博多祇園山笠

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舁き山
飾り山

博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)とは福岡県福岡市博多区で毎年7月1日から7月15日にかけて開催される700年以上の伝統のあるである。櫛田神社にまつられる素戔嗚尊に対して奉納される祇園祭のひとつ。正式には櫛田神社祇園例大祭博多どんたくとともに、博多を代表する祭りである。

概要[編集]

福岡市博多区博多部那珂川御笠川(石堂川)間の区域)で7月に行われる祭礼。国の重要無形民俗文化財に指定されている。山笠の掛け声「おっしょい」は1996年平成8年)に日本の音風景100選に選ばれた。また、2016年(平成28年)12月1日、博多祇園山笠を含めた日本全国33件のが、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録された[1]

なお地域外の者からは福岡市が主催している祭りと誤解されがちだが、山笠は櫛田神社の氏子たちが行う奉納行事のひとつであり、地域の住人たちが伝統的に行ってきた町内行事である。

参加者や福岡市民などからは「山笠」「ヤマカサ」とも略称される。また、祭礼そのものを指す「山笠」と区別するため、神輿に相当する山笠を「山」「ヤマ」と称することがある。山笠を担いで市内を回ることを山笠を「舁く」(かく)と言い、担ぐ人のことを「舁き手」(かきて)と言う。

山笠期間中は行事参加者の間ではキュウリを食べることが御法度となる。一番根強い説としては「キュウリの切り口が櫛田神社の祇園宮の神紋と似ているから」というものがある。櫛田神社や京都・八坂神社など水天神系の神紋の図柄は木瓜(ボケ)の花である。また、「夏が旬のキュウリを断ってまで祭りに懸ける」という意気込みとの説もある。また、期間中の性交も御法度になる。

博多祇園山笠は女人禁制の祭りであり、旧来の流に於いては子供山笠も含めて舁き手は男性のみである。また女性は舁き手の詰め所に入れないしきたりとなっている。かつては舁き手の詰め所の入口に「不浄の者立入るべからず」と書かれた立て札が立てられる風習になっていた。この「不浄の者」は喪中の人と女性のことを指しているが、女性差別につながるとして2003年(平成15年)に立て札の設置は中止された。但し、代わりとして「関係者以外立入禁止」の掲示や仕切りは何らかの形でなされている。

歴史[編集]

山笠の歴史[編集]

博多祇園山笠の起源については諸説あるが鎌倉時代1241年仁治2年)に博多で疫病が流行した際、承天寺の開祖であり当時の住職である聖一国師(円爾)が町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗り水を撒きながら町を清めてまわり疫病退散を祈祷したことを発祥とするのが通説である[2]

安土桃山時代島津氏豊臣氏の戦いにより博多の街は焼け野原となったが、豊臣秀吉が帰国の際、博多の街をいくつかの区画毎に「」(ながれ)としてグループ化し復興を行った(太閤町割)。この「流」が博多祇園山笠のグループ単位の発祥である。戦後の一時期、山笠を建てた流は13流に増えたこともあったが現在の「流」は恵比須流大黒流土居流東流西流中洲流千代流の7流である(福神流は山笠を建てない)。

かつては京都の祇園祭のように町ごとに飾山笠の華美を競いながら練り歩いていたが江戸時代の1687年貞享4年)に[2]土居流が東長寺で休憩中、石堂流(現在の恵比須流)に追い越される「事件」が起こる。このとき2つの流が抜きつ抜かれつのマッチレースを繰り広げ町人に受けたことから、担いで駆け回るスピードを競い合う「追山」が始まった。以来戦後の一時期を除き祭のクライマックスとしてこの「追山」が執り行われ、福岡市内のみならず近隣各地から多くの観衆を集めている。

戦後に入り1955年昭和30年)に「博多祇園山笠振興会」が発足、当時より「博多部外」の新天町等でも飾山笠行事が行われ1962年(昭和37年)より「博多部外」である福岡市中心部に舁入れる集団山見せなどが行われるようになった。1970年(昭和45年)から子供(小学生)が小型の山笠を舁く「子供山笠」も始まった。

山笠の形態(舁山笠と飾山)[編集]

