金剛正裕
金剛 正裕(こんごう まさひろ、1948年11月18日 - )は、北海道雨竜郡一已村(現在の深川市)出身で二所ノ関部屋に所属した元大相撲力士。本名は北村 正裕(きたむら まさひろ、旧姓は吉沢)。現役時代の体格は184cm、116kg。得意手は右前廻し取り、寄り。最高位は東関脇(1975年9月場所)。現在は、年寄・二所ノ関。
来歴
子供の頃から運動万能で、中学校時代は野球で活躍し名門北海高校から勧誘を受けるほどだったが本人に進学志向がなく、巡業で深川市を訪れた横綱・大鵬に憧れて入門を決意。中学校を卒業後、大鵬が所属する二所ノ関部屋に入門し、1964年5月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は「大吉沢」。
入門後は順調に出世し、1969年5月場所で新十両に昇進。これを機に「大吉沢」から「金剛」へ改名。
1970年9月場所で新入幕を果たし、大鵬の露払いも務めた。その後、1972年1月場所でただ一人初日から7連勝するなど幕内に定着し、7月場所では新小結に昇進。また1974年9月場所では新横綱の北の湖に初の黒星をつけるなど、安定した上位力士として活躍していたが、どちらというと話術の巧みさだけが目立つ程度の地味な力士であった。しかし、1975年7月場所では西前頭筆頭で快進撃を続け、北の湖をはじめ三役陣を総なめにして、13勝2敗という好成績にて平幕優勝を遂げた。
その奔放な言動はユーモラスで、「ホラ吹き金剛」と呼ばれた。特に、平幕優勝した1975年7月場所ではユーモアが特に冴えわたり、次のような発言で連日にわたって報道陣を沸かせた。:
- 「明日北の湖に勝って休場させるか」 - 6日目で前頭6枚目長谷川に勝った余韻そのままに。翌日、「予告」どおり北の湖を破った。
- 「優勝は二所ノ関部屋がもらった。でも年功序列でオレのものだ」 - この場所は同部屋の関脇麒麟児(現北陣)・前頭5枚目青葉城(現不知火)も好調だった。ただし、青葉城の方が4日早く生まれており、初土俵も青葉城が先。
- 「ナポレオンは3時間、金剛は2時間寝れば大丈夫」 - 慣れない優勝争いの緊張から寝付けないことをカモフラージュした。
- 「ホラ見たか。ホラがホラでなくなった」 - 千秋楽で前頭12枚目鷲羽山(現出羽海)に勝って優勝を決めた際の発言。
- 「真実とは戦いに勝つ事にある」 - 海音寺潮五郎の小説『天と地と』からの引用。
細身ながら足腰がしぶとく、右の握力87kgという怪力から前廻しを引いて左から攻めて寄るという相撲は、長く幕内上位で力を発揮した。北の湖を得意(通算で5勝)としていた。
先々代の7代二所ノ関(元大関佐賀ノ花)の死去以降、その後継者を誰にするかでもめている最中、先々代の次女と婚約し未亡人と養子縁組をする事で押尾川(当時。元大関大麒麟)との後継者争いに事実上の決着を付けた。そして優勝からわずか1年後、名門・二所ノ関部屋を継ぐために1976年9月場所前(番付には掲載された)に27歳の若さで引退した。この記録は、部屋持ち親方の引退最年少記録として残っている。
1995年1月に麻雀賭博で逮捕され、審判委員解任・6カ月間20%の減俸・3月場所中の謹慎などの処分を受けたが、2008年2月には日本相撲協会の理事に就任した。
2012年の理事改選には停年が近いことから出馬せず、役員待遇(生活指導部副部長)に退く。
幕下時代、スポンジとたわしとを組み合わせた浴室グッズ『痛くないタワシ』の実用新案登録を申請(却下)したという逸話がある。
主な戦績
- 現役在位:74場所
- 通算成績:449勝414敗15休 勝率.520
- 幕内在位:37場所(うち関脇1場所、小結5場所)
