小金牧
小金牧(こがねまき)は、江戸幕府が現在の千葉県北西部の北総台地に軍馬育成のため設置した放牧場である。
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[編集] 概要
5つの「牧」により構成され小金五牧の通称もあった。江戸時代以前からの牧を継続する形で慶長年間に設置され1869年(明治2年)まで存続した。
幕府の牧には千葉県中央部から北東部にかけ、小金牧と共に設置、下総牧と総称もされた佐倉牧があり、県南部には遅れて嶺岡牧が設置された[1]。小金牧に関しては青木更吉が第一人者で、著作に詳しい記述がある他、地元の研究家の調査がある。
[編集] 沿革
古くから千葉県北部は軍馬育成の地として知られ『延喜式』にも牧の記述がある。諸国牧参照。鹿島神宮・香取神宮との歴史的地理的関係ともあわせ、起源は「蝦夷」征伐時の前線への軍馬の供給にさかのぼると推定される。宮負定雄は1845(弘化2)年『下總名勝図繪』[2]同3年『吾嬬免具理 下総國の部』[2]で脇高神社(香取市側高神社)の神が東北地方で捕えた千頭の馬を神社周辺の現香取市牧野で放したとの伝承を記している。『和名抄』に葛飾郡厩戸の地名があり、相馬御厨・夏見御厨があった地域、平将門との関係も深い地域である。
1923(大正12)年『千葉縣東葛飾郡誌』[2](以下、東葛飾郡誌、他の郡誌も同様)、1894(明治27)年『下総御料牧場沿革誌』、上野山清貢『文壇人の観たる房総』[3]収録の『三里塚風景』等に、該当地域での馬の飼育の始まりが文武天皇の時代という伝承があるが、『続日本紀』等から二次的に生じた伝承の可能性もある。
『平家物語』・宇治川の先陣争いの池月も同地域産で国道6号と国道16号が交差する柏市「呼塚」は同馬を呼んだ塚に因む、同馬が松戸市高塚(現高塚新田)に葬られたとの伝説があるが、同様の話は他県にもある。同地域は千葉相馬氏発祥の地で、相馬野馬追で知られる福島県相馬地方にも小金牧と共通する後述する野馬土手等の遺構がある。
牧を管理した現地役人は牧士(もくし)と呼ばれ、苗字帯刀等武士の格式を持ち、鞍を置いての乗馬、野犬等から馬を守るための鉄砲の所持携行も認められた。牧士は文武天皇の代に設けられた職制・身分[4]で、呉音訓である事も古い起源を裏付ける。当地域での任命は北条氏政の弘治年間[4]で牧の成立も同時期である事を示す。初期は主に千葉氏・高城氏の旧臣、後には地元の名主等が牧士に任命された。 同様に、世襲の牧士頭、享保年間以降の野馬奉行も小金の綿貫夏右衛門(初代は重右衛門)が任命された[4]。綿貫氏は千葉氏一族で、千葉相馬氏ともつながり、小金城主高城氏の姻戚である。半野生の馬、野馬のいる牧の引継のため、特定は難しいが、幕府による正式な設置は牧士頭の任命時と考えられ、1614(慶長19)年とする伝承が多い[5]。十二代政直の墓碑銘に、旧暦4月1日、江戸表で徳川家康直々に野馬奉行兼牧士支配へ任命され、袷を着るべき時季に袷がなく、綿を抜いた綿入れを着て来たため、家康の命で、氏を綿貫と改め四月朔と号したとある[6]。実際には、享保年間から野馬奉行の呼称が用いられた事については後述する。今も、四月一日と書いて「わたぬき」と読む姓がある。大正7年『房総町村と人物』[2][7]「綿貫政吉」の項に、野馬奉行任命は慶長11年4月1日陽春で、綿入れの綿を抜くために登城が1日遅れ、訳を聞いた家康の命で綿貫と名乗ったとあるが、前後に任命~大政奉還を13年とするなど数字関係の誤植が多く、11年も誤植の可能性がある。昔は4月1日に綿入れの綿を抜いたという俗説があるが、暦の上では立夏直前で、収納目的は別として、全国で厳冬期の綿入れの着用や、一斉の更衣はあり得ず、重右衛門の登城が1日遅れる必要もない。同書には野馬奉行が房総の三牧を支配した旨、記述がある。