習志野
習志野(ならしの)は千葉県北西部にある地名。下総台地の一画を占め船橋市、八千代市、習志野市に跨っている。
この地域は中世以来、馬の放牧場であったが明治時代に陸軍の演習場となり(この頃から習志野と呼ばれる)現在では東京へのベッドタウンとなっている。
習志野市の名称の由来となったが、元々の「習志野」は旧・二宮町(現・船橋市東部)であり、そこから意味する領域が拡大されていった(習志野#「習志野」の名前を持つ主な施設も参照)広域地名である。
世間一般には「習志野」が、習志野市のあたりを示す地名であるとよく誤解されている『何ともややこしい地域』[1]である。
由来
1873年(明治6年)4月29日に大和田原(現・陸上自衛隊習志野演習場近辺から成田街道を挟み、高根台周辺までの地域。現在でいう船橋市域。)で陸軍大将・西郷隆盛の指揮の下に行われた近衛兵の大演習を観閲した明治天皇によって同年5月13日に勅令が発せられ、習志野原と命名された(その事を記念して同地に「明治天皇駐蹕之処の碑」という紀念碑が建てられている)。その後、周辺にある軍郷を総称した広い地域が習志野と呼ばれるようになった。
「習志野原」の命名について、大演習での陸軍少将・篠原国幹の目覚しい指揮に感銘した天皇の「篠原に習え」という言葉が元になった(習篠原→習志野原)という説があり、『習志野市史・第1巻』(1995年)や船橋市郷土資料館(所在地:現・船橋市薬円台=旧・二宮町薬園台)などでもこれを「逸話」として紹介している。
現在では、習志野市(旧・津田沼町)という市町村に名称が取り入れられ大地名として残されている。また、同市が成立する折に、二宮町(現・船橋市東部地域)や幕張町(現・千葉市西部地域)などの広義の「軍郷・習志野」を大きく取り込んだ大習志野市構想[2][3]という計画も持ち上がったが、諸事情により、二宮町は船橋市と合併し、幕張町の大部分は千葉市に編入されてしまい実現しなかった。なお、習志野原(旧・習志野演習場)の起源となった地域が所属していた旧・二宮町が習志野市ではなく船橋市の一部となった結果、「習志野」の地名が船橋市に属することとなった。習志野市には、旧・幕張町(一部は旧・大和田町)に属していた愛宕・安生津から編成された「東習志野」の地名がある。
習志野原(陸軍習志野錬兵場)
習志野と呼ばれた地域は、江戸時代には、小金牧の一部で、小金ヶ原(こがねがはら)とか大和田ヶ原(おおわだがはら)などと呼ばれていた。演習場の総面積は、約11,550,000m²で、真っ平らな高台が広がっていたため、一望千里習志野平原(いちぼうせんりならしのへいげん)と呼ばれた。実際、富士山や筑波山などが地平線によく見えたという。演習場には騎兵連隊や陸軍騎兵学校が隣接し、現在の京成大久保駅周辺や習志野原の入口が近かった薬円台3・4丁目付近は活気があったといわれている。
習志野原が全国に一般によく知られるようになったのは、日露戦争での秋山支隊の活躍によるものだといわれている。なお、全国の連隊では必ず一度は習志野原で演習が実施されていたため、北海道でも老人に習志野という地名を出すと津田沼駅から演習場までの行軍話や野営話などを語る方もいる。
当時の習志野原(陸軍習志野演習場)には入口周辺以外には柵はなく、「一望千里習志野平原」と呼ばれ、演習の時[4]以外は一般人も自由に入る事ができ、阪妻映画などの撮影[5]や学校の各種実習(測量演習など)などの行事が年間を通じて民間での利用が可能だったという。また、演習場では、騎兵連隊の軍旗祭や騎兵学校の馬術大会が開かれ、皇族・軍人・東京の大学生(※身分や学は特に問われず馬術の技術交流が行われた)をはじめとする馬術倶楽部や乗馬愛好家が集まる乗馬のメッカとしても栄えた。(習志野原御猟場も参照のこと。)
