つても廣海面を舞臺とする彼等にとつては特に重要視される大威力であらう。“サラトガ”と共に米國海軍が誇る二大航空母艦中の一であつて共に元巡洋戰艦として建造中であつたものを我が赤城、加賀同様[[ワシントン会議_(1922年)|ワシントン會議]]の協定により航空母艦に改造したもので米國海軍第一線用の一大航空威力である。/この艦が起工より竣工までに満7ヶ年の日子を費してゐるのは、亦我が赤城、加賀と同じく一度巡戰として計畫したものを中途に於て航母に設計替の已むなきに至つたが爲である。|group="注"}}。
当初は[[レキシントン級巡洋戦艦]]として建造が開始されたが、[[ワシントン海軍軍縮条約]]に基づき巡洋戦艦としての工事は中止され、航空母艦へと改造された。


ワシントン海軍軍縮条約下、レキシントンおよび同型艦の[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]] (''USS Saratoga, CV-3'') の両艦は基準排水量33,000トンと公表されたが{{#tag:Ref|航空母艦“サラトガ Saratoga”{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1935|p=119|ps=原本220-221ページ(航空母艦サラトガ)}} 全要目{排水量33,000噸 速力34.25節 備砲20糎砲8門 12.7糎高角砲12門 搭載航空機 各種計79 起工1920年9月 竣工1927年11月 建造所 ニューヨーク造船會社} 全長270.65米、幅32.30米、平均喫水7.35米。速力33節の軸馬力180,000馬力。以上の如く殆どが“レキシントン”と同要目である。尚この同型艦は共に備砲として上記の外に小砲12門を有してゐる。又ともに水上機用のカタパルト(これは碇泊中發艦させるためのものである)1基を備へてゐる。/現代海戦に於て先づその緒を切るものは兩軍艦隊の最前線に於ける空中戰闘であり、これによつて制空權を握るものが戰勝の鍵を握るとさへ云はれてゐるから航空母艦の重要性は将來益々増大するであらう。|group="注"}}、満載排水量は40,000トン以上あったという{{Sfn|ハワイ海戰マレー沖海戰|1942|p=33|ps=(原本42-43頁)}}。完成時には、世界最大の空母であった{{#tag:Ref|○世界最大の航空母艦 レキシントン【寫眞下】米航空母艦レキシントンは三萬三千トン(満載四萬トン)で速力三三.五ノット、乗員二千百二十二名、戰闘機、偵察兼爆撃機、爆撃機、雷撃機など八十一機を搭載し得るが非常の場合には補用機を合し百二十機を搭載出來る。その他装備として八吋砲八門、五吋高角砲十二門を備へ 一九二一年一月起工、一九二七年竣工、サラトガと共に最初は巡洋戰艦として起工されたがワシントン會議の結果航空母艦に改装されたもので現在サラトガと共に世界最大の航空母艦としてその威容を誇示していゐた。/ラングレー(寫眞左)航空母艦で排水量は一萬一千五百トン、速力十五ノットで大型飛行艇母艦として使用されてゐた{{Sfn|ハワイ海戰マレー沖海戰|1942|p=33|ps=(原本42-43頁)}}。|group="注"}}。
ワシントン海軍軍縮条約下、レキシントンおよび同型艦の[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]] (''USS Saratoga, CV-3'') の両艦は基準排水量33,000トンと公表されたが、満載排水量は40,000トン以上あったという。完成時には世界最大の空母であった。


動力は蒸気タービンによって発電を行い、その電力によって[[モーター|電動機]]を駆動、それによって[[スクリュー]]を駆動させて航行する[[ターボ・エレクトリック方式]](タービン・エレクトリック方式)である{{Sfn|児童百科大事典(10)国防|1932|pp=171-173|ps=(原本303-304)第四節 電氣推進}}{{#tag:Ref|航空母艦“レキシントン Lexington”{{Sfn|ポケット海軍年鑑|1937|p=105|ps=原本192-193ページ(航空母艦レキシントン)}} 全要目{排水量33,000噸 速力34.24節 備砲20糎砲8門 12.7糎高角砲12門 搭載航空機 各種計76 起工1921年1月 竣工1927年12月 建造所 フオアリヴア造船所} 全長270.65米、幅32.30米、平均喫水7.35米。180,000馬力で得る34.24節という高速力は、航空母艦が必ずもたねばならぬ性能であるとしてもなまやさしい事で得られるものではない。/“サラトガ”と共に米國海軍が誇る二大航空母艦中の一であつて共に元巡洋戰艦として建造中であつたものを我が赤城、加賀同様ワシントン會議の協定により航空母艦に改造したもので竣工までに満7ヶ年の日子を費した米國海軍第一線用の一大航空兵力である。この艦が電氣推進になつてゐるのは敏速なこまかい速力變更を望むためであらう。定員1,899名(飛行将校を含む) |group="注"}}。この方式を備えた船舶としても当時世界最大の艦船であった{{#tag:Ref|日本海軍も興味をもち、サラトガを建造していた[[ニューヨーク造船所]]に、電気推進方式の水上機母艦[[神威 (水上機母艦)|神威]]を発注したほどである{{Sfn|児童百科大事典(10)国防|1932|pp=171-173|ps=(原本303-304)第四節 電氣推進}}。|group="注"}}。
動力は蒸気タービンによって発電を行い、その電力によって[[モーター|電動機]]を駆動、それによって[[スクリュー]]を駆動させて航行する[[ターボ・エレクトリック方式]](タービン・エレクトリック方式)で、この方式を備えた船舶としても当時世界最大の艦船であった。


全通式一段[[飛行甲板]]やアイランド式艦橋構造、またエンクローズド・バウなど先見性のある設計で、大きな改造を行うことなく大戦に参加できた。もともとが巡洋戦艦として設計されたため空母としても速力は十分であり、大きな飛行機搭載能力と併せて世界最優秀の空母であった。<!--レキシントン級航空母艦へ移動したほうがいいか?-->ただし{{要出典範囲|その後のアメリカ空母と異なって格納庫は密閉構造となっていた|date=2016年11月}}。
全通式一段[[飛行甲板]]や、ギャラリーデッキ構造{{Sfn|大内、幻の航空母艦|2006|p=294}}、右舷にまとめたアイランド式艦橋構造、またエンクローズド・バウなど先見性のある設計であった{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|pp=16-17|ps=瑞鶴レキシントンと同率比較(作図・石橋孝夫)}}。同世代の空母[[赤城 (空母)|赤城]]や[[加賀 (空母)|加賀]]が試行錯誤と大改装を繰り返して[[太平洋戦争]]に臨んだのに対し{{#tag:Ref|ワシントン海軍軍縮条約と[[関東大震災]]により、建造中の[[天城型巡洋戦艦]]2番艦の「赤城」と[[加賀型戦艦]]1番艦の「加賀」が空母に改造された{{Sfn|大内、赤城・加賀|2014|pp=71-78|ps=なぜ「赤城」と「加賀」なのか}}。当初、2隻とも[[多段式空母]]だったが、近代化改装時に一段式飛行甲板となった{{Sfn|大内、赤城・加賀|2014|pp=128-131|ps=多段式飛行甲板型航空母艦の衰退}}。|group="注"}}、レキシントン級は大きな改造を行うことなく[[第二次世界大戦]]に参加できた。もともとが巡洋戦艦として設計されたため空母としても速力は十分であり、大きな飛行機搭載能力と併せて世界最優秀の空母であった。<!--レキシントン級航空母艦へ移動したほうがいいか?-->ただしレキシントン級は密閉式格納庫を採用していたが{{Sfn|大内、幻航空母艦|2006|p=291}}、アメリカ海軍通算4番目の空母[[レンジャー (CV-4)|レンジャー]](USS Ranger, CV-4)、同艦をさらに発展させた[[ヨークタウン級航空母艦]]は開放式格納庫となっていた{{Sfn|大内、幻の航空母艦|2006|p=294}}。


[[1936年]]に艦首飛行甲板の拡張、煙突上部周囲のプラットフォーム新設などの改装が行われ、[[1940年]]には対空用[[レーダー]]が装備された。
[[1936年]]に艦首飛行甲板の拡張、煙突上部周囲のプラットフォーム新設などの改装が行われ、[[1940年]]には対空用[[レーダー]]の[[CXAM]]が装備された。

[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]の[[真珠湾攻撃]]時{{Sfn|大内、赤城・加賀|2014|pp=227-231|ps=真珠湾攻撃}}、レキシントンは[[ミッドウェー島]]に航空機を輸送する任務についていた{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=27}}。以降の[[太平洋戦争]]では、まず[[ハワイ]]周辺の哨戒や作戦に従事する{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=192a-194|ps=機動部隊による救援}}。

[[1942年]](昭和17年)2月より[[ウィルソン・ブラウン]]提督が指揮する[[第11任務部隊]]の中核として南太平洋や珊瑚海で活動し、2月下旬の[[ニューギニア沖海戦]]に参加、[[ラバウル航空隊]]と交戦する{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=436a-439|ps=米機動部隊の状況}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=101-102|ps=米空母機動部隊の作戦}}。つづいて第17任務部隊の空母[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]と共に[[ラエ・サラモアへの空襲]]を実施した{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=486|ps=ブラウン、フレッチャー両合同部隊のラエ、サラモア空襲}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=128a|ps=米機動部隊の作戦}}。

5月上旬、日本軍の[[ポートモレスビー]][[ポートモレスビー作戦|攻略作戦]]を阻止するため、[[フランク・J・フレッチャー]]提督の第17任務部隊(ヨークタウンほか)と[[オーブリー・フィッチ]]提督の第11任務部隊(レキシントンほか)は[[珊瑚海]]に進出する{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=237|ps=珊瑚海海戦地図、昭和17年5月}}([[珊瑚海海戦]]){{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=61|ps=珊瑚海海戦概況図(昭和17年5月7~8日)}}。[[5月7日]]、アメリカ軍機動部隊は軽空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]を撃沈した{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|pp=78-79|ps=Facts File2/珊瑚海海戦}}{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ|2013|p=179|ps=(珊瑚海海戦 1942年5月7~8日)}}。翌[[5月8日|8日]]、MO機動部隊の[[第五航空戦隊]]([[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]<!-- 原少将旗艦 -->、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]])艦上機による空襲を受け、ヨークタウンに爆弾1発が命中、レキシントンに爆弾2発と魚雷2本が命中する{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|pp=14-15|ps=珊瑚海海戦 昭和17年5月8日/史上初の空母対空母の戦い}}。レキシントンは[[ダメージコントロール|応急修理]]に努めたが、気化燃料が爆発して大火災となり、駆逐艦{{仮リンク|フェルプス (駆逐艦)|en|USS Phelps (DD-360)|label=フェルプス}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=239}}により雷撃処分された{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=320a-322|ps=レキシントンの沈没と米機動部隊の引き揚げ}}。


== 艦歴 ==
== 艦歴 ==
=== 太平洋戦争以前 ===
レキシントンは巡洋戦艦(CC-1)として[[1921年]]1月8日に[[マサチューセッツ州]][[クインシー (マサチューセッツ州)|クインシー]]の[[フォアリバー造船所|フォアリバー造船株式会社]]によって起工された。
レキシントンは巡洋戦艦(CC-1)として[[1921年]](大正10年)1月8日に[[マサチューセッツ州]][[クインシー (マサチューセッツ州)|クインシー]]の[[フォアリバー造船所|フォアリバー造船株式会社]]によって起工された。
[[画像:USS_Lexington_(CV-2)_on_building_ways,_1925.jpg|thumb|240px|フォアリバー造船所で建造中のレキシントン(1925年10月初旬の撮影)]]
[[画像:USS_Lexington_(CV-2)_on_building_ways,_1925.jpg|thumb|240px|フォアリバー造船所で建造中のレキシントン(1925年10月初旬の撮影)]]
[[ワシントン海軍軍縮条約]]に基づき、巡洋戦艦としての工事は中止され、1922年7月1日に航空母艦(CV-2)に艦種変更され、1925年10月3日に海軍省次官セオドア・ダグラス・ロビンソンの夫人によって進水した。1927年12月14日に初代艦長アルバート・W・マーシャル大佐の指揮下就役した。
[[ワシントン海軍軍縮条約]]に基づき、巡洋戦艦としての工事は中止され、1922年(大正11年)7月1日に航空母艦(CV-2)に艦種変更され、1925年(大正14年)10月3日に海軍省次官{{仮リンク|セオドア・ダグラス・ロビンソン|en|Theodore Douglas Robinson}}の夫人によって進水した。1927年(昭和2年)12月14日に初代艦長アルバート・W・マーシャル大佐の指揮下就役した。


レキシントンは[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]に配属され、以後沈没まで所属し続けた。"レディ・レックス"と呼ばれて大切にされたが、対称的にサラトガの方は「そうではなかった」という{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=130}}。
レキシントンは[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]に配属され、以後沈没まで所属し続けた。慣熟訓練の後、[[カリフォルニア州]][[サンペドロ_(カリフォルニア州)|サンペドロ]]で1928年4月7日艦隊に合流する。サンペドロを母港としたレキシントンは西海岸で航空団と共に発着訓練、戦術演習を行い、続いて[[ハワイ]]、[[カリブ海]]、[[パナマ運河]]および東[[太平洋]]での演習に毎年参加した。1929年12月16日から翌30年1月16日までの間、その発電能力を活かして[[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]に電力を供給している(少雨により同市の主要電源だった水力発電所が稼働しなかった)。1941年秋にハワイでの戦術演習に出航した。


慣熟訓練の後、[[カリフォルニア州]][[サンペドロ_(カリフォルニア州)|サンペドロ]]で1928年(昭和3年)4月7日、艦隊に合流する。サンペドロを母港としたレキシントンは西海岸で航空団と共に発着訓練、戦術演習を行い、続いて[[ハワイ]]、[[カリブ海]]、[[パナマ運河]]および東[[太平洋]]での演習に毎年参加した。1929年(昭和4年)12月16日から翌30年(昭和5年)1月16日までの間、その発電能力を活かして[[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]に電力を供給している。少雨により、同市の主要電源だった水力発電所が稼働しなかった為である。
日本軍による[[真珠湾攻撃]]がおこなわれた[[1941年]]12月7日、レキシントンは第12任務部隊に所属し海兵隊の航空機を[[真珠湾]]からミッドウェイへ輸送中であった。レキシントンは直ちに日本艦隊捜索のため偵察機を発艦させた。午前半ばにはオアフ南西の探索を行なう[[重巡洋艦]][[インディアナポリス_(重巡洋艦)|インディアナポリス]](USS Indianapolis, CA-35)と空母[[エンタープライズ_(CV-6)|エンタープライズ]](USS Enterprise, CV-6)の任務部隊と合流するため南へ向かったが、日本艦隊を発見できなかった。12月13日に真珠湾に帰港した。


1937年(昭和12年)7月1日、世界一周飛行の途中で[[パプアニューギニア]][[ラエ]]から[[ハウランド島]]にむかっていた冒険家[[アメリア・イアハート]]の[[ロッキード L-10 エレクトラ|航空機]]が行方不明になった{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=21-23|ps=南洋群島を舞台とする海軍作戦構想の変遷/無条約時代(昭和十二年~開戦)}}。アメリカ政府は、[[アメリカ海軍]]および[[アメリカ沿岸警備隊|沿岸警備隊]]、さらに隣接した地域を[[委任統治]]している[[日本]]の[[大日本帝国海軍]]の協力によってイアハートの捜索をおこなった。アメリカ海軍は空母レキシントン、戦艦[[コロラド (戦艦)|コロラド]](USS Colorado, BB-45)、沿岸警備隊{{仮リンク|イタスカ (巡視船)|en|USCGC Itasca (1929)|label=イタスカ}}等を派遣した<ref>[[#遭難件|イヤハート遭難]] p.5</ref>。当時、日本海軍は第十二戦隊(機雷敷設艦[[沖島 (敷設艦)|沖島]]、水上機母艦[[神威 (水上機母艦)|神威]]、[[神風型駆逐艦 (2代)#第二十八駆逐隊|第28駆逐隊]]〈[[朝凪 (駆逐艦)|朝凪]]、[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]〉)により、南洋諸島の長期調査航海を実施していた{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=57-58|ps=第十二戦隊の基地調査/経過}}。神威艦載機や特務艦[[膠州 (測量艦)|膠州]]等が捜索に参加する<ref>[[#遭難件|イヤハート遭難]] p.13</ref>。それぞれ1週間程度をかけて捜索したが何も見つからず、第十二戦隊の4隻は[[7月10日]]に[[伊勢湾]]へ帰投した{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=58|ps=成果報告}}。[[7月19日]]に日米とも捜索を打ち切った<ref>[[#遭難件|イヤハート遭難]]p.14</ref>。イアハート捜索にアメリカ艦隊は割り当て量以上の燃料を消費したため、米海軍は翌年の訓練を削減された{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=24}}。
1942年1月11日、レキシントンは[[ウィルソン・ブラウン]]中将が指揮する[[第11任務部隊]]の旗艦として真珠湾を出撃した。2月16日、第11任務部隊は[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]の攻撃へ向かった。21日に攻撃予定であったがその前日の20日に2波にわたる日本軍機の攻撃を受けた([[ニューギニア沖海戦]])。この海戦で迎撃にあたったレキシントンの戦闘機隊のうち、[[エドワード・J・オヘア]]中尉は5機撃墜が認定されて第二次世界大戦で最初のアメリカ海軍のエースとなり、後に少佐に特進した<ref>佐藤暢彦『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』潮書房光人新社、2019年、ISBN 978-4-7698-3103-7、183ページ</ref>。ラバウル攻撃はこの海戦の結果断念された。3月6日に部隊は空母[[ヨークタウン_(CV-5)|ヨークタウン]]を旗艦とする{{仮リンク|第17任務部隊|label=第17任務部隊|en|Task Force 17}}と合流し、3月10日に両空母の攻撃隊は[[オーエンスタンレー山脈]]を超えて[[サラマウア|サラモア]]と[[ラエ]]を攻撃した([[ラエ・サラモアへの空襲]])。3月26日にレキシントンは真珠湾に帰投した。

