博多大丸

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株式会社 博多大丸
The Hakata Daimaru, Inc.
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 810-8717
福岡県福岡市中央区天神一丁目4番1号
西日本新聞会館
設立 1952年(昭和27年)10月28日
業種 小売業
法人番号 5290001009619
事業内容 百貨店の運営
代表者 取締役社長 柚木 和代
資本金 30億3750万円
売上高 574億3518万円[平成25年2月期]
従業員数 546名[25年2月末現在]
決算期 2月
主要株主 J.フロントリテイリング 69.9%
外部リンク www.daimaru.co.jp/fukuoka/
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株式会社 博多大丸(はかただいまる、The Hakata Daimaru, Inc.)は、福岡県福岡市中央区百貨店を運営するJ.フロント リテイリンググループの企業。旧大丸の地方子会社の一つである。単独で日本百貨店協会に加盟している。

またここでは併せて、長崎店をかつて運営していた、岡政(おかまさ)と株式会社長崎大丸(ながさきだいまる)についても説明する。

沿革[編集]

長崎店の歴史については、一部閉店発表を出典とする。

  • 1854年 長崎で徳島屋創業
  • 1903年 徳島屋、現大丸の地に移転
  • 1934年 徳島屋、株式会社岡政として法人化し百貨店に
  • 1952年 株式会社博多大丸設立
  • 1953年 博多大丸、福岡市呉服町(現:博多区)で開業
  • 1969年 岡政、大丸と提携関係を結ぶ
  • 1975年 博多大丸、中央区天神の西日本新聞会館に移転、店名を「福岡・天神大丸」とする
    移転後の旧店舗は「エレデ博多寿屋」となったが、寿屋倒産前に建物老朽化で閉店した。
  • 1988年 岡政閉店、株式会社長崎大丸として再出発
  • 1997年 福岡・天神店東館エルガーラ開業
  • 2003年 博多大丸、長崎大丸を合併
  • 2011年 長崎店を閉店
  • 2014年 長崎店跡地にハマクロス411開業

店舗概要[編集]

福岡天神店[編集]

大丸福岡天神店
大丸福岡天神店 本館
大丸福岡天神店 本館
店舗概要
正式名称 西日本渡辺ビル(本館)
エルガーラ(新館)
所在地 福岡県福岡市中央区天神一丁目4番1号
座標 北緯33度35分19.8秒東経130度24分4.1秒
開業日 1953年(昭和28年)
施設管理者 株式会社博多大丸
施設所有者 (本館)
株式会社西日本新聞会館
紙与不動産株式会社
(新館)
西日本新聞再開発ビル株式会社
最寄駅 西鉄福岡(天神)駅
福岡市営地下鉄天神南駅
外部リンク 公式ウェブサイト
DAIMARU

1953年昭和28年)に福岡市の商都・博多呉服町で開業した。社名が現在でも「博多大丸」となっているのは、このためである[1]。開店させた当初は博多駅からも近い場所にあったが、博多駅が現在の場所に移転してからは客足も遠のいていった。

1975年(昭和50年)、西日本新聞社天神地区の本社を商業施設とオフィスの兼業ビル「西日本渡辺ビル[2]」に建て替えた際、その下層階に移転した。移転当初は天神地下街とはつながっておらず苦戦したが、専用の通路が完成して以降はテレビショッピングを通じてTNCテレビ西日本との関係も強め、福岡市における高級百貨店としての地位を確立した。ただ、TNCには近年ジャパネットたかたや福岡県内に本社を置くトーカ堂などが進出したこともあり、TNCでのテレビショッピング放送は無くなっている。1997年には、東隣の再開発地区に完成したエルガーラに核テナントとして入居し東館とした。

本体が松坂屋と経営統合したことによるJ.フロント リテイリング社発足に際しては、九州地区の重要拠点として位置づけられ、それ以前から、大丸でも本体に次ぐ存在となっている。このため、経営統合に浮揚のきっかけをつかもうとしていたが、天神のメインストリート渡辺通りの向かい側にある三越福岡店と、地元老舗の岩田屋を完全子会社化した伊勢丹が、2009年に「三越伊勢丹ホールディングス」として経営統合し、連合を組んだ。更に、2010年10月1日には三越伊勢丹HDSの完全子会社として、新たに岩田屋三越が発足、岩田屋と三越が完全にタッグを組む形となった。このため、天神地区では、渡辺通りを挟んで2大デパート資本が激突する事態となった。さらには、2011年3月JR博多シティ開業及び、九州新幹線全線開業を機に核テナントとしてエイチ・ツー・オー リテイリング傘下の博多阪急阪急百貨店)が参入した。

