アメリア・イアハート

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アメリア・イアハート
Amelia Earhart
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アメリア・イアハート(1935年頃)
生誕 Amelia Mary Earhart
(1897-07-24) 1897年7月24日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カンザス州アッチソン
失踪 1937年7月2日(39歳)
ニューギニア島ラエからハウランド島途上の太平洋
現況 1939年1月5日死亡声明
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
著名な実績 女性として初の大西洋単独横断飛行を達成、他多くの飛行記録を樹立。
配偶者 ジョージ・パットナム英語版
サムエル・エドウィン・スタントン・イアハート(父親、1868年 - 1930年
アメリア・オーチス・イアハート(母親、1869年 - 1962年
公式サイト ameliaearhart.com
署名
Amelia Earhart (signature).png

アメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart、1897年7月24日 - 1937年7月2日)は、アメリカ飛行士。姓の発音は/ˈɛərhɑrt/であり、表記は「エアハート」がより原語の発音に近い。

概要[編集]

1927年チャールズ・リンドバーグの快挙に続き、女性として初めての大西洋単独横断飛行をしたことから、ミス・リンディの愛称がある。知的かつチャーミングな女性であったため、当時から絶大な人気があり、彼女の名前を冠された商品も多岐にわたっていた。これらは出版人であった夫のジョージ・パットナム英語版の協力と手腕であったとされる。最期のフライトも、7月4日の国民的祝日のアメリカ独立記念日に米国本土到着を計画したもの、との見方がある。

1937年(昭和12年)には赤道上世界一周飛行に挑戦するが、同年7月上旬、南太平洋において行方不明となった[1]

アメリカでは今も代表的国民ヒロインの一人(スミソニアン博物館所蔵品の3Dデータ公開ではライト兄弟機と同時に彼女のフライトスーツが公開された)であり、さらに謎めいた最期のために、未だにSF・フィクションの世界では彼女の登場するものが少なくない。

また、イアハートは自身の体験を通じ、女性の地位向上のために熱心な活動を行ない、ゾンタクラブ英語版の主要メンバーとして活躍していた。今もイアハートの名前を冠した奨学金制度(大学院課程で航空関連の科学や技術を学ぶ女性対象)が運営されている(2012年現在も活動が続いている)。

これらのことから、昨今、ナンバー1でなくても切り口を変えればナンバー1になりうる、としてマーケティング分析分野では「アメリア・イアハート効果」という語も生まれている[2]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

アメリカのカンザス州アッチソン (Atchison) でドイツ系の裕福な家庭に生まれる。高校卒業後は医学を学ぶためコロンビア大学に入学したが、1年で中退した。第一次世界大戦中はカナダアメリカ陸軍病院で看護助手として働いた。

1921年カリフォルニア州ロサンゼルスで、ネタ・スヌークから飛行訓練を受け、最初の飛行機を買った(Kinner Airstar)。家族内の問題により1924年に飛行機を売り、東部に戻りソーシャルワーカーとして働いた。

女性飛行家[編集]

1928年4月のある午後、彼女は仕事中に一本の電話を受けた。電話の主は通話の終わりに彼女に尋ねた。「大西洋を飛びたいと思いますか」。彼女は政治評論家で出版者であったジョージ・パットナムと会い、パイロットのウィルマー・スタールズ英語版と副操縦士兼エンジニアのルイス・ゴードンのチームに共同パイロットとして加わるように依頼された。

チームは1928年6月17日に、フォッカー F.VIIニューファンドランド島(現カナダ領)のトレパシー湾を出発し、およそ21時間後にウェールズのバリー・ポートに到着した。彼らはサウサンプトンから客船でアメリカへ戻った時、ニューヨークで紙吹雪の舞うパレードと、カルビン・クーリッジ大統領によって開催されたホワイトハウスのレセプションで歓迎を受けた。

その時以来、飛行機で飛ぶことはイアハートの生活の一部となった。彼女はクリーブランドでの、ウィル・ロジャースによって「パウダー・パフ・ダービー」と呼ばれた女性の航空レースで3位になった他、1931年にはオートジャイロでの最高到達高度記録も樹立した。

