本能寺の変

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本能寺の変

錦絵 本能寺焼討之図
戦争安土桃山時代
年月日天正10年6月2日(ユリウス暦では1582年6月21日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1582年7月1日)
場所山城国本能寺
結果:明智軍の勝利 織田信長・信忠の自刃。
交戦勢力
織田軍 明智軍
指導者・指揮官
織田信長
織田信忠
斎藤利治
森成利(蘭丸)
森長隆(坊丸))
森長氏(力丸))
明智光秀
明智秀満
斎藤利三
戦力
100(諸説あり) 13,000(諸説あり)
損害
不明 不明
織田信長の戦い

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(ユリウス暦では1582年6月21日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1582年7月1日[1])、織田信長の家臣明智光秀謀反を起こし、京都本能寺に宿泊していた主君信長と後継者の信忠を襲い、自刃させたクーデター暗殺事件との解釈もなされる。

当時、天下人の地位に最も近かった織田信長と嫡男であり後継者でもある織田信忠を、有力家臣の一人であった明智光秀が亡き者にするという、日本史上においても最重要事件の一つである。しかし、光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっている(各説については変の要因を参照)。

情勢

天正10年(1582年)までに、織田信長はを中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月に武田氏を滅ぼした。関東後北条氏東北伊達氏九州地方大友氏は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目下の敵は、中国毛利氏四国長宗我部氏北陸上杉氏九州島津氏となった。

信長包囲網の一翼を担い一時期信長を苦しめた毛利氏は、織田軍の将・羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退で勢力を失いつつあった。また上杉氏は上杉謙信亡き後、家督争い(御館の乱)と相次ぐ家臣の反逆によって疲弊しており、かつて関東・越後国から猛攻をかけ武田信玄を苦しめた強力な軍団は勢いを弱めていた。四国では三好康長が信長に属し、丹羽長秀の補佐を受けた神戸信孝が長宗我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田氏が有利な情勢であった。九州は大友氏龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。

安土城を本拠に、柴田勝家・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉・織田信孝などの派遣軍と軍団長を指揮して天下統一を進める信長は数えで49歳であり、このまま順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。その一方で、多くの兵力を派遣していたため信長周辺の軍勢は手薄であり、武田氏滅亡後は天下統一目前という楽観的な雰囲気で、畿内では信長、徳川家康とも小勢で移動していた[2]。そこを織田軍の近畿管区隊というべき明智光秀の軍が襲撃したのである。

経緯

明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、5月15日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に秀吉から応援の要請が届いたためである。26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。この句が、光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが(下記動機と首謀者に関するその他の考察の項参照)、句の解釈は種々ある。これは西坊威徳院で詠まれ、発句を詠んだのが明智光秀であるから光秀が主客である。主催者は行祐が脇句を詠んでいるのでこの座の亭主、つまり主催者である。(明智軍記)光秀は元来、土岐の末裔である明智であるので、苗字を時節にかけ、この度本望を達したれば、私が天下を知る(治める)との心情を含めた大事の前の心境を吐露した物と解釈するのが一般的である。(明智軍記)

また、秀吉応援のために中国地方に出陣するのであれば、丹波亀山城から本能寺は全くの逆方向であり、1万3000もの軍勢を全く無駄に往復させるという、軍事上考えられない矛盾があるとの指摘がある。明智光秀は重臣斉藤利三等に命じ本能寺にお泊りになられる御公儀様(信長)に中国遠征における閲兵を受けるためと称して老ノ坂を下り左の洛中に全軍を3手に分けて進軍をさせた。桂川手前でおよそ1万の軍勢を残し、斉藤利三勢およそ3000を渡河させ洛中に向けた。(当代記)家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていた。(本城惣右衛門覚書)

一方、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・織田信忠妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。信長は安土で朝廷よりの任官要請(関白、征夷大将軍、太政大臣)をいずれも拒否しており朝廷は不安に満ちていた。つまり巨大な武力を持つ朝廷の家臣でもない者がこの時入洛してきたのである。

本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど[3]、防御面にも優れた城塞としての改造を施されていた。2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっている[4]

本能寺

同じ6月1日の夕、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった[5]。翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという(元禄年間の『明智軍記』にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」が初出だが、同書は信憑性が低いとされている)。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、下級武士には徳川家康を討つものと伝えられていたことが窺い知れる。

6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍[6]は本能寺を完全に包囲した。

本能寺跡

馬の嘶きや物音に目覚めた信長が小姓・森成利(蘭丸)に訪ね様子をうかがわせた。小姓衆は最初下々の者の喧嘩だと思っていた。だが「本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていた。紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と成利(蘭丸)に報告され、光秀が謀反に及んだと知る。成利(蘭丸)らは信長に対し、本能寺から逃れるよう進言したが、光秀の性格や能力、明智軍の兵数を知っていた信長は脱出は不可能と悟り、「是非に及ばず[7]と言い放ち、を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次にを取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長は成利(蘭丸)に火を放たせ、自刃したと言われる[8]。信長の遺骸は発見されなかった。

信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職・清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。しかし本能寺にはと土居があり、この説は疑問である。また、この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので、史料価値は低い。未発見の原因は、大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中に当時の調査能力で遺骸は見つけられないという指摘がある[9]

一方、本能寺から200mの近辺に教会のあったルイス・フロイスの『日本史』では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、のような武器(薙刀)を振り回しながら明智軍の兵達に対して応戦していたが、明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。

