「クレメンス1世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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確かにクレメンス第一書簡はコリント宛ですが、パウロによる「コリントの信徒への手紙」とは全くの別物…
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史実の裏づけはないが、伝承では[[ペトロ]]を直接知る人物であり、[[パウロ]]の書いた「[[フィリピの信徒への手紙]]」4:3に現れるクレメンスとは彼のことである、といわれてきた。
史実の裏づけはないが、伝承では[[ペトロ]]を直接知る人物であり、[[パウロ]]の書いた「[[フィリピの信徒への手紙]]」4:3に現れるクレメンスとは彼のことである、といわれてきた。


彼の手によるといわれる「[[コリトの信徒への手紙一|コリントの教会への第一の手紙]]」([[91年]])は[[コリントス]]の教会で起きたトラブルを仲裁しようとしたクレメンスの書簡である。カトリックを中心に、ここから諸教会の仲介役としてローマ司教が役割を果たしていたと考え、それが後の教皇制度の萌芽になっていくと見るむきもある。一方、これをクレメンスがローマ教会の権威を他教会に及ぼそうとしたのであって、ローマ教会が常時そのような役割を果たしていたとは考えない学者もいる。
彼の手によるといわれる「[[クレメの第一の手紙]]」([[91年]])は[[コリントス]]の教会で起きたトラブルを仲裁しようとしたクレメンスの書簡である。カトリックを中心に、ここから諸教会の仲介役としてローマ司教が役割を果たしていたと考え、それが後の教皇制度の萌芽になっていくと見るむきもある。一方、これをクレメンスがローマ教会の権威を他教会に及ぼそうとしたのであって、ローマ教会が常時そのような役割を果たしていたとは考えない学者もいる。


伝統的にクレメンスに帰された「[[コリトの信徒への手紙二|コリントの教会への第二の手紙]]」は、今日では2世紀半ばごろの成立と推測され、クレメンスの作ではないと考えられている。
伝統的にクレメンスに帰された「[[クレメの第二の手紙]]」は、今日では2世紀半ばごろの成立と推測され、クレメンスの作ではないと考えられている。


死についての詳細は不明であるが、彼も初期のローマ司教たちと同じように[[殉教]]したと推測される。[[東ローマ帝国]]の版図となっていた[[クリミア半島]]の[[ケルソネソス]]で[[致命者|致命]]したという伝承があり<ref>『諸聖略伝 十二月』71頁、[[日本ハリストス正教会]]府主教庁(2004年1月発行)</ref>、既に[[キリスト教]]が[[黒海]]沿岸のギリシア植民市に広まっていたことが示されている。ただしこの地域における[[キリスト教]]は、[[ルーシ]]内陸部にまでは定着しなかったとされる<ref>黒川知文『ロシア・キリスト教史』42頁(教文館、1999年初版)</ref>。
死についての詳細は不明であるが、彼も初期のローマ司教たちと同じように[[殉教]]したと推測される。[[東ローマ帝国]]の版図となっていた[[クリミア半島]]の[[ケルソネソス]]で[[致命者|致命]]したという伝承があり<ref>『諸聖略伝 十二月』71頁、[[日本ハリストス正教会]]府主教庁(2004年1月発行)</ref>、既に[[キリスト教]]が[[黒海]]沿岸のギリシア植民市に広まっていたことが示されている。ただしこの地域における[[キリスト教]]は、[[ルーシ]]内陸部にまでは定着しなかったとされる<ref>黒川知文『ロシア・キリスト教史』42頁(教文館、1999年初版)</ref>。

2010年7月13日 (火) 04:35時点における版

クレメンス1世

クレメンス1世ラテン語:Clemens I, ? - 101年?)は、初代教会時代のローマ司教。のちにローマ教皇の第4代として列せられている(在位:91年? - 101年?)。英語名でクレメント(Clement)と呼ばれることもあり、また日本正教会ではクリメントと転写される。

最初期の教父の一人でローマのクレメンスともいわれる。カトリック教会正教会聖公会などで聖人。カトリック教会での記念日は11月23日。正教会での記憶日は12月8日(修正ユリウス暦では11月25日)。

正教会では神品致命者ロマの「パパ」クリメント(ロマの「パパ」=ローマ教皇のこと、鍵括弧は原文ママ)として記憶される[1][2]

概説

神品致命者ロマの「パパ」クリメントのイコンマケドニア正教会13世紀末頃

史実の裏づけはないが、伝承ではペトロを直接知る人物であり、パウロの書いた「フィリピの信徒への手紙」4:3に現れるクレメンスとは彼のことである、といわれてきた。

彼の手によるといわれる「クレメンスの第一の手紙」(91年)はコリントスの教会で起きたトラブルを仲裁しようとしたクレメンスの書簡である。カトリックを中心に、ここから諸教会の仲介役としてローマ司教が役割を果たしていたと考え、それが後の教皇制度の萌芽になっていくと見るむきもある。一方、これをクレメンスがローマ教会の権威を他教会に及ぼそうとしたのであって、ローマ教会が常時そのような役割を果たしていたとは考えない学者もいる。

伝統的にクレメンスに帰された「クレメンスの第二の手紙」は、今日では2世紀半ばごろの成立と推測され、クレメンスの作ではないと考えられている。

死についての詳細は不明であるが、彼も初期のローマ司教たちと同じように殉教したと推測される。東ローマ帝国の版図となっていたクリミア半島ケルソネソス致命したという伝承があり[3]、既にキリスト教黒海沿岸のギリシア植民市に広まっていたことが示されている。ただしこの地域におけるキリスト教は、ルーシ内陸部にまでは定着しなかったとされる[4]

脚注

  1. ^ 出典:『聖事經』日本ハリストス正教会教団、明治28年初版、平成5年再版
  2. ^ ロマの聖クリメントを七十門徒の聖クリメントと同一視する説もあるが、普通、正教会では七十門徒の聖クリメントと同一人物とは看做されない。七十門徒のクリメントは使徒パウェル(パウロ)の弟子であり、本記事で扱っているクリメントは使徒ペトル(ペテロ)の弟子である。(出典:武岡武夫編『七十徒小伝』発行者:及川信・名古屋ハリストス正教会、1987年4月19日版)
  3. ^ 『諸聖略伝 十二月』71頁、日本ハリストス正教会府主教庁(2004年1月発行)
  4. ^ 黒川知文『ロシア・キリスト教史』42頁(教文館、1999年初版)