彼女とパットナムは大西洋横断の準備の間に友情を深め、1931年2月7日に結婚した。イアハートは結婚を「二重のコントロール」との「協力」と呼んだ。

記録樹立[編集]

ロッキード・エレクトラとイアハート

1932年5月20日にイアハートはチャールズ・リンドバーグパリへの単独飛行と同じルートを、ニューファンドランド島のグレース湾からロッキード ベガで出発した。 しかし強い北風と氷および機械的な問題で、アイルランドロンドンデリー近くの牧場に着陸せざるを得なかった。イアハートは大西洋単独横断飛行の成功で、議会からの空軍殊勲十字章フランス政府からのレジオン・ド・ヌール勲章およびハーバート・フーヴァー大統領からの米国地理学協会のゴールドメダルを受け取った。

同年8月24日、女性では初の米大陸単独横断無着陸飛行のため、東海岸のニュージャージー州ニューアークを離陸。19時間後の翌25日、ロスアンゼルスに着陸し成功。

1935年1月11日には、アメリカ領のハワイからカリフォルニア州までの単独飛行にも成功した。

遭難[編集]

夫のパットナムと共に(1937年)

1937年(昭和12年)5月21日に赤道上世界一周飛行に向かって、ナビゲータのフレッド・ヌーナン英語版ロッキード・エレクトラ10Eカリフォルニア州オークランドを飛び立ち、太平洋を東周りに飛行し、6月30日ニューギニアラエまで到着した。エレクトラは旅客機であり、通常は操縦士2名の他に旅客12名を載せて航行可能な機体であるが、イアハート機は長距離飛行のために客室内に増設タンクを設置した改造機であった。7月2日に、日本委任統治領(南洋諸島)に隣接したアメリカ領の無人島であるハウランド島を目指して離陸したが、目的地に着陸することは無かった。

1,100ガロンのオクタン価87の通常燃料の他、ブースト用のオクタン価100の燃料を50ガロンを積載して離陸した。これらは航続距離にして2,460海里(約20 - 21時間相当)を飛べる量とされている。ヌーナンはこの航程について18.5時間の飛行と計算を行なっていた。出発時の天候は時折雨が降る曇天で雲が厚く、天測航法のための天体観測は困難な状況であった。また出発に際して推測航法に必要なヌーナンのクロノメーターを合わせるラジオ時報が受信できず、足止めを余儀なくされてヌーナンは飲酒で時間を過ごしたという記録がある。

飛行支援のためにハウランド島周辺で待機していた沿岸警備隊のイタスカ号英語版に対し、19:30GMT(現地時間07:42)に割り当てコールサインKHAQQを用い、3105kHzにて通信を行う。信号強度は強く音声はクリアであったとされるが、この周波数帯ではそれらが端的に近距離を示すものにはならない。

「イタスカへ。私達はあなたたちの上にいるに違いないが、あなたたちが見えません。燃料は不足しています。あなたたちからの無線通信も聞こえません。高度1000フィートを飛行中」。

その1時間後(現地時間08:43)、

「私達は今、157° - 337°線上にいます。6210キロサイクルでこのメッセージを繰り返します。聞き続けてください」

との連絡を行なったが、しばらくして3105kHzのままで「疑問を感じる」「南北線上を飛行中」という発信があったことが記録されている。他の傍受者による情報では同時刻に「残燃料ではあと30分程度の飛行しか出来ない」との発信があったともされる。同周波数で内容不明とされる微弱な電波が傍受局に観測されている記録もあるが、これらがイアハート機のものであるかについて明確な答えはない。イアハート機は、これらの通信を最後に消息を絶った。

搭載無線機は出力50Wで軽量化のためにロングワイア型アンテナは使わず、短縮V形アンテナを使用していた。微弱な信号でも通信が可能なモールス信号をイアハート機は利用せず、無線通信についての理解が浅かったのではないか、との見解を述べる者も多い。また救命胴衣は搭載していたが、救難信号銃や救命イカダは搭載されていなかった。これらは軽量化のための選択とされている。

この時点でイアハートとヌーナンは目的地点到達を考えていたが、島が発見できないために10海里ほどの誤差を発生させてしまったことを想定し、南北方向への修正を行なっていたものと思われる。イタスカ号では位置確認のために油煙式装置も焚いて発煙信号(通常は10海里程度の距離でも視認可能とされる)を上げていたが、当日の島周辺は雲が多く役には立たなかった。また、それらの雲影は洋上での島影発見を困難にもさせていた。天候は曇天。

