コンテンツにスキップ

「エリセオ・サラザール」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: IMSA スポーツカー選手権の作業依頼 (Category:IMSA スポーツカー選手権のドライバー) - log
429行目: 429行目:
[[Category:チャンプカーのドライバー]]
[[Category:チャンプカーのドライバー]]
[[Category:インディカーのドライバー]]
[[Category:インディカーのドライバー]]
[[Category:ユナイテッド・スポーツカー選手権のドライバー]]
[[Category:IMSA スポーツカー選手権のドライバー]]
[[Category:ル・マン24時間レースのドライバー]]
[[Category:ル・マン24時間レースのドライバー]]
[[Category:サンティアゴ出身の人物]]
[[Category:サンティアゴ出身の人物]]

2023年10月4日 (水) 07:08時点における版

エリセオ・サラザール
エリセオ・サラザール (1982年)
基本情報
フルネーム エリセオ・サラザール・バレンスエラ
国籍  チリ
出身地 同・サンティアゴ
生年月日 (1954-11-14) 1954年11月14日(69歳)
F1での経歴
活動時期 1981-1983
所属チーム '81 マーチ・グランプリ
'81 エンサイン
'82 ATS
'83 RAM
出走回数 24
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 3
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
最終戦 1983年ベルギーGP
テンプレートを表示

エリセオ・サラザール・バレンスエラEliseo Salazar Valenzuela, 1954年11月14日 - )は、チリ共和国の元レーシングドライバーフォーミュラ1出走歴を持つ唯一のチリ人でもある[1]

経歴

1978年・1979年はブラジルF3に参戦した。1979年にイギリス・スラクストンでのF3レースを観戦した後にヒッチハイクをしていると、ネルソン・ピケと遭遇した[2]。ピケはサラザールをラルトロン・トーラナックに紹介した[2]。1980年はF5000シリーズに参戦、3勝を記録しランキング2位となった。

ピケと遭遇したことに関して、サラザールは「あれほどの幸運は後にも先にもない」と後に振り返っている[2]

F1

1980年オーロラAFXフォーミュラ1シリーズ(F1レギュレーションに従って開催されていたイギリス国内選手権)にウィリアムズ・FW07の車両を購入して参加していたRAMレーシングから出走。

1981年よりRAMがマーチ・グランプリマーチ・エンジニアリングとは別の組織)の名でF1世界選手権にエントリーし、サラザールもそのドライバーとして参戦。第4戦サンマリノGPにて23位で予選を通過しデビューとなるが、決勝はリタイヤ。マーチ・811では6戦出走したが、決勝進出はこれが唯一となった。第7戦スペインGPよりエンサインに移籍、第12戦オランダGPで6位に入り、初入賞を記録した。

1982年ドイツATSに移籍。第4戦サンマリノGPで5位に入賞し、このレースがサラザールのキャリアハイとなった。

1983年、RAMから出走するが、開幕戦を15位で完走した後、続くアメリカ西GPではリタイヤ、その後4戦は予選落ちとなり、第5戦ベルギーGPを最後にチームから離脱した。なおRAMは資金不足でF1から撤退後、1986年の国際F3000選手権に参戦しており、この時もサラザールはRAMに協力し出走している。

F1後

F1離脱後、1983年のル・マン24時間レースに童夢・RC-82(製作はマーチ・グランプリ)で出場。国際F3000選手権IMSACARTIRL等に参戦。特に、IRLではトップドライバーの1人として活躍した。

補足・エピソード

1982年のドイツGPでは、トップ走行中のネルソン・ピケに周回遅れにされる際、ブレーキングミスから接触し、両者リタイヤ。この際、優勝をフイにされたピケが叫びながらサラザールに近づき、ピケに突き飛ばされ蹴られそうになる一部始終が、テレビカメラを通して全世界に流れることになった[1][2]

この年、ピケはマシンの不安定さなどから予選落ちまで喫すほど不調であり、シーズン1勝しか挙げていなかった。ドイツGPは、その中で巡って来た2勝目のチャンスであり、それをフイにされ怒ったとされる。また、前述の通り元々ピケはサラザールに目をかけた人物であり(サラザール自身は、現在でも感謝の意を示している)、そのことで「恩を仇で返された」と感じたのでは、との意見もある。

