小金牧
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小金牧(こがねまき)は、江戸幕府が現在の千葉県北西部の北総台地に軍馬育成のため設置した放牧場である。5つの「牧」により構成され小金五牧ともよばれる。江戸時代以前からの牧を継続する形で慶長年間に設置され1869年(明治2年)まで存続した。
千葉県中央部には佐倉牧が置かれ、約100年後の享保期、同県南部で嶺岡牧が整備された[1]。小金牧に関しては青木更吉が第一人者で、著作に詳しい記述がある他、地元の研究家の調査がある。
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[編集] 沿革
古くから千葉県北部は軍馬育成の地として知られ延喜式にも記述がある。諸国牧参照。鹿島神宮・香取神宮との歴史的地理的関係ともあわせ、起源は「蝦夷」征伐時の前線への軍馬の供給にさかのぼると推定される。香取市側高神社の神が東北地方で捕えた馬を神社周辺で放したとの伝説があり、松戸市に同じ読みの蘇羽鷹神社がある。和名抄に葛飾郡厩戸の地名がある。
同地域の馬は平将門等の軍事力にもなった。
平家物語・宇治川の先陣争いの「池月」(生食)も同地域産で国道6号と国道16号が交差する柏市「呼塚」は同馬を呼んだ塚に因む、また、同馬が松戸市高塚(現高塚新田)に葬られたとの伝説がある。ただし、同様の話は埼玉県等にもある。また、同地域は千葉相馬氏発祥の地で、相馬野馬追の相馬にも小金牧と共通する野馬土手(後述)等の遺構がある。
江戸時代以前から牧が存在したため、馬の扱いに慣れた住民が多く、牧を管理した世襲の牧士頭、後の野馬奉行も、同地域の旧領主・小金城主相馬氏一族の高城氏の重臣で同じく一族の綿貫夏右衛門が任命された。 以前からの半野生化した馬がいる牧を引継いだ形のため、年代の特定は難しいが、幕府による正式な設置は1614年(慶長19年)、徳川家康による綿貫夏右衛門の牧士頭任命の時と考えられる。明治期の三橋弥による新聞掲載の解説を転載した大正期の千葉縣東葛飾郡史には慶長9年とあるが誤植の可能性が高い。なお、牧士(後述)を務めた家柄の一つに三橋家がある。
牧の範囲は享保期までは広範囲に及ぶややあいまいなもので、場所の変遷、以降の牧内での耕作もある。
享保期まで、野馬奉行は小金牧と佐倉牧を管轄した。初期は高城氏の旧臣、後に地元の名主等を取り立て任命した野馬奉行配下の現地役人は牧士(もくし)と呼ばれた武士待遇で、苗字帯刀乗馬とその格式の他、野犬等から馬を守るための鉄砲の所持携行もできた。「もくし」は鎌倉時代に定められた呼称・身分で、呉音訓である事からも伺える。牧士が廃されたのは明治5年である。
江戸時代初期には、七牧が存在したが享保の改革以降、代官小宮山杢之進により、統廃合が行われ、野田の庄内牧は廃止、鎌ヶ谷の一(壱)本椚牧は中野牧に統合され、現・柏から船橋・白井にかけ、北から順に高田台牧、上野牧・中野牧・下野牧、やや東の印西牧の五牧となった。牧の名称は寛政期の代官岩本石見守の命名による。 水田のない畑作新田も含め新田開発も行われ、牧に新田が近接する結果となり、多くの野馬土手が築かれた。牧内でも開発が行われ、新田と入り交じる形になった所も多い。 享保以降、中野牧・下野牧は松戸市陣屋前の金ヶ作陣屋の管轄、御小納戸頭取支配となった。中野・下野牧と佐倉牧の佐倉藩預となった牧以外の牧を野馬奉行が管轄した。 徳川将軍家・水戸家の狩場としても使われ、水戸侯の馬の捕獲見物の記録もある。
馬は牧ごとに焼印が定められ管理された。松戸市立博物館等に展示の焼印は高田台牧が琴柱(千斤)、上野牧が笠、中野牧が千鳥(飛鳥)、中野御囲が木瓜、下野牧と神保入御囲が輪違(重輪)、印西牧が瓢箪である。( )内は下総旧事考による。
牧は庶民にも知られ、歌川広重・歌川国芳・渡辺崋山の絵画、牧内禁煙も示す小林一茶の句が残り、金原亭馬生の名のもととなった。松尾芭蕉の通過については鎌ヶ谷市参照。馬の捕獲は公開され、庶民の娯楽となり、見物人目当ての茶店も出るほど賑わった[2]。
慶應期にナポレオン三世から贈られたアラビア馬26頭が中野牧高木村の厩舎で飼育され、うち1頭は後に駒場の農業大学で割と長生きした(東葛飾郡史)。徳川家茂参照。
明治に廃止され、東京府により開墾が始められた。主に東京の「無産之徒ヲ」「開墾ニ使役」、開墾できた土地は入植者に、また三井組主体の開墾会社への出資者に出資額に応じた土地を与えるとしたが、多くの非出資の入植者には耕作権だけが与えられ、ごく少数の大地主、少数の地主、多数の小作農が生じた。争議、法廷闘争も起こり、明治28年「小金原開墾之不始末」が出版され[3]、田中正造も明治29年に国会で取り上げた。人力での開墾適地の多くは享保期に新田となっており、開墾は困難であった。ほとんどの耕作地は戦後まで入植者(の子孫)の所有にはならなかった。非開墾地、特に野馬土手は自動的に国有地となり、西南の役後、軍用地になった所、さらに後、日露戦争戦費調達のために払い下げられた所、小学校等公共施設の用地の一部となった所も多い。三井が取得した土地も多い。発掘調査報告書等で地先等と記され地番のない所は公有地である事を示す。