走る飾り山

京都の舁き山がそのルーツであると思われる。京都の舁き山は、松を飾り、人形を飾り、傘を立てる。あくまで私見ではあるが、これが山笠の基本であろうと思われるのは自然である。山笠は、舁山笠、飾り山笠共に御神入を行い、神様の依り代となる。

経緯は不明であるが山笠は多くのを立て人形を飾った背の高いものに変化した。江戸時代初期に描かれた「博多祇園山笠巡行図屏風」には、このような幟山笠が描かれている。明治初期まで飾り山製作は、京都祇園細工人形の流れを汲む細工人形師・小堀家が行なっていたが、明治に入り貸家業に転業したことから、しばらくは櫛田神社氏子らに委ねられて製作が続き、大正~昭和初期の頃に掛けて徐々に博多人形師がその製作を行うようになった。

小堀善右ェ衛門を祖とする小堀流山笠細工人形は、ねぶた山車と同様の竹組細工であったが、現在の「飾り山」として見られるような岩山笠は三苫惣吉が1752年宝暦2年)に始めた様式といわれる。お堂や水の流れといった部品で風景を構成してそこに人形を配置したもので下絵や絵馬も多く残っており、その姿を伝えている。この頃の山笠は高さが10メートル以上あり、町のどこからでも望むことができた。

1898年明治31年)、福岡県知事が山笠行事の中止を提議した。理由に山笠が電線を切断する事故が相次いだことが含まれていたため、それまでの高い岩山笠は飾っておくだけの「飾り山」とし、運行には3メートル程の「舁き山」を用いることとなった[2]。なお電線の設置に際して、山笠の運行は事前に配慮されていたが、実際には不十分であった。1910年(明治43年)、市内に路面電車が開通して軌道上空に架線が張られると、架線より高い山笠の運行が不可能になり、「飾り山」と「舁き山」の分化は決定的なものとなった。その後、1979年昭和54年)に市内の路面電車が全廃されると、舁き山の高さは徐々に緩和されるようになり、現在は4.5メートルまでとなっている。

終戦までは流ごとに、飾り山の台座部分である山笠台に舁き山の飾りを乗せることで、飾り山と舁き山を同一の山笠と見なしていたが、戦後は明確に分離されるようになり、多額の費用がかかる飾り山は商店街や企業の協賛で建てられるようになった。1964年(昭和39年)、川端通商店街(上川端通)は山笠の分化前の姿を彷彿とさせる「走る飾り山」を復活させ、現在でも櫛田入りを奉納し続けている。ただし他の舁き山よりコースが短く設定されており、櫛田入りなどのタイムレースにおいても参考記録扱いとなっている。また他の流の山笠が再び以前の形に戻すような計画はされていない。

「走る飾り山」は電線や信号機・標識などに接触しないよう伸縮式になっている。またこの飾り山は煙が出るようになっているが、これは1991年(平成3年)にゴジラの人形から煙を吐き出させるようにした事が始まりである。

飾り山や山笠の人形の衣装の生地は長年、京都の西陣織を使用していたが、2002年(平成14年)より地元の博多織を人形の衣装の生地に使うようになった[1]

舁き山笠(舁き山)[編集]

役割分担[編集]

舁き山より前を走り沿道の人々に舁き山が通ることを知らせる者は“前さばき”と呼ばれる。舁き山の安全な運行のため進路を空けさせるのが目的で、走りながら「前きれ」と掛け声をかける。

続く舁き手の集団は“前走り”あるいは“先走り”と呼ばれる。主に幼く身長が舁き棒に届かない少年たちや、その世話役である老齢の年長者で構成され、山笠の番号や流れ名が書かれた“招き板”と“招き旗”を持って走る。招き板は専ら少年たちが持ち、招き旗は年長者が持つのが習わしである。

舁き山の人形を飾る台に上がって舁き手の指揮を執る“台上がり”は表(前側)に3名、見送り(後ろ側)に3名の計6名である。台上がりは名誉とされると同時に流れ全体の責任を負う。表中央に上がる者を“表棒さばき”、見送り中央に上がる者を“見送り棒さばき”と呼び、流れ全体の中心人物として働くこととなる。