2005年には、グランプリマスターズにも出走している。

レース戦績

イギリス・フォーミュラ1選手権

チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1980年 RAM Racing Team ウィリアムズ・FW07 フォード・コスワース・DFV 3.0 V8 OUL
Ret
BRH
3
SIL
1
MAL
Ret
THR
1
MNZ
Ret
2位 52
ウィリアムズ・FW07B MAL
7
SNE
2
BRH
Ret
THR
1
OUL
Ret
SIL
Ret

国際F3000選手権

チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1986年 RAM RAM・04 コスワース SIL VLL
11
PAU
DNQ
SPA
21
IMO
Ret
MUG
DNQ
PER
DNQ
ÖST 19位 1.5
ローラ・カーズ ローラ・T86/50 BIR
4
BUG
12
JAR
Ret
1987年 ブロムレイ・モータースポーツ ラルト・RT21 SIL
9
VLL
DNQ
SPA
17
PAU
Ret
DON
18
PER
Ret
NC 0
コリン・ベネット・レーシング マーチ・87B BRH
18
BIR
DNQ
IMO
14
ゲノア・レーシング BUG
Ret
JAR
DNQ

F1

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1981年 マーチ・グランプリ 811 USW
DNQ
BRA
DNQ
ARG
DNQ
SMR
Ret
BEL
DNQ
MON
DNPQ
18位 1
エンサイン N180B ESP
14
FRA
Ret
GBR
DNQ
GER
NC
AUT
DNQ
NED
6
ITA
Ret
CAN
Ret
CPL
Ret
1982年 ATS D5 RSA
9
BRA
Ret
USW
Ret
SMR
5
BEL
Ret
MON
Ret
DET
Ret
CAN
Ret
NED
13
GBR
DNQ
FRA
Ret
GER
Ret
AUT
DNQ
SUI
14
ITA
9
CPL
DNQ
22位 2
1983年 RAM マーチ01 BRA
15
USW
Ret
FRA
DNQ
SMR
DNQ
MON
DNQ
BEL
DNQ
DET CAN GBR GER AUT NED ITA EUR RSA NC
(31位)
0

(key)

ル・マン24時間レース

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1982年 日本の旗 童夢 株式会社 イギリスの旗 クリス・クラフト 童夢・RC-82-フォード コスワース C 85 DNF DNF
1983年 日本の旗 童夢 レーシング イギリスの旗 クリス・クラフト
イギリスの旗 ニック・メイスン
C 75 DNF DNF
1988年 イギリスの旗 スパイス エンジニアリング イタリアの旗 アルモ・コッペリ
デンマークの旗 ソーキルド・サイリング
スパイス・SE88C-フォード コスワース C2 281 DNF DNF
1989年 イギリスの旗 シルクカット ジャガー
イギリスの旗 トム・ウォーキンショー レーシング
フランスの旗 アラン・フェルテ
フランスの旗 ミシェル・フェルテ
ジャガー・XJR-9 LM C1 368 8位 7位
1990年 アメリカ合衆国の旗 デイビー・ジョーンズ
フランスの旗 ミシェル・フェルテ
ジャガー・XJR-12 C1 282 DNF DNF
1997年 イギリスの旗 パシフィック・レーシング Ltd. フィンランドの旗 ハリ・トイヴォネン
スペインの旗 ヘスス・パレハ
BRM・P301-日産 LMP 6 DNF DNF

セブリング12時間レース

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
2003年 アメリカ合衆国の旗 レーサーズ・グループ アメリカ合衆国の旗 ケヴィン・バックラー
アメリカ合衆国の旗 ジム・ペース
ポルシェ・911 GT-3 RS LMP 293 21位 8位

脚注

  1. ^ a b Piquet Rages After Salazar Shunt | 1982 German Grand Prix”. FORMULA 1 2018-7-17. 2020年12月13日閲覧。
  2. ^ a b c d 『F1RACING 2010年5月情報号』三栄書房、2010年、p.65頁。ISBN 9784779609138 

関連項目