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益川敏英

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益川 敏英
生誕 (1940-02-07) 1940年2月7日(84歳)
日本の旗 日本 愛知県名古屋市
居住 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
研究分野 物理学
研究機関 名古屋大学
京都大学
東京大学
京都産業大学
出身校 名古屋大学
博士課程
指導教員
坂田昌一
主な業績 CKM行列の導入
小林・益川理論の提唱
主な受賞歴 仁科記念賞1979年
J.J.サクライ賞1985年
日本学士院賞(1985年)
朝日賞1994年
文化功労者2001年
文化勲章2008年
ノーベル物理学賞(2008年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:2008年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:クォークが自然界に少なくとも三世代以上ある事を予言する、CP対称性の破れの起源の発見(小林・益川理論

益川 敏英(ますかわ としひで、1940年2月7日 - )は、日本理論物理学者。専門は素粒子理論[1]名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長・特別教授、京都大学名誉教授京都産業大学益川塾塾頭。

概要

愛知県名古屋市中川区生まれ[2]。戦後は昭和区西区で少年期を過ごす[2]。生家は戦前は家具製造業、戦後は砂糖問屋を営んでいた。

名古屋大学坂田昌一研究室に所属し理学博士号を取得[3]。博士論文のタイトルは「粒子と共鳴準位の混合効果について」(名古屋大学、1967年)。

京都大学理学部の助手であった1973年に、名古屋大学・坂田研究室の後輩である小林誠と共にウィーク・ボゾンクォークの弱い相互作用に関するカビボ・小林・益川行列を導入した。この論文は、日本人物理学者の手による論文としては歴代でもっとも被引用回数の多い論文である。

京都大学より名誉教授の称号を授与され、現在は名古屋大学特別教授・素粒子宇宙起源研究機構長。京都大学基礎物理学研究所所長、日本学術会議会員を歴任した。

2008年、「小林・益川理論」による物理学への貢献でノーベル物理学賞を受賞。

コペンハーゲン学派の伝統を持ち帰った仁科芳雄の自由な学風を受け継ぐ坂田昌一のグループに属し、坂田が信奉する武谷三男の三段階説の影響を受けた、名大グループを代表する学者でもある。

エピソード・人物

研究

学生時代から「いちゃもんの益川」と呼ばれたほどの議論好きで、違った視点や仮説を提起して議論を活性化させていた。当時京大名誉教授であった湯川秀樹にもいちゃもんをつけたが、湯川は平然と会議に消えたという。 益川の議論好きは生来のものだが、背景には、仁科芳雄から、武谷三男坂田昌一にいたる研究環境[4]と、坂田モデルに始まる名大での活発な研究活動がある。

ノーベル賞をもらったとき、NHKの番組で「坂田先生がノーベル賞をもらえなかったのは、弟子である私たちがだらしなかったからだ」と述べている。

大学では労働組合の活動に熱心に参加し、ノーベル物理学賞受賞理由となった小林・益川理論の研究をしていたときも、京都大学職員組合の書記長として多忙な組合業務をこなしていた。朝の通勤途上の喫茶店で思索をした後、昼は組合業務を行い、その合間を縫って小林誠と議論をしながら研究をしていたという[5]

ノーベル賞受賞

2008年12月7日スウェーデン王立科学アカデミーにて

受賞後は本人の信念で、記者に意図的にへそ曲がりな応対を続けていた。取材記者に受賞の喜びのコメントを求められたが、「(受賞は)大してうれしくない」「36年前の過去の仕事ですから」「研究者仲間が理論を実験し、あれで正解だったよ、と言ってくれるのが1番うれしい」[6]「我々は科学をやっているのであってノーベル賞を目標にやってきたのではない」[7]「(ノーベル賞は)世俗的な物」[8]など、受賞後にもかかわらず、研究者にとって純粋な学問の追求こそが目的であり、賞を得ることが目的ではない、という趣旨の発言が目立った。

同時に受賞した南部陽一郎を非常に尊敬しており、「南部先生に(ノーベル賞を)とっていただいたことが一番うれしい。アイデアマンで、我々に注意喚起してくれる。大変尊敬している」[6]とコメントした。

繰り返す取材中はさすがに嬉しさを隠せなくなったのか、笑顔で記者の前で万歳の格好をして「万歳なんて言わないよ」とおどけて見せた[6]。その後に記者にとっては絵になるが全然うれしくないという気持ちは変わらないと述べている[9]。会見時に小林誠が記者に囲まれて困惑している様子を電話した際、「こっちも(記者が)いっぱいです。年貢を納めなきゃいけない」と応じた[10]

