「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」の版間の差分

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[[ファイル:Arnoldo_Wion_1595_Lignum_Vitae_p311.GIF|thumb|『生命の木』(1595年)に掲載された聖マラキの予言の一部]]
{{出典の明記|date=2013年3月}}
'''全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言'''(すべてのきょうこうにかんするだいしきょうせいマラキのよげん、Prophetia S. Malachiae, Archiepiscopi, de Summis Pontificibus)は、[[12世紀]]の[[アーマー]]大司教の聖人[[聖マラキ|マラキ]](マラキアス)に帰せられている、歴代[[ローマ教皇]]に関する[[予言]]である<ref group = "注釈">prophetiaの語源(「代わりに語る」)を尊重し記事名では「[[預言]]」を使うが、後述するように偽書であることが定説化しており、その立場ではマラキ本人が神の啓示を受けて記述したとは見なされていないので、以下の文中では「予言」で統一する。</ref>。本記事名は現在確認されている範囲での初出に当たる『生命の木』(1595年)に採録されたときのものだが、一般には単に「'''聖マラキの予言'''」「'''教皇'''(について)'''の予言'''」などと呼ばれる。実際には[[1590年]]に作成された[[偽書]]と見なすのがほぼ定説と化しており、その立場からは「'''偽マラキの予言'''」<ref>Halbronn (2005) p.99 etc. </ref><ref group = "注釈">アルブロンは la prophétie pseudo-malachienne と表記している。また、参考文献のひとつとして、アレクサンドル・ブルーの La pseudo-prophétie de Malachie (マラキの偽予言)という文献も挙げている(Halbronn (2005) pp.75, 135)。</ref>と呼ばれることもある。
<!--{{Notice|<small>これは'''全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言'''についての説明であり、ウィキペディアとしていかなる予言も支持するものではありません。また同予言の内容が、ローマ教皇について言及したものであるため、それについての信奉者の側の解釈を併せて紹介するものにすぎず、現実に存在するカトリック教会やローマ教皇、他いかなる事柄についても今後の状況を予測するものではありません。</small>|註|attention}}--><!--注意書きがあった当初の記事と異なり、偽書であることが明記されていて不要に思われるので、コメントアウト-->
'''全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言'''(すべてのきょうこうにかんするだいしきょうせいマラキのよげん、Prophetia S. Malachiae, Archiepiscopi, de Summis Pontificibus)は、[[聖マラキ]]によって執筆されたと称する歴代[[ローマ教皇]]に関する[[予言]]または[[預言]]である。一般には単に「'''聖マラキの予言'''」「'''教皇'''(について)'''の予言'''」などと呼ばれる。また、偽作説の立場からは「'''偽マラキの予言'''」と呼ばれることもある。本記事名は1595年に初めて公刊された時の名称を採用しているが、後述のように本来のタイトルはもっと長かったとする説もある。同じく後述するが、16世紀の[[偽書]]と見なすのが一般的である。


== 概要 ==
== 概要 ==
これは、[[1143年]]に即位した165代ローマ教皇[[ケレスティヌス2世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス2世]]以降の、112人(最後の予言の扱いによっては111人)の歴代教皇についての予言である。[[対立教皇]]10人を含むが、対立教皇[[インノケンティウス3世 (対立教皇)|インノケンティウス3世]] と対立教皇[[対立教皇ベネディクトゥス14世 (先代)|ベネディクトゥス14世(先代)]]、同じく対立教皇[[対立教皇ベネディクトゥス14世 (後代)|ベネディクトゥス14世(後代)]]に対応する予言だけは存在しない。対象時期の教皇の中で、予言が存在しないのは彼らだけである。
これは、[[1143年]]に就任した165代ローマ教皇[[ケレスティヌス2世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス2世]]以降の、[[対立教皇]]10人を含む<ref group = "注釈">対立教皇[[インノケンティウス3世 (対立教皇)|インノケンティウス3世]] と対立教皇[[対立教皇ベネディクトゥス14世 (先代)|ベネディクトゥス14世(先代)]]、同じく対立教皇[[対立教皇ベネディクトゥス14世 (後代)|ベネディクトゥス14世(後代)]]に対応する予言だけは存在しない。対象時期の教皇の中で、予言が存在しないのは彼らだけである。</ref>111人(または112人かそれ以上)の歴代教皇についての予言である。


一つ一つの予言は[[ラテン語]]2 - 4で表現しだけ極め簡素なものであるが(112番目を除く)その教皇の登位前の姓名、紋章(家紋を含む)、出、性格、在位期間の歴史背景や特徴的な事件のいずれか1つ(またはその組み合わせ)意味しているとされる。信奉者の中には、複数の意味を織り込んだももあると主張し様々な意味を読み取ろう者も
予言は2語から4語の極めて簡素な[[ラテン語]]の標111個と、112番目に当る最後散文によっ構成されてい。標語は原則として教皇就任した順に並んでおり該当する教皇の就任前の姓名、紋章(家紋や出身都市の市章などを含む)、出身地名、家柄、性格、在位期間の特徴的な事件などのいずれか1つないし複数予言しているとされる<ref group = "注釈">以下の予言リストで見るように、初出では1種類ずつしか解釈が与えられていなかったしかし、20世紀以降の信奉者であるダニエル・レジュや[[ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ]]解釈書では、ほとんどの予言に複数の解釈が与えられている。</ref>。一部[[終末論]]者やそれに便乗す文献などは、同予言書で111番目に当たる教皇のまたはその次の教皇のきに何らかの激変が起このではなかという形で採り上げてきた


しかし、最初に公刊されたのはマラキの死から450年近く後の[[1595年]]のことであり、それ以前には伝聞すらいっさい確認されていない。当時の時代状況や似たような偽予言群の存在などから、1590年の[[コンクラーヴェ]]にあわせて偽作された予言であることがほぼ定説化している。
一部の[[終末論]]者やそれに便乗する文献などは、同予言書では111番目に当たる[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]](在位2005年 - 2013年)の次の教皇の時に世界の終末が訪れるのではないかという形で取り上げてきた。<!--このため、彼らにとっては、「[[フォトンベルト]]」などと共に関心の対象となっている。-->

なお、終末までの歴代教皇を予言する、というモチーフは、1590年に現れた聖マラキの予言が初めてではない。中世には30枚の預言絵画からなる「[[全ての教皇に関する預言]]」(Vaticinia de summis pontificibus)が広く知られていた<ref>山津 (2012) p.215</ref>。


== 最初の公刊と時代背景 ==
== 最初の公刊と時代背景 ==
[[ファイル:St._Malachy.jpg|thumb|聖マラキの立像。彼を取巻く同時代人の中に、この予言について言及した者はいない。]]
[[1595年]]に[[ベネディクト会]][[修道士]][[アルノルド・ヴィオン]]が、[[ヴェネツィア]]で刊行した著書『生命の木』(Lignum Vitae) の中で言及したのが、この予言の初めての公刊であった。聖マラキが執筆したとみなせる史料が現存しない上、作成されたと推測されている1590年以前には伝聞すら存在しなかったことから、(今なお信奉者の根強い支持はあるものの)偽書と見なすのが一般的である(偽作説は [[イエズス会]]士の[[クロード・フランソワ・メネストリエ]]によって1689年に初めて提示された<ref>ブルトン (1982) pp.92-93</ref>)。ヴィオン自身を偽作者とみる説もあるが、先行する[[写本]]を想定した上で、1598年に出されたロベルト・ルスカの版(ラテン語の予言にイタリア語の注釈が付いている)の方がその写本に近いのではないか、と推測する者もいる。また、題名についても、1624年にトマス・メシンガムが紹介した時のタイトル "Prophetia S. Malachiae Archiepiscopi Armaghami totiusque Hebernae Primatis as Sedis Apostlicae Legati de Summis Pontificibus" の方がオリジナルに近いのではないかとも指摘されている。
[[1595年]]に[[ベネディクト会]]の[[修道士]][[アルノルド・ヴィオン]]が、[[ヴェネツィア]]で刊行した著書『生命の木』(Lignum Vitae) に収録したのが、この予言の初めての公刊であった<ref>Reeves (1971) p.128, 上智学院新カトリック大事典編纂委員会 (2009) p.880 etc.</ref>。信奉者寄りの著書では、バチカンの文書保存庫からヴィオンが見つけ出したとされることもあるが<ref>高平ほか (1998) p.96</ref>、ヴィオン自身は出典については何も触れていない。『生命の木』には、「その予言を知ったが、まだ公刊されていないようだから収録した」という趣旨のごく簡単な説明しか書かれていない<ref>O’Brien (1880) pp.15-16, フィナテリ (1982) p.61</ref>。そして、ヴィオン以前に遡る写本が[[バチカン図書館]]に現存しないのはもちろん、それが存在していた記録すらないと指摘されている<ref>Bander (1973) p.86</ref>。


現在では、最初にこの予言が現れたのは1590年と考えられている<ref>Reeves (1971) p.128, Halbron (2005) pp.53-58, 上智大学 (1954) p.882、フィナテリ (1982) p.68 etc.</ref>。実際、『生命の木』では過去のものとなった標語にラテン語で「解説」<ref group ="注釈">それぞれの予言を歴代教皇とどう結びつけるかを簡略に示したものなので「解釈」と言ってもよいが、後代の信奉者たちの解釈と区別するため、初出の解釈についてのみ便宜上「解説」と書いておく。</ref>がつけられているが、それは[[ウルバヌス7世 (ローマ教皇)|ウルバヌス7世]](在位1590年)までで止まっている。ヴィオンは解説の著者として、スペイン人の[[ドミニコ会]]士アルフォンソ・チャコンの名を挙げているが、チャコン自身の書き物ではこの解説に触れているものが一切ないため<ref>O’Brien (1880) p.100</ref>、真偽は定かではない。
偽作であるという立場を取る論者は、最初にこの予言が現れたのは1590年と推測している。『生命の木』では[[ウルバヌス7世 (ローマ教皇)|ウルバヌス7世]](在位1590年)までの予言にしか注釈がつけられていないからである。注釈の著者としては、ヴィオンもルスカも、スペイン人の[[ドミニコ会]]士アルフォンソ・チャコンの名を挙げているが、真偽は定かではない(ただし、スペイン人の関与を窺わせること自体には意味がある。後述を参照)。偽作説では、ウルバヌス7世の次の教皇に当たる「町の古さによって」という予言は、[[オルヴィエート]](「古い町」が語源とされる)の[[司祭]]だった[[枢機卿]]ジロラモ・シモンチェッリを教皇にするための支持者による工作であったとみなしており、それが偽作の動機ではないかとも言われている。同じ1590年には、『ウルバヌス7世の後継者に関する[[聖ブリギッド]]の予言』 (Prophetia Divae Brigittae...in succesorem Urbani VII) と称する偽書も刊行されていた。こうした偽作は単なる候補者個人の問題とされるべきではなく、1590年当時の、スペイン国王[[フェリペ2世]]が教皇選挙に積極的に介入していた状況や、フランスでの[[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]]と[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の対立が激化していた状況などを視野に入れて、より大きな政治的意図を汲み取る必要性も指摘されている<ref>Halbronn (2012) pp.53-58、山津 (2012) pp.211-212</ref>(教皇選挙へのフェリペ2世の介入については、[[グレゴリウス14世 (ローマ教皇)|グレゴリウス14世]]、[[インノケンティウス9世 (ローマ教皇)|インノケンティウス9世]]の記事なども参照のこと)。


偽作の直接的な動機としては、ウルバヌス7世の次の教皇に当たる標語が『町の古さによって』(75番)となっていることから、[[オルヴィエート]](「古い町」が語源とされる)の[[司祭]]だった[[枢機卿]]{{仮リンク|ジロラモ・シモンチェッリ|en|Girolamo Simoncelli}}を教皇にしようとしたものではなかったかと考えられている<ref>O’Brien (1880) p.63, 上智大学 (1954) p.882、山津 (2012) pp.211-212</ref>。偽作者は特定されておらず、明確な根拠が示されているわけではないが、最初の紹介者であるヴィオン自身が偽作したわけではないだろうと見るのが一般的である<ref>上智大学 (1954) p.882、フィナテリ (1982) p.68</ref>。ヴィオンが示した原文が初出となっているが、彼が依拠したはずの写本は見付かっていないため、オリジナルに忠実かにも議論がある。1598年に出されたロベルト・ルスカの版(ラテン語の標語にイタリア語の解釈が付いている)はその内容からヴィオンをそのまま踏襲していないと判断する者もおり、その立場ではルスカもヴィオン以前の資料を参照しえたのではないかと指摘されている<ref>Halbronn (2005) pp.29,31</ref>。また、題名についても、1624年にトマス・メシンガムが紹介した時には、マラキの肩書きが単に「大司教」ではなく、「アーマー大司教」「教皇特使」などとより詳しい形で書かれており、初期の版には揺れがあった<ref>Halbronn (2005) p.130</ref>。
ちなみに、このとき実際に選ばれた教皇はシモンチェッリではなく、元[[ミラノ]]大司教のグレゴリウス14世であった。聖マラキの予言を信じる立場からは、ミラノも十分に古い町であるとか、 [[フランス語]]では「ミラノ」(ミラン Milan) は「千年」(ミラン Mille ans)の語呂合わせになるといった解釈が行われている<ref>ブルトン (1982) p.100</ref>。


さて、歴代教皇を順に予言するというスタイルは、[[16世紀]]にはおなじみのものだった。中世に出現した図像と文章を組み合わせた予言書『[[全ての教皇に関する預言]]』の亜流として、16世紀頃の歴代教皇を予言するといった体裁の偽書がいくつも出ており、マラキの予言以外に少なくとも9種が存在していた<ref>Reeves (1971) p.127</ref>。なかでも、1589年(マラキの予言が偽作されたと考えられている前年)には、『[[フィオーレのヨアキム|大修道院長ヨアキム]]の予言』と称する[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]](在位1559年 - 1565年)以降の歴代教皇を予言するとした偽書も出現しており、これがマラキの予言のモデルになったという説もある<ref>上智大学 (1954) pp.882-883</ref>。歴代教皇を対象とする偽予言は、[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]](在位 1585年 - 1590年)の在位期間前後に多く出されていたことも知られている<ref>リーヴス (2006) p.577</ref>。
現在も、信じる立場の論者は、予言の的中例に偽作では説明のつかないものがあるとか、歴代教皇の中に予言に従って行動した者がおり、偽作ならそのような行動はとられないはずといった反論を寄せている。他方で、懐疑的な立場の論者は、元の句が短いため曲解しているだけではないかとか、当初から解釈が付けられていたウルバヌス7世以前の予言に比べて、それ以降の予言では地名を織り込んだ句が激減するなど曖昧さが増している上、苦しい解釈が多くなっているのではないかといった疑念を提示するなど<ref>フィナテリ (1982) p.62、山津 (2012) p.217</ref>、解釈に関しては、双方の立場から様々な意見が出されている。こうした双方の主張の適否を判断する一助として、以下にリストを掲げる。


また、マラキの予言が偽作されたと考えられている1590年には、同じ教皇選挙に関連して『ウルバヌス7世の後継者に関する神々しき[[スウェーデンのビルギッタ|ビルギッタ]]の予言』 (Prophetia Divae Brigittae...in succesorem Urbani VII) など、ほかの予言者に仮託した偽書も刊行されていた<ref>Halbronn (2005) p.54</ref>。1590年のコンクラーヴェを対象とした偽予言群の存在は、スペイン国王[[フェリペ2世]]が教皇選挙に積極的に介入していた状況や、フランスでの[[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]]と[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の対立が激化していた状況など、1590年当時の諸状況に影響された政治的動機によって生み出された可能性も指摘されている<ref>Halbronn (2005) pp.53-58、山津 (2012) pp.211-212</ref>。
== 予言リスト ==
以下は当予言の原文、訳文、該当するとされる教皇、信奉者の解釈を一覧にしたものである。『生命の木』にもルスカの版にも番号は付けられていないが、慣例に従い順に番号を付けた。解釈には、日本語に訳すと意味をなさないものもある。それらについては原綴を比較のこと。言うまでもなく、姓や名(personal name)は基本的に教皇登位前の話である。


ちなみに、このとき実際に選ばれた教皇はオルヴィエートのシモンチェッリではなく、元[[ミラノ]]大司教の[[グレゴリウス14世 (ローマ教皇)|グレゴリウス14世]]であった。しかし、信奉者たちは、『町の古さによって』がグレゴリウス14世を的中させていると主張してきた(解釈例は後述)。
=== 『生命の木』で注釈がついていた最初の74人分 ===
ここでは、主に『生命の木』所収のチャコンの注釈に基づいて解説を付けている(後世の注釈者による補完を含む項目もある)。この項の予言は、信奉者にとっては的確な予言ということになり、偽作説にとっては典型的な事後予言ということになる。


== 解釈をめぐる論争 ==
1.ティベリウス川の城より ''Ex castro Tyberis''- [[ケレスティヌス2世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス2世]](1143-1144)
[[ファイル:Claude-François Ménestrier.jpg|thumb|クロード=フランソワ・メネストリエ]]
:彼は[[テヴェレ川]](ティベリウス川)沿いの[[チッタ・ディ・カステッロ]](Città di Castello, 城の都市の意)の出身だった。
[[ファイル:Moreriencyclopedia.jpg|thumb|モレリの『歴史大事典』(1740年版)]]
2.追い払われた敵 ''Inimicus expulsus'' - [[ルキウス2世 (ローマ教皇)|ルキウス2世]](1144-1145)
この予言に関しては、初出から100年近く後になって、[[イエズス会]]士の{{仮リンク|クロード=フランソワ・メネストリエ|fr|Claude-François Ménestrier}}が初めて本格的な偽作説を提示した。『誤って聖マラキに帰せられている教皇選挙に関する予言への反駁』([[1689年]])などのパンフレットで示された彼の指摘はその後の偽作説の基盤となり<ref>上智大学 (1954) p.883</ref>、それをさらに敷衍したのが神学博士の{{仮リンク|ルイ・モレリ|fr|Louis Moréri}}(1643年 - 1680年)であった<ref>O’Brien (1880) p.97</ref>。モレリはその大著『歴史大事典』(初版1674年、死後も増補された)の聖マラキの項において、信奉者側の解釈も含めたマラキ予言の紹介と包括的な批判を行なった。彼らの批判の要点は、前述したシモンチェッリ関連を除くと、おおよそ以下のようにまとめることができる。
:彼の姓カッチャネミチ(Caccianemici)は「敵を追い払う」の意。
#1595年以前の伝聞が存在しない<ref>Ménestrier (1689a) p.5</ref>。
3.山の大きさから ''Ex magnitudine montis'' - [[エウゲニウス3世 (ローマ教皇)|エウゲニウス3世]](1145-1153)
#:マラキの予言は1595年に公刊されるまで、誰一人として言及していなかった。マラキと交流があった同時代人[[クレルヴォーのベルナルドゥス]]はマラキの伝記をまとめ、彼に予言の才能があったと紹介しているが、そのベルナルドゥスですら教皇に関する予言について何も語っていない<ref name = kaigi>Moréri (1740) p.70</ref><ref name = Obrien_kaigi1>O’Brien (1880) pp.100-101</ref><ref group = "注釈">なお、偽作者がマラキの名を権威付けに持ち出したのは、ベルナルドゥスによる予言の才への言及が理由だったとも言われている(上智学院新カトリック大事典編纂委員会 (2009) p.880)。</ref>。また、ローマの動向を聞き及ぶことができたはずの同時代の各地の著名な聖職者たちの証言もいっさい見当たらない<ref name = kaigi /><ref name = Obrien_kaigi1 />。
:彼の姓はパガネッリ・ディ・モンテマニョ(Paganelli di Montemagno, モンテマニョは大きな山、の意)だった。なお、彼の姓は文献によっては単にパガネッリやピガネッリとだけ書かれている場合もある。
#:教皇についての歴史や年代記を執筆した人々はマラキの死後何人も出ているが、彼らの著書でもいっさい触れられていない。特にヴィオンが解説者として言及しているチャコンは、歴代教皇の生涯について書いているにもかかわらず、そこでも一切の言及が見られない<ref name = kaigi /><ref name = Obrien_kaigi1 />。
4.スブッラ神父 ''Abbas Suburranus'' - [[アナスタシウス4世 (ローマ教皇)|アナスタシウス4世]](1153-1154)
#:[[アイルランド]]の著述家たちには、母国の聖人伝のようなものをまとめた人々がいるが、彼らも誰ひとり言及していなかった<ref name = kaigi /><ref>O’Brien (1880) p.102</ref>。
:彼はスブッラ(Suburra)家の出身だった。
#1595年以前の教皇の配列がおかしい。
5.白き野より ''De rure albo''- [[ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス4世]](1154-1159)  
#:[[対立教皇]]が10人含まれているが、その標語の中で「[[シスマ|スキスマ]]」(分裂)やその類語を用いて対立教皇であることを明示しているのは2人だけで、あとは正式な教皇と入り混じっている<ref name = kaigi />。
:彼はイギリスの[[w:St Albans School (Hertfordshire)]]で学んだ。
#:さらに、対立教皇の配列順が年代的に誤っている。マラキの予言では、一般的な[[ローマ教皇の一覧]]に比べて、順序の異なっている箇所が2箇所ある。まず、標語6番から8番は3人の対立教皇にあてられているが、彼らは9番に当てはめられている[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]の選出に反対した3人の枢機卿が順に立ったものなので、アレクサンデル3世を先に置くのが一般的である<ref name = kaigi /><ref name = anachronisme>Ménestrier (1689a) pp.10-11</ref>。また、アレクサンデル3世に反対した4人目の対立教皇である[[インノケンティウス3世 (対立教皇)|インノケンティウス3世]]が抜けている。こうした不適切な配列は、16世紀の年代記の誤りを引き写した可能性が指摘されている<ref name = anachronisme /><ref>Halbronn (2012) pp.50-51, 74-76、山津 (2012) p.214</ref>。
6.耐え難い牢獄から ''Ex tetro carcere''- 対立教皇[[ウィクトル4世 (対立教皇)|ウィクトル4世]](1159-1164)
#:42番から51番はいわゆる[[教会大分裂]]期の教皇であるが、アヴィニョン選出の対立教皇(42-44番)を最優先するという明確な意図が読み取れる<ref>Halbronn (2005) p.74</ref>。ついでローマ選出の教皇(45-48番)、[[ピサ]]選出の対立教皇(49-50番)の順になっているが、この結果、[[クレメンス8世 (対立教皇)|対立教皇クレメンス8世]](44番)よりも[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]](51番)の方が7つも後という、変則的な配列になっている<ref name = kaigi /><ref name = anachronisme />(マルティヌス5世が選出された[[コンスタンツ公会議]]で、当時のアヴィニョン教皇であったベネディクトゥス13世は強制的に廃位とされた。その没後アヴィニョンで立った対立教皇がクレメンス8世である)<ref group ="注釈">現在の偽作説では、こうした配列は、この予言にフランス人の視点が投影されている可能性を示すものと受け止められている(Halbronn (2005) p.76, 山津 (2012) pp.212-214)。</ref>。
:彼はトゥリアノ牢獄で聖ニコラスのタイトルを持つ[[枢機卿]]だった。
#1595年以前の予言については、事実関係に誤りが含まれている。
7.ティベリウス対岸への道 ''Via Transtiberina''- 対立教皇[[パスカリス3世 (対立教皇)|パスカリス3世]](1164-1168)
#:以下のリストで見るように、16世紀当時には正しいとされていた情報に基づいて予言が書かれているが、のちに誤りであると判明したり、事実か疑わしくなっている事柄が含まれている<ref>Ménestrier (1689b) passim</ref><ref>O’Brien (1880) pp.97-98</ref>。
:彼は[[サンタ・マリーア・イン・トランステヴェレ大聖堂]]([[w:Basilica di Santa Maria in Trastevere]])の主任司祭だった。
#標語があまりにも漠然としすぎている。
:チャコンの注釈は、この予言を対立教皇カリストゥス3世に当てはめており、パスカリス3世は次の予言に当てはめられている。17世紀半ばのカリエールの注釈書では現在の形に修正されている。
#:現代でも1595年以降の曖昧さはしばしば批判されるが(後述)、メネストリエは1595年以前についても、短い標語にすぎないのだから、こじつければほかの教皇にも十分に適合することを実際に示した。たとえば、『追い払われた敵』(2番)は、標語の対象時期直前の対立教皇[[アナクレトゥス2世 (対立教皇)|アナクレトゥス2世]](在位1130年 - 1139年)によく当てはまる。彼はローマ市民らの支持は取り付けていたが、有力者らからは徹底的に批判され、その死後、[[クレルヴォーのベルナルドゥス]]は別の聖職者に「敵が追い払われた」という趣旨の言葉を書き送ったからである<ref name = irekae>Ménestrier (1689b) pp.10-11</ref>。また、現在の予言書で『追い払われた敵』に対応している[[ルキウス2世 (ローマ教皇)|ルキウス2世]]は、『山の大きさ(偉大さ)によって』(3番)に当てはめてもおかしくない。彼は[[エルサレム]]の聖十字架修道参事会員などだったことがあり、エルサレムの[[ゴルゴタの丘]]は[[イエス・キリスト]]の磔刑が執行された大いなる丘(小山)だからである<ref name = irekae />。メネストリエはこんな調子で序盤の予言の対応関係を次々に入れ替えてみせた<ref name = irekae />。
8.[[トゥスクルム]]のパンノニアより ''De Pannonia Tusciae''- 対立教皇[[カリストゥス3世 (対立教皇)|カリストゥス3世]](1168-1178)
:彼は[[ハンガリー]](古称はパンノニア)出身で、トゥスクルム(現在の[[フラスカーティ]])の[[司教枢機卿]]だった。
9. 守護者たる雁から ''Ex ansere custode''- [[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]](1159-1181)
:彼の家紋には雁があしらわれていた。
10.入り口の光 ''Lux in ostio''- [[ルキウス3世 (ローマ教皇)|ルキウス3世]](1181-1185)
:彼は[[オスティア]](Ostia)の司教枢機卿だった。ルキウスは Lux に通じる。
11.篩の中の豚 ''Sus in cribro''- [[ウルバヌス3世 (ローマ教皇)|ウルバヌス3世]](1185-1187)
:彼の姓クリヴェッリ(Crivelli)は篩を意味し、家紋は豚だった。
12.ラウレンティウスの剣 ''Ensis Laurentii''-  [[グレゴリウス8世 (ローマ教皇)|グレゴリウス8世]](1187)
:彼は[[サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ]]([[w:San Lorenzo in Lucina]])の枢機卿で、紋章は剣だった。
13.かの者は学舎から出るだろう ''De Schola exiet''- [[クレメンス3世 (ローマ教皇)|クレメンス3世]](1187-1191)
:彼はスコラリ(Scolari)家の出身だった。
14.牛の里より ''De rure bovensi''-  [[ケレスティヌス3世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス3世]](1191-1198)
:彼はボボネ(Bobone)家の出身だった。
15.徴を付けられた伯爵 ''Comes Signatus''- [[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]](1198-1216)
:彼はセニ(Segni) 伯爵家の出身だった。
16. ラテラノの[[司教座聖堂]]参事会員 ''Canonicus de latere''- [[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]](1216-1227)
:彼は[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]の参事会員だった。
17. オスティアの鳥 ''Avis Ostiensis''- [[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]](1227-1241)
:彼はオスティアの枢機卿で、紋章は鷲だった。
18.[[サビーナ]]の獅子 Leo Sabinus- [[ケレスティヌス4世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス4世]](1241)
:彼はサビーナ([[w:Sabina]])の司教枢機卿で、紋章には獅子が用いられていた。
19. ラウレンティウス伯爵 ''Comes Laurentius''-[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]](1243-1254)
:彼は伯爵家の出身で、サン・ロレンツォ・イン・ルチーナの[[司祭枢機卿]]だった。
20. オスティアの徴 ''Signum Ostiense''- [[アレクサンデル4世 (ローマ教皇)|アレクサンデル4世]](1254-1261)
:彼はコンティ=セニ(Conti-Segni)家の出身で、オスティアの枢機卿だった。
21.カンパーニアのエルサレム Hierusalem Campanie- [[ウルバヌス4世 (ローマ教皇)|ウルバヌス4世]](1261-1264)
:彼は[[シャンパーニュ]]地方(古称はカンパーニア)の出身で、[[エルサレム]]の[[総大司教]]となった。
22.打ち倒された竜 ''Draco depressus''- [[クレメンス4世 (ローマ教皇)|クレメンス4世]](1265-1268)
:家紋は竜を仕留めている鷲だった。
23.蛇の如き者 ''Anguinus vir''- [[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]](1271-1276)
:家紋には小児を飲み込む蛇が描かれていた。
24.ガリアの説教者 ''Concionatur Gallus''- [[インノケンティウス5世 (ローマ教皇)|インノケンティウス5世]](1276)
:彼はフランス(古称はガリア)南東部の出身で、[[説教者修道会]]士だった。
25.良き伯爵 ''Bonus Comes''- [[ハドリアヌス5世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス5世]](1276)
:彼は伯爵家の出身で、名はオットーボノ(Otto<span style="text-decoration:underline;">bono</span>)だった。
26.トゥスクルムの漁師 ''Piscator Tuscus''- [[ヨハネス21世 (ローマ教皇)|ヨハネス21世]](1276-1277)
:彼はトゥスクルムの司祭枢機卿だった。名はペドロで、漁師だった[[ペトロ|シモン・ペトロ]]に通じる。
27.組み合わされた薔薇 ''Rosa composita''- [[ニコラウス3世 (ローマ教皇)|ニコラウス3世]](1277-1280)
:家紋は薔薇で、彼のあだ名はコンポジトゥス(Compositus)だった。
28.百合のマルティヌスの収税局 ''Ex teloneo liliacei Martini''- [[マルティヌス4世 (ローマ教皇)|マルティヌス4世]](1281-1285)
:彼の紋章は百合で、[[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]のサン・マルタン(St. Martin)司教座聖堂の参事会員で出納係だった。
29.獅子の薔薇より ''Ex rosa leonina''- [[ホノリウス4世 (ローマ教皇)|ホノリウス4世]](1285-1287)
:彼の紋章は薔薇を囲む2頭の獅子だった。
30.飼葉の中の啄木鳥 ''Picus inter escas''- [[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]](1288-1292)
:彼は[[アスコリ・ピチェーノ]](Ascoli Piceno, Asculum Picenum)近くのリシャーノ(Lisciano)出身だったが、かつてはしばしばアスコリ・ピチェーノの出身とされた。
31.隠者から昇格した者 ''Ex eremo celsus''- [[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]](1294)
:彼は教皇選出前に隠遁生活を送っていた。
32.波の祝福から ''Ex undarum benedictione''- [[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]](1294-1303)
:彼の紋章は波模様で、姓はベネデット(Benedetto, 祝福された者の意)だった。
33.パタラの説教者 ''Concionator patereus''- [[ベネディクトゥス11世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス11世]](1303-1304)
:彼は説教者修道会士だった。名はニッコロ(Niccolo)で、[[パタラ]]出身の[[ミラのニコラオス|聖ニコラウス]]に通じる。
34.アクイタニアの帯線によって ''De fessis aquitanicis''- [[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]](1305-1314)
:彼は[[アキテーヌ]](古称はアクイタニア)の出身で、紋章は3本の帯線だった。
35.骨ばった靴職人 ''De sutore osseo''- [[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]](1316-1334)
:彼の姓デュエーズ(Duèze)ないしドゥーズ(D’Euse)はラテン語の ossa に由来し、父は靴職人だった。
36.分裂的なカラス ''Corvus schismaticus''-対立教皇[[ニコラウス5世 (対立教皇)|ニコラウス5世]](1328-1330)
:彼は[[コルヴァーロ]](Corvaro)の出身で、この時期の対立教皇は彼だけだった。
37.冷たい神父 ''Frigidus Abbas''- [[ベネディクトゥス12世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス12世]](1334-1342)
:彼は[[フォンフロワ]](Fontfroid, 冷たい泉、の意)の修道院に所属していた。
38. アトレバテンシスの薔薇から ''De rosa Attrebatensi''- [[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]](1342-1352)
:彼は[[アラス]](古称はエピスコプス・アトレバテンシス)の司教で、紋章は6つの薔薇だった。
39.パンマキウスの山々から ''De montibus Pammachii'' - [[インノケンティウス6世 (ローマ教皇)|インノケンティウス6世]](1352-1362)
:彼はパンマキウスのタイトルをもつ司祭枢機卿で、紋章は6つの山々だった。
40.ガリアの[[子爵]] ''Gallus Vicecomes'' - [[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]](1362-1370)
:彼はフランス(古称はガリア)の子爵家の出身だった。
41.強き処女からの新参 ''Novus de virgine forti'' - [[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]](1370-1378)
:彼は[[サンタ・マリーア・ヌオーヴァ]](Santa Maria Nuova, 新しい聖マリアの意)の枢機卿で、姓はボフォール(Beau<span style="text-decoration:underline;">fort</span>, 強き美しさの意)だった。
42.使徒の十字架によって ''De cruce Apostilica''- 対立教皇[[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]](1378-1394)
:彼は[[12使徒]]のタイトルをもつ枢機卿で、紋章は十字架にみえるデザインだった。
43.コスメディンの月 ''Luna Cosmedina''- 対立教皇[[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトゥス13世]](1394-1417)
:彼の紋章は月であり、[[サンタ・マリーア・イン・コスメディン]]([[w:Santa Maria in Cosmedin]])のタイトルをもつ枢機卿だった。
44.バルキノの分裂 ''Schisma Barcinonium'' - 対立教皇[[クレメンス8世 (対立教皇)|クレメンス8世]](1423-1429)
:彼は、[[バルセロナ]](古称はバルキノ)の司教座聖堂参事会員だった人物で、[[教会大分裂]]終息後の最初の対立教皇である。
45.出産の地獄によって ''De inferno praegnanti''- [[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]](1378-1389)
:彼の姓はプリニャノ(Prignano)で、[[ナポリ]]場末のインフェルノ(Inferno)と呼ばれる場所の出身だった。
46.混成の立方体 ''Cubus de mixtione''- [[ボニファティウス9世 (ローマ教皇)|ボニファティウス9世]](1389-1404)
:彼の紋章は斜めに格子縞の帯が横切るものだった。
47.より良き星によって ''De meliore sydere'' - [[インノケンティウス7世 (ローマ教皇)|インノケンティウス7世]](1404-1406)
:彼の姓はミリョラーティ(Migliorati)で、紋章は流星だった。
48.黒き橋からの船乗り ''Nauta de Ponte nigro''- [[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]](1406-1415)
:彼は船乗りとも縁の深い水の都[[ヴェネツィア]]の出身で、同市の司祭や[[コンスタンティノポリ総主教庁#ローマ・カトリックにおける「コンスタンティノポリス総大司教」|コンスタンティノポリス総大司教]]をつとめた他、[[ネグロポント]]([[w:Negropont]])の教会から司祭禄を受け取る立場(Commendatarius) <!-- 修道院外聖職者大修道院長? -->にあった。
49.太陽の鞭 ''Flagellum solis'' - 対立教皇[[アレクサンデル5世 (対立教皇)|アレクサンデル5世]](1409-1410)
:彼の紋章は太陽だったが、そのデザインは、中央の円から鞭のように曲がりくねった光線が八方に伸びているものだった。
50.[[セイレーン]]の鹿 ''Cervus Sirenae''- 対立教皇[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]](1410-1415)
:彼はセイレーンを市紋とするナポリの出身で、自身の紋章は鹿だった。
51.金のベールが付いた冠 ''Corona veli aurei''- [[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]](1417-1431)
:彼の紋章は円柱の上に載った金の冠だった。
:17世紀の版では「金のベールが付いた円柱''Columna veli aurei''」となっているものもある。その場合も解釈は基本的に同じであるが、[[コロンナ家]](円柱の意)の出身であることが付記されることがある。
52.神々しい雌狼 ''Lupa coelestina''- [[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]](1431-1447)
:彼は[[セレスティン会]]([[w:Celestines]])の修道士で、市紋に雌狼を用いている[[シエーナ]]の司教だった。
53.十字架の恋人 ''Amator Cruces''- 対立教皇[[フェリクス5世 (対立教皇)|フェリクス5世]](1439-1449)
:彼の名アメデーオ(Amedeo)は「神を愛する者」の意で、紋章は十字架だった。
54.月の節度によって ''De modicitate Lunae''- [[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]](1447-1455)
:彼は[[ルーニ]]([[:It:Luni]], 語源は月)大司教管区[[サルツァーナ]]([[w:Sarzana]]) の慎み深い両親のもとで生まれた。
55.草を食べる牛 ''Bos pascens'' - [[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]](1455-1458)
:彼の紋章は草を食べる牛だった。
56.山羊と宿屋によって ''De Capra et Albergo'' - [[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]](1458-1464)
:彼はカプラニカ(Capranica)枢機卿とアルベルガト(Albergato)枢機卿の秘書だった。
57.鹿と獅子によって ''De Cervo et Leone'' - [[パウルス2世 (ローマ教皇)|パウルス2世]](1464-1471)
:彼は[[チェルヴィア]](Cervia)の司教だったことがあり、[[マルコ (福音記者)|聖マルコ]](獅子に対応)のタイトルをもつ枢機卿だった。
58.より小さき漁師 ''Piscator minorita''– [[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]](1471-1484)
:彼は漁師の息子で、[[フランシスコ会|小さき兄弟会]](Ordo Fratrum Minorum)の修道士だった。
59. [[シチリア]]からの先駆者 ''Praecursor Siciliae''- [[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]](1484-1492)
:彼はシチリア王宮で過ごしたことがあった。名のジョヴァンニ・バッティスタ(Giovanni Battista)は、[[イエス・キリスト]]の先駆者[[洗礼者ヨハネ|バプテスマのヨハネ]]に由来する。
60.門のアルバヌスの牛 ''Bos Albanus in portu''- [[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]](1492-1503)
:彼は[[アルバーノ]](Albano)と[[ポルト]](Porto)の司教枢機卿で、紋章は牛だった。
61.小さき人から ''De parvo homine''- [[ピウス3世 (ローマ教皇)|ピウス3世]](1503)
:彼の姓ピッコリミニ(Piccolimini)は piccoli uomini(小さき人)に近い。
62.[[ユピテル]]の実が助けるだろう ''Fructus Jovis juvabit'' -[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]](1503-1513)
:彼の紋章はユピテルの象徴である樫だった。
63.ポリティアヌスの焼き網 ''De craticula Politiana''- [[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]](1513-1521)
:彼は[[アンジェロ・ポリツィアーノ]]の門下生だった。また、父の名[[ロレンツォ・デ・メディチ|ロレンツォ]](Lorenzo)は焼き網の拷問で殉教した聖[[ラウレンティウス]](Laurentius)に対応する。
64.フロレンティウスの獅子 ''Leo Florentius'' - [[ハドリアヌス6世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス6世]](1522-1523)
:彼の紋章は獅子だった。また、父の名がフロレンス(Florens)であったとされる。
65.丸薬の花 ''Flos pilei aegri'' -[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]](1523-1534)
:彼の紋章には6つの丸薬と3つの百合が用いられていた。
66.医師たちの間の[[ヒュアキントス]] ''Hiacynthus medicorum''- [[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]](1534-1549)
:彼の紋章は百合だった([[ヒヤシンス]]は[[ユリ科]]である)。また、彼は[[メディチ家]](Medici)出身の2人の教皇レオ10世、クレメンス7世との結びつきが強かった。
67.山の冠によって ''De corona montana''-[[ユリウス3世 (ローマ教皇)|ユリウス3世]](1550-1555)
:彼の紋章は山と、冠状の環になった[[棕櫚]]の葉だった。
68. 取るに足らない小麦 ''Frumentum flocidum''- [[マルケルス2世 (ローマ教皇)|マルケルス2世]](1555)
:彼の紋章は鹿と小麦であり、その在位期間はわずか21日で教皇としての事績は取るに足らないものだった。
69.ペトロの信仰によって ''De fide Petri''- [[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]](1555-1559)
:彼のフルネームは、ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファ(Giovanni Pietro Carafa)で、ピエトロは[[ペトロ]]に通じる。また、カラファの最後の音節ファを信仰を意味するフェ(西語fe)やフォワ(仏語foi)と結びつける者もいる。
70.[[アスクレーピオス|アスクレピオス]]の薬 ''Esculapii pharmacum''- [[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]](1559-1565)
:彼はメディチ家(メディチは「薬」に由来する)出身だった。
71.林の中の天使 ''Angelus nemorosus''- [[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]](1566-1572)
:彼は[[ボスコ・マレンゴ]](ボスコBoscoは林の意)の出身で、ミドルネームのミケレ(Michele)は大天使[[ミカエル]]にちなむ。
72.丸薬の中心の物体 ''Medium corpus pilarum''-[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]](1572-1585)
:彼は丸薬を紋章とするピウス4世によって枢機卿に任命された人物であり、彼自身の紋章は中心に竜が配されたものであった。
73.徴の中央の心棒 ''Axis in medietate signi''- [[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]](1585-1590)
:彼の紋章は大きく描かれた獅子の中央を斜めに帯線が横切るものだった。
74.天の露によって ''De rore coeli''- [[ウルバヌス7世 (ローマ教皇)|ウルバヌス7世]](1590)
:彼は[[ロッサーノ]](Rossano)の大司教だった。そこの樹液は[[マナ (食物)|マナ]]もしくは「天国の露」と称された。他に、''Ros''sano はRos(露の意)を含んでおり、彼の父親の名がコスモ(Cosmo, 天、宇宙の意)だったことと結び付ける者もいる。


