八戸三社大祭

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絢爛豪華な八戸三社大祭の山車

八戸三社大祭(はちのへさんしゃたいさい)は、毎年7月31日から8月4日青森県八戸市で行われる神事を根拠としたである。無形文化遺産であり、東北地方最大級の神事でもある。7月31日の前夜祭、1日の「御通り(神幸祭)」、2日の「中日」、3日の「御還り(還幸祭)」、4日の後夜祭という日程で行われる。

「三社」とは、八戸市内の法霊山龗(おがみ)神社(法霊神社)・長者山新羅神社神明宮のことで、三社の神輿行列と市内各町を中心とした組の20数台の華麗な人形山車が神社の氏子として八戸市中心市街地を巡行する。期間中は105万から110万人の観光客が訪れる[1]

2004年2月6日に、「八戸三社大祭の山車行事」として重要無形民俗文化財に指定された[2]

また、ポスターなどに書いてある「290余年の歴史と伝統」などというのは、あくまでも祭りの始まりである法霊社祭礼(龗神社例祭、2020年に300年目を迎える)の事であり、三社大祭としては2016年に130年目を迎える。

起源・歴史[編集]

江戸時代の享保六(一七二一)年、八戸藩総鎮守として、藩主をはじめ町民より厚く信仰されていた法霊社(現在の龗神社)に対し、日和乞並びに豊作感謝の意を込めて、神輿を長者山虚空蔵堂(明治になり神仏分離令により長者山新羅神社)に渡らせたのが三社大祭の始まりである。当時は法霊社の神輿行列は市内を練り歩き長者山に到着後、中日を経て3日目に行列ともども法霊社に帰還するという祭りであった。のちにその神輿行列に対して踊りや屋台山車などを奉納する形で町民がついて回り、現在の形へとつながっていく。

江戸時代当時法霊社祭礼は藩による運営で、神輿行列許可、祭礼日程などは全て藩によって取り仕切られ、要職にあった家臣が徒目付や奉行として行列運行の役を担っていた。また、城内二の丸に鎮座していた法霊社は、すぐ近くに南部家の居城があった関係で一般の参拝が許されていなかったが、祭礼の時期だけは午前8時から午後4時までの間のみ、一般領民などの参拝が許されていた。江戸期の祭礼の様子に関しては、八戸藩日記、法霊御神事諸事覚、法霊御神事日記など、藩などが記した文献で確認されている。

現在は、三社大祭を執り行う根拠となる法霊山龗神社の神社行列に加え、明治期になって参加した長者山新羅神社、神明宮の各神社行列、それに附祭として合計27台の豪華絢爛で巨大な山車が市内中心部を運行する形となっている。

附祭となる山車の大きな特徴は人形がせり上がり、左右の大きく広がる仕掛けを持つ豪華な山車にある。

当初は1体の人形を乗せる程度だったものが、明治の中頃より物語を表現する山車に変化し、昭和50年代頃から徐々に仕掛けが施されるようになった。近年では煙が吹き上がるなどの仕掛けもあり、豪華さ、荘厳さでは他に例を見ない規模となっている。

山車は町内ごとに製作されるが、これは明治時代に大澤多門が発案したものと言われている。

明治~戦前[編集]

明治時代の中ごろまでは、江戸時代の影響を色濃く残した人形山車が使用されていた。明治20年頃から、様々な飾りをつけた風流山車と呼ばれる山車が流行し、江戸時代からの伝統的な山車は衰退していった。祭における当時の山車の位置づけは「附祭」とされたが、明治30年代から「山車」との表記が定着するようになる。

明治時代の山車の構造は、現在残されている当時の写真[3]から見る限り、台車、岩や波などの飾り、人形の三層構造の山車となっている。

また、昭和初期までは祭り期間の間、丸い軒提灯が飾られ、1メートル程度竹に花をつけた「軒花」と呼ばれる飾りが商店街につけられた。そのほか商店街では祭りにあわせ店頭に蓄音機で音楽を流したり、活花を飾るなどの催しが行われていたようである[4]

戦後~現在[編集]

昭和41年(1966年)から昭和49年(1974年)まで一時期「はちのへ祭り」と変更されていた時期がある。これは「全市的バックアップで東北四大祭りに肩を並べよう」という観光面における構想から行われたもので、当時資金難に陥っていた神社側と町内会側はこれをいったんは容認した[5]

しかし、やがて神社関係者や地元有識者などから「神社神事であることが忘れられてしまう。観光主体の祭りになってしまう。」との声が上がり、観光戦略としても効果があげられず失敗を重ねていたため、元の名称に戻された[6]

事実、神幸や還幸を伴う神道式の大祭であるにも関わらず、はちのへ祭りの時期には一神教であるキリスト教の布教者がプラカードを掲げて拡声器で教えを説きながら参加したりするなど、にわかには考えられない失態をさらしたという歴史があり、逆に三社大祭の歴史的意義や観光価値を著しく低減させてしまう結果となった。

