「落語立川流」の版間の差分
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2020年1月2日 (木) 04:57時点における版
落語立川流(らくご たてかわりゅう)は、東京における落語家の団体の1つである。7代目立川談志とその一門により創設された。
特徴
- 落語のいわゆる定席[注 1]へ出演できない(例外あり立川流が定席に出た例外として、末廣亭2006年4月中席の立川藤志楼(高田文夫、落語芸術協会の顔付けに加わる、国立演芸場2006年6月上席の立川談笑(落語協会の顔付けに加わる)のみであったが、近年は立川談之助が2017年8月浅草の落語芸術協会の定席に出演したのを皮切りに、同協会の定席に客演する機会が多くなっている)。
- そのため、立川流としては永谷商事所有の「お江戸上野広小路亭」や「お江戸日本橋亭」での興行[注 2]や同場で開催される落語芸術協会、円楽一門会など他流との混合寄席、また浅草東洋館で行われるボーイズバラエティ協会や東京演芸協会の興行(日替わりで1名程度)などに出演するほか、不定期にホールや市民会館などで独演会や一門会を開催している。「余一会」(寄席で各月31日に行われる特別興行)は立川流からも参加する場合がある。なお、談志の没後は、新宿末廣亭では二度にわたり立川流一門会が開かれている。
- 創設者である談志を頂点とする家元制の組織体系を採っていた。プロ落語家志願者を育てるための従来の師弟関係(Aコース)のほかに、一般人もお金を払うだけで弟子になれる制度があったが(Cコース)、Cコースは落語家にはなれなかった。談志の死去に伴い家元制度は廃止となった[1]。
- 直弟子なら家元へ、孫弟子ならその師匠への上納金制度があったが、これも家元制度と共に廃止された。
- 談志の一門のみによって構成されるので、実質的に談志一門として認識される。例外はあるものの、ほぼ全員が立川の亭号を名乗る(例外として10代目土橋亭里う馬など)。
- 江戸落語四流派の中では唯一、演芸番組『笑点』のレギュラー出演者が存在しない[注 3]。
- Aコースは落語家のみで構成され、色物は存在しない(例外あり)。
- 発足から2019年現在に至るまで、法人組織化されていない。
沿革
誕生以前の前史
落語協会分裂騒動は、落語立川流の誕生とは直接に関係しないが、間接的に大きな関わりのある重要なエピソードである。
1978年5月9日、落語協会に分裂騒動が勃発した。前会長の6代目三遊亭圓生(当時:最高顧問)の副産物とも言える大量に存置されていた二つ目の真打への昇進を巡り、大量真打昇進で滞貨一掃を図った協会会長5代目柳家小さんと、安易な昇進に反対する圓生最高顧問が対立。圓生は落語協会からの離脱を決意し、圓生の弟子である5代目三遊亭圓楽に加え、3代目古今亭志ん朝、立川談志ら一部の幹部が圓生に同調し落語協会離脱の動きを見せた。 5月24日に設立が公表された新団体「落語三遊協会」に、圓生一門と志ん朝のほか、7代目橘家圓蔵、圓蔵の弟子の5代目月の家圓鏡(後の8代目橘家圓蔵)らが参加を表明した。談志は最も強力な賛同者と目されていたものの、公式発表直前に突如として協会残留の意向を示し、この新団体に参加することはなかった。
翌25日、上野鈴本演芸場・新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場の各寄席の席亭会議で、落語三遊協会に寄席への出演を認めないことを決めた。当初、落語協会所属の落語家の半数が三遊協会に移籍すると見られており、実際に鈴本演芸場席亭は三遊協会に好意的な立場であったが、実際に移籍を決めた人数は予想されたものよりも少なく「これでは毎日の公演をまわしていけない」とする末廣亭席亭・北村銀太郎の意見が決定打となった。この決定により三遊協会からは脱退者が相次ぎ、5月31日に北村の仲介で圓蔵、圓鏡、志ん朝らは協会に復帰し、翌6月1日に正式に落語協会を脱退して落語三遊協会を結成したのは圓生の一門のみであり、しかも圓生の直弟子からも脱落者を出す有様であった。