こうした偽書説に対し、19世紀後半になると{{仮リンク|パレ=ル=モニアル|fr|Paray-le-Monial}}の病院附司祭で[[オータン]]の名誉参事会員だったフランソワ・キュシュラ (François Cucherat) が、マラキの予言は真作であるという立場から擁護論を展開し、マラキは苦境にあった[[インノケンティウス2世 (ローマ教皇)|インノケンティウス2世]]を励ますために予言を献上したが、それ以降バチカンで秘匿され続けたために、同時代やそれ以降の証言が一切ないのだとした<ref name = CE /><ref>O’Brien (1880) p.101</ref>。この擁護論は後に[[カトリック百科事典]]の「予言」の項でも引き合いに出されることになるが<ref name = CE />、それに対しては、[[アルスター]]のカトリック司祭<ref>Halbronn (2005) p.78</ref>であったM. J. オブライエンが『いわゆる聖マラキの予言に関する歴史的・批判的報告』(1880年)の中で反論し、キュシュラが主張した話の信憑性に疑問を呈するとともに<ref>O’Brien (1880) p.101</ref>、ひとつひとつの標語について信奉者側の解釈を紹介しつつ、懐疑的な検証も行なった。
=== 『生命の木』では予言のみが示されていた残りの37人分と最後の散文 ===
厳密に言えば『生命の木』では75 - 77番は対応する教皇名だけは書かれている。以下の解説は、信奉者たちの解釈の一例である。紋章などと結びつけられない場合、解釈は多様化する傾向があり、統一的な見解の存在しないものも少なくないし、かなり抽象的な解釈しか与えられていないものもある。逆に定説化した解釈であっても、事実関係の捏造によって当たったことにされている場合もある。懐疑派はそれらの解釈は単なるこじつけとしか見ていない。'''ウィキペディアとして、このような予言や解釈を支持するものではないことを念のため強調しておく。'''


その後も神学博士・哲学博士のカトリック神父ジョゼフ・メートルが、1901年から1902年にかけて2冊の大著をものして擁護論を展開するなどしたが<ref>上智大学 (1954) p.883</ref>、少なくとも従来の百科事典や人名事典、キリスト教やカトリックに関する専門事典などでは、16世紀に捏造された偽書として扱われるのが普通である<ref>''Grand dictionnaire universel du XIX<sup>e</sup> siècle'', Larousse, T.10, 1873, p.991 ; Michaud, ''Biographie universelle ancienne et moderne'', T.26, s.d.[18...], p.198 ; F. Hoefer, ''Nouvelle Biographie générale depuis les temps les plus reculés jusqu’à nos jour'', T.32, 1860, col.1000 ; [[上智大学]] 編 (1954) 『カトリック大辭典IV』 冨山房、pp.882-883 ; [[小林珍雄]] (1960) 『キリスト教百科事典』 エンデルレ書店、p.1634 ; 日本基督教協議会文書事業部キリスト教大事典編集委員会 (1968) 『キリスト教大事典』改訂新版 [[教文館]]、p.1021 ; 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会 (2009) 『新カトリック大事典 第4巻』 [[研究社]]、 p.880</ref><ref group = "注釈">若干立場が異なるものとして、[[カトリック百科事典]](1913年)、ジンマーマン監修『現代カトリック事典』(1982年)がある。前者はキュシュラの擁護論を引き合いに出しつつ、真偽については断定せずに解釈例を紹介している。後者は一般に偽書とされることを認める一方、近代の予言も事実によく適合しているとしている。ほかにエンサイクロぺディストなどによる個人編纂の事典と銘打っている文献では、ドナルド・アットウォーター、キャサリン・レイチェル・ジョン (1998) 『聖人事典』([[山岡健]]訳、[[三交社]])やマシュー・バンソン (2000) 『ローマ教皇事典』が偽書と扱い、マルコム・デイ (2006) 『図説キリスト教聖人文化事典』が両論併記としている。</ref>。[[フランシスコ会]]聖アントニオ神学院教授、同校長などを歴任したカトリック神父のセラフィノ・フィナテリも、19世紀ドイツの神学者[[アドルフ・フォン・ハルナック]]の見解を引き合いに出しつつ、偽書と断じた<ref>フィナテリ (1982) pp.68-69</ref>。また、[[オックスフォード大学]]のセント・アンズ・カレッジ副学寮長だった宗教史家の[[マージョリ・リーヴス]]や、予言テクストの史的分析によって[[パリ大学|パリ第10大学]]で[[博士号]]を取得した{{仮リンク|ジャック・アルブロン|fr|Jacques Halbronn}}といった歴史学者たちも、その偽作された背景に関する分析などを展開した<ref>Reeves (1971), Halbronn (2005) </ref>。フランスの超領域学術研究国際センター研究員で宗教心性史などが専攻の{{仮リンク|ジョルジュ・ミノワ|fr|Georges Minois}}も、やはり偽作という立場で言及している<ref>ミノワ (2000) p.319. 肩書きは邦訳書刊行当時。</ref>。ほかに{{仮リンク|サクラメント・シティ・カレッジ|en|Sacramento City College}}[[名誉教授]]の哲学者[[ロバート・キャロル]]は、[[疑似科学]]方面への懐疑的項目を多く収録した著書『[[Skeptic's Dictionary|懐疑論者の事典]]』の「マラキ・ウア・モルガイル大司教」の項目において、偽書かどうかは断じていないが、信奉者的な立場から解釈する行為を「靴べら的行為」<ref group = "注釈">キャロルの著書では類義語として「あてはめ」「我田引水」「牽強付会」「こじつけ」が挙げられている(キャロル (2008) 上、pp.232-233)。</ref>のひとつと位置づけている<ref>キャロル (2008) 下、pp.294-295</ref>。
75. 町の古さによって ''De antiquitate Urbis''- [[グレゴリウス14世 (ローマ教皇)|グレゴリウス14世]](1590-1591)
:彼は古都ミラノの大司教だった。
:上述の通り、偽作説では、オルヴィエートを想定していたと見る。
76.戦時の篤信の都 ''Pia civitas in bello''- [[インノケンティウス9世 (ローマ教皇)|インノケンティウス9世]](1591)
:彼はエルサレムの名誉総大司教だった。ほか、この時期に旧教同盟がアンリ4世に強く抵抗していたパリを予言していたとする解釈もある。
:偽作説の中には、これもオルヴィエートと解釈できる(つまり、シモンチェッリが選出される機会を2度設定していた)とする指摘がある。ただし、結局シモンチェッリは教皇に選ばれることはなかった。
77.[[ロムルス]]の十字架 ''Crux Romulea''-[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]](1592-1605)
:彼の紋章のデザインは、一本の直線に何本もの直線が直交するものであり、あたかも多重のローマ十字架(教皇十字架)であるかのように見えた。
78.波打つ人 ''Undosus vir''-[[レオ11世 (ローマ教皇)|レオ11世]](1605)
:彼の在位期間はわずか26日であり、教皇としては、寄せては消える波のような儚い存在だった。
79.邪悪な種族 ''Gens perversa''- [[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]](1605-1621)
:彼の紋章は鷲と竜であり、これは[[紋章学]]では邪悪な種族と呼ばれるという。
80.平和の煩悶の中で ''In tribulatione pacis''-[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]](1621-1623)
:彼は平和主義者として知られたが、それゆえ[[ヴァルテッリーナ]]([[w:Valtellina]], 当時[[プロテスタント]]の牙城と化していた)の扱いに苦悩した。
81.百合と薔薇 ''Lilium et rosa''- [[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]](1623-1644)
:彼の在位期間は[[三十年戦争]]の最中に当たっており、フランス(百合)とイギリス(薔薇)の動向が注視された時期であった。他に、彼は百合を市紋とする[[フィレンツェ]]の出身で、百合や薔薇とも縁の深い蜜蜂を紋章としていた、と解釈する者もいる。
82.十字架の法悦 ''Jucunditas crucis''- [[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]](1644-1655)
:彼は聖[[十字架挙栄祭]]の祝日(9月14日)に教皇に選ばれた。
83.山々の守護者 ''Montium custos''- [[アレクサンデル7世 (ローマ教皇)|アレクサンデル7世]](1655-1667)
:彼の家紋は星を戴く3連の小山だった。
84.白鳥たちの星 ''Sydus Olorum''- [[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]](1667-1669)
:彼は教皇選出時にバチカンの「白鳥の間」の管理者だった。また、彼はステッラータ川(Stellata, 星の意)流域で生まれたとする者もいるが、そのような川が実在するかも含め定かではない。
85.大きな川より ''De flumine magno''- [[クレメンス10世 (ローマ教皇)|クレメンス10世]](1670-1676)
:彼は[[ローマ]]の生まれであり、同市にはテヴェレ川が流れている。
86.貪婪な獣 ''Bellua insatiabilis''- [[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]](1676-1689)
:彼の紋章は鷲と獅子だった。「貪婪な獣」(単数)は、このいずれかを指しているとされる。
87.栄光の悔悛 ''Poenitentia gloriosa''- [[アレクサンデル8世 (ローマ教皇)|アレクサンデル8世]](1689-1691)
:彼は[[ケルンのブルーノ|聖ブルーノ]]の祝日(10月6日。聖ブルーノは清貧と祈禱を重視する[[カルトジオ会]]を設立した)に教皇に選ばれた。この教皇は在位期間中に「栄光の悔悛 ''Poenitentia gloriosa''」と刻んだコインを発行したとされる。
:ちなみに、この教皇が選ばれた時期には、メネストリエが偽作説を提示したことで論争になっていた(当然、メネストリエは「栄光の悔悛」の解釈も特定性に乏しい曲解と批判している)。
88.門の熊手 ''Rastrum in porta''- [[インノケンティウス12世 (ローマ教皇)|インノケンティウス12世]](1691-1700)
:彼はナポリ城門近くに邸宅のあったピニャテッリ家の出身で、この一族はピニャテッリ・デル・ラステッロ(Pignatelli del Rastello, ラステッロは熊手の意)と呼ばれることがあった、と解釈される。しかし、ラステッロなどという通称は史料的に裏付けられないとする批判は、懐疑派は勿論、一部信奉者からさえも提示されている。
89.花々に囲まれた者 ''Flores circundati''- [[クレメンス11世 (ローマ教皇)|クレメンス11世]](1700-1721)
:出身地[[ウルビーノ]]の市紋が花飾りと解釈される。しかし、事実ではない。
90.良き宗教によって ''De bona religione''- [[インノケンティウス13世 (ローマ教皇)|インノケンティウス13世]](1721-1724)
:彼は何人もの教皇を輩出したコンティ家の出身だった。
91. 戦争中の軍人 ''Miles in bello''- [[ベネディクトゥス13世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス13世]](1724-1730)
:彼は[[ジャンセニズム]]に強い対決姿勢を示した教皇の一人だった(ただし、彼が対ジャンセニズム問題で特にめざましい業績を挙げたということはない)。
92.高い円柱 ''Columna excelsa''- [[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]](1730-1740)
:彼はフラスカーティの司教枢機卿だった。この都市のすぐ近くには[[コロンナ (イタリア)|コロンナ]](円柱の意)という町がある。
93.田園の動物 ''Animal rurale''- [[ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス14世]](1740-1758)
:ほぼ同時代の神学者[[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ]](Bossuet は、ラテン語の「鋤に慣れた牛 ''Bos suetus aratro''」との言葉遊びになる)と関連付けて解釈されることがある(ただし、ボシュエはこの教皇の登位前に既に没している。また、ベネディクトゥス14世の生涯との関連も今ひとつ明瞭ではないし、この教皇が[[ガリカニスム]]問題に特別熱心だったということもない)。ほか、「田舎の動物」は[[フリーメイソンリー]]や[[フランス革命]]の隠喩だとする解釈もあるようだが、何故そう言えるのかという根拠が判然としない。
94.ウンブリアの薔薇 ''Rosa Umbriae''- [[クレメンス13世 (ローマ教皇)|クレメンス13世]](1758-1769)
:彼はウンブリア地方[[リエーティ]] (現在の[[ウンブリア州]]には含まれていない)の総督だったが、彼自身やリエーティの紋章が薔薇だったというのは事実ではない(単にリエーティは香しい薔薇で有名な場所だ、と解釈されることもある)。
95.早い熊 ''Ursus velox''- [[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]](1769-1774)
:家紋が走る熊と言われるが、事実ではない。17世紀の版では「鋭い視線''Visus velox''」となっているものもあるので、そちらで解釈しようとする者もいる。
:偽作説では、熊(Ursus)は[[オルシーニ家]](Orsini)と結びつきのある人物の選出を想定した予言が外れただけ、との見解もある。
96.使徒の如き巡礼者 ''Peregrinus Apostolicus''- [[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]](1775-1799)
:彼はフランス革命の影響で、最期の2年を転々と過ごすことになった。
97.強欲な鷲 ''Aquila rapax''- [[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]](1800-1823)
:鷲を紋章とする[[ナポレオン・ボナパルト]]との確執が知られている。
98.犬と蛇 ''Canis et coluber''- [[レオ12世 (ローマ教皇)|レオ12世]](1823-1829)
:彼は[[カルボナリ]]やフリーメイソンリーに強い対決姿勢を示した。犬と蛇はそれらの秘密結社の隠喩とされる。
:17世紀の版では「パンと蛇''Panis et coluber''」となっているものもあるが、信奉者たちからは無視されている。
99.篤信の人 ''Vir religiosus''-[[ピウス8世 (ローマ教皇)|ピウス8世]](1829-1830)
:彼の在位期間は短いものであり、[[回勅]]は一度出されたに過ぎないが、そこでは宗教への無関心の姿勢などを強く批判していた。
100.[[エトルリア]]の浴場から ''De balneis Ethruriae''- [[グレゴリウス16世 (ローマ教皇)|グレゴリウス16世]](1831-1846)
:彼は[[バルネオ]](Balneo, 浴場の意)で設立された[[カマルドリ会]]([[w:Camaldolese]])の修道士だった、と解釈されることが多いが、そもそもカマルドリ会の起源はバルネオと無関係であるという。
101.十字架の十字架 ''Crux de cruce''- [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]](1846-1878)
:彼の紋章は十字架であり、また、十字架を紋章とする[[サヴォイア家]]が深く関わった[[リソルジメント]]に翻弄された。
102.空中の光 ''Lumen in coelo''- [[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]](1878-1903)
:彼の紋章は青地に流星だった。
103.燃えさかる火 ''Ignis ardens''- [[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]](1903-1914)
:彼の在位期間最後の月に[[第一次世界大戦]]が勃発した。ほか、1908年の[[ツングースカ大爆発]]と結びつける者もいる。
104.人口が減らされた宗教 ''Religio depopulata''- [[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]](1914-1922)
:彼の在位期間は、第一次世界大戦、[[スペインかぜ]]の流行、[[ロシア革命]]と、キリスト教人口の大幅な減少につながる大事件に次々と見舞われた。
105.大胆な信仰 ''Fides intrepida''- [[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]](1922-1939)
:彼は[[ナチス]]や人種差別問題を敢然と批判した。また、[[ラテラノ条約]]により[[バチカン市国]]を確立した。
106.天使的な牧者 ''Pastor angelicus''- [[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]](1939-1958)
:彼自身がある種の幻視者とされるなど、神秘的な要素をもつ人物だったと解釈される。
107.牧者にして船乗り ''Pastor et nauta''- [[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]](1958-1963)
:彼は水の都ヴェネツィアの総大司教だった。
:真偽は不明だが、この教皇が選出された[[コンクラーヴェ]]の期間中、アメリカ人枢機卿スペルマンは、この予言を意識して、羊を載せた小舟を使ってテヴェレ川を往復したという(この出典はPeter Bander, ''The Prophecies of Malachy'', 1969のようである)。
:17世紀の版では「牧者と自然''Pastor et natura''」となっているものもあるが、信奉者たちからは無視されている。
108.花の中の花 ''Flos florum''- [[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]](1963-1978)
:彼の紋章は「花の中の花」とも言われる[[ユリ|百合]]だった。
109.月の半分によって ''De medietate lunae''- [[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]](1978)
:彼は半月の日に生まれた。また、教皇就任の日に[[下弦の月]]だったことなどと結びつけられることもある。
110.太陽の働き(作用)によって ''De labore solis''- [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]](1978-2005)
:彼は1920年5月18日[http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10553/saros/saros20C.html][[インド洋]]上で部分[[日食]]が観測された日に生まれ、2005年4月2日に84歳で他界した。2005年4月8日[http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10553/saros/saros21C.html]に南太平洋から中南米にかけて、珍しい「金環皆既日食」が起こった。また彼は[[地動説]]を提唱した[[コペルニクス]]が学び、その学説の基盤を作った[[ポーランド]]の[[クラクフ]]近郊の産まれである。
111.オリーブの栄光 ''Gloria olivae''- [[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]](2005-2013)
:彼が襲名したベネディクトは[[ヌルシアのベネディクトゥス|聖ベネディクトゥス]]と結びつきが深い(ベネディクトゥスはオリーブの枝をシンボルとする[[ベネディクト会]]の設立者である)。


偽作説が有力視されるようになってからも、通俗的な信奉者たちは予言解釈を積み重ね、それぞれの標語が教皇自身や歴史的事件を的中させていると主張してきた。そして、[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]](就任順から110番目の標語に対応する)が在位している頃までは、在位年数の平均などを元に、マラキの最後の予言(ローマ教会または世界の破滅)が[[1999年]]頃に実現すると考える者たちもいた。その結果、[[ノストラダムス]]予言にある1999年の[[恐怖の大王]]による破局と重ねて解釈されることもしばしばであった<ref>ex. Forman (1940) p.155, ブルトン (1982) p.98、桐生 (1996) p.37、[[三十利雅]] (1987) 『大予言III』[[廣済堂出版]]、pp.48-51</ref>。ヨハネ・パウロ2世の在位期間は長期にわたったが、112番目を1999年と重ねて解釈する論者にとっては、彼が早く退位しないと都合が悪い。そこで、1990年代の予言信奉者たちには、ノストラダムス予言などの解釈結果として、ヨハネ・パウロ2世が1999年以前に暗殺されて、次の教皇が即位するなどと主張する者も少なからず見られた<ref>「ノストラコラム ヨハネ・パウロ二世はなぜ殺される?」([[山本弘 (作家)|山本弘]] [1998](1999) 『トンデモノストラダムス本の世界』[[宝島社]]〈[[宝島社文庫]]〉、pp.435-436)</ref>。1999年が何事もなく過ぎると、今度は[[2012年人類滅亡説]]が広まるに従い、その種の予言解釈本やオカルト雑誌『[[ムー (雑誌)|ムー]]』の増刊などでは、マラキの予言が示す最後の時期も近く訪れるという形で紹介されることもしばしばであった<ref>『2012年地球崩壊の驚愕大予言』(歴史予言検証会編著、[[日本文芸社]]、2008年)pp.176-177、『2012年地球滅亡スペシャル』(学研パブリッシング、2009年)p.34、『絶望の大予言ミステリー - 人類滅亡まであと1年!』([[南山宏]]監修、[[双葉社]]、2011年)pp.56-62、『2012年マヤ予言の謎』([[並木伸一郎]]著、[[学研パブリッシング]]、2012年)pp.174-175、『2012年大予言』(学研パブリッシング、2012年)pp.44-45 etc.</ref>。
(112?.)