妙覚寺・二条御所

光秀謀反の報を受けた信忠は本能寺に救援に向かおうとしたが、既に事態は決したから逃げるように側近(利治・貞勝ら)に諭された。実際は包囲は十分でなく、織田長益など逃げおおせていた。しかし信忠は明智軍は包囲検問をしているだろうからと逃亡をあきらめて、守りに向かない妙覚寺を離れ、京の行政担当者である村井貞勝らと共に二条御所(二条新造御所)に移った。そして信忠は何箇所もの傷を負いながら2人を切り倒し、少人数ながら抵抗を見せて三度も明智軍を退却させた。時間の経過とともに、京に別泊していた馬廻りたちも少しずつ駆けつけ、反乱の去就が危うくなってきた。明智軍は最後の手段で隣接の近衛前久邸の屋根から丸見えの二条御所を銃矢で狙い打ち、側近を殆ど倒した。こうして信忠は自刃し、二条御所は落城した(『信長公記』、『當代記』)。

妙覚寺には、信忠と共に信長の弟・織田長益(後の織田有楽斎)も滞在していて、信忠とともに二条御所に移ったが、落城前に逃げ出し(『三河物語』)、安土城を経て岐阜へと逃れた。信忠が自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。

また、信忠が二条御所で奮戦した際、黒人の家臣・ヤスケも戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である[10]

討死、自害した主な人物

本能寺

二条御所

織田長益前田玄以水野忠重山内康豊らは当時、二条御所に在ったが包囲前に脱出。

変の要因

江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする「怨恨説」が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはなかった。

こうした理解は、映画ドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。司馬遼太郎『国盗り物語』でも、この説に拠っている[11]。しかし、戦後は実証史学に基づく研究がすすんできた。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせた。

現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護のためなど数多くの説があり、意見の一致をみていない。また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(腐敗した仏教勢力への粛清など)への反動(反革命)とする説も多い。

本能寺の変の前年に光秀が記した『明智家法』によれば、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を記しており、これによれば、信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。また変の3ヶ月前の茶会において宝器をおく床の間に信長の筆による書を掛けるなど、信長に心服している様子がある。このため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く提起されている。しかし、それら黒幕に関する主張は、光秀とその敵対者の双方においてなされたことはない。

ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。従来は、ドラマや旧領丹波国など一部の地域では遺徳を偲んでいることなどの影響が光秀に誠実なイメージをあたえている。しかし、教養の高い文化人で線が細いとみなされがちな光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀を上げたように、したたかな武将としての姿が伺える[9]

野望説

戦国史の権威であった高柳光壽が主張した、「天下が欲しかった光秀の単独犯行」とする説[12]。高柳は、怨恨説がいずれも後年の創作に依拠したものとし、史実とは認められないとした。また、フロイス『日本史』の記述などから、武将として合理的な性格の光秀と信長との相性も良かったはずだと主張した。現在、藤本正行鈴木眞哉らがその主な後継論者となっている[13]

怨恨説

八上城で殺される光秀の母
恵林寺を焼こうとするのを諫めた光秀を打ち据える信長

一般に知られる怨恨とされる事例は以下の様なものである。

  • 悪臭のする魚を出して家康の接待役を解任され、面目を失った。光秀は悔しがり食器を池に投げ入れた(『川角太閤記』)
  • まだ敵地の出雲国伯耆国もしくは石見国に国替えを命ぜられた(『絵本太閤記』)[14]
  • 八上城戦で母を信長のために死なせてしまった(『総見記』、『絵本太閤記』)[15]
  • 武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったのを信長が聞き咎め「おまえごときが何をしたのだ」と殴り足蹴にされて恨んだ(『祖父物語』)など
  • まだ斎藤利三が稲葉一鉄の家来だった時に光秀が家臣として召し仕えたので、信長が利三を一鉄の元へ返すよう命じると、光秀はこれを拒否したため信長は光秀の髷を掴み突き飛ばした(『川角太閤記』)

別本『川角太閤記』には、光秀が小早川隆景に宛てた書状として「光秀ことも、近年信長に対し憤りを抱き、遺恨もだしがたい」ために信長を討ったという記述が見られる。また個別の事例は江戸時代以降に創作された講談や俗書によるところが多く、明確な史料に残る怨恨の事例は少ない。

桑田忠親は、フロイスの『日本史』にある「変の数ヶ月前に光秀が何か言うと信長が大きな声を上げて、光秀はすぐ部屋を出て帰る、という諍いがあった」という記述を根拠として、武士の面目を立てるためであったとする新たな怨恨説を唱えた。

四国「征伐」回避説

信長の四国「征伐」を回避するため乱を起こしたとする説。

四国では、土佐国の長宗我部元親が明智家臣・斎藤利三と姻戚関係を結び、光秀を通じた信長との友好関係の下で統一を進めていた。一方、敗走した阿波国三好康長は秀吉と結び、旧領の回復を目指した。長宗我部氏による四国統一を良しとしない信長は、天正10年2月に元親へ土佐国・阿波国2郡のみの領有と上洛を命じた。これを、元親が拒否したため、神戸信孝を総大将として四国攻めを開始した。

まず、康長が先鋒として四国に入り、6月2日には信孝、丹羽長秀らによる本隊が大坂より出陣する予定であった。

四国政策変更の問題については高柳、桑田いずれも指摘している。また、藤田達生は三好康長は本能寺の変以前に秀吉の甥の信吉(後の豊臣秀次)と養子縁組を結んで秀吉と三好水軍を連携させたことによって秀吉・光秀間に政治的対立が生じたこと、光秀が長宗我部氏からの軍事支援を期待して本来であれば徳川家康が堺から帰洛後に行う筈であった襲撃を繰り上げたとしている[16]桐野作人は、さらに踏み込んで利三主導説を唱えている[17]