1979年9月3日、圓生は急逝。これにより、落語三遊協会は自然消滅し、分裂騒動は圓生側の全面的敗北に終わった。三遊協会所属の落語家は総領弟子の圓楽一門を除き、いずれも落語協会に復帰した。圓楽一門は新たに大日本落語すみれ会を結成。その後何度か改称の後、1990年に円楽一門会に改称して現在に至っている。
落語協会ではこの騒動後、真打昇進に関して師匠推薦に代わり「真打昇進試験」制度を導入することとなったが、後述するように合否の運用基準が不明瞭なこともあり、談志の批判、落語協会離脱につながることとなった。
この騒動は圓楽と談志が黒幕になって圓生を動かし仕掛けたという説も存在している。目的は彼らのライバルであり、当時は将来の落語協会会長と目されていた志ん朝の香盤を落とすことであったとされている[注 4]。しかし、最終的に協会に戻った志ん朝は、表向きは「会長小さんの温情」という形[注 5]で香盤が下がらなかった。
誕生
1983年の落語協会真打昇進試験では、林家源平、柳家小里ん、林家種平、林家上蔵 (現:3代目桂藤兵衛)、蝶花楼花蝶(現:7代目蝶花楼馬楽)、林家正雀、古今亭八朝、林家らぶ平、立川談四楼、立川小談志(4代目喜久亭寿楽)の10名が受験した。当時理事であった談志が不在中、談志の弟子2人(談四楼と小談志)が不合格となる一方、林家三平の弟子で、力量が明らかに劣ると思われた源平が合格した(他の合格者は小里ん、花蝶、正雀)。談志はこの試験の結果と考査基準に異を唱え、大半の弟子と共に脱会、立川流落語会を創設した。談志は家元制度を確立し、初代家元となる。
結果
圓生一門の落語協会離脱の際に、東京の寄席席亭は番組編成上、落語協会・落語芸術協会所属者以外の出演は困難であるとした。立川流に関しても同様のスタンスであり、そのため立川流は一門として寄席に出演する意志は当初から持たず、代わりにホールでの落語会を中心に活動している。「日本すみずみ出前寄席」という企画では99,800円で真打1人、二つ目2人、前座1人の計4人を全国各地に派遣した。
家元談志の死去
2011年11月21日の談志の死去に伴い、2012年1月に一門で話し合いが持たれ、その結果家元制度を廃止したうえで、総領弟子の土橋亭里う馬が新代表となり再スタートした。
出演場所
前述の通り、立川流については、東京の寄席(浅草演芸ホール・鈴本演芸場・新宿末廣亭・池袋演芸場)で定席興行を打つことができない。代わって、永谷商事が所有するホールなどでの活動が中心となる[注 6]。
一方、生前の談志を初め、志の輔、談春、志らく、談笑といったいわゆる「売れっ子」たちは、自分の独演会を積極的に開くことを主要な活動としている。他の者が出演する場は、主に立川流の一門会であり、いわば彼らの定席である[注 7]。
- 立川流日暮里寄席
- 「日暮里サニーホール」で毎月開催されている一門の定期興行。前座から真打まで一門の噺家が複数出演する。一般2,000円
- 立川流広小路寄席
- 「お江戸上野広小路亭」で毎月開催されている一門の定期興行。前座から真打まで一門の噺家が複数出演する。一般2,000円
- 立川流日本橋寄席
- 「お江戸日本橋亭」で毎月開催されている一門の定期興行。前座から真打まで一門の噺家が複数出演する。一般2,000円
- 新宿永谷若手道場
- 歌舞伎町「永谷フリースタジオ新宿Fu-+」で毎月開催されている一門の定期興行。主に二つ目クラスの一門の噺家が複数出演する。1,000円
- 荒川区防犯寄席
- 荒川区が防犯イベントとして年数回開催する無料の寄席。立川流専門ではないが、立川流一門の出演が圧倒的に多く、真打クラスも多く出演している。
立川流顧問
立川流設立時、権威付けの意味合いで、談志と親しい、格上ないし惚れ込んだ著名人に名を貸してくれるよう頼んだのが始まり。その名残から名義だけ(森繁久彌ほか)のものもいれば、昇進試験の際の審査も行うもの(野末陳平、吉川潮ほか)まで多様であった。特に元顧問の吉川潮は、談志が全面的に信頼を寄せていたため、談志に対する発言力が大きく(2代目快楽亭ブラックの除名を決めたのは吉川とされる)、事実上の筆頭顧問として立川流の運営に関わっていたが、多くの弟子たちからは疎んじられていたようである[要出典]。
- 山藤章二
- 小室直樹(2010年死去)