[[ファイル:Roma_San_Paolo_fuori_le_mura_BW_1.JPG|thumb|歴代教皇の肖像画が掲げられているサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]
ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろう ''In p’secutione. extrema S.R.E. sedebit.''
なお、信奉者のダニエル・レジュは、ローマの[[サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]](19世紀に焼失したのち再建)の歴代教皇の肖像画を掲げるスペースが、[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]の時点で、彼のほかにあと1人分しか空いていないとして、大聖堂を再建した時点での教皇庁が聖マラキの予言を信じていた証拠だと主張していた<ref>レジュ (1982) pp.40-41</ref>。日本の関連文献にはこれをそのまま紹介しているものもあったが<ref>高平ほか (1998) p.98</ref>、懐疑主義者団体[[ASIOS]]の[[原田実]]は逆に、[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]の時点でさえもまだ何代分もの空白があり、聖マラキの予言が教皇庁では気にかけられていない証拠ではないかと主張している<ref>原田実 (2012) 『オカルト「超」入門』[[星海社]]〈星海社新書〉、pp.206-207</ref>。


現在の偽作説では、どのような方法で偽作されたのかについても仮説が提示されている。まず、予言の標語(最後の散文を除く)が111あるのは、1590年の段階で過去に当たっていた74人分に、その半分(37人分)を付け加えただけに過ぎない<ref>Halbronn (2005) pp.93-94</ref>。単純に計算した場合、(1143年から1590年向けの半分であるので)19世紀初め頃までの予言しか想定していなかったことになるが、これは終末がそう遠くないと考えられていた16世紀当時の予言的言説と整合的である<ref>山津 (2012) pp.215-216</ref>。
ローマびと[[ペトロ]] 、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。そして、7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。終わり。''Petrus Romanus, qui pascet oues in multis tribulationibus: quibus transactis ciuitas septicollis diruetur, et Iudex tremendus judicabit populum suum. Finis.''
:[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]の次の教皇は[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]](2013 - )である<!--だが、イタリア移民の家庭出身であり<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20130317-OYT1T00694.htm 「イタリア系移民出身の新法王、地元と「絆」強調」読売新聞、2013年3月17日]</ref>、彼が教皇名にあやかった[[アッシジのフランチェスコ|聖人フランシスコ]]の本名は、'''Francesco di Pietro di Bernardone'''('''Giovanni di Pietro di Bernardone''')でありペトロの名が含まれている-->。
:この散文は、『生命の木』やルスカの版では2段落に分かれていた(上記の訳はその区切り方に従った)。これを一段落にまとめたのは、1624年のメシンガムの版が最初であり、以降その読み方が、主として信奉者の間では踏襲されている<ref>Halbronn [2005] p.61</ref>(かつては、信奉者の中には「オリーブの栄光」の後に「極限の迫害の中で」と「ローマびとペトロ」に対応する2人の教皇が控えていると解する者もいたようである){{要出典|date=2013年3月}}。
:これを112番目と見なすことには異説がある。オリジナル(信奉者にとっては聖マラキの手稿、偽作説にとっては1590年の手稿)には含まれていなかったのではないかという疑問や、チャコンが勝手に付け加えた注釈にすぎないという見解が提示されている<ref>Halbronn [2005] pp.61, 179</ref>。
:ちなみに前半については、(一般にp’secutione.が「迫害 persecutione」の略と見なされており、直後のピリオドは無視されているのに対し、prosecutioneの略と見た上でピリオドも活かし)「(予言はここで)区切り。ローマ聖教会は終末までその地位にあるだろう」と意訳する者もいる。この読み方の場合、112番目の予言で終末が来るとは解釈できず、「俺たちの戦いはこれからだ」式の打ち切り漫画の最終回によく見られる文言に似ているという指摘もある<ref>山津 (2012) p.219</ref>{{要検証|date=2013年3月}}。


さらに、そうして作成された1590年の段階で未来に当たっていた予言句は、16世紀当時に知られていた[[聖書外典]]や予言書のテクストから安直に単語を拾い集めて捏造されている可能性がある。一例を挙げるなら、『天使的牧者』(106番)は、[[ヨハン・リヒテンベルガー]]の占筮第36章に出てくる[[天使教皇]]たち(終末に天から遣わされると考えられた中世の伝説的教皇で、「天使的牧者」とも呼ばれた)についての記述から借用されている可能性がある<ref name = Lichtenberger>Halbronn (2005) pp.116-117, 山津 (2012) pp.217-218</ref>。また、同章で言及されている、後を継ぐ3人の聖者のうち、「船乗りと呼ばれることになる」1人目は『牧者にして船乗り』(107番)の、「太陽が高揚の位置にある時に現れる」3人目は『太陽の労働によって』(110番)の、それぞれ基になった可能性があると指摘されている<ref name = Lichtenberger />。
== 懐疑論 ==
=== 配列の問題 ===
上記の予言では、一般的な[[ローマ教皇の一覧]]に比べて、順序の異なっている箇所が2箇所ある。まず、6番から8番の3人の対立教皇は、9番のアレクサンデル3世の選出に反対した3人の枢機卿が順に立ったものなので、アレクサンデル3世を先に置くのが一般的である。また、アレクサンデル3世に反対した4人目の対立教皇である[[インノケンティウス3世 (対立教皇)|インノケンティウス3世]]が抜けている。これは16世紀の年代記が出典の可能性が指摘されている<ref>Halbronn (2012) pp.50-51、山津 (2012) p.214</ref>。


== 予言一覧 ==
また、42番から51番はいわゆる教会大分裂期の教皇であるが、アヴィニョン選出の対立教皇(42-44番)を最優先するという明確な意図が読み取れる。ついでローマ選出の教皇(45-48番)、[[ピサ]]選出の対立教皇(49-50番)の順になっているが、この結果、クレメンス8世(44番)よりもマルティヌス5世(51番)の方が7つも後という、やや不自然な配列になっている(マルティヌス5世が選出された[[コンスタンツ公会議]]で、当時のアヴィニョン教皇であったベネディクトゥス13世は強制的に廃位とされた。その没後アヴィニョンで立ったのがクレメンス8世である)。偽作説ではこの予言にフランス人が関与していた可能性を示すものと受け止められている<ref>山津 (2012) pp.212-214</ref>。
以下に予言の一覧を掲げる。便宜的に現在一般的に通用している番号をつけたが、本来の予言には番号がいっさい付いていない。また、就任前の姓名については、原語での言葉遊びになっている事例が複数あることから、カナ表記に直していない。


=== 1番から74番 ===
さらに、予言句(最後の散文を除く)が111あるのは、1590年の段階で過去に当たっていた74人分に、その半分(37人分)を付け加えただけに過ぎない<ref>Halbronn (2005) pp.93-94</ref>。単純に計算した場合、(1143年から1590年向けの半分であるので)19世紀初め頃までの予言しか想定していなかったことになるが、これは終末がそう遠くないと考えられていた16世紀当時の予言的言説と整合的である<ref>山津 (2012) pp.215-216</ref>。
1590年の[[ウルバヌス7世 (ローマ教皇)|ウルバヌス7世]]に対応する74番までの標語には、初出である『生命の木』に収録された時点で、対応する教皇の名前と簡潔な解説がつけられていた<ref>Wion (1595), ''Lignum Vitae'', Venezia, pp.307-311. フォトコピーが Halbronn (2005) pp.19-23 に掲載。</ref>。以下では、標語、教皇名、解説を原典どおりに記載する。解説欄のかぎ括弧は、初出の解説の和訳である。解説は適宜、後代の解釈や批判を織り交ぜているものもある。


