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デーブ・スティーブ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デーブ・スティーブ
Dave Stieb
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州サンタアナ
生年月日 (1957-07-22) 1957年7月22日(67歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1978年 MLBドラフト5巡目
初出場 1979年6月29日
最終出場 1998年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 2005年

デビッド・アンドリュー・スティーブDavid Andrew Stieb, 1957年7月22日 - )は、メジャーリーグベースボールの元選手。ポジションは投手アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタアナ出身。

経歴

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トロント・ブルージェイズ

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1978年ドラフトトロント・ブルージェイズから5巡目に指名を受け入団。当初は外野手だったが、強肩を生かすため投手にコンバートされる。1979年はA級とAAA級合計で10勝2敗の好成績を残してメジャーに昇格し、6月29日ボルチモア・オリオールズ戦でメジャーデビュー。8月11日シカゴ・ホワイトソックス戦でメジャー初完封を記録するなど8勝8敗・防御率4.31を記録。初のフルシーズンとなった1980年オールスターゲームに初選出を果たす。9月に5連敗を喫するなど調子を落としたが、12勝15敗・防御率3.71を記録した。1982年は前半戦で7勝10敗・防御率3.96だったが、後半戦で10勝4敗・防御率2.59と調子を上げ、シーズン通算で17勝14敗・防御率3.25を記録。また19完投・5完封・288.1イニング・271被安打もリーグトップだった。サイ・ヤング賞の投票では4位に入った。1983年は開幕から好調で5月まで防御率1点台を維持し、2年ぶりにオールスターゲームに選出され先発投手を務めた。最終的に17勝12敗・防御率3.04を記録した。1984年は開幕5連勝をマークするなど前半戦で9勝を挙げ、オールスターゲームでは前年に続いて先発した。16勝8敗・防御率2.83を記録し、チームも地区2位まで上昇。

1985年は前半戦で9勝5敗・防御率1.87を記録し、3年連続でオールスターゲームに出場。後半戦でやや数字を下げたが、14勝13敗・防御率2.48で最優秀防御率のタイトルを獲得し、球団創設以来初の地区優勝に貢献。同年から7回戦制となったカンザスシティ・ロイヤルズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発し、8回無失点で勝利投手。第4戦でも7回途中1失点の好投で味方の逆転を呼び3勝1敗と追い詰めたが、その後3勝3敗のタイに持ち込まれる。最終第7戦でも先発したが6回途中6失点で降板して敗戦投手となり、リーグ優勝を逃した。オフに球団と当時のメジャー最高額で10年契約を結んだ。最後の3年は球団に選択権のあるオプション契約だったが、その内容がそれぞれ190万ドル、200万ドル、210万ドル。100万ドルプレイヤーがメジャー全体で50人程度でしかなかった当時においては破格の高給で、200万ドル以上の契約を結んだ選手は当時は他にマイク・シュミットオジー・スミスブルース・スーターぐらいであった。

1986年は開幕6連敗を喫するなど前半戦は2勝9敗・防御率5.80と絶不調。後半持ち直したが7勝12敗・防御率4.74と不本意な成績に終わる。1987年は7連勝を記録するなど13勝を挙げる。1988年は前半戦で10勝をマークし、3年ぶりにオールスターゲームに出場するなど16勝8敗・防御率3.04と復活を遂げる。9月24日クリーブランド・インディアンス戦では9回2死まで無安打に抑えたが、フリオ・フランコ(後にロッテ)に安打され、ノーヒッターを逃す[1]9月30日のオリオールズ戦でも9回2死まで無安打に抑えるが、代打ジム・トレーバー(後に近鉄)に安打され、2試合連続で最後の打者に打たれて快挙を逃した[2]1989年8月4日ニューヨーク・ヤンキース戦でも9回2死までパーフェクトに抑えたが、そこから連打を浴びて失点し、完全試合どころか完封も逃した。同年は5月まで防御率5.46だったが、その後復調して17勝8敗・防御率3.35を記録し、チームの4年ぶりの地区優勝に貢献。オークランド・アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦と第5戦に先発し、デーブ・スチュワートと投げ合うがいずれも敗れ、チームも1勝4敗で敗退した。1990年は前半戦で11勝を記録し、2年ぶりにオールスターゲームに出場。9月2日のインディアンス戦でついに球団史上初のノーヒッターを達成。自己最多の18勝を挙げ、サイ・ヤング賞の投票で5位に入った。

1991年は故障で5月22日の登板を最後に離脱。わずか9試合の登板で4勝に終わる。1992年は7月からリリーフに降格となり、4勝6敗・防御率5.04に留まる。チームは球団創設以来初のリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでもアトランタ・ブレーブスを破ってワールドチャンピオンに輝いたが、ポストシーズンでの登板機会はなかった。オプションは行使されずフリーエージェントとなり、12月8日にホワイトソックスと契約。