対空火器を強化するため8[[インチ]]砲を撤去して5インチ両用砲に換装する予定であったが、取り付けが間に合わず28[[ミリ]]対空機関砲を搭載した状態で[[珊瑚海海戦]]に参加した。
1941年(昭和16年)秋にハワイでの戦術演習に出航した。

[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[ハズバンド・キンメル]]大将は、険悪になっていく日米情勢に呼応し、[[ミッドウェー島]]と[[ウェーク島]]に[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]の飛行機を増援として輸送することとした。空母[[エンタープライズ_(CV-6)|エンタープライズ]](USS Enterprise, CV-6)がウェーク島に、レキシントンがミッドウェー島に派遣された{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=27}}{{Sfn|ニミッツ|1962|p=24}}。{{仮リンク|ジョン・H・ニュートン|en|John_H._Newton}}少将(旗艦[[シカゴ (CA-29)|シカゴ]])に率いられた第12任務部隊は{{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=374-375|ps=開戦時の海上兵力配備}}、ミッドウェー島に18機の[[SB2U (航空機)|SB2U ビンディケーター]]と第231海兵飛行群の要員を輸送することになった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=564-566|ps=ミッドウェーの防衛処置}}。12月5日、第12任務部隊は真珠湾を出撃した{{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=294-296|ps=ハワイにある米太平洋艦隊に関する情報収集}}。

=== 太平洋戦争緒戦 ===
日本軍の南雲機動部隊によって[[真珠湾攻撃]]がおこなわれた[[1941年]](昭和16年)[[12月7日]](日本時間[[12月8日]]){{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=325-332|ps=機動部隊の戦闘}}{{#tag:Ref|[[第一航空艦隊]]司令長官[[南雲忠一]]中将が指揮する南雲機動部隊は{{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=258-260}}、[[第一航空戦隊]]([[赤城 (空母)|赤城]]<!-- 南雲中将旗艦 -->、[[加賀 (空母)|加賀]])、[[第二航空戦隊]]([[蒼龍 (空母)|蒼龍]]<!-- 山口少将旗艦 -->、[[飛龍 (空母)|飛龍]])、[[第五航空戦隊]]([[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]<!-- 原少将旗艦 -->、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]])、第三戦隊([[比叡 (戦艦)|比叡]]<!-- 三川中将旗艦 -->、[[霧島 (戦艦)|霧島]])、第八戦隊([[利根 (重巡洋艦)|利根]]<!-- 阿部少将旗艦 -->、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]])、[[水雷戦隊#第一水雷戦隊|第一水雷戦隊]]、哨戒隊、補給部隊など。|group="注"}}、レキシントン以下の第12任務部隊はミッドウェイ島の南東約420浬地点にあり、同島に向けて航行中だった{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=375}}。レキシントンは航空機輸送任務を中止{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=565}}、直ちに日本艦隊捜索のため偵察機を発艦させた{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=394}}。[[ウィルソン・ブラウン]]中将の旗艦[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]](''USS Indianapolis, CA-35'')も[[ジョンストン島]]での演習を終えた帰り道だったので{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=375}}、第12任務部隊に合流する{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=393}}。第12任務部隊(空母レキシントン、重巡インディアナポリス、シカゴ、[[ポートランド (重巡洋艦)|ポートランド]]など)は[[オアフ島]]・[[ジョンストン島]]・[[パルミラ環礁]]を結ぶ三角形内で敵の捜索を開始した{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=393}}。南雲機動部隊と遭遇する機会はなく{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(上)|2013|p=90}}、13日(日本時間14日)に真珠湾へ戻った{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=394}}。

日本軍はウェーク島攻略に失敗した[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]を支援するため、南雲機動部隊から[[第二航空戦隊|二航戦]]を含む別働隊を派遣していた{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=174-175|ps=第八戦隊、第二航空戦隊および駆逐艦二隻の派遣}}{{#tag:Ref|第八戦隊司令官[[阿部弘毅]]少将(旗艦「利根」)<!-- 阿部少将の方が山口少将より先任のため -->が率いるウェーキ島攻撃隊{{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=ウェーキ攻略作戦増援発令}}:第八戦隊(利根、筑摩)、[[山口多聞]]少将の第二航空戦隊(蒼龍<!-- 山口少将旗艦 -->、飛龍)、第17駆逐隊([[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]){{Sfn|戦史叢書10|1967|p=417}}。|group="注"}}。
これに対し、太平洋艦隊司令長官代理の[[ウィリアム・パイ]]中将は[[ウェーク島の戦い|日本軍の攻勢]]に晒されている[[ウェーク島]]の海兵隊を救援するため、空母機動部隊の投入を決断した{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=203a|ps=ウェーク第二次作戦 日、米機動部隊行動図}}{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=203b-204|ps=太平洋艦隊司令部ならびに救援任務部隊の状況}}。アメリカ側は3つの任務部隊のほかに、給油艦[[ナチェス (給油艦)|ナチェス]](''USS Neches, AO–5'')および[[水上機母艦]][[:en:USS Tangier (AV-8)|タンジール]] (''USS Tangier, AV-8'') を加えてウェーク島に派遣した{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=192a-194|ps=機動部隊による救援}}。12月16日、第11任務部隊の偵察機は[[龍驤 (空母)|龍驤型航空母艦]]1隻を発見し、レキシントンは戦闘機7と艦爆29を発進させた{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=193}}。これは真珠湾攻撃時にアメリカ軍が放棄して漂流中の[[艀|パージ(艀)]]だった{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=193}}。さらに[[ジャルート環礁|ヤルート]]空襲か[[ブタリタリ|マキン]]空襲を目指して作戦中の[[12月20日|20日]]、第14任務部隊(サラトガ)の支援を命じられる{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=194}}。だがパイ中将は[[12月22日|22日]]に第11任務部隊(レキシントン)と第14任務部隊(サラトガ)に対し作戦中止を命じた{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=214a|ps=撤収、救援の時期を失した米太平洋艦隊司令部}}{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(上)|2013|pp=237-241|ps=ウェーキ島を捨てる}}。[[12月23日|23日]]にウェーク島の海兵隊は日本軍に降伏し{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=194}}、アメリカ側空母機動部隊は救援に失敗した{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=214b|ps=米守備隊の抵抗}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=92-94|ps=開戦後の米太平洋艦隊の動静}}。本作戦で、空母機動部隊同士の対決は起らなかった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=108}}。

1942年(昭和17年)[[1月11日]](日本時間[[1月12日]]午後2時40分){{Sfn|戦史叢書38|1970|p=332|ps=「伊六潜」、レキシントン型空母撃沈確実と報告}}、日本の潜水艦[[伊号第六潜水艦|伊6]]の雷撃によりサラトガが損傷した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=101-102|ps=米空母機動部隊の作戦}}{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=111-112|ps=サラトガを雷撃}}。サラトガは約5ヶ月間も戦線を離脱した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=41}}。なお日本はレキシントンを撃沈したと錯覚していた{{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=461-462}}。レキシントン型撃沈の報告は[[昭和天皇]]に奏上され、天皇も伊6の戦果を讃えた{{#tag:Ref|〔 「伊六潜」ガ敵「レキシントン」型航空母艦ヲ攻撃セル情況ヲ奏上セルニ 陛下ニハ繰返シ繰返シ御嘉賞ノ御言葉ヲ賜リタリ 謹ンデ伝達ス 〕{{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=461-462}}。|group="注"}}。
大本営はレキシントン撃沈を[[大本営発表|発表]]して華々しく宣伝した{{#tag:Ref|【大本營發表】(一月十四日午後三時)帝國潜水艦は十二日夕刻ハワイ西方洋上において米國太平洋艦隊所属'''航空母艦「レキシントン」型'''一隻(三萬三千トン)を雷撃、魚雷二本命中を確認したるところ、敵驅逐艦の制壓をうけ潜没せるため該航空母艦の沈没を確認するに至らざりしも、潜没中二回にわたる大爆發を聴音せるをもつて同艦は沈没せること確實なるものと認む(註)潜没とは潜水艦の必要に應じ急速に潜望鏡もろとも潜航する動作をいふ{{Sfn|ハワイ海戰マレー沖海戰|1942|p=33|ps=(原本42-43頁)}}。|group="注"}}{{#tag:Ref|米空母レキシントン型を撃沈{{Sfn|大東亜戦争展望(2)|1942|pp=32-33|ps=(原本53-54頁)}} 帝國潜水艦は一月十二日夕刻、ハワイ西方洋上で米國太平洋艦隊所属航空母艦レキシントン型(三萬三千トン)一隻が多數の巡洋艦、驅逐艦に護衛されて航行してゐるのを發見、嚴重な警戒陣を突破して雷撃、魚雷二本命中を確認したが敵驅逐艦の制壓をうけ潜没したので該航空母艦の沈没を確認するにいたらなかつたところ、潜没中二回にわたる大爆音を聴いたので同艦は沈没したこと確實なものと認められる旨同月十四日大本營から發表された。(中略)この航空母艦が基地を進發して來た意圖としては、ハワイ敗戰の意趣晴らしとして出來るだけの反撃をし、あはよくば日本内地を爆撃して敗殘米海軍の餘喘を内外に誇示せんとしたものか、それともジョンストン島その他海軍基地に飛行機を輸送するか、附近海面に活躍するわが艦艇を攻撃しようとしたものと想像される。しかし、いづれにしても米國内の不安、米海軍に對する非難にゐたたまらず出撃したものである。この企圖を未然に挫き三萬三千トンの巨艦を太平洋の藻屑と葬り去つたわが潜水艦の功績は實に素晴らしい。|group="注"}}。

沈んだはずのレキシントンは{{Sfn|軍艦旗は征く|1944|pp=51-55|ps=空母レキシントン發見/撃沈}}、活動を続けていた。ブラウン中将が指揮する第11任務部隊はレキシントンを中枢に据え、重巡[[アストリア (重巡洋艦)|アストリア]](USS Astoria, CA-34)、シカゴ (USS Chicago, CA-29) 、[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]](USS Minneapolis, CA-36)および9隻の駆逐艦とともに[[キングマン・リーフ]]と[[キリスィマスィ島]]の間を哨戒する予定だった。しかし、1月21日午後に計画が改められ、[[ウィリアム・ハルゼー]]中将(旗艦[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]])が企図する[[マーシャル諸島]]への一撃に呼応してウェーク島を攻撃することとなった{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=377}}。第11任務部隊はナチェスを加えて[[1月23日]]に真珠湾を出撃した{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=413-414|ps=ウェーク島の攻撃取やめ}}。しかし出撃直後に[[ニイハウ島]]南方において{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=467}}、ナチェスが[[伊号第百七十二潜水艦|伊72]]に撃沈される{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=114}}。燃料不足が懸念されたことと代わりのタンカーがいなかったこともあって、第11任務部隊のウェーク島への奇襲作戦は中止された<ref>『[[戦史叢書]]38』377、414ページ、石橋、244ページ、[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1942.html The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II]</ref>。1月24日、第11任務部隊は真珠湾に帰投した{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=436a-439|ps=米機動部隊の状況}}。

{{main|ラバウル空襲|ニューギニア沖海戦}}

1月31日、第11任務部隊はニューカレドニアへむかう輸送船団を護衛して真珠湾を出撃した{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=436c|ps=真珠湾からの船団護衛}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=100}}。2月1日、第11任務部隊は{{仮リンク|ANZAC部隊|en|ANZAC Squadron}}に編入された{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=436b|ps=ウェーク空襲中止とANZAC部隊への編入}}。第11任務部隊が追加されたことに喜んだANZAC部隊は、ブラウン中将の進言を受け入れ、[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]に空襲を敢行することにした{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=436d|ps=ラバウル空襲決定の経緯}}。第11任務部隊(空母レキシントン、重巡[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]、[[サンフランシスコ (重巡洋艦)|サンフランシスコ]]、[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]]、[[ペンサコーラ (重巡洋艦)|ペンサコーラ]]、駆逐艦部隊)は[[2月21日]]早朝にラバウル空襲を実施する予定であった{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=437a|ps=二十一日早朝のラバウル空襲企図}}。その前日の[[2月20日|20日]]に、[[横浜海軍航空隊]]の[[九七式飛行艇]]に発見される{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=430a|ps=坂井機の敵発見報告と攻撃命令の下令}}。レキシントン戦闘機隊は日本軍飛行艇2機(ほかに未帰還1機)を撃墜したが{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=437b|ps=日本軍四発飛行艇の発見撃墜}}、既に通報されていた{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=430b}}{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=440-441|ps=横濱空の索敵機、敵発見、触接}}。まもなくラバウルから飛来した[[一式陸上攻撃機]] 17機{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=441b|ps=第四航空隊の攻撃}}([[第四航空隊]]飛行隊長[[伊藤琢蔵]]少佐、海兵56期)の攻撃を受けた{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=432a|ps=敵機動部隊の発見/第四航空隊伊藤隊の敵発見報告}}。魚雷の準備が間に合わなかったため陸攻17機はすべて爆弾を装備し、戦闘機の護衛なして出撃した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=89-90|ps=米機動部隊の発見と陸攻隊の発進}}。

レキシントンは[[レーダー]]で二群にわかれた[[ラバウル航空隊]]の陸攻部隊を探知、自身の[[F4F (航空機)|F4F ワイルドキャット]]をむかわせた{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=437c|ps=日本軍陸上攻撃機、二群に分れて来襲}}。この海戦で迎撃にあたったレキシントンの戦闘機隊のうち、[[エドワード・J・オヘア]]中尉は5機撃墜が認定されて第二次世界大戦で最初のアメリカ海軍のエースとなり、後に少佐に特進した<ref>佐藤暢彦『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』潮書房光人新社、2019年、ISBN 978-4-7698-3103-7、183ページ</ref>。最初に一式陸攻の第二中隊9機が攻撃を開始したが、爆撃前に2機が撃墜され、爆撃後に全機撃墜された{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=91a-92|ps=陸攻隊の戦闘}}。次に第一中隊8機が第11任務部隊に接近したが、爆撃前に2機が撃墜され、5機が爆撃をおこなった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=91b}}。レキシントンに至近弾を与えたが、命中弾はなかった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=91b}}。攻撃後、さらに1機が失われた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=91b}}。このうち帰還不能になった陸攻2機がレキシントンに[[体当たり攻撃#航空戦|体当たり]]を試み、1機はレキシントンの15m手前で海面に突入した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=91b}}。もう1機はレキシントンの手前で駆逐艦に撃墜された{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=91b}}。一連の攻撃によりラバウル航空隊は指揮官機をふくむ陸攻13機を喪失し、2機が不時着、帰投できたのは2機だけだった{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=432b}}{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=40-43}}。日本側は航空母艦1隻と艦型不明艦1隻を撃沈、敵飛行機6機撃墜確実、2機不確実を報じた{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=434|ps=戦果報告}}。大本営発表では、被弾機が敵空母(レキシントン)に体当たりして撃沈したことになっている{{#tag:Ref|體當り機、敵空母を撃沈{{Sfn|大東亜戦争展望(2)|1942|p=35|ps=(原本58-59頁)}} わが海軍航空部隊は二月二十一日ニューギニア東方數百浬の洋上で敵中型新式航空母艦を含む有力な部隊を發見したので、海鷲は敵戰闘機群と猛烈な空中戰を演じつゝ急襲した。わが一部の荒鷲は壮烈な體當りをもつて機體諸共敵航空母艦を大破炎上せしめたが、同母艦はその後間もなく沈没したことが判明した。(三月七日大本營發表)なほその際軍艦一隻にも大損害を與へ、十機を撃墜したが、この攻撃がいかに猛烈なものであつたかはわが方も未歸還機九機を出したことによつても察知できるであらう。|group="注"}}。これは体当たりを試みた機の火焔と突入を誤認したものと思われる{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=91b}}。日本側の大本営発表と裏腹に、第11任務部隊の損害は戦闘機2機喪失だけだった{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=101-102|ps=米空母機動部隊の作戦}}。だが奇襲の効果が失われ、燃料が乏しくなってラバウル空襲は中止された{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=437d-439|ps=ラバウル空襲の断念と次期作戦への準備}}{{Sfn|ニミッツ|1962|p=42}}。なおラバウルへ航空機輸送任務を終えたばかりの日本軍の軽空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]と駆逐艦[[帆風 (駆逐艦)|帆風]]がトラック泊地南方海面で待機していたが、この時点ではレキシントンと対決しなかった{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=431-432|ps=「祥鳳」のトラック南方海面への待機}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=137-141|ps=祥鳳、米空母にふり回さる(昭和十七年二月)}}。