長崎店[編集]

長崎店

長崎店は、元は戦前から続く地元百貨店の「岡政」であった。岡政は1854年安政元年)、岡部徳太郎により長崎市古町に唐物を扱う異国交易商「徳島屋」として創業した。徳太郎の子、政太郎の代の1894年明治27年)には呉服や太物を扱う小売呉服部を開設し、1903年(明治36年)に現在の長崎大丸の地である東浜町(現:浜町)に進出して「岡政呉服店」に改称。更に1920年大正9年)には現在の仲見世八番街の場所に洋品雑貨部を開設、1925年(大正14年)には食料品部を開設していった。また、18734年頃、岡政の向かいの地である現在の浜せんハヤシダの場所に、岡部徳太郎の妹婿、野瀬治兵衛が「岡部呉服店」を興した。治兵衛の子、忠太郎の代になると、市民の間では岡政呉服店は通称「岡政(西角)」、岡部呉服店は「岡忠(東角)」と呼ばれていた。

1931年昭和6年)には家具部を設けて拡大し、更に3年後の1934年(昭和9年)2月11日、政太郎の婿養子、伊藤實はそれまでの建物を壊して、木造3階、一部4階建てを新築し、長崎で最初のエレベーターを設置。岡政の各部門及び岡部呉服店を吸収統合して、5月22日に長崎最初の百貨店「株式会社岡政」を設立し「岡政百貨店」(資本金50万円)を開店する。これは、元々近代的な百貨店経営を企画していたことと、同年3月25日から5月23日に行われる国際産業観光博覧会を前に、当時の市長、草間秀雄からの強い要請を受けてのことであった。当初、政太郎は自分が建てた呉服店の店舗を取壊すことと、デパートという未知の存在に対しての不安から反対していたが、實の説得の末に承知する。1937年(昭和12年)12月、横浜正金銀行上海支店4階に上海出張所を開設し、翌年7月には上海市北四川路に店舗を設置して1945年(昭和20年)8月の終戦時まで営業を続ける。太平洋戦争中は、男子社員が召集を受け次々と出征し、更に物資不足と切符制の影響で開店休業中だった。原爆投下の時には別館が倒壊し、本館4階部分が大きな被害を受けた。

戦後は当局からの依頼で、浜屋(後に岩田屋と資本提携)などと共に、衣料品と引き換えに食品を主とした物品の交換コーナーを開設する。当時は闇市の横行で、統制価格が無視されていたが百貨店法の規制もあって百貨店はヤミ販売もできず、復興を待ち続けていた。やがて、1947年(昭和22年)に百貨店法が、1949年(昭和24年)には衣料配給統制が廃止され、更に翌年の朝鮮特需により、売り上げは好調に伸びていった。1952年(昭和27年)、岡政友の会の前身「ちぐさ会」を結成。1954年(昭和29年)、第一期増築工事を行い、鉄筋コンクリート6階建て、一部9階建ての、当時の市内では最高の建造物となる。更に1960年(昭和35年)の第二期増築工事では、北側に地下1階、地上8階の建物を増設し、この南北2つを合わせた物が現在の長崎大丸の建物となっている。1976年(昭和51年)、ランプをつけ外装を赤レンガ造りの欧風調にした大改装を行っている。

この間の1956年(昭和31年)5月、新百貨店法が成立し、再び百貨店の営業活動が規制され、長崎市内の小売業界は競争が激化していった。1958年(昭和33年)、實は息子の弘に、人材不足の岡政には外部からの人材が必要だと告げ、翌年死去。實は当時の大丸の社長、北沢敬二郎に相談をし人材を受け入れて以来、出資の80%を大丸が保有しており、岡政と大丸との結びつきは強く、岡政社長となった弘も父親の遺志をついで、1962年(昭和37年)7月、北沢に資本提携と人材強化を申し入れている。1969年(昭和44年)3月には、大丸と提携しその系列に入り、高知大丸を成功させた小山茂三郎が大丸から出向して岡政社長に就任し、弘は会長となる。

