無記

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無記(むき、: avyākata, アヴィヤーカタ: avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、こうした態度が採られた。

その数から、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)等とも呼ばれる。

また、仏教では、倫理的価値を (1) 善、(2) 悪、(3) 無記の3つに分けるが、このうち「無記」は、「善とも悪とも記別することができないもの」をいう[1]

十無記[編集]

パーリ語経典中部63経『小マールキヤ経』では、有名な「毒矢のたとえ」と共に、「十無記」について記述されている[2]

釈迦が舎衛城祇園精舎に滞在している際に、マールキヤプッタ尊者の中に、

  1. 世界は永遠であるのか
  2. 世界は永遠でないのか
  3. 世界は有限であるのか
  4. 世界は無限であるのか
  5. 生命と身体は同一か
  6. 生命と身体は別個か
  7. 修行完成者(如来)は死後存在するのか
  8. 修行完成者(如来)は死後存在しないのか
  9. 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
  10. 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

といった10の疑問が生じた(上記の通り、対になる選択肢を統一すれば、実際は4つの疑問である)。

マールキヤプッタ尊者は、これらの疑問に釈迦が答えてくれるなら修行を続けるが、答えてくれなければ修行を放棄しようと考えつつ、釈迦にこれらについて問う。

それに対して釈迦は、「私の下で修行すればそれらについて説くと私は話したか、またマールキヤプッタはそのような期待でこの修行を始めたのか」と問い返す。マールキヤプッタ尊者はどちらも違うと否定する。

釈迦は「もし私にそうした疑問について説いてもらえない限り、私の下で修行しないと言う人がいたとすれば、その人は私にそれについて説いてもらう前に、死期(寿命)を迎えてしまうことになるだろう」「例えば、毒矢に射抜かれた人がいて、その友人同僚・血縁者たちが内科医・外科医にその手当てをさせようとしているところで、その当人が

  • 『私を射た者が王族(クシャトリヤ)であるか、バラモンであるか、農商工業者(バイシャ)であるか、奴婢(シュードラ)であるかが、知られない内は、矢を抜くことはしない』
  • 『私を射た者の名や姓が知られない内は・・・』
  • 『私を射た者が長身か短身か中くらいかが知られない内は・・・』
  • 『私を射た者の肌は黒いか褐色か金色か知られない内は・・・』
  • 『私を射た者がどの村・町・市に住んでいるかが知られない内は・・・』
  • 『私を射た弓が普通の弓か、(いしゆみ)であるかが知られない内は・・・』
  • 『弓の弦はアッカ草で作ったものか、サンタ草で作ったものか、動物の筋繊維で作ったものか、マルヴァー麻で作ったものか、キーラバンニン樹で作ったものかが知られない内は・・・』
  • 『矢の羽がワシの羽か、アオサギの羽か、タカの羽か、クジャクの羽か、シティラハヌ鳥の羽か、知られない内は・・・』
  • 『矢幹に巻いてある筋繊維が牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるか知られない内は・・・』
  • 『矢尻は普通の矢か、クラッパ矢か、ヴェーカンダ矢か、ナーラーチャ矢か、ヴァッチャダンタ矢か、カラヴィーラパッタ矢であるかが知られない内は・・・』

といったことを考えていたとしたら、その人はその答えを得る前に死んでしまうのと同じように」「それらの答えが与えられてはじめて、人は修行生活に留まるということはない」「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」「故に、私は説かないことは説かないし、説くことは説く」「先の疑問の内容は、目的にかなわず、修行のための基礎にもならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないので、説かない」「逆に四聖諦は、目的にかない、修行のための基礎にもなり、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つので、説く」「この説かないものと、説くものとの違いを、了解せよ」と諭される。

マールキヤプッタ尊者は歓喜し、釈迦の教説を信受した。

唯識思想における無記[編集]

仏教の唯識思想においては、(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識の更に深層にある第八階層の)阿頼耶識は無記であるとされる。自己の過去の業は善あるいは悪であるが、現在の自己を成り立たしめている根源そのものである阿頼耶識は、過去の業から独立している(異熟である)とされるためである。阿頼耶識は善・悪の種子を蔵する拠り所となるが、もしもその阿頼耶識自体が本質的に悪ならば、我々はいつまでも迷いの世界を脱することができず、またもしも本質的に善ならば、迷いの世界はありえないことになるため、阿頼耶識そのものは、善・悪いずれの性質をも帯びない無記であるとされている[3]

なお、阿頼耶識は、さとりに達するための修行の障害(「覆」)がないという意味で、「無覆無記(むぶくむき)」という。また、(六識の更に深層にある第七階層の)末那識は、我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており、障害があることから「有覆無記(うぶくむき)」という[4]

脚注・出典[編集]

  1. ^ 横山紘一「唯識思想入門」(第三文明社 レグルス文庫66)P114
  2. ^ 『世界の名著1』 「毒矢のたとえ」 中央公論社
  3. ^ 横山紘一「唯識思想入門」(第三文明社 レグルス文庫66)P115 - 118
  4. ^ 横山紘一「唯識思想入門」(第三文明社 レグルス文庫66)P118 - 119

関連項目[編集]