- 石原慎太郎
- 野末陳平
- 森繁久彌(2009年死去)
- 色川武大(1989年死去)
- 稲葉修(1992年死去)
- 川内康範(2008年死去)
- 手塚治虫(1989年死去)
- 17代目中村勘三郎(1988年死去)
- 胡桃沢耕史(1994年死去)
- 江崎真澄(1996年死去)
- 田村隆一(1998年死去)
元顧問
- 吉川潮(2014年辞任)
組織構成
立川流はA・B・Cの3コースがあったが、現在は廃止。Aコースは落語家、Bコースはビートたけし他の芸能人を中心とする有名人、Cコースは一般人で構成され、それぞれ昇進基準が異なっていた。
昇進基準
Aコースの職業落語家は噺のほか、舞踊などの修得が必修とされ、家元の面前での試験により昇進の可否が決定される。B・Cコースの基準はそれに比して緩やかである。Bコース初の真打は、1988年11月昇進の立川藤志楼こと高田文夫であった。
Aコースの弟子は、
の修得が求められる。2012年6月の新体制発足以後は、前座修行が最低3年必要になった(入門からわずか1年半で、新体制発足直前に二つ目に昇進した談笑門下の立川吉笑のような例が今後なくなる)。家元である談志は昇進の条件として「持ちネタが2席でも、客を爆笑させることができればよい」ともしていたが、その基準をクリアできる弟子はいないのが現状である。
2002年5月、「二つ目への昇進意欲が感じられない」として、一門の前座6名が破門を言い渡された。これにより前座が1名になってしまったため、翌月に立川談吉(現:立川小談志)が立川談一の名で復帰。2003年5月、復帰試験が行われ、立川談修のみが合格。不合格となった立川志加吾と立川談号は2003年8月に雷門小福門下に移籍し、それぞれ雷門獅篭、雷門幸福となった。2004年1月、立川キウイと立川談大(2010年死去)は、一門の新年会席上で再度復帰試験を受ける。判断に窮した談志は立川流真打達に判断を一任。厳しい意見が相次いだが、二つ目ではなくあくまでも前座としての復帰という条件を談志が提示、談志の意を汲んだ談四楼、志の輔らの音頭によって、ようやく一門復帰を許された。
また、2019年5月、立川志らく門下の二つ目7人について全員を前座に降格とした。これは、志らくが主宰する劇団の稽古に一門の弟子たちが1度も見学に来なかったことを理由に「弟子が師匠に対して興味がないのなら弟子である必要はありません」としている。この中には同年夏に真打昇進が決定していた立川志獅丸や、3月に二つ目に昇進したばかりの立川志ら鈴も含まれているが、いずれも期間を決めた上(志獅丸は真打昇進の前日まで)での前座再修行としている[2]。その後、同年7月1日付で志獅丸は真打に昇進(形式上、異例の前座からの真打昇進)させ、志奄、らく兵、らく人、がじらの4名が二ツ目へ復帰した(この時点で志ら門、志ら鈴は「二ツ目に昇進したばかり」との理由でこの時点で二ツ目に復帰できなかったが、2020年1月1日付で二つ目に復帰した)[3][4]。
構成員
家元
- 立川談志(2011年死去。落語立川流家元 死去時は真打)
談志の死去後、家元は廃止された。
旧Aコース(弟子)
香盤順[5]
真打
二ツ目
前座
死去
休業中
破門・廃業・除名等(主なもの)
- 立川談志門下
- 桂文字助門下
- 桂文字ら
- 立川談四楼門下
- 立川康四楼
- 立川長四楼
- 立川語楼
- 立川志らく門下
- 立川らく丸
- 立川らく吉
- 立川こらく
- 立川らく坊
- 立川らくみん
- 立川らく葉
- 立川怒志
- 立川らく者
- 立川志の輔門下
- 立川志の多
- 立川こあら
- 立川メンソーレ(現:北山亭メンソーレ)
- 立川談春門下
- 立川はる一
- 立川春太
- 立川はるく
- 立川春吾
- 立川春樹
- 立川春松
- 立川はるか
- 立川春太郎
- 立川春来
- 立川ちはる
- 立川談笑門下
- 立川笑吾
- 立川笑笑(2015年6月末、漫才に転向するため廃業)
- 立川笑坊
- 立川笑ん
- 立川錦笑
移籍
旧Bコース(談志が認めた有名人)
☆は真打昇進している(昇進披露を行った)者。
- 立川毒まむ志(毒蝮三太夫、俳優)