焦慮説

光秀は織田氏譜代の家臣ではない新参者であり、信長に仕えた期間も十数年ときわめて短期間であるにもかかわらず、家臣団の中で有数の重臣となった。これは光秀が有能であったこともあるが、信長個人の信任があってこそのことが大きい。2年前の天正8年(1580年)には佐久間信盛(折檻状によると発奮も促している)・林秀貞安藤守就丹羽氏勝といった重臣が大量追放されている。

このため信長の信任が揺らいだと考えた光秀が将来を悲観し、保身のために謀叛を考えるようになったという説がある。また、この説は怨恨説や野望説などの背景としても用いられる。

信任が揺らいだと考えたとされる理由

  • 対四国政策の失敗[18]
  • 光秀がかつて足利義昭の家臣であったため、義昭追放後には光秀に対する信長の心証が悪化した[18]
  • 羽柴秀吉による中国攻めの援軍として光秀の名があがったことは、光秀が秀吉の格下になることであり、光秀がそれを潔しとしないと考えたという説。ただし、光秀はこれ以前にも播磨国神吉城三田城攻めの援軍となっている。

そもそも、光秀が信長に仕えるようになった頃から秀吉は既に光秀の先輩格であり、この時点で光秀が秀吉に対する面子にこだわる理由もなく不自然である。

谷口克広当代記にある光秀の年齢が67歳ときわめて高齢であったことを指摘し、反面、嫡子の明智光慶が10歳代前半ときわめて若年であったため、自らの死後光慶が登用されないことを憂いて謀叛を決意したという説を立てている[19]

理想相違説

信長、光秀、それぞれの思い描いた理想が相違したという説。

信長は、伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下統一を目指し急進的な改革を進めようとした。信長は日本六十六カ国の絶対君主となった暁には大艦隊を編成して海外へ進出するつもりであった[20]

光秀は、衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした。光秀は、信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切った。しかし、光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかった。ところが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続いた。結果論だが光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現された、という説である。[21]

黒幕説

信長を討つことについて、光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定し、その者の意向を背景にあることを指摘する説としては、以下のようなものがある。

足利義昭説

自分を備後国に追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説。三重大学教授の藤田達生が中心となって主張している。また、桑田忠親もその可能性を指摘している[18]

日ごとに権力を増す信長に脅威を抱いた朝廷は、信長の朝廷に対する忠誠心を計るため、天正10年(1582年)に「いか様の官にも任ぜられ」(どのような官位も望みのままに与える)と記された誠仁親王の親書(誠仁親王御消息)を送る。しかし信長は、親書を届けた勅使に明確な返答をしないまま返す。信長が朝廷に征夷大将軍の任を求めることを恐れた足利義昭は、かつての家臣・光秀に信長暗殺を持ちかける。信長によって閑職へ追いやられた光秀はこの申し出を受け、信長の天皇謁見を妨害するため本能寺の変を計画したとされる。

  • 根拠
    • 本能寺の変の直前に光秀が上杉景勝に協力を求めて送った使者が、「御当方(上杉のこと)無二御馳走(協力)申し上げるべき」(「覚上公御書集」より)と、明らかに景勝より身分の高い人物への協力を促していること。
      • 加えて本能寺の変の直後、光秀が紀州雑賀衆土橋重治へ送った書状に「上意馳走申しつけられて示し給い、快然に候」と、光秀より身分の高い者からの命令を指す「上意」という言葉を使っていること。
    • 織田氏嫡流織田信忠を実際に討ったのも元は義昭の重臣であった伊勢貞興室町幕府政所伊勢氏)であった。
    • 信長に仕える前からの光秀と義昭の繋がりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動。
  • 反論
    • 光秀が義昭の家臣であったかどうかについて、確かな資料は存在しない。
    • 義昭の名前を隠す必要が見当たらない。逆に名前を出さなければならない理由は十分にある。このままでは光秀は主君・信長に逆らった逆賊でしかないからである。
    • 細川藤孝筒井順慶へ協力を求めた際には、義昭(を臭わせる人物)の存在を知らせていない。
    • 義昭を庇護していた毛利氏が本能寺の変を知らなかったこと[22]について説明が付かない。
      • これには異説がある。太閤記や佐久間軍記などでは、和議の時点ですでに毛利氏は本能寺の変の発生を知っていたとして描かれており、小早川隆景が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになる。また、紀州の雑賀衆にすぎない土橋重治ですら、光秀に対して信長討伐の協力を申し出ていることから、毛利氏が本能寺の変を知っていたとしても不思議ではないとする考えもある。

朝廷説

三職推任問題」での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考え、信長を殺そうとしたという説。

信長が入洛した時、右大臣右大将を朝廷に対して返上しており、天下統一事業達成の可能性が高まる実力者が無位無官のまま軽装備で洛中にいたことになる。朝廷にはそのため、無言の圧力を非常に大きく感じたはずである。「馬揃え」をして中国遠征軍が進発すれば、毛利家の大きな後ろ盾のおかげで即位できた正親町天皇の面目は丸つぶれになる。また、信長は正親町天皇にすでに退位を迫っており朝廷への大きな圧力となっていた。毛利家が滅べば、その後ろ盾により即位した正親町天皇は譲位せざるをえない状況に陥る。高松城を包囲する秀吉は毛利との間に講和を工作していたが、信長にはその気はなく毛利家を滅ぼす計画であった。誠仁親王を即位させ信長は朝廷を傀儡化することも可能となるのである。さらに信長は、正親町天皇と誠仁親王の争いに巻き込まれたくないと考え、三職推任を一時棚上げしていた可能性がある。右大臣右大将を返上したのも信長自身が朝廷の内紛に不介入の立場をつらぬいたとする見方がある。