日本での馬術は明治以降に大日本帝国陸軍が導入した西洋馬術に起源を持つため、馬術の世界では、今でも陸軍馬術学校や習志野原、そして西中尉の話題が語られることがある。また、最近は高齢化のため減ったが、それ関連のOBも多かった。
一年に一度、陸軍騎兵学校で開かれていた乗馬大会の際には、皇族(特に三笠宮崇仁親王は熱心で学習院時代から毎年参加していたと言われている)をはじめ、外国の大使館付武官、将校、御用商人をはじめ、一般の人も見る事が出来た為、東京などからも多くの見もの客が集まったといわれている。
ちなみに習志野原(陸軍習志野演習場)が輩出した名騎手の1人としてロサンゼルス五輪の乗馬で金メダルを獲得した「バロン西」こと西竹一の名前がよく知られているが、現在でも薬円台4丁目には西が下宿していた将校下宿などが残されている。
陸軍と習志野
広大な平坦地ではあるが生活用水となりうる水源の乏しい下総台地は古くから牧として利用され、江戸時代このあたりは幕府によって設置された小金牧の一部(下野牧)とされた。
明治維新の後、牧は東京から適度な距離にあることから陸軍の演習場としてしばしば使用されるようになり、明治天皇が「習志野」と命名することとなった近衛兵大演習もその1つである。1874年(明治7年)に陸軍演習場として一帯の官有地が受領された。この時には北端が高根木戸と古和釜木戸を結ぶ古和釜道の南側から、成田街道の両側、南端が境谷(現船橋市と八千代市の境付近)までであった(全て千葉郡二宮村)。一番営から七番営まで兵営が置かれた。その後1900年(明治33年)、1905年(明治38年)と買収により拡大が進み、演習場は千葉郡二宮村(現・船橋市)、大和田町(現・八千代市)、幕張町(うち現・習志野市東習志野の区域)にまたがることとなった。
1899年(明治32年)、騎兵第一・第二旅団が千葉郡津田沼村大久保に設置され(1901年(明治34年)末に編成完了)[6]、日露戦争での騎兵の活躍を通じて「習志野」の名は広く知られるようになった。1910年(明治43年)に東京上目黒にあった騎兵実施学校は、1916年(大正5年)に二宮村の習志野練兵場敷地内に移転された(翌1917年(大正6年)より陸軍騎兵学校)。その時に目黒の陸軍騎兵実施学校内から移築された騎兵連隊御馬見所(現空挺館)が陸上自衛隊習志野駐屯地内(千葉県船橋市薬円台3-20-1)にある。
1901年(明治34年)、津田沼村大久保に陸軍習志野衛戍病院が設置される(ただし敷地の大部分は二宮村三山に属する)。
1905年(明治38年)に拡大された演習場区域のうち幕張町実籾(現・習志野市東習志野)地区には、糧秣倉庫(糧秣本廠習志野秣倉庫)や高津廠舎が置かれ、ロシア人俘虜収容所[1]とされた。第一次世界大戦の際にも東新廠舎にドイツ人捕虜[2]を収容した(習志野俘虜収容所)。
1907年(明治40年)、津田沼町に鉄道連隊(聯隊)が転営する。
1908年(明治41年)、千葉町に鉄道連隊(聯隊)が転営する、同第三大隊が津田沼に置かれた(1918年(大正7年)に第三大隊が鉄道第2連隊に昇格)。津田沼から習志野の演習場を経て連隊本部(のち鉄道第一連隊)のある千葉とを結ぶ軍用軽便鉄道が敷設され[7]、後には松戸との間にも敷設されている。現在の新京成線の前身である。
こうして「習志野」は千葉郡北部の二宮村(1928年(昭和3年)に町制施行して二宮町)、津田沼町(1903年(明治36年)町制施行)、大和田町、幕張町にまたがって分布する陸軍諸施設とともに一帯の地名として理解されるようになった。
第一次世界大戦後、近代戦への変革の中で騎兵とともに知られた習志野も変化を迎えた。1936年(昭和11年)、大久保の騎兵旅団敷地内に戦車第二連隊(聯隊)が置かれ、騎兵部隊の機甲化(戦車部隊化)の始まりを象徴した。千葉市黒砂に開設された陸軍戦車学校が当初は習志野(二宮町)に置かれたとする資料もある。騎兵旅団敷地には1931年(昭和6年)には陸軍習志野学校も開設され、毒ガスをはじめとする化学兵器についての研究・教育が行われ、実験は群馬県や満州で実施されていたといわれている。