{| class="wikitable"
さらに、そうして作成された1590年の段階で未来に当たっていた予言句は、16世紀当時に知られていた[[聖書外典]]や予言書のテクストから安直に単語を拾い集めて捏造されている可能性がある。一例を挙げるなら、予言106番「天使的な牧者」は、[[ヨハン・リヒテンベルガー]]の占筮第36章に出てくる「天使的な牧者たち」から借用されている可能性がある(類似の予言は『[[ミラビリス・リベル]]』第8章などに引き継がれた。同種の予言は、[[フィオーレのヨアキム]]の予言や、「[[全ての教皇に関する預言]]」などにも存在する)。また、同章で言及されている、後を継ぐ3人の聖者のうち、「船乗りと呼ばれることになる」一人目は107番「牧者にして船乗り」の、「太陽が興(exaltation)の時に現れる」三人目は110番「太陽の労働によって」の、それぞれ基になった可能性がある<ref>山津 (2012) pp.217-218</ref>。
! style="text-align:center;" colspan="5"|当初から解説付きの予言(1143年 - 1590年)
|-
!番号 !!標語 !!教皇名(在位期間) <br />就任前の名 !!『生命の木』の解説!!紋章
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Ex caſtro Tiberis. || Cœleſtinus. ij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Typhernas.
|-
|1. || [[テヴェレ川|ティベリウス]]の城より||'''[[ケレスティヌス2世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス2世]]''' (1143–1144)<br />Guido de Castello||「ティフェルヌム出身者」。<br />ケレスティヌス2世の出身地である[[チッタ・ディ・カステッロ]]はテヴェレ川沿いにあり、かつてティフェルヌム=ティベリヌムといった<ref>O'Brien (1880) p. 28.</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Inimicus expulſus. || Lucius. ij. || colspan="2" style="text-align:left;"|De familia Caccianemica.
|-
|2. || 追い払われた敵 ||'''[[ルキウス2世 (ローマ教皇)|ルキウス2世]]''' (1144–1145) <br />Gherardo Caccianemici del Orso|| 「カッチャネミチ家から」。<br />イタリア語では “Cacciare” は「追い払う」、 “nemici” は「敵たち」を意味する<ref>O'Brien (1880) p. 28; Bander (1973) p. 19.</ref>。<!--なお、かつてはルキウス2世は確かにカッチャネミチ家の一員と見なされていたが、実のところどうだったのかが疑われている。さらに、仮に正しかったとしても、カッチャネミチ姓の貢献は時代錯誤的だ<ref>Dizionario Biografico degli Italiani 2007, "Lucio II, papa".</ref>--> ||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Ex magnitudine mõtis. || Eugenius. iij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Patria Ethruſcus oppido Montis magni.
|-
|3. || 山の大きさより ||'''[[エウゲニウス3世 (ローマ教皇)|エウゲニウス3世]]''' (1145–1153) <br />Bernardo dei Paganelli || 「モンテマグノの町からの[[エトルリア人]]」。<br />この教皇は[[ピサ]]近郊のモンテマニョ(Montemagno, 大きな山の意味)生まれとされていた<ref>O'Brien (1880) p. 29; Bander (1973) pp. 19-20.</ref>。しかし、現在はピサ出身とされている<ref>Dizionario Biografico degli Italiani 2007, "Eugenio III, papa".</ref><ref>Michael Horn, ''Studien zur Geschichte Papst Eugens III.(1145-1153)'', Peter Lang Verlag 1992, pp. 28-33.</ref><ref>バンソン (2000) p.99 および、P.G.マックスウェル-スチュアート (1999) 『ローマ教皇歴代誌』[[創元社]]、p.123</ref>。信奉者の中には、ピサ生まれという説を認識しつつも、ピサ司教区にモンテマニョが含まれているのだから、大した問題ではないと主張する者もいる<ref>Maître (1902) p.34</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Abbas Suburranus. || Anaſtaſius. iiij. || colspan="2" style="text-align:left;"|De familia Suburra.
|-
|4. || スブッラからの大修道院長||'''[[アナスタシウス4世 (ローマ教皇)|アナスタシウス4世]]''' (1153–1154) <br />Corrado di [[:en:Suburra|Suburra]] ||「スブッラの家族から」。<br />彼は大修道院長だったことがあり、生まれた土地は地元ではスブッラと呼ばれていたという<ref>O’Brien (1880) p.29 ; Bander (1973) p.20</ref>。姓がスブッラと呼ばれるのは、中世にはしばしば姓が出生地に基づくことによる<ref>Maître (1902) p.39</ref>。確かに従来、彼は[[アヴィニョン]]で大修道院長だったといわれていたが、実際のところは教区付きの聖職者に過ぎなかった<ref>Hüls, Rudolf: ''Kardinäle, Klerus und Kirchen Roms: 1049–1130.'' Bibliothek des Deutschen Historischen Instituts in Rom. Max Niemeyer Verlag. Tübingen 1977,p. 201. ISBN 978-3-484-80071-7</ref>。そのことを認める信奉者には、「大修道院長」は象徴的な表現だと解釈する者もいる<ref>Maître (1902) p.40</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De rure albo. || Adrianus. iiij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Vilis natus in oppido Sancti Albani.
|-
|5. || 白き野より ||'''[[ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス4世]]''' (1154–1159) <br />Nicholas Breakspear ||「[[セント・オールバンズ]]の町の貧しい生まれ」。<br />彼は[[ハートフォードシャー]]の[[セント・オールバンズ]] (St Albans) 近郊で生まれた<ref>O'Brien (1880) pp. 29-31.; Bander (1973) pp. 21-23.</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Ex tetro carcere. || Victor. iiij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Fuit Cardinalis S. Nicolai in carcere Tulliano.
|-
|6. ||耐え難い牢獄から ||'''対立教皇[[対立教皇ウィクトル4世 (後代)|ウィクトル4世]]''' (1159–1164) <br />Ottaviano Monticello ||「彼はサン・ニコラ・イン・カルチェーレ・トゥリアーノ(トゥリウス牢獄の聖ニコラ)の名義をもつ枢機卿だった」。<br />彼は確かに[[サン・ニコラ・イン・カルチェーレ]] ([[:en:San Nicola in Carcere|San Nicola in Carcere]]) が名義聖堂 ([[:en:Titular church|titular church]]) だったといわれるが、サン・セシリアが名義聖堂だったという説もある<ref>O'Brien (1880) pp. 31-32; Bander (1973) p. 25.</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Via Tranſtiberina. || Calliſtus. iij. [sic] || colspan="2" style="text-align:left;"|Guido Cremenſis Cardinalis S. Mariæ Tranſtiberim.
|-
|7. || ティベリウス対岸への道 ||'''対立教皇[[パスカリス3世 (対立教皇)|パスカリス3世]]''' (1168–1178) <br />Giovanni di Strumi||「サンタ・マリーア・イン・トランステヴェレの枢機卿グイド・ディ・クレマ」。<br />初出の解説は、この予言を対立教皇カリストゥス3世に当てはめており、パスカリス3世は次の予言に当てはめられているが、17世紀半ばのカリエールの解釈書では現在の形に修正されている<ref>Halbronn (2005) pp.41-42</ref>。実際、[[サンタ・マリーア・イン・トランステヴェレ大聖堂]] ([[:en:Santa Maria in Trastevere|Santa Maria in Trastevere]]) が名義聖堂だった枢機卿は、パスカリスの方である<ref name = Bander_7>O'Brien (1880) pp. 32-34 ; Bander (1973), pp. 25-26.</ref>||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De Pannonia Thuſciæ. || Paſchalis. iij. [sic] || colspan="2" style="text-align:left;"|Antipapa. Hungarus natione, Epiſcopus Card. Tuſculanus.
|-
|8. || トゥスクルムの[[パンノニア]]より ||'''対立教皇[[カリストゥス3世 (対立教皇)|カリストゥス3世]]''' (1164–1168) <br />Guido di Crema||「対立教皇。[[ハンガリー]]出身で、トゥスクルムの[[司教枢機卿]]だった」。<br />上述の通り、当初の解説では順序が違っていた。カリストゥス3世は確かにハンガリー(パンノニア)出身だったが<ref name= Bander_7 />、[[トゥスクルム]]([[:en:Tusculum|Tusculum]], 現在の[[フラスカーティ]]近郊)の司教枢機卿ではなかった<ref>Johannes Matthias Brixius, ''Die Mitglieder des Kardinalkollegiums von 1130-1181''. Berlin : R. Trenkel, 1912, p. 68-69, no. 1</ref>。この点を認識する信奉者には、カリストゥス3世が、トゥスクルム出身の[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]に対抗して立ったパンノニア出身の対立教皇だったから、と解釈する者もいる<ref>Maître (1902) p.49</ref>。なお、カリストゥスの直後に[[インノケンティウス3世 (対立教皇)|対立教皇インノケンティウス3世]]がいたが、マラキの予言では彼についての標語も解説も存在しない<ref>Bander (1973) p.26</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Ex anſere cuſtode. || Alexander. iij. || colspan="2" style="text-align:left;"|De familia Paparona.
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|9. || 守護者たる雁から||'''[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]''' (1159–1181) <br />Rolando (or Orlando) of Siena ||「パパローナ家から」。<br />アレクサンデル3世はバンディネッラ家の出身だったかもしれないず、その家は後にパパローナと改称し、家紋には雁を使っていた。しかし、彼が本当にその家の出身者だったかには議論がある<ref>O'Brien (1880) pp. 34-36 ; Bander (1973) pp. 23-24.</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Lux in oſtio. || Lucius. iij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Lucenſis Card. Oſtienſis.
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|10. || 入り口の光||'''[[ルキウス3世 (ローマ教皇)|ルキウス3世]]''' (1181–1185) <br />Ubaldo Allucingoli ||「[[ルッカ]]出身の[[オスティア]]枢機卿」。<br />標語の Lux は出身地のルッカもしくは教皇名のルキウスと、ostio はオスティア(司教枢機卿の名義)との言葉遊びになっている<ref>O'Brien (1880) p. 36; Bander (1973) p. 27.</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Sus in cribro. || Vrbanus. iij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Mediolanenſis, familia cribella, quæ Suem pro armis gerit.
|-
|11. || 篩の中の豚||'''[[ウルバヌス3世 (ローマ教皇)|ウルバヌス3世]]''' (1185–1187) <br />Umberto Crivelli ||「ミラノ市民で、豚を家紋に使っているクリベッラ(クリヴェッリ)家出身」。<br />就任前の姓クリヴェッリはイタリア語で「篩」を意味し、その紋章には篩と2頭の豚が描かれていた<ref>O'Brien (1880) pp. 36-37 ; Bander (1973) pp. 27-28.</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Enſis Laurentii. || Gregorius. viij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Card. S. Laurentii in Lucina, cuius inſignia enſes falcati.
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|12. || ラウレンティウスの剣||'''[[グレゴリウス8世 (ローマ教皇)|グレゴリウス8世]]''' (1187) <br />Alberto De Morra|| 「サン・ロレンツォ・イン・ルチーナの枢機卿で、その紋章は曲刀だった」。<br />初出の解説どおり、彼はサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ ([[:en:San Lorenzo in Lucina|San Lorenzo in Lucina]]) の枢機卿で、紋章は交差する剣だった<ref>O'Brien (1880) p. 37; Bander 1969, p. 28.</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De Schola exiet. || Clemens. iij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Romanus, domo Scholari.
|-
|13. || かの者は学舎から出るだろう||'''[[クレメンス3世 (ローマ教皇)|クレメンス3世]]''' (1187–1191) <br />Paolo Scolari||「スコラリ家出身のローマ人」。<br />「学舎」は就任前の姓であるスコラリとの言葉遊びになっている<ref name="Brien_c">O'Brien 1880, p. 37; Bander 1969, p. 29.</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De rure bouenſi. || Cœleſtinus. iij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Familia Bouenſi.
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|14. || 牛の里から||'''[[ケレスティヌス3世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス3世]]''' (1191–1198) <br />Giacinto Bobone|| 「ボウェンシ家」。<br />直前の標語と同じように、就任前の姓と結びつく言葉遊びである<ref>Bander (1973) p. 30.</ref>。しかし、姓のボボネはいくつか記録されている綴りの揺れを考慮に入れても、牛とはつながらないという指摘もある<ref>O’Brien (1880) p.38</ref>。 ||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Comes Signatus. || Innocentius. iij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Familia Comitum Signiæ.
|-
|15.|| 徴を付けられた伯爵||'''[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]''' (1198–1216) <br />Lotario dei Conti di Segni||「セーニ伯爵家」。<br />セーニは「徴」の意味で、標語は就任前の姓に直結する<ref>O'Brien 1880, p. 38; Bander 1969, p. 30.</ref>。|| [[File:C o a Innocenzo III.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Canonicus de latere. || Honorius. iij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Familia Sabella, Canonicus S. Ioannis Lateranensis.
|-
|16. || ラテラノの聖堂参事会員||'''[[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]''' (1216–1227) <br />Cencio Savelli||「サヴェッリ家、[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]の参事会員」。<br />ホノリウス3世が実際にその参事会員だったかどうかには、異議を唱える歴史家もいる<ref name="Brien_c" />。||[[File:C o a Onorio IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Auis Oſtienſis. || Gregorius. ix. || colspan="2" style="text-align:left;"|Familia Comitum Signiæ Epiſcopus Card. Oſtienſis.
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|17. || オスティアの鳥||'''[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]''' (1227–1241) <br />Ugolino dei Conti di Segni||「セーニ伯爵家で、オスティアの司教枢機卿」。<br />教皇就任前にはオスティアの司教枢機卿で、その紋章は鷲だった<ref>O'Brien (1880) p. 39; Bander (1973) pp. 32-33.</ref><ref group ="注釈">この欄で掲げている紋章は15番と同じだが、バンソン (2000) でも同じ紋章になっている。20番も同じ。</ref>。 ||[[File:C o a Innocenzo III.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Leo Sabinus. || Cœleſtinus iiij. || colspan="2" style="text-align:left;"|Mediolanenſis, cuius inſignia Leo, Epiſcopus Card. Sabinus.
|-
|18.|| サビーナの獅子 ||''' [[ケレスティヌス4世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス4世]]''' (1241) <br />Goffredo Castiglioni ||「獅子を紋章としたミラノ市民でサビーナの司教枢機卿」。<br />彼は[[サビーナ]] ([[:en:Sabina (region)|Sabina]]) の司教枢機卿で、紋章には獅子が用いられていた<ref name="Brien_d">O'Brien (1880) pp. 39-40 ; Bander (1973) p. 33.</ref>。 ||[[File:C o a Celestino IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Comes Laurentius. || Innocentius iiij. || colspan="2" style="text-align:left;"|domo flisca, Comes Lauaniæ, Cardinalis S. Laurentii in Lucina.
|-
|19.|| ラウレンティウス伯爵||'''[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]''' (1243–1254) <br />Sinibaldo Fieschi||「ラヴァーニャ伯フリスカ(フィエスキ)家の出身で、サン・ロレンツォ・イン・ルチーナの枢機卿」。<br />彼の父親はラヴァーニャ伯で、彼自身はサン・ロレンツォ・イン・ルチーナの[[司祭枢機卿]]だった<ref name="Brien_d" />。 ||[[File:C o a Adriano V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Signum Oſtienſe. || Alexander iiij. || colspan="2" style="text-align:left;"|De comitibus Signiæ, Epiſcopus Card. Oſtienſis.
|-
|20.|| オスティアの徴||'''[[アレクサンデル4世 (ローマ教皇)|アレクサンデル4世]]''' (1254–1261) <br />Renaldo dei Signori di Ienne ||「セーニ伯爵家の出身で、オスティアの司教枢機卿」。<br />彼はコンティ=セーニ家の一員で、オスティアの司教枢機卿だった<ref name="Brien_d" />。||[[File:C o a Innocenzo III.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Hieruſalem Campanię. || Vrbanus iiii. || colspan="2" style="text-align:left;"|Gallus, Trecenſis in Campania, Patriarcha Hieruſalem.
|-
|21.|| カンパニアのエルサレム||'''[[ウルバヌス4世 (ローマ教皇)|ウルバヌス4世]]''' (1261–1264) <br />Jacques Pantaleon ||「[[シャンパーニュ]]地方[[トロワ]]出身のフランス人で、エルサレム総大司教」。<br />初出の解釈どおり、彼はシャンパーニュ(古称はカンパニア)のトロワ出身で、[[エルサレム総大司教]] ([[:en:Latin Patriarch of Jerusalem|Patriarch of Jerusalem]]) だった<ref>O'Brien (1880) pp. 40-41 ; Bander (1973) p. 34.</ref>。||[[File:C o a Urbano IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Draco depreſſus. || Clemens iiii. || colspan="2" style="text-align:left;"|cuius inſignia Aquila vnguibus Draconem tenens.
|-
|22.|| 打ち倒された竜||'''[[クレメンス4世 (ローマ教皇)|クレメンス4世]]''' (1265–1268) <br />Guido Fulcodi ||「その紋章は爪で竜を捕まえる鷲である」。<br />古い文献には紋章は竜を掴んでいる鷲としているものがあり、初出の解説はそれに基づいているが、公式の紋章は六輪の百合の花である<ref>O'Brien (1880) p. 41 ; Bander (1973) p. 35.</ref>。実際には、鷲に打ち倒された竜の紋章はクレメンス4世が[[教皇派と皇帝派|ゲルフ]]に与えた紋章であり、この点の不整合はメネストリエによってつとに批判されていた<ref name = Maitre_p103>Maître (1902) p.103</ref>。信奉者の中にはクレメンスが与えた紋章なのだから彼に関わりあることに違いはないとしたり<ref name = Maitre_p103 />、彼が当時の教会にはびこっていた[[縁故主義|ネポティズム]]を排したことを象徴的に予言したなどとする者もいる<ref>Bander (1973) p.35</ref>。||<!--[[File:C o a Clemente IV.svg|100px|]]--><!--コモンズのこの紋章はウィキペディアンが合成して作ったもので、バンダーの解釈書やバンソンの『ローマ教皇事典』に掲載されている紋章とは全く別。-->
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Anguinus uir. || Gregorius. x. || colspan="2" style="text-align:left;"|Mediolanenſis, Familia vicecomitum, quæ anguẽ pro inſigni gerit.
|-
|23.|| 蛇のごとき人 ||'''[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]''' (1271–1276) <br />Teobaldo Visconti ||「紋章に蛇を使っていたヴィスコンティ家出身のミラノ市民」。<br />[[ヴィスコンティ家]]の家紋は[[ビショーネ|人を下半身から飲み込もうとしている蛇]]である<ref>Maître (1902) p.106</ref>。古い解釈書には、教皇が自身の紋章としても使っていたと主張するものもあった<ref>cf. Bander (1973) p.36</ref>。 ||[[File:C o a Gregorio X.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Concionator Gallus. || Innocentius. v. || colspan="2" style="text-align:left;"|Gallus, ordinis Prædicatorum.
|-
|24.|| [[ガリア]]の説教者 ||'''[[インノケンティウス5世 (ローマ教皇)|インノケンティウス5世]]''' (1276) <br />Pierre de Tarentaise ||「[[説教者修道会]]に属するガリア人」。<br />彼はフランス(古称はガリア)南東部の出身で、説教者修道会士だった<ref>O'Brien (1880) p. 42 ; Bander (1973) p. 36.</ref>。 ||[[File:C o a Innocenzo V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Bonus Comes. || Adrianus. v. || colspan="2" style="text-align:left;"|Ottobonus familia Fliſca ex comitibus Lauaniæ.
|-
|25.|| 善き伯爵 ||'''[[ハドリアヌス5世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス5世]]''' (1276) <br />Ottobono Fieschi ||「ラヴァーニャ伯爵のフィエスキ家のオットボヌス」。<br />フィエスキ家 ([[:en:Fieschi family|Fieschi family]]) はラヴァーニャ伯爵で、善い (bonus) はオットボノ (Ottobono / Ottobonus) との言葉遊びになっている<ref>O'Brien (1880) p. 43 ; Bander (1969) p. 36 ; Maître (1902) p.113</ref>。||[[File:C o a Adriano V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Piſcator Thuſcus. || Ioannes. xxi. || colspan="2" style="text-align:left;"|antea Ioannes Petrus Epiſcopus Card. Tuſculanus.
|-
|26.|| トゥスクルムの漁師||'''[[ヨハネス21世 (ローマ教皇)|ヨハネス21世]]''' (1276–1277) <br />Pedro Julião ||「以前はトゥスクルムの司教枢機卿ヨハンネス・ペトルス」。<br />彼はトゥスクルムの司教枢機卿 ([[:en:Cardinal Bishop of Tusculum|Cardinal Bishop of Tusculum]]) で、就任前の名ペドロは、漁師だった聖[[ペトロ]]に通じる<ref name="Brien_e">O'Brien (1880) p. 43 ; Bander (1973) p. 37.</ref>。 ||[[File:C o a Giovanni XXI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Roſa compoſita. || Nicolaus. iii. || colspan="2" style="text-align:left;"|Familia Vrſina, quæ roſam in inſigni gerit, dictus compoſitus.
|-
|27.|| 整頓された薔薇||'''[[ニコラウス3世 (ローマ教皇)|ニコラウス3世]]''' (1277–1280) <br />Giovanni Gaetano Orsini ||「紋章に薔薇を使ったオルシーニ家の出身で、コンポシトゥスと呼ばれた」<br />彼は紋章に薔薇を使っていた<ref name="Brien_e" />。そして、その謹厳さやきちんとした身なりから、コンポシトゥス(整頓された、整った)というあだ名で呼ばれたという<ref>Maître (1902) p.118</ref>。 ||[[File:C o a Niccolo III.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Ex teloneo liliacei Martini. || Martinus. iiii. || colspan="2" style="text-align:left;"|cuius inſignia lilia, canonicus, & theſaurarius S. Martini Turonen[sis].
|-
|28.|| 百合のマルティヌスの収税局から ||'''[[マルティヌス4世 (ローマ教皇)|マルティヌス4世]]''' (1281–1285) <br />Simone de Brion ||「その紋章は百合で、[[トゥール]]のサン・マルタン教会の参事会員・出納役だった」。<br />彼は確かにトゥールのサン・マルタン(聖マルティヌス)教会の参事会員・出納役だった<ref>Bander (1973) p. 38.</ref>。しかし、初出の解説とちがい、その紋章に百合は使われていなかった<ref>O'Brien (1880) p. 44.</ref>。この点を認識する信奉者は、百合はフランスの紋章だから出身国を示しているとか、聖マルティヌス教会は複数の国にあるので、そのうちフランス国内のものであることを明示しているなどと説明している<ref>Maître (1902) p.123, Bander (1973) p.38</ref>。||[[File:C o a Martino IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Ex roſa leonina. || Honorius. iiii. || colspan="2" style="text-align:left;"|Familia Sabella inſignia roſa à leonibus geſtata.
|-
|29.|| 獅子の薔薇より||'''[[ホノリウス4世 (ローマ教皇)|ホノリウス4世]]''' (1285–1287) <br />Giacomo Savelli ||「サベッラ(サヴェッリ)家の出身で、紋章は獅子に支えられる薔薇だった」。<br />初出の解説どおり、紋章は2頭の獅子に支えられる薔薇だった<ref name="Brien_f">O'Brien (1880) p. 44; Bander (1973) p. 39.</ref>。 || [[File:C o a Onorio IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Picus inter eſcas. || Nicolaus. iiii. || colspan="2" style="text-align:left;"|Picenus patria Eſculanus.
|-
|30.|| 飼葉の中の啄木鳥||'''[[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]''' (1288–1292) <br />Girolamo Masci ||「ピケヌムの国のアスクルムの人」。<br />標語のピクスとエスカスは、彼の出身地であるピケヌムのアスクルム([[アスコリ・ピチェーノ]])との、曖昧な言葉遊びになっている<ref name="Brien_f" />。 ||[[File:C o a Niccolo IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Ex eremo celſus. || Cœleſtinus. v. || colspan="2" style="text-align:left;"|Vocatus Petrus de morrone Eremita.
|-
|31.|| 隠者から引き立てられた者||''' [[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]]''' (1294) <br />Pietro Di Murrone ||「隠者のペトルス・デ・モロネが召喚された」。<br />ケレスティヌス5世は教皇選出前に隠遁生活を送っていた<ref>O'Brien (1880) p. 45 ; Maître (1902) p.132 ; Bander (1973) p. 41.</ref>。 ||[[File:C o a Celestino V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Ex undarũ bñdictione. || Bonifacius. viii. || colspan="2" style="text-align:left;"|Vocatus prius Benedictus, Caetanus, cuius inſignia undæ.
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|32.|| 波の祝福から||'''[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]''' (1294–1303) <br />Benedetto Caetani ||「[[ガエタ]]出身で以前にはベネディクトゥスと呼ばれており、紋章は波だった」。<br />彼の紋章には波模様があり、就任前の名前ベネデット(ベネディクトゥス)は、祝福 (bñdictione / benedictione) に対応する<ref>O'Brien (1880) p. 46 ; Bander (1973) p. 42.</ref>。 || [[File:C o a Bonifacio VIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Concionator patereus. [sic] || Benedictus. xi. || colspan="2" style="text-align:left;"|qui uocabatur Frater Nicolaus, ordinis Prædicatorum.
|-
|33.|| パタラからの説教者||'''[[ベネディクトゥス11世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス11世]]''' (1303–1304) <br />Nicholas Boccasini||「その者は説教者修道会に属し、修道士ニコラウスと呼ばれていた」。<br />初出の解説どおり彼は説教者修道会に属していた。彼の名前ニコラスは、[[パタラ]]出身の[[ミラのニコラオス|聖ニコラウス]]に通じる<ref>Maître (1902) p.157</ref>。19世紀の懐疑論者のオブライエンは、こうした結びつきに気づきにくい解説が展開されていることから、初出の解説をつけた者と偽作者は同一人物ではないかと疑っていた<ref>O'Brien (1880) pp. 46-47</ref>。 ||[[File:C o a Benedetto XI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De feſſis aquitanicis. || Clemens V. || colspan="2" style="text-align:left;"|natione aquitanus, cuius inſignia feſſæ erant.
|-
|34.|| アクイタニアの帯線によって||'''[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]''' (1305–1314) <br />Bertrand de Got ||「[[アキテーヌ地域圏|アクイタニア]]出身で、紋章は帯線だった」。<br />彼はアキテーヌ地方(古称はアクイタニア)の[[ボルドー]]の司教区に生まれ<ref name = Maitre_34>Maître (1902) p.161</ref>、[[ボルドー]]大司教になった。彼の紋章には[[紋章学]]上で[[フェス (紋章学)|フェス]] ([[:en:fess|fesses]]) といわれる3本の帯線があった<ref>O'Brien (1880) p. 47 ; Bander (1973) p. 43.</ref>。なお、原文の fessis はラテン語として不適切で意味が通らないことがつとに指摘されており、メネストリエは偽作者が無学であることを示す例としていた<ref>O'Brien (1880) p. 47</ref>。信奉者側のジョゼフ・メートルは綴りを意味が通るように正しく fasciis と手直しした上で、原本の誤りではなくイタリア系の[[写字生]]による誤りだろうとして擁護した<ref name = Maitre_34 />。 || [[File:C o a Clemente V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De ſutore oſſeo. || Ioannes XXII. || colspan="2" style="text-align:left;"|Gallus, familia Oſſa, Sutoris filius.
|-
|35.|| 骨ばった靴職人||'''[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]''' (1316–1334) <br />Jacques Duese||「オッサ家出身のガリア人で、靴職人の息子」。<br />メネストリエはこの教皇の父親はアルノー・デュエッサ (Arnaud Duessa) ないしドゥッス (Deusse) だった<ref group = "注釈">ヨハネス22世自身の名前は、バンソンの『ローマ教皇史』では「ジャック・ドュース」、マックスウェル=スチュアートの『ローマ教皇歴代誌』([[創元社]]、1999年)では「ジャック・ドゥーズ」と表記されている。</ref>として、オッサではなかったし、[[カオール]]の台帳では高額納税者として記録されていて、靴屋だったとは思えないと批判した。これに対して信奉者のジョゼフ・メートルは、オッサとしている記録もあると反論し、台帳については、その時点では靴職人をやめていたが、それ以前には靴修理工だった時期もあったと反論した<ref>Maître (1902) pp.165-166.</ref>。||[[File:C o a Giovanni XXII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Coruus ſchiſmaticus. || Nicolaus V. || colspan="2" style="text-align:left;"|qui uocabatur F. Petrus de corbario, contra Ioannem XXII. Antipapa Minorita.
|-
|36. || [[シスマ|スキスマ]]のカラス ||'''対立教皇[[ニコラウス5世 (対立教皇)|ニコラウス5世]]'''(1328–1330) <br />Pietro Rainalducci di Corvaro ||「コルバリオのペトルス修道士、ヨハネス22世に対する対立教皇で小さき兄弟会の所属」。<br />彼の名前の最後の部分がカラス (Corvus) との言葉遊びになり、対立教皇であったことが「スキスマ」([[シスマ]])に対応する<ref>O'Brien (1880) p. 48 ; Bander (1973) p. 45.</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Frigidus Abbas. || Benedictus XII. || colspan="2" style="text-align:left;"|Abbas Monaſterii fontis frigidi.
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|37.|| 冷たい大修道院長 ||'''[[ベネディクトゥス12世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス12世]]''' (1334–1342) <br />Jacques Fournier||「冷たい泉の大修道院の長」。<br />彼は[[ナルボンヌ]]司教区のフォンフロワド修道院 (le monastère de [[:en:Fontfroide Abbey|Fontfroide]], 「冷たい泉」の意味)の大修道院長だった<ref>O'Brien (1880) p. 49 ; Maître (1902) p.172 ; Bander (1973) pp. 45-46</ref>。 ||[[File:C o a Benedetto XII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De roſa Attrebatenſi.|| Clemens VI. || colspan="2" style="text-align:left;"|Epiſcopus Attrebatenſis, cuius inſignia Roſæ.
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|38.|| アトレバテンシスの薔薇から||'''[[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]''' (1342–1352) <br />Pierre Roger ||「薔薇を紋章としていたアトレバテンシスの司教」。<br />彼は[[アラス]](古称はエピスコプス・アトレバテンシス)の司教だったことがあり、紋章は6輪の薔薇だった<ref>O'Brien (1880) p. 49 ; Bander (1973) p. 46.</ref>。||[[File:C o a Gregorio XI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De mõtibus Pãmachii. || Innocentius VI. || colspan="2" style="text-align:left;"|Cardinalis SS. Ioannis & Pauli. T. Panmachii, cuius inſignia ſex montes erant.
|-
|39.|| パンマキウスの山々から ||'''[[インノケンティウス6世 (ローマ教皇)|インノケンティウス6世]]''' (1352–1362) <br />Etienne Aubert ||「パンマキウスの名義をもつ聖ヨハネ・聖パウロ聖堂の枢機卿で、その紋章は6つの山」。<br /> 彼はパンマキウスの名義を与えられ、[[チェリオ (イタリア)|カエリウスの丘]]の聖ヨハネ・聖パウロ聖堂の司祭枢機卿だった<ref> Maître (1902) p.182</ref>。初出も含む古い解釈では紋章に6つの山が含まれていたと説明されていたが、実際には獅子と貝殻が描かれており、その誤りはメネストリエによっても指摘されていた<ref>Maître (1902) pp.182-183.</ref>。信奉者の中には、「山々」は紋章ではなく、彼が[[リムーザン]]のモン村(Mont、「山」)出身で、[[クレルモン=フェラン|クレルモン]] (Cler<span style="text-decoration:underline;">mont</font>) の司教となり、カエリウスの丘 (Caelius Mons) の聖堂の司教枢機卿となるなど、人生に多くの「山」(丘)と結びついたことを表現していると解釈しなおす者もいる<ref>Maître (1902) p.183</ref>。||[[File:C o a Innocenzo VI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Gallus Vicecomes. || Vrbanus V. || colspan="2" style="text-align:left;"|nuncius Apoſtolicus ad Vicecomites Mediolanenſes.
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|40.|| ガリアの[[子爵]]||'''[[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]]''' (1362–1370) <br />Guglielmo De Grimoard ||「ミラノの子爵たちへのローマ教皇大使」。<br />彼はフランス出身で、ミラノの[[ヴィスコンティ家]](Visconti, 語源は「子爵・副伯」)で教皇大使の任に当たっていた<ref>Maître (1902) p.187.</ref>。||[[File:C o a Urbano V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Nouus de uirgine forti. || Gregorius XI. || colspan="2" style="text-align:left;"|qui uocabatur Petrus Belfortis, Cardinalis S. Mariæ nouæ.
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|41.|| 強き処女からの新参||'''[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]''' (1370–1378) <br />Pierre Roger de Beaufort ||「彼はサンタ・マリーア・ヌオーヴァの枢機卿で、ペトルス・ベルフォルティスと呼ばれていた」。<br />彼の姓はボフォール(Beaufort, フランス語で beau は「美」、fort は「強い」)で、サンタ・マリーア・ヌオーヴァ(Santa Maria Nuova, 新しい聖マリアの意)の名義をもつ枢機卿だった<ref>O'Brien (1880) p. 50 ; Bander (1973) p. 48.</ref>。||[[File:C o a Gregorio XI.svg|100px]]
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|colspan="2"| Decruce Apoſtolica. [sic] || Clemens VII. || colspan="2" style="text-align:left;"|qui fuit Preſbyter Cardinalis SS. XII. Apoſtolorũ cuius inſignia Crux.
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|42. || [[使徒]]の十字架によって ||'''対立教皇[[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]]''' (1378–1394) <br />Robert, Count of Geneva ||「彼は聖十二使徒の司祭枢機卿で、十字架を紋章としていた」。<br />彼はローマの聖十二使徒聖堂 ([[:en:Santi Apostoli, Rome|Santi Apostli]]) の司祭枢機卿で、家紋は十字に見えるものだった<ref>O'Brien (1880) p. 51 ; Bander (1973) p. 50.</ref>。これについては、5つの黄金の点と4つの紺色の点が調和しているもので、十字架というのは不適切だとしたメネストリエの批判がある<ref>Maître (1902) pp.197-198.</ref>。 ||[[File:C o a Clemente VII (Avignone).svg|100px]]
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|colspan="2"| Luna Coſmedina. || Benedictus XIII. || colspan="2" style="text-align:left;"|antea Petrus de Luna, Diaconus Cardinalis S. Mariæ in Coſmedin.
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|43. || コスメディンの月 ||'''対立教皇[[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]''' (1394–1423) <br />Pedro de Luna ||「以前の名はペトルス・デ・ルナで、サンタ・マリーア・イン・コスメディンの[[助祭枢機卿]]だった」。<br />彼の名はペドロ・デ・ルナ([[ルナ]]は月の意)で、紋章にも月が使われていた<ref>Maître (1902) p.203.</ref>。そして、[[サンタ・マリーア・イン・コスメディン]] ([[:It:Santa Maria in Cosmedin|Santa Maria in Cosmedin]]) の助祭枢機卿だった<ref name="Brien_h">O'Brien (1880) p. 52 ; Bander (1973) p. 51.</ref>。 || [[File:C o a Benedetto XIII (Avignone).svg|100px]]
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|colspan="2"| Schiſma Barchinoniũ. || Clemens VIII. || colspan="2" style="text-align:left;"|Antipapa, qui fuit Canonicus Barchinonenſis.
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|44. || バルキノの[[シスマ|スキスマ]]||'''対立教皇[[クレメンス8世 (対立教皇)|クレメンス8世]]''' (1423–1429) <br />Gil Sanchez Muñoz ||「バルキノの教会参事会員だった対立教皇」。<br />彼は[[バルセロナ]](古称はバルキノ)の教会参事会員だった人物で、36番と同じく「スキスマ」は対立教皇であることを指す<ref name="Brien_h" />。バチカンのリストでは脚注で扱われている人物だが、16世紀には他の教皇や対立教皇と同列に扱われていた<ref name = Bander_44>Bander (1973) p.51</ref>。なお、同じく脚注で扱われている教皇には、対応する予言が存在しない[[対立教皇ベネディクトゥス14世 (先代)|ベネディクトゥス14世]]がいる<ref name = Bander_44 />。 ||
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|colspan="2"| De inferno prægnãti.<ref group = "注釈">オブライエンは prægnãti (praegnanti) は praegnani の誤植だろうとした (O'Brien (1880) p.21)。</ref> || Vrbanus VI. || colspan="2" style="text-align:left;"|Neapolitanus Pregnanus, natus in loco quæ dicitur Infernus.
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|45.|| 妊娠している地獄から||'''[[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]''' (1378–1389) <br />Bartolomeo Prignano ||「ナポリ市民のプリニャノはインフェルノと呼ばれる場所で生まれた」。<br />彼の姓はプリニャノ (Prignano) ないしプリニャニ (Prignani) でラテン語の「妊娠している」(praegnans) に通じ、出生地であるナポリの場末はインフェルノ(Inferno, 地獄の意)と呼ばれていた<ref>O'Brien (1880) p. 53 ; Maître (1902) p.208 ; Bander (1973) p. 48.</ref>。 ||[[File:C o a Urbano VI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Cubus de mixtione. || Bonifacius. IX. || colspan="2" style="text-align:left;"|familia tomacella à Genua Liguriæ orta, cuius inſignia Cubi.
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|46. || 混成の立方体||'''[[ボニファティウス9世 (ローマ教皇)|ボニファティウス9世]]''' (1389–1404) <br />Pietro Tomacelli ||「リグーリア地方[[ジェノヴァ]]のトマチェッリ家に生まれ、立方体を紋章としていた」。<br />彼の紋章は斜めに格子縞の帯が横切るものだった<ref name="Brien_i">O'Brien (1880) p. 53 ; Bander (1973) p. 49.</ref>。この解釈には、格子縞と立方体は異なるものだというメネストリエの批判がある<ref>Maître (1902) p.218.</ref>。 ||[[File:C o a Bonifacio IX.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De meliore ſydere. || Innocentius. VII. || colspan="2" style="text-align:left;"|uocatus Coſmatus de melioratis Sulmonenſis, cuius inſignia ſydus.
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|47.|| より良き星から||'''[[インノケンティウス7世 (ローマ教皇)|インノケンティウス7世]]''' (1404–1406) <br />Cosmo Migliorati ||「[[スルモナ]]のコスマトゥス・デ・メリオラティスと呼ばれ、その紋章は星だった」。<br />ラテン語の「より良い」(メリオル)は彼の姓ミリョラーティとの言葉遊びになっており、その紋章は流星だった<ref name="Brien_i" />。 ||[[File:C o a Innocenzo VII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Nauta de Ponte nigro. || Gregorius XII. || colspan="2" style="text-align:left;"|Venetus, commendatarius eccleſiæ Nigropontis.
|-
|48.|| 黒き橋の船乗り ||'''[[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]]''' (1406–1415) <br />Angelo Correr ||「[[ヴェネツィア]]出身者で、[[エウボイア島|ネグロポンテ]]の教会から聖職禄を受け取っていた」。<br />彼は水の都[[ヴェネツィア]]の出身で「船乗り」はそれを指す。また、[[エヴィア島|ネグロポンテ]]の教会から聖職禄を受け取る立場 ([[:en:In commendam|Commendatarius]]) <!-- 修道院外聖職者大修道院長? -->にあった<ref name = Bander_48>O'Brien (1880) p. 54 ; Bander (1973) p. 50.</ref>。標語はしばしば『ネグロポンテの船乗り』とも訳される<ref name = Bander_48 />。||[[File:C o a Gregorio XII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Flagellum ſolis. || Alexander. V. || colspan="2" style="text-align:left;"|Græcus Archiepiſcopus Mediolanenſis, inſignia Sol.
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|49. || 太陽の鞭 ||'''対立教皇[[アレクサンデル5世 (対立教皇)|アレクサンデル5世]]''', Antipope (1409–1410) <br />Petros Philarges ||「ミラノ大司教だったギリシア人で、その紋章は太陽だった」。<br />彼の紋章は太陽で、中央の円から鞭のように曲がりくねった光線が周囲に伸びているものだった<ref>O'Brien (1880) p. 54 ; Maître (1902) p.234.</ref>。信奉者には、『太陽の災い』と訳して、「災い」は当時の[[教会大分裂]]期の対立教皇だったことを示すと解釈する者もいる<ref>Maître (1902) p.234, レジュ (1982) p.75</ref>。 ||[[File:C o a Alexandre V (Pisa).svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Ceruus Sirenæ. || Ioannes XXIII. || colspan="2" style="text-align:left;"|Diaconus Cardinalis S. Euſtachii, qui cum ceruo depingitur, Bononiæ legatus, Neapolitanus.
|-
|50. || [[セイレーン]]の鹿||'''対立教皇[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]]''' (1410–1415) <br />Baldassarre Cossa ||「鹿とともに描かれる聖エウスタキウスの助祭枢機卿である。ナポリ出身で、[[ボローニャ]]の教皇特使だった」。<br />彼は[[パンテオン]]に隣接していた聖エウスタキウス施物分配所の助祭枢機卿で、エウスタキウスは伝説上、鹿と結びつきが深い。また、ヨハネス23世の出身地であるナポリは[[セイレーン]]との結びつきが深く、紋章に取り入れていた<ref>O'Brien (1880) p. 54 ; Maître (1902) p.237 ; Bander (1973) p. 52.</ref>。なお、原語の sirenae はラテン語として不正確で、siren ないし sirenis と綴るべきと指摘されており<ref>O'Brien (1880) p. 54 ; Maître (1902) pp.237-238 </ref>、このような不適切な表記を予言の正統性の議論に関連付ける者もいる<ref>O'Brien (1880) p. 54</ref>。||
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Corona ueli aurei. || Martinus V. || colspan="2" style="text-align:left;"|familia colonna, Diaconus Cardinalis S. Georgii ad uelum aureum.
|-
|51.|| 黄金の幕が付いた冠||'''[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]''' (1417–1431) <br />Oddone Colonna ||「[[コロンナ家]]出身で、サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロの助祭枢機卿だった」。<br />彼の紋章は黄金の冠が載った円柱で、彼が名義を所有していた[[サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ]] ([[:en:San Giorgio in Velabro|San Giorgio in Velabro]]) は、「黄金の幕の聖ゲオルギウス」の転訛だという<ref>Maître (1902) p.241</ref>。17世紀以降の版では「黄金の幕が付いた円柱」 (''Columna veli aurei'') となっているものもあり<ref>Halbronn (2005) pp.147-150, 157</ref>、「冠」は明らかな誤植として<ref>O’Brien (1880) p.22</ref>彼の姓が[[コロンナ家|コロンナ]](円柱の意)であったことと結び付けられることがある<ref> O’Brien (1880) p.55.</ref>。||[[File:C o a Martino V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Lupa Cœleſtina, || Eugenius. IIII. || colspan="2" style="text-align:left;"|Venetus, canonicus antea regularis Cœleſtinus, & Epiſcopus Senẽſis.
|-
|52.|| 神々しい雌狼||'''[[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]''' (1431–1447) <br />Gabriele Condulmaro ||「ヴェネツィア出身者で、ケレスティヌス会士や[[シエーナ]]司教だったことがあった」。<br />彼は[[ケレスティヌス会]]([[:en:Celestines|Celestines]], [[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]]が創設した修道会)の修道士で、市紋に雌狼を用いている[[シエーナ]]の司教だった<ref name="Brien_k">O'Brien (1880) p. 55 ; Bander (1973) p. 54.</ref>。標語はしばしば『ケレスティヌスの雌狼』と訳されることもある<ref>O'Brien (1880) p. 55</ref>。||[[File:C o a Eugenio IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Amator Crucis. || Felix. V. || colspan="2" style="text-align:left;"|qui uocabatur Amadæus Dux Sabaudiæ, inſignia Crux.
|-
|53. || 十字架の恋人||'''対立教皇[[フェリクス5世 (対立教皇)|フェリクス5世]]''' (1439–1449) <br />Amadeus, Duke of Savoy ||「この者はサヴォワ公アマデウスと呼ばれ、紋章は十字架だった」<br />彼の名アメデーオ (Amedeo) は「神を愛する者」の意で、紋章は十字架だった<ref name="Brien_k" /><ref>Maître (1902) p.251</ref>。 ||[[File:C o a Felice V (antipapa).svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De modicitate Lunæ. || Nicolaus V. || colspan="2" style="text-align:left;"|Lunenſis de Sarzana, humilibus parentibus natus.
|-
|54.|| 月の節度によって||'''[[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]]''' (1447–1455) <br />Tommaso Parentucelli ||「ルーニ出身者で、サルザーナの慎み深い両親から生まれた」。<br />彼は[[ルーニ]] ([[:en:Luni, Italy|Luni]], 古称は Luna)の司教管区に属する[[サルザーナ]]の慎み深い両親のもとで生まれた<ref name="Brien_l">O'Brien (1880) p. 56 ; Bander (1973) p. 56.</ref><ref>Maître (1902) p.255</ref>。||[[File:C o a Niccolo V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Bos paſcens. || Calliſtus. III. || colspan="2" style="text-align:left;"|Hiſpanus, cuius inſignia Bos paſcens.
|-
|55.|| 草を食べる牛||'''[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]''' (1455–1458) <br />Alfonso Borja ||「草を食べる牛を紋章としていたスペイン人」。<br />彼は[[ボルジア家]]の出身で、家紋でもあった牛を紋章に使っていた<ref name="Brien_l" />。 ||[[File:C o a Callisto III.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De Capra & Albergo. || Pius. II. || colspan="2" style="text-align:left;"|Senenſis, qui fuit à Secretis Cardinalibus Capranico & Albergato.
|-
|56.|| 山羊と宿屋によって||'''[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]''' (1458–1464) <br />Enea Silvio de Piccolomini ||「[[シエーナ]]出身で、カプラニクス、アルベルガトゥス両枢機卿の秘書だった」。<br />彼はカプラニカ枢機卿 ([[:en:Cardinal Domenico Capranica|Cardinal Domenico Capranica]]) とアルベルガッティ枢機卿 (Cardinal Albergatti) の秘書だった<ref name="Brien_m">O'Brien (1880) p. 56 ; Bander (1973) p. 57.</ref>。 ||[[File:C o a Pio II.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De Ceruo & Leone. || Paulus. II. || colspan="2" style="text-align:left;"|Venetus, qui fuit Commendatarius eccleſiæ Ceruienſis, & Cardinalis tituli S. Marci.
|-
|57.|| 鹿と獅子によって||'''[[パウルス2世 (ローマ教皇)|パウルス2世]]''' (1464–1471) <br />Pietro Barbo ||「ヴェネツィア出身者で、チェルヴィアの教会の聖職禄を受けていたことがあり、サン・マルコの名義をもつ枢機卿だった」。<br />彼は[[チェルヴィア]] (Cervia) の教会で司教禄を受けていたことがあり、[[サン・マルコ大聖堂]]の名義を持つ枢機卿であった。その名の由来となった[[マルコ (福音記者)|聖マルコ]]の象徴は獅子である<ref name="Brien_m" />。パウルス2世が紋章に獅子を用いていたことを指摘する者もいる<ref>Maître (1902) p.267.</ref>。 ||[[File:C o a Paulo II.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Piſcator minorita. || Sixtus. IIII. || colspan="2" style="text-align:left;"|Piſcatoris filius, Franciſcanus.
|-
|58.|| より小さき漁師 ||'''[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]''' (1471–1484) <br />Francesco Della Rovere ||「漁師の息子でフランシスコ会士」。<br />彼は漁師の息子で、[[フランシスコ会|小さき兄弟会]]の修道士だった。小さき兄弟会の創設がマラキの死後であることから、この言及を予言の信憑性の議論と結びつける者もいる<ref>O'Brien (1880) p. 57 ; Bander (1973) p. 58.</ref>。 ||[[File:C o a Sisto IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Præcurſor Siciliæ. || Innocentius VIII. || colspan="2" style="text-align:left;"|qui uocabatur Ioãnes Baptiſta, & uixit in curia Alfonſi regis Siciliæ.
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|59.|| [[シチリア]]からの先駆者||'''[[インノケンティウス8世 (ローマ教皇)|インノケンティウス8世]]''' (1484–1492) <br />Giovanni Battista Cibò ||「その者はヨハンネス・バプティスタと呼ばれ、シチリア王アルフォンソの宮廷で過ごした」。<br />彼はシチリア王宮で過ごしたことがあり、名のジョヴァンニ・バッティスタは、[[イエス・キリスト]]の先駆者[[洗礼者ヨハネ|バプテスマのヨハネ]]に由来する<ref> Maître (1902) p.267 ; Bander 1969, pp. 58-59.</ref>。 ||[[File:C o a Innocenzo VIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Bos Albanus in portu. || Alexander VI. || colspan="2" style="text-align:left;"|Epiſcopus Cardinalis Albanus & Portuenſis, cuius inſignia Bos.
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|60.|| 港のアルバ牛 ||'''[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]''' (1492–1503) <br />Rodrigo de Borgia ||「アルバーノとポルトの司教枢機卿で、その紋章は牛だった」。<br />彼はたしかに[[アルバーノ・ラツィアーレ|アルバーノ]] (Albano) とポルト ([[:en:Portus|Porto]]) の司教枢機卿で、紋章には牛が使われていた<ref name="Brien_n">O'Brien (1880) p. 57 ; Bander (1973) p. 59.</ref>。 ||[[File:Papal Arms of Alexander VI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De paruo homine. || Pius. III. || colspan="2" style="text-align:left;"|Senenſis, familia piccolominea.
|-
|61.|| 小さき人から||'''[[ピウス3世 (ローマ教皇)|ピウス3世]]''' (1503) <br />Francesco Todeschini Piccolomini ||「シエーナのピッコロミニ家の出身」。<br />彼の姓ピッコロミーニ (Piccolomini) は piccolo (小さい)、uomini (人)に通じる<ref name="Brien_o">O'Brien 1880, p. 58; Bander 1969, p. 60.</ref><ref>Maître (1902) p.286</ref>。||[[File:C o a Pio II.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Fructus Iouis iuuabit. || Iulius. II. || colspan="2" style="text-align:left;"|Ligur, eius inſignia Quercus, Iouis arbor.
|-
|62.|| [[ユーピテル|ユピテル]]の実が助けるだろう||'''[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]''' (1503–1513) <br />Giuliano Della Rovere ||「ジェノヴァ出身者で、ユピテルの木であるクエルクス([[オーク]])を紋章にしていた」。<br />彼の紋章は[[オーク]]で、その木は初出の解説にもあるように、ユピテルの象徴である<ref name="Brien_o" /> 。||[[File:C o a Sisto IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De craticula Politiana. || Leo. X. || colspan="2" style="text-align:left;"|filius Laurentii medicei, & ſcholaris Angeli Politiani.
|-
|63.|| ポリティアヌスの焼き網から||'''[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]''' (1513–1521) <br />Giovanni de Medici ||「[[ロレンツォ・デ・メディチ]]の息子で、[[アンジェロ・ポリツィアーノ]]の門下生」。<br />彼はポリツィアーノ(ポリティアヌス)の門下生だった。また、父の名[[ロレンツォ・デ・メディチ|ロレンツォ]] (Lorenzo) は焼き網の拷問で殉教した聖[[ラウレンティウス]] (Laurentius) に対応する<ref>O'Brien (1880) p. 58 ; Bander (1973) pp. 61-62.</ref>。 ||[[File:C o a Papas Medicis.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Leo Florentius. || Adrian. VI. || colspan="2" style="text-align:left;"|Florẽtii filius, eius inſignia Leo.
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|64.|| フロレンティウスの獅子 ||'''[[ハドリアヌス6世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス6世]]''' (1522–1523) <br />Adriaen Florenszoon Boeyens||「フロレンティウスの息子で、紋章は獅子だった」。<br />彼の紋章は獅子だった。そして、彼自身の名にフローレンツが含まれている<ref> O'Brien (1880) p. 58 ; Bander (1973) p. 62.</ref>。初出の解説のように、父の名前がフロレンティウスに対応していると解釈する者たちもいる<ref>Maître (1902) p.304</ref>。||[[File:C o a Adriano VI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Flos pilei ægri. || Clemens. VII. || colspan="2" style="text-align:left;"|Florentinus de domo medicea, eius inſignia pila, & lilia.
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|65.|| 丸薬の花||'''[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]''' (1523–1534) <br />Giulio de Medici ||「[[フィレンツェ]]の[[メディチ家]]出身で、その紋章は丸薬と百合だった」。<br />彼の紋章は6つの丸薬で、その一番上の丸薬の中に3つの百合が描かれていた<ref>O'Brien (1880) p. 59 ; Bander (1973) pp. 62-63.</ref>。 ||[[File:C o a Papas Medicis.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Hiacinthus medicorũ. || Paulus. III. || colspan="2" style="text-align:left;"|Farneſius, qui lilia pro inſignibus geſtat, & Card. fuit SS. Coſme, & Damiani.
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|66.|| 医師たちの[[ヒュアキントス]]||'''[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]''' (1534–1549) <br />Alessandro Farnese ||「百合を紋章にしていたファルネーゼ家の者で、聖コスマスと聖ダミアンの枢機卿だった」。<br />彼の紋章は百合だが、[[ヒヤシンス]]を描いているとされることもある<ref name = Bander_66>O'Brien (1880) p. 59 ; Bander (1973) p. 63.</ref>。紋章に描かれた花は紺色であり、通常の百合を描いたものではないという形で、百合とする見方に異を唱える者もいる<ref>Maître (1902) p.315</ref>。そして、彼が与えられていた名義の聖コスマスと聖ダミアンはどちらも医師だった<ref name = Bander_66 />。||[[File:C o a Paulo III.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De corona montana. || Iulius. III. || colspan="2" style="text-align:left;"|antea uocatus Ioannes Maria de monte.
|-
|67.|| 山の冠によって||'''[[ユリウス3世 (ローマ教皇)|ユリウス3世]]''' (1550–1555) <br />Giovanni Maria Ciocchi del Monte ||「以前はヨハンネス・マリア・デ・モンテと呼ばれていた」。<br />彼の紋章は山と、冠状の環になった[[棕櫚]]の葉だった<ref name="Brien_p">O'Brien (1880) p. 60 ; Bander (1973) p. 64.</ref>。また、彼の両親は[[アレッツォ]]近郊のモンテ・サン=サヴィーノ (Monte San-Savino) という町の出身で、姓にモンテ(Monte, 山の意)が付いたのもそのためだという<ref>Maître (1902) p.321</ref>。 ||[[File:C_o_a_Giulio_III.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Frumentum flocidum. [sic] || Marcellus. II. || colspan="2" style="text-align:left;"|cuius inſignia ceruus & frumẽtum, ideo floccidum, quod pauco tempore uixit in papatu.
|-
|68.||取るに足らない小麦||'''[[マルケルス2世 (ローマ教皇)|マルケルス2世]]''' (1555) <br />Marcello Cervini ||「その紋章は鹿と小麦であり、取るに足らないというのは、教皇として短命だったからだ」。<br />彼の紋章は鹿と小麦であり、その在位期間は20日あまりの短いものだった<ref name="Brien_p" />。 ||[[File:C o a Marcello II.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De fide Petri. || Paulus. IIII. || colspan="2" style="text-align:left;"|antea uocatus Ioannes Petrus Caraffa.
|-
|69.|| ペトロの信仰によって||'''[[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]]''' (1555–1559) <br />Giovanni Pietro Caraffa ||「以前はヨハンネス・ペトルス・カラファと呼ばれていた」。<br />彼のフルネームは、ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファで、ピエトロは[[ペトロ]]のイタリア名である<ref>O'Brien (1880) p. 60 ; Bander (1973) p. 65.</ref>。また、カラファは「大事な信仰」(cara fede, cara fé) の縮約とされる<ref>Maître (1902) p.328.</ref>。||[[File:C o a Paulo IV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Eſculapii pharmacum. || Pius. IIII. || colspan="2" style="text-align:left;"|antea dictus Io. Angelus Medices.
|-
|70.|| [[アスクレーピオス|アスクレピオス]]の薬||'''[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]''' (1559–1565) <br />Giovanni Angelo de Medici ||「以前はヨハンネス・アンゲルス・メディケスと呼ばれた」。<br />彼はメディチ家 (Medici) 出身だったので、それと結びつくと解釈される<ref>O'Brien (1880) p. 61</ref>(ラテン語の medicina は薬、medicus は医師)。それに加えて、若いころに医学を学んでいたことと結びつける者もいる<ref> Maître (1902) p.332, Bander (1973) p. 66. </ref>。 ||[[File:C o a Papas Medicis.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Angelus nemoroſus. || Pius. V. || colspan="2" style="text-align:left;"|Michael uocatus, natus in oppido Boſchi.
|-
|71.|| 林の中の天使 ||'''[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]''' (1566–1572) <br />Antonio Michele Ghisleri ||「ミカエルと呼ばれ、ボスコの町で生まれた」。<br />彼は[[ロンバルディア]]地方のボスコ(Bosco, 林の意)の出身で、ミドルネームのミケレ (Michele) は大天使[[ミカエル]]にちなむ<ref name="Brien_q">O'Brien (1880) p. 61 ; Bander (1973) p. 67.</ref>。懐疑派のオブライエンは、初出の解説にはイタリア語の言葉遊びが多く混じっているにもかかわらず、それが何を意味するのか(上の例で言えば、「ボスコの町で生まれた」ことが標語とどう結びつくのか)が説明されていないため、それらを作成したのはイタリア人ではないかと推測していた<ref name="Brien_q" />。 ||[[File:C o a Pio V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Medium corpus pilarũ. || Gregorius. XIII. || colspan="2" style="text-align:left;"|cuius inſignia medius Draco, Cardinalis creatus à Pio. IIII. qui pila in armis geſtabat.
|-
|72.|| 球体の中心に胴体||'''[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]''' (1572–1585) <br />Ugo Boncompagni ||「その紋章は半分の竜で、球体を紋章としていたピウス4世によって枢機卿にされた」。<br />彼の紋章は中心に竜が配置されていたが、生まれたばかりで脚のない姿として描かれていた<ref> Maître (1902) p.345.</ref>。また、彼は球体(丸薬)を紋章とするピウス4世によって枢機卿に任命された人物であった<ref>O'Brien (1880) p. 61 ; Bander (1973) p. 68.</ref>。||[[File:C o a Gregorio XIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| Axis in medietate ſigni. || Sixtus. V. || colspan="2" style="text-align:left;"|qui axem in medio Leonis in armis geſtat.
|-
|73.|| 徴の中央の心棒||'''[[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]''' (1585–1590) <br />Felice Peretti ||「紋章には獅子の中心に心棒が備わっていた」。<br />彼の紋章は大きく描かれた獅子の中央を斜めに帯線が横切るものだった<ref>O'Brien (1880) p. 62 ; Maître (1902) p.350 ; Bander (1973) p. 68.</ref>。獅子が徴と書かれているのは、獅子が黄道十二宮を構成する[[サイン (占星術)|サイン]]のひとつだから、などと説明される<ref name = Moreri>Moréri (1740) pp.70-72.</ref>。 ||[[File:C o a Sisto V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"| De rore cœli. || Vrbanus. VII. || colspan="2" style="text-align:left;"|qui fuit Archiepiſcopus Roſſanenſis in Calabria, ubi mãna colligitur.
|-
|74.|| 天の露によって ||'''[[ウルバヌス7世 (ローマ教皇)|ウルバヌス7世]]''' (1590) <br />Giovanni Battista Castagna ||「その者は[[マナ (食物)|マナ]]が集められていた[[カラブリア]]地方の[[ロッサーノ]]の大司教だった」。<br />彼は[[ロッサーノ]](Rossano)の大司教で、そこの樹液は「[[マナ (食物)|マナ]]」もしくは「天国の露」と称された<ref>O'Brien (1880) p. 62 ; Bander (1973) p. 70.</ref>。 ||[[File:C o a Urbano VII.svg|100px]]
|}