『東葛飾郡誌』では野馬奉行綿貫氏邸に、14代将軍の乗鞍・水戸家所賜太刀・赤穂義士岡島某所帯短刀があり[6]『房総町村と人物』では将軍の鞍は3組としている。『東葛飾郡誌』[4]収録の貴族院議員三橋彌による明治39年新聞掲載の解説では牧の成立を慶長9年としている。三橋家は牧士を務めた家柄の一つで、鎌ヶ谷市中央公民館は別名三橋記念館である。『千葉県議員名鑑』[3]に1932年9月、三橋彌は65歳とある。後掲『鎌ヶ谷市計画書』にも慶長19年以前の馬の献上、払下げの資料があり、牧として機能していた事が判る。慶長19年以外の伝承も小金牧の成立を慶長年間とする点では一致する。享保期まで、牧士頭は小金牧と佐倉牧を管轄した。
牧に接した一帯は徳川将軍家・水戸家の鷹狩の場で、水戸家の鷹場となったのは1633(寛永10)年2月13日[8]または1646(正保2)年[6]で、水戸侯の捕馬見物の記録もある[9]。少なくとも、光圀が1642(寛永19)年8月7日から13日まで、頼房が1645(正保元)年11月2日から15日まで「小金の狩場」で狩を行った[8]。綱吉の時代に中断、享保2年7月5日再び水戸家の鷹場となり、また、小金宿には水戸家のための旅館があり小金御殿と呼ばれ、家臣格の日暮玄蕃が留守居役であった[6]。
初期には、七牧が存在したが、享保の改革に伴い、代官小宮山杢之進により、統廃合が行われ、野田の庄内牧は廃止、鎌ヶ谷の一(壱)本椚牧は中野牧に統合され、現・柏から船橋・白井にかけ、北から、高田台牧、上野牧・中野牧・下野牧、やや東の印西牧の五牧となった。正確には、『鎌ヶ谷市計画書』掲載の享保期の資料に一本椚牧があり、一本椚牧そのものか、地名の残存を示す。牧の統廃合と平行して、牧士頭が野馬奉行兼牧士支配となった[4]。1719(享保4)年6月11日「陸奥の國白川の地より牝馬二十疋をめさる。これやがて下總國小金の牧をひらかるるためとぞ」1722(享保7)年8月9日「代官小宮山埜之進昌世に命ぜられしは佐倉小金等の牧地新田林などのこと聞えあげしことく心にまかせ慮置すべし 野牧の道途修理なども牧士の長綿貫夏右衛門に指揮してはからふべしとなり」の記録がある[8]。野馬奉行とは記されていない事は後述の大谷の研究と一致する。同年、南北に分け南の中野・下野牧を代官預かりとし、牧士も代官預りと野馬奉行預りに分けられた[4]。大谷貞夫の研究によれば、綿貫氏が実際に野馬奉行に任じられた時期は1731(享保16)年頃であったという[10]。野馬奉行も参照。牧の範囲は享保期以前は広範囲に及ぶやや曖昧なもので、場所の変遷もあり、享保以降は牧内での新田開発・耕作も行われた。1724(享保9)年8月、馬が野になじまない時の陣屋での飼育とその後の野馬としての放牧、1726(享保11)年11月「綿貫夏右衛門預かれる牧馬の地」での防堤(野馬土手)の構築と維持、馬が死んだ場合等の村から牧士への届出について令した記録があり[8]、牧についても改革が進められた事を示す。
水田のない畑作新田も含め新田開発も行われ、牧に新田が近接する結果となり、新たに野馬土手が築かれた。牧内でも開発が行われ、新田と入り組んだ所も多い。この時築かれた物を新土手、新堀、新木戸等と呼ぶ。谷津へ舌状に突き出した台地の先を、土手を築いて仕切り、先を新田とした所が多く見られる。
『徳川実紀』[3][11]に、吉宗が「蘭舶に託しペルシャの馬をめしよせられ」、1888年、農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』[3](以下、取調書)に吉宗が享保年間、洋種馬28頭を購入、房総の緒牧と産馬の地に配布した記述がある。吉宗以降の鹿狩については小金原御鹿狩および中野牧の項参照。白井市[12]では享保11年の鹿狩の後、将軍の馬が牧に放たれた事、後に馬の体から胆石が出た事、胆石を明治天皇が見た事を紹介している。