周辺の農民の他、他からの士族・江戸の職人等失職者が入植した事が一因となり、旧牧の内外のわずかな方言の違いが1970年頃まで存在した。(こすい、あるっけ?等)
地理的人的条件等、間接的な理由によるが、明治以降も牧場・競馬場等、馬に関わるいくつかの施設が置かれた。 現存する土手には、ケヤキクヌギ等を優占種とする二次林としての雑木林・斜面林がある所もあり、かつて里山の一部をなした。森林が残る所では、騒音緩和や「緑の回廊」としての効果もある。
[編集] 地名
佐倉牧と合わせ、明治の開墾入植計画の順に従った地名がつけられた。順に初富(中野牧・鎌ケ谷)、二和(下野牧・船橋)、三咲(下野牧・船橋)、豊四季(上野牧・柏)、五香(中野牧・松戸)、六実(中野牧・松戸)、七栄(佐倉牧・富里)、八街(佐倉牧・八街)、九美上(佐倉牧・香取)、十倉(佐倉牧・富里)、十余一(印西牧・白井)、十余二(高田台牧・柏)、十余三(佐倉牧・成田)である[4]( )内後はその地名がある現市町村名。
牧全域が明治期の開墾地になった訳ではなく、牧内に当るが地名の異なる所、後に住所表記変更のあった所もある。
江戸時代まで、ほぼ日本全国で馬が飼育されており、他にもあるが、特に同地域には、馬・駒・木戸・土手等、牧に因む地名が多く残る。馬込・駒込は捕込(後述)に因むものと死馬を埋めた事に因むものがある。
郷土史等に、松戸市金ヶ作等の「作」は柵の意と記されている。実際、千葉県教育委員会による該当地域の文化財埋蔵地の50以上の「作」は、ほぼ牧がなかった流山市・市川市には皆無で、我孫子市の7箇所を除き、牧の縁に相当する地に多い。新田開発に伴う畑作の「作」の可能性も含め、牧に強く関連した地名と考えられる。金ヶ作付近には特に柵から転じた作のつく地名が多い。松戸市突柵はクグリマセと読む。通常、マセは馬柵である。一方、牧から少し離れた松戸市新作はシンザクである。該当地域外でも、城下町・街道等の柵との関連が強く、我孫子市の「作」近くには「木戸」地名がある。
[編集] 牧の構造
小金牧を構成した牧はそれぞれ100~300平方キロメートルの面積をもち、馬が逃げ田畑を荒らす事を防ぐため、各牧の周囲には野馬土手という土手が築かれた。土手は通常二重で間に野馬堀という堀があった。土手は主に堀の土と周囲から集めた土を用い、通常、牧内側の土手「小土手」は馬の怪我を防ぐために低くなだらかで馬の勢いを殺ぎ、牧外側の土手「大土手」は馬の逃走を防ぐために高く急斜面である。馬が堀に入っても牧内側に戻るしくみである。場所により三、四重の土手もあった。牧は主に台地上にあったため、谷津との境では土手が無い場所、堀だけの場所もあった。谷津との境の土手は台地の縁、斜面の上に築かれる事が多く、斜面下の土手は湧水を流すためのハケと考えられる。地域により、野馬除土手、馬土手、ぬま土手、ほぼ堀だけの場合は野馬堀とも呼ばれる。木の柵が併設された所もある。後述の勢子土手とともに、かつての一割程度が残ると言われるが、道路等他の構築物との誤認や途中の変遷もあり、正確な位置が不明の場合もある。
牧内には、馬の集約捕獲時の誘導路となる勢子土手または中土手、最後に馬を集める捕込(とっこめ・とりこめ、取込・鳥込とも表記)、捕込近くに特定の馬を集めておく囲土手(≒コラル)があった。その性格上、勢子土手は分岐や食い違い構造をもつ、やや複雑な形状であった。捕込は200 メートル四方、中は通常3区画からなる四角形の土手である。捕込近くの囲土手と重複の場合もあるが、幕府騎乗用の良馬を飼育する御囲という囲みがあり、中野牧・下野牧には各2箇所あった。 軍馬に適さない馬は農耕馬等に払い下げられ、幕府の収入となった。
谷津は牧に適さず、水田に適したため、牧と谷津の「隙間」に農村集落が形成され、馬の追込・鷹狩・鹿狩の勢子・人足の供出、土手の補修を行い、野付村とも呼ばれた。動員時には村名と人数等を記した幟を掲げた。集落付近には小金牧の馬と多くはその子孫に当る馬の供養のための馬頭観音の石碑が今でも各所に見られる。 牧内には道もあり、出入口部分の土手の切れ目・道の乗越え部分には木戸が設けられ、街道の場合は木戸番がおり、原則として日中のみ通行でき、関所としての機能も果たした。
残存する遺構の見学等については私有地の場合もあり、自己責任で行動する必要がある。
以下、各牧について記す。土手の位置等は明治13年陸軍迅速測図、国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧システム[1](国土地理院)、国土交通省、各自治体・教委等の資料、現地調査による。微細な住所表記・町境はライブドアの地図が最も正確である。
[編集] 庄内牧
荘内牧との表記もある。名称は庄内藩領地だったことに因む。
途中で廃止されたため、小金五牧には数えない。小金五牧と同格ではなく、小金牧の初期の七つの牧の一つである。
現・野田市内にあった。同地には延喜式の長洲牧があったとされる。享保年間(6年・8年の2説がある。)には廃止されたので、牧としての正式な遺構はそれ以前のものである。ただし、その後も野馬が残り、田畑を荒らすこともあり、存続した牧への引き渡しが完了したのは少し後のやめ、牧の廃止後も野馬土手の補修・構築がなされた。街道の並木があったため牧の廃止後、さらに今日残る土手もあるが、一部は、その所在地から、並木敷または街道と村との境界の土塁との混同とする説もある。
