柳田浩一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳田昌夫から転送)
移動先: 案内検索
本来の表記は「栁田浩一」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
栁田 浩一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 徳島県阿南市
生年月日 (1966-07-11) 1966年7月11日(51歳)
身長
体重
182 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手
プロ入り 1984年 ドラフト3位
初出場 1986年9月25日
最終出場 1995年9月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

柳田 浩一(やなだ こういち、旧名:昌夫(まさお)、1966年7月11日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手で現在はプロ野球審判員。選手としてタイトルを獲得した後に審判に転進した数少ない選手。

来歴・人物[編集]

選手時代[編集]

徳島県立鳴門商業高等学校(現・徳島県立鳴門渦潮高等学校)を卒業後、ヤクルトスワローズにドラフト3位指名で入団。当初は内野手

野村克也が監督に就任した1990年外野手に転向。外野のレギュラーだった栗山英樹メニエール病の悪化による不調で出遅れたため、橋上秀樹とのポジション争いを制して開幕戦に2番右翼手で先発出場を果たし、持ち前の俊足と強肩を活かしてそのまま外野のレギュラーの座を確保。シーズン中盤からは中堅手に回り、好守を評価されて自身唯一のタイトルとなるゴールデングラブ賞を受賞した。

しかし、翌1991年には打撃不振のため、外野にコンバートされた飯田哲也笘篠賢治らとのポジション争いに敗れてレギュラーから陥落し、以後は出場機会が減少した。それでも1992年の日本シリーズには守備固めとして2試合に出場。第5戦では7回裏に西武ライオンズに同点に追いつかれた後、なおも一打逆転の場面で、ライトフライをフェンスに激突しながら捕球するというプレーを見せた。1994年近鉄バファローズに移籍、1996年限りで現役引退。モーニング娘。のことを「ボウリング娘。」と言い間違えている。

審判時代[編集]

1997年よりパシフィック・リーグ審判部に入局。審判員袖番号は8、2011年からは5。2016年終了時点の出場試合数は1736。オールスターゲームには2002年に出場、第2戦で球審をつとめている。2007年には日本シリーズに初出場、中日ドラゴンズ山井大介岩瀬仁紀による継投での完全試合となった第5戦では球審を務めた。選手、審判の両方で日本シリーズに出場したのは久保田治東映フライヤーズ投手→セ・リーグ審判員)、井上忠行西鉄ライオンズ内野手→セ・リーグ審判員)に次いで3人目である。

2007年は審判員奨励賞を受賞。2009年7月5日東北楽天ゴールデンイーグルス埼玉西武ライオンズ第9回戦(Kスタ宮城)で一塁塁審を務め、通算1000試合出場を達成した。

また、現役中に名前を「昌夫(まさお)」に改名したが、2006年に「浩一」に戻した。

2010年に主任に昇進、役職名変更により2011年からクルーチーフとなる。

2013年から球審での構えを『シザースタンス』から基本構えの『スロットスタンス』に変更した。

2014年6月3日北海道日本ハムファイターズ広島東洋カープ第1回戦(札幌ドーム)で三塁塁審を務め、NPB審判員としては史上86人目、現役では15人目となる通算1500試合出場を達成した[1]

誤審騒動[編集]

球審を務めた2012年の日本シリーズ北海道日本ハムファイターズ読売ジャイアンツ第5戦(11月1日)で、4回表、巨人の攻撃の際、日本ハムの投手多田野数人は、巨人の打者加藤健に内角高めの球を投じた。加藤はバントの構えからバットを引こうとし、大きくのけぞり倒れこんだ。柳田はこのプレイを投球がヘルメット(頭部)に当たったことによる死球と判定し、多田野に危険球による退場を宣告した[2]

この判定に対し、日本ハム監督の栗山英樹が約4分間の抗議を行い、「バントに行ったのであれば、(身体に当たっても)空振りでストライク[注釈 1]になる」と主張した。また、日本ハムの捕手の鶴岡慎也がメディアに対して説明したところでは、柳田はこのプレイを一旦ファウルボール(バットに当たった)と判定したものの、巨人監督の原辰徳の抗議の後、死球に変更[3]したという。

メディアは「世紀の大誤審」などと報じ[4]、退場処分となった多田野は「だます方もだます方。だまされる方もだまされる方」とコメントした[5]野球評論家張本勲は『サンデーモーニング』で「(ボールは球審からは)死角にはなるが、塁審に確認を取らないと。ピッチャーがかわいそう」と批判した[6]。加藤は引退後にこの件を振り返り「ベンチに戻って映像を見たら当たっていなかったです。ボールが顔にめがけてきて、”当たった”と思っているから目もつぶっている」「何が起きたかわからず、その場に倒れてしまいました」「顔にボールが来ていたし、バントの構えからよけようとしたバットがヘルメットに当たったんだと思います」と述べた[7]

なお、日本シリーズでの退場は1969年第4戦の岡村浩二(当時阪急)以来43年ぶりで史上2人目(詳細は日本シリーズ初の退場事件も参照)で、危険球による退場は多田野が初であった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1986 ヤクルト 8 5 4 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 1 0 .000 .000 .000 .000
1987 74 17 17 7 4 0 0 0 4 0 0 2 0 0 0 0 0 2 0 .235 .235 .235 .470
1988 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1990 119 428 379 40 90 14 4 4 124 38 21 7 21 4 24 0 0 65 2 .237 .280 .327 .607
1991 98 183 160 26 33 4 2 4 53 8 6 3 9 0 12 0 2 33 3 .206 .270 .331 .601
1992 15 5 5 1 1 0 0 0 1 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 .200 .200 .200 .400
1995 近鉄 12 9 9 3 1 0 0 0 1 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .111 .111 .111 .222
通算:7年 327 647 574 78 129 18 6 8 183 48 29 13 30 4 36 0 3 103 5 .225 .272 .319 .591

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 52 (1985年 - 1990年)
  • 0 (1991年 - 1993年)
  • 68 (1994年 - 1995年)
  • 42 (1996年)

登録名[編集]

  • 柳田 浩一 (やなだ こういち、1985年 - 1992年)
  • 柳田 昌夫 (やなだ まさお、1993年 - 1996年)

審判出場記録[編集]

  • 初出場:1998年7月29日西武近鉄16回戦(西武ドーム)、二塁塁審。
  • 出場試合数:1736試合
  • オールスターゲーム出場:3回(2002年、2006年、2015年)
  • 日本シリーズ出場:3回(2007年、2009年、2012年)

(記録は2016年シーズン終了時)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 2012公認野球規則2.73(e)

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]