現在、旧陸軍研究施設跡地中より前大戦時代製造された毒ガスの保管容器が見つかっており、まだ廃棄されていないものがあると予想されている。地域住民への説明では、発見した際むやみに触らず警察へ通報する事が求められている。
習志野原の自然環境
現在の習志野原は、宅地化されてしまっているが、もともとの習志野原は草原地帯と樹林地帯、谷津地帯の3つの自然環境が存在した。そこではヘビイチゴ、ノイチゴ、アケビ、スミレ、ヨモギ、ワラビなど季節ごとに様々な植物が見られ、実り豊かな環境が広がっていた。現在でも、その生態系は習志野演習場内に残されており、かつての名残を見ることができる。
戦後の習志野
陸軍施設の転用
1945年(昭和20年)の敗戦後、一部の陸軍施設は米軍によって接収され、その後陸上自衛隊が使用しているものもあるが、演習場の敷地の大部分は習志野開拓と呼ばれ、外地からの引揚者などの手による開墾地(北習志野・南習志野開拓農協)となったり、学校等の敷地に転用された(「平林巌と習志野原の開拓」を参考)。
昭和20年代・開拓時代の習志野原
- 第一地区・愛宕(旧・高津廠舎を中心とした一帯)
- 第二地区・安生津(現・習志野市東習志野7丁目を中心にした一帯)
- 第三地区・習志野(現・船橋市習志野5丁目、習志野市東習志野1、6丁目付近)
- 第四地区・実家台(現・船橋市習志野1、2、4丁目付近)
- 第五地区(再度接収され現・自衛隊習志野演習場。現・八千代市高津付近)
- 第六地区(再度接収され現・自衛隊習志野演習場。現・船橋市習志野3丁目付近)
- 第七地区・七つ台(現・船橋市習志野台7丁目付近)
- 第八地区・御幸(現・船橋市習志野台3、4丁目を中心とした一帯)
- 第九地区・高郷(現・船橋市習志野台1丁目を中心とした一帯)
1960年代以降、日本住宅公団(現・都市再生機構)などによる大規模住宅団地(習志野台団地など)が相次いで造成され、残った農地の多くも宅地化・工業地域化(東習志野工業団地)されて市街地と化している。 主な施設の現状を以下に示す。
- 騎兵第1旅団→戦車第二連隊(船橋市三山、習志野市泉町):日本大学生産工学部、東邦大学
- 騎兵第2旅団→陸軍習志野学校(習志野市泉町):千葉工業大学大久保寮→東邦大学付属東邦中学校・高等学校、千葉大学腐敗研究所→住宅・団地など
- 陸軍騎兵学校(船橋市薬円台):在日米軍キャンプパーマー→警察予備隊→保安隊→陸上自衛隊習志野駐屯地
- 東部軍管区教育隊(船橋市薬円台):県立船橋高校習志野分校・二宮町立二宮中学校など→船橋市郷土資料館・県立薬園台高等学校・船橋市立薬円台小学校・薬円台公園・宅地など
- 習志野陸軍病院(船橋市三山、習志野市泉町):国立習志野病院(旧・厚生省所管、現在の国立病院機構)→千葉県済生会習志野病院
- 騎砲兵第2連隊(習志野市藤崎5丁目):順天堂大学→マンション・一般住宅地など
習志野市の成立
昭和の大合併の直前、習志野周辺は千葉郡の津田沼町、二宮町、大和田町、幕張町の各町に所属していた。当初、津田沼町と二宮町との間で合併の合意が成立したが、間もなく二宮町は船橋市との合併に傾き、1953年(昭和28年)8月1日に船橋市へ編入された。
その後の千葉郡北西部では津田沼町と幕張町の合併が軸となり、これに犢橋(こてはし)村を加えた3町村で合併協議会が発足し、1953年(昭和28年)12月17日の協議会で合併後の新市名を習志野市とすることが決定された。しかし犢橋村では千葉市との合併を望む意見が住民に強く、1954年(昭和29年)1月末、同村は合併を断念した(1954年(昭和29年)7月1日に千葉市に編入)。この背景には、千葉市からの強引な働きかけがあったと、当時の新聞は報じている。[要出典]