利根運河の北には、野田市花井字上野馬込、下三ヶ尾字木戸前、南には馬場の地名が残る。
野田市立図書館に当牧を中心とした小金牧の説明がある。
[編集] 小金五牧
上野牧は江戸時代初期には高田台牧と一つだったため、上野牧を先に記す。
佐原の清宮秀堅著、好文堂発行の下総旧事考には若干の公文書との相違が見られ、牧を垣と記しているが、当時の文書には字の違いはよくあり、俗称等についての記述は詳細である。
大正12年の千葉県東葛飾郡史によると、周囲の土手は75967間1尺、約140キロメートルであった。かつての四十里野の名称による160キロメートルとの説も大きな間違いではない。
牧士は文化財指定の墓と子孫が住んでいない住居のみ記す。
[編集] 上野牧
下総旧事考に、俗称が蛇沢野で、捕込が篠籠田にある事、御囲の捕込が寛政期に高田台に設けられたとある。蛇沢は後述捕込近くの篠籠田に続く沢の支流で、俗称と捕込の記述は概ね正しい。
ほぼ、豊上町を除く後述柏市豊四季に相当する。耕作の適地、あるいはすでに新田となっていた土地が請願等により流山の住民のものとなり、同市野々下・長崎等の一部となった。
脇街道の水戸街道と当牧内で分岐する日光東往還が通り、当時としては江戸からの交通の便も良く、よく知られていた。柏第二小学校創立記念誌によれば、徳川家治の乗馬を放った記録、篠籠田での水戸候鹿狩、老中の馬捕獲見学の記録がある(原典不詳、著作権上詳細略)。
小林一茶が句を詠んだ場所で、中野牧との確証のあるものはないが、「七番日記」には当牧である事を明示した記述がある。
文化14年、村尾嘉陵原著「江戸近郊道しるべ」に、江戸から馬を見に当牧を訪れ、水戸街道流山市香取神社にあった一里塚近くの家で地元の大工和泉や弥五郎から聞いた牧の話の記述がある。牧は水戸街道より北を上の牧と言い、へいび沢原、高田台、大田前から成る事、へいび沢原に馬とり場がある事、街道より南を下の牧と言い、日ぐらし山、五助原、平塚、白子から成る事等の話を聞いたとある。幕府の公式記録との違いもあるが、牧士や野付村の分担地域等の細分を反映した地元での認識と考えられる。また、牧入口の木戸、竹がうえられた野馬土手等を見た記述がある。 文政3年、高田与清「鹿島日記」では、ベニ鹿毛というどうしても捕まえられない不思議な馬の記述がある。(柏市史)
品種改良用に輸入されたペルシャ馬が当牧に放たれた後、死亡した事に因むオランダ観音が流山市にある。
捕込跡は柏市立柏第二小学校(柏二小・二小)となっている。同校は当初「捕込学校」とも呼ばれ、また、1985年まで捕込の形を模したという池があった。裏手に捕込の土手に続いていた土手が少し残る。日光東往還(地元では日光街道)まで続いていた捕込の土手は1965年を最後に失われたが、同往還側の校庭に土手の基礎部分の埋蔵の可能性がある。捕込には同往還側に2箇所、南に1箇所の開口部があったが、うち、往還側北の開口部と同小学校の正門の位置が一致する。
南柏駅改札口に風除けがあった程、当地域には強風が吹き、農地の風除けにもなった土手がある一方、明治以降に築かれた風除け・土地の境界・土止めの土塁もある。該当する迅速測図の精度も低く、全ての土手の位置が確定できているわけではない。
柏二小そばの稲荷神社前交叉点から日光東往還を300メートルほど南にさがったあたり、字捕込(とりこめ)に以前鳥込バス停があり、西に捕込南の囲い土手の一部と見られる土手が少し残る。付近では「とりごめ」と発音されることも多い。近くの稲荷神社境内に開墾碑と岩倉具定が所有した土地を地元民に売却した事に対する報恩碑がある。
取込跡南方の柏市弁天谷と流山市松が谷の境界から国道6号にかけて、牧の西縁は市境にほぼ一致する。弁財天から南東に約400メートルは堀が残っており、その一部には大土手も残されている。同国道から約100メートル北の地点から更に北500メートルほどにかけての区間では、市境沿いに野馬堀をはさむ二重構造の野馬土手が残り、緑地公園として残されている。上野牧の中では一二を争う保存状況の良いエリアである。
国道北100メートルほどの地点から北東、国道とほぼ平行に勢子土手が分岐、大半が残っている。日光東往還東、旧字中土手に残る土手は、往還西の土手より少し南にある食い違い構造で、馬捕獲時、東往還を北に進んだ捕込(柏二小)へ誘導していた。先にはT字形に南東へ直角に分岐、国道を越え、ゴミ出し場の後、ホンダカーズ西-別の食い違い構造-常磐線近くまで土手が残る。水戸街道まであったこの土手は、東往還の所で誘導を漏れた馬を止め、すぐ東、元、字吉野沢の一部の新富町の小川への進入も防いだ。国立東京博物館蔵、文化3年の関宿多功道分間延絵図では、小川が池や湿地状になっており、土手が湿地手前で南東に屈曲している。南東の土手からさらに北西に分岐する土手が戦後まであった。小川は土手北側の住宅地造成に伴い、土手の間をクランク状に抜ける形となった。小川は現存し、1960年代末まで農業用水にも使われた。