特別に搭載を許可された当時未公開の無線航法探知器と誘導電波発信器は、電波レベルが弱すぎるなどの理由により使用できなかったとされている。この装置については第二次世界大戦直前のごく短い期間だけ使用されたBendix社製MR-1B無線誘導装置のプロトタイプ説がある。当時のイアハート機のコクピット内写真には、ノーマルのエレクトラには無い装置がパイロット席左上にあり、機首上にあるループアンテナは同社製のMN-5形である。それは移動体無線通信には不適切な特徴(指向性が強い)のものである。さらにイタスカ号との交信で示した、使われなかった高い周波数は、この装置のシグナル用であった、とされる説がある。極秘の先進的装置であったため、機密保持のために傍受を考慮し、当事者にだけわかる会話をしたとの推測である。

1967年、同形機による同日程の世界一周がアン・ペルグリノ英語版によって行なわれたが、この際のナビゲーターを務めたウィリアム・L・ポルハメスのイアハート機のフライトプラン考察(1995年に専門誌にて発表)によれば、目的地に向かう経路のひとつについて誤計算を行なってしまった可能性を指摘している。

なお、イアハートは飛行の途中の航空日誌などを寄航するごとに故郷に送っており、後に夫のジョージ・パットナムがまとめて『最後の飛行』として出版した。

捜索[編集]

アメリカ海軍より参加した「レキシントン」
搭載機とともに捜索に参加した大日本帝国海軍の水上機母艦「神威」

アメリカ政府は、消息を絶ったイアハートとヌーナンの捜索に400万ドル(当時)を費やした。捜索隊はアメリカ海軍および沿岸警備隊、さらに隣接した地域を委任統治している日本大日本帝国海軍の協力によって組織され、当時として考え得る全ての手段を講じた集中的な航空および海上探索を行った。アメリカ海軍は空母「レキシントン」および艦載機多数、戦艦「コロラド」、沿岸警備隊「イタスカ」等を派遣した[3]。 当時、日本海軍は第十二戦隊(機雷敷設艦沖島、水上機母艦神威、第28駆逐隊《朝凪夕凪》)により、南洋諸島の長期調査航海を実施[4]。7月2日当時の第十二戦隊は、サイパン島に停泊中だった。神威艦載機、特務艦「膠州」等が捜索に参加[5](膠州はパラオ諸島を出発し、7月6日ポナペ島[6]7月9日同地発[7]7月13日ヤルート[8])。それぞれ1週間程度をかけて総面積390,000平方キロを捜索したが何も見つからなかった。第十二戦隊の4隻は7月10日伊勢湾へ帰投[9]7月19日、日米とも捜索を打ち切った[10]。同日、膠州はヤルートを出発[11]、ポナペを経てサイパンに向かった。その後もイアハート機の残骸が日本委任統治領内の島に流れ着く可能性があったため、山本五十六海軍次官は出来るかぎり捜索に協力するよう指導した[12]

研究者の大多数は、イアハートとヌーナンの飛行機は燃料を使い果たし不時着水した、もしくは墜落したと考えている。代表的見解としては、トーマス・クロウチ航空宇宙博物館主任キュレーターの談話がある。その見解では、機体は18,000フィート(約5,500メートル、周辺海域の平均水深)の海底に沈んでいるのではないか、と推測している。さらに、その深度は発見に、沈没後70年経って偶然発見されたタイタニック号のような困難を生むだろうとも語っている

捜索当時、キリバス領のニクマロロ島(事故当時の名称はガードナー島、公式には1827年以降無人)では、捜索にあたった艦載機からキャンプの跡らしきものが観測されたが、報告したパイロットは無人島である状況は知らなかった(後年、西洋人女性と見られる遺骨が同島から1940年に発見され、フィジーに送られ、イギリス人医師の鑑定を受けるが、その後紛失)。