舁き山には6本の舁き棒が取り付けられるが、前後の端に6名ずつの計12名の“棒鼻”、台の前後に6名ずつ計12名の“台下”、台の両脇に2名または4名の“胡瓜舁(きゅうりがき)”、計26名または28名の舁き手が配置される。彼らとは別に、舁き棒を後端から押し舁き山を推進させる“後押し”がいる。後押しに人数の規定はなく、後押しの背後に更なる後押しが幾重にも付いて舁き山を押す。

舁き山の周囲には常に舁き手の交代要員が並走し、台上がりの指示に従い舁き山の勢いを削ぐことなく舁き手を随時交代する。外側より内側の舁き手ほど交代が難しく熟練を要する。舁き手は素早い交代と転倒時の支えのため、舁き棒を直接持つのではなく、自分専用の“舁き縄”を舁き棒に掛けて肩に固定する。

また舁き棒の両端の前後左右の四隅に取り付けた“鼻縄”と呼ばれる縄を持つ4名の舁き手を“鼻取り”と呼ぶ。鼻取りは舁き山の進行方向を決定・調整する舵取り役である。

舁き山の後には“後走り”と呼ばれる舁き手の集団が続くが、その中に水桶を担ぐ“水担い(みずいない)”がいる。この水は台上がりが飲むためのもの。

沿道のあちこちに水が用意されており、柄杓や桶を用いて、舁き山が通り過ぎる直前に舁き山や舁き手の前方から掛けられる。この水は“勢い水(きおいみず)”と呼ばれ、舁き山や舁き手を清める意味と共に、舁き手の冷却や乾燥による舁き山の崩壊を防ぐなどの役割がある。勢い水を掛けるのは主に、先走りの中の“水係”や沿道の住民である。

舁き手[編集]

舁き山

少年時は子供組に属し、中学生になれば若者組(若手組と称する町内も多数ある)に属する。若者のうち赤手拭となったものが山笠役員となる。赤手拭も更に歳を重ね取締となる。

山笠に参加する舁き手たちのスタイルは水法被に締め込みという姿で貫かれ、足元は地下足袋脚絆である。江戸時代までは締め込み一丁であった。1898年(明治31年)に裸体同然のスタイルが問題だとして県議会で山笠を廃止する案が出されたとき、博多の反対派は玄洋社進藤喜平太から紹介された古島一雄の助力で水法被を着用することで山笠廃止を撤回させそれ以来現在まで水法被に締め込みのスタイルが続いている。締め込みの材質は大人は薄めの帆布(79A、11〜9号程度)やモスリン、子供はフランネルや重ねた洋服地(シーチング等)、色は千代・東・西・大黒流では白、生成以外は禁止だが中洲・恵比須・土居流では黒・紺が多く子供用は白が多いが黒や赤が使われる場合がある。締め込み以外の褌(六尺、越中、等)の着用は認められていない。さらしの腹巻きをする場合があるが、必ず締め込みとは別々になる。水法被は白地に流(千代、東、中洲)や町(大黒、恵比須、土居、西)の名を意匠化したデザインであり、町内によっては当番法被に似た久留米絣の水法被もある。

山笠を舁いていない平時には当番法被(長法被、久留米絣)を着用する。この時は締め込みではなく膝下までのステテコ姿となる。山舁き姿の時当番法被を着用するときは、水法被の上に当番法被を羽織ることになる。この当番法被ステテコ姿は6月1日から山笠終了まで背広と同等の正装とされ、結婚式など公式の場でもドレスコードとして着用が許されている。当番法被ステテコ姿の時は清潔を保ち、だらしない姿を戒められるものとされている。

この他、舁き手は階級を表す手拭(てのごい)、役割を表す襷(ねじねじ)を装着、舁き縄を携帯(使わない時は締め込みに挟んでおく)、台上がりは指揮棒(てっぽう)を持つ。鍵、財布、携帯電話、等は必要に応じて信玄袋に入れておく。言わば当番法被=タキシード、水法被=ユニフォーム、てのごい=階級章、ねじねじ=腕章、てっぽう=指揮棒に該当する。これらの衣服、物品は流、又は町内毎に決められており流、又は町内のロゴが入った当番法被、水法被、てのごいは厳重に管理されており一般に市販されることは有り得ずインターネットオークション等で外部の者に譲渡することは認められていない。