{{main|ニューギニアの戦い|ラエ・サラモアへの空襲}}

ブラウン中将が増援を要請していたのに応えて、ニミッツ提督は{{Sfn|ニミッツ|1962|p=44}}、空母[[ヨークタウン_(CV-5)|ヨークタウン]](USS Yorktown, CV-5)を中核とする{{仮リンク|第17任務部隊|label=第17任務部隊|en|Task Force 17}}(司令官[[フランク・J・フレッチャー]]少将)を派遣した{{Sfn|戦史叢書38|1970|pp=437d-439|ps=ラバウル空襲の断念と次期作戦への準備}}。第11任務部隊(レキシントン)と第17任務部隊(ヨークタウン)は3月6日に[[ニューヘブリディーズ諸島]]近海で合流した{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=128a|ps=米機動部隊の作戦}}{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=69}}。空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を基幹とする任務部隊は、ラバウル攻撃を企図していた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=128b}}。任務部隊が珊瑚海を西進中の3月8日、[[ポートモレスビー]]攻略の前段階として日本軍は[[ニューギニア島]]東部に位置する[[ラエ]]と[[サラマウア|サラモア]]に上陸した{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=476|ps=ラエ、サラモア攻略}}{{Sfn|マッカーサー|2003|p=93}}([[ポートモレスビー作戦]]){{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=118-120|ps=SR方面攻略部隊の作戦}}。空母機動部隊は、攻撃目標をラエとサラモアに切り替えた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=44}}。3月10日、空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)は攻撃隊を発進させ、またアメリカ陸軍の[[B-17 (航空機)|B-17]]も出撃した{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=70}}{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|p=46}}。104機の艦載機による南からの[[オーエンスタンレー山脈]]を越えた攻撃は奇襲となったが、期待されたほどの戦果ではなかった{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|pp=71-72}}。それでも[[水雷戦隊#第六水雷戦隊|第六水雷戦隊]](旗艦[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]])が護衛する日本軍諸艦船に大きな損害を与えた{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=486|ps=ブラウン、フレッチャー両合同部隊のラエ、サラモア空襲}}{{#tag:Ref|所在18隻中、沈没4隻、被害9隻、戦死130名、重軽傷245名{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=124}}。沈没(横浜丸、天洋丸、金剛丸、第二玉丸)、中破(黄海丸、夕凪、朝凪)、小破(ちゃいな丸、夕張、追風、聖川丸、津軽、玉丸){{Sfn|戦史叢書49|1971|p=124}}。|group="注"}}。
この攻撃により日本軍の[[ポートモレスビー作戦|ポートモレスビー攻略作戦]]に狂いが生じた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=49}}。作戦を担当する南洋部隊([[第四艦隊]]司令長官[[井上成美]]中将)は、[[連合艦隊]]に大型空母[[加賀 (空母)|加賀]]の派遣を要望する{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=479|ps=南洋部隊、空母二隻の増派要請}}。交渉と調整の結果、ポートモレスビー攻略作戦''MO作戦''に軽空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]と[[第五航空戦隊]]{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=82}}(司令官[[原忠一]]少将:[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]])が参加することになった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=49}}。

3月16日、第11任務部隊(レキシントンと随伴艦)は第17任務部隊と別れ、真珠湾にむかった{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=74}}。分離する前に、レキシントンは最新型のF4F 6機(事故で1機喪失して5機)をヨークタウンに譲り、旧型機を受け入れた{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=73}}。事故で失われた1機は、オヘア大尉がニューギニア沖海戦で殊勲をたてた時の搭乗機だった{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=74}}。3月26日、レキシントンは真珠湾に帰投した{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=438|ps=挿図第三十三 日米主要艦艇行動図(昭和十七年二月~四月)}}。対空火器を強化するため、艦橋の8[[インチ]]砲を撤去した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=132}}。5インチ両用砲に換装する予定であったが{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=73}}、取り付けが間に合わず28[[ミリ]]対空機関砲を搭載した状態で[[珊瑚海海戦]]に参加した。また艦橋にレーダーを装備した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=131}}。


=== 珊瑚海海戦 ===
=== 珊瑚海海戦 ===
[[File:Confirmed hits on USS Lexington (CV-2) during the Battle of the Coral Sea, 8 May 1942.png|thumb|right|250px|レキシントンの被害状況]]
珊瑚海海戦では5月7日に僚艦の空母[[ヨークタウン_(CV-5)|ヨークタウン]](USS Yorktown, CV-5)の艦載機と共同で日本空母[[祥鳳_(空母)|祥鳳]]を撃沈し、翌日には同[[翔鶴_(空母)|翔鶴]]に損害を与えたが、自らも日本軍艦載機の攻撃で魚雷2本、爆弾2発を受けた。


この頃、アメリカ軍は暗号解読により日本軍によるポートモレスビー占領作戦{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|pp=70-71|ps=Facts File1/モレスビー(MO)作戦}}(MO作戦)を察知した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=225-226|ps=MO作戦開始直前における連合軍側の態勢}}{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|pp=114-119|ps=次は珊瑚海と解読}}。日本軍は、海路によりポートモレスビーを直接占領することを企図していた{{Sfn|マッカーサー|2003|p=93}}。太平洋艦隊司令長官[[チェスター・ニミッツ]]大将は日本軍のMO作戦を粉砕するため、レキシントンを中核とする第11任務部隊の新司令官に[[オーブリー・フィッチ]]少将を任命し、空母ヨークタウンと合同して珊瑚海に向かうよう命じた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=50}}。また重巡シカゴが[[ニューカレドニア]]の[[ヌメア]]から、[[オーストラリア海軍|豪州海軍]]の{{仮リンク|ジョン・G・クレース|en|John Gregory Crace}}少将が指揮する重巡[[オーストラリア (重巡洋艦)|オーストラリア]](HMAS Australia, D84)と軽巡[[ホバート (軽巡洋艦)|ホバート]](HMAS Hobart)が豪州からかけつけた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=52}}。
11時5分から日本軍航空機の攻撃が始まった。[[File:Confirmed hits on USS Lexington (CV-2) during the Battle of the Coral Sea, 8 May 1942.png|thumb|right|250px|レキシントンの被害状況]]

最初の左舷前部に命中した魚雷の衝撃で2基のエレベーターは飛行甲板に上がった状態で故障し動作しなくなった。また航空燃料タンクからガソリンの漏出が始まった。2発目の魚雷は同じく左舷側船体中央やや前側に命中した。2発目の魚雷によりボイラー室に損害が発生し、最大速力は24.5ノットに低下した。
4月15日、第11任務部隊(レキシントン、ミネアポリス、ニューオーリンズ、駆逐艦7隻)は真珠湾を出撃し{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=131}}、南太平洋で行動中の第17任務部隊との合流を目指した{{Sfn|戦史叢書38|1970|p=438|ps=挿図第三十三 日米主要艦艇行動図(昭和十七年二月~四月)}}。その途中、[[パルミラ環礁|パルミラ島]]に[[F2A (航空機)|F2A バッファロー戦闘機]] 14機を輸送した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=131}}。

[[5月1日]]、第11任務部隊(レキシントン)と第17任務部隊(ヨークタウン)は合流した{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=87}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=235-237|ps=連合軍側の作戦}}。先任のフレッチャー少将が両方の任務部隊を指揮する{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=83}}。2つの任務部隊は燃料不足となっており、航行しながら補給を続けた{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=138}}。5月3日、フレッチャー少将は日本軍が[[フロリダ諸島]]の[[ツラギ島]]を占領したとの報に接した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=52}}。[[5月4日|4日]]、フレッチャー少将(ヨークタウン)はツラギにに奇襲を仕掛ける{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|p=135|ps=前哨戦(五月四日)}}。戦果は期待はずれだったものの{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=96}}、駆逐艦[[菊月 (睦月型駆逐艦)|菊月]]や特設艦艇3隻を撃沈し、敷設艦[[沖島 (敷設艦)|沖島]]や駆逐艦[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]等に小被害を与えた{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=230-233|ps=ツラギ攻略部隊の戦闘}}。補給が間に合わなかったレキシントン部隊はヨークタウン隊と分離して行動していたので{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=89}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=210}}、この戦闘には関与していない{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=141|ps=(珊瑚海海戦 1942年5月1~4日)}}。ツラギ空襲を終えたヨークタウンは南下し、レキシントンと再合流した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=144}}。

[[5月6日]]夕暮、ポートモレスビーへ進撃する日本軍輸送船団を撃滅するため、フレッチャー提督は指揮下戦力から第17.3任務部隊{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=154}}(司令官クレース少将:重巡オーストラリア、重巡シカゴ、軽巡ホバート、駆逐艦3隻)を編成した{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=98}}。また給油艦[[ネオショー (給油艦)|ネオショー]](USS Neosho, AO-23)と駆逐艦{{仮リンク|シムス (DD-409)|en|USS Sims (DD-409)|label=シムス}}(USS Sims, DD-409)を南方に避退させた{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=99}}。[[5月7日]]朝、フレッチャー提督はクレース隊を分離し<!-- 『戦史叢書49』281頁では「クレース隊:重巡2、軽巡1、駆逐艦2」となっている -->{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=281a-282|ps=米攻撃隊の発進}}、日本軍輸送船団にむけ進撃させた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=53}}{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=101}}。クレース隊は[[ラバウル航空隊]]の一式陸攻に襲われたが、過大戦果報告と裏腹に{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=153}}、ほとんど被害はなかった{{Sfn|ラバウル海軍航空隊|2001|pp=58-59}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=287-289|ps=第五空襲部隊の連合軍水上部隊攻撃}}。つづいて錯誤と幸運の末に第17任務部隊攻撃隊93機{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=281b-282}}(レキシントン50機:艦爆28、艦攻12、艦戦10/ヨークタウン43機:艦爆25、艦攻10、艦戦8)がMO主隊6隻(第六戦隊〈[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]{{#tag:Ref|MO主隊指揮官は、第六戦隊司令官[[五藤存知]]少将であった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=195}}。|group="注"}}、[[加古 (重巡洋艦)|加古]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]〉、軽空母〈祥鳳〉、駆逐艦〈[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]〉){{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=219-222|ps=敵機来襲(五月七日)}}を捕捉し{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|pp=104-105}}、軽空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]に爆弾13発と魚雷7本を叩き込んで撃沈した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=282-285|ps=「祥鳳」の沈没}}{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|pp=136-138|ps=祥鳳沈没(五月七日)}}。一方、五航戦索敵機がネオショーを空母と誤認報告しため{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=276-279|ps=油槽船を空母と見誤る}}、五航戦攻撃隊はやむを得ずネオショーとシムスを沈めた{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=160}}{{#tag:Ref|駆逐艦シムスはこの攻撃で沈没したが、ネオショーはまだ浮いていた{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=226}}。ネオショーは5月11日に生存者を収容したあと、海没処分された{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=102}}。|group="注"}}。五航戦攻撃隊の薄暮攻撃を撃退したあと{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=227-230|ps=夜間攻撃、失敗す(五月七日夜)}}、第17任務部隊は夜戦を検討したが、実施されなかった{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|pp=114-115}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=294-295|ps=米空母部隊の状況}}。


[[File:Damaged_USS_Lexington_(CV-2)_underway_on_the_early_afternoon_of_8_May_1942_(NH_76560).jpg|thumb|left|250px|1942年5月8日14時30分(現地時間)に撮影されたレキシントン。日本海軍機による攻撃で魚雷2発と爆弾2発の命中弾を受けた後、VT-2とVF-2の各機が着艦完了した状態。左舷からの浸水のため、すでに艦首が沈んでいる。<ref>[[#NAVAL FACT AND HISTORY SERIES AMERICAN AIRCRAFT CARRIERS 1920s-1945 アメリカの航空母艦 資料写真集 1920s-1945]]p.44 MODELArt</ref>]]
[[File:Damaged_USS_Lexington_(CV-2)_underway_on_the_early_afternoon_of_8_May_1942_(NH_76560).jpg|thumb|left|250px|1942年5月8日14時30分(現地時間)に撮影されたレキシントン。日本海軍機による攻撃で魚雷2発と爆弾2発の命中弾を受けた後、VT-2とVF-2の各機が着艦完了した状態。左舷からの浸水のため、すでに艦首が沈んでいる。<ref>[[#NAVAL FACT AND HISTORY SERIES AMERICAN AIRCRAFT CARRIERS 1920s-1945 アメリカの航空母艦 資料写真集 1920s-1945]]p.44 MODELArt</ref>]]

1発目の爆弾は左舷飛行甲板脇の5インチ対空砲の付近に命中し5インチ砲に配置されていた兵員全員が死亡した。2発目の爆弾は煙突に命中し、付近の対空兵器の兵員を殺傷した。他にも船体周囲に落下した至近弾により、2つの防水区画に浸水した。1本目の魚雷によって漏出が始まった航空用ガソリンは、気化して艦内に充満し引火する危険が高まった。
[[5月8日]]朝、日米双方の機動部隊は索敵機を投入してお互いを探し求めた{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|pp=34-35}}。レキシントンは、SBD 18機を投入した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=167}}。レキシントン機は「空母2、重巡4、駆逐艦多数、針路120度、速力20ノット」を報告した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=168}}。日本側も第17任務部隊を発見し、ほぼ同時に攻撃隊を発進させた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=56}}{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=119}}。第17任務部隊の攻撃隊計82機{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=312}}(ヨークタウン39機:艦爆24、艦攻9、艦戦6/レキシントン43機:艦爆22、艦攻12、艦戦9){{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|p=138a|ps=5月8日 第17任務部隊出撃機}}はMO機動部隊{{#tag:Ref|MO機動部隊指揮官は、第五戦隊司令官[[高木武雄]]中将<ref name="jirei851">{{アジア歴史資料センター|C13072112000|昭和17年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第851号 p.1}}</ref>。第五戦隊([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]<!-- 高木中将旗艦 -->、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])、第五航空戦隊(司令官[[原忠一]]少将:[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]<!-- 五航戦旗艦 -->、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]])、第7駆逐隊([[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]])、第27駆逐隊([[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]、[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]])、祥鳳沈没後に合流した第六戦隊第2小隊([[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]])。<!-- 第六戦隊第1小隊(青葉、加古)とする二次資料があるが、誤認。 -->|group="注"}}を発見し、米空母2隻の攻撃隊はスコールに隠れた瑞鶴を見逃すと、翔鶴に攻撃を集中する{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|pp=138b-139|ps=航空決戦(五月八日)}}。レキシントン攻撃隊は悪天候で分散し、一部しか翔鶴を攻撃できなかった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=171}}。第17任務部隊攻撃隊は翔鶴に爆弾と魚雷多数を命中させて「撃沈」したと錯覚した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=313-315|ps=MO機動部隊の邀撃}}。レキシントン攻撃隊のTBD 12機は、翔鶴を攻撃して魚雷5本が命中したと確信した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=172}}。実際はヨークタウン攻撃隊により翔鶴に爆弾2発、レキシントン攻撃隊により爆弾1発が命中、計3発が命中して大破した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=238}}。だが命中した魚雷は1本もなく、艦底を潜り抜けたか、命中したが不発だったと思われる{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=172}}。レキシントン攻撃隊はF4F 3機とSBD 3機を喪失している{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=124}}。