近年になって航空機の捜索や保存を行っている研究グループ「タイガー (TIGHAR)」[1]は、化粧用コンパクトの一部とみられるガラス片などを同島から2007年に発見し、イアハート自身が同島に漂着し死亡するまで島で生活していたという説を唱えている。ただし、前述の遺骨は行方不明となっていて確証はない[13]。同グループは加えて数度の現地調査を行ない、同島でロッキード・エレクトラの残骸ともとれる軽金属片およびプレクシグラス(コクピット風防用のアクリル樹脂)片、1930年代の女性用靴とも見ることが可能な靴の部分品を発見し、さらに前述の身元不明の漂流者の遺骨の医学的所見の記録(骨そのものではない)を再鑑定し、長身の北ヨーロッパ系の白人女性である可能性が高いとの結果を発表した。

これらを踏まえて、同グループからは水没状態では作動しないはずの救難信号が同機が行方不明となってから3昼夜聞かれたこと(パンアメリカン航空の地上無線局などのレポートが現存する)などを合わせ、ニクマロロ島(旧ガードナー島)周辺に不時着したとする説を提唱している。同時に、同グループの計算によると、旅客機エレクトラを長距離用に改造し、キャビン内に6槽の増設燃料タンクを設置したイアハート機は燃料を使い果たした状態では充分な水面浮力を持ち、暫くは水面に浮き続けるはずである、との主張も同時にしており、それらを統合した推測が彼らから発表されている。

ただし、アメリカ人海洋探検家のデビッド・ジョーダン(アメリカ海軍を退役後は自身でサルベージ会社を経営)は、2002年2006年の2回にわたり、総費用450万ドルを費やして目的地周辺1200平方マイルの海底ソナー探査を行ったが、結果的に機体らしきものは発見されず、この結果からニクマロロ島(旧ガードナー島)周辺遭難説を否定している。

2009年、前述の「タイガー」が、ニクマロロ島で人工物をかき集め、付着しているDNAをイアハートの親族のDNAと比較するという計画を公表[13]2010年12月14日、「タイガー」はニクマロロ島のキャンプサイト付近で人間の指の部分と見られる骨を発見、その後オクラホマ大学でDNA型鑑定が行われたが、現代の鑑定技術では人骨なのか、或いはウミガメの骨なのかは判定が難しいとする調査結果が出された[14]

2012年、さらに調査を進めた結果、同年7月の調査で撮影されたニクマロロ島沖の海底の映像の中に、機体の一部らしきがれきが映っていたと発表された[15]2014年になって、この時海底から引き揚げられた機体の一部がロッキード L-10 エレクトラの部品であることが判明した[16]。これを受けて、「タイガー」はニクマロロ島付近の海底の、ソナーに反応があった領域を詳細に捜索することを発表した。

ほか、イアハートの遭難地をマーシャル諸島とする説が、1960年代にフレッド・ゲルナー著の『The Search for Amelia Earhart(アメリア・イアハートを探して)』で唱えられた。2015年にディック・スピンクが報告したところによると、イアハートがミリという小さな環礁に不時着したという目撃談がマーシャル諸島で今も広く伝えられているという[17]

日本軍関与説[編集]

イアハートの遭難から5日後の1937年(昭和12年)7月7日、中国大陸では盧溝橋事件が発生、日中は全面戦争に発展した。以前より日米間で対立が深まっていたこともあり、アメリカ海軍はイアハート機捜索の名目で、南洋諸島の空中調査を行ったという噂が流れた[18]。逆に、イアハートが諜報行為をしたことで日本軍の捕虜になったという噂も立った[19]。「イアハートがアメリカ軍の要請を受けて、カロリン諸島マーシャル諸島などの、日本の委任統治領における日本軍の活動を探るべく飛行した後、カロリン諸島に駐留する日本軍によって撃墜され捕らえられた」という話が、地元住民の目撃談として唱えられていた。さらに、「日本軍に捕らわれた後にサイパン島を経由して東京に移送され、第二次世界大戦中に皇居内で拘留され続け、終戦直前に処刑された」という説まで、同じく目撃者の証言と共に唱えられたこともあった。その上1970年に出版された本の中では「終戦後解放された後にひそかに帰国し、偽名でニュージャージー州で暮らしていた」との説まで唱えられた[20]。中には「東京ローズの正体はイアハートであった」という説もある。しかし、失踪前のイアハートからの通信では(日本軍を含めた何者かから)攻撃を受けたとの報告が全くない上に、日本側には撃墜や拘留、処刑の記録が無いばかりか、上記のように日本海軍の艦艇はアメリカ海軍艦艇とともに多額の費用を投じた捜索活動も行っている。また日本関係者によるイアハート目撃の報告もないため、信憑性が低いものであった。