朝廷黒幕説には、中心となる黒幕として、正親町天皇・誠仁親王、あるいは近衛前久等の公家衆を主体とみるかについて意見が分かれる。

  • 根拠
    • 光秀は、信長・信忠を討った後、朝廷に参内し、金品を下賜されている。
    • 山崎の戦いの後、神戸信孝が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜したこと。
    • 吉田兼見が事情の聴取を受けていること、更に当時の一級史料である『兼見卿記』(兼見の日記)の原本内容が本能寺の変の前後1か月について欠けており、天正10年の項目は新たに書き直しされ、正本と別本の二種類が伝存する。
      • 2007年になって1992年に『兼見卿記』を基にした『信長謀殺の謎』を上梓している桐野作人が、インタビューの中で、ある研究者に『これは一種の陰謀史観だよ』と言われたことや、「そのころは古文書のくずし字がほとんど読めなかった」ことを告白し、自説を批判している[23]
    • 勧修寺晴豊の「天正十年夏記」には斎藤利三の処刑の日に「六月十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。」という記述があり、これを「利三(ひいては光秀)と朝廷側の人間が『信長ヲ打ツ』謀議(談合)を持っていた」と解釈する説もある[24]
    • 「三職推任問題」は本能寺の変の直前の出来事であり、信長の京への立ち寄りはこの返答のためと仮定すると、返答を阻止するのにちょうど良いタイミングである。
  • 反論
    • 変の後に、朝廷側が綸旨や太刀の下賜などで、光秀を顕彰・賞賛した動きはなく、光秀も勅命によるものであるという主張をしていない。光秀がたとえ朝廷側と連絡していたとしても、その恩恵を全く得ていないことになる。
    • 変の当日、誠仁親王が二条御所にいたこと。二条御所での信忠たちの対応次第では、親王が戦いに巻き込まれて死亡した可能性もある。
    • 近衛前久は本能寺の変の当日または数日後に出家しており、これを細川藤孝の出家と同様、信長に殉じたと解釈するのが適切と見る見解や、後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などが反論として挙げられている。信孝捜索も上記の信忠戦で屋根に明智軍を上らせ殲滅させたことをとがめたのではないかという説がある。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなく仮説の域を出ない。
    • 『兼見卿記』の改竄は、前年の天正9年の記事を書いた冊子にそのまま10年以降も書き進めていたが、たまたま6月で冊子の丁数が尽きてしまった。そこでそれ以降は別の冊子に書き、後に改めて清書したが、6月までの記事は前年と同じ冊子のためそのまま残された、という本能寺の変とは全く関係ない理由による。記事の少なくない抹消・改変は、本能寺の変という大事件に際し、先行きが不透明だった時期か、大勢が決した時期に書かれたかの違いだと考えられる[25]


いずれも信長と朝廷の間に軋轢があったことを前提としているが、そもそも信長と朝廷の間に確執はなく、むしろ協力関係ないし信長による朝廷再興路線があったとみる説もあり[26]、この見方を取る場合は朝廷黒幕説は成り立たない。詳しくは織田信長#朝廷政策のページを参照。

イエズス会説

立花京子が提唱した、イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説。ここでは「信長政権が南欧勢力の傀儡に過ぎなかった」、とされている。更に大友宗麟はイエズス会と信長とを繋ぐ舞台廻しであったとされ、イエズス会の最終目的は明帝国の武力征服であり、変は信長から秀吉に首をすげかえる為のものに過ぎなかった、としている。

しかし反論として、「信長はイエズス会から資金提供を受けていた」「当時のイエズス会の定収入は年2万クルザード程度であり、しかもその半分以上はインドに送金され、会を維持運営するのにも事欠く有様であった」などが挙げられている。この他、信用に欠ける『明智軍記』などを検証無く多数引用するなどの問題点があり、現在では提唱した立花本人もこの説を否定している。

羽柴秀吉説

信長の死の報をいち早く入手し、備中高松城への水攻めにより殆ど戦力を失っていなかった事から事前に変を知っていたとする。また秀吉にとって都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収め、また本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることから。物証に欠くため学説としては定着しているとは言いがたいが、「もっとも利益をえた者を疑え」という推理のセオリーにより、フィクション等で採用される事が多い説[27][28]

豊臣秀吉#本能寺の変の黒幕説参照。

徳川家康説

徳川家康説は、状況証拠が多いという程度に留まるが、天海僧正(南光坊)=光秀説により、 興味をひかれる内容となっている。首謀というより、変に賛同、支援ないし、事後に僧侶として生存していた光秀を匿ったというもの。これも歴史小説ではよく触れられる。また家康が何らかの形で信長による自身の暗殺計画を知り逆に計略を立て光秀を利用し信長を暗殺したという説もある。

変の直前の天正10年5月15日 家康が戦勝祝賀のために武田の降将の穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となった。

ここで信長が怒り狂った饗応の不手際とは、『太閤記』にあるような「魚が腐っていた」といったような表の理由ではなく、実は、信長が饗応の機会を捉えて家康を暗殺するよう光秀に指示したがこれを光秀が拒んだのが真因だと解釈する等、信長に家康暗殺の意図があったことを推定する説もある。