一旦津田沼町との合併を受け入れた幕張町でも時間が経過するにしたがって千葉市との合併を望む意見が強まり、5月13日の町議会で千葉市との合併を議決した。これに対して津田沼町との合併を望む意見の強い北部と千葉市との合併を望む意見の強い南部との対立が激化し、県や合併促進協議会、地元選出国会・県議会議員などの斡旋によって最終的に分町合併とすることで調停が成立した。実際には次の手順で千葉市および津田沼町との合併が行われ、「習志野市」が成立した。
- 1954年(昭和28年)7月6日 - 幕張町全域が千葉市へ編入される。
- 8月1日 - 津田沼町が千葉市旧・幕張町の区域のうち北部(実籾・愛宕・安生津(あきつ)・長作・天戸および馬加(まくわり)のうち屋敷台)を分割編入する(これにより津田沼町の人口が市制施行の条件である3万を超える)。
- 同日 - 津田沼町が習志野町と改称し、即日市制を施行して習志野市が発足する。
- 8月28日 - 習志野市のうち旧・幕張町の一部(長作・天戸)が再び千葉市へ編入される。
すなわち、旧・幕張町のうち北西部(実籾・愛宕・安生津・屋敷台)のみが習志野市の一部となり、残りの区域は千葉市の一部(現・花見川区)となったわけである。そして長作・天戸の両地区が千葉市へ戻ったために習志野市の人口は再び3万を割った状態から出発することになった。
なお、習志野市に残った安生津地区(現・東習志野八丁目一帯)は、幕張町が千葉市編入に先立って八千代町から編入した区域である。「安生津」は 1947年(昭和21年)に当時の大和田町の旧・演習地内に起立された大字で、1954年(昭和29年)1月15日に大和田町が睦村と合併した結果、八千代町の一部となった。それが同年4月1日に幕張町、7月6日に千葉市、8月1日に津田沼町に編入されて習志野市の一部となったわけで、1年足らずの間に4度(手続き上の津田沼町・習志野町を含むと6度)も所属が変更された。
また、旧・習志野演習場のうちの大半が所属していた旧・二宮町が習志野市ではなく船橋市の一部となった結果、「習志野」の地名が船橋市に属することとなった。習志野市には、旧・幕張町(一部は旧・大和田町)に属していた愛宕・安生津から編成された「東習志野」の地名がある。
この項に関して、「広義の幕張」、および「千葉郡」のうち「幕張町」の項目も参照。
習志野原の行政区画の変遷
習志野原の拡大
以下の区域は一部を除き、いずれも小金牧(下野牧)の区域内である。
- 1874年(明治7年)官有地が受領される。上飯山満村原野、田喜野井村原野、上飯山満村新田、酒山新田。成田街道の西は正伯木戸、東は新木戸に挟まれた区域。北は高根木戸と古和釜木戸に挟まれた南側の区域のみ。
- 1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により千葉郡二宮村の一部となる。
- 1900年(明治33年)3月 民有地買収により南側に演習場が拡大。二宮村三山の一部(三山木戸から小金牧の内側部分)、大和田町高津新田の一部、大和田町高津の一部。(大久保から三山新田、高津を結ぶ高津道の大部分が演習場内に。)
- 1905年(明治38年)4月 民有地買収により、さらに南側に演習場が拡大。幕張町実籾字実花新田。その地にロシア軍俘虜収容所開設。
- 1916年(大正5年) 陸軍騎兵実施学校が二宮町薬園台の練兵場内に移転、それに伴い付近が軍用地になる。
- 1928年(昭和3年)11月10日 二宮村が町制を施行し二宮町となる。
- 1939年(昭和14年)7月 陸軍騎兵学校が南に敷地を拡大。桐山塚も軍用地に消える。
- 1940年(昭和15年) 習志野演習場の東部を買収・拡大。マムシ森地区(現八千代市高津)。