一般の人には「博多」のロゴ、又は木瓜紋が入った当番法被、水法被、ねじねじ、てっぽう(ロゴ以外は上記と全く同じ)が土産物として販売されている他、締め込み、舁き縄、等は舁き手と同じものが一般にも発売されている。但し、成人はこれらを着用しての祭りへの参加は出来ない。

掛け声[編集]

山笠の掛け声「おっしょい」は1996年(平成8年)に日本の音風景100選[3]に、青森の「ねぶた祭り」の掛け声とともに選ばれた。

お汐井取りのときに「おしおい、おしおい」と言いながら取りにいった掛け声が訛って「おっしょい」となったという説がある。

追い山のコース[編集]

櫛田神社、東長寺、承天寺、須崎町を通る。

現行コース
櫛田神社→(博多通り)→萬行寺前にある交差点を左折→(国体道路国道202号)→祇園町交差点を左折→(大博通り県道43号線)→約30m先の東長寺前の清道旗を通り転回→祇園町交差点を左折→(辻の堂通り・国道202号)→約70m先を右折→承天寺前(清道旗のある場所で折り返し)→(北西方向へ約1.2km直進)→左折→(恵比須通り)→左折→(大博通り・県道44号線/県道43号線)→約800m先の大博通りビジネスセンター前で右折→約130m先で右折→(北西方向へ約800m直進)→(西町筋・横町筋・土居通り・大黒通り)→廻り止め

一番山笠の櫛田入りに際しては、九州朝日放送(KBCテレビ)が2010年に発売したDVDで同年と生中継を始めた1979年とを比較できるが、20世紀は「タイムレース」にどうしても主眼が置かれていた。例えば、1979年の一番山笠・土居流は、櫛田神社の清道入りすると正面能舞台には向き直らずすぐに「祝いめでた」を歌い、歌い終わるとすぐに出発していった。しかし後に、「神事」である以上これでは拙いということになり、現在では一旦能舞台に向き直り神職の一祓いを受けてから「祝いめでた」を歌い、その後でもう一度態勢を立て直して博多の街へ出ていくことを徹底させている。

また「走る飾り山」上川端通を除き、聖一国師ゆかりの承天寺前の清道に於いては、台上がりがてっぽうを両手で持ち前に突き出し、住職に向かって頭を下げることで奉納の意思を示すことも併せて徹底されている。

直近の記録[編集]

七つの流れは7年に1度の割合で一番山笠を務めるが、流によって当番町となる年が異なるので、自分の地域が「一番山笠の当番町」となることは一生に一度あるかないかという場合も多い。一番山笠を務めた翌年は七番山笠に回り、以後毎年番手を一つずつ上げていく。順番としては恵比寿流→土居流→大黒流→東流(旧東町流主体)→中洲流(1949年〜)→西流(旧西町流主体)→千代流(1950年〜)のローテーションとなる。

飾り山笠 (飾り山)[編集]

飾り山笠は例年7月1日から2週間公開され、追い山当日の0時になると一部を除き「山崩し」と呼ばれる解体工事が始まり、姿を消す。

山笠人形や飾り物は伝統的に「福を招く縁起物」として、祭りが終わると争うように剥がされ、山笠台を残して取り壊されるものであったが、近年では「山笠シーズン以外でも観光客が見られるように」との配慮から、一部の飾山笠に限り通年の常設展示が行なわれるようになっている。

なお舁山笠と飾山笠には通し番号が付けられており、一番から七番は舁山笠を持つ流に割り当てられ(飾山笠を設置する流には飾山笠にも同じ番号が割り当てられる)、八番は上川端通、九番以降は飾山笠のみの設置場所に割り当てられ、櫛田神社の飾山笠は番外とされる。八番の上川端通と番外の櫛田神社を除き、割り当てられる番号は毎年輪番となっている。

飾山笠設置場所[編集]

太字は、山笠期間外にも展示される飾山笠。

山笠終了後も翌年5月までそのまま常設展示。テレビ放送による宣伝に貢献したKBCが奉納。
  • 東流(呉服町ビジネスセンター・福岡市地下鉄呉服町駅
  • 中洲流(Nパサール)
  • 千代流(西部ガス本社)
  • 八番山笠・上川端通(走る飾山・上川端通商店街)
山笠終了後は上川端通商店街のぜんざい広場に移設し「山崩し」の後骨格部材や一部の飾りを常設展示。
山笠終了後は九州国立博物館に移設し期間限定展示。
  • 福岡空港(国際線ターミナル)
山笠終了後に舁山笠人形を展示。

