デュアン・シモンズ
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/91/Verbeck.Brown.Simmons.jpg/200px-Verbeck.Brown.Simmons.jpg)
デュアン・B・シモンズ(Duane B. Simmons, 1834年(天保5年)-1889年(明治22年))は医師でアメリカ・オランダ改革派教会が日本に初めて派遣した宣教師の一人である。
生涯
1834年(天保5年)シモンズはニューヨーク州に生まれる。1858年(安政5年)にアメリカ・オランダ改革派教会の日本派遣宣教師として選ばれて、1859年(安政6年)5月にS・R・ブラウンとグイド・フルベッキとともに、ニューヨークを出帆して、上海に寄港した後、1859年(安政6年)11月にブラウンと一緒に横浜に上陸した。
シモンズ夫妻はヘボンが住んだ成仏寺の近くの宗興寺に居住した。しかし、翌1860年(万延元年)にミッションを辞任して、宣教師の活動を停止し、ミッションより預かった伝道費用を全額返還した。シモンズ夫人のことが原因とも言われるが、宣教師辞任の理由の詳細は不明である。そして、辞任後も医師として日本に留まり、医療と医学教育に力を注いだ。1870年(明治3年)に発疹チフスで苦しんでいた福澤諭吉を治療したことがきっかけで、シモンズと福澤は生涯親交を厚くした。1871年(明治4年)に横浜元弁天(中区北仲通り)に早矢仕有的らが建設した病院にとかかわりを持ち、1873年(明治6年)に移転した際に横浜十全病院と呼ばれるようになった。1880年(明治13年)に退職した際には勲五等双光旭日賞を受賞している。
宣教師を辞めた後も、サミュエル・ブラウンとは交流があり、ブラウンが日本を去るときには、シモンズが診察している。
1882年(明治15年)に一度帰国して、ニューヨーク州モントゴメリー郡フォンダで休養を取り、1886年(明治19年)2月21日に再来日している。
1888年(明治21年)の夏頃から病気がちになり、福澤に慶應義塾内の住居を与えられて静養するが、1889年(明治22年)2月19日に三田の慶應義塾内にあった自宅で母親に看取られて死去した。墓碑銘は福澤が執筆し[1]、青山に葬られた[2]。
脚注
参考文献
- 荒井保男『日本近代医学の黎明(あけぼの) 横浜医療事始め』中央公論新社、2011年3月。ISBN 978-4-12-004204-1 。
- 小沢三郎 著「明治文化とドクトルセメンズ」、尾佐竹猛編 編『明治文化の新研究』亜細亜書房、1944年。
- 中島耕二、辻直人・大西晴樹『長老・改革教会来日宣教師事典』新教出版社〈日本キリスト教史双書〉、2003年3月。ISBN 4-400-22740-5。