裏づけとする史書の記述として、フロイスの「日本史」が続いて、光秀の京都への反転に際して「兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。」という部分、また、江村宗具の「老人雑話」の、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺におわしました。信長は羽柴藤五郎に仰せつけられて、家康に大坂を見せよとつかわされたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であった」とある部分が著名である。

またあわせて主張される点として以下のようなものがある。

  • 織田と徳川は後世に美化されたような「同盟」という対等の関係でなく、従属的なものであった。徳川は織田にとって、対今川・対武田の押さえであり、その両者が滅亡した段階(武田家の滅亡は本能寺の変の直前である)において、東方平定のためにはむしろ邪魔になっており、早々に完全に織田家の家臣化させるか滅ぼされるべき存在であった。
  • 信長の敵対者である伊賀忍者に守られた逃避行は、後世、光秀方に誅されることを恐れたものとされるが、本来は信長方に誅されることを恐れて事前に準備されたものだった、ないし、自己の関与を否定するための演出であった。

光秀=天海説については、こちらを参照


その他の黒幕説

光秀家康共謀説
時空警察』では本能寺の変は光秀家康共謀であったという説を紹介している。信長が、家康潰しの計画を企て、その実行を光秀に命じた。本能寺に家康を呼び寄せ殺害する計画だった。しかし、光秀は信長を裏切り、家康と共謀した。光秀と家康は、「信長の命令による家康討ち」の計画を利用し、「信長討ち」にすり替えてしまった。信長は、自ら仕掛けた罠に自分自身がはまってしまった。信長は光秀に全幅の信頼をよせており、襲われるのは家康であって、自分が狙われることなどあり得ないと考えていた。信長の本能寺での無警戒ぶり、また、家康が「安土招請」「堺見物」に無警戒だった理由もこれである。「神君伊賀越え」は予定通りのルートであり、苦難とされたのは、予定通りの行動であることを世間に隠すためのカモフラージュである、という説である。
細川藤孝裏切り(秀吉内通)説
秀吉は、藤孝の家老松井康之を手なずけた。康之は藤孝と謀り、光秀をそそのかした上で、裏切り、秀吉にいち早く謀反情報を流して、秀吉の天下取りにくみしたという説。康之は秀吉から破格の恩賞(石見半国十八万石の知行付与の申渡し等)を与えられている。
堺の豪商(または千利休)説
堺の商人が自らの既得権を守るため信長殺害を計画したという説。新宮正春が著書で主張している[29]。堺の商人は戦支度やその他利権等を獲得のため、権力者へ擦り寄り、鉄砲で敵対する天下人候補を狙撃、偽書状等を出す、暗殺等、色々行ってきた。近年では堺の商人と信長、本能寺との間で鉄砲などの既得権を巡る争いや対立があり信長と堺の商人が既得権を巡り対立した際は今井宗久津田宗及が堺側を説得、武力衝突を回避したといういきさつがある。また、吉川英治著書の歴史小説(徳川家康)では堺の豪商は当時の日本の裏社会を牛耳っていたとされ信長亡き後の後継者を談合により光秀ではなく秀吉を選んだという記述がある。実際に信長は本能寺の変の前日、堺の商人たちの招きで本能寺へ入り茶会を催している。出席者は今井宗久や津田宗及などの商人や公家等の名の知れた茶人・文化人たちであったため、亡くなる直前にあった人間を疑えというセオリーより浮上する。少なくとも本能寺の内情や警備状況を光秀に伝えた可能性がある。
濃姫
日本史サスペンス劇場』で黒幕として名が挙がっている。詳細は本能寺の変を題材とした作品#フィクションにおける本能寺の変を参照。
丹羽長秀
安土城の建設や信長家臣団の統率の為に過大な役目を負わされていた丹羽長秀が四国征伐の直前に羽柴秀吉と堺の商人と手を組んで明智光秀をそそのかしたとする説。丹羽長秀は本能寺の変の処理である清洲会議で秀吉に組して信長の嫡孫である三法師を担ぎ上げるのに一役買っている。
羽柴秀長
中国遠征中の羽柴秀吉の参謀であった羽柴秀長が、明智光秀と謀議して、秀吉の援軍要請に乗じて信長を討ち、秀吉を信長の後継者にするために一芝居打ったという説。中国大返しの道中準備を秀長がお膳立てして、秀吉の光秀討伐に貢献した可能性あり。
毛利輝元(あるいは小早川隆景)説
亀井茲矩
中国山陰地方の戦国大名尼子氏の残党である亀井茲矩が、織田信長の尼子氏にたいする冷淡な姿勢に不満を持ち、山陰地方に出陣する予定であった明智光秀と羽柴秀吉をそそのかしたとする説。 
朝廷と羽柴秀吉の共謀説
長宗我部元親説
井沢元彦は本能寺の変の直前、長宗我部元親征伐が企図されていたことから、長宗我部氏の取次を務めていた光秀が面子をつぶされた怨恨に加え、元親の義兄である家老斎藤利三を介した元親が黒幕となって光秀が本能寺の変を起こしたとする複合説を提唱している[30]
島津氏関与説
信長が毛利氏を滅ぼした後、九州征伐を開始するのは時間の問題である。さらに信長と通じる大友氏や龍造寺氏らの反攻を受けて苦境に立たされていた島津氏が、朝廷の公家らと共謀していたという説。根拠は乏しいのだが、島津義久の側近である上井覚兼の日記として有名な「上井覚兼日記」の記述で、本能寺の変が起こった天正10年6月2日から11月3日までの項が白紙になっている(ただし、上井覚兼日記は他にも数年の欠落がある)。