テレビ放送[編集]

テレビ放送は基本的にTVQ九州放送を除く在福テレビ各局が行っている。各局とも男性アナウンサーや出演タレントが各流に食い込んで実際に山を舁いたり、そこに至るまでの舞台裏を取材・報告したりしている。また、各局の追い山中継では、毎回中央の有名タレントをゲストに迎えて中継している。全国ネットではBS-TBS(RKB毎日放送制作)が生中継している(2017年(平成29年)現在)。各社が行っている中継は次のとおり。

NHK福岡放送局NHK北九州放送局(ネット受け) 『博多祇園山笠20○○』
九州朝日放送 『20○○年博多祇園山笠追い山中継「走れ!山笠」』
  • 「追い山」を中継。山笠中継として最も歴史があるのはKBC『走れ!山笠』で、福岡進出時に一時中洲のビルに局舎を構えていたことがきっかけとなっている。
  • KBCは基本がブロックネット(長崎文化放送熊本朝日放送大分朝日放送鹿児島放送山口朝日放送)。かつてはABCテレビテレビ朝日メ〜テレなどでも放送されていたが、九州・山口以外では開催曜日によって視聴不能のケースが多い。2017年(平成29年)は、テレビ朝日系列で放送されている、『第72回全米女子オープンゴルフ・2日目』の中継は、KBC以外の放送となる。
  • 総集編も放送している。
  • KBCは運営に協力しており、前述の櫛田神社常設飾り山奉納に加え、アナウンサーを場内放送担当として派遣している(2018年現在では長岡大雅)。その見返りとして、テレビ放送席が本部能舞台横に設置されている。
RKB毎日放送 『勇壮!博多祇園山笠!20○○』
  • 「追い山」を中継。RKBは単独放送。同局は「福岡最古の民放」の意地で放送を開始。2010年(平成22年)以降はBS-TBSでも飛び乗りで同時ネットしている。2018年(平成30年)は、TBS系列で放送されている『音楽の日』を0:45で飛び降りた。ダイジェストは、10:30から11:24まで放送。
  • サラウンド音声での中継である。こうしたこともあってRKBは記録保存に協力しており、山笠振興会が公開している追い山笠の公式動画はRKBが提供したものである。
  • RKB子供山笠教室を主催しており、この様子は後日放送する。
福岡放送
  • 「追い山馴し」を中継。『めんたいワイド』がスタートしてからは、そのスペシャル番組という形での放送が多い。ただし、当日が土曜・日曜となる場合は特別編成等の関係で録画放送になったり放送できなくなったりということもある。
  • かつては日本テレビ系ズームイン!!朝!』で流からの生中継を全国へ向けて行っていた。
テレビ西日本
  • 「集団山見せ」を中継。基本は生中継であるが、当日が日曜となる場合は競馬中継(現在は『KEIBA BEAT』)を優先し、翌日に中継録画で放送する(近年では『DREAM競馬』時代の2008年(平成20年)が該当した)。

子供山笠[編集]

1950年(昭和25年)より唐人町に飾り山笠を建て、さらに子供山笠4本を各町内会にて運営した歴史がある。寿通の子供山笠は子供たちに地域の伝統を理解させるために開始された。寿通子供山笠は現在の博多小学校子供山笠となっている。走る飾り山笠で有名な上川端通子供山笠を運営したことがある。現在、子供用の舁き山は3台有り、大人の舁き山を2/3に縮小した形で同地区の飾り山共々、アニメや子供番組のキャラを題材にする場合が多い。何れも7月18日の間の金曜日から日曜日にかけて主に流れ舁きを行う。少女は小学校低学年まで参加できる。台上がりは8〜10名で出来るだけ多くの参加者が台上がり出来るように停止中に台上がりが交代する場合が多い。