日本の科学教育の現状を記者団より聞かれ、「科学にロマンを持つことが非常に重要。あこがれを持っていれば勉強しやすいが、受験勉強で弱くなっている」「(若い人が物理学に興味を持ってもらえるようなメッセージをと聞かれ)我々の仕事が多少なりとも役に立てば光栄なこと」と返答している[11]

外国語

研究室での益川

外国語は大の苦手で、大学院入試ではドイツ語は完全白紙。英語も散々な成績だったため、入試委員会で合格を認めるかどうか問題となったという[12][13]。外国の学会への招待は多いが、英語を使うのが嫌なためにすべて断ってきており、もっぱら共同研究者の小林が海外での学会出席や講演を担当していた。論文については英語で書かざるを得ない場合があるが、それについても非常にスペルミスが多いという。なお、英語で論文を発表する際は、名前をローマ字ラテン文字転写しなければならないが、訓令式或いはヘボン式の「Masukawa」ではなく、「Maskawa」という署名を好んで用い、国際的にも「Toshihide Maskawa」の名で知られている。

1978年には東京で開催された国際会議にて英語での発表を行ったことがあるが、この時は大学院生が用意した英文を早口で読み上げただけで、その後は質疑応答の時間を設けることもなく降壇したため、参加者も呆気にとられたというエピソードがある[14]

パスポートも取ったことがなく、2008年12月にストックホルムで行われたノーベル賞の授賞式への出席が自身初の国外渡航であった[10]が、その際の受賞記念講演でも最初に「I'm sorry,I can't speak English.(すみませんが、私は英語が話せません)」とだけ英語で言って会場の笑いを誘い、あとは通訳付きの日本語で講演を行った。ノーベル賞の受賞記念講演を日本語で行うのは異例である。

教育への苦言

ノーベル物理学賞の受賞が決定した後の2008年10月10日に小林誠と共に文部科学大臣に面会した。益川は大学受験などでは難しい問題は避け、易しいものを選ぶよう指導していると指摘し、これは考えない人間を作る「教育汚染」、親も「教育熱心」でなく「教育結果熱心」であると批判した[15]

2009年には「麻生内閣メールマガジン」に寄稿し、日本人ノーベル賞受賞者の増加について「近年受賞者が多数出ているからといって、現在の日本の科学の現状が万万歳ということにはならない」[16]と述べ、現状の研究成果は数十年ほど経過して初めて評価されると指摘している。また、日本の基礎科学への研究費配分が不十分との懸念を示しており、「限られた資源のなかで、役に立つ科学・分かりやすい科学・大学の外で市場原理のもとで成り立つ科学などが研究費の餌場として雪崩れ込んでいる」[16]と指摘し「大学の基礎科学が危ない」[16]と警鐘を鳴らしている。

平和運動

1997年からは日本学術会議の会員に選任されるなど、公的団体や学術団体など多方面で活動している。

湯川秀樹朝永振一郎らの影響と、家が米軍の焼夷弾の直撃を受けた名古屋大空襲の経験から平和運動にも意欲的に取り組んでおり、2005年には「九条の会」傘下の「九条科学者の会」呼びかけ人を務めている[17]。湯川のラッセル・アインシュタイン宣言署名は反核に根差すと語り、「自分はより身近に、一人一人の今の生活を守りたい。戦争はプラスかと問いたい。殺されても戦争は嫌だ。もっと嫌なのは自分が殺す側に回る事」と話す[18]

原発研究は継続を

2011年10月5日名古屋市内で行われたラジオの公開収録で「だましだまし使うより仕方ない。安全に使うため、実験炉を建設し研究活動は続けなければならない」「自動車は危険だが、非常に便利だからデメリットを覚悟して乗る。安全性とはメリット、デメリットの取引。原発もどれだけのメリットがあるか考え、使うべきかどうかが決まる。」「三百年後には化石燃料はなくなる。風力発電は騒音が大きく、風が吹かない時のために同じ発電量の代替設備が必要」「われわれの環境に、それほどの選択肢はない」「原発をしばらく凍結するのはいい。しかし化石燃料がなくなることを考えたら、エネルギー問題はそれほど単純ではない。原発を安全に使う準備のために研究活動は当面続けなければならない。『もうやめた』と言うことはできない」と話した。(2011年10月6日中日新聞(朝刊)の記事)

