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== 背景 ==
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=== 公募団体主導の構想 ===
=== 公募団体主導の構想 ===
この美術館の構想はそもそも、[[日展|社団法人日展]]ほか大きな美術団体の[[公募展]]が[[東京都]]が所有権を持つ[[東京都美術館]]の使用を占めており、東京都民が入り込む余地がなかったこと、および[[日本]]全国規模の公募展が開催可能な国立施設の必要性が求められたことが発端となっている{{Sfn|保科2008|page=4}}。
この美術館の構想はそもそも、[[日展|社団法人日展]]ほか大きな美術団体の[[公募展]]が[[東京都]]が所有権を持つ[[東京都美術館]]の使用を占めており、東京都民が公募展を開催する余地がなかったこと、および[[日本]]全国規模の公募展が開催可能な国立施設の必要性が求められたことが発端となっている{{Sfn|保科2008|page=4}}。


その後、美術家や公募団体が[[文化庁]]や政党、各地方の国会議員に働きかけた結果、[[1995年]]以降、各公募団体の代表作家たちや[[美術評論家]]を中心に、国立の新美術展示場建設構想の調査がはじまる<ref>[http://art-v.jp/tenpyo/webtenpyo/fujita/fuji-1.html 国立新美術館とは何か? (美術ジャーナリスト:藤田一人)]</ref>。場所は六本木の[[東京大学]][[東京大学生産技術研究所|生産技術研究所]](駒場に移転)の跡地があてられ、建設費は380億円を予定していた。当初は「'''ナショナル・ギャラリー(仮称)'''」と呼ばれ、日本の芸術文化の育成・国際的な芸術情報発信拠点としての役割が期待されていた。活動内容は複数の公募展の同時並行開催と、新聞社などの主催の大規模企画展のための会場貸しとされ、美術品[[コレクション]]や[[学芸員]]は置かない方針だった。
その後、美術家や公募団体が[[文化庁]]や政党、各地方の国会議員に働きかけた結果、[[1995年]]以降、各公募団体の代表作家たちや[[美術評論家]]を中心に、国立の新美術展示場建設構想の調査がはじまる<ref>[http://art-v.jp/tenpyo/webtenpyo/fujita/fuji-1.html 国立新美術館とは何か? (美術ジャーナリスト:藤田一人)]</ref>。場所は六本木の[[東京大学]][[東京大学生産技術研究所|生産技術研究所]](駒場に移転)の跡地があてられ、建設費は380億円を予定していた。当初は「'''ナショナル・ギャラリー(仮称)'''」と呼ばれ、日本の芸術文化の育成・国際的な芸術情報発信拠点としての役割が期待されていた。活動内容は複数の公募展の同時並行開催と、新聞社などの主催の大規模企画展のための会場貸しとされ、美術品[[コレクション]]や[[学芸員]]は置かない方針だった。

2019年1月2日 (水) 12:01時点における版

国立新美術館
The National Art Center, Tokyo
国立新美術館の位置(東京都区部内)
国立新美術館
東京都区部内の位置
施設情報
専門分野 美術
来館者数

2,623,156人(2016年)[1]

  • 日本第1位、世界第20位
管理運営 独立行政法人 国立美術館
開館 2007年(平成19年)1月21日
所在地 東京都港区六本木七丁目22番2号
位置 北緯35度39分54秒 東経139度43分35秒 / 北緯35.66500度 東経139.72639度 / 35.66500; 139.72639座標: 北緯35度39分54秒 東経139度43分35秒 / 北緯35.66500度 東経139.72639度 / 35.66500; 139.72639
外部リンク 国立新美術館
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国立新美術館(こくりつしんびじゅつかん、: The National Art Center, Tokyo)は、東京六本木にある美術館である。日本で5館目の国立美術館として、2007年平成19年)1月に開館した[2]

概要

六本木中心部の地図。水色で四角く囲んだ②にあるのが国立新美術館。

文化庁国立新美術館設立準備室と独立行政法人国立美術館が主体となって東京大学生産技術研究所跡地[注釈 1]に建設された美術館である。

国立の美術館としては1977年昭和52年)に開館した国立国際美術館以来、30年ぶりに新設された。

地下1階、地上4階、敷地面積30,000平方メートル、延床面積47,960平方メートル[2]は日本最大で、これまで最大とされていた大塚国際美術館の約1.5倍に及ぶ。

独立行政法人国立美術館に所属している中で唯一コレクションを持たない為、英語名は収蔵品を持つのが通常であるミュージーアムではなくアートセンターを用い、「ナショナルアートセンター・トウキョウ THE NATIONAL ART CENTER-TOKYO」を名乗っている。

コンセプトを「森の中の美術館」としており、設立目的を展覧会の開催・情報収集およびその公開・教育普及としている。また、館内にはミュージアムショップ・レストラン・カフェなどが併設されている。