- 1941年(昭和16年) 二宮町薬園台(現・船橋市薬円台5丁目地区)に軍用地を拡大。
- 1943年(昭和18年)拡大された地区に東部軍管区教育隊創設。
戦後の変遷
- 1953年(昭和28年)8月1日 二宮町が船橋市に編入される。
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)9月30日 船橋市習志野町5丁目、一部を残し習志野市に合併編入。
- 1967年(昭和42年)1月1日 八千代町が市制を施行して八千代市となる。
大字・町名の変遷
- 船橋市習志野町
- 1955年(昭和30年) 船橋市(旧・二宮町)の旧習志野演習地(習志野原)に習志野町が起立されて字1~5丁目に区分される。
- 9月30日 習志野町5丁目、一部を残し習志野市に変更。
- 1963年(昭和38年)習志野町1丁目の一部が高根台町1・3~5丁目となる。
- 1967年(昭和42年) 国道296号(成田街道)より北側の区域が習志野台1~8丁目および高根台町5丁目(編入)となる。
- 1972年(昭和47年) 新京成線より西側の区域にある習志野台1・4丁目および飯山満町3丁目の各一部が西習志野1~4丁目となる。
- 1973年(昭和48年)習志野台1丁目の一部が高根台6・7丁目となる。
- 1974年(昭和49年) 国道296号(成田街道)より南側である残りの区域が習志野1~5丁目および三山5丁目(編入)となる。
- 習志野市東習志野町
- 1947年(昭和22年) 大和田町の旧・習志野演習地に大字安生津が起立される。
- 1951年(昭和26年) 幕張町大字実籾の旧・高津廠舎の区域に大字愛宕が起立される。
- 1954年(昭和29年)
- 4月1日 安生津が幕張町へ編入される。
- 8月1日
- 愛宕・安生津が習志野市の一部となり、その区域をもって東習志野町が起立されて字1~3丁目に区分される(丁目は後に再編される)。
- 旧官有地(高津廠舎→厚生寮敷地)に若松町が起立される。
- 1955年(昭和30年)11月1日 船橋市(旧・二宮町)より編入された習志野町5丁目を東習志野町4・5丁目に変更。
- 1973年(昭和48年) 東習志野町・若松町の区域に住居表示が実施され東習志野1~8丁目となる。
「習志野」の名前を持つ主な施設
- 習志野駅(船橋市習志野台) - 新京成電鉄:1948年(昭和23年)10月8日開業
- 北習志野駅(船橋市習志野台) - 新京成電鉄:1966年(昭和41年)4月11日開業、東葉高速鉄道:1996年(平成8年)4月27日開業
- 新京成線は、津田沼-松戸間の旧鉄道連隊演習線の大部分を改修して開業したものである。両駅は本来の習志野の領域内に所在。
- いずれも習志野市地先の埋立地にあり、「習志野原」とは離れている。
- 船橋新京成バス習志野営業所(船橋市習志野) - 新京成バスが三分社化されたうちの一つ(他に松戸、船橋)の習志野新京成バスが前身。習志野新京成バスは、営業エリアがほぼ船橋市内のみであり、かつ船橋市内に本社があった(船橋新京成バスの本社は鎌ケ谷市)という相当な「ややこしさ」である。
- 京成バス習志野出張所(船橋市習志野) - 2012年12月に船橋営業所花輪車庫と長沼営業所花見川車庫が移転統合されて発足した。ちなみに同出張所と船橋新京成バス習志野営業所はほぼ近くに所在する。
- 国土交通省関東運輸局千葉運輸支局習志野自動車検査登録事務所(船橋市習志野台) - 「習志野」ナンバー。千葉県のうち、習志野市・市川市・船橋市・鎌ヶ谷市・八千代市・浦安市・白井市・印西市・印旛郡の一部(栄町)に所在する自動車のナンバープレートに表記される。県内で2番目に出来たナンバーであり(長らく、人口密度の高い県北西部を現・野田ナンバー、柏ナンバー、成田ナンバーの区域を含め網羅)、現在もっとも全国的によく見かける「習志野」。