略称は「三社大祭」で、「三社」は「さんじゃ」ではなく「さんしゃ」と読む。

また三社大祭は祇園祭の流れを汲む初秋の昼の神社行列であり、あくまでも神事である。したがって同じ青森県の青森ねぶたなどのように、宵宮や燈籠流しの意味合いを持ち晩夏の夜の客参加型祭典であるねぶたとは、神事(セレモニー)であるか、神事ではなく宗教的民間風習の発展した祭事(フェスティバル)であるかの部分が大きく異なる。

年表[編集]

  • 享保6年(1721年) - 法霊社(現在の龗神社)の神輿が八戸城下を巡り、長者山に渡る。
  • 文政元年(1819年) - 「屋台芸者車引」(現在の「花屋台」のもと)が神輿行列に加わる。
  • 文政3年(1821年) - 鮫の虎舞が行列に加わる。
  • 文政8年(1825年) - 法霊社祭礼の日程を旧暦7月20日から3日間に変更となる。
  • 弘化3年(1846年) - 法霊社祭礼の前日に夜祭を始める。
  • 明治17年(1884年) - 長者山新羅神社が行列に加わる。
  • 明治20年(1887年) - 神明宮が行列に加わり、「三社」となった。
  • 昭和33年(1958年) - 八戸警察署より、電線切断事故防止のため高さ4メートル以内厳守の要望が出される。
  • 昭和35年(1960年) - 日程が8月20日から8月23日に変更される。
  • 昭和39年(1964年) - 祭りの運営が三社から三社大祭運営委員会に移される。
  • 昭和41年(1966年) - 三社大祭の名称が「はちのへ祭り」に変更される。
  • 昭和50年(1975年) - 「はちのへ祭り」から三社大祭の名称に戻される。
  • 昭和57年(1982年) - 日程が現在の8月1日から8月3日に変更される。
  • 平成15年(2003年) - 三社大祭の日程に後夜祭が加えられる。
  • 平成19年(2007年) - 一般客が参加可能な「三社大祭引っ張り隊」の制度が導入される。
  • 平成26年(2014年) - 山車の仕掛けを動かす際は停止して動かす方式に統一される。

開催期間・日程[編集]

開催期間は7月31日から8月4日。(平成25年度現在)

  • 前夜祭(7月31日) - 八戸市中心市街地八戸市庁前に山車が集結し、一斉にお囃子を演ずる。18時より開始。
  • お通り(8月1日) - 龗神社にて八戸市長や三神社神職など関係者参加による神事並びに出発式。その後支庁前を出発し市内中心街にて神社行列と附祭山車組による合同運行。
  • 中日(8月2日) - 山車の夜間合同運行(2010年度は八戸市中心市街地に山車が集結し、一斉にお囃子を演ずる。)
  • お還り(8月3日) - 新羅神社前を出発し市内中心街にて神社行列と附祭山車組による合同運行。
  • 後夜祭(8月4日) - 前夜祭と同じ進行。(2010年度は山車の夜間合同運行。)後夜祭は2003年に新設。

※但し龗神社では、元々の法霊社祭礼日程(旧暦7月20日)において大祭中日にあたる9月2日に、山車組関係者や行列供奉者、観光コンベンション協会会長などの参列によって現在でも例大祭を執り行っており、この日をもって全ての三社大祭神事が納められたとしている。

また、期間中は八戸市庁前市民広場、長者まつりんぐ広場に「お祭り広場」が設けられ、多くの出店が立ち並ぶ。八戸市庁前では祭り期間の後半の3日間(中日から後夜祭にかけて)に八戸青年会議所の主催で開催される。さらに、はっちでも歴史を重んじたやや小型の山車が展示される。

運行コース[編集]

運行コースは近年、観光客に配慮する形でその年により変更されている。

現在の運行コースは以下の通りである(平成20年現在)[7]

  • お通り(8月1日) - 八戸市庁前出発。三日町・荒町を通過し、ゆりの木通りを運行。
  • 中日(8月2日) - 八戸市庁前出発。八日町・柏崎新町を通過し、六日町、廿六日町を経て三日町へ一巡する形で運行。
  • お還り(8月3日) - 鍛冶町付近より出発。六日町・柏崎新町を通過し、十三日町まで運行。(ただし龗神社の山車は三日町の手前で右折)

観覧・参加方法[編集]