=== 75番から111番目まで ===
[[グレゴリウス14世 (ローマ教皇)|グレゴリウス14世]](在位1590年 - 1591年)に対応する75番よりも後の予言には、初出の時点で解説がついていなかった(公刊された1595年までに対応する75番から77番の標語には、教皇の名前だけは添えられている)。以下では、75番から111番までの標語とその解釈例や懐疑派による批判を挙げる。16世紀以降に[[対立教皇]]は存在しないので、教皇の配列には信奉者側にも懐疑派にも異論は見られない。

懐疑派は、当初から解説が付けられていた1590年までの予言に比べて、それ以降の予言では地名や姓名などを織り込んだ具体的な標語が激減している上、苦しい解釈が多くなっていると指摘している<ref>フィナテリ (1982) p.62、山津 (2012) p.217</ref>。また、結果として、ある教皇によく当てはまるとされる予言が、別の教皇にも同じ程度に当てはまる例もしばしば見られる<ref>フィナテリ (1982) pp.66-67、山津 (2012) p.218</ref>。

{| class="wikitable"
! style="text-align:center;" colspan="5"|1590年以降の予言
|-
!番号 !!標語 !!教皇名(在位期間)<br />就任前の名 !!解釈と批判!!紋章
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Ex antiquitate Vrbis.|| Gregorius. XIIII.||colspan="2"|
|-
|75.|| 町の古さによって||'''[[グレゴリウス14世 (ローマ教皇)|グレゴリウス14世]]''' (1590–1591) <br />Niccolo Sfondrati ||上述のように、この標語は偽作者がシモンチェッリ枢機卿を教皇にするために作成したものであると指摘されている。信奉者は、実際に選ばれたグレゴリウス14世が[[ミラノ]]の評議員 (senator) の息子であり、senator の語源が「古い人、老いた人」の意味であることから当てはまると解釈したり、ミラノ自体が紀元前400年ごろに建設された古い都市であると解釈するなどした<ref>O'Brien (1880) p. 63 ; Bander (1973) p.70.</ref>。ほかに、[[フランス語]]では「ミラノ」(Milan, ミラン)は「千年」(Mille ans, ミラン)の語呂合わせになるといった解釈も行われている<ref>ブルトン (1982) p.100</ref>。||[[File:C o a Gregorio XIV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Pia ciuitas in bello.|| Innocentius. IX.||colspan="2"|
|-
|76.|| 戦時の篤信の都市||'''[[インノケンティウス9世 (ローマ教皇)|インノケンティウス9世]]''' (1591) <br />Giovanni Antonio Facchinetti || この標語の「都市」は、彼の出身地である篤信で有名な[[ボローニャ]]とされたり、彼が[[エルサレム]]の名誉総大司教であったことから、エルサレムと解釈されたりした<ref>O'Brien (1880) p. 64 ; Bander (1973) p.71.</ref>。ほか、この時期に[[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]]が[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]に強く抵抗していた[[パリ]]のこととする解釈もある<ref name = Maxence>Maxence (1980) pp.244-248</ref>。偽作説の中には、これもオルヴィエートと解釈できる(つまり、シモンチェッリが選出される機会を2度設定していた)とする指摘がある<ref>Halbronn (2005) p.51</ref>。||[[File:C o a Innocenzo IX.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Crux Romulea.|| Clemens. VIII.||colspan="2"|
|-
|77.|| [[ロムルス]]の十字架||'''[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]''' (1592–1605) <br />Ippolito Aldobrandini ||彼の紋章のデザインは、一本の直線に何本もの直線が直交する帯模様であり、あたかも多重のローマ十字架(教皇十字架)であるかのように見えた<ref name = bander_77>O'Brien (1880) p. 64 ; Bander (1973) p.72.</ref>。メネストリエはそのような帯模様を教皇十字架と解釈する強引さを批判していた<ref>Maître (1902) p.377</ref>。信奉者側のほかの解釈としては、[[日本二十六聖人]]の大殉教事件と結びつける説もある。その事件はこの教皇の在位期間に起こり、19世紀に彼らを列聖したのは『十字架の十字架』(101番)に対応する[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]だった<ref name = bander_77 />。|| [[File:C o a Clemente VIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Vndoſus uir.|| colspan="3"|
|-
|78.|| 波打つ人||'''[[レオ11世 (ローマ教皇)|レオ11世]]''' (1605) <br />Alessandro Ottaviano De Medici ||彼の在位期間は1ヶ月もなく、教皇として寄せては消える波のような儚い存在だった<ref>O'Brien (1880) p. 65 ; Bander (1973) p.72.</ref>。懐疑的な視点では、『蛇のごとき人』(23番)や『波の祝福から』(32番)との対比から、これも紋章を念頭に置いていたのではないかとも指摘された<ref>O'Brien (1880) p. 65</ref>。しかし、この教皇はメディチ家出身であり、波を思わせる紋章ではなかった<ref>Bander (1973) p.72.</ref>。 ||[[File:C o a Papas Medicis.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Gens peruerſa.|| colspan="3"|
|-
|79.|| 邪悪な種族 ||'''[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]''' (1605–1621) <br />Camillo Borghese ||信奉者たちは、パウルス5世の紋章に使われていた鷲と竜が、しばしば邪悪な種族と呼ばれると主張している<ref>Bander (1973) pp.73-74.</ref>。逆に、それらは邪悪な種族とは呼べないから、パウルス5世が[[ボルゲーゼ家]]出身であることを予言したという解釈もある<ref>レジュ (1982) pp.88,90.</ref>。他方で懐疑論者からは、どの教皇の在位期間にも教皇本人ないし関連人物の中に、「邪悪な種族」くらいは容易に見付かるとも指摘されている<ref>O'Brien (1880) p. 65.</ref>。||[[File:C o a Paulo V.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|In tribulatione pacis.|| colspan="3"|
|-
|80.|| 平和の煩悶の中で ||'''[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]''' (1621–1623) <br />Alessandro Ludovisi ||彼がローマ教皇大使だった時には、[[サヴォイア公国]]、フランス、スペインの間に平和をもたらそうと奔走したとか<ref>O'Brien (1880) p. 66.</ref>、彼が枢機卿になったのはサヴォイア公とマントヴァ公の間に和平が成立した後だったとか<ref name = Moreri />、彼が勅令によって[[コンクラーヴェ]]を[[秘密投票]]方式にした<ref name = Maxence/>などと解釈されるが、定説化した見解はなく、1590年以前の標語には見られなかった曖昧さであることも指摘される<ref>O'Brien (1880) p. 66 ; Bander (1973) p.74</ref>。||[[File:C o a Gregorio XV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Lilium et roſa.|| colspan="3"|
|-
|81.|| 百合と薔薇||'''[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]''' (1623–1644) <br />Maffeo Barberini || この標語も、本来は紋章を想定したものだったのではないかと指摘されている<ref name = Obrien_81>O'Brien (1880) p. 66</ref>。しかし、彼の紋章は3匹の蜜蜂で、百合も薔薇も描かれていなかったため、百合も薔薇も花粉を集めるミツバチと縁があるなどという形で結び付けられる<ref name = Obrien_81 /><ref name = Moreri /><ref name = CE />。あるいは、同じ教皇名の[[ウルバヌス4世 (ローマ教皇)|ウルバヌス4世]]の紋章が百合と薔薇(21番参照)だったことと結びつける者もいる<ref>Maître (1902) p.407</ref>。ほかには、彼の出身地の[[フィレンツェ]]の市章が百合であるとか、百合に象徴されるフランスの[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|ヘンリエッタ・マリア]]と薔薇に象徴されるイングランドの[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ]]の結婚に許しを与えたとか<ref name = Obrien_81 />、彼の在位期間と重なる[[三十年戦争]]中には英仏の同盟が結ばれた<ref>ブルトン (1982) p.93</ref>などと解釈される。||[[File:C o a Urbano VIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Iucunditas crucis.|| colspan="3"|
|-
|82.|| 十字架の法悦||'''[[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]''' (1644–1655) <br />Giovanni Battista Pamphili ||彼は聖[[十字架挙栄祭]]の祝日(9月14日)に教皇に選ばれた<ref>O'Brien (1880) p. 67 ; Bander (1973) p.75 ; ブルトン (1982) p.93</ref>。||[[File:C o a Innocenzo X.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Montium cuſtos.|| colspan="3"|
|-
|83.|| 山々の守護者||'''[[アレクサンデル7世 (ローマ教皇)|アレクサンデル7世]]''' (1655–1667) <br />Fabio Chigi ||彼の家紋は星の下に連なる小山で、それと結び付けられることがしばしばである<ref>O'Brien (1880) p. 67; Bander (1973) p.76.</ref><ref name = Moreri />。一方、その解釈だと「守護者」が何を指すか曖昧だという指摘もある<ref>O'Brien (1880) p. 67.</ref>。||[[File:C o a Alessandro VII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Sydus olorum.|| colspan="3"|
|-
|84.|| 白鳥たちの星||'''[[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]]''' (1667–1669) <br />Giulio Rospigliosi || 信奉者たちは「星」について、彼の出身地である[[ピストイア]]を流れる川が星を意味するステッラ川 ([[:it:Stella (torrente)|Stella]]) だと解釈している<ref>Maître (1902) p.427</ref><ref group = "注釈">川の名前をステッラータ (Stellata) と表記している解釈者も複数いる(Maxence (1980) p.245, ブルトン (1982) p.93)。</ref>。また、「白鳥」については、彼が教皇選出時にバチカンの「白鳥の間」という部屋にいたと解釈されることがしばしばだが<ref>Maître (1902) p.427, Bander (1973) p.77,ブルトン (1982) p.93</ref><ref name = Maxence /><ref name = Moreri />、そのような話は信奉者たちの解釈書以外に見られないとも指摘されている<ref>O'Brien (1880) p. 69.</ref>。||[[File:C o a Clemente IX.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|De flumine magno.|| colspan="3"|
|-
|85.|| 大きな川より||'''[[クレメンス10世 (ローマ教皇)|クレメンス10世]]''' (1670–1676) <br />Emilio Altieri || 彼はローマの出身で、同市内を流れる[[テヴェレ川]]は、彼が生まれたときに氾濫したと主張する信奉者たちがいる。しかし、この説については、信奉者の中にさえ疑いを向ける者がいる<ref>O'Brien (1880) p. 69</ref>。また、彼がアルティエリ家の出身者であることから、アルティエリをスペイン語のアルト・リオ(Alto rio, 深い川)との言葉遊びと見なす者もいる<ref>O'Brien (1880) p. 69 ; Bander (1973) p. 77.</ref>。メネストリエはこうした解釈について、マラキもこの教皇もスペイン人でなく、マラキがスペイン語に通じていたかも定かではないと批判していた<ref>Ménestrier (1689b) p.9</ref>。 ||[[File:C o a Clemente X.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Bellua inſatiabilis.|| colspan="3"|
|-
|86.|| 貪婪な獣||'''[[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]]''' (1676–1689) <br />Benedetto Odescalchi || 彼の紋章には獅子と鷲が描かれていたので、どちらか一方(特に前者)が「貪婪な獣」に対応するとされる<ref name = Bander_86>O'Brien (1880) p. 70 ; Bander (1973) p. 78.</ref><ref>Maître (1902) p.439</ref>。ただし、獅子が本当に「貪婪な獣」と呼べるかには議論がある<ref>O'Brien (1880) p. 70.</ref>。ほかの解釈としては、インノケンティウス11世がチーボ枢機卿 (Cibo) に頼っていたことから、チーボ(イタリア語で食料の意)なしにはいられないことを表現していると解釈されることもある<ref name = Bander_86 /><ref name = Moreri />。 ||[[File:C o a Innocenzo XI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Pœnitentia glorioſa.|| colspan="3"|
|-
|87.|| 栄えある悔悛||'''[[アレクサンデル8世 (ローマ教皇)|アレクサンデル8世]]''' (1689–1691) <br />Pietro Ottoboni ||信奉者たちは、彼が[[ケルンのブルーノ|聖ブルーノ]]の祝日(10月6日)に教皇に選ばれたこと(聖ブルーノは清貧と祈禱を重視するカルトジオ会を設立した)と結びつけたり<ref name = Maxence /><ref name = Moreri />、この教皇が在位期間中に「栄えある悔悛」(''Poenitentia gloriosa'') と刻んだメダルを発行したと主張したり<ref>Maître (1902) p.447, レジュ (1982) p.40</ref>、この教皇の在位期間中に[[ガリカニスム]]の一部の聖職者たちが悔い改めを表明したことと解釈する<ref>Bander (1973) p. 79.</ref>などしている。他方で、「栄えある悔悛」など、どの教皇の在位期間にも見られるものだという批判がある<ref>O'Brien (1880) p. 70</ref>。また、メネストリエは聖ブルーノの祝日とする解釈について、選ばれた日に関連する情報からこじつけるのでは、教皇個人について何も予言したことになっていないと批判した<ref>Halbronn (2005) pp.143-144.</ref>。||[[File:C o a Alessandro VIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Raſtrum in porta.|| colspan="3"|
|-
|88.|| 門の[[熊手]] ||'''[[インノケンティウス12世 (ローマ教皇)|インノケンティウス12世]]''' (1691–1700) <br />Antonio Pignatelli ||彼はナポリ城門近くに邸宅のあったピニャテッリ家の出身で、この一族はピニャテッリ・デル・ラステッロ(Pignatelli del Rastello, ラステッロは熊手の意)と呼ばれることがあった、と解釈される。その出典としてインノケンティウス12世とほぼ同時代の予言解釈書を挙げる信奉者がいる<ref>Maître (1902) p.455</ref>一方で、この人物は単にピニャテッリとだけ呼ばれるのが普通である<ref>Halbronn (2005) p.144</ref>。19世紀や20世紀の信奉者たちの中には、「熊手」と結びつけるのは難しいとする者たちがいるだけでなく<ref>O'Brien (1880) p. 70 ; Bander (1973) p. 79 ; Halbronn (2005) p.144</ref>、ラステッロなどというあだ名を記した史料はいっさい見付けられなかったと言い切る者さえいる<ref>Fontbrune (2005) p.232</ref>。||[[File:C o a Innocenzo XII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Flores circundati.|| colspan="3"|
|-
|89.|| 花々に囲まれて||'''[[クレメンス11世 (ローマ教皇)|クレメンス11世]]''' (1700–1721) <br />Giovanni Francesco Albani || 彼の出身地の[[ウルビーノ]]は市章が花飾りであったと解釈される<ref name = Maitre_89>Maître (1902) p.461</ref><ref name = Maxence />。ただし、信奉者の中でさえも、その解釈に疑問を呈する者はいた<ref name = Maitre_89 />。ほかの解釈としては、この教皇が在位期間に「花々に囲まれて」と刻んだメダルを発行したというものがある<ref>O'Brien (1880) p. 71 ; Bander (1973) p. 79.</ref>。||[[File:C o a Clemente XI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|De bona religione.|| colspan="3"|
|-
|90.|| 善き信心によって||'''[[インノケンティウス13世 (ローマ教皇)|インノケンティウス13世]]''' (1721–1724) <br />Michelangelo dei Conti || この教皇は何人もの教皇を輩出していた[[コンティ家]]の出身だった<ref>O'Brien (1880) p. 71 ; Maître (1902) p.468 ; Bander (1973) p. 80.</ref>。懐疑論者の中には、『善き伯爵』(25番)の「善き」が教皇の就任前の名と結びついていたことから、同じような視点で偽作されたものだった可能性を指摘する者もいる<ref>O'Brien (1880) p. 71.</ref>。 ||[[File:C o a Innocenzo XIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Miles in bello.|| colspan="3"|
|-
|91.|| 戦時の兵士 ||'''[[ベネディクトゥス13世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス13世]]''' (1724–1730) <br />Pietro Francesco Orsini || この標語は、教皇が峻厳な性格で、華美を戒めたことなどと結び付けられ、「[[テモテへの手紙二]]」2章3節でイエス・キリストの兵士となるように説かれていることなどが引き合いに出される<ref>O'Brien (1880) p. 72 ; Bander (1973) p. 80.</ref>。また、武勇で知られる[[オルシーニ家]]の出身だからとも解釈される<ref name = Maxence /><ref>Maître (1902) p.471</ref>。他方で懐疑派からは、どの教皇の在位期間にも戦いは起こるものだという批判がある<ref>O'Brien (1880) p. 72</ref>。||[[File:C_o_a_Benedetto_XIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Columna excelſa.|| colspan="3"|
|-
|92.|| 高い円柱||'''[[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]]''' (1730–1740) <br />Lorenzo Corsini || この標語は、彼が[[サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]に建てた礼拝堂に、[[パンテオン]]から流用した2本の円柱を用いたことや<ref>O'Brien (1880) p. 72 ; Maître (1902) p.478 ; Bander (1973) p. 81.</ref>、ローマ市民たちが彼の死後に彼を偲ぶ銅像を立てたことなどと解釈される<ref name = Bander_92>O'Brien (1880) p. 72 ; Bander (1973) p. 81.</ref>。また、彼がフラスカーティの司教枢機卿で、その都市のすぐ近くには[[コロンナ (イタリア)|コロンナ]](円柱の意)という小さな町があることと結び付けられることもある<ref>Fontbrune (2005) pp.239-240</ref>。懐疑的な視点では、『黄金の幕がついた円柱(冠)』(51番)との対比から、[[コロンナ家]]からの選出を念頭に置いたのではないかとされる<ref name = Bander_92 />。||[[File:C o a Clemente XII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Animal rurale.|| colspan="3"|
|-
|93.|| 田園の動物||'''[[ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス14世]]''' (1740–1758) <br />Marcello Lambertini ||信奉者たちには、彼のたゆまない勤勉な姿勢が牛に喩えられると解釈する者たちがいる<ref>O'Brien (1880) p. 73 ; Maître (1902) p.485 ; Bander (1973) p. 83.</ref><ref name = Stearn>スターン (1965) pp.120-124</ref>。他方で、『草を食べる牛』(55番)などとの比較から、これも本来は紋章を念頭に置いて作成されたものだったのではないかという指摘もある<ref>O'Brien (1880) p. 73</ref>。しかし、実際の紋章は生物が全く描かれていない帯模様で、標語に結びつけようがない<ref>Bander (1973) pp. 82-83.</ref>。 ||[[File:C_o_a_Benedetto_XIV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Roſa Vmbriæ.|| colspan="3"|
|-
|94.|| ウンブリアの薔薇||'''[[クレメンス13世 (ローマ教皇)|クレメンス13世]]''' (1758–1769) <br />Carlo Rezzonico || 信奉者たちはしばしば、この教皇が在位期間中にフランシスコ会士を含む多くの人物を列聖したことと解釈した<ref>O'Brien (1880) p. 74 ; Bander (1973) p. 83.</ref>。フランシスコ会の象徴は薔薇であり、創設者である[[アッシジのフランチェスコ|聖フランチェスコ]]にゆかりのある[[アッシジ]]は[[ウンブリア州]]にあるから、標語に結びつくとされる<ref>Fontbrune (2005) pp.248-249</ref>。ほかには、クレメンス13世がウンブリア地方[[リエーティ]]の総督だったことがあり、その平原は香しい薔薇で有名な場所だからと解釈されることもある<ref>Maître (1902) p.491</ref><ref name = Maxence />。|| [[File:C o a Clemente XIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Vrſus uelox.|| colspan="3"|
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|95.|| 機敏な熊||'''[[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]]''' (1769–1774) <br />Lorenzo Giovanni Vincenzo Antonio Ganganelli || 信奉者たちはこの教皇の出身であるガンガネッリ家の家紋が走る熊だったと主張するが<ref>Maître (1902) p.496, レジュ (1982) p.96、ブルトン (1982) p.94</ref><ref name = Stearn />、客観的な出典を示していないため、疑わしいものとされている<ref>Bander (1973) p. 84.</ref>。ほかには、この教皇の在位期間よりも後に起きた[[フランス革命]]の萌芽を象徴しているとか<ref>O'Brien (1880) p. 74, レジュ (1982) p.95</ref>、[[イエズス会]]の解散を命じた教皇自身を象徴している<ref>レジュ (1982) p.95</ref>などと解釈される。懐疑的には、熊 (Ursus) が中世以来の予言文書ではしばしば[[オルシーニ家]] (Orsini) を意味してきたことから、オルシーニ家出身の教皇が登場することを念頭に置いたのではないかとも言われている<ref>O'Brien (1880) p. 74, Halbronn (2005) p.185</ref>。 || [[File:C o a Clemente XIV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Peregrin’ apoſtolic’|| colspan="3"|
|-
|96.|| [[使徒]]のごとき[[巡礼|巡礼者]]||'''[[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]]''' (1775–1799) <br />Giovanni Angelico Braschi || この標語は、この教皇が24年という長期に渡って教皇に地位にあったことと解釈される<ref>O'Brien (1880) p. 75 ; Bander (1973) p. 85.</ref>。ほかの解釈としては、本名のジョヴァンニが[[ヨハネ (使徒)|使徒ヨハネ]]に由来していることと、教皇がローマを離れるのは異例となっていた時代にあって、晩年には[[ナポレオン・ボナパルト]]によるローマからの退去命令によって各地を転々とし、[[ヴァランス]]で客死したことなどが予言されているという説がある<ref>Maître (1902) pp.514-516.</ref>。他方で懐疑的には、Peregrin’ (Peregrinus) というのはイタリアの名家ペッリグリーニ (Pelligrini) が念頭に置かれていたのではないかとも言われている<ref> O'Brien (1880) p. 75</ref>。||[[File:C o a Pio VI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Aquila rapax.|| colspan="3"|
|-
|97.|| 強欲な鷲 ||'''[[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]''' (1800–1823) <br />Barnaba Chiaramonti || 信奉者たちは、この教皇が鷲を紋章とする[[ナポレオン・ボナパルト]]との確執で知られていることと結びつけている<ref>O'Brien (1880) pp. 75-76 ; Maître (1902) p.524 ; Bander (1973) p. 85. </ref><ref name = Maxence />。懐疑派のオブライエンは教皇本人の紋章などとは適合しないことを踏まえ、この教皇の紋章だったら、『山々の守護者』(83番)や『十字架の十字架』(101番)の方がよほど的中とされたであろうことを指摘した<ref> O'Brien (1880) p. 76.</ref>。 ||[[File:C o a Pio VII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Canis & coluber.|| colspan="3"|
|-
|98.|| 犬と蛇||'''[[レオ12世 (ローマ教皇)|レオ12世]]''' (1823–1829) <br />Annibale della Genga ||信奉者たちは、この教皇が犬のような警戒心と蛇のような抜け目なさを備えていたと解釈している<ref>O'Brien (1880) p. 76 ; Maître (1902) pp.563-564 ; Bander (1973) p. 86.</ref>。ほかに、彼が対決姿勢を示した[[カルボナリ]]などの[[秘密結社]]の隠喩と解釈されることもある<ref>Maître (1902) pp.570-571 ; Fontbrune (2005) pp.256-257.</ref>。また、レオ12世の紋章が鷲だったことから、『強欲な鷲』(97番)と順番が違っているのではないかと解釈されることもある<ref> Bander (1973) p. 86.</ref>。この標語は懐疑論者から、1590年以降の曖昧な予言の中でも、特に説得的な解釈が困難な好例としてしばしば挙げられている<ref>フィナテリ (1982) p.62、山津 (2012) p.217</ref>。||[[File:C o a Leone XII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Vir religioſus.|| colspan="3"|
|-
|99.|| 篤信の人 ||'''[[ピウス8世 (ローマ教皇)|ピウス8世]]''' (1829–1830) <br />Francesco Saverio Castiglioni || 信奉者たちは、ラテン語で「信心深い」などの意味を持つ教皇名 Pius が標語の religiosus の類義語であることに対応していると解釈したり、彼が過去にも教皇を輩出したことのある家の出身だったことと結び付けたりしている<ref>O'Brien (1880) p. 77 ; Bander (1973) p. 87.</ref>。 ||[[File:C o a Pio VIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|De balneis Ethruriæ.|| colspan="3"|
|-
|100.|| [[エトルリア]]の浴場から ||'''[[グレゴリウス16世 (ローマ教皇)|グレゴリウス16世]]''' (1831–1846) <br />Mauro, or Bartolomeo Alberto Cappellari || 信奉者たちは、彼が[[トスカーナ]]地方(古称はエトルリア)のバルネウム(Balneum, 浴場の意)と呼ばれる場所で設立されたという{{仮リンク|カマルドリ会|en|Camaldolese}}の修道士だったことと結び付けている。<ref>O'Brien (1880) p. 76 ; Bander (1973) p. 87 ; レジュ (1982) pp.102-103</ref>。||[[File:C o a Gregorio XVI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Crux de cruce.|| colspan="3"|
|-
|101.|| 十字架の十字架 ||'''[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]''' (1846–1878) <br />Giovanni Maria Mastai Ferretti ||信奉者たちは、十字架を紋章とする[[サヴォイア家]]が深く関わった[[リソルジメント]]によって、この教皇が大きな苦難(十字架)を背負わされたと解釈している<ref>O'Brien (1880) pp. 78-79 ; Bander (1973) pp. 88-89 ; レジュ (1982) pp.104-106.</ref><ref name = Maxence /><ref name = CE />。懐疑的には、これも十字架を紋章とする人物や、イタリアのデル・クローチェ家 (Del Croce) を念頭に置いていた可能性が指摘されている<ref>O'Brien (1880) pp. 78-79.</ref>。 || [[File:C o a Pio IX.svg|right|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Lumen in cœlo.|| colspan="3"|
|-
|102.|| 空中の光||'''[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]''' (1878–1903) <br />Gioacchino Pecci ||彼の紋章は青地に流星であり、その予言とされる<ref>O'Brien (1880) p. 79 ; Maître (1902) p.640 ; Bander (1973) pp. 89-90 ; ブルトン (1982) p.95</ref><ref name = Stearn />。懐疑的には、公刊される1595年以前の予言で流星の紋章を示す時には『より良き星から』(47番)という形で「星」と明言していたのだから、本当にレオ13世の紋章を見通していたのなら、ここでもそう表現したのではないかと指摘されている<ref>O'Brien (1880) p. 79</ref>。||[[File:C o a Leone XIII.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Ignis ardens.|| colspan="3"|
|-
|103.|| 燃えさかる火||'''聖[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]''' (1903–1914) <br />Giuseppe Sarto ||信奉者たちは、彼の熱意の比喩であるとか<ref>Bander (1973) p. 90.</ref><ref name = CE />、彼の在位期間最後の月に[[第一次世界大戦]]が勃発したことや、1908年の[[ツングースカ大爆発]]などと結びつけている<ref>レジュ (1982) pp.106-110</ref>。||[[File:Pius X COA.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Religio depopulata.|| colspan="3"|
|-
|104.|| 荒廃した宗教<ref group = "注釈">Moréri (1740) で La Religion ravagée と仏訳され、O’Brien (1880) で religion laid waste と英訳されていることを踏まえた。Maxence (1980) や Fontbrune (2005) では La religion dépeuplée (過疎の宗教、人口が激減した宗教)と仏訳されている。意味するところはほぼ同じだが、信奉者側の解釈に影響するニュアンスの違いが存在するので注記しておく。</ref>||'''[[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]''' (1914–1922) <br />Giacomo Della Chiesa ||信奉者たちは、彼の在位期間に、[[第一次世界大戦]]や[[ロシア革命]]など、キリスト教人口の大幅な減少につながる大事件が起こったことと結び付けている<ref>Bander (1973) p. 91 ; レジュ (1982) pp.112-115、高平ほか (1998) pp.109-110</ref><ref name = Stearn /><ref name = Maxence />。||[[File:CoA Benedetto XV.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Fides intrepida.|| colspan="3"|
|-
|105.|| 不敵な信仰||'''[[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]''' (1922–1939) <br />Achille Ratti ||信奉者たちは、彼が[[ファシズム]]や[[共産主義]]に対して敢然と批判したことと結びつけている<ref>Bander (1973) p. 91, レジュ (1982) p.115、ブルトン (1982) p.95.</ref>。懐疑派のオブライエンの著書はこの教皇が就任するよりも前だったが、『ペトロの信仰によって』(69番)の「信仰」がカラファ家との言葉遊びだったことと比較するようコメントしていた<ref>O’Brien (1880) p.80</ref>。 ||[[File:C o a Pio XI.svg|100px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Paſtor angelicus.|| colspan="3"|
|-
|106.|| 天使的牧者 ||'''[[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]''' (1939–1958) <br />Eugenio Pacelli ||信奉者たちは、彼が非常に敬虔な教皇であったとか<ref name = Stearn />、ローマのサンタンジェロ橋(聖天使の意)近くで生まれたとか<ref>ブルトン (1982) p.95、桐生 (1996) p.35</ref>、この教皇の在位期間に聖母の幻像が多く出現した<ref>レジュ (1982) p.120</ref>などと解釈した。||[[File:Pius 12 coa.svg|80px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Paſtor & nauta.|| colspan="3"|
|-
|107.|| 牧者にして船乗り ||'''[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]''' (1958–1963) <br />Angelo Giuseppe Roncalli || 信奉者たちは、この教皇が水の都[[ヴェネツィア]]の総大司教であったことと結び付けている<ref>Bander (1973) p. 93, Maxence (1980) p.248, ブルトン (1982) p.95</ref>。また、彼が[[第2バチカン公会議]]を主導したことと結びつける見解もある<ref>Maxence (1980) p.248, ブルトン (1982) p.95.</ref>。もっとも、この教皇の在位期間の最後の年の時点で、ジャーナリストの{{仮リンク|ジェス・スターン|en|Jess Stearn}}は、この教皇が船旅でもしないと的中したことにならないので信奉者が困っていると述べていた<ref>スターン (1965) p.123 (原書は1963年)</ref>。なお、この教皇が選出されたコンクラーヴェの期間中、ニューヨーク大司教の[[フランシス・スペルマン]]がマラキの予言に関心を寄せ、羊を載せた小舟を使って[[テヴェレ川]]を航行したという噂が、ローマ市内で聞かれたという<ref>Bander (1973) p. 93.</ref>。懐疑派からは、ヴェネツィア総大司教は20世紀に限っても[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]と[[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]が経験しているので、この標語を彼らにも当てはめることは可能だし、「船乗り」を舟に喩えられるカトリック教会の長とまで拡大解釈すれば、どの教皇にも該当すると指摘されている<ref>フィナテリ (1982) pp.66-67</ref>。||[[File:John 23 coa.svg|80px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Flos florum.|| colspan="3"|
|-
|108.|| 花の中の花 ||'''[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]''' (1963–1978) <br />Giovanni Battista Enrico Antonio Maria Montini || 信奉者たちは、彼の紋章が3輪の百合の花であったことと結び付けている<ref>Bander (1973) p. 94 ; ブルトン (1982) p.95</ref><ref name = Maxence />。||[[File:Paul 6 coa.svg|80px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|De medietate lunæ.|| colspan="3"|
|-
|109.|| 月の半分によって||'''[[ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ1世]]''' (1978) <br />Albino Luciani || 信奉者たちは、彼が「美しい月」という意味のベッルーノ司教区に生まれたとか<ref>ブルトン (1982) p.96、レジュ (1982) p.138</ref>、生まれた日や司祭になった日が[[上弦の月]]であったとか<ref>レジュ (1982) p.140</ref>、教皇に選ばれた日が半月だったとか<ref name = Day>デイ (2006) p.100</ref>、歴史的にイスラム圏(三日月が象徴)との窓口になってきたヴェネツィアの総大司教だった<ref>レジュ (1982) p.140</ref><ref name = Maxence />などと、様々に解釈している。 ||[[File:John paul 1 coa.svg|80px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|De labore solis.|| colspan="3"|
|-
|110.|| 太陽の労働によって<ref group = "注釈">しばしば直訳されるので、ここでもそうしたが、19世紀の懐疑論者オブライエンによると、この標語は古典的な表現で『太陽の蝕について』(of the eclipse of the sun) という意味だという (O’Brien (1880) p.82)。</ref>||'''[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]''' (1978–2005) <br />Karol Wojtyła ||この教皇が就任して間もない頃の信奉者たちは、彼がイタリアから見て東(日の出の方角)にある[[ポーランド]]の出身で、労働者だった経歴を持っていることなどと解釈した<ref>レジュ (1982) p.169、ブルトン (1982) p.96</ref>。もっともこの解釈は、信奉者からさえも批判が出ており、もしもイタリアよりも西から選ばれていたら日没の方角からの教皇と言われただろうという指摘もある<ref>Fontbrune (2005) p.285</ref>。ほかの信奉者側の見解には、彼が日蝕の時に生まれたとか<ref name = Day />、太陽[[黒点]]の極大期に就任し、極小期に逝去したとか<ref name = hayashi>林 (2007) pp.76-77</ref>、太陽がめぐるように世界中を旅して回ったとか<ref>Fontbrune (2005) pp.285-287, 泉 (2013) p.51</ref>、「日出ずる国」[[日本]]を訪問した最初の教皇だった<ref>Fontbrune (2005) p.289 ; [[川尻徹]] (1988) 『ノストラダムス メシアの法』 [[二見書房]]、pp.27-30</ref>などといった解釈がある。また、[[地動説]]を唱えた[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]が学んだ[[クラクフ]]出身であることと結びつける見解もあるが<ref>ワルチンスキーほか (1990) p.108、桐生 (1996) p.35、アラン (2011) p.63</ref><ref group = "注釈">実際はクラクフ出身ではなく、その近郊の[[ヴァドヴィツェ]]の出身。cf. バンソン (2000) p.201 etc.</ref>、強引だという評価もある<ref>アラン (2011) p.63</ref>。||[[File:John paul 2 coa.svg|80px]]
|- style="background:silver; text-align:center;"
|colspan="2"|Gloria oliuæ.|| colspan="3"|
|-
|111.|| オリーブの栄光 ||'''[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]''' (2005–2013) <br />Joseph Ratzinger ||信奉者たちは、彼の教皇としての名前ベネディクトは、オリーブの枝をシンボルとする[[ベネディクト会]]を創設した[[ヌルシアのベネディクトゥス|聖ベネディクトゥス]]に通じるなどと解釈している<ref name = hayashi />。なお、この教皇が就任する以前から、ベネディクト会との関連は指摘されていた。ベネディクト会には、聖ベネディクトゥスの予言として、世界の終末に先立つ悪との戦いでは、自分たちの修道会がカトリック教会を勝利に導くという伝説があったからだという<ref>Bander (1973) p.96, バンソン (2000) p.330、デイ (2006) p.100</ref>。ただし、ベネディクト16世はベネディクト会出身ではない<ref>[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/biography.htm ベネディクト十六世(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)略歴](カトリック中央協議会、2013年4月8日閲覧); マラキ予言関連文献でこの点に言及しているものとして、林 (2007) p.76、山津 (2012) p.218など。</ref>。懐疑派からは、オリーブが平和のシンボルであることと結びつければ、それに該当する業績を残した[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]をはじめ、何人もの教皇にあてはまる曖昧な標語であることが指摘されている<ref>フィナテリ (1982) p.67、山津 (2012) p.218</ref>。||[[File:BXVI CoA like gfx PioM.svg|80px]]
|}

=== 最後の予言 ===
111番目のあとに書かれているのは次の二文である。
*「ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろう」(''In psecutione. extrema S.R.E. sedebit.'')
*「ローマびと[[ペトロ]] 、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。そして、7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。終わり。」(''Petrus Romanus, qui pascet oues in multis tribulationibus : quibus transactis ciuitas septicollis diruetur, et Iudex tremendus judicabit populum suum. Finis.'')