- 立川錦之助[注 10](ビートたけし、タレント)
- ☆立川藤志楼(高田文夫、放送作家。真打)
- ☆立川文志(佐藤敦之、江戸文字作家。色物真打)[注 11]
- 立川談遊(山本晋也、映画監督)
- 立川右太衛門(上岡龍太郎、元タレント)
- 立川藪医志(松岡悟、元警視庁警察学校理事官)
- 立川談七(生原正久、元金丸信秘書)
- ダンカン(タレント)[注 12]
- 立川於春の方(内田春菊、漫画家)
- ☆ミッキー亭カーチス(ミッキー・カーチス、ロカビリー歌手・俳優。真打)
- 立川侊志ん(奥山晄伸、放送作家)
- 立川談デリー(マルカス。インド人。『インド流!』著者。インド料理レストラン(都バス麻布台・外務省飯倉公館向かい 「ブカラ」)と旅行会社を経営)
- 立川流野末陳平(野末陳平、タレント・元参議院議員)
死去
- 立川禿談次(横山ノック、タレント、政治家)
- 立川八王子(景山民夫、小説家)[注 13]
- 立川不二身(赤塚不二夫、漫画家)
- 立川雀鬼(あだち勉、漫画家)
- 立川小女姫(藤田小女姫、占い師)
- 立川鬼六(団鬼六、作家)
- ダンディ・立川(ジミー時田、カントリー・ミュージック歌手)
- 立川雄之助(高井研一郎、漫画家)
除名 (主なもの)
Bコースメンバー整理の際に除名された主な人物。
旧Cコース (談志が認めた一般人)
- 立川久蔵
- 立川呑志
- 立川志隆
- 立川七志
- 立川朝志
- 立川談地妻
- 立川抜志
- 立川志長
- 立川談薬
- 立川志ん朝
- 立川小龍包
- 立川談茶可
- 立川談我良
- 立川成行
- 立川堅志
- 立川談骨
- 立川久六
- 立川志ん介
- 立川旭志
- 立川小ミチ
- 立川凡志
- 立川清志楼
- 立川談ペット
- 立川談々丸
- 半澤伸
- 福田浩章
- 大久保祐司
- 小笠原慎治
- 宝田一夫
- 中村雅則
- 谷野幸二
- 吉田章
- 大橋薫
- (立川平林はCコースからの入門)
系図
- 現在Aコースに所属しているものを列記した(破門や脱会したものは含まない)。
- 順は香盤ではなく、入門順である。真打は太字、前座は小文字で示した。
- †印は物故者、名跡の後の数字は代数を表す。
- 小談志、平林、談吉は談志門下だったが、談志の死去により移籍した。その後、談吉は左談次の死去によりさらに移籍した。
上納金制度
かつて入門者は、家元への上納金の納付が義務付けられていた。家元が亡くなり理事会制度となったため、現在は廃止されている。
- Aコース
- 入会金10万円。前座・見習・二つ目は月2万円、真打は月4万円(但し真打で会費総納入額270万円に達した者は満了となる)。
- Bコース
- 入会金10万円。月々2万円。
- Cコース
- 入会金2万円。月々5千円。
※2001年6月より
滞納者の弟子に対する厳しい処遇
2000年8月、滞納者が多数いる事が発覚した。談志は滞納者に破門を申し付けたが、滞納分の同額から3倍の支払いを条件に復帰を承認する。支払い不能であった立川談々・國志館・志っ平・小談林は、そのまま破門。國志館は圓楽門下に移り三遊亭安楽、後に全楽を名乗る。志っ平は10代目桂文治門下に移籍し前助、文治没後柳家蝠丸門下となって二つ目に昇進、柳家小蝠となった(その後2014年真打昇進、2018年1月に死去)。小談林は落語芸術協会にバイオリン漫談「マグナム小林」として加入。
立川流に関する書籍・文章
- 「談志が死んだ──立川流はだれが継ぐ──」(講談社、2003年) ISBN 4-06-212185-9
- 広瀬和生「談志亡きあとの立川流」 (「21世紀落語史」第79回、2019.9.19、本がすき。(光文社))
脚注
注釈
- ^ 定席とは、年間ほぼ毎日演芸を開催している寄席の通常興行のこと。東京(江戸)落語の定席は鈴本演芸場・新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場で、国立演芸場を含む場合もある。
- ^ 両演芸場ともいわゆる江戸落語の寄席の定義から外れている。