[[File:USS_Lexington_(CV-2)_being_abandoned_on_8_May_1942_(80-G-7398).jpg|thumb|right|240px|1942年5月8日17時過ぎに重巡ミネアポリスから撮影されたレキシントン。船体が左舷方向へ傾いているため、夥しい数の乗組員が右舷からの脱出を試みている。フライトデッキ上にはF4Fや主翼を折りたたんだTBDなどが見える。ハンガーデッキからの煙に隠れて見えにくいが、写真右端には[[シムス級駆逐艦]]が救助のために寄り添っている。<ref>[[#NAVAL FACT AND HISTORY SERIES AMERICAN AIRCRAFT CARRIERS 1920s-1945 アメリカの航空母艦 資料写真集 1920s-1945]]p.44 MODELArt</ref>]]
[[File:USS_Lexington_(CV-2)_being_abandoned_on_8_May_1942_(80-G-7398).jpg|thumb|right|240px|1942年5月8日17時過ぎに重巡ミネアポリスから撮影されたレキシントン。船体が左舷方向へ傾いているため、夥しい数の乗組員が右舷からの脱出を試みている。フライトデッキ上にはF4Fや主翼を折りたたんだTBDなどが見える。ハンガーデッキからの煙に隠れて見えにくいが、写真右端には[[シムス級駆逐艦]]が救助のために寄り添っている。<ref>[[#NAVAL FACT AND HISTORY SERIES AMERICAN AIRCRAFT CARRIERS 1920s-1945 アメリカの航空母艦 資料写真集 1920s-1945]]p.44 MODELArt</ref>]]
[[image:Large_explosion_aboard_USS_Lexington_(CV-2),_8_may_1942.jpg|thumb|240px|大爆発を起こしたレキシントン<br/>1942年5月8日]]
12時47分に最初の爆発が起きた。この爆発で25名の乗員が死亡した。飛行甲板での離着艦は継続され、日本艦隊への攻撃部隊の収容は13時22分に開始され14時14分に終了した。14時42分、格納庫で深刻な大爆発が起こった。前部エレベーターが30センチ吹きあがり、艦の前半部が停電した。フレッチャー少将はレキシントンを支援するために3隻の駆逐艦を派遣したが、15時25分、再び格納庫で大爆発が起き水圧が失われた。火災によって前部機械室からの退避が必要となり、16時頃には喫水下の全区画からの避難が必要となった。


午前11時頃(日本時間午前9時頃)、五航戦(瑞鶴、翔鶴)から飛来した合計69機{{#tag:Ref|翔鶴飛行隊長[[高橋赫一]]少佐が指揮する69機{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|p=77|ps=珊瑚海海戦の5航戦攻撃隊合戦図}}(瑞鶴:零戦9、艦爆14/翔鶴:零戦9、艦爆19、艦攻10){{Sfn|戦史叢書49|1971|p=307}}{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|p=139a|ps=5月8日 第5航空戦隊出撃機}}。|group="注"}}による第17任務部隊への攻撃がはじまった{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=232}}。重巡5隻([[ニューオーリンズ (重巡洋艦)|ニューオーリンズ]]、[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]]、[[チェスター (重巡洋艦)|チェスター]]、[[アストリア (重巡洋艦)|アストリア]]、[[ポートランド (重巡洋艦)|ポートランド]])と駆逐艦多数が各空母を護衛していた{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=230}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=236a|ps=珊瑚海海戦、日本機攻撃時における米陣形図。昭和17年5月8日朝11時18分}}。またレキシントンとヨークタウンは艦隊の直掩としてF4Fを配備したが、日本側航空機の速度を見誤って効果的な迎撃を行えなかった{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=125}}。哨戒や索敵のSBDドーントレスも邀撃に加わったが、急降下爆撃機で零戦に空戦を挑むことを意味しており、SBDパイロットには不評だった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=174}}。
このためレキシントンは完全に航行不能となり漂流を始めた。負傷者の避難が優先して行われその後総員退去した。17時7分に、放棄した後にすぐ沈没しなかった場合日本海軍に拿捕され鹵獲されることや、拿捕されることで艦内に残した軍事機密が漏れることを避けるために、レキシントンを自軍により撃沈する決定が下された。


いずれにせよ五航戦攻撃隊の空襲により、レキシントンに爆弾2発と魚雷2本が命中し、ヨークタウンに爆弾1発が命中した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=310-311|ps=米機動部隊の状況}}。レキシントンでは、午前11時20分に最初の魚雷が命中した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=78}}。左舷前部に命中した魚雷の衝撃で2基のエレベーターは飛行甲板に上がった状態で故障し、動作しなくなった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=181}}。また航空燃料タンクからガソリンの漏出が始まった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=178}}。漏出が始まった航空用ガソリンは、気化して艦内に充満し引火する危険が高まった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=180}}。2発目の魚雷は同じく左舷側船体中央やや前側に命中した。2発目の魚雷によりボイラー室に損害が発生し{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=180}}、最大速力は約25ノットに低下した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=181}}。ほかに少なくとも2本の魚雷がレキシントンの艦底を潜りぬけていった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=178}}。魚雷を投下したあとの艦攻のうち、何機かは機銃掃射をして去っていった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=180}}。
===沈没===
19時15分-52分の間に駆逐艦{{仮リンク|フェルプス (DD-360)|label=フェルプス|en|USS Phelps (DD-360)}}から5発の魚雷がレキシントンに向けて発射された。


1発目の爆弾は左舷飛行甲板脇の5インチ対空砲の付近に命中して火災が発生、5インチ砲に配置されていた兵員全員が死亡した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=178}}。2発目の爆弾は煙突に命中し、付近の対空兵器の兵員を殺傷したほか、[[警笛|汽笛]]が数分間鳴りっぱなしになった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=178}}。他にも船体周囲に落下した至近弾により、2つの防水区画に浸水した。浸水被害により、レキシントンは左舷に7度傾斜した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=180}}。この戦闘で日本軍攻撃隊69機(零戦18、艦爆32、艦攻18)のうち、瑞鶴(艦爆2、艦攻3)、翔鶴(零戦3、艦爆7、艦攻5)が未帰還になった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=319}}。日本側は5月8日の戦闘で、空母[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]{{Sfn|軍艦旗は征く|1944|pp=69-71|ps=空母サラトガ撃沈}}とヨークタウン{{Sfn|軍艦旗は征く|1944|pp=71-73|ps=空母ヨークタウン撃沈}}を撃沈、[[ノースカロライナ級戦艦]]1隻{{Sfn|海軍作戦史|1943|pp=87-89|ps=(原本147-166頁)〔 珊瑚海々戰 〕}}(戦艦[[ノースカロライナ (戦艦)|ノースカロライナ]])と[[ルイビル_(重巡洋艦)|ルイスビル型重巡]]1隻を撃破したと発表した{{#tag:Ref|珊瑚海海戰{{Sfn|大東亜戦争展望(2)|1942|pp=41-42|ps=(原本70-72頁)}} 帝國海軍部隊は五月六日ニューギニア島南東珊瑚海において米英聯合艦隊を發見、七日これに攻撃を加へ米戰艦カリフォルニア型(三萬二千六百噸、十四吋砲十二門)一隻を轟沈、米甲巡ポートランド型(九千トン、八吋砲九門)一隻撃沈、英戰艦ウオスパイト型(三萬六百トン、十五吋砲八門)一隻に大損害を與へ、さらに翌八日、米航空母艦サラトガ型(三萬三千トン、搭載機八十乃至九十機、戰時は百二十機は可能)一隻およびヨークタウン型(一萬千九百トン、搭載機八十、戰時百機まで可能なる最新鋭空母)一隻を撃沈したほか米戰艦ノース・カロライナ型(三萬五千トン、十六吋砲九門、一九四一年春竣工の最新鋭艦)を中破し、さらに米甲巡ルイスビル型(九千五十トン、八インチ砲九門)一隻に對し雷撃機の體当りをもってこれに大損害を與へ、二萬トン級給油艦一隻を大破、驅逐艦一隻を撃沈した。七日以來の本海戰において敵機撃墜數は九十八、わが未歸還機二十四、なほわが小型航空母艦一隻(給油艦を改造せるもの)沈没した。<br/>今回の敵出撃は現在アメリカ海軍としては最大限のものであることに注目しなければならない。すでに戰艦勢力に大損害を受けた彼としては空母集團攻撃には航空母艦を中心に甲級巡洋艦が加はってゐたのに今度は主力艦數隻が参加してゐる。これはニューギニア海戰で當時の空母集團が果敢なく最期を遂げたのに懲りてその編成を強化して來たものであらうが、かくのごとく敵は空母集團によるゲリラ戰法しか企圖出來なくなってゐる現在、手持の航空母艦中で最大能力をもつサラトガと最も精鋭な戰闘性能をもつヨークタウンの二隻を失ったことは大きな痛手である。/この米英聯合艦隊撃滅が豪州に與へた衝動はすこぶる大きく、首相[[ジョン・カーティン|カーチン]]はラジオを通じて「今次珊瑚海海戰により豪州への脅威はいよいよ切迫し、吾人はもっとも危険なる時機を迎へねばならぬであらう」と述べ、非常な恐慌を來した。|group="注"}}。

=== 沈没 ===
[[image:Large_explosion_aboard_USS_Lexington_(CV-2),_8_may_1942.jpg|thumb|300x300px|大爆発を起こしたレキシントン<br/>1942年5月8日|代替文=]]
[[File:USS Lexington brennt.jpg|thumb|right|300px|1942年5月8日17時30分以降、総員退艦後の撮影とされるレキシントン。<ref>[[#NAVAL FACT AND HISTORY SERIES AMERICAN AIRCRAFT CARRIERS 1920s-1945 アメリカの航空母艦 資料写真集 1920s-1945]]p.44 MODELArt</ref>]]
[[File:USS Lexington brennt.jpg|thumb|right|300px|1942年5月8日17時30分以降、総員退艦後の撮影とされるレキシントン。<ref>[[#NAVAL FACT AND HISTORY SERIES AMERICAN AIRCRAFT CARRIERS 1920s-1945 アメリカの航空母艦 資料写真集 1920s-1945]]p.44 MODELArt</ref>]]
19時56分、レキシントンは艦首を下にして転覆するような形で沈み始めた。沈没の途中で3回の大爆発が確認された<ref>{{Cite web |url=https://text-message.blogs.archives.gov/2016/02/09/the-death-of-a-lady-the-uss-lexington-part-i-the-log/ |title=The Death of a Lady: The USS Lexington (CV-2) at the Battle of the Coral Sea, Part I: The Log |language=英語 |accessdate=2019-8-24 }}</ref>。


戦闘は約12分で終わった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=180}}。五航戦攻撃隊が去ったあとのレキシントンは応急修理に努め、火災を消火し、傾斜を復元し、航空作戦続行可能となった{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=320a-322|ps=レキシントンの沈没と米機動部隊の引き揚げ}}。ただしエレベーターの故障により、着艦した機体を艦内に収容することは出来なかった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=181}}。飛行甲板での離着艦は継続された{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=239}}。12時47分、レキシントンで最初の爆発が起きた{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|pp=36-37}}。爆発の原因は、ガソリンタンクから漏れて気化したガソリンが、発電機のスパークで引火したものと思われる{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=320b}}。この爆発で25名の乗員が死亡した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=182}}。消火作業や応急修理がおこなわれたが、小爆発が連続して艦内の状況は悪化、消火ホースの水圧が下がり、送電がとまり、消火剤と応急員の酸素ボンベも底をつきはじめた{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=183}}。MO機動部隊攻撃から帰投した攻撃部隊の収容は、13時22分に開始され14時14分に終了した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=239}}。レキシントンに36機があったという{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=242}}。
レキシントンは第二次世界大戦中の戦功で二つの従軍星章を受章した。1942年6月16日、本艦を記念し、建造途中だった[[エセックス級航空母艦]]の[[レキシントン_(CV-16)|一隻]]が「レキシントン」と改名された。

14時42分、二回目の大爆発が起きた{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=183}}。前部エレベーターから焔が吹き出し始めた{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=183}}。15時25分、再び格納庫で大爆発が起きた{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=321}}。駆逐艦が消火作業を手伝ったが、手のつけようがなかった{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=321}}。火災によって前部機械室からの退避が必要となり、16時頃には喫水下の全区画からの避難が必要となった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=184}}。17時7分、フィッチ提督と[[フレデリック・C・シャーマン]]大佐(レキシントン艦長)は艦の放棄を決意し、総員退艦を令した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=185}}。重巡[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]](USS Minneapolis, CA-36)、[[ニューオーリンズ (重巡洋艦)|ニューオーリンズ]](USS New Orleans, CL/CA-32)、駆逐艦3隻([[ハムマン (駆逐艦)|ハムマン]]、{{仮リンク|アンダーソン (駆逐艦)|en|USS Anderson|label=アンダーソン}}、{{仮リンク|モリス (DD-417)|en|USS Morris (DD-417)|label=モリス}})などがレキシントンにつきそい、接舷したり付近を警戒しながら収容した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=184}}。また上空で待機していたレキシントン所属の19機がヨークタウンに収容された{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=144}}。放棄した後にすぐ沈没しなかった場合日本海軍に拿捕され鹵獲されることや、拿捕されることで艦内に残した軍事機密が漏れることを避けるために、レキシントンを自軍により撃沈する決定が下された{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=321}}。

フィッチ提督やシャーマン艦長はミネアポリスに収容された{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=188}}。18時30分、レキシントン艦内の魚雷や爆弾が誘爆して大爆発が起きた{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=188}}。19時15分-52分の間に駆逐艦{{仮リンク|フェルプス (DD-360)|label=フェルプス|en|USS Phelps (DD-360)}}(USS Phelps, DD-360){{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=144}}はレキシントンの右舷にむけて魚雷8本を発射し、4本が起爆したようだった{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=188}}。シャーマン艦長は「 傷ついた艦は水中に没しはじめ、まるで彼女も戦いをあきらめたくないかのように、ゆっくりと沈んでいった。[[軍艦旗]]を誇らしげにひるがえらせ、『当船は本船を放棄する』を意味する最後の[[国際信号旗|旗りゅう信号]]をまだ桁端ではためかせながら、彼女はいつものようにレディらしく等吃水で沈んでいった 」と回想している{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=188}}。19時56分、レキシントンは艦首を下にして転覆するような形で沈み始めた。沈没の途中で3回の大爆発が確認された<ref>{{Cite web |url=https://text-message.blogs.archives.gov/2016/02/09/the-death-of-a-lady-the-uss-lexington-part-i-the-log/ |title=The Death of a Lady: The USS Lexington (CV-2) at the Battle of the Coral Sea, Part I: The Log |language=英語 |accessdate=2019-8-24 }}</ref>。戦死者は216名であったという{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=321}}。

第17任務部隊のパイロットたちは5月8日の戦闘で日本の空母2隻に命中弾を浴びせ、すくなくとも1隻を撃沈したと信じていた{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=190}}。だが索敵機が健在の日本空母2隻を報告した{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|p=190}}。第17任務部隊は南方へ避退した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=320a-322|ps=レキシントンの沈没と米機動部隊の引き揚げ}}。[[5月8日|8日]]の戦闘で連合軍はレキシントンを失い、ヨークタウンも損傷したが、日本軍のポートモレスビー侵攻を断念させた{{Sfn|空母ヨークタウン|1984|p=146}}{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|pp=192-193|ps=ポートモレスビー攻略を断念}}。珊瑚海海戦は、連合軍側の戦略的勝利で終わった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=60}}{{Sfn|歴群ミッドウェー|1994|p=140|ps=珊瑚海海戦の反省}}{{Sfn|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013|pp=196-199|ps=珊瑚海海戦の星取表}}。レキシントンは第二次世界大戦中の戦功で二つの従軍星章を受章した。1942年(昭和17年)6月16日、本艦を記念し、建造途中だった[[エセックス級航空母艦]]の[[レキシントン_(CV-16)|一隻]]が「レキシントン」と改名された。


== 発見 ==
== 発見 ==
102行目: 165行目:
レキシントンの残骸は、船体から艦首・艦尾の各先端および艦橋が離断し、それぞれ離れて横たわっている。このように損傷は激しいものの、海中での浸食はあまりなく、搭載されていた[[Mk 10 5インチ砲]]等の火器や艦載機の残骸も良好な状態を保っている<ref>{{Cite web |url=http://uncommonsenseok.blogspot.com/2018/03/the-wreck-of-uss-lexington-brief.html |title=The Wreck of the USS Lexington, an Ongoing Analysis |language=英語 |accessdate=2019-8-24 }}</ref>。
レキシントンの残骸は、船体から艦首・艦尾の各先端および艦橋が離断し、それぞれ離れて横たわっている。このように損傷は激しいものの、海中での浸食はあまりなく、搭載されていた[[Mk 10 5インチ砲]]等の火器や艦載機の残骸も良好な状態を保っている<ref>{{Cite web |url=http://uncommonsenseok.blogspot.com/2018/03/the-wreck-of-uss-lexington-brief.html |title=The Wreck of the USS Lexington, an Ongoing Analysis |language=英語 |accessdate=2019-8-24 }}</ref>。


== 脚注 ==
== 出典 ==
=== 注 ===
{{Reflist}}
<div style="font-size:88%">
<references />
{{Reflist|group="注"}}