寛政期にも整備が進み、寛政5年に五牧となり、牧は代官岩本正倫(石見守)が命名した。中野・下野牧は現松戸市陣屋前の金ヶ作陣屋の管轄、御小納戸頭取支配となり、雉子橋の野馬方役所から代官が出向いた。小金牧の他の牧と、佐倉牧の佐倉藩預以外の牧を野馬奉行が管轄し、小金御厨とも称した小金宿の奉行宅で事務を扱った[4]。享保から命名までの間が、後述の『下総国旧事考』[3](以下、旧事考)等の名称の混乱の一因とも考えられる。
馬は牧別に焼印が定められ管理された。綿貫家文書[4]では、焼印は高田台牧が琴柱、上野牧が笠、中野牧が千鳥、中野御囲が木瓜、下野牧と神保入御囲が輪違、印西牧が瓢箪である。『旧事考』には、大青田牧が千斤、上野牧が笠、中野牧が飛鳥、下野牧が重環、印西牧が瓢(箪)とする記述、上野・中野・中野御囲・下野・印西で五牧とする記述がある。琴柱と千斤、千鳥と飛鳥、輪違と重環はほぼ同じ図案である。
牧は庶民にも知られ、歌川広重[13][14]歌川国芳[13][15]渡辺崋山の絵画、小林一茶の句が残り、天正期までは「金」と記す事の多かった小金[16]が金原亭馬生の名のもととなった。松尾芭蕉の通過については中野牧の項参照。『成田名所図会』[17]には「下野牧野馬執之図」として、馬の捕獲が図解され、牧士・勢子のほか、見物の庶民と茶店風の店の描写がある。見物人目当ての茶店[18]、そば屋・飴屋・団子屋・甘酒屋等が出るほど賑った[19]。 古くは、小野忠明(典膳)と善鬼の、小金原の決闘があったとの話[20]もあるが、場所等の詳細は不明である。
天保6年『小金江御馬野放』[21]の文書が残る。
慶應期、ナポレオン三世から贈られたアラビア馬20頭が中野牧高木村に建てられた厩舎で、外国人2名の下、すべて洋式で飼育され、うち1頭は後に駒場農学校で割と長生きした[4]。厩舎は地名から将軍の馬を育成する御囲内で、当時、下総で外国人を雇うことも異例で、幕府の馬に対する重視が判る。馬は1867年新暦5月29日横浜着、同7月27日に江戸城で贈呈式実施、輸送担当がシモン・カズヌーブ[22]、小金牧での飼育は計画のみで[23]、牡11頭・牝15頭、計26頭である。御勘定奉行『亜刺比亜馬小金表江率移候義ニ付申上置候書付』[21]、慶応3年7月小金原続村々『乍恐以書付奉願上候(外国之馬茂小金牧江放被遊候風聞之儀ニ付)』[21]があり、小金牧へアラビア馬が来た事が確認できる。若干が雉子橋の厩で飼育とあり、小金牧に来た馬が20頭[16]なら、残りは6頭であるが、憶測の域を出ない。 松戸市[19]では、慶喜の下には未着という説を紹介している。片桐一男(青山学院大学)[24]は、中野牧・下野牧の牧士によるアラビア馬の引受けと管理を記している。
1871年12月9日公文書『仏国政府ヨリ旧幕府ヘ寄贈ノアラヒヤノ馬ニ付同公使ノ好意ニ答フ』[21]『仏国政府旧幕府ヘ差送ノアラヒア馬散逸ニ付取聚収方伺』[21]は、維新に伴う馬の散逸を示す。ロッシュ献上の馬等[19]他も混じっているのか、30頭としている。澤によると、カズヌーブ自身の文書に、9頭の種馬の確認と、幕府が小金牧で飼育、自分が指導に当る計画だった、散逸は維新後とある。
1896年、村上要信『日本馬匹改良策』[3]に、馬のうち1頭のイロンデールは巴里と命名され、1878年頃、佐倉牧跡に設けられた下総御料牧場の前身で村上の兼務先の下総種畜場、後に駒場農学校、さらに、上野の博物館での飼育の目撃と、この牝馬は子を全く産まなかった事の記述がある。1893年、学齢舎『教育動物園』[3]にも馬の生存の話がある。1903年『下総御料牧場要覧』[3]の表に所有するサラブレッドが牝10、牡20、計30で、輸入年度内訳として牝の欄に文久年間6、明治10~13年計7の数字と、備考としてフランスから幕府への贈与の記述がある。