T字形分岐直進方向の土手の先は、前世紀末から今世紀初頭に大部分が消失、家屋の列となっているが、レクサス・幸楽苑裏手等に少し残り、先の駐車場のコンクリート壁に痕跡がある。 土手は柏市立旭東小学校付近で柏神社隣(国道6号南の質屋裏、サンキの間の小道等)と北に分岐-分岐後-直進気象大学校(気象大)付近(一部1974年頃まで残存)にあった。一方、迅速測図には小学校・気象大間で分岐―旧字乗馬ヶ谷の千葉県立東葛飾高等学校(東葛)通用門―柏神社隣と見られる土手がある。昭和4年の松井天山の鳥瞰図には通用門付近の該当位置に樹木の列がある。気象大付近の土手はさらに屈曲、東葛正門付近交差点まであったが、このため同交差点はずれた構造となった。跡に両側に道のある細長い家屋があり、踏切付近に僅かな痕跡が残る。通称流山街道側の東葛高校内の土塁は土手跡地にある可能性はあるが、同校の創立時に構築されたものである。 旧豊四季村・柏村間にはかつて確執があり、旧豊四季村に建てられた東葛(旧制中学校)の校章は当初の「三つ柏」から次第に「三つ葛の葉」になった。
国道6号の南、柏流山市境を南下し水戸街道へ達した外縁の土手は、1960年前後に失われたが、跡が土手構築時に他から持ち込んだ土の分、周囲より僅かに土地が高い両側に小道のある家屋の列として残る。市境の数m程度の微細な凹凸は購入者の住所等、土地購入時の経緯によるが二列の土手の位置を反映している。
同街道北、流山市の突出部は、小金原勝景図にある木戸を管理する番屋兼茶店か現地事務所等の跡と見られ、大土手も市境の形に屈曲していた。土手は市境から水戸街道に沿いに続いていたため、突出部がなければL字になるところ、己字状であった。己字の大土手に対し、小土手は突出部から水戸街道へショートカットしており、ここ市境に接した所だけ町境は大土手の位置にある。残りの水戸街道沿いの大土手は明治~戦前に水没しがちな同街道等のかさ上げに用いられた(戦前からの住民の話)。該当場所だけ同街道と脇の土地が僅かに高い事、町境が小土手の位置になった事からも裏付けられる。徳川光圀の援助により野馬奉行が植えたという牧内の松並木等については水戸街道参照。牧内の水戸街道沿いに字並木の地名がある。
市境から北東、同街道沿いにあった土手が屈曲(微細な町境と一致)、同街道に突出した所、字新木戸に新木戸と呼ぶ木戸があった。日光東往還との分岐やバス停新木戸より西である。新木戸は後述の柏神社隣の木戸に対してか、市境からの移設・新設による名称と推定される。木戸には関所の役割もあり、幕末期、近くの刑場で処刑が行われた記録がある。 近くの別雷神社は1870年創建のものであり、茨城県から勧請されたもので、前述「とりごめ」の発音は入植者により訛が持ち込まれた可能性が高い。
前述の分間延絵図には市境・水戸街道沿いの土手、新木戸、東往還付近の勢子土手、捕込手前の土手、捕込、が描かれている。
木戸の江戸側から土手は南南東に伸び、SDAキリスト教柏教会のところで屈曲して北東に針路を変えていた。しかしこの一帯には家屋の列以外ほとんど痕跡は残されていない。東武野田線との交点には豊住歩道橋と名づけられた跨線橋がかけられており、そこには馬の絵が描かれている。東武野田線の北東側には、ローソン前にかけて湾曲した形状の土手が残る。ここが谷津の始点、谷津頭であり、土手の終点となっていた。
ローソン前の土手末端から東方向は、谷津の縁が牧の縁であった。柏レイソル日立台グランド前の谷津から野馬土手が、緑ヶ丘交番まで残る。東側は谷津の斜面と一体となった構造が残るが、西側は埋め立てにより大土手だけが残る。ラーメン店の所にあった谷津頭は馬の水飲み場として牧に入れるが、谷津の斜面を利用し、馬を牧外に出さない巧妙な構造である。交番から北の土手跡に僅かに高く両側に小道のある家屋の列がある。
土手は柏市立柏第三小学校裏へ続き、ここで道が土手跡を斜断し、土手の痕跡が残る。柏神社西隣へ土手跡に沿った道が続き、水戸街道を横切る所に木戸があった。木戸付近の小金牧境界沿いには、水戸藩の江戸往来の休憩所としても使われていた茶屋が「水戸屋」として残り、水戸屋が水戸藩主の命で建立した櫻株稲荷神社も残されている[5]。 この近くで前述の市境からの勢子土手と東葛通用門か旭東小付近で接続する土手と、柏駅北の土手へ分岐、後者は柏市立柏第一小学校(牧外・旧柏町)正門付近でさらに同校敷地内の土手と、西北西への土手に分岐し、このため同正門前の交差点がずれた構造になった。西北西の土手は国道6号北―柏高島屋第二駐車場前―柏駅付近―あさひ通り沿い―乗馬谷の谷津と屈曲してつながっていた。柏市教委によると、岬状に谷津に突出していたあけぼの町赤城神社付近まであったという。柏神社―柏一小の土手沿いの牧外側の道がJTB柏支店前の道、旧柏・豊四季の境で、土手が牧の東縁であった。この道は柏駅周辺で最も古い道の一つであり、現ヨドバシカメラ裏に、利用者の少ない歩道橋が設置されている。
