エウゲニウス3世 (ローマ教皇)
エウゲニウス3世 | |
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第167代 ローマ教皇 | |
教皇就任 | 1145年2月15日 |
教皇離任 | 1153年7月8日 |
先代 | ルキウス2世 |
次代 | アナスタシウス4世 |
個人情報 | |
死去 |
1153年7月8日 ティヴォリ |
埋葬地 | サン・ピエトロ大聖堂 |
エウゲニウス3世(Eugenius III、生年不明 - 1153年7月8日)は、第2回十字軍を呼びかけたローマ教皇(在位:1145年2月15日 - 1153年7月8日)[1][2]。
イタリアのピサ近郊出身と見られ[1]、シトー会のクレルヴォー修道院に入り、クレルヴォーのベルナルドゥスのもとで修行した[3]。のちにローマ近郊のシトー会修道院の院長をへて、クレルヴォーのベルナルドゥスの影響力によって初のシトー会出身のローマ教皇となった。しかし、アルノルド・ダ・ブレシアに率いられた市民自治を求める反乱軍によって当時のローマは混乱状態にあり戴冠のためサン・ピエトロ大聖堂に向かったが反乱軍に阻止されやむなくローマを放棄し、その在位期間のほとんどを各地に滞在して過ごすことになる。、
十字軍国家のエデッサ伯領が失われたことをフランスで聞き、1145年12月、ルイ7世に教皇勅書を送り、十字軍を呼びかけた[4][5]。クレルヴォーのベルナルドゥスの勧誘演説により、国王2人を含む多くの参加者を得たが、ほとんど成果を挙げられず大失敗に終わった。
一方、ローマは混迷を極め教会、反乱軍、双方とも事態を打開するため和平を結び市民自治を合法と認める条件で1152年にエウゲニウス3世は無事に帰還した。翌1153年7月8日に避暑のため滞在していたティヴォリで死去、ローマ(現在はバチカン市国)のサン・ピエトロ大聖堂に埋葬された。ちなみにクレルヴォーのベルナルドゥスもひと月ほど後の8月20日に死去した。[1]
世界遺産との関連
世界遺産として1981年に認定されたフォントネーのシトー会修道院の教会堂を献堂したことでも知られるが、これは上記放浪中の1147年のことであった[3][6]。また、1990年に登録されたサン・ジミニャーノ歴史地区にあるサン・ジミニャーノ参事会教会はエウゲニウス3世による建設である[7]。
脚注
- ^ a b c “Pope Blessed Eugene III”. Catholic Encyclopedia. Eugene III. 2013年12月7日閲覧。
- ^ “エウゲニウス【Eugenius】”. コトバンク. 2013年12月7日閲覧。
- ^ a b 西田雅嗣『シトー会建築のプロポーション』中央公論美術出版、2006年、154頁。ISBN 4-8055-0488-9。
- ^ Kenneth M. Setton , ed. “The first hundred years”. A History of the Crusades, volume, I. University of Wisconsin Press. pp. 466-467. 2013年12月7日閲覧。
- ^ この教皇勅書の詳細はen:Quantum praedecessoresを参照。
- ^ ヴォルフガング・ブラウンフェルス 著、渡辺鴻 訳『図説西欧の修道院建築』八坂書房、2009年、145-147頁。ISBN 978-4-89694-940-7。
- ^ “サンジミニャーノ参事会教会 【サンジミニャーノサンジカイキョウカイ】”. コトバンク. 2013年12月7日閲覧。