立川談修
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![]() 丸に左三蓋松は、立川流の定紋である | |
本名 | 占部 直昭 |
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生年月日 | 1973年1月20日(48歳) |
出身地 | ![]() |
師匠 | 7代目立川談志 |
弟子 | 立川談吉 |
名跡 | 1. 立川談修 (1995年 - ) |
出囃子 | 東雲節 |
活動期間 | 1995年 - |
所属 | 落語立川流 |
公式サイト | 立川談修 |
立川談修(たてかわ だんしゅう、1973年1月20日 - )は、千葉県船橋市出身の落語家である。落語立川流所属。本名∶占部 直昭。
家元立川談志が真打昇進を認める制度であった談志生前の立川流において家元談志がその昇進を認めた最後の真打[1]である。
略歴[編集]
入門まで[編集]
専修大学松戸高校、専修大学時代は落語研究会に所属していた。大学時代の芸名は前座〜二つ目 松風亭タコ三郎、真打〜初代 松風亭麗枝。立川志らくの弟子の 立川志ららの2年先輩にあたる。
入門〜二つ目[編集]
- 大学卒業後の1995年3月、立川談志に弟子入り。出身大学から一文字とり「談修」となる。過去に談志一門には「
談秋 」という弟子が居た[2]が、別人であり、「談修」としては初代である。 - 2002年5月、談志より「二つ目への昇進意欲が感じられない」として他の前座(キウイ、志加吾、談号、談大(のち2010年死去)、談吉)とまとめて破門される。
- 2003年5月、談志により一門復帰試験と二つ目昇進試験が行なわれ、談修のみ復帰と二つ目昇進が認められる。2003年6月に二つ目に昇進。
(これを機に志加吾と談号は立川流から脱退し、名古屋の雷門小福門下に移籍し、雷門獅篭と雷門幸福に改名)。
- 2004年1月、立川流一門の新年会席上で、再度復帰試験が行なわれキウイと談大が受験。しかし師匠について稽古した踊りは真打の兄弟子から「ラジオ体操」と評されるレベルであり、窮した談志は判断を真打達に委ねた。このとき談志から「踊ってみせよ」と指名され、踊りを見せたあと談志に「これが余興で金が獲れるレベルなんだ」と言わしめたのが、談修の踊りであった(キウイと談大は、談志の意を汲んだ立川志の輔の音頭取りで、立川談志門下復帰を許される)。
- 2010年2月、四谷区民ホールで行われた『第7回伝統芸能祭 グランドチャンピオン大会』で悲願の初優勝を果たす。
- 2010年11月6日、「NHK新人演芸大賞・落語部門」本戦に出場。全国放送ではじめて、談修の落語が11分間放映された。談修の演目は「宮戸川」である(大賞は「初天神」を演じた春風亭一之輔。その他の出場者の演目は笑福亭由瓶「阿弥陀池」、桂まん我「お玉牛」、立川志らら「風呂敷」)。
真打[編集]
- 2013年春に真打昇進。談志が昇進を認めた最後の真打となった。談修の下には三人の弟弟子(2代目立川小談志、平林、談吉)がいたが、いずれも談志の死に伴い兄弟子の預かり弟子となった[注 1]。
- 2018年7月、兄弟子である立川左談次の死去に伴い、左談次の弟子である立川談吉を預かり弟子とした[3]。
弟子[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 「落語の蔵」2013年4月27日の記事に、談志門弟連名の証明書を持つ談修の写真が掲載されている。「家元立川談志が生前認めた最後の真打であることを証します」とある。http://www.joqr.net/blog/rakugonokura/archives/2013/04/post_231.html 談修のツイッターアカウント @tatekawadansyu プロフィール欄に同様の記載がある。
- ^ ちなみに、談秋の同期で対になる名前をつけられたのが立川談春である。
- ^ a b “コご報告(立川談修公式ブログ)”. 2018年7月18日閲覧。