明治になっても現柏駅構内と付近の開墾は遅れ、駅・線路への用地転用が容易だった。青木更吉はホーム構築時、土手の土がその一部になった可能性を指摘している。柏駅付近の土手は前述鳥瞰図に該当位置の密生した林、土塁のある医院が描かれ、昭和初期のかなりの残存、1955年の航空写真で駅前通り付近での残存が確認できる。周辺の家の建築時、土手の土を使い昭和初期までに完全に破壊されたという話は一部で行われた可能性はあるが正確ではない。土手構築時に土を取った堀を埋めれば他から持ってきた土以外は余らない。鳥瞰図には柏駅近くの「小松園」に小山が描かれ、後の同園の写真に土塁がある。開発の経緯から旧柏村には駅と県立高校がない。
赤城神社から西、柏市豊四季・篠籠田境=旧篠籠村南縁が牧の北の縁にほぼ一致、断続的に間の離れた二列の土手が篠籠田市民緑地等に残る。北の縁は豊上町の谷津が入り込んだ後(柏市立柏第七小学校西に土手残存)、豊四季駅付近で流山市との境に達していた。前述の市境からの土手は千葉県道278号柏流山線北にも続いていたが、この部分は現流山市になり、四重の土手が同市野々下(字土手内・土手外、元木戸・木戸本の地名が存在)に残る一方、日光東往還西側が、すぐ近くの柏二小の学区外になった。付近は、牧内の新田開発、入り組んだ谷津、流山市野々下と長崎が江戸時代初期まで一つだったことにより、牧の境界が複雑で、野馬土手も入り組んでいた。ほぼ、牧の西端は市野々下と長崎を抜け、柏市が西に突出した所までであった。ここの谷津の縁の土手が残り、付近に前述、牧士を務めた花野井家住宅があったが、野田市に移築された。 前述、水戸街道より南の柏・流山市境にも牧の縮小前の土手が残る。流山市による麗澤大学構内の発掘調査の記録がある(同大学関係のHPには未記載)。
江戸時代にはすでに前述の呼塚は牧の外であったが、南に字駒込、さらに南に柏市立柏第五小学校のある字野馬木戸があり、かつての広がり、または、牧の境が厳密ではなかった事が伺える。
牧内には祠等を除き寺社を置かないのが原則であり、豊四季駅近く、馬の銅像が建つ諏訪神社は野馬堀に接してはいるものの牧外にあたる流山市駒木にある。源義家および付近の鞍掛の伝説については同神社の項参照。牧内の神社の多くは明治の入植時に立てられ、その由来が入植者の出身地の手がかりともなる。 現豊四季台団地の地に柏競馬場があった。
[編集] 高田台牧
地元では高田牧・高田原牧ともいう。下総旧事考の大青田垣と考えられる。
柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる。江戸時代初期には上野牧と一緒で、その後も上野牧とは大堀川のある篠籠田の谷津をはさんで近接、現豊四季駅北で接続していたが、土地開発の違いから野馬土手等の遺構が上野牧よりよく残る。大半が大日本帝国陸軍の飛行場[6]高射砲[7]陣地等、アメリカ合衆国の接収、朝鮮戦争時の再接収を経て、冷戦期のOTHレーダー設置等で返還が遅れたためである。ただし、陸軍施設構築時、そのまま利用された土手・堀と新たに構築されたものがあり、明確に判別できない遺構もある。最後に返還された土地が柏の葉である。 柏市庭球場の池の周囲でも判るが、地下水位が低く農業用水が不足した場所が多い。
柏市庭球場の池の東、三井不動産系の旧ゴルフ場西縁に土手が残る。 マルエツ・交番間の陸軍東部百五連隊の営門に連隊の土塁とした土手の痕跡がある。東西延長線上、千葉県道47号守谷流山線沿いに断続的に土手が残る。同県道南に残る土手と連絡し南の谷津まで続いていた。民芸駐車場の一隅に後述厳島神社があり、小道の反対側、高田原ふるさと会館と消防団の裏に土手が残る。小道は土手の所だけ広くなっている。
当牧において特に明治の開墾期に三井組が直接土地を所有することが多く、入植者は主に小作農となった。三井不動産に引き継がれた土地が多く、ららぽーと柏の葉・柏の葉の三井住宅等の例がある。
法廷闘争、土地所有を有利に進めるため三井組は開墾事務所の建物・一部の土地を有力者に渡した。明治12年、大蔵卿大隈重信が「流山庄十余二」の土地を三井より仲介人を経て取得した記録[8]、翌年の迅速測図の現柏特別支援学校付近に、農地を除く家屋部分だけで100メートル四方を超える「大隈邸」の記載がある[9]。迅速測図の測量点にもなり、1970年代の航空写真でも堀と土塁を有した約120 メートル四方の敷地跡が確認できる。一部勢子土手を利用した屋敷の敷地と同校の敷地とは若干のずれがある。大隈が東京まで通勤した記録はなく言わば別荘・領地であった。鍋島藩主の側近が土地を所有していた事を示す資料も千葉県文書館にある。 十余二の厳島神社に裏面に「鍋島大隈等」が土地を所有し戦後まで入植者の物とならなかった事を示す開墾記念碑(表面の文字は千葉県知事)と明治期の馬頭観音がある。
「大隈邸」跡から南へかつて勢子土手があり、その先付近に捕込があった。ほぼ、つくばエクスプレス際の墓地の位置である。
こんぶくろ池は馬の水飲み場でもあり、付近には全体としてL字型をした土手、国道16号東に旧正蓮寺集落西縁の土手が残る。 ほか、流通経済大付属高等学校裏(良好)を含め、柏インター西(複数列)、江戸川台駅東・柏市の半飛び地状の市境、大山台(町界)、大堀川北旧高田村集落北縁等に土手が残る。
柏市では同市花野井、牧士の高田家住宅を公開予定である。 花野井木戸の地名が残る。
[編集] 中野牧
現在の松戸・柏・鎌ケ谷・白井の各市にまたがり、上野牧が一度の開墾でほぼ豊四季だけとなったのに対し、中野牧は初富・五香・六実と三期に渡って開墾されたこと、一本椚牧を吸収したことでも判るように広大な牧であった。