=== 脚注 ===
{{reflist|2}}</div>


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!--著者五十音順 -->
*石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
* <!--オオウチ2006-->{{Cite book|和書|author=大内健二|title=幻の航空母艦 {{small|主力母艦の陰に隠れた異色の艦艇}}|chapter=|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|date=2006-12|origdate=|isbn=4-7698-2514-5|ref={{SfnRef|大内、幻の航空母艦|2006}}}}
*<!-- オオウチ2014 -->{{Cite book|和書|author=大内健二|coauthors=|year=2014|month=02|origyear=|page=|title=航空母艦「赤城」「加賀」 {{small|大艦巨砲からの変身}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2818-1|ref={{SfnRef|大内、赤城・加賀|2014}}}}
*<!-- オクミヤ2001 -->{{Cite book|和書|author=[[奥宮正武]]|authorlink=|date=2001-03|origyear=1992|title=ラバウル海軍航空隊|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=4-05-901045-6|ref={{SfnRef|ラバウル海軍航空隊|2001}}}}
*木津重俊編『<span style="font-size:90%;">世界の艦船別冊</span> 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6
*<!-- キマタジロウ1977 -->{{Cite book|和書|author=[[木俣滋郎]]|authorlink=|date=1977-07|chapter=|title=日本空母戦史|isbn=|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本空母戦史|1977}}}}
*<!-- キマタジロウ1989 -->{{Cite book|和書|author=[[木俣滋郎]]|authorlink=|date=1989-03|chapter=|title=日本軽巡戦史|isbn=|publisher=図書出版社|ref={{SfnRef|日本軽巡戦史|1989}}}}
*「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
*「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
*[[谷光太郎]]「ターナー上陸軍司令官」『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4054009820
*<!-- トール2013上 -->{{Cite book|和書|author=イアン・トール(著)|coauthors=村上和久(訳)|authorlink=|date=2013-06|title=太平洋の試練(上) {{small|真珠湾からミッドウェイまで}}|chapter=|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4-16-376420-7|ref={{SfnRef|トール、真珠湾~ミッドウェイ(上)|2013}}}}
*<!-- トール2013下 -->{{Cite book|和書|author=イアン・トール(著)|coauthors=村上和久(訳)|authorlink=|date=2013-06|title=太平洋の試練(下) {{small|真珠湾からミッドウェイまで}}|chapter=|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4-16-376430-6|ref={{SfnRef|トール、真珠湾~ミッドウェイ(下)|2013}}}}
*<!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author=[[チェスター・ニミッツ]] |author2=E・B・ポッター|others=[[実松譲]]、富永謙吾(共訳)|date=1962-12|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}}}}
*<!-- ニューカム -->{{Cite book|和書|author=R・F・ニューカム著|coauthors=田中至訳|date=1998-04|origyear=1963|chapter=|title=サボ島沖海戦 {{smaller|米軍史上最大の敗北}}|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2192-1|ref={{SfnRef|サボ島沖海戦|1988}}}}
*<!-- フランク1984 -->{{Cite book|和書|author1=パット・フランク|author2=ヨーゼフ・D・ハリントン|others=谷浦英男(訳)|date=1984-10|title=空母ヨークタウン|chapter=|publisher=朝日ソノラマ|series=航空戦史シリーズ|isbn=4-257-17048-4|ref={{SfnRef|空母ヨークタウン|1984}}}}
*<!-- ホウエイチョウ10 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ハワイ作戦|volume=第10巻|year=1967|month=12|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書10|1967}}}}
*<!--ホウエイチョウ38 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> {{small|昭和17年5月まで}}|volume=第38巻|year=1970|month=10|publisher=[[朝雲新聞社]]|ref={{SfnRef|戦史叢書38|1970}}}}
*<!--ホウエイチョウ43 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ミッドウェー海戦|volume=第43巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書43|1971}}}}
*<!--ホウエイチョウ49 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> {{small|ガ島奪還作戦開始まで}}|volume=第49巻|year=1971|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書49|1971}}}}
*<!--ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|p
ublisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98|1979}}}}
*<!-- マッカーサー2003 -->{{Cite book|和書|author1=[[ダグラス・マッカーサー]]著|coauthors=津島一夫訳|date=2003-07|origyear=1964|chapter=|title=マッカーサー大戦回顧録|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=978-4-12-205977-1|ref={{SfnRef|マッカーサー|2003}} }}
*<!-- レキシグンゾウ1994-09 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|date=1994-09|title=ミッドウェー海戦 {{small|主力空母四隻喪失。戦勢の転換点となった大海空戦の全貌を解明する}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第4巻|publisher=学習研究社|isbn=4-05-600596-6|ref={{SfnRef|歴群ミッドウェー|1994}} }}
*{{cite journal|last=Anderson|first=Richard M.|author2=Baker, Arthur D. III |year=1977|title=CV-2 Lex and CV-3 Sara|journal=Warship International|publisher=International Naval Research Organization|location=Toledo, OH|volume=XIV|issue=4|pages=291–328|issn=0043-0374}}
*{{cite journal|last=Anderson|first=Richard M.|author2=Baker, Arthur D. III |year=1977|title=CV-2 Lex and CV-3 Sara|journal=Warship International|publisher=International Naval Research Organization|location=Toledo, OH|volume=XIV|issue=4|pages=291–328|issn=0043-0374}}

* [https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.B10074880000|title=18.米国飛行機(女流飛行家アメリヤ・イヤハート)遭難ノ件|ref=遭難件}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030580500|title=昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=祥鳳日誌(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030580600|title=昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=祥鳳日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030580700|title=昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=祥鳳日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030580800|title=昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=祥鳳日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030580900|title=昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=祥鳳日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030581000|title=昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(6)|ref=祥鳳日誌(6)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030581100|title=昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(7)|ref=祥鳳日誌(7)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030581200|title=昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(8)|ref=祥鳳日誌(8)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030581300|title=昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(9)|ref=祥鳳日誌(9)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051586200|title=昭和17年2月〜昭和17年5月 祥鳳飛行機隊戦闘行動調書(1)|ref=祥鳳飛行機隊調書(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051586300|title=昭和17年2月〜昭和17年5月 祥鳳飛行機隊戦闘行動調書(2)|ref=祥鳳飛行機隊調書(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030728400|title=昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(1)|ref=MO機動部隊詳報(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030728500|title=昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(2)|ref=MO機動部隊詳報(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030728600|title=昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(3)|ref=MO機動部隊詳報(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030728700|title=昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(4)|ref=MO機動部隊詳報(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030124600|title=昭和17年4月1日〜昭和17年5月12日 第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)|ref=S1704六水戦日誌(7)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030045600|title=昭和16年12月1日〜昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1612六戦隊日誌(4)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030043200|title=昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1703五戦隊日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13120110600|title=第24航空戦隊戦時日誌 自昭和17年3月1日至昭和17年3月31日/1 経過|ref=S1703第24航空戦隊日誌(経過)}}

*[http://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
**{{Cite book|和書|author=朝日新聞社調査部 編|date=1942-08|title=大東亜戦争展望.第2|url={{NDLDC|1041962}}|series=朝日時局新輯|publisher=朝日新聞社|ref={{SfnRef|大東亜戦争展望(2)|1942}}}}
**{{Cite book|和書|author=朝日新聞社 編|date=1942-12|title=ソロモン群島|url={{NDLDC|1044457}}|publisher=朝日新聞社|ref={{SfnRef|朝日、ソロモン群島|1942}}}}
**{{Citation |和書|author=朝日新聞社 編|date=1944-10|title=わが血戦記|chapter=天藤明(祥鳳沈没時乗艦)珊瑚海海戰|publisher=朝日新聞社|url={{NDLDC|1130941/9}}|ref={{SfnRef|わが血戦記|1994}}}}
**{{Citation |和書|author=小原国芳|editor=|date=1932-06|title=児童百科大事典.10(国防篇)|chapter=第三編 海軍|series=児童百科大辞典|publisher=児童百科大事典刊行会|url={{NDLDC|1740770/143}}|ref={{SfnRef|児童百科大事典(10)国防|1932}}}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|date=1935-05|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版|url={{NDLDC|1109500}}|publisher=海軍研究社|ref={{SfnRef|ポケット海軍年鑑|1935}}}}
**{{Cite book|和書|author=海軍研究社編輯部 編|date=1937-02|title=ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版|url={{NDLDC|1231209}}|publisher=海軍研究社|ref={{SfnRef|ポケット海軍年鑑|1937}}}}
**{{Cite book|和書|author=田口利介|date=1943-05|title=海軍作戦史 : 大東亜戦争第一年|publisher=西東社|url={{NDLDC|1450057}}|ref={{SfnRef|海軍作戦史|1943}}}}
**{{Cite book|和書|author=土屋賢一|date=1944-08|title=軍艦旗は征く|url={{NDLDC|1062920}}|publisher=太平洋書館|ref={{SfnRef|軍艦旗は征く|1944}}}}
**{{Cite book|和書|author=同盟通信社出版部 編|date=1942-02|chapter=米航空母艦(レキシントン型 ラングレー)撃沈 わが潜水艦雷撃の殊勲|title=ハワイ海戰マレー沖海戰|url={{NDLDC|1899831}}|publisher=同盟通信社|ref={{SfnRef|ハワイ海戰マレー沖海戰|1942}}}}
**{{Cite book|和書|author=文部省 編|date=1943-07|title=初等科国語. 第8|url={{NDLDC|1277121}}|publisher=文部省|ref={{SfnRef|初等科国語|1943}}}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
114行目: 239行目:
*[[サラトガ (CV-3)]] - 同型艦
*[[サラトガ (CV-3)]] - 同型艦
*[[レキシントン (CV-16)]] - 艦名を引き継いだ[[エセックス級航空母艦]]の6番艦
*[[レキシントン (CV-16)]] - 艦名を引き継いだ[[エセックス級航空母艦]]の6番艦
*[[大鳳 (空母)]] - レキシントンと同様に魚雷の命中でガソリンが漏洩して密閉式格納庫に充満、その爆発により沈没した。
*[[第二次世界大戦中のアメリカ海軍の喪失艦一覧]]
*[[第二次世界大戦中のアメリカ海軍の喪失艦一覧]]
*[[アーネスト・キング]] - 元艦長
*[[フレデリック・C・シャーマン]] - 沈没時の艦長
*[[ロバート・A・ハインライン]] - 元乗員
*[[ロバート・A・ハインライン]] - 元乗員



2020年7月27日 (月) 17:39時点における版

USS レキシントン
基本情報
建造所 マサチューセッツ州クインシーフォアリバー造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 巡洋戦艦航空母艦改造空母
級名 レキシントン級航空母艦
愛称
  • レディ・レックス (Lady Lex)
  • グレイ・レディ (Gray Lady)
艦歴
発注
  • 1916年(巡洋戦艦として)
  • 1922年(航空母艦として)
起工 1921年1月8日
進水 1925年10月3日
就役 1927年12月14日
最期 1942年5月24日、珊瑚海海戦にて戦没。
除籍 1942年6月24日
要目
排水量 34,067 トン
基準排水量 36,000 トン
常備排水量 41,187 トン
満載排水量 43,054 トン
総トン数 47,879 トン
全長 888 ft (271 m)
水線長 850 ft (260 m)
最大幅 106 ft (32 m)
水線幅 105 ft-5.25 in (32.1 m)
飛行甲板
  • 全長:866 ft-2 in (264 m)
  • 全幅:105 ft-11.25 in (32.28 m)
吃水
  • 満載:30 ft-4.75 in
  • 最大:33 ft-3.50 in
主缶 水管ボイラー×16基
主機 蒸気タービン×4基
出力
  • 設計:18,000 hp (13,000 kW)
  • 最大:202,973 hp (151,357 kW)[1]
推進器 ターボ・エレクトリック方式×4軸
速力 33.25 kn (61.58 km/h)
最大速力 34.59 kn (64.06 km/h)[1]
航続距離 10ノット航行時:10,000 海里 (19,000 km)
乗員 2,791名(1942年:艦船1,940名、航空851名)
兵装
搭載機 78機
レーダー CXAM対空レーダー
テンプレートを表示

レキシントンUSS Lexington, CV-2)は、アメリカ海軍航空母艦レキシントン級航空母艦ネームシップ

アメリカ海軍においてレキシントンの名を受け継いだ艦としては4隻目にあたる。「レディ・レックス(Lady Lex)」[2]、「グレイ・レディ(Gray Lady)」の愛称で呼ばれた。

概要

当初はレキシントン級巡洋戦艦として建造が開始されたが、ワシントン海軍軍縮条約に基づき巡洋戦艦としての工事は中止され、姉妹艦サラトガと共に航空母艦へと改造された[3][注 1]

ワシントン海軍軍縮条約下、レキシントンおよび同型艦のサラトガ (USS Saratoga, CV-3) の両艦は基準排水量33,000トンと公表されたが[注 2]、満載排水量は40,000トン以上あったという[6]。完成時には、世界最大の空母であった[注 3]

動力は蒸気タービンによって発電を行い、その電力によって電動機を駆動、それによってスクリューを駆動させて航行するターボ・エレクトリック方式(タービン・エレクトリック方式)である[7][注 4]。この方式を備えた船舶としても当時世界最大の艦船であった[注 5]

全通式一段飛行甲板や、ギャラリーデッキ構造[9]、右舷にまとめたアイランド式艦橋構造、またエンクローズド・バウなど先見性のある設計であった[10]。同世代の空母赤城加賀が試行錯誤と大改装を繰り返して太平洋戦争に臨んだのに対し[注 6]、レキシントン級は大きな改造を行うことなく第二次世界大戦に参加できた。もともとが巡洋戦艦として設計されたため空母としても速力は十分であり、大きな飛行機搭載能力と併せて世界最優秀の空母であった。ただしレキシントン級は密閉式格納庫を採用していたが[13]、アメリカ海軍通算4番目の空母レンジャー(USS Ranger, CV-4)と、同艦をさらに発展させたヨークタウン級航空母艦は開放式格納庫となっていた[9]

1936年に艦首飛行甲板の拡張、煙突上部周囲のプラットフォーム新設などの改装が行われ、1940年には対空用レーダーCXAMが装備された。

1941年(昭和16年)12月8日真珠湾攻撃[14]、レキシントンはミッドウェー島に航空機を輸送する任務についていた[15]。以降の太平洋戦争では、まずハワイ周辺の哨戒や作戦に従事する[16]

1942年(昭和17年)2月よりウィルソン・ブラウン提督が指揮する第11任務部隊の中核として南太平洋や珊瑚海で活動し、2月下旬のニューギニア沖海戦に参加、ラバウル航空隊と交戦する[17][18]。つづいて第17任務部隊の空母ヨークタウンと共にラエ・サラモアへの空襲を実施した[19][20]

5月上旬、日本軍のポートモレスビー攻略作戦を阻止するため、フランク・J・フレッチャー提督の第17任務部隊(ヨークタウンほか)とオーブリー・フィッチ提督の第11任務部隊(レキシントンほか)は珊瑚海に進出する[21]珊瑚海海戦[22]5月7日、アメリカ軍機動部隊は軽空母祥鳳を撃沈した[23][24]。翌8日、MO機動部隊の第五航空戦隊瑞鶴翔鶴)艦上機による空襲を受け、ヨークタウンに爆弾1発が命中、レキシントンに爆弾2発と魚雷2本が命中する[25]。レキシントンは応急修理に努めたが、気化燃料が爆発して大火災となり、駆逐艦フェルプス英語版[26]により雷撃処分された[27]

艦歴

太平洋戦争以前

レキシントンは巡洋戦艦(CC-1)として1921年(大正10年)1月8日にマサチューセッツ州クインシーフォアリバー造船株式会社によって起工された。

フォアリバー造船所で建造中のレキシントン(1925年10月初旬の撮影)

ワシントン海軍軍縮条約に基づき、巡洋戦艦としての工事は中止され、1922年(大正11年)7月1日に航空母艦(CV-2)に艦種変更され、1925年(大正14年)10月3日に海軍省次官セオドア・ダグラス・ロビンソン英語版の夫人によって進水した。1927年(昭和2年)12月14日に初代艦長アルバート・W・マーシャル大佐の指揮下就役した。

レキシントンは太平洋艦隊に配属され、以後沈没まで所属し続けた。"レディ・レックス"と呼ばれて大切にされたが、対称的にサラトガの方は「そうではなかった」という[28]

慣熟訓練の後、カリフォルニア州サンペドロで1928年(昭和3年)4月7日、艦隊に合流する。サンペドロを母港としたレキシントンは西海岸で航空団と共に発着訓練、戦術演習を行い、続いてハワイカリブ海パナマ運河および東太平洋での演習に毎年参加した。1929年(昭和4年)12月16日から翌30年(昭和5年)1月16日までの間、その発電能力を活かしてタコマに電力を供給している。少雨により、同市の主要電源だった水力発電所が稼働しなかった為である。