- ^ 同番組で不定期に放送される真打昇進披露口上も他流派と合同で行われるほか(但し、口上で恒例となっている新真打の師匠や関係者の出演は無い)、地上波や派生番組(『笑点 特大号』等)で行われる若手大喜利には立川流の落語家も出演している。
- ^ すなわち、それまでは志ん朝、圓楽、談志であった香盤順を、談志、圓楽、志ん朝に入れ換えようと目論んだ。談志が決行直前に新団体設立から脱落したのは、新団体における志ん朝の香盤を談志の下にすることを圓生が拒否したためというのは談志本人も認めるところである。
- ^ この「温情」については北村銀太郎の圧力が働いていた。圓楽とともに「騒動」の首謀者でありながら直前に裏切って勢力を温存した談志を牽制する小さん派の協会幹部の思惑も含まれていたとされる。
- ^ ただし「余一会」(1〜7月の奇数月および8〜12月の偶数月の31日に、各寄席で行われる特別興行)では、制約を受けずに寄席で一門会が行われることもある。また、落語芸術協会の定席興行に談之助などが不定期で出演するなど、一部例外もある。
- ^ 同じく寄席での定席興行が打てない円楽一門会や浅草東洋館で行われる漫才・色物の定席興行にも定期的に数名が出演することがある。
- ^ 一度破門になったが、2015年復帰。さらに、現在は亭号を剥奪されている[6]。
- ^ 師匠の立川こしらが、高座名の命名権をヤフオク!に出品したことで知られる。落札者が仮面女子だったため、それをそのまま命名し、「立川仮面女子」としたが、2016年10月、ネーミングライツの期間が切れ、改名。
- ^ のちに、立川談春の落語会に出演してからは「立川梅春(たてかわばいしゅん)」に改名して落語を何度か口演している。
- ^ 弟子に、立川談文(本名:三浦淳一)がいる。「談文」の命名は立川談志。
- ^ ダンカンはAコース「立川談かん」からビートたけし門下へ移籍、改名後、1986年2月にBコースへ再入門、そのまま「ダンカン」を名乗る。
- ^ 師匠の談志から芸名を付けてもらうにもネタが尽きたらしく(師匠曰く『直木賞作家に敬意を表して』と)、師匠から「芸名は自分で考えて来るように」と言われ困っていたところ、新宿駅でふと見た中央線快速の行き先表示『立川・八王子方面』に、コレだと思って芸名にした、という[10]。景山本人もざこば・鶴瓶らくごのごのゲスト出演の際に立川八王子の由来を同じように語っている。
出典
- ^ “落語立川流:家元制度廃止 今後は理事会が意思決定”. 毎日jp. (2012年6月7日). オリジナルの2012年7月9日時点におけるアーカイブ。 2012年6月7日閲覧。
- ^ 立川志らく、二つ目の弟子全員を前座に降格処分 - 日刊スポーツ 2019年5月21日
- ^ 立川志らく、志獅丸を真打ちに昇進「戻さないといろんな人に迷惑がかかる」 - SANSPO.COM 2019年7月14日
- ^ 立川志らくの弟子、志ら鈴と志ら門が二つ目復帰!新年の節目に決断 - SANSPO.COM 2020年1月1日
- ^ 東京かわら版編・東西寄席演芸家名鑑。
- ^ “破門に続き…名誉ある立川の亭号を剥奪 談志師匠もおびえた強者!?らく兵”. 産経新聞. (2016年10月16日) 2017年1月18日閲覧。
- ^ “タコ太郎[立川うおるたー]@謎のキューピー”. twitter. 2019年9月22日閲覧。
- ^ @Dgoutokuji (2015年10月21日). "立川談四楼のツイート". X(旧Twitter)より。
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: Cite webテンプレートでは|access-date=
引数が必須です。 (説明) - ^ “立川談幸、立川流を脱退 談志の内弟子、落語芸術協会へ”. 朝日新聞. (2014年12月28日) 2014年12月28日閲覧。
- ^ 立川談四楼のツイッター - 2019年7月18日閲覧
関連項目
外部リンク
- 落語立川流 – 一門会情報
- 談志役場 (@danshi898) - X(旧Twitter)
- 立川企画公式ウェブサイト
- 立川流が好きっ!! - 立川談志の孫世代の会のサイト
- 家紋・丸に左三蓋松の画像素材 - 掲載家紋画像の提供元