幕府は当中野牧の馬を将軍の乗馬に用い、将軍が鹿狩(共に後述)を行うほど、当牧を最重視した。また、当牧の一部と重なる小金原が全体の呼称が生じ小金牧を代表する牧であった。今も松戸市に「小金」を冠した地名が残るが、北小金駅は牧の北、流山市向小金は上野牧との間で、いずれも牧外に当たる。
小金牧の名は、野馬奉行が小金宿在住のためとする説もある。さらには、同じ理由で当牧が小金牧の中核になったという説もあるが、小金宿からは上野牧の約2倍の距離があり、享保期に当牧の管轄が金ヶ作陣屋(後述)に移った事と矛盾し、奉行の家に幕府の政策を合わせた可能性も低い。
松戸市陣ヶ前は諸説あるが、将軍の鹿狩の際の休憩所=陣に因むとされる。将軍の鹿狩は享保10年(1725年)から、吉宗2回、家斉・慶喜同行の家慶各1回が行われた。寛永期に家光も行ったとの伝説があるが、他所との混同の可能性がある。狩には新田開発の視察、軍事演習、害獣捕獲の側面もあった。狩の前に馬は下志津の六方野に集められた。下野牧東方に下志津、六方、木戸場の地名がある。
現常盤平を含む金ヶ作には、将軍の乗用馬等優良馬確保のための囲い「御囲場」「御放馬囲い」が設けられた。金ヶ作は小金の柵の意とされ、また、享保期、中野牧・下野牧を管轄する金ヶ作陣屋が設けられ、言わば直轄中の直轄となった。八柱近くに陣屋前の地名が残る。五香駅南、松飛台に将軍が鹿狩を指揮見物した御立場(おたつば)が陸軍飛行場の障害として撤去されるまで残り、五香公園に碑があり、少し離れてバス停御立場がある。御立場は明治期の地図では猪見塚の表記もある。
当時の将軍鹿狩の絵図や庶民向けの読み物も残され、船橋市西図書館・成田山には、御立場・街道・谷津・土手の形状を正確に描いた図がある。明治期、下野牧に当る習志野での演習を描いた錦絵には、御立場・谷津と酷似した土台・雲、軍事演習ながら多数の鹿や猪とそれらを追う兵士を描いたものがある。 豊島区駒込に鹿狩随行の武士が獲物を下賜された事を記した鹿碑が残る。
金ヶ作の北、現小金原の殿内交差点・バス停付近に水戸家御鷹場役所跡があり、付近は水戸徳川家の鷹狩に使用された。北に同役所表門に因むバス停表門がある。武田信吉が封じられ、水戸街道が近く、付近に徳川光圀関係の話・物がある。上野牧と並び水戸家との縁も深いが、徳川昭武屋敷戸定館は牧外に当る。
松戸市和名ヶ谷・日暮・河原塚から南は天領小金領で将軍家の御鷹場・葛西筋に属した。将軍・水戸両家の鷹場の境には杭が立てられていたと千葉県東葛飾郡史等にある。
迅速測図も上野牧等に比べ正確で、広大な牧でありながら存在した土手の位置・形状がよく判る。土手が現旧市町村境界となった所が多く、土手沿いに鉄道連隊線路が敷かれ後に新京成線になった所もある。
元禄期には既に栗ヶ沢・千駄堀・金ヶ作等の集落が存在し、牧の北端は水戸家役所より南、栗ヶ沢・金ヶ作境界から現常盤平付近と考えられる。金ヶ作西端には共に天明年間創建の熊野神社と祖光院があり、享保期には新田集落となっていた事が判る。千葉県立松戸特別支援学校前のローソン裏のコンクリート壁の所にはかつて土塁があり、西の延長線上には字大作がある。
開発が進むなか、後述捕込の遺構が北初富駅西近くに比較的良好に残り、牧関係の遺構としては初めて「下総小金中野牧跡(しもうさこがねなかのまきあと)」として、勢子土手一条とともに2007年(平成19年)国の史跡に指定された。
柏市南増尾クリーンプラザ裏から西、南増尾・逆井境沿いに土手が断続的に残る。逆井駅東から西の増尾台にかけて逆井木戸、木戸尻、木戸前、増尾木戸の地名が残り、柏市教委によれば馬を捕えた「とったり庄兵衛」の伝説があることから、木戸付近でも小規模な捕獲が行われた事が伺われる。千葉県立柏南高等学校仮校舎は字増尾木戸前にあった[2]。付近は同名のバス停のある増尾新田として享保期に新田となった。増尾駅東、旧土村中心地近くの野馬土手・堀様の構築物は中世の城館に伴う遺構である。
土手を貫いて作られた東武野田線高柳駅北西の車両基地近くに、一部の土手が残る。
六実・六高台の高お(雨冠に龍)神社に開拓百年碑と香実会所跡の碑がある。
五香駅東、現五香十字路はかつて北の千葉県道51号市川柏線が西にずれていた(旧道残存)が、付近の鮮魚街道(千葉県道281号松戸鎌ケ谷線)上、字五助・現金ヶ作字新木戸に現地の名主五助管理の五助木戸があった。真景累ヶ淵速記本に、小金牧・生街道とともに五助街道の記述がある。土手が同十字路北東の道の東側=五香・常盤平境界(一部残存)―北―柏・松戸市境に沿い鋭角に東へ屈曲―の位置にあり、市境とその延長線上、ベルクス五香店北、旧ダイエー五香店・現オウル駐車場北に良好に残る。同駐車場北西端近くに木戸跡があり、土手を斜めに乗り越える北東高柳新田への道があった。近くにバス停元木戸がある。オウル駐車場の東端から失われた土手は同店前の交差点で僅かに北へ屈曲、さらに北東へ屈曲―松戸六実高西にあった谷津頭―南東―松戸市立六実小学校東―北東―ほぼ市境沿い―佐津間北の大津川の谷津にあった。 オウル前交差点から南へ分岐、高お神社西を通った土手が市境の谷津に達した後、後述の松戸駐屯地内の土手と接続していた(一部残)。 松戸六実高西の谷津頭で谷津の両側に土手が分岐、谷津の北西に延びていた。この西隣の谷津に松戸市クリーンセンターがあり、脇に土手が残り、サラブレッド様の馬のレリーフがある。土手は千葉県立柏稜高等学校方向へ続いていた。