以後

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1993年は4試合に先発したが1勝3敗・防御率6.04と結果を残せず、5月23日に解雇。6月14日にロイヤルズとマイナー契約を結ぶが、メジャー昇格はならず7月31日に解雇され、一度現役を引退。

1998年4月1日に古巣ブルージェイズと契約し現役復帰。3試合の先発を含む19試合に登板して1勝2セーブを記録し、2度目の現役引退。

背番号37はブルージェイズのエクセレント・ナンバー(準永久欠番)として顕彰されている。

2005年カナダ野球殿堂入りを果たした[3]

選手としての特徴

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剛速球と鋭く変化するスライダーを武器とした典型的なパワーピッチャー。ブラッシュバック・ピッチで打者の内角を厳しく攻める投球スタイルで、与死球リーグ1位を5度記録している。キャリア後半は「dead fish」と呼ばれたカーブも使用するようになった。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1979 TOR 18 18 7 1 0 8 8 0 -- .500 563 129.1 139 11 48 3 4 52 3 1 70 62 4.31 1.45
1980 34 32 14 4 2 12 15 0 -- .444 1004 242.2 232 12 83 6 6 108 6 2 108 100 3.71 1.30
1981 25 25 11 2 0 11 10 0 -- .524 748 183.2 148 10 61 2 11 89 1 2 70 65 3.19 1.14
1982 38 38 19 5 3 17 14 0 -- .548 1187 288.1 271 27 75 4 5 141 3 1 116 104 3.25 1.20
1983 36 36 14 4 0 17 12 0 -- .586 1141 278.0 223 21 93 6 14 187 5 1 105 94 3.04 1.14
1984 35 35 11 2 2 16 8 0 -- .667 1085 267.0 215 19 88 1 11 198 2 0 87 84 2.83 1.13
1985 36 36 8 2 0 14 13 0 -- .519 1087 265.0 206 22 96 3 9 167 4 1 89 73 2.48 1.14
1986 37 34 1 1 0 7 12 1 -- .368 919 205.0 239 29 87 1 15 127 7 0 128 108 4.74 1.59
1987 33 31 3 1 0 13 9 0 -- .591 789 185.0 164 16 87 4 7 115 4 0 92 84 4.09 1.36
1988 32 31 8 4 1 16 8 0 -- .667 844 207.1 157 15 79 0 13 147 4 5 76 70 3.04 1.14
1989 33 33 3 2 1 17 8 0 -- .680 850 206.2 164 12 76 2 13 101 3 1 83 77 3.35 1.16
1990 33 33 2 2 0 18 6 0 -- .750 861 208.2 179 11 64 0 10 125 5 0 73 68 2.93 1.16
1991 9 9 1 0 0 4 3 0 -- .571 244 59.2 52 4 23 0 2 29 0 0 22 21 3.17 1.26
1992 21 14 1 0 0 4 6 0 -- .400 415 96.1 98 9 43 3 4 45 4 0 58 54 5.04 1.46
1993 CWS 4 4 0 0 0 1 3 0 -- .250 107 22.1 27 1 14 0 0 11 0 0 17 15 6.04 1.84
1998 TOR 19 3 0 0 0 1 2 2 -- .333 228 50.1 58 6 17 1 5 27 0 0 31 27 4.83 1.49
通算:16年 443 412 103 30 9 176 137 3 -- .562 12072 2895.1 2572 225 1034 36 129 1669 51 14 1225 1106 3.44 1.25
  • 各年度の太字はリーグ最高

獲得タイトル・表彰・記録

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  • 最優秀防御率 1回:1985年
  • MLBオールスターゲーム選出 7回:1980年, 1981年, 1983年 - 1985年, 1988年, 1990年
  • カナダ野球殿堂入り:2005年
  • 1980年代(1980年 - 1989年)に記録した140勝はジャック・モリスの162勝に次ぐ2位。
  • 175勝・2,873イニング・1,658奪三振・408先発・103完投・30完封・対戦打者11,965・オールスター出場7回はいずれもブルージェイズの球団記録。

背番号

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  • 37 (1979年 - 1992年、1998年)
  • 10 (1993年)

脚注

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  1. ^ インディアンスの出場メンバーにはフランコの他にメル・ホールルイス・メディーナブルック・ジャコビーウィリー・アップショーと後に日本でプレイする選手が5人もいた。
  2. ^ オリオールズの出場メンバーにはトレーバーの他にラリー・シーツクレイグ・ワーシントンの2人が、ブルージェイズでもトニー・フェルナンデスジェシー・バーフィールドセシル・フィルダーネルソン・リリアーノロブ・デューシーの5人が後に日本でプレイした。
  3. ^ Inductees” (英語). Canadian Baseball Hall Of Fame and Museum. 2017年7月14日閲覧。

外部リンク

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