  • 有料観覧席 - お通り、お還り、後夜祭の各コースに数百席が用意される。詳細は八戸観光コンベンション協会に要問い合わせ。
  • 三社大祭引っ張り隊 - 山車を引っ張るのは、基本的には各山車の町内の人たちであるが、平成19年(2007年)に八戸市外の人や観光客も申込みにより山車の引き子として参加できる「引っ張り隊」の制度が導入された。
    • 引っ張り隊の内容 - はっぴ、花笠、豆絞り、公式ガイドブック、傷害保険付。申込み先は八戸観光コンベンション協会。定員は1日あたり40名(平成20年現在)。参加料は平成19年は2,000円であったが、翌年は直前に起きた地震の影響を考慮し、平成20年分については無料にされた[8]

山車等展示場所[編集]

三社大祭期間以外では、以下の場所で山車等を見学できる。

三社大祭にまつわる問題[編集]

運行ルート[編集]

この三社大祭の起源並びに開催の根拠は龗神社大祭(神事)であるため、御通りは龗神社より神輿並びに各神社行列と山車が出発し長者山へ向かい、御還りは長者山を出発して龗神社に還るというのが本来の意味である。

しかし市や運営委員会・観光コンベンション協会などでは観光面を重視し、御還りの際、伝統的に龗神社に還るルートを変更して市内目抜き通りを直進させるという観光重視案を採用したため、御還りでは龗神社行列のみ伝統に則った運行ルートで御神体を帰還させ、他の山車などは龗神社に御神体が還る事には供奉せず、関係無しという状況が発生している。つまり、名称は「お還り」というが、龗神社行列以外はお還りでも何でもなく、ただ行列を組んで歩いているだけという状態がずっと続いている事になる。

この問題が持ち上がって以降当時の第三十代龗神社宮司は、御神体を正しく還御の徒につかせないという恐れを知らないこの行為をどの様に神前に奏上すればいいのかに苦しみ、2015年現在では、附祭りが還幸に最後まで供奉しない理由を正当化する言葉が見つからずに、その旨奏上せず、という現状が続いている[9]

一度は龗神社も1年のみ(この年は特別に八戸市の姉妹都市であるアメリカのフェデラルウェイ市からの来賓が参加することに配慮した)という条件付きで観光協力の面から観光重視案を受け入れたものの、翌年になって、当初の約束を反故にして観光重視案を採用するという運営委員会に対し、神事の意味が失われ、ただ大規模なだけのイベントに成り下がることを恐れた神社が反発したため、現在のような形になっている[10]

この問題に対しては市民の間でも意見が分かれ、本来の伝統や意味よりも観光面を重要視するべきとの意見と、本来の開催意義を失った観光重視の姿勢に疑問を呈する意見が対立している状況にある。過激な意見としては山車だけあれば神社はいらないというものもあり、地元紙である東奥日報には、来年も3神社がそろって開催される事を望むなどという、まるで神社が揃わなくても大祭が行われる事が前提の様な記事が掲載された事もある。

近年、対象の価値向上の為にその意味を重視したマーケティング手法が成功を収める事が常態化しているが、何故なのか八戸ではその流れに逆行した意見が声高に叫ばれているという状態にある。

しかし、この問題に関する運営側を含めた地元の意識は非常に低く楽観的で、三社大祭は特別な祭りであるという根拠のない自負で成り立っている。伝統軽視の例として、公式な印刷物には本来それぞれ龗神社出発・新羅神社出発となるべきところを、お通りの出発は八戸市庁前で、お還りの出発地が鍛冶町と記されており、伝統重視の姿勢は見られず、独りよがりで成果を見ない観光戦略が容認される一因となっている。

大祭維持費[編集]

この祭りを開催するにあたって神社の経済的負担は大きく、龗神社で90万~150万円前後の赤字、新羅神社で180万円~230万円前後の赤字(加賀美流騎馬打毬費用含む)、神明宮で数十万円前後の赤字を毎年出している状況にある。 また、大祭に使用する祭具の維持補修などにかかる負担は一般的に販売されているようなものではないために破格に大きく、祭具保存会からの数十万円の補助金を得ていても追いつくものではなく、破損したものを補修できずに利用し続けているなどの問題も発生している。

本来あくまでも神社祭礼で、その感謝の意味で行われた祭りであるが、現状では各神社御祭神に対して市民奉仕を強いている形になっている。また日本銀行青森支店の調査によると、三社大祭は経済波及効果が80億円以上あるという事だが、現状神社ではせいぜい多少の賽銭が増える程度であり、その経済効果が神社に還元される事は一切なく、前記の通りただ大祭開催のための赤字を生み出すという図式である。

つまり現状八戸三社大祭とは、三神社それぞれの大損失の上にあぐらをかいて80億円超の経済波及効果及びそれに伴う税収を生み出すという負のビジネスモデルとなっており、三神社もこの窮状を運営委員会等に訴えているものの、神道が行政から支援を受ける事を嫌ういくつかの他宗教団体等が猛烈に反対したために、それ以上踏み込む事が出来ずに現在に至っている。