21世紀に入ってから唱えられた説 

信長の野望阻止説

光秀の軍勢が本能寺に向かったのは実は他でもない信長の命令で、信長は光秀の軍勢を使ってある野望を実行しようとした。しかし光秀が信長の計画を乗っ取り、軍勢を信長殺害に使ったため信長の野望は阻止されたという説である。この説の根拠として、イスパニア商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』の一節、「信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、何でも噂によると、口に指をあてて、『余は自ら死を招いたな』と言ったということである」と、『当代記』や『川角太閤記』に閲兵の為明智軍は上洛せよという信長の命令を携えた森蘭丸の使いが6月1日にやって来たという記述が挙げられる。

信長征夷大将軍就任の野望阻止

2005年に小説・ノンフィクション作家円堂晃が唱えた説である。毛利氏との決戦を控えていたが毛利方はよくまとまり、さらに足利義昭が亡命しており、それを大義名分として利用している。そこで状況打破のため征夷大将軍に任官および足利将軍解任を朝廷に求めていたが、朝廷はなかなか認めようとしないため、光秀の軍勢を御所に差し向け朝廷を威嚇し、要求を強引に認めせようとしたという説[31]

徳川家討伐と土岐明智家滅亡の危機回避

この説は2009年に光秀の子孫の一人明智憲三郎が唱えた説である。信長は堺見物から京に戻る家康を本能寺に呼び寄せ、運び込んだ名物茶器で時間稼ぎをし、隙を突いて本能寺に呼び寄せた光秀の軍勢で家康と重臣を殺害、そのまま電撃的に家康領を光秀・細川忠興・筒井順慶の軍で占領しようとした。しかしながら、信長が進める織田一族による中央集権化と、重臣の遠国転封[32]で、土岐一族再興、とりわけ一族の故地美濃・尾張・伊勢に返り咲くことが絶望的になったことと、家臣団のうち旧幕臣衆が光秀配下になったことでお家再興がなったのに遠国転封で京都から離れることによる動揺で、軍団を維持できない。加えて転封先候補地の可能性として旧家康領が挙げられるが弱体化した家臣団で結束の強い三河武士団を治める事の困難さから息子の代で土岐明智氏は佐久間信盛同様滅亡する危険が高く一族の存亡をかけて謀反に踏み切ったという説。

黒田官兵衛演出説

NHKアナウンサー京都造形芸術大学教授の松平定知が本能寺の変は豊臣秀吉のブレインである黒田孝高の演出であるという説を提唱、雑誌に掲載された。松平が挙げる理由として

  • 信長の死後、自らの君主秀吉に、「ご運が巡って参りましたな。これであなたの天下です」と秀吉をそそのかしたこと。
  • 毛利と秀吉との講和をわずか1日でまとめあげた交渉力の高さ
  • いわゆる「中国大返し」では官兵衛が先回りし、街道で炊き出しや水を準備していた点。
  • 後の豊臣政権の五大老に、毛利輝元小早川隆景の2人が選ばれている点。

などを挙げている[33]

また黒田は有岡城の戦いでは「孝高(黒田のこと)は敵に寝返った」との流言が流れ、怒った信長が嫡子松壽丸の殺害を部下に命じており、(史実では松壽丸は竹中重治が匿っていたため殺害されなかったが、フィクションでは松壽丸は殺害され竹中重治が松壽丸に顔のよく似た子供を連れてきたという説[34]もある。それに関する信長への怨恨説、秀吉から常に野心の高さを警戒され、豊臣政権下では重職へ就くことがなかったこと、後年、関ヶ原の戦いでは東西両陣営が関ヶ原に集結した隙をつき九州各地を平定した野心の高さも説の一つである。

黒幕説の否定

戦国新説研究会が黒幕など最初からいないという説を唱えている。もしそのような者が存在するのなら、本能寺の変後は混乱する近畿を治める絶好の機会であったのに、何の行動も起こさないのは不自然である(秀吉を除く)。実際、光秀が新たな主君として担ぎ上げて、天下に大々的に号令をかけようとする人物も誰もいなかった。もしくは光秀をそそのかしたり、彼に助言したりした人物はいたかもしれないが、その人物は信長にとって代わろうなどとは思っていなかった。どちらにせよ、光秀の主体的意志による単独犯行であるとしている[35]

動機と首謀者に関するその他の考察

  • 光秀がいつ頃から謀反を決意していたかは不明だが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現白雲寺での連歌の会で光秀が詠んだ発句、「時は今 天が下知る 五月哉」は、「時(とき)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天(あめ)が下(した)治る(しる)」、すなわち天下を治めることを暗示していると解釈されている(「雨が下る」と詠んだ説もある)。しかし、この解釈に関しては反論もある(明智光秀#愛宕百韻の真相を参照)。
  • フロイス『日本史』によると、信長は天正7年5月11日に安土城で自らを神とする儀式を行い、摠見寺で信長の誕生日を祝祭日と定め、参詣する者には現世利益がかなうとしたという。ただし、フロイスがこの「儀式」について初めて記したのは信長の死後であり、フロイス自身が「儀式」が行われたとされる当時に安土周辺にはいなかったこと、日本国内の一級史料ではこの「儀式」についてまったく言及されていないことなどから、谷口克広はフロイスの記述に信憑性はなく、信長が滅んだことを正当化するために記したもの[36]であるとの見解を示している[37]

本能寺の変後の諸将の動向

明智光秀

光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれた。安土と京都で政務を執ったのが4、5日から12日であったため、三日天下と呼ばれた。