1937年(昭和12年)7月1日、世界一周飛行の途中でパプアニューギニアラエからハウランド島にむかっていた冒険家アメリア・イアハート航空機が行方不明になった[29]。アメリカ政府は、アメリカ海軍および沿岸警備隊、さらに隣接した地域を委任統治している日本大日本帝国海軍の協力によってイアハートの捜索をおこなった。アメリカ海軍は空母レキシントン、戦艦コロラド(USS Colorado, BB-45)、沿岸警備隊イタスカ英語版等を派遣した[30]。当時、日本海軍は第十二戦隊(機雷敷設艦沖島、水上機母艦神威第28駆逐隊朝凪夕凪〉)により、南洋諸島の長期調査航海を実施していた[31]。神威艦載機や特務艦膠州等が捜索に参加する[32]。それぞれ1週間程度をかけて捜索したが何も見つからず、第十二戦隊の4隻は7月10日伊勢湾へ帰投した[33]7月19日に日米とも捜索を打ち切った[34]。イアハート捜索にアメリカ艦隊は割り当て量以上の燃料を消費したため、米海軍は翌年の訓練を削減された[35]

1941年(昭和16年)秋にハワイでの戦術演習に出航した。

太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将は、険悪になっていく日米情勢に呼応し、ミッドウェー島ウェーク島海兵隊の飛行機を増援として輸送することとした。空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)がウェーク島に、レキシントンがミッドウェー島に派遣された[15][36]ジョン・H・ニュートン英語版少将(旗艦シカゴ)に率いられた第12任務部隊は[37]、ミッドウェー島に18機のSB2U ビンディケーターと第231海兵飛行群の要員を輸送することになった[38]。12月5日、第12任務部隊は真珠湾を出撃した[39]

太平洋戦争緒戦

日本軍の南雲機動部隊によって真珠湾攻撃がおこなわれた1941年(昭和16年)12月7日(日本時間12月8日[40][注 7]、レキシントン以下の第12任務部隊はミッドウェイ島の南東約420浬地点にあり、同島に向けて航行中だった[42]。レキシントンは航空機輸送任務を中止[43]、直ちに日本艦隊捜索のため偵察機を発艦させた[44]ウィルソン・ブラウン中将の旗艦インディアナポリスUSS Indianapolis, CA-35)もジョンストン島での演習を終えた帰り道だったので[42]、第12任務部隊に合流する[45]。第12任務部隊(空母レキシントン、重巡インディアナポリス、シカゴ、ポートランドなど)はオアフ島ジョンストン島パルミラ環礁を結ぶ三角形内で敵の捜索を開始した[45]。南雲機動部隊と遭遇する機会はなく[46]、13日(日本時間14日)に真珠湾へ戻った[44]

日本軍はウェーク島攻略に失敗した第四艦隊を支援するため、南雲機動部隊から二航戦を含む別働隊を派遣していた[47][注 8]。 これに対し、太平洋艦隊司令長官代理のウィリアム・パイ中将は日本軍の攻勢に晒されているウェーク島の海兵隊を救援するため、空母機動部隊の投入を決断した[50][51]。アメリカ側は3つの任務部隊のほかに、給油艦ナチェスUSS Neches, AO–5)および水上機母艦タンジール (USS Tangier, AV-8) を加えてウェーク島に派遣した[16]。12月16日、第11任務部隊の偵察機は龍驤型航空母艦1隻を発見し、レキシントンは戦闘機7と艦爆29を発進させた[52]。これは真珠湾攻撃時にアメリカ軍が放棄して漂流中のパージ(艀)だった[52]。さらにヤルート空襲かマキン空襲を目指して作戦中の20日、第14任務部隊(サラトガ)の支援を命じられる[53]。だがパイ中将は22日に第11任務部隊(レキシントン)と第14任務部隊(サラトガ)に対し作戦中止を命じた[54][55]23日にウェーク島の海兵隊は日本軍に降伏し[53]、アメリカ側空母機動部隊は救援に失敗した[56][57]。本作戦で、空母機動部隊同士の対決は起らなかった[58]

1942年(昭和17年)1月11日(日本時間1月12日午後2時40分)[59]、日本の潜水艦伊6の雷撃によりサラトガが損傷した[18][60]。サラトガは約5ヶ月間も戦線を離脱した[61]。なお日本はレキシントンを撃沈したと錯覚していた[62]。レキシントン型撃沈の報告は昭和天皇に奏上され、天皇も伊6の戦果を讃えた[注 9]。 大本営はレキシントン撃沈を発表して華々しく宣伝した[注 10][注 11]

沈んだはずのレキシントンは[64]、活動を続けていた。ブラウン中将が指揮する第11任務部隊はレキシントンを中枢に据え、重巡アストリア(USS Astoria, CA-34)、シカゴ (USS Chicago, CA-29) 、ミネアポリス(USS Minneapolis, CA-36)および9隻の駆逐艦とともにキングマン・リーフキリスィマスィ島の間を哨戒する予定だった。しかし、1月21日午後に計画が改められ、ウィリアム・ハルゼー中将(旗艦エンタープライズ)が企図するマーシャル諸島への一撃に呼応してウェーク島を攻撃することとなった[65]。第11任務部隊はナチェスを加えて1月23日に真珠湾を出撃した[66]。しかし出撃直後にニイハウ島南方において[67]、ナチェスが伊72に撃沈される[68]。燃料不足が懸念されたことと代わりのタンカーがいなかったこともあって、第11任務部隊のウェーク島への奇襲作戦は中止された[69]。1月24日、第11任務部隊は真珠湾に帰投した[17]

1月31日、第11任務部隊はニューカレドニアへむかう輸送船団を護衛して真珠湾を出撃した[70][71]。2月1日、第11任務部隊はANZAC部隊英語版に編入された[72]。第11任務部隊が追加されたことに喜んだANZAC部隊は、ブラウン中将の進言を受け入れ、ニューブリテン島ラバウルに空襲を敢行することにした[73]。第11任務部隊(空母レキシントン、重巡インディアナポリスサンフランシスコミネアポリスペンサコーラ、駆逐艦部隊)は2月21日早朝にラバウル空襲を実施する予定であった[74]。その前日の20日に、横浜海軍航空隊九七式飛行艇に発見される[75]。レキシントン戦闘機隊は日本軍飛行艇2機(ほかに未帰還1機)を撃墜したが[76]、既に通報されていた[77][78]。まもなくラバウルから飛来した一式陸上攻撃機 17機[79]第四航空隊飛行隊長伊藤琢蔵少佐、海兵56期)の攻撃を受けた[80]。魚雷の準備が間に合わなかったため陸攻17機はすべて爆弾を装備し、戦闘機の護衛なして出撃した[81]

レキシントンはレーダーで二群にわかれたラバウル航空隊の陸攻部隊を探知、自身のF4F ワイルドキャットをむかわせた[82]。この海戦で迎撃にあたったレキシントンの戦闘機隊のうち、エドワード・J・オヘア中尉は5機撃墜が認定されて第二次世界大戦で最初のアメリカ海軍のエースとなり、後に少佐に特進した[83]。最初に一式陸攻の第二中隊9機が攻撃を開始したが、爆撃前に2機が撃墜され、爆撃後に全機撃墜された[84]。次に第一中隊8機が第11任務部隊に接近したが、爆撃前に2機が撃墜され、5機が爆撃をおこなった[85]。レキシントンに至近弾を与えたが、命中弾はなかった[85]。攻撃後、さらに1機が失われた[85]。このうち帰還不能になった陸攻2機がレキシントンに体当たりを試み、1機はレキシントンの15m手前で海面に突入した[85]。もう1機はレキシントンの手前で駆逐艦に撃墜された[85]。一連の攻撃によりラバウル航空隊は指揮官機をふくむ陸攻13機を喪失し、2機が不時着、帰投できたのは2機だけだった[86][87]。日本側は航空母艦1隻と艦型不明艦1隻を撃沈、敵飛行機6機撃墜確実、2機不確実を報じた[88]。大本営発表では、被弾機が敵空母(レキシントン)に体当たりして撃沈したことになっている[注 12]。これは体当たりを試みた機の火焔と突入を誤認したものと思われる[85]。日本側の大本営発表と裏腹に、第11任務部隊の損害は戦闘機2機喪失だけだった[18]。だが奇襲の効果が失われ、燃料が乏しくなってラバウル空襲は中止された[90][91]。なおラバウルへ航空機輸送任務を終えたばかりの日本軍の軽空母祥鳳と駆逐艦帆風がトラック泊地南方海面で待機していたが、この時点ではレキシントンと対決しなかった[92][93]

ブラウン中将が増援を要請していたのに応えて、ニミッツ提督は[94]、空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)を中核とする第17任務部隊英語版(司令官フランク・J・フレッチャー少将)を派遣した[90]。第11任務部隊(レキシントン)と第17任務部隊(ヨークタウン)は3月6日にニューヘブリディーズ諸島近海で合流した[20][95]。空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を基幹とする任務部隊は、ラバウル攻撃を企図していた[96]。任務部隊が珊瑚海を西進中の3月8日、ポートモレスビー攻略の前段階として日本軍はニューギニア島東部に位置するラエサラモアに上陸した[97][98]ポートモレスビー作戦[99]。空母機動部隊は、攻撃目標をラエとサラモアに切り替えた[94]。3月10日、空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)は攻撃隊を発進させ、またアメリカ陸軍のB-17も出撃した[100][101]。104機の艦載機による南からのオーエンスタンレー山脈を越えた攻撃は奇襲となったが、期待されたほどの戦果ではなかった[102]。それでも第六水雷戦隊(旗艦夕張)が護衛する日本軍諸艦船に大きな損害を与えた[19][注 13]。 この攻撃により日本軍のポートモレスビー攻略作戦に狂いが生じた[104]。作戦を担当する南洋部隊(第四艦隊司令長官井上成美中将)は、連合艦隊に大型空母加賀の派遣を要望する[105]。交渉と調整の結果、ポートモレスビー攻略作戦MO作戦に軽空母祥鳳第五航空戦隊[106](司令官原忠一少将:瑞鶴翔鶴)が参加することになった[104]

3月16日、第11任務部隊(レキシントンと随伴艦)は第17任務部隊と別れ、真珠湾にむかった[107]。分離する前に、レキシントンは最新型のF4F 6機(事故で1機喪失して5機)をヨークタウンに譲り、旧型機を受け入れた[108]。事故で失われた1機は、オヘア大尉がニューギニア沖海戦で殊勲をたてた時の搭乗機だった[107]。3月26日、レキシントンは真珠湾に帰投した[109]。対空火器を強化するため、艦橋の8インチ砲を撤去した[110]。5インチ両用砲に換装する予定であったが[108]、取り付けが間に合わず28ミリ対空機関砲を搭載した状態で珊瑚海海戦に参加した。また艦橋にレーダーを装備した[111]

珊瑚海海戦

レキシントンの被害状況

この頃、アメリカ軍は暗号解読により日本軍によるポートモレスビー占領作戦[112](MO作戦)を察知した[113][114]。日本軍は、海路によりポートモレスビーを直接占領することを企図していた[98]。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は日本軍のMO作戦を粉砕するため、レキシントンを中核とする第11任務部隊の新司令官にオーブリー・フィッチ少将を任命し、空母ヨークタウンと合同して珊瑚海に向かうよう命じた[115]。また重巡シカゴがニューカレドニアヌメアから、豪州海軍ジョン・G・クレース英語版少将が指揮する重巡オーストラリア(HMAS Australia, D84)と軽巡ホバート(HMAS Hobart)が豪州からかけつけた[116]

4月15日、第11任務部隊(レキシントン、ミネアポリス、ニューオーリンズ、駆逐艦7隻)は真珠湾を出撃し[111]、南太平洋で行動中の第17任務部隊との合流を目指した[109]。その途中、パルミラ島F2A バッファロー戦闘機 14機を輸送した[111]

5月1日、第11任務部隊(レキシントン)と第17任務部隊(ヨークタウン)は合流した[117][118]。先任のフレッチャー少将が両方の任務部隊を指揮する[119]。2つの任務部隊は燃料不足となっており、航行しながら補給を続けた[120]。5月3日、フレッチャー少将は日本軍がフロリダ諸島ツラギ島を占領したとの報に接した[116]4日、フレッチャー少将(ヨークタウン)はツラギにに奇襲を仕掛ける[121]。戦果は期待はずれだったものの[122]、駆逐艦菊月や特設艦艇3隻を撃沈し、敷設艦沖島や駆逐艦夕月等に小被害を与えた[123]。補給が間に合わなかったレキシントン部隊はヨークタウン隊と分離して行動していたので[124][125]、この戦闘には関与していない[126]。ツラギ空襲を終えたヨークタウンは南下し、レキシントンと再合流した[127]

5月6日夕暮、ポートモレスビーへ進撃する日本軍輸送船団を撃滅するため、フレッチャー提督は指揮下戦力から第17.3任務部隊[128](司令官クレース少将:重巡オーストラリア、重巡シカゴ、軽巡ホバート、駆逐艦3隻)を編成した[129]。また給油艦ネオショー(USS Neosho, AO-23)と駆逐艦シムス英語版(USS Sims, DD-409)を南方に避退させた[130]5月7日朝、フレッチャー提督はクレース隊を分離し[131]、日本軍輸送船団にむけ進撃させた[132][133]。クレース隊はラバウル航空隊の一式陸攻に襲われたが、過大戦果報告と裏腹に[134]、ほとんど被害はなかった[135][136]。つづいて錯誤と幸運の末に第17任務部隊攻撃隊93機[137](レキシントン50機:艦爆28、艦攻12、艦戦10/ヨークタウン43機:艦爆25、艦攻10、艦戦8)がMO主隊6隻(第六戦隊〈青葉[注 14]加古衣笠古鷹〉、軽空母〈祥鳳〉、駆逐艦〈〉)[139]を捕捉し[140]、軽空母祥鳳に爆弾13発と魚雷7本を叩き込んで撃沈した[141][142]。一方、五航戦索敵機がネオショーを空母と誤認報告しため[143]、五航戦攻撃隊はやむを得ずネオショーとシムスを沈めた[144][注 15]。五航戦攻撃隊の薄暮攻撃を撃退したあと[147]、第17任務部隊は夜戦を検討したが、実施されなかった[148][149]

1942年5月8日14時30分(現地時間)に撮影されたレキシントン。日本海軍機による攻撃で魚雷2発と爆弾2発の命中弾を受けた後、VT-2とVF-2の各機が着艦完了した状態。左舷からの浸水のため、すでに艦首が沈んでいる。[150]

5月8日朝、日米双方の機動部隊は索敵機を投入してお互いを探し求めた[151]。レキシントンは、SBD 18機を投入した[152]。レキシントン機は「空母2、重巡4、駆逐艦多数、針路120度、速力20ノット」を報告した[153]。日本側も第17任務部隊を発見し、ほぼ同時に攻撃隊を発進させた[154][155]。第17任務部隊の攻撃隊計82機[156](ヨークタウン39機:艦爆24、艦攻9、艦戦6/レキシントン43機:艦爆22、艦攻12、艦戦9)[157]はMO機動部隊[注 16]を発見し、米空母2隻の攻撃隊はスコールに隠れた瑞鶴を見逃すと、翔鶴に攻撃を集中する[159]。レキシントン攻撃隊は悪天候で分散し、一部しか翔鶴を攻撃できなかった[160]。第17任務部隊攻撃隊は翔鶴に爆弾と魚雷多数を命中させて「撃沈」したと錯覚した[161]。レキシントン攻撃隊のTBD 12機は、翔鶴を攻撃して魚雷5本が命中したと確信した[162]。実際はヨークタウン攻撃隊により翔鶴に爆弾2発、レキシントン攻撃隊により爆弾1発が命中、計3発が命中して大破した[163]。だが命中した魚雷は1本もなく、艦底を潜り抜けたか、命中したが不発だったと思われる[162]。レキシントン攻撃隊はF4F 3機とSBD 3機を喪失している[164]

1942年5月8日17時過ぎに重巡ミネアポリスから撮影されたレキシントン。船体が左舷方向へ傾いているため、夥しい数の乗組員が右舷からの脱出を試みている。フライトデッキ上にはF4Fや主翼を折りたたんだTBDなどが見える。ハンガーデッキからの煙に隠れて見えにくいが、写真右端にはシムス級駆逐艦が救助のために寄り添っている。[165]

午前11時頃(日本時間午前9時頃)、五航戦(瑞鶴、翔鶴)から飛来した合計69機[注 17]による第17任務部隊への攻撃がはじまった[169]。重巡5隻(ニューオーリンズミネアポリスチェスターアストリアポートランド)と駆逐艦多数が各空母を護衛していた[170][171]。またレキシントンとヨークタウンは艦隊の直掩としてF4Fを配備したが、日本側航空機の速度を見誤って効果的な迎撃を行えなかった[172]。哨戒や索敵のSBDドーントレスも邀撃に加わったが、急降下爆撃機で零戦に空戦を挑むことを意味しており、SBDパイロットには不評だった[173]