山車のエンジン使用問題[編集]

八戸三社大祭の山車は大きくて重さも10トンを優に超えるため、山車の大型化、並びに曳き手不足といった要因から、坂道などを上るにあたり人力だけでは厳しいために近年は台車にエンジンを搭載し自走可能にした山車が一般的になった。

しかし2002年、警察から自走可能な山車は改造車であり道路交通法違反との指摘を受けたため[11]2009年に新たな祭りのグランドデザインが策定され、2014年までに台車の軽量化・エンジンの不使用等を完了する計画が明らかにされた[12]。ただ、この変更により山車の大きさに関する制約が厳しくなることから「祭りのアピールポイントがなくなる」として計画の実施に抵抗するものが少なくないほか、新たな台車の制作に必要な費用負担の問題もあり、実際の取り組みはバラついている[13]

非常に憂慮すべき点として、他県においては様々な方法で動力付きの山車台車を容認している事例があるにも関わらず八戸警察署が認めない理由について憶測や邪推が蔓延してしまっており、津軽地方出身の代々の八戸警察署長が、近年台頭してきた三社大祭を快く思わずに言いがかりをつけているなどという意見が真剣に主張され、八戸市民の多くがこれを事実として受け止めている。東北全体が夏祭りで盛況を得るこの時期に、このような対立図式を生み出す恐れがある主張は望ましい事ではなく、観光コンベンション協会などでは八戸警察署は非常に協力的であるとしている。

山車の仕掛け動作に対する制限[編集]

はちのへ山車振興会の提言により、山車が動きながら仕掛けを動かすのは危険であるため、2014年より特定の場所に差し掛かった際に山車を停止して仕掛けを動作させるようにする方式が取られた。この結果行列運行の予定時間は大幅にオーバーし、交通規制を含め各所対応に追われる事になった。

安全対策は最重要ではあるものの、大祭の運行には支障をきたし山車関係者などの多くから不満が噴出する結果となったために、今後具体的にどのような危険性が存在するのかなどを科学的に調査の上、最善の方法を模索していく必要があると考えられる。

馬の安全な使用に関する問題[編集]

2014年の八戸三社大祭お還りの際、龗神社へ還御する行列の中で、神輿台車を引いていた馬が暴走し、骨折などの重軽傷者を出す事故が発生した[14]。 これを受けて、2015年、龗神社では今まで290年以上毎年使用していた馬を1頭も使わないという決断を下し、御神輿をトラックの台車に乗せて運行するという事態に発展した[15]。 このトラックでの神輿移動に対してインターネット上をはじめ地元紙のインタビューなどでも批判的な意見が多く上がっていたが、龗神社では、2016年以降も確実な安全対策が見えない中での馬の使用に慎重な姿勢を見せており、今後馬が行列に復帰する目途が立たない状況となっている。

脚注・参考文献[編集]

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  1. ^ 青森県、「平成21年度版 よくわかる青森県(PDF)」p40(Ⅱ-1-(13)観光)。
  2. ^ 八戸三社大祭の山車行事(青森県)
  3. ^ 「はちのへ市史研究第7号」p45、八戸市史編纂室所蔵写真より。
  4. ^ 「はちのへ市史研究第7号」p43、明治44年9月4日「はちのへ新聞」
  5. ^ デーリー東北1975年6月26日「天鐘」
  6. ^ デーリー東北1975年5月29日「はちのへ祭 名称問題を話し合い」
  7. ^ 八戸三社大祭 山車運行図
  8. ^ 東奥日報2008年7月26日「三社大祭『地震に負けない』」
  9. ^ 三社大祭運行ルートに関する龗神社の見解(龗神社公式サイト、ページ下部)
  10. ^ デーリー東北2007年7月24日「祭りのカタチ 模索する八戸三社大祭 (1)伝統×観光 お還り終点〝迷走〟」
  11. ^ 平成14年9月定例会-09月09日-02号 13番(近藤悦夫 君) P.15 - 八戸市
  12. ^ 【模索続く山車祭り】(上)軽量化 - デーリー東北・2012年7月25日
  13. ^ 山車の在り方、模索続く 八戸三社大祭 - デーリー東北・2014年7月22日
  14. ^ 神輿引いた馬が暴走(デーリー東北)
  15. ^ 一部で馬不使用 昨年の暴走事故受け(毎日新聞)
  • 阿部達『八戸の民俗芸能』、八戸市、2001年
  • 三浦忠司『八戸三社大祭の歴史 江戸時代の八戸城下祭礼の伝統』、八戸歴史研究会、2006年
  • 『八戸三社大祭文化財調査報告書』、八戸市教育委員会、2002年
  • 「明治期における八戸三社大祭の風景」(『はちのへ市史研究』第7号、八戸市、2009年、所収)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]