期待していた親類の細川幽斎、与力の筒井順慶ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。

羽柴秀吉

秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。

早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進んだ。ここで摂津の武将中川清秀高山右近池田恒興を味方につけ、さらに四国出兵のためにいた織田信孝・丹羽長秀と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を中国大返しと呼ぶ。

織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに清洲会議にて信忠の子・三法師(織田秀信)の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。

柴田勝家

勝家は佐々成政前田利家とともに、6月3日上杉氏の越中国魚津城を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功(魚津城の戦い)したが、その頃信長は既に亡かった。変報が届くと、上杉景勝の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後清洲会議で秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗北、自害した。

徳川家康・穴山信君

家康は、信長の招きで5月に穴山信君とともに[38]安土城を訪れた後、家臣30余名とともにに滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎清延に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き知恩院で信長に殉じるとまで言ったが[39]、家臣に説得され帰国を図る。山城綴喜・近江・加太峠・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻った。

これは後に「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら別行動を取った穴山信君[40]は山城国綴喜郡の木津川河畔の渡し(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で、落ち武者狩りの土民に襲撃され全滅している。まさに紙一重の差で家康は逃れた。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、彼らとの連絡には伊賀出身の服部正成が貢献したといわれている。三河到着後、伊賀衆は伊賀組同心として徳川家に抱えられ、服部正成の配下となった。

三河に帰った家康は光秀を討つため出陣し、熱田神宮まで来たが、山崎の戦いの報を聞き、引き返した。この時、先鋒酒井忠次は津島まで進軍していた。武田氏の滅亡後、甲斐信濃の武田領国は織田家臣により統治されていたが、家康は信長横死後の混乱で空域化していた甲斐を相模後北条氏と争奪し(天正壬午の乱)、最終的には武田遺領を確保し東国の一大勢力となるが、豊臣政権下においては後北条領国が征服され、天正18年には家康の関東移封により家康の旧武田領国支配は終焉する[41]

織田信雄

信長の次男・北畠信雄は、本能寺の変の後光秀を討とうと近江の土山へ進軍するが、山崎の戦いで光秀が秀吉に大敗したことにより撤退。信雄は清洲会議にて織田家の跡継ぎに推されなかった(他家に養子に出ていたこともあるが、度々失態を犯すなど暗愚であったことも大きいと思われる)。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った(小牧・長久手の戦い)。

滝川一益

一益は関東の上野国厩橋城にいたとき、本能寺の変の報せを聞いた小田原北条氏直が、織田家との同盟を一方的に破棄して上野国奪取を目指して進出。本能寺の変の報せが広まり、一益が任されていた旧武田領の信濃や甲斐では一揆が続発し、信濃の森長可は畿内へ逃亡、甲斐の河尻秀隆は一揆勢に敗れ討死している。武田氏を滅ぼし、新しく織田領となった中部地方の支配がはじまってまだ3ヶ月であったため、軍の編成も不十分であり、織田家臣団の中で最も絶望的な状況にあった。一益は2万の軍を率いて北条軍6万を緒戦で撃退するも、その後の戦いで敗れて領国の伊勢長島城へ命からがら帰還した(神流川の戦い)。一益の敗戦により上野、信濃、甲斐の織田勢力は一掃される結果となり、清洲会議にも間に合わなかった。一益の敗走後、北条氏直、徳川家康、上杉景勝が旧滝川領空白地帯を巡って戦うことになる。

織田信孝・丹羽長秀

信孝は長秀、信長の甥・津田信澄(父は織田信勝(信行))らとともに大坂にて四国の長宗我部元親討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。

信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。

斎藤利堯

本能寺の変後、岐阜城を占拠するが、光秀が秀吉に敗れると、信孝に岐阜城を明け渡した。

姉小路頼綱

本能寺の変後、かねてから敵対関係にあった江馬輝盛や小島氏、さらに実弟の鍋山顕綱を討って、飛騨国を完全に制圧した。

一色義定

織田政権の丹後守護の後、弓木城を居城にする。山崎の戦いでは光秀に味方し、細川藤孝と対立する。

武田元明

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際、若狭守護としての勢力の回復を計り、若狭各地にいた旧臣を集め明智光秀と通じ丹羽長秀の本城・佐和山城を陥落させる。

京極高次

妹の京極竜子が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀に与し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻め落とす。

長宗我部元親

長宗我部元親は信長の四国征伐の影響もあり、兵を白地城に休ませていた。だが、信長横死を知るや出兵し、静岡の戦いに勝利し、阿波・讃岐を完全に勢力下に入れた。

日本文化の中の「本能寺の変」

最も有名な日本外史頼山陽)の中で「敵人在本能寺(敵は本能寺にあり)」と簡潔に記述したのをはじめとして、狂言浄瑠璃歌舞伎小説映画演劇アニメなどで「本能寺の変」は400年前から今日なお作品の中に記述され続けている。 また「敵は本能寺にあり(敵本主義)」[42]のような、意味深い使われ方をするときもある。