いずれにせよ五航戦攻撃隊の空襲により、レキシントンに爆弾2発と魚雷2本が命中し、ヨークタウンに爆弾1発が命中した[174]。レキシントンでは、午前11時20分に最初の魚雷が命中した[175]。左舷前部に命中した魚雷の衝撃で2基のエレベーターは飛行甲板に上がった状態で故障し、動作しなくなった[176]。また航空燃料タンクからガソリンの漏出が始まった[177]。漏出が始まった航空用ガソリンは、気化して艦内に充満し引火する危険が高まった[178]。2発目の魚雷は同じく左舷側船体中央やや前側に命中した。2発目の魚雷によりボイラー室に損害が発生し[178]、最大速力は約25ノットに低下した[176]。ほかに少なくとも2本の魚雷がレキシントンの艦底を潜りぬけていった[177]。魚雷を投下したあとの艦攻のうち、何機かは機銃掃射をして去っていった[178]

1発目の爆弾は左舷飛行甲板脇の5インチ対空砲の付近に命中して火災が発生、5インチ砲に配置されていた兵員全員が死亡した[177]。2発目の爆弾は煙突に命中し、付近の対空兵器の兵員を殺傷したほか、汽笛が数分間鳴りっぱなしになった[177]。他にも船体周囲に落下した至近弾により、2つの防水区画に浸水した。浸水被害により、レキシントンは左舷に7度傾斜した[178]。この戦闘で日本軍攻撃隊69機(零戦18、艦爆32、艦攻18)のうち、瑞鶴(艦爆2、艦攻3)、翔鶴(零戦3、艦爆7、艦攻5)が未帰還になった[179]。日本側は5月8日の戦闘で、空母サラトガ[180]とヨークタウン[181]を撃沈、ノースカロライナ級戦艦1隻[182](戦艦ノースカロライナ)とルイスビル型重巡1隻を撃破したと発表した[注 18]

沈没

大爆発を起こしたレキシントン
1942年5月8日
1942年5月8日17時30分以降、総員退艦後の撮影とされるレキシントン。[184]

戦闘は約12分で終わった[178]。五航戦攻撃隊が去ったあとのレキシントンは応急修理に努め、火災を消火し、傾斜を復元し、航空作戦続行可能となった[27]。ただしエレベーターの故障により、着艦した機体を艦内に収容することは出来なかった[176]。飛行甲板での離着艦は継続された[26]。12時47分、レキシントンで最初の爆発が起きた[185]。爆発の原因は、ガソリンタンクから漏れて気化したガソリンが、発電機のスパークで引火したものと思われる[186]。この爆発で25名の乗員が死亡した[187]。消火作業や応急修理がおこなわれたが、小爆発が連続して艦内の状況は悪化、消火ホースの水圧が下がり、送電がとまり、消火剤と応急員の酸素ボンベも底をつきはじめた[188]。MO機動部隊攻撃から帰投した攻撃部隊の収容は、13時22分に開始され14時14分に終了した[26]。レキシントンに36機があったという[189]

14時42分、二回目の大爆発が起きた[188]。前部エレベーターから焔が吹き出し始めた[188]。15時25分、再び格納庫で大爆発が起きた[190]。駆逐艦が消火作業を手伝ったが、手のつけようがなかった[190]。火災によって前部機械室からの退避が必要となり、16時頃には喫水下の全区画からの避難が必要となった[191]。17時7分、フィッチ提督とフレデリック・C・シャーマン大佐(レキシントン艦長)は艦の放棄を決意し、総員退艦を令した[192]。重巡ミネアポリス(USS Minneapolis, CA-36)、ニューオーリンズ(USS New Orleans, CL/CA-32)、駆逐艦3隻(ハムマンアンダーソン英語版モリス英語版)などがレキシントンにつきそい、接舷したり付近を警戒しながら収容した[191]。また上空で待機していたレキシントン所属の19機がヨークタウンに収容された[193]。放棄した後にすぐ沈没しなかった場合日本海軍に拿捕され鹵獲されることや、拿捕されることで艦内に残した軍事機密が漏れることを避けるために、レキシントンを自軍により撃沈する決定が下された[190]

フィッチ提督やシャーマン艦長はミネアポリスに収容された[194]。18時30分、レキシントン艦内の魚雷や爆弾が誘爆して大爆発が起きた[194]。19時15分-52分の間に駆逐艦フェルプス英語版(USS Phelps, DD-360)[193]はレキシントンの右舷にむけて魚雷8本を発射し、4本が起爆したようだった[194]。シャーマン艦長は「 傷ついた艦は水中に没しはじめ、まるで彼女も戦いをあきらめたくないかのように、ゆっくりと沈んでいった。軍艦旗を誇らしげにひるがえらせ、『当船は本船を放棄する』を意味する最後の旗りゅう信号をまだ桁端ではためかせながら、彼女はいつものようにレディらしく等吃水で沈んでいった 」と回想している[194]。19時56分、レキシントンは艦首を下にして転覆するような形で沈み始めた。沈没の途中で3回の大爆発が確認された[195]。戦死者は216名であったという[190]

第17任務部隊のパイロットたちは5月8日の戦闘で日本の空母2隻に命中弾を浴びせ、すくなくとも1隻を撃沈したと信じていた[196]。だが索敵機が健在の日本空母2隻を報告した[196]。第17任務部隊は南方へ避退した[27]8日の戦闘で連合軍はレキシントンを失い、ヨークタウンも損傷したが、日本軍のポートモレスビー侵攻を断念させた[197][198]。珊瑚海海戦は、連合軍側の戦略的勝利で終わった[199][200][201]。レキシントンは第二次世界大戦中の戦功で二つの従軍星章を受章した。1942年(昭和17年)6月16日、本艦を記念し、建造途中だったエセックス級航空母艦一隻が「レキシントン」と改名された。

発見

2018年3月5日、マイクロソフトの共同創業者で探検家ポール・アレンによって、オーストラリア東岸から約800 km、深さ約3200 mの海底でレキシントンの残骸が発見された[202][203]。当時米太平洋軍司令官を務めていたハリー・B・ハリス・ジュニアは、父親がレキシントンの生存者の一人であったことから、残骸発見に寄せて声明を発表している。

レキシントンの残骸は、船体から艦首・艦尾の各先端および艦橋が離断し、それぞれ離れて横たわっている。このように損傷は激しいものの、海中での浸食はあまりなく、搭載されていたMk 10 5インチ砲等の火器や艦載機の残骸も良好な状態を保っている[204]

出典

  1. ^ 航空母艦“レキシントン Lexington”[4] 全要目{排水量33,000噸 速力34.24節 備砲20糎砲8門 12.7糎高角砲12門 搭載航空機 各種計76 起工1921年1月 竣工1927年12月 建造所 フオアリヴア造船所} 全長270.65米、幅32.30米、平均喫水7.35米。速力は實に180,000馬力で得るところの34.24節という高速力は、何と云つても廣海面を舞臺とする彼等にとつては特に重要視される大威力であらう。“サラトガ”と共に米國海軍が誇る二大航空母艦中の一であつて共に元巡洋戰艦として建造中であつたものを我が赤城、加賀同様ワシントン會議の協定により航空母艦に改造したもので米國海軍第一線用の一大航空威力である。/この艦が起工より竣工までに満7ヶ年の日子を費してゐるのは、亦我が赤城、加賀と同じく一度巡戰として計畫したものを中途に於て航母に設計替の已むなきに至つたが爲である。
  2. ^ 航空母艦“サラトガ Saratoga”[5] 全要目{排水量33,000噸 速力34.25節 備砲20糎砲8門 12.7糎高角砲12門 搭載航空機 各種計79 起工1920年9月 竣工1927年11月 建造所 ニューヨーク造船會社} 全長270.65米、幅32.30米、平均喫水7.35米。速力33節の軸馬力180,000馬力。以上の如く殆どが“レキシントン”と同要目である。尚この同型艦は共に備砲として上記の外に小砲12門を有してゐる。又ともに水上機用のカタパルト(これは碇泊中發艦させるためのものである)1基を備へてゐる。/現代海戦に於て先づその緒を切るものは兩軍艦隊の最前線に於ける空中戰闘であり、これによつて制空權を握るものが戰勝の鍵を握るとさへ云はれてゐるから航空母艦の重要性は将來益々増大するであらう。
  3. ^ ○世界最大の航空母艦 レキシントン【寫眞下】米航空母艦レキシントンは三萬三千トン(満載四萬トン)で速力三三.五ノット、乗員二千百二十二名、戰闘機、偵察兼爆撃機、爆撃機、雷撃機など八十一機を搭載し得るが非常の場合には補用機を合し百二十機を搭載出來る。その他装備として八吋砲八門、五吋高角砲十二門を備へ 一九二一年一月起工、一九二七年竣工、サラトガと共に最初は巡洋戰艦として起工されたがワシントン會議の結果航空母艦に改装されたもので現在サラトガと共に世界最大の航空母艦としてその威容を誇示していゐた。/ラングレー(寫眞左)航空母艦で排水量は一萬一千五百トン、速力十五ノットで大型飛行艇母艦として使用されてゐた[6]
  4. ^ 航空母艦“レキシントン Lexington”[8] 全要目{排水量33,000噸 速力34.24節 備砲20糎砲8門 12.7糎高角砲12門 搭載航空機 各種計76 起工1921年1月 竣工1927年12月 建造所 フオアリヴア造船所} 全長270.65米、幅32.30米、平均喫水7.35米。180,000馬力で得る34.24節という高速力は、航空母艦が必ずもたねばならぬ性能であるとしてもなまやさしい事で得られるものではない。/“サラトガ”と共に米國海軍が誇る二大航空母艦中の一であつて共に元巡洋戰艦として建造中であつたものを我が赤城、加賀同様ワシントン會議の協定により航空母艦に改造したもので竣工までに満7ヶ年の日子を費した米國海軍第一線用の一大航空兵力である。この艦が電氣推進になつてゐるのは敏速なこまかい速力變更を望むためであらう。定員1,899名(飛行将校を含む)
  5. ^ 日本海軍も興味をもち、サラトガを建造していたニューヨーク造船所に、電気推進方式の水上機母艦神威を発注したほどである[7]
  6. ^ ワシントン海軍軍縮条約と関東大震災により、建造中の天城型巡洋戦艦2番艦の「赤城」と加賀型戦艦1番艦の「加賀」が空母に改造された[11]。当初、2隻とも多段式空母だったが、近代化改装時に一段式飛行甲板となった[12]
  7. ^ 第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将が指揮する南雲機動部隊は[41]第一航空戦隊赤城加賀)、第二航空戦隊蒼龍飛龍)、第五航空戦隊瑞鶴翔鶴)、第三戦隊(比叡霧島)、第八戦隊(利根筑摩)、第一水雷戦隊、哨戒隊、補給部隊など。
  8. ^ 第八戦隊司令官阿部弘毅少将(旗艦「利根」)が率いるウェーキ島攻撃隊[48]:第八戦隊(利根、筑摩)、山口多聞少将の第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)、第17駆逐隊(谷風浦風[49]
  9. ^ 〔 「伊六潜」ガ敵「レキシントン」型航空母艦ヲ攻撃セル情況ヲ奏上セルニ 陛下ニハ繰返シ繰返シ御嘉賞ノ御言葉ヲ賜リタリ 謹ンデ伝達ス 〕[62]
  10. ^ 【大本營發表】(一月十四日午後三時)帝國潜水艦は十二日夕刻ハワイ西方洋上において米國太平洋艦隊所属航空母艦「レキシントン」型一隻(三萬三千トン)を雷撃、魚雷二本命中を確認したるところ、敵驅逐艦の制壓をうけ潜没せるため該航空母艦の沈没を確認するに至らざりしも、潜没中二回にわたる大爆發を聴音せるをもつて同艦は沈没せること確實なるものと認む(註)潜没とは潜水艦の必要に應じ急速に潜望鏡もろとも潜航する動作をいふ[6]
  11. ^ 米空母レキシントン型を撃沈[63] 帝國潜水艦は一月十二日夕刻、ハワイ西方洋上で米國太平洋艦隊所属航空母艦レキシントン型(三萬三千トン)一隻が多數の巡洋艦、驅逐艦に護衛されて航行してゐるのを發見、嚴重な警戒陣を突破して雷撃、魚雷二本命中を確認したが敵驅逐艦の制壓をうけ潜没したので該航空母艦の沈没を確認するにいたらなかつたところ、潜没中二回にわたる大爆音を聴いたので同艦は沈没したこと確實なものと認められる旨同月十四日大本營から發表された。(中略)この航空母艦が基地を進發して來た意圖としては、ハワイ敗戰の意趣晴らしとして出來るだけの反撃をし、あはよくば日本内地を爆撃して敗殘米海軍の餘喘を内外に誇示せんとしたものか、それともジョンストン島その他海軍基地に飛行機を輸送するか、附近海面に活躍するわが艦艇を攻撃しようとしたものと想像される。しかし、いづれにしても米國内の不安、米海軍に對する非難にゐたたまらず出撃したものである。この企圖を未然に挫き三萬三千トンの巨艦を太平洋の藻屑と葬り去つたわが潜水艦の功績は實に素晴らしい。
  12. ^ 體當り機、敵空母を撃沈[89] わが海軍航空部隊は二月二十一日ニューギニア東方數百浬の洋上で敵中型新式航空母艦を含む有力な部隊を發見したので、海鷲は敵戰闘機群と猛烈な空中戰を演じつゝ急襲した。わが一部の荒鷲は壮烈な體當りをもつて機體諸共敵航空母艦を大破炎上せしめたが、同母艦はその後間もなく沈没したことが判明した。(三月七日大本營發表)なほその際軍艦一隻にも大損害を與へ、十機を撃墜したが、この攻撃がいかに猛烈なものであつたかはわが方も未歸還機九機を出したことによつても察知できるであらう。
  13. ^ 所在18隻中、沈没4隻、被害9隻、戦死130名、重軽傷245名[103]。沈没(横浜丸、天洋丸、金剛丸、第二玉丸)、中破(黄海丸、夕凪、朝凪)、小破(ちゃいな丸、夕張、追風、聖川丸、津軽、玉丸)[103]
  14. ^ MO主隊指揮官は、第六戦隊司令官五藤存知少将であった[138]
  15. ^ 駆逐艦シムスはこの攻撃で沈没したが、ネオショーはまだ浮いていた[145]。ネオショーは5月11日に生存者を収容したあと、海没処分された[146]
  16. ^ MO機動部隊指揮官は、第五戦隊司令官高木武雄中将[158]。第五戦隊(妙高羽黒)、第五航空戦隊(司令官原忠一少将:瑞鶴翔鶴)、第7駆逐隊()、第27駆逐隊(時雨白露夕暮有明)、祥鳳沈没後に合流した第六戦隊第2小隊(衣笠古鷹)。
  17. ^ 翔鶴飛行隊長高橋赫一少佐が指揮する69機[166](瑞鶴:零戦9、艦爆14/翔鶴:零戦9、艦爆19、艦攻10)[167][168]
  18. ^ 珊瑚海海戰[183] 帝國海軍部隊は五月六日ニューギニア島南東珊瑚海において米英聯合艦隊を發見、七日これに攻撃を加へ米戰艦カリフォルニア型(三萬二千六百噸、十四吋砲十二門)一隻を轟沈、米甲巡ポートランド型(九千トン、八吋砲九門)一隻撃沈、英戰艦ウオスパイト型(三萬六百トン、十五吋砲八門)一隻に大損害を與へ、さらに翌八日、米航空母艦サラトガ型(三萬三千トン、搭載機八十乃至九十機、戰時は百二十機は可能)一隻およびヨークタウン型(一萬千九百トン、搭載機八十、戰時百機まで可能なる最新鋭空母)一隻を撃沈したほか米戰艦ノース・カロライナ型(三萬五千トン、十六吋砲九門、一九四一年春竣工の最新鋭艦)を中破し、さらに米甲巡ルイスビル型(九千五十トン、八インチ砲九門)一隻に對し雷撃機の體当りをもってこれに大損害を與へ、二萬トン級給油艦一隻を大破、驅逐艦一隻を撃沈した。七日以來の本海戰において敵機撃墜數は九十八、わが未歸還機二十四、なほわが小型航空母艦一隻(給油艦を改造せるもの)沈没した。
    今回の敵出撃は現在アメリカ海軍としては最大限のものであることに注目しなければならない。すでに戰艦勢力に大損害を受けた彼としては空母集團攻撃には航空母艦を中心に甲級巡洋艦が加はってゐたのに今度は主力艦數隻が参加してゐる。これはニューギニア海戰で當時の空母集團が果敢なく最期を遂げたのに懲りてその編成を強化して來たものであらうが、かくのごとく敵は空母集團によるゲリラ戰法しか企圖出來なくなってゐる現在、手持の航空母艦中で最大能力をもつサラトガと最も精鋭な戰闘性能をもつヨークタウンの二隻を失ったことは大きな痛手である。/この米英聯合艦隊撃滅が豪州に與へた衝動はすこぶる大きく、首相カーチンはラジオを通じて「今次珊瑚海海戰により豪州への脅威はいよいよ切迫し、吾人はもっとも危険なる時機を迎へねばならぬであらう」と述べ、非常な恐慌を來した。