土手は五香十字路―西―県道松戸鎌ケ谷線の北の旧鮮魚街道南側(金毘羅神社等に残存)―常盤平子和清水―南の谷津に続いた。近くに三井不動産系のユニディがある。子和清水の養老の滝様の伝説は、子和の字に因み後に移入された話で、大正期までは古和の表記が多く、強=枯れないの意と考えられる。小金牧には串崎新田等にも古和清水・子者清水、船橋に古和釜がある。 常磐平一帯は新京成線の南にあった谷津・八柱霊園との間の谷津・合流した西の谷津に囲まれた台地で、金比羅神社東から北西の谷津まであった土手、五助木戸から南の谷津までの短い土手と合わせ、前述の御囲場を構成していた。谷津の北等も牧に含まれ、当牧の北端に当たる。
南では、二つの平行した谷津をつなぐ田中新田(畑作新田)東縁の土手が八柱霊園の東縁となり、わずかな痕跡が残る。霊園北に字矢深作、南東角に字茨作がある。
霊園南西、千葉県立松戸秋山高等学校西に字馬乗場、北に字木戸場がある。
五香十字路から南、県道57号西沿いに両側に堀のある一重の土手(船橋市西図書館所蔵の絵図に描写)があり、一部、松戸駐屯地内に残る。新京成線踏切南東、県道の僅かな屈曲点でオウル脇の木戸からの土手と接続する一方、くぬぎ山駅中央へ曲折していた。駐屯地内に痕跡が残る。駐屯地内の松戸・鎌ケ谷市境は道跡、付近の新京成線もほぼ道跡だが、多少ずれた跡が踏切西の駐屯地の形に残る。くぬぎ山駅西口階段の所で西―南西―松戸・鎌ヶ谷市境が鋭角をなす地点で、松飛台西の谷津―松飛台十字路で僅かに曲折、ほぼ直線状の土手に接続していた。松飛台の土手は航空写真から終戦直後、すでに無かった事と、土壌の違いによる痕跡から位置が判る。くぬぎ山駅西口の土手は1974年には残存したが、新京成電鉄本社が建ち、他も個人の土地の境以外の痕跡はない。 土手の接点から東(残存)―本線の南=市境=車両基地―南へ曲折―市境角で西の市境からの土手と接続、串崎新田の外枠となった後、東へV字をなし谷津をつないでいた。 松飛台字御囲の地名の中心は駐屯地内に当る。西に同名のバス停があった。
初富駅西、北西を上にした一辺400 メートル程のK字形の土手(Kの縦線跡は道、斜線の一部残存)があり、縦線の南、V字の北東角との間に前述、捕込があった。
K字の北東、旧粟野村集落は北の谷津と南の土手(消防署前、県道両側に残存)で囲まれた典型的な野付村で、今も土手を境とした古くからの村落と新規の再開発地の町並みの違いが判る。 旧道野辺村は西を谷津、北東を野馬土手に囲まれた集落、南北に長い現南佐津間は西の土手(ほぼ現市境)と東の谷津にはさまれた集落だった。 佐津間、字南木戸に鮮魚街道が通っていた。
K字の南東―少し屈曲―国道464号の所で分岐―鎌ヶ谷市立鎌ケ谷小学校・南西の谷津の土手のうち、鎌ヶ谷駅南側の部分が残存している。
道野辺中央から、北と東へ鎌ヶ谷市丸山・同市鎌ヶ谷町境沿い鎌ヶ谷大仏北に三重の野馬土手があった。後者には南へ二重の土手が分岐し、当牧と木下街道が通る旧鎌ヶ谷村を分けていた。
鎌ヶ谷市市制記念公園東―東南東―白井市―南西の土手の一部が鎌ケ谷市立初富小学校西に残り史跡に指定された(前述)。分岐の一部が同校やや東の白井市富士に残る。小学校西の土手は南へ曲折、鎌ヶ谷大仏北の池の南まであった。
当牧の南の部分、ほぼ初富に当る部分が一本椚牧であった。 鎌ヶ谷村道路元標は字一本椚に置かれ(千葉県・法令集)、頭に一本椚のつく公園が鎌ヶ谷五~七丁目にある(鎌ヶ谷市・統計かまがや)が、厳密には一本椚新田に因むと見られる。 松戸市秋山牧之内、八柱村道路元票設置の紙敷木戸場、高塚新田木戸前、同隣接地の市川市に木戸口遺跡等の地名が残る。 白井木戸・中木戸の地名が残る。 牧士の三橋家と清田家の墓が鎌ヶ谷市の文化財に指定されている。 清田家と駒形大明神(鎌ヶ谷市)については該当項目参照。 白井市の牧士川上家の資料は県の文化財に指定されている。中野牧・下野牧の牧士は両牧を担当していた。
鎌ヶ谷市の下総小金中野牧跡保存計画書には牧跡のほか、牧全体に関する詳細な資料がある。
[編集] 下野牧
牧の区域は、船橋市二和・三咲のほか東の習志野地域等も含み、現、鎌ケ谷・船橋・八千代・習志野・千葉の各市に及ぶ。
捕込は鎌ヶ谷大仏駅前、鎌ヶ谷大仏交差点東、字大込、中野牧のすぐ南にあった。ここに置かれた理由として、地形的な要因と金ヶ作陣屋からの交通の便が考えられる。捕込の土手跡は小道等となったが、県道横に一部の痕跡が残る。捕込に続く土手が、付近の鎌ヶ谷・船橋市境、船橋市の突出部分を分ける位置にあった。
神保に御囲があった(下総旧事考)。神保町に字牛ヶ作、南、船橋市立大穴中学校付近字海老ヶ作がある。 享保の改革により、成田街道沿い牧の入口、後述船橋市郷土資料館西に薬草園が設けられた。詳細は薬園台参照[10]。