- 船橋市立習志野台第一小学校(船橋市習志野台)
- 船橋市立習志野台第二小学校(船橋市習志野台)
- 船橋市立習志野台中学校(船橋市習志野台)
- 習志野市立東習志野小学校(習志野市東習志野)
- 習志野市立第四中学校(習志野市東習志野)
- 習志野市立習志野高等学校(習志野市東習志野) - 甲子園初制覇の時は津田沼にあった。
- 日本大学習志野高等学校(船橋市習志野台) - ならしのこうこう、とだけ読むと上記の市立習志野高校と混同する。当校を「にちなら」、市立習志野を「ならこう」と呼び、区別する。
- 千葉県済生会習志野病院(習志野市泉町・船橋市三山の一部) - 住所登録は前者の習志野市
- 習志野カントリークラブ(アコーディア・ゴルフ)は印西市(キング・アンド・クイーンコース)及び香取市(空港コース)に所在し、「習志野」とはかなり離れている。尾崎将司が修行時代から長年過ごしたコースとしても、ゴルフ界では有名である。
参考文献
- 司馬遼太郎『坂の上の雲』
- 船橋市郷土資料館『地域研究資料3 薬園台の歴史 正伯物語』、2003年(平成15年)3月31日
- 習友会 開拓50周年記念誌「砂塵を越えて」、1995年(平成7年)
- 船橋市郷土資料館 絵はがき写真に残された明治~大正~昭和-、2005年(平成17年)3月23日
- 船橋市立薬円台小学校公式ホームページ
- 映像
- 船橋市|習志野原の変遷
脚注
- ^ 船橋市|習志野原の変遷より。
- ^ 習志野市誕生 1 幻の大習志野市構想-習志野市ホームページ| 新ならしの散策 No.72
- ^ 習志野市誕生 2 1日だけ存在した習志野町-習志野市ホームページ| 新ならしの散策 No.73
- ^ 赤旗を習志野原の各入り口付近に建て、事前に伝令の馬を出して周辺の住民に知らせていたといわれる
- ^ 当時、習志野原をはじめ、館山や銚子、稲毛海岸・谷津など千葉県には映画の撮影スポットが多く点在していた
- ^ 大久保の旅団司令部から習志野原を結ぶ短い道(現・三山商店街)は「旅団街道」または「戦車道」と呼ばれた。
- ^ この時点で京成電鉄成田線(津田沼-八千代台間で並行する)はまだ敷かれていない。
- ^ 自衛隊内で第一空挺団を「習志野」と呼称している様子が伺われている。
- ^ 目の前を通る国道296号線に「船橋市習志野」の補助標識512があるが、そこから実際の船橋市習志野までは200mほど距離がある。
関連項目
- 下総三山の七年祭り - 祭域が密接に絡む。大習志野市構想は、この祭域を包括する構想であった。
- 吉橋大師講 - こちらも巡礼区域が密接に絡む。
- 習志野原御猟場 - 習志野練兵場を中心に旧小金牧を指定。
- 千葉県の軍事拠点や軍事史跡
- 成田街道 - 習志野の真ん中を走る街道。津田沼駅より薬園台までの道は特に習志野へのアクセス道路として栄えた。
- 軍事国道特1号 - 習志野原と下志津の軍事拠点を結ぶ目的で指定された。東金御成街道の一部分(うち千葉県道69号長沼船橋線部が習志野と関連する)。
- 千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線
- 千葉県道61号船橋印西線
- 日本のナンバープレート一覧
- 日本大学 - 理工学部、薬学部、生産工学部の3学部や付属・グループ高校2校が習志野の領域内に所在し、関わりが深い。
- 秋山好古
- 尾崎将司 - ジャンボ軍団とは大変かかわりの深い土地である。本人の旧邸宅(兼練習場)が船橋市習志野(習志野演習場の脇)にあるなど、当時は軍団メンバーが集った。現在、当地には戸建て住宅が並び、見る影もない。
- 相武台(神奈川県相模原市・座間市) - 昭和天皇によって命名された。