以上の二文は初出である『生命の木』や1598年のルスカの版では二段落に分かれていた。これを一段落にまとめたのは、1624年のメシンガムの版が最初であり、以降その読み方が主として信奉者の間では踏襲されており<ref>Halbronn (2005) p.61</ref>、まとめて112番目と位置づけられることがしばしばである<ref>O’Brien (1880) pp.82-83, レジュ (1982) p.206 etc.</ref>。

これをひとまとまりの予言ととらえ、信奉者たちは112番目の教皇のときに[[ハルマゲドン|世界最終戦争]]が起こるのではないかとか<ref>高橋良典 (1982) 『大予言事典 悪魔の黙示666』 学習研究社、p.336</ref>、112番目は[[コンクラーヴェ]]を経ないで教皇を僭称する人物になるのではないかとか<ref>レジュ (1982) pp.218-219、桐生 (1996) p.37</ref>、教皇庁から公認されることのないその人物こそが[[反キリスト]]なのではないか<ref>レジュ (1982) pp.213-214、桐生 (1996) p.37</ref>などと解釈してきた<ref group = "注釈">ちなみに、就任順でこの予言に対応するのは、2013年3月のコンクラーヴェで正式に選出された[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]である。フランシスコが教皇に選出されると、すぐに[[インターネット]]上では「ローマびとペトロ」と様々な形で結び付けを行おうとする者たちが多く現われたことを、オーストラリアの新聞{{仮リンク|フレイザー・コースト・クロニクル|en|Fraser Coast Chronicle}}が報じている(cf. [http://www.frasercoastchronicle.com.au/news/forums-strive-connect-new-pope-antichrist-phophecy/1791694/ "Forums strive to connect new Pope to Antichrist prophecy", from ''The Fraser Coast Chronicle''], 2013年4月8日閲覧)。なお、オカルト雑誌『[[ムー (雑誌)|ムー]]』における選出直後の記事では、表面的に関連性がなく、外れたようにも見えるが、隠された意味があるかもしれないと解釈された(泉 (2013) p.53)。</ref>。

しかし、もとが二段落になっていることから、信奉者の中には『オリーブの栄光』の後に『迫害の中で』(In persecutione) と『ローマびとペトロ』(Petrus Romanus) に対応する2人の教皇が控えていると解釈する者もおり、今後、世界の終末やローマ教会の終焉が起こらなかったときに、さらに細分化させていって標語を増やし、予言の延命を図る信奉者が現われるのではないかとも推測されている<ref>Halbronn (2005) p.178</ref>。また、「迫害の中で」という条件付けなどから、111番目の『オリーブの栄光』と112番目の『ローマびとペトロ』の間には、まだ何代もの教皇が存在している可能性があるとして、『オリーブの栄光』から『ローマびとペトロ』に直結させない読み方も古くから提示されている<ref>O’Brien (1880) p.82, ジンマーマン (1982) p.413</ref><ref name = CE>"[http://www.newadvent.org/cathen/12473a.htm Prophecy]", ''The [[カトリック百科事典|Catholic Encyclopedia]]''(2013年4月8日閲覧)</ref>。似たような読み方としては、現在では「迫害」(persecutione) の略と見なされている語が、初出では psecutione.と表記されている<ref group = "注釈">厳密にはpsecutione.の p に省略を示す ~ が付いている。</ref>ことから、prosecutioneの略と見た上で、現在では無視されているピリオドも活かし、「(予言はここで)区切り。ローマ聖教会は終末までその地位にあるだろう」と意訳する者もいる<ref>Victor Dehin の説(cf. Fontbrune (2005) pp.303-305)。</ref>。この読み方の場合、112番目の予言で終末が来るとは解釈できず、111番目の後にローマ・カトリックがいくらでも続くと解釈できることになるという指摘もある<ref>山津 (2012) p.219</ref>。

根本的な点として、偽書説では、112番目とされるフレーズは予言としてでなく、結語のような注記として書き加えられたもので、聖マラキに帰せられている予言の部分には含まれていなかったという見解もある<ref>Halbronn (2005) pp.61, 179</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist}}
{{reflist|group = "注釈"|3}}

=== 出典 ===
{{reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
以下には信奉者側の解釈を紹介するために利用した文献も含まれる。
* Jacques Halbronna (2005), ''Papes et prophéties : décodages et influences'', Boulogne-Billancourt ; Axiome
* Peter Bander (1973), ''The Prophecies of St. Malachy'', Tan Books
* セラフィノ・フィナテリ (1982) 『終末論のまぼろし』 講談社
* Arthur Devine (1911), "[http://www.newadvent.org/cathen/12473a.htm Prophecy]", ''The [[カトリック百科事典|Catholic Encyclopedia]]'', Vol. 12, New York: Robert Appleton Company
* ギイ・ブルトン (1982) 「聖マラキの予言書」(『西洋歴史奇譚』ISBN 4-560-04216-0 ; pp.87-101)
* Jean-Charles de Fontbrune (2005), ''La Prophétie du nouveau pape : Les prophéties de saint Malachie selon le sens de l’histoire'', Editions du Rocher
* Henry James Forman [1936](1940), ''The Story of Prophecy : In the Life of Mankind from Early Times to the Present Day'', New York ; Tudor publishing company
* Jacques Halbronn (2005), ''Papes et prophéties : décodages et influences'', Boulogne-Billancourt ; Axiome
* M.J.O’Brien (1880), ''An Historical and critical account of The so-called Prophecy of St. Malachy'', Dublin ; M.H.Gill & Son
* Jean-Luc Maxence [1979](1980), ''Serait-ce vraiment LA FIN DES TEMPS ? '', Montréal ; Presses Sélect Ltée
* Joseph Maître (1902), ''Les Papes et La Papauté de 1143 à la fin du monde d'après La Prophétie attribuée à Saint Malachie. Etude Historique'', P.Lethielleux / G.Loireau
* Claude-François Ménestrier (1689a), ''Refutation des Prophéties faussement attribuées à S. Malachie, sur les Elections des Papes.'', Paris ; R. J. B. de La Caille
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[聖マラキ]]
* [[聖マラキ]]
* [[全ての教皇に関する預言]]
* [[全ての教皇に関する預言]]
* [[ローマ教皇の一覧]]
* [[偽書]]
* [[偽書]]


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* [http://www.araldicavaticana.com/Pontefici.htm 歴代教皇の紋章]
* [http://www.araldicavaticana.com/Pontefici.htm 歴代教皇の紋章]


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2013年5月10日 (金) 14:57時点における版

『生命の木』(1595年)に掲載された聖マラキの予言の一部

全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言(すべてのきょうこうにかんするだいしきょうせいマラキのよげん、Prophetia S. Malachiae, Archiepiscopi, de Summis Pontificibus)は、12世紀アーマー大司教の聖人マラキ(マラキアス)に帰せられている、歴代ローマ教皇に関する予言である[注釈 1]。本記事名は現在確認されている範囲での初出に当たる『生命の木』(1595年)に採録されたときのものだが、一般には単に「聖マラキの予言」「教皇(について)の予言」などと呼ばれる。実際には1590年に作成された偽書と見なすのがほぼ定説と化しており、その立場からは「偽マラキの予言[1][注釈 2]と呼ばれることもある。

概要

これは、1143年に就任した165代ローマ教皇ケレスティヌス2世以降の、対立教皇10人を含む[注釈 3]111人(または112人かそれ以上)の歴代教皇についての予言である。

予言は2語から4語の極めて簡素なラテン語の標語111個と、112番目に当たる最後の散文によって構成されている。標語は原則として教皇が就任した順に並んでおり、該当する教皇の就任前の姓名、紋章(家紋や出身都市の市章などを含む)、出身地名、家柄、性格、在位期間の特徴的な事件などのいずれか1つないし複数を予言しているとされる[注釈 4]。一部の終末論者やそれに便乗する文献などは、同予言書で111番目に当たる教皇のとき、またはその次の教皇のときに何らかの激変が起こるのではないかという形で採り上げてきた。

しかし、最初に公刊されたのはマラキの死から450年近く後の1595年のことであり、それ以前には伝聞すらいっさい確認されていない。当時の時代状況や似たような偽予言群の存在などから、1590年のコンクラーヴェにあわせて偽作された予言であることがほぼ定説化している。

最初の公刊と時代背景

聖マラキの立像。彼を取巻く同時代人の中に、この予言について言及した者はいない。

1595年ベネディクト会修道士アルノルド・ヴィオンが、ヴェネツィアで刊行した著書『生命の木』(Lignum Vitae) に収録したのが、この予言の初めての公刊であった[2]。信奉者寄りの著書では、バチカンの文書保存庫からヴィオンが見つけ出したとされることもあるが[3]、ヴィオン自身は出典については何も触れていない。『生命の木』には、「その予言を知ったが、まだ公刊されていないようだから収録した」という趣旨のごく簡単な説明しか書かれていない[4]。そして、ヴィオン以前に遡る写本がバチカン図書館に現存しないのはもちろん、それが存在していた記録すらないと指摘されている[5]

現在では、最初にこの予言が現れたのは1590年と考えられている[6]。実際、『生命の木』では過去のものとなった標語にラテン語で「解説」[注釈 5]がつけられているが、それはウルバヌス7世(在位1590年)までで止まっている。ヴィオンは解説の著者として、スペイン人のドミニコ会士アルフォンソ・チャコンの名を挙げているが、チャコン自身の書き物ではこの解説に触れているものが一切ないため[7]、真偽は定かではない。

偽作の直接的な動機としては、ウルバヌス7世の次の教皇に当たる標語が『町の古さによって』(75番)となっていることから、オルヴィエート(「古い町」が語源とされる)の司祭だった枢機卿ジロラモ・シモンチェッリ英語版を教皇にしようとしたものではなかったかと考えられている[8]。偽作者は特定されておらず、明確な根拠が示されているわけではないが、最初の紹介者であるヴィオン自身が偽作したわけではないだろうと見るのが一般的である[9]。ヴィオンが示した原文が初出となっているが、彼が依拠したはずの写本は見付かっていないため、オリジナルに忠実かにも議論がある。1598年に出されたロベルト・ルスカの版(ラテン語の標語にイタリア語の解釈が付いている)はその内容からヴィオンをそのまま踏襲していないと判断する者もおり、その立場ではルスカもヴィオン以前の資料を参照しえたのではないかと指摘されている[10]。また、題名についても、1624年にトマス・メシンガムが紹介した時には、マラキの肩書きが単に「大司教」ではなく、「アーマー大司教」「教皇特使」などとより詳しい形で書かれており、初期の版には揺れがあった[11]

さて、歴代教皇を順に予言するというスタイルは、16世紀にはおなじみのものだった。中世に出現した図像と文章を組み合わせた予言書『全ての教皇に関する預言』の亜流として、16世紀頃の歴代教皇を予言するといった体裁の偽書がいくつも出ており、マラキの予言以外に少なくとも9種が存在していた[12]。なかでも、1589年(マラキの予言が偽作されたと考えられている前年)には、『大修道院長ヨアキムの予言』と称するピウス4世(在位1559年 - 1565年)以降の歴代教皇を予言するとした偽書も出現しており、これがマラキの予言のモデルになったという説もある[13]。歴代教皇を対象とする偽予言は、シクストゥス5世(在位 1585年 - 1590年)の在位期間前後に多く出されていたことも知られている[14]

また、マラキの予言が偽作されたと考えられている1590年には、同じ教皇選挙に関連して『ウルバヌス7世の後継者に関する神々しきビルギッタの予言』 (Prophetia Divae Brigittae...in succesorem Urbani VII) など、ほかの予言者に仮託した偽書も刊行されていた[15]。1590年のコンクラーヴェを対象とした偽予言群の存在は、スペイン国王フェリペ2世が教皇選挙に積極的に介入していた状況や、フランスでのカトリック同盟アンリ4世の対立が激化していた状況など、1590年当時の諸状況に影響された政治的動機によって生み出された可能性も指摘されている[16]

ちなみに、このとき実際に選ばれた教皇はオルヴィエートのシモンチェッリではなく、元ミラノ大司教のグレゴリウス14世であった。しかし、信奉者たちは、『町の古さによって』がグレゴリウス14世を的中させていると主張してきた(解釈例は後述)。

解釈をめぐる論争

クロード=フランソワ・メネストリエ
モレリの『歴史大事典』(1740年版)

この予言に関しては、初出から100年近く後になって、イエズス会士のクロード=フランソワ・メネストリエフランス語版が初めて本格的な偽作説を提示した。『誤って聖マラキに帰せられている教皇選挙に関する予言への反駁』(1689年)などのパンフレットで示された彼の指摘はその後の偽作説の基盤となり[17]、それをさらに敷衍したのが神学博士のルイ・モレリフランス語版(1643年 - 1680年)であった[18]。モレリはその大著『歴史大事典』(初版1674年、死後も増補された)の聖マラキの項において、信奉者側の解釈も含めたマラキ予言の紹介と包括的な批判を行なった。彼らの批判の要点は、前述したシモンチェッリ関連を除くと、おおよそ以下のようにまとめることができる。

  1. 1595年以前の伝聞が存在しない[19]
    マラキの予言は1595年に公刊されるまで、誰一人として言及していなかった。マラキと交流があった同時代人クレルヴォーのベルナルドゥスはマラキの伝記をまとめ、彼に予言の才能があったと紹介しているが、そのベルナルドゥスですら教皇に関する予言について何も語っていない[20][21][注釈 6]。また、ローマの動向を聞き及ぶことができたはずの同時代の各地の著名な聖職者たちの証言もいっさい見当たらない[20][21]
    教皇についての歴史や年代記を執筆した人々はマラキの死後何人も出ているが、彼らの著書でもいっさい触れられていない。特にヴィオンが解説者として言及しているチャコンは、歴代教皇の生涯について書いているにもかかわらず、そこでも一切の言及が見られない[20][21]
    アイルランドの著述家たちには、母国の聖人伝のようなものをまとめた人々がいるが、彼らも誰ひとり言及していなかった[20][22]
  2. 1595年以前の教皇の配列がおかしい。
    対立教皇が10人含まれているが、その標語の中で「スキスマ」(分裂)やその類語を用いて対立教皇であることを明示しているのは2人だけで、あとは正式な教皇と入り混じっている[20]
    さらに、対立教皇の配列順が年代的に誤っている。マラキの予言では、一般的なローマ教皇の一覧に比べて、順序の異なっている箇所が2箇所ある。まず、標語6番から8番は3人の対立教皇にあてられているが、彼らは9番に当てはめられているアレクサンデル3世の選出に反対した3人の枢機卿が順に立ったものなので、アレクサンデル3世を先に置くのが一般的である[20][23]。また、アレクサンデル3世に反対した4人目の対立教皇であるインノケンティウス3世が抜けている。こうした不適切な配列は、16世紀の年代記の誤りを引き写した可能性が指摘されている[23][24]
    42番から51番はいわゆる教会大分裂期の教皇であるが、アヴィニョン選出の対立教皇(42-44番)を最優先するという明確な意図が読み取れる[25]。ついでローマ選出の教皇(45-48番)、ピサ選出の対立教皇(49-50番)の順になっているが、この結果、対立教皇クレメンス8世(44番)よりもマルティヌス5世(51番)の方が7つも後という、変則的な配列になっている[20][23](マルティヌス5世が選出されたコンスタンツ公会議で、当時のアヴィニョン教皇であったベネディクトゥス13世は強制的に廃位とされた。その没後アヴィニョンで立った対立教皇がクレメンス8世である)[注釈 7]
  3. 1595年以前の予言については、事実関係に誤りが含まれている。
    以下のリストで見るように、16世紀当時には正しいとされていた情報に基づいて予言が書かれているが、のちに誤りであると判明したり、事実か疑わしくなっている事柄が含まれている[26][27]
  4. 標語があまりにも漠然としすぎている。
    現代でも1595年以降の曖昧さはしばしば批判されるが(後述)、メネストリエは1595年以前についても、短い標語にすぎないのだから、こじつければほかの教皇にも十分に適合することを実際に示した。たとえば、『追い払われた敵』(2番)は、標語の対象時期直前の対立教皇アナクレトゥス2世(在位1130年 - 1139年)によく当てはまる。彼はローマ市民らの支持は取り付けていたが、有力者らからは徹底的に批判され、その死後、クレルヴォーのベルナルドゥスは別の聖職者に「敵が追い払われた」という趣旨の言葉を書き送ったからである[28]。また、現在の予言書で『追い払われた敵』に対応しているルキウス2世は、『山の大きさ(偉大さ)によって』(3番)に当てはめてもおかしくない。彼はエルサレムの聖十字架修道参事会員などだったことがあり、エルサレムのゴルゴタの丘イエス・キリストの磔刑が執行された大いなる丘(小山)だからである[28]。メネストリエはこんな調子で序盤の予言の対応関係を次々に入れ替えてみせた[28]

こうした偽書説に対し、19世紀後半になるとパレ=ル=モニアルフランス語版の病院附司祭でオータンの名誉参事会員だったフランソワ・キュシュラ (François Cucherat) が、マラキの予言は真作であるという立場から擁護論を展開し、マラキは苦境にあったインノケンティウス2世を励ますために予言を献上したが、それ以降バチカンで秘匿され続けたために、同時代やそれ以降の証言が一切ないのだとした[29][30]。この擁護論は後にカトリック百科事典の「予言」の項でも引き合いに出されることになるが[29]、それに対しては、アルスターのカトリック司祭[31]であったM. J. オブライエンが『いわゆる聖マラキの予言に関する歴史的・批判的報告』(1880年)の中で反論し、キュシュラが主張した話の信憑性に疑問を呈するとともに[32]、ひとつひとつの標語について信奉者側の解釈を紹介しつつ、懐疑的な検証も行なった。

その後も神学博士・哲学博士のカトリック神父ジョゼフ・メートルが、1901年から1902年にかけて2冊の大著をものして擁護論を展開するなどしたが[33]、少なくとも従来の百科事典や人名事典、キリスト教やカトリックに関する専門事典などでは、16世紀に捏造された偽書として扱われるのが普通である[34][注釈 8]フランシスコ会聖アントニオ神学院教授、同校長などを歴任したカトリック神父のセラフィノ・フィナテリも、19世紀ドイツの神学者アドルフ・フォン・ハルナックの見解を引き合いに出しつつ、偽書と断じた[35]。また、オックスフォード大学のセント・アンズ・カレッジ副学寮長だった宗教史家のマージョリ・リーヴスや、予言テクストの史的分析によってパリ第10大学博士号を取得したジャック・アルブロンフランス語版といった歴史学者たちも、その偽作された背景に関する分析などを展開した[36]。フランスの超領域学術研究国際センター研究員で宗教心性史などが専攻のジョルジュ・ミノワフランス語版も、やはり偽作という立場で言及している[37]。ほかにサクラメント・シティ・カレッジ英語版名誉教授の哲学者ロバート・キャロルは、疑似科学方面への懐疑的項目を多く収録した著書『懐疑論者の事典』の「マラキ・ウア・モルガイル大司教」の項目において、偽書かどうかは断じていないが、信奉者的な立場から解釈する行為を「靴べら的行為」[注釈 9]のひとつと位置づけている[38]

偽作説が有力視されるようになってからも、通俗的な信奉者たちは予言解釈を積み重ね、それぞれの標語が教皇自身や歴史的事件を的中させていると主張してきた。そして、ヨハネ・パウロ2世(就任順から110番目の標語に対応する)が在位している頃までは、在位年数の平均などを元に、マラキの最後の予言(ローマ教会または世界の破滅)が1999年頃に実現すると考える者たちもいた。その結果、ノストラダムス予言にある1999年の恐怖の大王による破局と重ねて解釈されることもしばしばであった[39]。ヨハネ・パウロ2世の在位期間は長期にわたったが、112番目を1999年と重ねて解釈する論者にとっては、彼が早く退位しないと都合が悪い。そこで、1990年代の予言信奉者たちには、ノストラダムス予言などの解釈結果として、ヨハネ・パウロ2世が1999年以前に暗殺されて、次の教皇が即位するなどと主張する者も少なからず見られた[40]。1999年が何事もなく過ぎると、今度は2012年人類滅亡説が広まるに従い、その種の予言解釈本やオカルト雑誌『ムー』の増刊などでは、マラキの予言が示す最後の時期も近く訪れるという形で紹介されることもしばしばであった[41]

歴代教皇の肖像画が掲げられているサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂

なお、信奉者のダニエル・レジュは、ローマのサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(19世紀に焼失したのち再建)の歴代教皇の肖像画を掲げるスペースが、ヨハネ・パウロ2世の時点で、彼のほかにあと1人分しか空いていないとして、大聖堂を再建した時点での教皇庁が聖マラキの予言を信じていた証拠だと主張していた[42]。日本の関連文献にはこれをそのまま紹介しているものもあったが[43]、懐疑主義者団体ASIOS原田実は逆に、ベネディクト16世の時点でさえもまだ何代分もの空白があり、聖マラキの予言が教皇庁では気にかけられていない証拠ではないかと主張している[44]

現在の偽作説では、どのような方法で偽作されたのかについても仮説が提示されている。まず、予言の標語(最後の散文を除く)が111あるのは、1590年の段階で過去に当たっていた74人分に、その半分(37人分)を付け加えただけに過ぎない[45]。単純に計算した場合、(1143年から1590年向けの半分であるので)19世紀初め頃までの予言しか想定していなかったことになるが、これは終末がそう遠くないと考えられていた16世紀当時の予言的言説と整合的である[46]

さらに、そうして作成された1590年の段階で未来に当たっていた予言句は、16世紀当時に知られていた聖書外典や予言書のテクストから安直に単語を拾い集めて捏造されている可能性がある。一例を挙げるなら、『天使的牧者』(106番)は、ヨハン・リヒテンベルガーの占筮第36章に出てくる天使教皇たち(終末に天から遣わされると考えられた中世の伝説的教皇で、「天使的牧者」とも呼ばれた)についての記述から借用されている可能性がある[47]。また、同章で言及されている、後を継ぐ3人の聖者のうち、「船乗りと呼ばれることになる」1人目は『牧者にして船乗り』(107番)の、「太陽が高揚の位置にある時に現れる」3人目は『太陽の労働によって』(110番)の、それぞれ基になった可能性があると指摘されている[47]

予言一覧

以下に予言の一覧を掲げる。便宜的に現在一般的に通用している番号をつけたが、本来の予言には番号がいっさい付いていない。また、就任前の姓名については、原語での言葉遊びになっている事例が複数あることから、カナ表記に直していない。

1番から74番

1590年のウルバヌス7世に対応する74番までの標語には、初出である『生命の木』に収録された時点で、対応する教皇の名前と簡潔な解説がつけられていた[48]。以下では、標語、教皇名、解説を原典どおりに記載する。解説欄のかぎ括弧は、初出の解説の和訳である。解説は適宜、後代の解釈や批判を織り交ぜているものもある。