千代小博多小、RKB子供山笠教室や中央区天神新天町で行なわれる子供山笠は少女も参加できる。これらに参加する少年少女は大人と同様、水法被を羽織った締め込み姿になる。締め込みは大人用とは違い幅18センチ長さ3.5メートルの柔らかい白い布を締めこむ場合が多い。幼児は取り廻し(力士の廻しに付ける下がりに似た物)や伊達下がりを付ける場合がある。子供山笠の様子は新聞やテレビなどで紹介されている。

子供山笠は子供達の育成であり、山笠行事ではない。

博多小学校[編集]

戦前にも子供山笠が有ったが中絶し、上記の趣旨から1970年(昭和45年)に当時の奈良屋小学校で開始された。学校の統廃合に伴い、博多小学校の行事となった。博多流と称する。学区の大部分が何れかの流に属することから参加者の大部分は各自で用意した属する流、又は町内の水法被を着用、締め込みも各自で用意する場合が多く白の他、黒や赤もある。学区の一部に山笠に不参加の流や流に属さない地区があることから、そこからの参加者は学校が用意した「博多小」、又は「山かき子」のロゴが入った水法被と白の締め込みを着用する。この水法被は世話役(教職員)も着用する。舁き山はRKB子供山笠教室と共用する。

RKB子供山笠教室[編集]

1981年(昭和56年)からはRKB子供山笠教室が開始された[4]。小学生の男子児童の参加者300名を放送エリアから幅広く一般募集する。参加者は当日、櫛田神社に集合、主催者が用意した背に「山かき子」、襟に「博多子供やま」、又は「博多子供山笠」、袖に「RKB」のロゴが入った水法被と白の締め込みを着用する(但し締め込みは各自で用意したものでも良い)。世話役はスポンサーのハウス食品が用意した「うまかっちゃん」の赤いロゴが入った水法被を着用。博多小の参加者が舁いて来た舁き山が神社境内に着いたところで、その山を交代で舁く。この様子は後日放送される。

千代小学校[編集]

1987年(昭和62年)に上記と同様の趣旨で開始された。学区のほぼ全てが千代流と一致することから参加者は「千代」のロゴが入った水法被(千代流と共通)と白の締め込みを着用、主に学区内で流れ舁きを行う。

新天町[編集]

福岡部で大人子供を通して唯一の舁き山。元々博多部と関係が深い事や転勤で福岡部の人口が増えたことから上記と同様の趣旨で1980年(昭和55年)に発案、1988年(昭和63年)に寿通り(大黒流)の協力で開始された。1991年(平成3年)から自前の舁き山を導入した。参加者は「新天町」のロゴが入った水法被と白の締め込みを着用する。世話役は「新天町」のロゴが入った長法被を着用。博多部からも世話役の応援を受ける。新天町エリア内の流れ舁きとなり、博多部には入らない。

日程[編集]

以下に公式日程を記すが、これ以前にもそれぞれの流では6月ごろから様々な活動を行う。一般によく知られているのは7月15日の「追い山」であるが7月に入ると山笠に関する様々な行事がおこなわれ、福岡市内各地で山笠の姿が見られる。