関連項目

脚注

  1. ^ 【換暦】暦変換ツール
  2. ^ 『信長と天皇』今谷明
  3. ^ 『真説 本能寺の変』所収 和田 裕弘論文ISBN 4-08-781260-X(ISBN-13 978-4-08-781260-2)
  4. ^ 「本能寺の変」の焼け瓦発見 旧寺跡で 堀や石垣も 京都新聞2007年8月7日
  5. ^ 光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城より3,000人の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた7時30分より数時間後の9時頃だったとする説もある。
  6. ^ 光秀はこの時、京都にも入っておらず、本能寺到着は9時。指揮した者が不明の謎の軍団とする説もある。
  7. ^ 三河物語』の記述では「城介が別心か」となっており、嫡子・信忠(秋田城介)の謀叛を疑ったということになっている。
  8. ^ 信長の家臣太田牛一の著作『信長公記』による経過。本能寺から避難した女衆に取材したとある。
  9. ^ a b 『信長は謀略で殺されたのか』鈴木眞哉藤本正行ISBN 4-89691-995-5
  10. ^ 本能寺の変に触れるドラマの中では、ヤスケが信長に殉じて討ち死にするという描かれ方をされることもある。
  11. ^ 但し『国盗り物語』では怨恨を基調としつつも野心が無かったわけではない、としている。更に司馬は別の所では、概ね「『国盗り物語』では野心があったように書きましたが、光秀はノイローゼだったのではないかと思っているのです。ですがノイローゼでは小説になりませんので」等と言っており、司馬自身は、光秀が恐怖心が昂じて神経症になり、時間経過と共に病状が悪化して行き、遂には発作的に変をやってしまった、と思っていたようである。
  12. ^ 高柳『明智光秀』吉川弘文館<人物叢書>、1958年
  13. ^ 『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』 洋泉社、2006年
  14. ^ このうち「国替え説」は、唯一史料として変19日前の5月14日付けの丹波国人、土豪への軍役を課した神戸信孝の軍令書が存在し、この人見家文書の花押の真偽を巡る学問的な論議となっている。しかし、簗田広正や滝川一益が同様の敵地への領地替えが行われた際は、彼らの旧領はしばらく安堵されていたので、これは新領獲得まで旧領安堵するという当時の作法ではという説がある(『検証本能寺の変』)。
  15. ^ 戦いの経過も結果も信長公記の記述と全く異なるため、信憑性は薄い。
  16. ^ 藤田達生「織田信長の東瀬戸内支配」(小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』(和泉書院、2006年) ISBN 978-4-7576-0374-5 所収) 。ただし、三好康長と信吉の養子縁組の時期については谷口克広から本能寺の変当時にはまだ縁組は成立していなかったとする反論が出されている(谷口『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)P216-218)。
  17. ^ 『真説 本能寺』(2001年)、『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(2007年)
  18. ^ a b c 林屋辰三郎 『日本の歴史 天下一統』
  19. ^ 谷口克広「信長と消えた家臣たち」中公新書(2007年)、ISBN 978-4-12-101907-3
  20. ^ 宣教師ルイスフロイスの記録による
  21. ^ NHK「その時歴史が動いた-本能寺の変・激突!改革か安定か-」
  22. ^ 「荻藩閥閲録」によれば、毛利は変から4日たってもまだ変の実態がつかめなかった。
  23. ^ 『歴史群像 No.83』07年6月号(学習研究社
  24. ^ NHK堂々日本史1998年7月14日放送「シリーズ 本能寺の変(1)明智光秀 謀反の陰に朝廷あり」
  25. ^ 金子拓 『記憶の歴史学 ─史料に見る戦国』 講談社<講談社選書メチエ>、2011年、177-179頁。ISBN 978-4-06-258522-4
  26. ^ たとえば堀新『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』(吉川弘文館)53-65頁。
  27. ^ 荒巻義雄 『紺碧の艦隊』の読み方〈1〉紺碧要塞の戦理論 ISBN 4-19-154838-7
  28. ^ 山田風太郎 『妖説太平記』
  29. ^ 『敵は本能寺にあらず』双葉社刊
  30. ^ 井沢元彦 (1990), “謀叛を生んだ元親との外交破棄政策”, in 小向正司, 歴史群像シリーズ20『激闘織田軍団』, 学習研究社 
  31. ^ 『本能寺の変本当の謎-反逆者は二人いた-』並木書房刊<ISBN4-89063-185-2>
  32. ^ 柴田勝家は近江長光寺二郡から越前八郡に、滝川一益は伊勢長島から上野一国・信濃二郡に加増ながらも近畿から遠い地に転封されている。秀吉も近江長浜から播磨一国に転封しており、長浜は収公、新城主に堀秀政が内定していた。
  33. ^ SAPIO2011年1月6日号
  34. ^ さいとうたかを『戦国謀略図』ISBN 9784845829958
  35. ^ 戦国新説研究会 『超図解戦国を変える新説15』
  36. ^ フロイスは「信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主である、デウスのみに帰すべきものを奪わんとしたため、安土山においてこの祭りを行った後19日を経て、その体は塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られた」と、信長が「儀式」の報いにより滅亡したと述べている。
  37. ^ 『信長の天下布武への道』(吉川弘文館)
  38. ^ 穴山信君(梅雪)は武田氏親族衆で、甲斐南部の河内領・駿河江尻の分郡領主。織田・徳川連合軍による甲斐侵攻に際して当主勝頼から離反し、信長に臣従していた
  39. ^ 徳川実紀
  40. ^ 『三河物語』によると、穴山信君はかなりの金品を持っており、家康従者に強奪されるのではと恐れたために別行動を取ったとされている。
  41. ^ なお、信君横死後の河内・江尻領支配については信君の遺児勝千代による相続が家康により安堵されるが、勝千代は天正15年に死去し、穴山氏は家康五男万千代を養子に迎え相続されるが、家康の関東遺封に伴い穴山氏の河内・江尻領支配も終焉する。
  42. ^ -目的が他にあるように見せかけて、途中、急きょ、本来の目的に向かうこと。「敵本」は「敵は本能寺にあり」の意味であるため、本能寺の変に由来する成句

外部リンク