当初から解説付きの予言(1143年 - 1590年)
番号 標語 教皇名(在位期間)
就任前の名
『生命の木』の解説 紋章
Ex caſtro Tiberis. Cœleſtinus. ij. Typhernas.
1. ティベリウスの城より ケレスティヌス2世 (1143–1144)
Guido de Castello
「ティフェルヌム出身者」。
ケレスティヌス2世の出身地であるチッタ・ディ・カステッロはテヴェレ川沿いにあり、かつてティフェルヌム=ティベリヌムといった[49]
Inimicus expulſus. Lucius. ij. De familia Caccianemica.
2. 追い払われた敵 ルキウス2世 (1144–1145)
Gherardo Caccianemici del Orso
「カッチャネミチ家から」。
イタリア語では “Cacciare” は「追い払う」、 “nemici” は「敵たち」を意味する[50]
Ex magnitudine mõtis. Eugenius. iij. Patria Ethruſcus oppido Montis magni.
3. 山の大きさより エウゲニウス3世 (1145–1153)
Bernardo dei Paganelli
「モンテマグノの町からのエトルリア人」。
この教皇はピサ近郊のモンテマニョ(Montemagno, 大きな山の意味)生まれとされていた[51]。しかし、現在はピサ出身とされている[52][53][54]。信奉者の中には、ピサ生まれという説を認識しつつも、ピサ司教区にモンテマニョが含まれているのだから、大した問題ではないと主張する者もいる[55]
Abbas Suburranus. Anaſtaſius. iiij. De familia Suburra.
4. スブッラからの大修道院長 アナスタシウス4世 (1153–1154)
Corrado di Suburra
「スブッラの家族から」。
彼は大修道院長だったことがあり、生まれた土地は地元ではスブッラと呼ばれていたという[56]。姓がスブッラと呼ばれるのは、中世にはしばしば姓が出生地に基づくことによる[57]。確かに従来、彼はアヴィニョンで大修道院長だったといわれていたが、実際のところは教区付きの聖職者に過ぎなかった[58]。そのことを認める信奉者には、「大修道院長」は象徴的な表現だと解釈する者もいる[59]
De rure albo. Adrianus. iiij. Vilis natus in oppido Sancti Albani.
5. 白き野より ハドリアヌス4世 (1154–1159)
Nicholas Breakspear
セント・オールバンズの町の貧しい生まれ」。
彼はハートフォードシャーセント・オールバンズ (St Albans) 近郊で生まれた[60]
Ex tetro carcere. Victor. iiij. Fuit Cardinalis S. Nicolai in carcere Tulliano.
6. 耐え難い牢獄から 対立教皇ウィクトル4世 (1159–1164)
Ottaviano Monticello
「彼はサン・ニコラ・イン・カルチェーレ・トゥリアーノ(トゥリウス牢獄の聖ニコラ)の名義をもつ枢機卿だった」。
彼は確かにサン・ニコラ・イン・カルチェーレ (San Nicola in Carcere) が名義聖堂 (titular church) だったといわれるが、サン・セシリアが名義聖堂だったという説もある[61]
Via Tranſtiberina. Calliſtus. iij. [sic] Guido Cremenſis Cardinalis S. Mariæ Tranſtiberim.
7. ティベリウス対岸への道 対立教皇パスカリス3世 (1168–1178)
Giovanni di Strumi
「サンタ・マリーア・イン・トランステヴェレの枢機卿グイド・ディ・クレマ」。
初出の解説は、この予言を対立教皇カリストゥス3世に当てはめており、パスカリス3世は次の予言に当てはめられているが、17世紀半ばのカリエールの解釈書では現在の形に修正されている[62]。実際、サンタ・マリーア・イン・トランステヴェレ大聖堂 (Santa Maria in Trastevere) が名義聖堂だった枢機卿は、パスカリスの方である[63]
De Pannonia Thuſciæ. Paſchalis. iij. [sic] Antipapa. Hungarus natione, Epiſcopus Card. Tuſculanus.
8. トゥスクルムのパンノニアより 対立教皇カリストゥス3世 (1164–1168)
Guido di Crema
「対立教皇。ハンガリー出身で、トゥスクルムの司教枢機卿だった」。
上述の通り、当初の解説では順序が違っていた。カリストゥス3世は確かにハンガリー(パンノニア)出身だったが[63]トゥスクルムTusculum, 現在のフラスカーティ近郊)の司教枢機卿ではなかった[64]。この点を認識する信奉者には、カリストゥス3世が、トゥスクルム出身のアレクサンデル3世に対抗して立ったパンノニア出身の対立教皇だったから、と解釈する者もいる[65]。なお、カリストゥスの直後に対立教皇インノケンティウス3世がいたが、マラキの予言では彼についての標語も解説も存在しない[66]
Ex anſere cuſtode. Alexander. iij. De familia Paparona.
9. 守護者たる雁から アレクサンデル3世 (1159–1181)
Rolando (or Orlando) of Siena
「パパローナ家から」。
アレクサンデル3世はバンディネッラ家の出身だったかもしれないず、その家は後にパパローナと改称し、家紋には雁を使っていた。しかし、彼が本当にその家の出身者だったかには議論がある[67]
Lux in oſtio. Lucius. iij. Lucenſis Card. Oſtienſis.
10. 入り口の光 ルキウス3世 (1181–1185)
Ubaldo Allucingoli
ルッカ出身のオスティア枢機卿」。
標語の Lux は出身地のルッカもしくは教皇名のルキウスと、ostio はオスティア(司教枢機卿の名義)との言葉遊びになっている[68]
Sus in cribro. Vrbanus. iij. Mediolanenſis, familia cribella, quæ Suem pro armis gerit.
11. 篩の中の豚 ウルバヌス3世 (1185–1187)
Umberto Crivelli
「ミラノ市民で、豚を家紋に使っているクリベッラ(クリヴェッリ)家出身」。
就任前の姓クリヴェッリはイタリア語で「篩」を意味し、その紋章には篩と2頭の豚が描かれていた[69]
Enſis Laurentii. Gregorius. viij. Card. S. Laurentii in Lucina, cuius inſignia enſes falcati.
12. ラウレンティウスの剣 グレゴリウス8世 (1187)
Alberto De Morra
「サン・ロレンツォ・イン・ルチーナの枢機卿で、その紋章は曲刀だった」。
初出の解説どおり、彼はサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ (San Lorenzo in Lucina) の枢機卿で、紋章は交差する剣だった[70]
De Schola exiet. Clemens. iij. Romanus, domo Scholari.
13. かの者は学舎から出るだろう クレメンス3世 (1187–1191)
Paolo Scolari
「スコラリ家出身のローマ人」。
「学舎」は就任前の姓であるスコラリとの言葉遊びになっている[71]
De rure bouenſi. Cœleſtinus. iij. Familia Bouenſi.
14. 牛の里から ケレスティヌス3世 (1191–1198)
Giacinto Bobone
「ボウェンシ家」。
直前の標語と同じように、就任前の姓と結びつく言葉遊びである[72]。しかし、姓のボボネはいくつか記録されている綴りの揺れを考慮に入れても、牛とはつながらないという指摘もある[73]
Comes Signatus. Innocentius. iij. Familia Comitum Signiæ.
15. 徴を付けられた伯爵 インノケンティウス3世 (1198–1216)
Lotario dei Conti di Segni
「セーニ伯爵家」。
セーニは「徴」の意味で、標語は就任前の姓に直結する[74]
Canonicus de latere. Honorius. iij. Familia Sabella, Canonicus S. Ioannis Lateranensis.
16. ラテラノの聖堂参事会員 ホノリウス3世 (1216–1227)
Cencio Savelli
「サヴェッリ家、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の参事会員」。
ホノリウス3世が実際にその参事会員だったかどうかには、異議を唱える歴史家もいる[71]
Auis Oſtienſis. Gregorius. ix. Familia Comitum Signiæ Epiſcopus Card. Oſtienſis.
17. オスティアの鳥 グレゴリウス9世 (1227–1241)
Ugolino dei Conti di Segni
「セーニ伯爵家で、オスティアの司教枢機卿」。
教皇就任前にはオスティアの司教枢機卿で、その紋章は鷲だった[75][注釈 10]
Leo Sabinus. Cœleſtinus iiij. Mediolanenſis, cuius inſignia Leo, Epiſcopus Card. Sabinus.
18. サビーナの獅子 ケレスティヌス4世 (1241)
Goffredo Castiglioni
「獅子を紋章としたミラノ市民でサビーナの司教枢機卿」。
彼はサビーナ (Sabina) の司教枢機卿で、紋章には獅子が用いられていた[76]
Comes Laurentius. Innocentius iiij. domo flisca, Comes Lauaniæ, Cardinalis S. Laurentii in Lucina.
19. ラウレンティウス伯爵 インノケンティウス4世 (1243–1254)
Sinibaldo Fieschi
「ラヴァーニャ伯フリスカ(フィエスキ)家の出身で、サン・ロレンツォ・イン・ルチーナの枢機卿」。
彼の父親はラヴァーニャ伯で、彼自身はサン・ロレンツォ・イン・ルチーナの司祭枢機卿だった[76]
Signum Oſtienſe. Alexander iiij. De comitibus Signiæ, Epiſcopus Card. Oſtienſis.
20. オスティアの徴 アレクサンデル4世 (1254–1261)
Renaldo dei Signori di Ienne
「セーニ伯爵家の出身で、オスティアの司教枢機卿」。
彼はコンティ=セーニ家の一員で、オスティアの司教枢機卿だった[76]
Hieruſalem Campanię. Vrbanus iiii. Gallus, Trecenſis in Campania, Patriarcha Hieruſalem.
21. カンパニアのエルサレム ウルバヌス4世 (1261–1264)
Jacques Pantaleon
シャンパーニュ地方トロワ出身のフランス人で、エルサレム総大司教」。
初出の解釈どおり、彼はシャンパーニュ(古称はカンパニア)のトロワ出身で、エルサレム総大司教 (Patriarch of Jerusalem) だった[77]
Draco depreſſus. Clemens iiii. cuius inſignia Aquila vnguibus Draconem tenens.
22. 打ち倒された竜 クレメンス4世 (1265–1268)
Guido Fulcodi
「その紋章は爪で竜を捕まえる鷲である」。
古い文献には紋章は竜を掴んでいる鷲としているものがあり、初出の解説はそれに基づいているが、公式の紋章は六輪の百合の花である[78]。実際には、鷲に打ち倒された竜の紋章はクレメンス4世がゲルフに与えた紋章であり、この点の不整合はメネストリエによってつとに批判されていた[79]。信奉者の中にはクレメンスが与えた紋章なのだから彼に関わりあることに違いはないとしたり[79]、彼が当時の教会にはびこっていたネポティズムを排したことを象徴的に予言したなどとする者もいる[80]
Anguinus uir. Gregorius. x. Mediolanenſis, Familia vicecomitum, quæ anguẽ pro inſigni gerit.
23. 蛇のごとき人 グレゴリウス10世 (1271–1276)
Teobaldo Visconti
「紋章に蛇を使っていたヴィスコンティ家出身のミラノ市民」。
ヴィスコンティ家の家紋は人を下半身から飲み込もうとしている蛇である[81]。古い解釈書には、教皇が自身の紋章としても使っていたと主張するものもあった[82]
Concionator Gallus. Innocentius. v. Gallus, ordinis Prædicatorum.
24. ガリアの説教者 インノケンティウス5世 (1276)
Pierre de Tarentaise
説教者修道会に属するガリア人」。
彼はフランス(古称はガリア)南東部の出身で、説教者修道会士だった[83]
Bonus Comes. Adrianus. v. Ottobonus familia Fliſca ex comitibus Lauaniæ.
25. 善き伯爵 ハドリアヌス5世 (1276)
Ottobono Fieschi
「ラヴァーニャ伯爵のフィエスキ家のオットボヌス」。
フィエスキ家 (Fieschi family) はラヴァーニャ伯爵で、善い (bonus) はオットボノ (Ottobono / Ottobonus) との言葉遊びになっている[84]
Piſcator Thuſcus. Ioannes. xxi. antea Ioannes Petrus Epiſcopus Card. Tuſculanus.
26. トゥスクルムの漁師 ヨハネス21世 (1276–1277)
Pedro Julião
「以前はトゥスクルムの司教枢機卿ヨハンネス・ペトルス」。
彼はトゥスクルムの司教枢機卿 (Cardinal Bishop of Tusculum) で、就任前の名ペドロは、漁師だった聖ペトロに通じる[85]
Roſa compoſita. Nicolaus. iii. Familia Vrſina, quæ roſam in inſigni gerit, dictus compoſitus.
27. 整頓された薔薇 ニコラウス3世 (1277–1280)
Giovanni Gaetano Orsini
「紋章に薔薇を使ったオルシーニ家の出身で、コンポシトゥスと呼ばれた」
彼は紋章に薔薇を使っていた[85]。そして、その謹厳さやきちんとした身なりから、コンポシトゥス(整頓された、整った)というあだ名で呼ばれたという[86]
Ex teloneo liliacei Martini. Martinus. iiii. cuius inſignia lilia, canonicus, & theſaurarius S. Martini Turonen[sis].
28. 百合のマルティヌスの収税局から マルティヌス4世 (1281–1285)
Simone de Brion
「その紋章は百合で、トゥールのサン・マルタン教会の参事会員・出納役だった」。
彼は確かにトゥールのサン・マルタン(聖マルティヌス)教会の参事会員・出納役だった[87]。しかし、初出の解説とちがい、その紋章に百合は使われていなかった[88]。この点を認識する信奉者は、百合はフランスの紋章だから出身国を示しているとか、聖マルティヌス教会は複数の国にあるので、そのうちフランス国内のものであることを明示しているなどと説明している[89]
Ex roſa leonina. Honorius. iiii. Familia Sabella inſignia roſa à leonibus geſtata.
29. 獅子の薔薇より ホノリウス4世 (1285–1287)
Giacomo Savelli
「サベッラ(サヴェッリ)家の出身で、紋章は獅子に支えられる薔薇だった」。
初出の解説どおり、紋章は2頭の獅子に支えられる薔薇だった[90]
Picus inter eſcas. Nicolaus. iiii. Picenus patria Eſculanus.
30. 飼葉の中の啄木鳥 ニコラウス4世 (1288–1292)
Girolamo Masci
「ピケヌムの国のアスクルムの人」。
標語のピクスとエスカスは、彼の出身地であるピケヌムのアスクルム(アスコリ・ピチェーノ)との、曖昧な言葉遊びになっている[90]
Ex eremo celſus. Cœleſtinus. v. Vocatus Petrus de morrone Eremita.
31. 隠者から引き立てられた者 ケレスティヌス5世 (1294)
Pietro Di Murrone
「隠者のペトルス・デ・モロネが召喚された」。
ケレスティヌス5世は教皇選出前に隠遁生活を送っていた[91]
Ex undarũ bñdictione. Bonifacius. viii. Vocatus prius Benedictus, Caetanus, cuius inſignia undæ.
32. 波の祝福から ボニファティウス8世 (1294–1303)
Benedetto Caetani
ガエタ出身で以前にはベネディクトゥスと呼ばれており、紋章は波だった」。
彼の紋章には波模様があり、就任前の名前ベネデット(ベネディクトゥス)は、祝福 (bñdictione / benedictione) に対応する[92]
Concionator patereus. [sic] Benedictus. xi. qui uocabatur Frater Nicolaus, ordinis Prædicatorum.
33. パタラからの説教者 ベネディクトゥス11世 (1303–1304)
Nicholas Boccasini
「その者は説教者修道会に属し、修道士ニコラウスと呼ばれていた」。
初出の解説どおり彼は説教者修道会に属していた。彼の名前ニコラスは、パタラ出身の聖ニコラウスに通じる[93]。19世紀の懐疑論者のオブライエンは、こうした結びつきに気づきにくい解説が展開されていることから、初出の解説をつけた者と偽作者は同一人物ではないかと疑っていた[94]
De feſſis aquitanicis. Clemens V. natione aquitanus, cuius inſignia feſſæ erant.
34. アクイタニアの帯線によって クレメンス5世 (1305–1314)
Bertrand de Got
アクイタニア出身で、紋章は帯線だった」。
彼はアキテーヌ地方(古称はアクイタニア)のボルドーの司教区に生まれ[95]ボルドー大司教になった。彼の紋章には紋章学上でフェス (fesses) といわれる3本の帯線があった[96]。なお、原文の fessis はラテン語として不適切で意味が通らないことがつとに指摘されており、メネストリエは偽作者が無学であることを示す例としていた[97]。信奉者側のジョゼフ・メートルは綴りを意味が通るように正しく fasciis と手直しした上で、原本の誤りではなくイタリア系の写字生による誤りだろうとして擁護した[95]
De ſutore oſſeo. Ioannes XXII. Gallus, familia Oſſa, Sutoris filius.
35. 骨ばった靴職人 ヨハネス22世 (1316–1334)
Jacques Duese
「オッサ家出身のガリア人で、靴職人の息子」。
メネストリエはこの教皇の父親はアルノー・デュエッサ (Arnaud Duessa) ないしドゥッス (Deusse) だった[注釈 11]として、オッサではなかったし、カオールの台帳では高額納税者として記録されていて、靴屋だったとは思えないと批判した。これに対して信奉者のジョゼフ・メートルは、オッサとしている記録もあると反論し、台帳については、その時点では靴職人をやめていたが、それ以前には靴修理工だった時期もあったと反論した[98]
Coruus ſchiſmaticus. Nicolaus V. qui uocabatur F. Petrus de corbario, contra Ioannem XXII. Antipapa Minorita.
36. スキスマのカラス 対立教皇ニコラウス5世(1328–1330)
Pietro Rainalducci di Corvaro
「コルバリオのペトルス修道士、ヨハネス22世に対する対立教皇で小さき兄弟会の所属」。
彼の名前の最後の部分がカラス (Corvus) との言葉遊びになり、対立教皇であったことが「スキスマ」(シスマ)に対応する[99]
Frigidus Abbas. Benedictus XII. Abbas Monaſterii fontis frigidi.
37. 冷たい大修道院長 ベネディクトゥス12世 (1334–1342)
Jacques Fournier
「冷たい泉の大修道院の長」。
彼はナルボンヌ司教区のフォンフロワド修道院 (le monastère de Fontfroide, 「冷たい泉」の意味)の大修道院長だった[100]
De roſa Attrebatenſi. Clemens VI. Epiſcopus Attrebatenſis, cuius inſignia Roſæ.
38. アトレバテンシスの薔薇から クレメンス6世 (1342–1352)
Pierre Roger
「薔薇を紋章としていたアトレバテンシスの司教」。
彼はアラス(古称はエピスコプス・アトレバテンシス)の司教だったことがあり、紋章は6輪の薔薇だった[101]
De mõtibus Pãmachii. Innocentius VI. Cardinalis SS. Ioannis & Pauli. T. Panmachii, cuius inſignia ſex montes erant.
39. パンマキウスの山々から インノケンティウス6世 (1352–1362)
Etienne Aubert
「パンマキウスの名義をもつ聖ヨハネ・聖パウロ聖堂の枢機卿で、その紋章は6つの山」。
彼はパンマキウスの名義を与えられ、カエリウスの丘の聖ヨハネ・聖パウロ聖堂の司祭枢機卿だった[102]。初出も含む古い解釈では紋章に6つの山が含まれていたと説明されていたが、実際には獅子と貝殻が描かれており、その誤りはメネストリエによっても指摘されていた[103]。信奉者の中には、「山々」は紋章ではなく、彼がリムーザンのモン村(Mont、「山」)出身で、クレルモン (Clermont) の司教となり、カエリウスの丘 (Caelius Mons) の聖堂の司教枢機卿となるなど、人生に多くの「山」(丘)と結びついたことを表現していると解釈しなおす者もいる[104]
Gallus Vicecomes. Vrbanus V. nuncius Apoſtolicus ad Vicecomites Mediolanenſes.
40. ガリアの子爵 ウルバヌス5世 (1362–1370)
Guglielmo De Grimoard
「ミラノの子爵たちへのローマ教皇大使」。
彼はフランス出身で、ミラノのヴィスコンティ家(Visconti, 語源は「子爵・副伯」)で教皇大使の任に当たっていた[105]
Nouus de uirgine forti. Gregorius XI. qui uocabatur Petrus Belfortis, Cardinalis S. Mariæ nouæ.
41. 強き処女からの新参 グレゴリウス11世 (1370–1378)
Pierre Roger de Beaufort
「彼はサンタ・マリーア・ヌオーヴァの枢機卿で、ペトルス・ベルフォルティスと呼ばれていた」。
彼の姓はボフォール(Beaufort, フランス語で beau は「美」、fort は「強い」)で、サンタ・マリーア・ヌオーヴァ(Santa Maria Nuova, 新しい聖マリアの意)の名義をもつ枢機卿だった[106]
Decruce Apoſtolica. [sic] Clemens VII. qui fuit Preſbyter Cardinalis SS. XII. Apoſtolorũ cuius inſignia Crux.
42. 使徒の十字架によって 対立教皇クレメンス7世 (1378–1394)
Robert, Count of Geneva
「彼は聖十二使徒の司祭枢機卿で、十字架を紋章としていた」。
彼はローマの聖十二使徒聖堂 (Santi Apostli) の司祭枢機卿で、家紋は十字に見えるものだった[107]。これについては、5つの黄金の点と4つの紺色の点が調和しているもので、十字架というのは不適切だとしたメネストリエの批判がある[108]
Luna Coſmedina. Benedictus XIII. antea Petrus de Luna, Diaconus Cardinalis S. Mariæ in Coſmedin.
43. コスメディンの月 対立教皇ベネディクトゥス13世 (1394–1423)
Pedro de Luna
「以前の名はペトルス・デ・ルナで、サンタ・マリーア・イン・コスメディンの助祭枢機卿だった」。
彼の名はペドロ・デ・ルナ(ルナは月の意)で、紋章にも月が使われていた[109]。そして、サンタ・マリーア・イン・コスメディン (Santa Maria in Cosmedin) の助祭枢機卿だった[110]
Schiſma Barchinoniũ. Clemens VIII. Antipapa, qui fuit Canonicus Barchinonenſis.
44. バルキノのスキスマ 対立教皇クレメンス8世 (1423–1429)
Gil Sanchez Muñoz
「バルキノの教会参事会員だった対立教皇」。
彼はバルセロナ(古称はバルキノ)の教会参事会員だった人物で、36番と同じく「スキスマ」は対立教皇であることを指す[110]。バチカンのリストでは脚注で扱われている人物だが、16世紀には他の教皇や対立教皇と同列に扱われていた[111]。なお、同じく脚注で扱われている教皇には、対応する予言が存在しないベネディクトゥス14世がいる[111]
De inferno prægnãti.[注釈 12] Vrbanus VI. Neapolitanus Pregnanus, natus in loco quæ dicitur Infernus.
45. 妊娠している地獄から ウルバヌス6世 (1378–1389)
Bartolomeo Prignano
「ナポリ市民のプリニャノはインフェルノと呼ばれる場所で生まれた」。
彼の姓はプリニャノ (Prignano) ないしプリニャニ (Prignani) でラテン語の「妊娠している」(praegnans) に通じ、出生地であるナポリの場末はインフェルノ(Inferno, 地獄の意)と呼ばれていた[112]
Cubus de mixtione. Bonifacius. IX. familia tomacella à Genua Liguriæ orta, cuius inſignia Cubi.
46. 混成の立方体 ボニファティウス9世 (1389–1404)
Pietro Tomacelli
「リグーリア地方ジェノヴァのトマチェッリ家に生まれ、立方体を紋章としていた」。
彼の紋章は斜めに格子縞の帯が横切るものだった[113]。この解釈には、格子縞と立方体は異なるものだというメネストリエの批判がある[114]
De meliore ſydere. Innocentius. VII. uocatus Coſmatus de melioratis Sulmonenſis, cuius inſignia ſydus.
47. より良き星から インノケンティウス7世 (1404–1406)
Cosmo Migliorati
スルモナのコスマトゥス・デ・メリオラティスと呼ばれ、その紋章は星だった」。
ラテン語の「より良い」(メリオル)は彼の姓ミリョラーティとの言葉遊びになっており、その紋章は流星だった[113]
Nauta de Ponte nigro. Gregorius XII. Venetus, commendatarius eccleſiæ Nigropontis.
48. 黒き橋の船乗り グレゴリウス12世 (1406–1415)
Angelo Correr
ヴェネツィア出身者で、ネグロポンテの教会から聖職禄を受け取っていた」。
彼は水の都ヴェネツィアの出身で「船乗り」はそれを指す。また、ネグロポンテの教会から聖職禄を受け取る立場 (Commendatarius) にあった[115]。標語はしばしば『ネグロポンテの船乗り』とも訳される[115]
Flagellum ſolis. Alexander. V. Græcus Archiepiſcopus Mediolanenſis, inſignia Sol.
49. 太陽の鞭 対立教皇アレクサンデル5世, Antipope (1409–1410)
Petros Philarges
「ミラノ大司教だったギリシア人で、その紋章は太陽だった」。
彼の紋章は太陽で、中央の円から鞭のように曲がりくねった光線が周囲に伸びているものだった[116]。信奉者には、『太陽の災い』と訳して、「災い」は当時の教会大分裂期の対立教皇だったことを示すと解釈する者もいる[117]
Ceruus Sirenæ. Ioannes XXIII. Diaconus Cardinalis S. Euſtachii, qui cum ceruo depingitur, Bononiæ legatus, Neapolitanus.
50. セイレーンの鹿 対立教皇ヨハネス23世 (1410–1415)
Baldassarre Cossa
「鹿とともに描かれる聖エウスタキウスの助祭枢機卿である。ナポリ出身で、ボローニャの教皇特使だった」。
彼はパンテオンに隣接していた聖エウスタキウス施物分配所の助祭枢機卿で、エウスタキウスは伝説上、鹿と結びつきが深い。また、ヨハネス23世の出身地であるナポリはセイレーンとの結びつきが深く、紋章に取り入れていた[118]。なお、原語の sirenae はラテン語として不正確で、siren ないし sirenis と綴るべきと指摘されており[119]、このような不適切な表記を予言の正統性の議論に関連付ける者もいる[120]
Corona ueli aurei. Martinus V. familia colonna, Diaconus Cardinalis S. Georgii ad uelum aureum.
51. 黄金の幕が付いた冠 マルティヌス5世 (1417–1431)
Oddone Colonna
コロンナ家出身で、サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロの助祭枢機卿だった」。
彼の紋章は黄金の冠が載った円柱で、彼が名義を所有していたサン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ (San Giorgio in Velabro) は、「黄金の幕の聖ゲオルギウス」の転訛だという[121]。17世紀以降の版では「黄金の幕が付いた円柱」 (Columna veli aurei) となっているものもあり[122]、「冠」は明らかな誤植として[123]彼の姓がコロンナ(円柱の意)であったことと結び付けられることがある[124]
Lupa Cœleſtina, Eugenius. IIII. Venetus, canonicus antea regularis Cœleſtinus, & Epiſcopus Senẽſis.
52. 神々しい雌狼 エウゲニウス4世 (1431–1447)
Gabriele Condulmaro
「ヴェネツィア出身者で、ケレスティヌス会士やシエーナ司教だったことがあった」。
彼はケレスティヌス会Celestines, ケレスティヌス5世が創設した修道会)の修道士で、市紋に雌狼を用いているシエーナの司教だった[125]。標語はしばしば『ケレスティヌスの雌狼』と訳されることもある[126]
Amator Crucis. Felix. V. qui uocabatur Amadæus Dux Sabaudiæ, inſignia Crux.
53. 十字架の恋人 対立教皇フェリクス5世 (1439–1449)
Amadeus, Duke of Savoy
「この者はサヴォワ公アマデウスと呼ばれ、紋章は十字架だった」
彼の名アメデーオ (Amedeo) は「神を愛する者」の意で、紋章は十字架だった[125][127]
De modicitate Lunæ. Nicolaus V. Lunenſis de Sarzana, humilibus parentibus natus.
54. 月の節度によって ニコラウス5世 (1447–1455)
Tommaso Parentucelli
「ルーニ出身者で、サルザーナの慎み深い両親から生まれた」。
彼はルーニ (Luni, 古称は Luna)の司教管区に属するサルザーナの慎み深い両親のもとで生まれた[128][129]
Bos paſcens. Calliſtus. III. Hiſpanus, cuius inſignia Bos paſcens.
55. 草を食べる牛 カリストゥス3世 (1455–1458)
Alfonso Borja
「草を食べる牛を紋章としていたスペイン人」。
彼はボルジア家の出身で、家紋でもあった牛を紋章に使っていた[128]
De Capra & Albergo. Pius. II. Senenſis, qui fuit à Secretis Cardinalibus Capranico & Albergato.
56. 山羊と宿屋によって ピウス2世 (1458–1464)
Enea Silvio de Piccolomini
シエーナ出身で、カプラニクス、アルベルガトゥス両枢機卿の秘書だった」。
彼はカプラニカ枢機卿 (Cardinal Domenico Capranica) とアルベルガッティ枢機卿 (Cardinal Albergatti) の秘書だった[130]
De Ceruo & Leone. Paulus. II. Venetus, qui fuit Commendatarius eccleſiæ Ceruienſis, & Cardinalis tituli S. Marci.
57. 鹿と獅子によって パウルス2世 (1464–1471)
Pietro Barbo
「ヴェネツィア出身者で、チェルヴィアの教会の聖職禄を受けていたことがあり、サン・マルコの名義をもつ枢機卿だった」。
彼はチェルヴィア (Cervia) の教会で司教禄を受けていたことがあり、サン・マルコ大聖堂の名義を持つ枢機卿であった。その名の由来となった聖マルコの象徴は獅子である[130]。パウルス2世が紋章に獅子を用いていたことを指摘する者もいる[131]
Piſcator minorita. Sixtus. IIII. Piſcatoris filius, Franciſcanus.
58. より小さき漁師 シクストゥス4世 (1471–1484)
Francesco Della Rovere
「漁師の息子でフランシスコ会士」。
彼は漁師の息子で、小さき兄弟会の修道士だった。小さき兄弟会の創設がマラキの死後であることから、この言及を予言の信憑性の議論と結びつける者もいる[132]
Præcurſor Siciliæ. Innocentius VIII. qui uocabatur Ioãnes Baptiſta, & uixit in curia Alfonſi regis Siciliæ.
59. シチリアからの先駆者 インノケンティウス8世 (1484–1492)
Giovanni Battista Cibò
「その者はヨハンネス・バプティスタと呼ばれ、シチリア王アルフォンソの宮廷で過ごした」。
彼はシチリア王宮で過ごしたことがあり、名のジョヴァンニ・バッティスタは、イエス・キリストの先駆者バプテスマのヨハネに由来する[133]
Bos Albanus in portu. Alexander VI. Epiſcopus Cardinalis Albanus & Portuenſis, cuius inſignia Bos.
60. 港のアルバ牛 アレクサンデル6世 (1492–1503)
Rodrigo de Borgia
「アルバーノとポルトの司教枢機卿で、その紋章は牛だった」。
彼はたしかにアルバーノ (Albano) とポルト (Porto) の司教枢機卿で、紋章には牛が使われていた[134]
De paruo homine. Pius. III. Senenſis, familia piccolominea.
61. 小さき人から ピウス3世 (1503)
Francesco Todeschini Piccolomini
「シエーナのピッコロミニ家の出身」。
彼の姓ピッコロミーニ (Piccolomini) は piccolo (小さい)、uomini (人)に通じる[135][136]
Fructus Iouis iuuabit. Iulius. II. Ligur, eius inſignia Quercus, Iouis arbor.
62. ユピテルの実が助けるだろう ユリウス2世 (1503–1513)
Giuliano Della Rovere
「ジェノヴァ出身者で、ユピテルの木であるクエルクス(オーク)を紋章にしていた」。
彼の紋章はオークで、その木は初出の解説にもあるように、ユピテルの象徴である[135]
De craticula Politiana. Leo. X. filius Laurentii medicei, & ſcholaris Angeli Politiani.
63. ポリティアヌスの焼き網から レオ10世 (1513–1521)
Giovanni de Medici
ロレンツォ・デ・メディチの息子で、アンジェロ・ポリツィアーノの門下生」。
彼はポリツィアーノ(ポリティアヌス)の門下生だった。また、父の名ロレンツォ (Lorenzo) は焼き網の拷問で殉教した聖ラウレンティウス (Laurentius) に対応する[137]
Leo Florentius. Adrian. VI. Florẽtii filius, eius inſignia Leo.
64. フロレンティウスの獅子 ハドリアヌス6世 (1522–1523)
Adriaen Florenszoon Boeyens
「フロレンティウスの息子で、紋章は獅子だった」。
彼の紋章は獅子だった。そして、彼自身の名にフローレンツが含まれている[138]。初出の解説のように、父の名前がフロレンティウスに対応していると解釈する者たちもいる[139]
Flos pilei ægri. Clemens. VII. Florentinus de domo medicea, eius inſignia pila, & lilia.
65. 丸薬の花 クレメンス7世 (1523–1534)
Giulio de Medici
フィレンツェメディチ家出身で、その紋章は丸薬と百合だった」。
彼の紋章は6つの丸薬で、その一番上の丸薬の中に3つの百合が描かれていた[140]
Hiacinthus medicorũ. Paulus. III. Farneſius, qui lilia pro inſignibus geſtat, & Card. fuit SS. Coſme, & Damiani.
66. 医師たちのヒュアキントス パウルス3世 (1534–1549)
Alessandro Farnese
「百合を紋章にしていたファルネーゼ家の者で、聖コスマスと聖ダミアンの枢機卿だった」。
彼の紋章は百合だが、ヒヤシンスを描いているとされることもある[141]。紋章に描かれた花は紺色であり、通常の百合を描いたものではないという形で、百合とする見方に異を唱える者もいる[142]。そして、彼が与えられていた名義の聖コスマスと聖ダミアンはどちらも医師だった[141]
De corona montana. Iulius. III. antea uocatus Ioannes Maria de monte.
67. 山の冠によって ユリウス3世 (1550–1555)
Giovanni Maria Ciocchi del Monte
「以前はヨハンネス・マリア・デ・モンテと呼ばれていた」。
彼の紋章は山と、冠状の環になった棕櫚の葉だった[143]。また、彼の両親はアレッツォ近郊のモンテ・サン=サヴィーノ (Monte San-Savino) という町の出身で、姓にモンテ(Monte, 山の意)が付いたのもそのためだという[144]
Frumentum flocidum. [sic] Marcellus. II. cuius inſignia ceruus & frumẽtum, ideo floccidum, quod pauco tempore uixit in papatu.
68. 取るに足らない小麦 マルケルス2世 (1555)
Marcello Cervini
「その紋章は鹿と小麦であり、取るに足らないというのは、教皇として短命だったからだ」。
彼の紋章は鹿と小麦であり、その在位期間は20日あまりの短いものだった[143]
De fide Petri. Paulus. IIII. antea uocatus Ioannes Petrus Caraffa.
69. ペトロの信仰によって パウルス4世 (1555–1559)
Giovanni Pietro Caraffa
「以前はヨハンネス・ペトルス・カラファと呼ばれていた」。
彼のフルネームは、ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファで、ピエトロはペトロのイタリア名である[145]。また、カラファは「大事な信仰」(cara fede, cara fé) の縮約とされる[146]
Eſculapii pharmacum. Pius. IIII. antea dictus Io. Angelus Medices.
70. アスクレピオスの薬 ピウス4世 (1559–1565)
Giovanni Angelo de Medici
「以前はヨハンネス・アンゲルス・メディケスと呼ばれた」。
彼はメディチ家 (Medici) 出身だったので、それと結びつくと解釈される[147](ラテン語の medicina は薬、medicus は医師)。それに加えて、若いころに医学を学んでいたことと結びつける者もいる[148]
Angelus nemoroſus. Pius. V. Michael uocatus, natus in oppido Boſchi.
71. 林の中の天使 ピウス5世 (1566–1572)
Antonio Michele Ghisleri
「ミカエルと呼ばれ、ボスコの町で生まれた」。
彼はロンバルディア地方のボスコ(Bosco, 林の意)の出身で、ミドルネームのミケレ (Michele) は大天使ミカエルにちなむ[149]。懐疑派のオブライエンは、初出の解説にはイタリア語の言葉遊びが多く混じっているにもかかわらず、それが何を意味するのか(上の例で言えば、「ボスコの町で生まれた」ことが標語とどう結びつくのか)が説明されていないため、それらを作成したのはイタリア人ではないかと推測していた[149]
Medium corpus pilarũ. Gregorius. XIII. cuius inſignia medius Draco, Cardinalis creatus à Pio. IIII. qui pila in armis geſtabat.
72. 球体の中心に胴体 グレゴリウス13世 (1572–1585)
Ugo Boncompagni
「その紋章は半分の竜で、球体を紋章としていたピウス4世によって枢機卿にされた」。
彼の紋章は中心に竜が配置されていたが、生まれたばかりで脚のない姿として描かれていた[150]。また、彼は球体(丸薬)を紋章とするピウス4世によって枢機卿に任命された人物であった[151]
Axis in medietate ſigni. Sixtus. V. qui axem in medio Leonis in armis geſtat.
73. 徴の中央の心棒 シクストゥス5世 (1585–1590)
Felice Peretti
「紋章には獅子の中心に心棒が備わっていた」。
彼の紋章は大きく描かれた獅子の中央を斜めに帯線が横切るものだった[152]。獅子が徴と書かれているのは、獅子が黄道十二宮を構成するサインのひとつだから、などと説明される[153]
De rore cœli. Vrbanus. VII. qui fuit Archiepiſcopus Roſſanenſis in Calabria, ubi mãna colligitur.
74. 天の露によって ウルバヌス7世 (1590)
Giovanni Battista Castagna
「その者はマナが集められていたカラブリア地方のロッサーノの大司教だった」。
彼はロッサーノ(Rossano)の大司教で、そこの樹液は「マナ」もしくは「天国の露」と称された[154]