- 幕内成績:259勝281敗15休 勝率.480
- 連続出場:863回(1964年7月場所-1976年7月場所)
- 幕内最高優勝:1回(1975年7月場所)
- 三賞:殊勲賞3回(1974年9月場所、1975年5月場所、1975年7月場所)
- 金星:3個(北の湖3個)
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1964年 (昭和39年) |
x | x | (前相撲) | 東序ノ口12枚目 優勝 7–0 |
東序二段11枚目 3–4 |
東序二段21枚目 5–2 |
1965年 (昭和40年) |
東三段目81枚目 3–4 |
東序二段筆頭 3–4 |
西序二段9枚目 6–1 |
東三段目49枚目 5–2 |
東三段目17枚目 4–3 |
東三段目筆頭 3–4 |
1966年 (昭和41年) |
西三段目10枚目 5–2 |
東幕下62枚目 5–2 |
西幕下61枚目 4–3 |
東幕下54枚目 4–3 |
東幕下48枚目 2–5 |
東幕下66枚目 6–1 |
1967年 (昭和42年) |
西幕下35枚目 4–3 |
東幕下28枚目 2–5 |
東幕下55枚目 5–2 |
東幕下32枚目 4–3 |
西幕下24枚目 4–3 |
西幕下18枚目 2–5 |
1968年 (昭和43年) |
東幕下33枚目 4–3 |
東幕下24枚目 3–4 |
東幕下29枚目 6–1 |
東幕下12枚目 5–2 |
西幕下5枚目 4–3 |
東幕下4枚目 4–3 |
1969年 (昭和44年) |
東幕下3枚目 3–4 |
東幕下6枚目 優勝 7–0 |
東十両10枚目 9–6 |
東十両5枚目 7–8 |
西十両6枚目 5–10 |
西十両12枚目 10–5 |
1970年 (昭和45年) |
西十両5枚目 7–8 |
東十両7枚目 6–9 |
東十両11枚目 優勝 12–3 |
西十両3枚目 優勝 12–3 |
西前頭9枚目 7–8 |
東前頭11枚目 9–6 |
1971年 (昭和46年) |
東前頭6枚目 6–9 |
東前頭9枚目 8–7 |
東前頭7枚目 7–8 |
東前頭9枚目 8–7 |
東前頭7枚目 8–7 |
東前頭4枚目 5–10 |
1972年 (昭和47年) |
東前頭7枚目 8–7 |
西前頭5枚目 8–7 |
東前頭筆頭 9–6 |
東小結 5–10 |
西前頭2枚目 9–6 |
東小結 5–10 |
1973年 (昭和48年) |
西前頭4枚目 5–10 |
東前頭9枚目 8–7 |
西前頭7枚目 8–7 |
東前頭3枚目 5–10 |
西前頭8枚目 9–6 |
西前頭4枚目 5–10 |
1974年 (昭和49年) |
西前頭6枚目 10–5 |
西小結 4–11 |
東前頭6枚目 8–7 |
東前頭2枚目 8–7 |
東前頭筆頭 9–6 殊★ |
東小結 8–7 |
1975年 (昭和50年) |
東小結 4–11 |
西前頭6枚目 6–9 |
西前頭9枚目 10–5 殊 |
西前頭筆頭 13–2 殊★ |
東関脇 6–9 |
東前頭2枚目 7–8 |
1976年 (昭和51年) |
西前頭3枚目 4–11 ★ |
西前頭10枚目 8–7 |
東前頭7枚目 9–6 |
東前頭2枚目 3–12 |
東前頭11枚目 引退 0–0–0 |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
- 大吉沢 正裕(おおよしざわ まさひろ)1964年7月場所-1969年3月場所
- 金剛 正裕(こんごう -)1969年5月場所-1976年9月場所(引退)