2017年7月、アメリカの歴史専門チャンネル「ヒストリーチャンネル」は、特別番組「アメリア・イアハート:失われた証拠(Amelia Earhart: The Lost Evidence)」において、イアハートとヌーナンが日本軍に拘束されたとする従来の説が有力である旨を公表した。根拠として同番組がアメリカ国立公文書館から入手した、日本委任統治時代のマーシャル諸島ジャルート環礁の港にて撮影された写真を挙げた。この中にイアハートとヌーナンにそれぞれ特徴が似ている白人の男女、そして破損した乗機と思われる物体が貨物船に曳航される姿が僅かに写されており、2人がミリ環礁に不時着した後に撮影されたものだと主張している。同番組は2人のその後の行方として、サイパン島に移送され同地で拘置中に死亡したとする仮説を立てている[21][22][23][24][25]。しかし、マーシャル諸島での戦史を研究している軍事専門家によれば、写る船舶の形式などから、写真はイアハートが遭難する以前の1920年代後半から30年代前半のものとしており[注釈 3]、またマーシャル諸島を含めた日本委任統治領は、1937年1月以降外国船の入港が禁じられたにも関わらず、日本籍でないと思われる商船が写っていること、写されている人影の中に日本人らしき姿が見られない事などから、ヒストリーチャンネルの説を否定している[27]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 『昭和十二年には、ロツクヒード・エレクトラの新鋭機を以て、再びハワイまで飛び十五時間に三千九百三十九粁の女流記録を作りましたが、機體を損じて希望の世界一周は中止の已むなきに至つたのです。/然るに修理完成の上、翌年春、反對に北米から南米へ、アフリカへ、印度へ、濠州へと世界一周をつゞけ、濠州からハワイ南方へ飛行中に消息を絶ち、こゝに稀代の名女流飛行家は不幸にも、この世に再び姿を見せませんでした。』
  2. ^ 『官房機密第三七七二號ノ二 昭和十二年九月十七日 海軍次官 山本五十六 外務次官 堀内謙介殿 「イヤハート」機捜索ニ關スル件回答 首題ノ件ニ關シテハ左記方針ニテ可然應酬相成度  記  我委任統治區域ニ於ケル「イヤハート」機殘留品ノ捜索ニ關シテハ帝國ハ附近通行ノ船舶竝ニ出漁中ノ漁船ヲシテ出來得ル限リ捜索セシムベシ』
  3. ^ この写真は1935年(昭和10年)10月に出版された日本語写真集の中に収録されている[26]。『ジャボールの港は稀に見る良港である。月一回内地からの大船が珍しい數々の物資に船腹をふくらまして入港すると、マーシャル群島の各地から、大酋長のスクーナー、小酋長のボートが競ふてジャボール港に渭集して來る、そしてジャボールを賑やかにする。』

出典[編集]