大丸の系列に入った後も、浜屋や佐世保を拠点とする佐世保玉屋長崎支店(長崎玉屋)との激しい競争や、1982年(昭和57年)7月23日長崎大水害で本館の地階食品売場と1階が冠水し多額の損害が出たことなどから経営は苦しくなっていた。そのため、1987年(昭和62年)11月6日、大丸本社が岡政を従来の統合型百貨店から呉服、和装、家具、子供玩具などの取り扱いをやめてファッション中心の専門型百貨店「長崎大丸」として再生させることを内外に発表し、同年11月20日、岡政100%出資の子会社・株式会社長崎大丸を設置。翌年、7月31日17時30分、岡政としての営業を閉じて営業権の全てを大丸に譲渡し、8月31日に株式会社岡政は解散。9月1日からは長崎大丸として再出発した。2003年平成15年)、大丸グループ全体で企業再編を行った関係で、博多大丸に吸収され「博多大丸・長崎店」となった。

その後も、大丸、長崎玉屋、浜屋の3つが、郊外型大型店などと少ないパイを奪い合う状況が続き、大丸長崎店の売り上げは低迷していた。このため、J.フロントは2011年1月24日、長崎店の閉店を発表[3]し、7月31日をもって営業を終了した。閉店後の跡地には、博多大丸の自社開発で商業系ビルの建設が発表され[4]2014年(平成26年)9月に複合商業施設「ハマクロス411」がオープンした[5]

ロゴマーク[編集]

工匠の使う曲尺を表した「⏋」と業祖・岡部の頭文字「ヲ」を組み合わせた「ヲ⏋」。岡部の家憲であった「営業は尺度の如く正しく、確実に。しかもその名を辱めざるよう努めよ。」の精神を結集させてできた商標である。

でっちー[編集]

大丸の創業者・下村彦右衛門をモデル[6]にし、行商の丁稚の姿をかたどったイメージキャラクター。1983年、岡政創業130年を記念して、浜市アーケード側の正面玄関に高さ約50cmのブロンズ像「働く人」が建てられ、公募により「政どん」の愛称がつけられた。像の下の台座には、大丸の根本理念である「先義後利[7]」の文字が刻まれている。長崎大丸になってからは屋上の隅に移設されていたが、2011年3月1日に元の位置に戻された。3月18日より、東日本大震災のチャリティーグッズとして政どんのキャラクターグッズが随時発売されており[8]、キャラクターを押し出したテレビコマーシャルや着ぐるみでの販促も行われていた。グッズ開発と閉店に向けた販促企画及び、期間限定の公式Twitterでのツイートは、各階フロアから選ばれた若手スタッフから成る「長崎ネタプロジェクト (NNP)」のメンバーが行っていた[9]。ブロンズ像は、長崎大丸営業終了後の8月10日、大丸の前に位置する老舗菓子店「梅月堂」本店に丁稚奉公という形で移設され、公称も「でっちー」と改められた。

脚注[編集]

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  1. ^ なお、当時「福岡大丸」という屋号は福岡市に本社を置くスーパーマーケット(後にジャスコグループに参加し屋号変更)が使用していた。詳しくは「イオン九州」を参照のこと。
  2. ^ 参考資料:通産省産業政策局「全国市町村別大規模小売店舗要覧 -第1種大規模小売店舗と商業状況一覧-」1984年。2012年4月17日閲覧
  3. ^ “株式会社博多大丸 長崎店の営業終了について” (PDF) (プレスリリース), J.フロント リテイリング, (2011年1月24日), http://www.j-front-retailing.com/pdf/download.php?news/nagasakiten.pdf 2011年1月24日閲覧。 
  4. ^ 龍〜なが 長崎新聞ホームページ:博多大丸長崎店跡地「自社開発で商業ビル」 今月末期限に用地交渉(5月21日)
  5. ^ 『長崎新聞』2014年9月17日付、30面。
  6. ^ ほっとするニュース:長崎大丸「政どん」 向かいの梅月堂に奉公 - 毎日jp(毎日新聞)
  7. ^ 大丸:歴史
  8. ^ 長崎大丸がエコバッグで復興支援-オリジナルキャラ「政どん」イラスト入り - 長崎経済新聞
  9. ^ 長崎大丸チャリティー企画第3弾は「政どん風呂敷」-隠しデザインで遊び心も - 長崎経済新聞

参考文献[編集]

  • 『長崎事典・産業社会編』長崎文献社、1989年 ISBN 4-88851-042-3
  • 『男性山脈・上巻』長崎新聞社、1972年
  • 『長崎浜の町繁昌記』浜市商店連合会、1983年
  • 『長崎県大百科事典』長崎新聞社、1984年
  • 『岡政労働組合解散記念 花の輪』長崎大丸労働組合内 花の輪刊行委員会、1989年

外部リンク[編集]