馬の死亡・繁殖があったためか、総数と内訳は合わず、小金牧との関係は明確でない。夏目漱石の『三四郎』に、野々宮君の先生が学生だった時分、「馬の先生」が酒代のため、ナポレオン三世時代の白い老馬を売った話がある。イロンデールは黒毛だが、駒場の話が入り込んだ可能性もある。1909年廣澤安任(談)『奥隅馬誌』[3]に、子孫を残した馬もいるらしいが、騒擾で散亡し功を奏しなかった事、下総種苗場で残馬を見た事、明治19年時事新報に生存するのは29歳のハリー号だけで駒場農学校にいる事等がある。澤護論文にカズヌーブが死去直前に廣澤牧場の廣澤安住(任)を訪問した記述がある。ナポレオン三世から贈られた馬のうち、2頭は佐倉牧の取香牧跡につくられた下総御料牧場で飼育された事等、詳細はナポレオン三世の馬・高砂参照。
1869(明治2)年、牧は廃止、『東京府戸籍改正ニ付無産ノ徒武州小金原ヘ移シ開墾ニ使役附下総国三牧其他不毛地開墾東京府掌管』[21]として、東京府管轄で開墾が開始された[25]。開墾後の土地は入植者に、また、現地で開墾を取り仕切った三井組主体の開墾会社とその出資者に出資額に応じた土地を与えるとされたが、明治5年、開墾会社の解散時には、三井等の画策により多くの非出資入植者には耕作権だけが与えられ、ごく少数の大地主、少数の地主、多数の小作農が生じた。争議、法廷闘争も起こり、明治27・28年、岩瀬謙超『小金佐倉十牧開墾授産地回復請願書』[3]『小金原開墾之不始末』[3]が出版され、田中正造も明治29年に国会で取り上げる等の事態となった[26]。『小金原開墾之不始末』には、住民の弾圧には警官も直接関わっていた事、三井の社員が入植者に勝手にノルマを課し、達成できないと懲罰房に入れる等、無法の限りを尽くした事の記述がある。田中久右衛門『維新以来三井家奉公履歴』[3]に三井は開墾事業の総頭取を拝命した事、明治政府に対し資金提供等を行った事が自慢げに記されている。人力での開墾に適した土地の多くはすでに新田となっていたため、開墾は困難で、開墾会社の搾取もあり、ほとんどの耕作地は戦後まで入植者(の子孫)の所有にはならなかった。 明治20年『京都府平民三井高福ニ金盃ヲ下賜シ千葉県平民西村郡司外一名ヘ藍授褒章授与ノ件』[21]との文書もある。外一名とは元佐賀藩士深川亮蔵である。
非開墾地、特に野馬土手とその隣接地は自動的に公有地となり、軍用地になった所、日露戦争戦費調達のために払下げられた所、後に小学校等公共施設の用地の一部となった所も多い。発掘調査報告書で地先等と記され地番のない所は公有地である事を示す。三井が取得所有した土地も多い。東京の窮民だけでは開墾が進まず、入植した近隣の農民・自費による耕作地への通い農民も加えられた。近隣の農民は東京の窮民と違い、旧牧内の薪炭林等への権利は行使できたはずであるが、旧牧内の耕作地や薪拾いについても、争議に発展した例がある。
明治2年『房総牧々野馬払下代金上納方達』[21]は、野馬の残留と払下げを示す。明治4年1月、牧士は開墾局の所属となり[27]、明治5年5月に廃止された[4]。明治8年『千葉県下牧々野馬除ケ土手堀同県ヘ引渡届』[21]は、野馬の収容の完了を示唆するる。
周辺の農民の他、他からの士族・江戸の職人等失職者が入植した事が一因となり、「こすい」「あるっけ」等、旧牧内外のわずかな方言の違いが1970年頃までは存在した。正岡子規が記した東京との方言の違いは上野牧の項に記す。
国立公文書館に、明治10年と11年、東京大学のモンタギュー・フェントンが蝶の採集に来た文書[28]があり、当時の環境をうかがわせる。
地理的人的条件等、間接的な理由によるが、明治以降も牧場・競馬場等、馬に関わるいくつかの施設が置かれた。酪農が行われた場所もあり、今も牛の牧場がいくつか残る。