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  1. ^ 中正夫、「多彩な米航空婦人」 『航空と女性』 越後谷書房、1943年4月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068520/87 コマ87-88(原本155-157頁)[注釈 1]
  2. ^ 業界下位がトップを奪う秘策「アメリア・エアハート効果」とは』、プレジデント2009年8月3日
  3. ^ イヤハート遭難p.5
  4. ^ 中部太平洋方面海軍作戦(1)57-58頁『第十二戦隊の基地調査/経過』
  5. ^ イヤハート遭難p.13
  6. ^ #S12.07膠州日誌p.6『昭和十二年七月六日火曜日』
  7. ^ #S12.07膠州日誌p.9『昭和十二年七月九日金曜日 ポナペ 碇泊(至)』
  8. ^ #S12.07膠州日誌p.13『昭和十二年七月十三日 火曜日』
  9. ^ 中部太平洋方面海軍作戦(1)58頁『成果報告』
  10. ^ イヤハート遭難p.14
  11. ^ #S12.07膠州日誌p.19『昭和十二年七月十九日 月曜日』
  12. ^ イヤハート遭難p.19[注釈 2]
  13. ^ a b “国民的ヒロインの最期解明へ=南太平洋で遭難の飛行家-米”. 時事通信. (2009年8月9日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_date3&k=2009080900066 2009年8月10日閲覧。 [リンク切れ]
  14. ^ "DNA tests on bone fragment inconclusive in Amelia Earhart search" www.cnn.com, March 3, 2011, Retrieved: March 3, 2011.
  15. ^ "伝説の女性飛行士イアハート、機体の一部を発見か 調査チーム" AFP BBNews August 22, 2012, Retrieved: March 3, 2011.
  16. ^ 国際調査団、伝説の女性飛行士「アメリア・イアハート」の搭乗機の破片を確認、businessnewsline、2014年10月29日、同年11月2日閲覧
  17. ^ 伝説の女性飛行士遭難の謎、異説が浮上”. ナショナルジオグラフィック日本版サイト (2015年6月2日). 2015年6月22日閲覧。
  18. ^ イヤハート遭難pp.20-21『同盟 外信 第十九號 十二年十二月三日◎南洋諸島空襲偵察談』
  19. ^ 米国内○其ノ他 女流飛行家、日本ノ捕虜カ』 アジア歴史資料センター Ref.A03025045300 
  20. ^ 『絶対に見られない世界の秘宝』p.198
  21. ^ 伝説の女性飛行士、日本軍捕虜に? =公文書館で写真見つかる―米 時事通信、2017年7月6日
  22. ^ “Amelia Earhart: The Lost Evidence”. History Channel. https://www.history.com/specials/amelia-earhart-the-lost-evidence 2017年7月6日閲覧。 
  23. ^ Costello, Tom; Arkin, Daniel (2017年7月5日). “Amelia Earhart May Have Survived Crash-Landing, Newly Discovered Photo Suggests”. NBC News. http://www.nbcnews.com/news/us-news/amelia-earhart-may-have-survived-crash-landing-never-seen-photo-n779591 2017年7月5日閲覧。 
  24. ^ Dodd, Johnny (2017年7月5日). “Does This Photo Prove Amelia Earhart Survived Her Final Flight?”. People. 2017年7月5日閲覧。
  25. ^ “Amelia Earhart: Does photo show she died a Japanese prisoner?”. BBC News. (2017年7月6日). http://www.bbc.com/news/world-asia-40515754 2017年7月6日閲覧。 
  26. ^ 西野元章(編輯兼発行者)、「ヤルート島ジャボールの港」 『海の生命線 我が南洋の姿(南洋群島寫眞帖)』 二葉屋呉服店、1935年10月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223403/99 コマ99(原本44)
  27. ^ “伝説の女性飛行士イアハート「生存写真」主張、専門家は疑問視”. AFPBB News (株式会社クリエイティヴ・リンク). (2017年7月9日). http://www.afpbb.com/articles/-/3135084 2017年8月16日閲覧。 

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『32.飛行家「アメリア・イヤハート」本邦飛来関係』。Ref.B10074786100。
    • 『18.米国飛行機(女流飛行家アメリヤ・イヤハート)遭難ノ件』。Ref.B10074880000。
    • 『米1機密合第4922号 11.12.18 米国飛行家「アメリア・イヤハート」に対し本邦領土上空飛行許可方の件』。Ref.C05034840200。
    • 『水上機母艦 神威 昭和12年7月1日~7月31日』。Ref.C11084206600。
    • 『駆逐艦 朝凪 昭和12年5月1日~7月31日(2)』。Ref.C11084306300。
    • 『特務艦 膠州 昭和12年7月1日~7月31日』。Ref.C11083156100。
    • 『特務艦 膠州 昭和12年8月1日~8月31日』。Ref.C11083156400。
    • 『特務艦 膠州 昭和12年9月1日~9月31日』。Ref.C11083156700。
  • ダニエル・スミス『絶対に見られない世界の秘宝』(日経ナショナルシジオグラフィック社、2015)。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『中部太平洋方面海軍作戦<1> 昭和17年5月まで戦史叢書第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]