脚注

  1. ^ a b Anderson & Baker, p312
  2. ^ 歴群ミッドウェー 1994, p. 76.
  3. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, p. 28.
  4. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 120原本222-223ページ(航空母艦レキシントン)
  5. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 119原本220-221ページ(航空母艦サラトガ)
  6. ^ a b c ハワイ海戰マレー沖海戰 1942, p. 33(原本42-43頁)
  7. ^ a b 児童百科大事典(10)国防 1932, pp. 171–173(原本303-304)第四節 電氣推進
  8. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 105原本192-193ページ(航空母艦レキシントン)
  9. ^ a b 大内、幻の航空母艦 2006, p. 294.
  10. ^ 歴群ミッドウェー 1994, pp. 16–17瑞鶴、レキシントンとの同率比較(作図・石橋孝夫)
  11. ^ 大内、赤城・加賀 2014, pp. 71–78なぜ「赤城」と「加賀」なのか
  12. ^ 大内、赤城・加賀 2014, pp. 128–131多段式飛行甲板型航空母艦の衰退
  13. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, p. 291.
  14. ^ 大内、赤城・加賀 2014, pp. 227–231真珠湾攻撃
  15. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 27.
  16. ^ a b 戦史叢書38 1970, pp. 192a-194機動部隊による救援
  17. ^ a b 戦史叢書38 1970, p. 436a-439米機動部隊の状況
  18. ^ a b c 戦史叢書49 1971, pp. 101–102米空母機動部隊の作戦
  19. ^ a b 戦史叢書38 1970, p. 486ブラウン、フレッチャー両合同部隊のラエ、サラモア空襲
  20. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 128a米機動部隊の作戦
  21. ^ 日本空母戦史 1977, p. 237珊瑚海海戦地図、昭和17年5月
  22. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 61珊瑚海海戦概況図(昭和17年5月7~8日)
  23. ^ 歴群ミッドウェー 1994, pp. 78–79Facts File2/珊瑚海海戦
  24. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ 2013, p. 179(珊瑚海海戦 1942年5月7~8日)
  25. ^ 歴群ミッドウェー 1994, pp. 14–15珊瑚海海戦 昭和17年5月8日/史上初の空母対空母の戦い
  26. ^ a b c 日本空母戦史 1977, p. 239.
  27. ^ a b c 戦史叢書49 1971, pp. 320a-322レキシントンの沈没と米機動部隊の引き揚げ
  28. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 130.
  29. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 21–23南洋群島を舞台とする海軍作戦構想の変遷/無条約時代(昭和十二年~開戦)
  30. ^ イヤハート遭難 p.5
  31. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 57–58第十二戦隊の基地調査/経過
  32. ^ イヤハート遭難 p.13
  33. ^ 戦史叢書38 1970, p. 58成果報告
  34. ^ イヤハート遭難p.14
  35. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 24.
  36. ^ ニミッツ 1962, p. 24.
  37. ^ 戦史叢書10 1967, pp. 374–375開戦時の海上兵力配備
  38. ^ 戦史叢書43 1971, pp. 564–566ミッドウェーの防衛処置
  39. ^ 戦史叢書10 1967, pp. 294–296ハワイにある米太平洋艦隊に関する情報収集
  40. ^ 戦史叢書10 1967, pp. 325–332機動部隊の戦闘
  41. ^ 戦史叢書10 1967, pp. 258–260.
  42. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 375.
  43. ^ 戦史叢書43 1971, p. 565.
  44. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 394.
  45. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 393.
  46. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(上) 2013, p. 90.
  47. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 174–175第八戦隊、第二航空戦隊および駆逐艦二隻の派遣
  48. ^ 戦史叢書10 1967, pp. ウェーキ攻略作戦増援発令.
  49. ^ 戦史叢書10 1967, p. 417.
  50. ^ 戦史叢書38 1970, p. 203aウェーク第二次作戦 日、米機動部隊行動図
  51. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 203b-204太平洋艦隊司令部ならびに救援任務部隊の状況
  52. ^ a b 戦史叢書38 1970, p. 193.
  53. ^ a b 戦史叢書38 1970, p. 194.
  54. ^ 戦史叢書38 1970, p. 214a撤収、救援の時期を失した米太平洋艦隊司令部
  55. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(上) 2013, pp. 237–241ウェーキ島を捨てる
  56. ^ 戦史叢書38 1970, p. 214b米守備隊の抵抗
  57. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 92–94開戦後の米太平洋艦隊の動静
  58. ^ 日本空母戦史 1977, p. 108.
  59. ^ 戦史叢書38 1970, p. 332「伊六潜」、レキシントン型空母撃沈確実と報告
  60. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 111–112サラトガを雷撃
  61. ^ ニミッツ 1962, p. 41.
  62. ^ a b 戦史叢書10 1967, pp. 461–462.
  63. ^ 大東亜戦争展望(2) 1942, pp. 32–33(原本53-54頁)
  64. ^ 軍艦旗は征く 1944, pp. 51–55空母レキシントン發見/撃沈
  65. ^ 戦史叢書38 1970, p. 377.
  66. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 413–414ウェーク島の攻撃取やめ
  67. ^ 戦史叢書10 1967, p. 467.
  68. ^ 戦史叢書98 1979, p. 114.
  69. ^ 戦史叢書38』377、414ページ、石橋、244ページ、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  70. ^ 戦史叢書38 1970, p. 436c真珠湾からの船団護衛
  71. ^ 戦史叢書49 1971, p. 100.
  72. ^ 戦史叢書38 1970, p. 436bウェーク空襲中止とANZAC部隊への編入
  73. ^ 戦史叢書38 1970, p. 436dラバウル空襲決定の経緯
  74. ^ 戦史叢書38 1970, p. 437a二十一日早朝のラバウル空襲企図
  75. ^ 戦史叢書38 1970, p. 430a坂井機の敵発見報告と攻撃命令の下令
  76. ^ 戦史叢書38 1970, p. 437b日本軍四発飛行艇の発見撃墜
  77. ^ 戦史叢書38 1970, p. 430b.
  78. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 440–441横濱空の索敵機、敵発見、触接
  79. ^ 戦史叢書38 1970, p. 441b第四航空隊の攻撃
  80. ^ 戦史叢書38 1970, p. 432a敵機動部隊の発見/第四航空隊伊藤隊の敵発見報告
  81. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 89–90米機動部隊の発見と陸攻隊の発進
  82. ^ 戦史叢書38 1970, p. 437c日本軍陸上攻撃機、二群に分れて来襲
  83. ^ 佐藤暢彦『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』潮書房光人新社、2019年、ISBN 978-4-7698-3103-7、183ページ
  84. ^ 戦史叢書49 1971, p. 91a-92陸攻隊の戦闘
  85. ^ a b c d e f 戦史叢書49 1971, p. 91b.
  86. ^ 戦史叢書38 1970, p. 432b.
  87. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 40–43.
  88. ^ 戦史叢書38 1970, p. 434戦果報告
  89. ^ 大東亜戦争展望(2) 1942, p. 35(原本58-59頁)
  90. ^ a b 戦史叢書38 1970, pp. 437d-439ラバウル空襲の断念と次期作戦への準備
  91. ^ ニミッツ 1962, p. 42.
  92. ^ 戦史叢書38 1970, pp. 431–432「祥鳳」のトラック南方海面への待機
  93. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 137–141祥鳳、米空母にふり回さる(昭和十七年二月)
  94. ^ a b ニミッツ 1962, p. 44.
  95. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 69.
  96. ^ 戦史叢書49 1971, p. 128b.
  97. ^ 戦史叢書38 1970, p. 476ラエ、サラモア攻略
  98. ^ a b マッカーサー 2003, p. 93.
  99. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 118–120SR方面攻略部隊の作戦
  100. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 70.
  101. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 46.
  102. ^ 空母ヨークタウン 1984, pp. 71–72.
  103. ^ a b 戦史叢書49 1971, p. 124.
  104. ^ a b ニミッツ 1962, p. 49.
  105. ^ 戦史叢書38 1970, p. 479南洋部隊、空母二隻の増派要請
  106. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 82.
  107. ^ a b 空母ヨークタウン 1984, p. 74.
  108. ^ a b 空母ヨークタウン 1984, p. 73.
  109. ^ a b 戦史叢書38 1970, p. 438挿図第三十三 日米主要艦艇行動図(昭和十七年二月~四月)
  110. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 132.
  111. ^ a b c トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 131.
  112. ^ 歴群ミッドウェー 1994, pp. 70–71Facts File1/モレスビー(MO)作戦
  113. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 225–226MO作戦開始直前における連合軍側の態勢
  114. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, pp. 114–119次は珊瑚海と解読
  115. ^ ニミッツ 1962, p. 50.
  116. ^ a b ニミッツ 1962, p. 52.
  117. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 87.
  118. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 235–237連合軍側の作戦
  119. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 83.
  120. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 138.
  121. ^ 歴群ミッドウェー 1994, p. 135前哨戦(五月四日)
  122. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 96.
  123. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 230–233ツラギ攻略部隊の戦闘
  124. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 89.
  125. ^ 日本空母戦史 1977, p. 210.
  126. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 141(珊瑚海海戦 1942年5月1~4日)
  127. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 144.
  128. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 154.
  129. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 98.
  130. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 99.
  131. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 281a-282米攻撃隊の発進
  132. ^ ニミッツ 1962, p. 53.
  133. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 101.
  134. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 153.
  135. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 58–59.
  136. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 287–289第五空襲部隊の連合軍水上部隊攻撃
  137. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 281b-282.
  138. ^ 戦史叢書49 1971, p. 195.
  139. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 219–222敵機来襲(五月七日)
  140. ^ 空母ヨークタウン 1984, pp. 104–105.
  141. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 282–285「祥鳳」の沈没
  142. ^ 歴群ミッドウェー 1994, pp. 136–138祥鳳沈没(五月七日)
  143. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 276–279油槽船を空母と見誤る
  144. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 160.
  145. ^ 日本空母戦史 1977, p. 226.
  146. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 102.
  147. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 227–230夜間攻撃、失敗す(五月七日夜)
  148. ^ 空母ヨークタウン 1984, pp. 114–115.
  149. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 294–295米空母部隊の状況
  150. ^ #NAVAL FACT AND HISTORY SERIES AMERICAN AIRCRAFT CARRIERS 1920s-1945 アメリカの航空母艦 資料写真集 1920s-1945p.44 MODELArt
  151. ^ 歴群ミッドウェー 1994, pp. 34–35.
  152. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 167.
  153. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 168.
  154. ^ ニミッツ 1962, p. 56.
  155. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 119.
  156. ^ 戦史叢書49 1971, p. 312.
  157. ^ 歴群ミッドウェー 1994, p. 138a5月8日 第17任務部隊出撃機
  158. ^ 昭和17年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第851号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072112000 
  159. ^ 歴群ミッドウェー 1994, pp. 138b-139航空決戦(五月八日)
  160. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 171.
  161. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 313–315MO機動部隊の邀撃
  162. ^ a b トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 172.
  163. ^ 日本空母戦史 1977, p. 238.
  164. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 124.
  165. ^ #NAVAL FACT AND HISTORY SERIES AMERICAN AIRCRAFT CARRIERS 1920s-1945 アメリカの航空母艦 資料写真集 1920s-1945p.44 MODELArt
  166. ^ 歴群ミッドウェー 1994, p. 77珊瑚海海戦の5航戦攻撃隊合戦図
  167. ^ 戦史叢書49 1971, p. 307.
  168. ^ 歴群ミッドウェー 1994, p. 139a5月8日 第5航空戦隊出撃機
  169. ^ 日本空母戦史 1977, p. 232.
  170. ^ 日本空母戦史 1977, p. 230.
  171. ^ 日本空母戦史 1977, p. 236a珊瑚海海戦、日本機攻撃時における米陣形図。昭和17年5月8日朝11時18分
  172. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 125.
  173. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 174.
  174. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 310–311米機動部隊の状況
  175. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 78.
  176. ^ a b c トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 181.
  177. ^ a b c d トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 178.
  178. ^ a b c d e トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 180.
  179. ^ 戦史叢書49 1971, p. 319.
  180. ^ 軍艦旗は征く 1944, pp. 69–71空母サラトガ撃沈
  181. ^ 軍艦旗は征く 1944, pp. 71–73空母ヨークタウン撃沈
  182. ^ 海軍作戦史 1943, pp. 87–89(原本147-166頁)〔 珊瑚海々戰 〕
  183. ^ 大東亜戦争展望(2) 1942, pp. 41–42(原本70-72頁)
  184. ^ #NAVAL FACT AND HISTORY SERIES AMERICAN AIRCRAFT CARRIERS 1920s-1945 アメリカの航空母艦 資料写真集 1920s-1945p.44 MODELArt
  185. ^ 歴群ミッドウェー 1994, pp. 36–37.
  186. ^ 戦史叢書49 1971, p. 320b.
  187. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 182.
  188. ^ a b c トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 183.
  189. ^ 日本空母戦史 1977, p. 242.
  190. ^ a b c d 戦史叢書49 1971, p. 321.
  191. ^ a b トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 184.
  192. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 185.
  193. ^ a b 空母ヨークタウン 1984, p. 144.
  194. ^ a b c d トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 188.
  195. ^ The Death of a Lady: The USS Lexington (CV-2) at the Battle of the Coral Sea, Part I: The Log” (英語). 2019年8月24日閲覧。
  196. ^ a b トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 190.
  197. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 146.
  198. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, pp. 192–193ポートモレスビー攻略を断念
  199. ^ ニミッツ 1962, p. 60.
  200. ^ 歴群ミッドウェー 1994, p. 140珊瑚海海戦の反省
  201. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, pp. 196–199珊瑚海海戦の星取表
  202. ^ “VIDEO: Billionaire Paul Allen Finds Lost World War II Carrier USS Lexington”. USNI News. (2018年3月5日). https://news.usni.org/2018/03/05/video-billionaire-paul-allen-finds-lost-world-war-ii-carrier-uss-lexington 
  203. ^ “旧日本軍が撃沈の米空母、豪州沖で残骸を発見”. CNN. (2018年3月6日). https://www.cnn.co.jp/fringe/35115671.html 
  204. ^ The Wreck of the USS Lexington, an Ongoing Analysis” (英語). 2019年8月24日閲覧。

参考文献

  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 大内健二『幻の航空母艦 主力母艦の陰に隠れた異色の艦艇』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年12月。ISBN 4-7698-2514-5 
  • 大内健二『航空母艦「赤城」「加賀」 大艦巨砲からの変身』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年2月。ISBN 978-4-7698-2818-1 
  • 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6 
  • 木津重俊編『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。 
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
  • 谷光太郎「ターナー上陸軍司令官」『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4054009820
  • イアン・トール(著)、村上和久(訳)『太平洋の試練(上) 真珠湾からミッドウェイまで』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376420-7 
  • イアン・トール(著)、村上和久(訳)『太平洋の試練(下) 真珠湾からミッドウェイまで』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • R・F・ニューカム著、田中至訳『サボ島沖海戦 米軍史上最大の敗北』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年4月(原著1963年)。ISBN 4-7698-2192-1 
  • パット・フランク、ヨーゼフ・D・ハリントン『空母ヨークタウン』谷浦英男(訳)、朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1984年10月。ISBN 4-257-17048-4 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』 第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> 昭和17年5月まで』 第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、1979年6月。 
  • ダグラス・マッカーサー著、津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』中央公論新社〈中公文庫〉、2003年7月(原著1964年)。ISBN 978-4-12-205977-1 
  • 歴史群像編集部編『ミッドウェー海戦 主力空母四隻喪失。戦勢の転換点となった大海空戦の全貌を解明する』 第4巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1994年9月。ISBN 4-05-600596-6 
  • Anderson, Richard M.; Baker, Arthur D. III (1977). “CV-2 Lex and CV-3 Sara”. Warship International (Toledo, OH: International Naval Research Organization) XIV (4): 291–328. ISSN 0043-0374. 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『18.米国飛行機(女流飛行家アメリヤ・イヤハート)遭難ノ件』。Ref.B10074880000。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030580500。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030580600。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030580700。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030580800。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030580900。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030581000。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030581100。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(8)』。Ref.C08030581200。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年5月7日 軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報(9)』。Ref.C08030581300。 
    • 『昭和17年2月〜昭和17年5月 祥鳳飛行機隊戦闘行動調書(1)』。Ref.C08051586200。 
    • 『昭和17年2月〜昭和17年5月 祥鳳飛行機隊戦闘行動調書(2)』。Ref.C08051586300。 
    • 『昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030728400。 
    • 『昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030728500。 
    • 『昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030728600。 
    • 『昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030728700。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年5月12日 第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030124600。 
    • 『昭和16年12月1日〜昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030045600。 
    • 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030043200。 
    • 『第24航空戦隊戦時日誌 自昭和17年3月1日至昭和17年3月31日/1 経過』。Ref.C13120110600。 

関連項目

外部リンク