略歴

2008年12月7日スウェーデン王立科学アカデミーにて

学会活動等

賞歴

栄典

出演テレビ番組

著作

一般向け

日本共産党中央委員会が発行する理論政治誌『前衛』に掲載された自然科学分野の第一人者の先生方の文章をまとめたもの。

  • 『現代の物質観とアインシュタインの夢』 岩波科学ライブラリー 岩波書店 1995年 ISBN 4000065327
  • 前衛』 2002年7月号

教科書

  • 『いま、もう一つの素粒子論入門』 パリティブックス 丸善 1998年 ISBN 4621044958

論文

小林と益川の1973年の論文。当時3つしか存在が知られていなかったクォークに関して(理論的には4つあると想定されていた)、それが6種類あると仮定(CKM行列)。それによりCP対称性の破れという現象に対し説明を与えた。この理論の正しさはのちの実験で確認された。

脚注

  1. ^ 氏名表記、氏名の読み、生年月日、職業(理論物理学者)は、日外アソシエーツ株式会社編『新訂 現代日本人名録 2002 4. ひろーわ』日外アソシエーツ株式会社、2002年1月28日、497頁。 
  2. ^ a b 「名古屋ノーベル賞物語」(2)下町のエジソン 父譲り 科学の感覚中日新聞 (2008-12-09). 2009-03-02閲覧。
  3. ^ 粒子と共鳴準位の混合効果について. 2009-08-07閲覧
  4. ^ 素粒子論の発展 南部陽一郎
  5. ^ 毎日新聞2003年8月30日号。
  6. ^ a b c "益川さん「大してうれしくない」照れ ノーベル物理学賞". 京都新聞 (2008-10-07). 2008-10-12日 閲覧。
  7. ^ "【ノーベル物理学賞】益川名誉教授に単独インタビュー". 産経新聞 (2008-10-08). 2008-10-12日 閲覧。
  8. ^ 「大してうれしくない」/受賞が決まった益川さん”. 四国新聞 (2008年10月7日). 2008年10月12日閲覧。
  9. ^ 読売ウイークリー2008年10月11日号「ノーベル賞続々受賞 物理学賞の難解理論はリポート用紙6枚分」
  10. ^ a b 英語、大嫌い 授賞式が初の海外 ノーベル賞益川氏”. 朝日新聞 (2008年10月7日). 2008年10月8日閲覧。
  11. ^ "「大してうれしくない」=時折笑みも−ノーベル賞受賞決定に益川さん・京都". 時事通信 (2008-10-08). 2008-10-12日 閲覧。
  12. ^ ノーベル賞益川氏 苦手は外国語 パスポート持ってない スポーツニッポン (2008-10-08). 2009-01-24閲覧。
  13. ^ 「名古屋ノーベル賞物語」(14)語学 上達へ努力惜しまず中日新聞 (2008-12-22). 2009-01-24閲覧。
  14. ^ ノーベル受賞講演、益川節は日本語で…でも「アドリブNG」 読売新聞 (2008-12-04). 2008-12-08閲覧。
  15. ^ 読売新聞2008年10月10日夕刊記事要約
  16. ^ a b c 益川敏英「ノーベル賞を受賞して思う」『麻生内閣メールマガジン内閣官房内閣広報室2009年1月22日
  17. ^ 「九条科学者の会」呼びかけ人メッセージ (2005.3.13)
  18. ^ 毎日新聞2008年10月8日『ノーベル賞:物理学賞に日本人3氏 気骨の平和主義 「非主流」の逆転』
  19. ^ 京都産業大学理学研究科教員紹介 最下段特記事項
  20. ^ 大学卒業より京大名誉教授称号授与までの経歴は、「益川敏英名誉教授、伊藤清名誉教授が文化勲章を受章」『京大広報』NO.640 2008.12、京都大学総務部広報課、2788頁。 『京大広報』NO.556 2001.4、京都大学広報委員会、1050頁。 『京大広報』NO.578 2003.4、京都大学広報委員会、1433頁。 『京大広報』号外 2003.4、京都大学広報委員会、1464頁。による 
  21. ^ 朝日賞:過去の受賞者”. 朝日新聞. 2009年11月22日閲覧。
  22. ^ 中日文化賞:第41回-第50回受賞者”. 中日新聞. 2009年10月23日閲覧。
  23. ^ 京都市名誉市民:益川敏英氏”. 京都市. 2009年11月22日閲覧。

関連項目

外部リンク

サイト
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