捕込から鎌ケ谷・船橋市境の形に土手が、南西の市境の形の谷津まであった。両側に道のある家屋の列がある。 この谷津から、東、御滝不動尊金蔵寺を経て、ごみ出し場向かい、船橋市立二和小学校南に勢子土手が残る。同校南のアスファルト舗装の道路中央に、良好に保存された部分からガードレールに痕跡を留めるだけの部分までがある。ここでは二和と三咲の境界だが、少し東では現境界より東で北に屈曲していた。三咲駅は土手より二和側にある。さらに西に屈曲、捕込に続いていた。
千葉県立船橋豊富高等学校は、字ハンノキ作にあり、南に稲荷ヶ作・鶴作台・大作の字がある。
当牧の西縁を成す土手は、滝不動南の船橋市立御滝中学校―南三咲・金杉町境、南の谷津と、谷津の南、高根木戸駅西、さらに南の谷津まであった。
ここより南、新京成線西側は、入り組んだ谷津が牧の西縁であった。
谷津の南、船橋市立飯山満小学校校門前―東の道沿い―合流した道沿い―習志野駅西で南へ屈曲―二度屈曲―船橋市郷土資料館敷地西の斜めの小道に土手(一部残存)があった。土手が成田街道を横切る所に正伯木戸・薬園木戸という木戸があり、前述の薬園は木戸の江戸側にあった。 同資料館前等に牧内で五角形をなしていた土手がの一部が残る。街道・木戸・牧内の土手の構造が上野牧と類似する。 土手は街道南の陸上・航空自衛隊駐屯地内でZ形に屈曲、同駐屯地南東に抜けていた。県道西の町境部分には、一時期鉄道連隊線路があった。南、習志野市立習志野高等学校前までの県道沿いに両側に道のある家屋の列が複数ある。
先、実籾三叉路に実籾木戸があり、東の道―谷津頭を北に迂回―千葉市立花見川小学校前交差点と続いた土手は、同交差点で十字に分岐、北東の土手が、千葉・八千代市境に達した(花見川区柏井の道灌堀に一部残存)後、後述、陸上自衛隊習志野演習場を通った土手に続いていた。
陸上自衛隊習志野演習場内に船橋・八千代市境沿いの土手を含め、比較的良好な状態で複数列の土手が残るが、弾薬庫の周囲にあった土塁との混同に注意を要する。船橋・八千代市境・同演習場北端に成田街道の木戸があった。バス停ほか新木戸の地名が残り、ここから西が縮小後の牧だったことが判る。北に中木戸の地名が残る。
新木戸の土手は牧の東縁を成し、北西へ谷津をはさんで船橋日大前駅西に続いていた。同駅付近に土手が残る。
八千代市島田台字木戸場の地名が残る。
馬込沢駅・馬込沢・馬込町(金杉参照)は、近くに土手等がなく牧の縮小前かさらに前の地名と考えられる。 中山競馬場がある字古作も古い柵か作地の意と考えられる。
[編集] 印西牧
現白井市から印西市、印旛村に及ぶ広大な牧であったが、享保の改革の縮小・自然の地形の巧みな利用のため、現存する遺構は少ない。 江戸時代初期には印西市東部にまで達し、同市小林牧場北西に馬込、馬込塚、印旛村吉田には馬見台、馬々台、木戸口の小字地名が残る。佐倉牧の位置が佐倉市ではないこと、当時広大だった印旛沼については該当項目及び香取海参照のこと。
享保の改革により、牧の約3分の2が新田になった。 現印西牧の原駅付近は享保・延宝に新田となり、新田地名として残る。ただし、印旛沼近くの新田は埋め立てによるもので元から牧ではない。 東部では千葉ニュータウン中央駅東まで牧は縮小された。付近に馬場、木戸、大木戸の地名、木戸、天王脇野馬土手の遺構がある。 少し北、印西市字木戸には土手・木戸の遺構がある。 泉字大木戸、和泉字大木戸根、多々羅田字木戸の地名から牧の縁が伺える。
西部では北から、白井市平塚字馬場堤下、字牛ヶ作(船橋市神保の同名の字とは別)、河原子字木戸場、根字木戸前、白井木戸の地名がある。 白井市鮮魚街道のバス停神々廻木戸付近の交差点の北に「く」の字形の土手があり痕跡が残る。南東方向にも谷津間をつなぐように現ゴルフ場を抜け、数個の土手が連なり牧の南西の縁を形成していた。 少し東、旧十余一村北の土手とさらに木刈の谷津に続く土手が牧の北の縁であった。
下総旧事考によると平塚に捕込があり、十余一字捕込付(とりごめづき)、捕込場(とっこみば)の地名が残る。
[編集] 脚注
- ^ 約200年後の寛政期、静岡県に愛鷹牧が置かれた。
- ^ 中村哲夫『千葉の建築探訪』崙書房出版、2004年、40頁、ISBN 4-8455-1100-2
- ^ 国立国会図書館
- ^ 開墾は東京府主導の下、開墾会社が進めたため、開墾地は「東京新田」と総称されたこともある。
- ^ 柏市役所サイト内「水戸屋稲荷物語」
- ^ 秋水参照
- ^ 一時期ではあるが部下への体罰私刑を厳禁した希有な連隊である。
- ^ 早稲田大学史資料センター
- ^ 相原正義の著作にも記載
- ^ 吉宗の貧困疾病対策の一環として、江戸の小石川・浜庭園・駒場、駿河の駿府・久能山、安房の嶺岡牧、京都、佐渡、長崎とともに幕府直営の御薬園があった。大石(2002)。主要な藩にも藩営の御薬園があった。薬円台の薬園は長崎大学薬学部によると幕府直轄ではなく、薬種商桐山太左衛門による。御薬園台と呼ばない事とも一致する。幕医丹羽正伯が共に開設した。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 大石学「御薬園と養生所」竹内誠監修『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』小学館、2002年12月。ISBN 4-09-623021-9

