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李萬洙

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李萬洙(イ・マンス)
Lee, Man-soo
SKワイバーンズ 監督 #22
基本情報
国籍 大韓民国の旗 韓国
出身地 江原道鉄原郡
生年月日 (1958-09-19) 1958年9月19日(65歳)
身長
体重
175 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1982年
初出場 1982年3月27日
最終出場 1997年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

李萬洙(イ・マンス、이만수、Man-Soo LEE、1958年9月19日- )は韓国出身の元プロ野球選手。2011年11月、韓国プロ野球のSKワイバーンズの監督に就任。

略歴

江原道鉄原郡生まれ。育ちは大邱広域市。軍人だった父が江原道の赴任した時に生まれた。大邱商業高校、漢陽大学を経て1982年に三星ライオンズに入団。

三星ライオンズ一筋で16シーズンを在籍した。チームと地元を代表する看板選手として、多大な功績により選手時代の背番号22番が三星ライオンズの永久欠番となっている。正式に永久欠番が決定される前も準永久欠番扱いで、引退後もその背番号を引き継ぐ選手はなかった。つまり、三星ライオンズの歴史で22番をつけた選手は彼だけである。

チームを去って10年以上経った現在も地元大邱を代表するスター選手として、その人気は未だ萎えることがない。宣銅烈が三星の監督に就任し韓国シリーズで2度の優勝と結果を出した(2010年末に辞任)が、それでも李萬洙が監督として三星に復帰することを望む地元ファンの数も少なくなかった。まだ個々の選手にプロとしての意識が確立されなかった草創期の韓国プロ野球で、徹底的な自己管理で大卒でありながら現役生活を16年まで伸ばし、1982年に始まった韓国プロ野球元年メンバーの中で最後まで生き残った。

通算252本のホームランと861打点を記録した。本塁打記録は1999年に破られるまで韓国記録として残り、「韓国のベーブルース」とも呼ばれた。韓国プロ野球最初の公式戦の1回表、3点本塁打を放って、韓国プロ野球公式戦第1号本塁打、第1号打点も記録した。1983年には、最多本塁打のタイトルでKBOのシーズンMVPを受賞。
その翌年の1984年には打率.340、23本塁打、83打点を記録し、打撃三冠王となった。しかし、この年のMVP投票では、三星が韓国シリーズでロッテ・ジャイアンツとの対戦するために直接対戦で勝たせ試合と疑われる拙戦を繰り広げたことに、タイトルを取らせるために当時首位打者を争っていたロッテの洪文宗を味方投手陣が9打席連続で歩かせるなどしたことが加えられて、チーム全体として投票する記者に悪い印象を与えた。それに、当の韓国シリーズでも、チームがロッテのエース、崔東源(チェ・ドンウォン)の力投の前に敗れた。結果、その年のシーズンMVPは公式戦27勝、シリーズ4勝の崔東源にさらわれた。
この打撃三冠のタイトルは2006年、ロッテ・ジャイアンツの李大浩(イ・デホ)が達成するまで韓国プロ野球史上唯一の記録であった。ちなみに李大浩もこの年のMVP投票で投手三冠(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振)でチームの韓国シリーズ進出に牽引役の高卒ルーキー、柳賢振(リュ・ヒョンジン)に敗れ、投手三冠よりも稀に出る偉業が評価されないでいる。

攻撃では主軸打者として多大な貢献を重ねたが、守備では捕手として、やや重いフットワークと送球の悪さで、盗塁阻止は上手い方ではなかった。このため、1980年代の韓国シリーズで足でかき回す相手の戦略を防げることができず、毎度敗退する原因の一つとしてあげられ、批判されたりした。ゴールデングラブ賞は5度受賞しているが、韓国のゴールデングラブ賞はメジャーで言うシルバースラッガー賞や日本でいうベストナインに近い扱いであるため、攻撃面での活躍を評価されたものである。

1997年に引退して渡米、クリーブランド・インディアンスのマイナーリーグのシングルAチームのコーチを歴任したのちに、シカゴ・ホワイトソックス傘下のAAAチームのシャーロット・ナイツを経て、2000年からはホワイトソックスのブルペンキャッチャーとして2006年まで勤めた。2005年にシカゴ・ホワイトソックスはワールドシリーズを制覇しているが、この際にコーチング・スタッフとしてチャンピオンリングを受け取っている。

2007年からは韓国に帰国し、SKワイバーンズのヘッドコーチに就任した。
2007年シーズン途中、チームが快進撃を繰り広げているにも、なかなかスタンドが満員にならないことを嘆いて(SKワイバーンズのホームである文鶴球場の受容人員は30,480人)、「これからホームで開かれる10試合で1試合でも球場が満員になったらパンツ一枚の裸でグラウンドを一周する」と公言。その10試合目で、満員が記録されると約束どおりパンツ一枚の姿でグラウンドを一周するパフォーマンスを披露して話題を呼んだ。

2010年シーズン、一時期1軍ヘッドコーチから2軍監督に配置転換された。2011年シーズンは当初1軍ヘッドコーチだったが、開幕後2軍監督にまた配置転換され、8月18日金星根監督の解任により、1軍監督代行に就任した。公式戦は3位で終えたが、ポストシーズンの準プレーオフで起亜、プレーオフでロッテをやぶり、韓国シリーズまで進出した手腕を評価され、シーズン終了後の11月1日、SKの第4代監督に就任した。

通算成績









































O
P
S
1982

78 270 46 78 16 1 13 51 6 2 46 4 27 13 5 .289 .500 .400 .900
1983 98 357 53 105 12 0 27 74 0 3 41 8 51 11 9 .294 .555 .379 .934
1984 89 300 45 102 17 1 23 80 3 8 26 12 37 10 1 .340 .633 .398 1.031
1985 103 357 63 115 19 2 22 87 7 9 42 14 37 13 7 .322 .571 .414 .985
1986 59 212 31 68 8 0 16 39 1 0 21 6 20 7 5 .321 .585 .397 .982
1987 85 299 56 103 14 1 18 76 6 2 47 4 23 16 3 .344 .579 .440 .784
1988 86 285 47 92 13 0 18 58 6 3 41 7 22 8 2 .323 .558 .450 1.008
1989 110 359 55 102 11 0 20 64 4 5 42 10 48 12 5 .284 .482 .341 .823
1990 110 359 50 103 13 0 26 57 3 4 54 5 37 16 6 .272 .540 .388 .928
1991 118 378 51 120 18 0 17 74 6 2 56 8 27 7 4 .317 .500 .416 .916
1992 93 305 50 88 11 0 22 70 7 3 48 12 41 8 9 .289 .541 .405 .946
1993 78 193 21 40 3 1 5 20 0 2 21 3 23 8 2 .207 .311 .295 .606
1994 109 233 24 59 14 0 12 37 0 2 28 5 42 5 2 .253 .468 .346 .814
1995 97 158 17 34 10 0 5 27 1 0 24 8 20 1 1 .215 .373 .347 .720
1996 97 193 14 55 12 1 6 38 2 2 14 10 25 5 0 .285 .451 .364 .815
1997 39 52 2 12 2 0 2 9 0 0 3 2 10 0 0 .231 .385 .298 .683
通算成績 1449 4310 625 1276 193 7 252 861 52 47 554 118 490 140 61 .296 .519 .391 .910
  • 太字はリーグ最高

獲得タイトル・受賞経歴