太字になっている行事は「舁き山」を動かす行事。静から動へと移っていく。

  • 6月1日:〆卸。恵比須流
  • 6月中:小屋入り。舁山笠、飾山笠
  • 6月30日:境内飾山笠、御神入。櫛田神社夏越大払式終了後
  • 7月1日:〆卸。既に行事を終えている恵比須流を除く全流
  • 7月1日:飾山笠、御神入
  • 7月1日より8日の間:各流舁山笠。御神入
  • 7月115日0時:飾り山一般公開
市内各所で飾り山を公開する。
子供たちに山笠の伝統を伝えていくため、小学生以下の子供たちによる流舁が行われる。
  • 7月9日:各流のお汐井取り(東区箱崎浜)
  • 7月10日
    • 献花献茶式(本装束の浦安の舞が登場、唯一の典雅・可憐系?)
    • 男野点茶会(運び役は一番山笠の子供が務める)
  • 夕方:流舁ながれがき)(各流の区域内)
  • 7月11日
    • 早朝:朝山(早朝、各流の区域内、大人の山笠に子供が台上がりする唯一の機会)
    • 夕方:他流舁(流の区域外を廻る)中洲流、大黒流、東流が櫛田入りを行う(この時、桟敷席は無料開放の為、年々観客が増加している)。
  • 7月12日追い山馴し
いわばリハーサルで、本番である15日の追い山より1kmほど短縮されたコースで行う。15時59分に一番山笠が山留めをスタートする。
地元の名士や有名芸能人を台上がりさせた各流の舁き山が、明治通りの呉服町交差点から博多部を越えて福岡市役所までを通る。15時30分に一番山笠がスタートする。
1962年(昭和37年)に始まった行事で元々は各流独自に他流舁きと称して福岡部に舁き入っていたものをイベント性を高めるために13日にまとめ、福博の知名士(孫正義 等)を台上がりさせたもの。当初は不参加の流もあった。開始当時は蔵本交差点より福岡中央郵便局まで。2009年(平成21年)まで福岡市役所まで来た舁き山は帰り道として、国体道路を通り中洲を経由して各流の地域へ帰っていたが、舁き山が中洲へ向かう際一時通行止めをしなければならず、その度に国体道路は渋滞が発生していたため、解消策として2010年(平成22年)より福岡市役所から呉服町交差点まで明治通りを通る復路が設定された。
  • 7月14日夕方:流舁(各流の区域内)
追い山廻り止め
  • 7月15日:追い山、鎮めの能
博多祇園山笠のクライマックスにあたる行事(タイムトライアル)。4時59分に一番山笠が山留めをスタート、博多の総鎮守櫛田神社境内の清道を回って奉納する。その後、二番山笠から八番山笠「走る飾り山」までが5分おきに出発し多数の男たちが交代を繰り返しながら博多の町を舁き回り、須崎町の廻り止めまで約5kmのコースを駆ける(八番山笠は別コース)。
山笠が清道を回り終えると、櫛田神社境内にて喜多流の能楽師により紋付き袴の姿で「鎮めの能」が舞われる。
スタート時刻が4時59分と言う中途半端な時刻なのは一番山笠のみ櫛田神社境内で祝い歌「博多祝いめでた」を歌う1分間が与えられており、5分おきと言う山笠の出発間隔を調整するためである。
各流では追い山が終わると直ちに飾り山・舁き山などを解体し、その年の行事を終える。しかしその時点で、すぐに次の年の行事に向けての動きを始める。

なお11日、14日の「流舁」においては「追善山」と呼ばれる行事が行われることがある。これは1年の間に亡くなった各流の山笠功労者遺族の家の前まで舁山を舁いて、祝いめでたと博多手一本を捧げ故人の冥福を祈るというもの。「神事」であるため、遺族はその年の山笠行事に関わることができない。

博多祇園山笠をテーマとした作品[編集]

漫画
1978年(昭和53年)12月2日に映画化される。
テレビドラマ
1977年(昭和52年)に発売されたアルバム『WELCOME TO MY HOUSE』に収録されているが、同名の映画音楽としては使用されていない。
  • 『博多純情』(鳥羽一郎
  • 『博多追い山青春ならし』(ピース
  • 『オイサ〜幻の福神流』(上田雅利(チューリップ))

その他[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 西日本新聞(2016年12月1日)
  2. ^ a b c 『年中行事事典』p247 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
  3. ^ 環境庁認定・日本の音風景検討会選定
  4. ^ RKB毎日放送主催、ハウス食品協賛
  5. ^ 山笠キティが発売中止、「お尻」デザインに難色 Archived 2013年7月10日, at the Wayback Machine. 産経新聞 2013年平成25年)6月29日
  6. ^ 博多山笠振興会『戦後50年・博多祇園山笠史』 1995年(平成7年)、P196-214

関連項目[編集]

  • 山笠
  • 手締め - 博多祇園山笠でも行われる、博多独自の手締めとして「博多手一本」がある。
  • 裸祭り
  • 逸見明正長岡大雅 - KBCアナウンサー。追い山馴し・追い山本番時に櫛田神社境内でのアナウンスを担当。
  • 福岡県立福岡高等学校 - 毎年、同校の校長が台上がりした千代流の山笠が入ってくる。
  • 陸軍 (映画) - 1944年(昭和19年)の日本映画。中盤から福岡市街が舞台となり、昭和初期の舁き山笠及び飾り山笠が登場する。

外部リンク[編集]