黒川紀章設計の美術館としては最後のものとなった。

沿革

  • 1996年(平成8年)立案
  • 2002年(平成14年)着工
  • 2003年(平成15年)6月 正式名称を「国立新美術館」に決定
  • 2006年(平成18年)6月14日 竣工
  • 2007年(平成19年)1月21日 開館
  • 2010年(平成22年)9月 3日 来場者数1000万人突破

背景

公募団体主導の構想

この美術館の構想はそもそも、社団法人日展ほか大きな美術団体の公募展東京都が所有権を持つ東京都美術館の使用を占めており、非東京都民が公募展を開催する余地がなかったこと、および日本全国規模の公募展が開催可能な国立施設の必要性が求められたことが発端となっている[3]

その後、美術家や公募団体が文化庁や政党、各地方の国会議員に働きかけた結果、1995年以降、各公募団体の代表作家たちや美術評論家を中心に、国立の新美術展示場建設構想の調査がはじまる[4]。場所は六本木の東京大学生産技術研究所(駒場に移転)の跡地があてられ、建設費は380億円を予定していた。当初は「ナショナル・ギャラリー(仮称)」と呼ばれ、日本の芸術文化の育成・国際的な芸術情報発信拠点としての役割が期待されていた。活動内容は複数の公募展の同時並行開催と、新聞社などの主催の大規模企画展のための会場貸しとされ、美術品コレクション学芸員は置かない方針だった。

しかしこれに対して、公募団体側も国側も新美術館を通して何を実現したいのか、という展望や戦略がないまま、箱の建設のみを進めていたという、ハード面のみの重視に対する批判もある[5]。また、ナショナル・ギャラリーという名称になれば、日本国外から来る観光客が、ワシントンD.C.のナショナルギャラリーやロンドンのナショナルギャラリーと同様の美術館施設と勘違いして来館する恐れがあるという批判を受けて「ナショナル・ギャラリー(仮称)」の名称は無くなり、名称を公募した結果「国立新美術館」という名称に決定した。また、外国から美術品を借りる際に、受け入れる学芸員が必要なことや、独自の展覧会も開催すべきだとの指摘を受け、数名の学芸員を置くことになった。

開館後の課題

東京都美術館で開催してきた公募団体展や首都圏の公立美術館で開かれてきた企画展のうち、かなりの数が移動することになった[6]。美術館ができた以上、各公募団体が新美術館でどのような展示を行うのか(団体以外の人々への案内・美術鑑賞教育、これまでの絵画や彫刻に限らない作品の参加の可否)、美術館やその学芸員は各公募団体とどのように連携し意味のある活動をするのか、が問われることになる。

また、新美術館の重要な役割として、国内各地・国外の、過去・現在・将来に至るあらゆる展覧会に関する図録などの情報を収集・集積・研究し、来館者やウェブサイト訪問者に公開する情報収集・公開機能というものがある。図録・研究書類はライブラリに収められ来館者も閲覧でき、現在開催中や近い将来の展覧会に関しては、ライブラリに併設された「コモンズ(共有地)」という名の場所でポスター閲覧・チラシ集めなどの情報収集ができる。現在、日本の展覧会カタログを過去に遡って網羅的に収集しており、既に日本では最も多く展覧会カタログを所蔵している[7]

ギャラリー

建築概要

六本木ヒルズ森タワーから望む国立新美術館
国立新美術館 別館(旧 歩兵第三連隊兵舎)

裏側は、同時に行われる複数の公募展の作品搬入・開梱・そして審査員による審査などを円滑に行えるよう、充実したトラック用プラットフォーム、バックヤード、環境の良い審査会場、審査員控室を持つ。

また表は、緑の広場と全面ガラス張りの明るい外観が観客を迎える。

前庭に歴史的建造物で二・二六事件ゆかりの旧歩兵第三連隊兵舎が一部分保存される。第二次世界大戦後は東京大学生産技術研究所等として使われていた。研究所が駒場に移転し、取壊し予定であったが、保存要望の声に配慮し、一部分を残したものである。

なお、同美術館3階には、ひらまつレストランが展開するフランス料理店「ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ」がある。また、「新」の文字をイメージし赤い直線で模られたシンボルマークは、元博報堂アートディレクター佐藤可士和が作成した。

交通アクセス

近隣は、六本木ヒルズ森美術館や、防衛庁跡地に建設された東京ミッドタウンに移転したサントリー美術館(本館との3館で「六本木アート・トライアングル」を構成。)、21_21 DESIGN SIGHT泉ガーデンタワー泉屋博古館分館など、さまざまな美術館が集積することとなる。

脚注

注釈
  1. ^ さらに元をたどれば旧日本陸軍歩兵第3連隊駐屯地の跡地でもある。
脚注

参考文献

  • "国立新美術館の設立経緯について:保利耕輔先生インタビュー" (PDF). 政策研究大学院大学. 19 June 2008. 2018年6月23日閲覧

関連項目

外部リンク