75番から111番目まで

グレゴリウス14世(在位1590年 - 1591年)に対応する75番よりも後の予言には、初出の時点で解説がついていなかった(公刊された1595年までに対応する75番から77番の標語には、教皇の名前だけは添えられている)。以下では、75番から111番までの標語とその解釈例や懐疑派による批判を挙げる。16世紀以降に対立教皇は存在しないので、教皇の配列には信奉者側にも懐疑派にも異論は見られない。

懐疑派は、当初から解説が付けられていた1590年までの予言に比べて、それ以降の予言では地名や姓名などを織り込んだ具体的な標語が激減している上、苦しい解釈が多くなっていると指摘している[155]。また、結果として、ある教皇によく当てはまるとされる予言が、別の教皇にも同じ程度に当てはまる例もしばしば見られる[156]

1590年以降の予言
番号 標語 教皇名(在位期間)
就任前の名
解釈と批判 紋章
Ex antiquitate Vrbis. Gregorius. XIIII.
75. 町の古さによって グレゴリウス14世 (1590–1591)
Niccolo Sfondrati
上述のように、この標語は偽作者がシモンチェッリ枢機卿を教皇にするために作成したものであると指摘されている。信奉者は、実際に選ばれたグレゴリウス14世がミラノの評議員 (senator) の息子であり、senator の語源が「古い人、老いた人」の意味であることから当てはまると解釈したり、ミラノ自体が紀元前400年ごろに建設された古い都市であると解釈するなどした[157]。ほかに、フランス語では「ミラノ」(Milan, ミラン)は「千年」(Mille ans, ミラン)の語呂合わせになるといった解釈も行われている[158]
Pia ciuitas in bello. Innocentius. IX.
76. 戦時の篤信の都市 インノケンティウス9世 (1591)
Giovanni Antonio Facchinetti
この標語の「都市」は、彼の出身地である篤信で有名なボローニャとされたり、彼がエルサレムの名誉総大司教であったことから、エルサレムと解釈されたりした[159]。ほか、この時期にカトリック同盟アンリ4世に強く抵抗していたパリのこととする解釈もある[160]。偽作説の中には、これもオルヴィエートと解釈できる(つまり、シモンチェッリが選出される機会を2度設定していた)とする指摘がある[161]
Crux Romulea. Clemens. VIII.
77. ロムルスの十字架 クレメンス8世 (1592–1605)
Ippolito Aldobrandini
彼の紋章のデザインは、一本の直線に何本もの直線が直交する帯模様であり、あたかも多重のローマ十字架(教皇十字架)であるかのように見えた[162]。メネストリエはそのような帯模様を教皇十字架と解釈する強引さを批判していた[163]。信奉者側のほかの解釈としては、日本二十六聖人の大殉教事件と結びつける説もある。その事件はこの教皇の在位期間に起こり、19世紀に彼らを列聖したのは『十字架の十字架』(101番)に対応するピウス9世だった[162]
Vndoſus uir.
78. 波打つ人 レオ11世 (1605)
Alessandro Ottaviano De Medici
彼の在位期間は1ヶ月もなく、教皇として寄せては消える波のような儚い存在だった[164]。懐疑的な視点では、『蛇のごとき人』(23番)や『波の祝福から』(32番)との対比から、これも紋章を念頭に置いていたのではないかとも指摘された[165]。しかし、この教皇はメディチ家出身であり、波を思わせる紋章ではなかった[166]
Gens peruerſa.
79. 邪悪な種族 パウルス5世 (1605–1621)
Camillo Borghese
信奉者たちは、パウルス5世の紋章に使われていた鷲と竜が、しばしば邪悪な種族と呼ばれると主張している[167]。逆に、それらは邪悪な種族とは呼べないから、パウルス5世がボルゲーゼ家出身であることを予言したという解釈もある[168]。他方で懐疑論者からは、どの教皇の在位期間にも教皇本人ないし関連人物の中に、「邪悪な種族」くらいは容易に見付かるとも指摘されている[169]
In tribulatione pacis.
80. 平和の煩悶の中で グレゴリウス15世 (1621–1623)
Alessandro Ludovisi
彼がローマ教皇大使だった時には、サヴォイア公国、フランス、スペインの間に平和をもたらそうと奔走したとか[170]、彼が枢機卿になったのはサヴォイア公とマントヴァ公の間に和平が成立した後だったとか[153]、彼が勅令によってコンクラーヴェ秘密投票方式にした[160]などと解釈されるが、定説化した見解はなく、1590年以前の標語には見られなかった曖昧さであることも指摘される[171]
Lilium et roſa.
81. 百合と薔薇 ウルバヌス8世 (1623–1644)
Maffeo Barberini
この標語も、本来は紋章を想定したものだったのではないかと指摘されている[172]。しかし、彼の紋章は3匹の蜜蜂で、百合も薔薇も描かれていなかったため、百合も薔薇も花粉を集めるミツバチと縁があるなどという形で結び付けられる[172][153][29]。あるいは、同じ教皇名のウルバヌス4世の紋章が百合と薔薇(21番参照)だったことと結びつける者もいる[173]。ほかには、彼の出身地のフィレンツェの市章が百合であるとか、百合に象徴されるフランスのヘンリエッタ・マリアと薔薇に象徴されるイングランドのチャールズの結婚に許しを与えたとか[172]、彼の在位期間と重なる三十年戦争中には英仏の同盟が結ばれた[174]などと解釈される。
Iucunditas crucis.
82. 十字架の法悦 インノケンティウス10世 (1644–1655)
Giovanni Battista Pamphili
彼は聖十字架挙栄祭の祝日(9月14日)に教皇に選ばれた[175]
Montium cuſtos.
83. 山々の守護者 アレクサンデル7世 (1655–1667)
Fabio Chigi
彼の家紋は星の下に連なる小山で、それと結び付けられることがしばしばである[176][153]。一方、その解釈だと「守護者」が何を指すか曖昧だという指摘もある[177]
Sydus olorum.
84. 白鳥たちの星 クレメンス9世 (1667–1669)
Giulio Rospigliosi
信奉者たちは「星」について、彼の出身地であるピストイアを流れる川が星を意味するステッラ川 (Stella) だと解釈している[178][注釈 13]。また、「白鳥」については、彼が教皇選出時にバチカンの「白鳥の間」という部屋にいたと解釈されることがしばしばだが[179][160][153]、そのような話は信奉者たちの解釈書以外に見られないとも指摘されている[180]
De flumine magno.
85. 大きな川より クレメンス10世 (1670–1676)
Emilio Altieri
彼はローマの出身で、同市内を流れるテヴェレ川は、彼が生まれたときに氾濫したと主張する信奉者たちがいる。しかし、この説については、信奉者の中にさえ疑いを向ける者がいる[181]。また、彼がアルティエリ家の出身者であることから、アルティエリをスペイン語のアルト・リオ(Alto rio, 深い川)との言葉遊びと見なす者もいる[182]。メネストリエはこうした解釈について、マラキもこの教皇もスペイン人でなく、マラキがスペイン語に通じていたかも定かではないと批判していた[183]
Bellua inſatiabilis.
86. 貪婪な獣 インノケンティウス11世 (1676–1689)
Benedetto Odescalchi
彼の紋章には獅子と鷲が描かれていたので、どちらか一方(特に前者)が「貪婪な獣」に対応するとされる[184][185]。ただし、獅子が本当に「貪婪な獣」と呼べるかには議論がある[186]。ほかの解釈としては、インノケンティウス11世がチーボ枢機卿 (Cibo) に頼っていたことから、チーボ(イタリア語で食料の意)なしにはいられないことを表現していると解釈されることもある[184][153]
Pœnitentia glorioſa.
87. 栄えある悔悛 アレクサンデル8世 (1689–1691)
Pietro Ottoboni
信奉者たちは、彼が聖ブルーノの祝日(10月6日)に教皇に選ばれたこと(聖ブルーノは清貧と祈禱を重視するカルトジオ会を設立した)と結びつけたり[160][153]、この教皇が在位期間中に「栄えある悔悛」(Poenitentia gloriosa) と刻んだメダルを発行したと主張したり[187]、この教皇の在位期間中にガリカニスムの一部の聖職者たちが悔い改めを表明したことと解釈する[188]などしている。他方で、「栄えある悔悛」など、どの教皇の在位期間にも見られるものだという批判がある[189]。また、メネストリエは聖ブルーノの祝日とする解釈について、選ばれた日に関連する情報からこじつけるのでは、教皇個人について何も予言したことになっていないと批判した[190]
Raſtrum in porta.
88. 門の熊手 インノケンティウス12世 (1691–1700)
Antonio Pignatelli
彼はナポリ城門近くに邸宅のあったピニャテッリ家の出身で、この一族はピニャテッリ・デル・ラステッロ(Pignatelli del Rastello, ラステッロは熊手の意)と呼ばれることがあった、と解釈される。その出典としてインノケンティウス12世とほぼ同時代の予言解釈書を挙げる信奉者がいる[191]一方で、この人物は単にピニャテッリとだけ呼ばれるのが普通である[192]。19世紀や20世紀の信奉者たちの中には、「熊手」と結びつけるのは難しいとする者たちがいるだけでなく[193]、ラステッロなどというあだ名を記した史料はいっさい見付けられなかったと言い切る者さえいる[194]
Flores circundati.
89. 花々に囲まれて クレメンス11世 (1700–1721)
Giovanni Francesco Albani
彼の出身地のウルビーノは市章が花飾りであったと解釈される[195][160]。ただし、信奉者の中でさえも、その解釈に疑問を呈する者はいた[195]。ほかの解釈としては、この教皇が在位期間に「花々に囲まれて」と刻んだメダルを発行したというものがある[196]
De bona religione.
90. 善き信心によって インノケンティウス13世 (1721–1724)
Michelangelo dei Conti
この教皇は何人もの教皇を輩出していたコンティ家の出身だった[197]。懐疑論者の中には、『善き伯爵』(25番)の「善き」が教皇の就任前の名と結びついていたことから、同じような視点で偽作されたものだった可能性を指摘する者もいる[198]
Miles in bello.
91. 戦時の兵士 ベネディクトゥス13世 (1724–1730)
Pietro Francesco Orsini
この標語は、教皇が峻厳な性格で、華美を戒めたことなどと結び付けられ、「テモテへの手紙二」2章3節でイエス・キリストの兵士となるように説かれていることなどが引き合いに出される[199]。また、武勇で知られるオルシーニ家の出身だからとも解釈される[160][200]。他方で懐疑派からは、どの教皇の在位期間にも戦いは起こるものだという批判がある[201]
Columna excelſa.
92. 高い円柱 クレメンス12世 (1730–1740)
Lorenzo Corsini
この標語は、彼がサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂に建てた礼拝堂に、パンテオンから流用した2本の円柱を用いたことや[202]、ローマ市民たちが彼の死後に彼を偲ぶ銅像を立てたことなどと解釈される[203]。また、彼がフラスカーティの司教枢機卿で、その都市のすぐ近くにはコロンナ(円柱の意)という小さな町があることと結び付けられることもある[204]。懐疑的な視点では、『黄金の幕がついた円柱(冠)』(51番)との対比から、コロンナ家からの選出を念頭に置いたのではないかとされる[203]
Animal rurale.
93. 田園の動物 ベネディクトゥス14世 (1740–1758)
Marcello Lambertini
信奉者たちには、彼のたゆまない勤勉な姿勢が牛に喩えられると解釈する者たちがいる[205][206]。他方で、『草を食べる牛』(55番)などとの比較から、これも本来は紋章を念頭に置いて作成されたものだったのではないかという指摘もある[207]。しかし、実際の紋章は生物が全く描かれていない帯模様で、標語に結びつけようがない[208]
Roſa Vmbriæ.
94. ウンブリアの薔薇 クレメンス13世 (1758–1769)
Carlo Rezzonico
信奉者たちはしばしば、この教皇が在位期間中にフランシスコ会士を含む多くの人物を列聖したことと解釈した[209]。フランシスコ会の象徴は薔薇であり、創設者である聖フランチェスコにゆかりのあるアッシジウンブリア州にあるから、標語に結びつくとされる[210]。ほかには、クレメンス13世がウンブリア地方リエーティの総督だったことがあり、その平原は香しい薔薇で有名な場所だからと解釈されることもある[211][160]
Vrſus uelox.
95. 機敏な熊 クレメンス14世 (1769–1774)
Lorenzo Giovanni Vincenzo Antonio Ganganelli
信奉者たちはこの教皇の出身であるガンガネッリ家の家紋が走る熊だったと主張するが[212][206]、客観的な出典を示していないため、疑わしいものとされている[213]。ほかには、この教皇の在位期間よりも後に起きたフランス革命の萌芽を象徴しているとか[214]イエズス会の解散を命じた教皇自身を象徴している[215]などと解釈される。懐疑的には、熊 (Ursus) が中世以来の予言文書ではしばしばオルシーニ家 (Orsini) を意味してきたことから、オルシーニ家出身の教皇が登場することを念頭に置いたのではないかとも言われている[216]
Peregrin’ apoſtolic’
96. 使徒のごとき巡礼者 ピウス6世 (1775–1799)
Giovanni Angelico Braschi
この標語は、この教皇が24年という長期に渡って教皇に地位にあったことと解釈される[217]。ほかの解釈としては、本名のジョヴァンニが使徒ヨハネに由来していることと、教皇がローマを離れるのは異例となっていた時代にあって、晩年にはナポレオン・ボナパルトによるローマからの退去命令によって各地を転々とし、ヴァランスで客死したことなどが予言されているという説がある[218]。他方で懐疑的には、Peregrin’ (Peregrinus) というのはイタリアの名家ペッリグリーニ (Pelligrini) が念頭に置かれていたのではないかとも言われている[219]
Aquila rapax.
97. 強欲な鷲 ピウス7世 (1800–1823)
Barnaba Chiaramonti
信奉者たちは、この教皇が鷲を紋章とするナポレオン・ボナパルトとの確執で知られていることと結びつけている[220][160]。懐疑派のオブライエンは教皇本人の紋章などとは適合しないことを踏まえ、この教皇の紋章だったら、『山々の守護者』(83番)や『十字架の十字架』(101番)の方がよほど的中とされたであろうことを指摘した[221]
Canis & coluber.
98. 犬と蛇 レオ12世 (1823–1829)
Annibale della Genga
信奉者たちは、この教皇が犬のような警戒心と蛇のような抜け目なさを備えていたと解釈している[222]。ほかに、彼が対決姿勢を示したカルボナリなどの秘密結社の隠喩と解釈されることもある[223]。また、レオ12世の紋章が鷲だったことから、『強欲な鷲』(97番)と順番が違っているのではないかと解釈されることもある[224]。この標語は懐疑論者から、1590年以降の曖昧な予言の中でも、特に説得的な解釈が困難な好例としてしばしば挙げられている[225]
Vir religioſus.
99. 篤信の人 ピウス8世 (1829–1830)
Francesco Saverio Castiglioni
信奉者たちは、ラテン語で「信心深い」などの意味を持つ教皇名 Pius が標語の religiosus の類義語であることに対応していると解釈したり、彼が過去にも教皇を輩出したことのある家の出身だったことと結び付けたりしている[226]
De balneis Ethruriæ.
100. エトルリアの浴場から グレゴリウス16世 (1831–1846)
Mauro, or Bartolomeo Alberto Cappellari
信奉者たちは、彼がトスカーナ地方(古称はエトルリア)のバルネウム(Balneum, 浴場の意)と呼ばれる場所で設立されたというカマルドリ会英語版の修道士だったことと結び付けている。[227]
Crux de cruce.
101. 十字架の十字架 ピウス9世 (1846–1878)
Giovanni Maria Mastai Ferretti
信奉者たちは、十字架を紋章とするサヴォイア家が深く関わったリソルジメントによって、この教皇が大きな苦難(十字架)を背負わされたと解釈している[228][160][29]。懐疑的には、これも十字架を紋章とする人物や、イタリアのデル・クローチェ家 (Del Croce) を念頭に置いていた可能性が指摘されている[229]
Lumen in cœlo.
102. 空中の光 レオ13世 (1878–1903)
Gioacchino Pecci
彼の紋章は青地に流星であり、その予言とされる[230][206]。懐疑的には、公刊される1595年以前の予言で流星の紋章を示す時には『より良き星から』(47番)という形で「星」と明言していたのだから、本当にレオ13世の紋章を見通していたのなら、ここでもそう表現したのではないかと指摘されている[231]
Ignis ardens.
103. 燃えさかる火 ピウス10世 (1903–1914)
Giuseppe Sarto
信奉者たちは、彼の熱意の比喩であるとか[232][29]、彼の在位期間最後の月に第一次世界大戦が勃発したことや、1908年のツングースカ大爆発などと結びつけている[233]
Religio depopulata.
104. 荒廃した宗教[注釈 14] ベネディクトゥス15世 (1914–1922)
Giacomo Della Chiesa
信奉者たちは、彼の在位期間に、第一次世界大戦ロシア革命など、キリスト教人口の大幅な減少につながる大事件が起こったことと結び付けている[234][206][160]
Fides intrepida.
105. 不敵な信仰 ピウス11世 (1922–1939)
Achille Ratti
信奉者たちは、彼がファシズム共産主義に対して敢然と批判したことと結びつけている[235]。懐疑派のオブライエンの著書はこの教皇が就任するよりも前だったが、『ペトロの信仰によって』(69番)の「信仰」がカラファ家との言葉遊びだったことと比較するようコメントしていた[236]
Paſtor angelicus.
106. 天使的牧者 ピウス12世 (1939–1958)
Eugenio Pacelli
信奉者たちは、彼が非常に敬虔な教皇であったとか[206]、ローマのサンタンジェロ橋(聖天使の意)近くで生まれたとか[237]、この教皇の在位期間に聖母の幻像が多く出現した[238]などと解釈した。
Paſtor & nauta.
107. 牧者にして船乗り ヨハネ23世 (1958–1963)
Angelo Giuseppe Roncalli
信奉者たちは、この教皇が水の都ヴェネツィアの総大司教であったことと結び付けている[239]。また、彼が第2バチカン公会議を主導したことと結びつける見解もある[240]。もっとも、この教皇の在位期間の最後の年の時点で、ジャーナリストのジェス・スターン英語版は、この教皇が船旅でもしないと的中したことにならないので信奉者が困っていると述べていた[241]。なお、この教皇が選出されたコンクラーヴェの期間中、ニューヨーク大司教のフランシス・スペルマンがマラキの予言に関心を寄せ、羊を載せた小舟を使ってテヴェレ川を航行したという噂が、ローマ市内で聞かれたという[242]。懐疑派からは、ヴェネツィア総大司教は20世紀に限ってもピウス10世ヨハネ・パウロ1世が経験しているので、この標語を彼らにも当てはめることは可能だし、「船乗り」を舟に喩えられるカトリック教会の長とまで拡大解釈すれば、どの教皇にも該当すると指摘されている[243]
Flos florum.
108. 花の中の花 パウロ6世 (1963–1978)
Giovanni Battista Enrico Antonio Maria Montini
信奉者たちは、彼の紋章が3輪の百合の花であったことと結び付けている[244][160]
De medietate lunæ.
109. 月の半分によって ヨハネ・パウロ1世 (1978)
Albino Luciani
信奉者たちは、彼が「美しい月」という意味のベッルーノ司教区に生まれたとか[245]、生まれた日や司祭になった日が上弦の月であったとか[246]、教皇に選ばれた日が半月だったとか[247]、歴史的にイスラム圏(三日月が象徴)との窓口になってきたヴェネツィアの総大司教だった[248][160]などと、様々に解釈している。
De labore solis.
110. 太陽の労働によって[注釈 15] ヨハネ・パウロ2世 (1978–2005)
Karol Wojtyła
この教皇が就任して間もない頃の信奉者たちは、彼がイタリアから見て東(日の出の方角)にあるポーランドの出身で、労働者だった経歴を持っていることなどと解釈した[249]。もっともこの解釈は、信奉者からさえも批判が出ており、もしもイタリアよりも西から選ばれていたら日没の方角からの教皇と言われただろうという指摘もある[250]。ほかの信奉者側の見解には、彼が日蝕の時に生まれたとか[247]、太陽黒点の極大期に就任し、極小期に逝去したとか[251]、太陽がめぐるように世界中を旅して回ったとか[252]、「日出ずる国」日本を訪問した最初の教皇だった[253]などといった解釈がある。また、地動説を唱えたコペルニクスが学んだクラクフ出身であることと結びつける見解もあるが[254][注釈 16]、強引だという評価もある[255]
Gloria oliuæ.
111. オリーブの栄光 ベネディクト16世 (2005–2013)
Joseph Ratzinger
信奉者たちは、彼の教皇としての名前ベネディクトは、オリーブの枝をシンボルとするベネディクト会を創設した聖ベネディクトゥスに通じるなどと解釈している[251]。なお、この教皇が就任する以前から、ベネディクト会との関連は指摘されていた。ベネディクト会には、聖ベネディクトゥスの予言として、世界の終末に先立つ悪との戦いでは、自分たちの修道会がカトリック教会を勝利に導くという伝説があったからだという[256]。ただし、ベネディクト16世はベネディクト会出身ではない[257]。懐疑派からは、オリーブが平和のシンボルであることと結びつければ、それに該当する業績を残したヨハネ・パウロ2世をはじめ、何人もの教皇にあてはまる曖昧な標語であることが指摘されている[258]

最後の予言

111番目のあとに書かれているのは次の二文である。

  • 「ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろう」(In psecutione. extrema S.R.E. sedebit.)
  • 「ローマびとペトロ 、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。そして、7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。終わり。」(Petrus Romanus, qui pascet oues in multis tribulationibus : quibus transactis ciuitas septicollis diruetur, et Iudex tremendus judicabit populum suum. Finis.)

以上の二文は初出である『生命の木』や1598年のルスカの版では二段落に分かれていた。これを一段落にまとめたのは、1624年のメシンガムの版が最初であり、以降その読み方が主として信奉者の間では踏襲されており[259]、まとめて112番目と位置づけられることがしばしばである[260]

これをひとまとまりの予言ととらえ、信奉者たちは112番目の教皇のときに世界最終戦争が起こるのではないかとか[261]、112番目はコンクラーヴェを経ないで教皇を僭称する人物になるのではないかとか[262]、教皇庁から公認されることのないその人物こそが反キリストなのではないか[263]などと解釈してきた[注釈 17]

しかし、もとが二段落になっていることから、信奉者の中には『オリーブの栄光』の後に『迫害の中で』(In persecutione) と『ローマびとペトロ』(Petrus Romanus) に対応する2人の教皇が控えていると解釈する者もおり、今後、世界の終末やローマ教会の終焉が起こらなかったときに、さらに細分化させていって標語を増やし、予言の延命を図る信奉者が現われるのではないかとも推測されている[264]。また、「迫害の中で」という条件付けなどから、111番目の『オリーブの栄光』と112番目の『ローマびとペトロ』の間には、まだ何代もの教皇が存在している可能性があるとして、『オリーブの栄光』から『ローマびとペトロ』に直結させない読み方も古くから提示されている[265][29]。似たような読み方としては、現在では「迫害」(persecutione) の略と見なされている語が、初出では psecutione.と表記されている[注釈 18]ことから、prosecutioneの略と見た上で、現在では無視されているピリオドも活かし、「(予言はここで)区切り。ローマ聖教会は終末までその地位にあるだろう」と意訳する者もいる[266]。この読み方の場合、112番目の予言で終末が来るとは解釈できず、111番目の後にローマ・カトリックがいくらでも続くと解釈できることになるという指摘もある[267]

根本的な点として、偽書説では、112番目とされるフレーズは予言としてでなく、結語のような注記として書き加えられたもので、聖マラキに帰せられている予言の部分には含まれていなかったという見解もある[268]

脚注

注釈

  1. ^ prophetiaの語源(「代わりに語る」)を尊重し記事名では「預言」を使うが、後述するように偽書であることが定説化しており、その立場ではマラキ本人が神の啓示を受けて記述したとは見なされていないので、以下の文中では「予言」で統一する。
  2. ^ アルブロンは la prophétie pseudo-malachienne と表記している。また、参考文献のひとつとして、アレクサンドル・ブルーの La pseudo-prophétie de Malachie (マラキの偽予言)という文献も挙げている(Halbronn (2005) pp.75, 135)。
  3. ^ 対立教皇インノケンティウス3世 と対立教皇ベネディクトゥス14世(先代)、同じく対立教皇ベネディクトゥス14世(後代)に対応する予言だけは存在しない。対象時期の教皇の中で、予言が存在しないのは彼らだけである。
  4. ^ 以下の予言リストで見るように、初出では1種類ずつしか解釈が与えられていなかった。しかし、20世紀以降の信奉者であるダニエル・レジュやジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌの解釈書では、ほとんどの予言に複数の解釈が与えられている。
  5. ^ それぞれの予言を歴代教皇とどう結びつけるかを簡略に示したものなので「解釈」と言ってもよいが、後代の信奉者たちの解釈と区別するため、初出の解釈についてのみ便宜上「解説」と書いておく。
  6. ^ なお、偽作者がマラキの名を権威付けに持ち出したのは、ベルナルドゥスによる予言の才への言及が理由だったとも言われている(上智学院新カトリック大事典編纂委員会 (2009) p.880)。
  7. ^ 現在の偽作説では、こうした配列は、この予言にフランス人の視点が投影されている可能性を示すものと受け止められている(Halbronn (2005) p.76, 山津 (2012) pp.212-214)。
  8. ^ 若干立場が異なるものとして、カトリック百科事典(1913年)、ジンマーマン監修『現代カトリック事典』(1982年)がある。前者はキュシュラの擁護論を引き合いに出しつつ、真偽については断定せずに解釈例を紹介している。後者は一般に偽書とされることを認める一方、近代の予言も事実によく適合しているとしている。ほかにエンサイクロぺディストなどによる個人編纂の事典と銘打っている文献では、ドナルド・アットウォーター、キャサリン・レイチェル・ジョン (1998) 『聖人事典』(山岡健訳、三交社)やマシュー・バンソン (2000) 『ローマ教皇事典』が偽書と扱い、マルコム・デイ (2006) 『図説キリスト教聖人文化事典』が両論併記としている。
  9. ^ キャロルの著書では類義語として「あてはめ」「我田引水」「牽強付会」「こじつけ」が挙げられている(キャロル (2008) 上、pp.232-233)。
  10. ^ この欄で掲げている紋章は15番と同じだが、バンソン (2000) でも同じ紋章になっている。20番も同じ。
  11. ^ ヨハネス22世自身の名前は、バンソンの『ローマ教皇史』では「ジャック・ドュース」、マックスウェル=スチュアートの『ローマ教皇歴代誌』(創元社、1999年)では「ジャック・ドゥーズ」と表記されている。
  12. ^ オブライエンは prægnãti (praegnanti) は praegnani の誤植だろうとした (O'Brien (1880) p.21)。
  13. ^ 川の名前をステッラータ (Stellata) と表記している解釈者も複数いる(Maxence (1980) p.245, ブルトン (1982) p.93)。
  14. ^ Moréri (1740) で La Religion ravagée と仏訳され、O’Brien (1880) で religion laid waste と英訳されていることを踏まえた。Maxence (1980) や Fontbrune (2005) では La religion dépeuplée (過疎の宗教、人口が激減した宗教)と仏訳されている。意味するところはほぼ同じだが、信奉者側の解釈に影響するニュアンスの違いが存在するので注記しておく。
  15. ^ しばしば直訳されるので、ここでもそうしたが、19世紀の懐疑論者オブライエンによると、この標語は古典的な表現で『太陽の蝕について』(of the eclipse of the sun) という意味だという (O’Brien (1880) p.82)。
  16. ^ 実際はクラクフ出身ではなく、その近郊のヴァドヴィツェの出身。cf. バンソン (2000) p.201 etc.
  17. ^ ちなみに、就任順でこの予言に対応するのは、2013年3月のコンクラーヴェで正式に選出されたフランシスコである。フランシスコが教皇に選出されると、すぐにインターネット上では「ローマびとペトロ」と様々な形で結び付けを行おうとする者たちが多く現われたことを、オーストラリアの新聞フレイザー・コースト・クロニクル英語版が報じている(cf. "Forums strive to connect new Pope to Antichrist prophecy", from The Fraser Coast Chronicle, 2013年4月8日閲覧)。なお、オカルト雑誌『ムー』における選出直後の記事では、表面的に関連性がなく、外れたようにも見えるが、隠された意味があるかもしれないと解釈された(泉 (2013) p.53)。
  18. ^ 厳密にはpsecutione.の p に省略を示す ~ が付いている。

出典

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参考文献

以下には信奉者側の解釈を紹介するために利用した文献も含まれる。

  • Peter Bander (1973), The Prophecies of St. Malachy, Tan Books
  • Arthur Devine (1911), "Prophecy", The Catholic Encyclopedia, Vol. 12, New York: Robert Appleton Company
  • Jean-Charles de Fontbrune (2005), La Prophétie du nouveau pape : Les prophéties de saint Malachie selon le sens de l’histoire, Editions du Rocher
  • Henry James Forman [1936](1940), The Story of Prophecy : In the Life of Mankind from Early Times to the Present Day, New York ; Tudor publishing company
  • Jacques Halbronn (2005), Papes et prophéties : décodages et influences, Boulogne-Billancourt ; Axiome
  • M.J.O’Brien (1880), An Historical and critical account of The so-called Prophecy of St. Malachy, Dublin ; M.H.Gill & Son
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  • Joseph Maître (1902), Les Papes et La Papauté de 1143 à la fin du monde d'après La Prophétie attribuée à Saint Malachie. Etude Historique, P.Lethielleux / G.Loireau
  • Claude-François Ménestrier (1689a), Refutation des Prophéties faussement attribuées à S. Malachie, sur les Elections des Papes., Paris ; R. J. B. de La Caille
  • Claude-François Ménestrier (1689b), Examen de la suite des Papes, sur leurs Elections, Paris ; R. J. B. de La Caille
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  • ロバート・キャロル (2008) 『懐疑論者の事典』(上・下)小久保温ほか訳、楽工社
  • A. ジンマーマン 監修 (1982) 『現代カトリック事典』浜寛五郎 訳、エンデルレ書店
  • ジェス・スターン (1965) 『予言 - 未来をのぞいた人びと』 宇土尚男訳、弘文堂
  • マルコム・デイ (2006) 『図説キリスト教聖人文化事典』 神保のぞみ訳、原書房
  • マシュー・バンソン (2000) 『ローマ教皇事典』 長崎恵子 長崎麻子 訳、三交社
  • セラフィノ・フィナテリ (1982) 『終末論のまぼろし』 講談社
  • ギイ・ブルトン (1982) 「聖マラキの予言書」(ギイ・ブルトン、ルイ・ポーウェル『西洋歴史奇譚』有田忠郎 訳、白水社、pp.87-101)
  • ジョルジュ・ミノワ (2000) 『未来の歴史 - 古代の預言から未来研究まで』菅野賢治平野隆文 訳、筑摩書房
  • マージョリ・リーヴス (2006) 『中世の預言とその影響』大橋善之 訳、八坂書房
  • ダニエル・レジュ (1982) 『聖マラキ・悪魔の予言書』佐藤智樹 訳、二見書房
  • デヴィッド・ワルチンスキー、エイミー・ウォーレス、アーヴィン・ウォーレス (1990) 『ワルチン版 予言大全』大出健訳、二見書房〈サラブレッド・ブックス〉
  • 泉保也 (2013) 「聖マラキの大予言」(『ムー』2013年5月号、pp.48-53)
  • 桐生操 (1996) 『千年世紀末の大予言』角川書店角川ホラー文庫
  • 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会 (2009) 『新カトリック大事典 第4巻』 研究社
  • 上智大学 編 (1954) 『カトリック大辭典IV』 冨山房
  • 高平鳴海と第666部隊 (1998)『予言者』 新紀元社
  • 林陽 (2007) 「聖マラキの預言」(『最新版 大予言』 学習研究社、pp.76-77)
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関連項目

外部リンク