一帯は、常に馬が草を食べ、薪炭林等として利用されてきたため、1970年には「極相林を見る事は希(沼田真)[29] 」であったが、現存する土手には、ケヤキ・クヌギ・コナラ等を優占種とする二次林としての雑木林・斜面林がある所も多く、かつて里山の一部であった。森林が残る所では、騒音緩和や「緑の回廊」としての効果もあるが、保存の措置が取られている所は少ない。
[編集] 地名
元は小金宿近くの原を小金原と称していたが、小金牧の設置により牧全体を小金原と呼ぶ事もあり、設置以前には大和田原と呼ばれた現習志野付近も含め、明治期には、共に開墾されたため、佐倉牧まで小金原と呼ぶ事もあった。由来とは逆に、小金宿に作られた駅は小金原の北のため北小金駅となった。現在の松戸市小金原は旧高木・栗ヶ沢・根木内の村々に当り小金牧の一部の中野牧の近傍の土地の一部である。
江戸時代まで、ほぼ日本全国で馬が飼育され、馬場等、他地域にもあるが、特に該当地域には、馬・駒・木戸・土手・堀等、牧に因む地名が多く残る。「込」のつく地名には後述の捕込に因むもの以外のものもあると考えられる。特に「堀込」は捕込を示す地名としては数が多すぎ、牧の外に見られる。木戸近くに多く、牧から離れた所には少ないため、何らかの関係が示唆される。必ずしも堀のような地形を伴っていない。「木戸」は城郭等に因む可能性もある。
『松戸市史』等に、松戸市金ヶ作の作は土手も含めた柵の意とある。後掲の安田論文に柵を作とした御触書がある事からも確認できる。また、千葉県教育委員会による該当地域の文化財埋蔵地[30]の約50の「作」は、ほぼ牧がなかった流山市・市川市に無く、我孫子市の7箇所以外、牧の縁に相当する地にある。文化財埋蔵地以外では、享保以前、下野牧の西縁に隣接していた市川市柏井に瓜作がある。印旛沼に注ぐ師戸川では源流部を除き、牧跡に近い西側に「作」が多く、東側になく、さらに西に印西市吉田に木戸口・馬々台・馬見台の牧関連と考えられる字がある。県南部では宮谷(ミヤザク)・大豆谷(マメザク)等、明らかに谷の意のザクの例はあるが、北部では和名ヶ谷・名戸ヶ谷等、谷はヤと呼び、「作」は台地の縁を指す可能性がある程度で、谷の意の可能性は低い。台地上に「作」が多く、谷を伴わない「作」もある。一つの谷の周囲に複数の「作」がある事も谷の意味としては不自然である。我孫子市では柴崎字山王作に隣接して字小木戸、布佐字北大作近くに字粟牧・字一里塚・旧字木戸、印西牧から離れた旧沼南町、柏市片山字北ノ作、字久保作の東には手賀字木戸脇台があり、宿場・郡衙・古い牧に因むと見られる。 水田に適した谷津の「作」は我孫子市・印西市の発作に見る程度で少なく、享保期に牧が廃された野田市に「作」が少ないため、畑作に因む可能性も低い。「作」は宿場・城郭等の場合も含めて柵の意か、牧周辺の新田の一部をさす事が多いと考えられる。金ヶ作付近には特に柵から転じた作のつく地名が多い。松戸市突柵(クグリマセ)のマセは通常、馬柵と書く。佐倉牧の矢作牧はヤハギ牧である。
佐倉牧と合わせ、明治の開墾入植計画の順に従った地名がつけられた。順に初富(中野牧・鎌ケ谷)、二和(下野牧・船橋)、三咲(下野牧・船橋)、豊四季(上野牧・柏)、五香(中野牧・松戸)、六実(中野牧・松戸)、七栄(佐倉牧・富里)、八街(佐倉牧・八街)、九美上(佐倉牧・香取)、十倉(佐倉牧・富里)、十余一(印西牧・白井)、十余二(高田台牧・柏)、十余三(佐倉牧・成田および多古)である。( )内後はその地名がある現市町村名。東京新田の俗称もあった[31]。
牧全域が明治期の開墾地ではなく、習志野等、牧跡に当るが地名の異なる所、後に住所表記が変更になった所もある。
[編集] 牧の構造
小金牧を構成した牧は、時期によっても異なるが、それぞれ40~300平方キロメートルの面積をもち、牧の内外には野馬土手と呼ぶ土手が築かれた。地域により、馬土手、ぬま土手等とも呼ぶ。野馬土手には、構築目的から、野馬除土手、勢子土手、囲土手の種類があった。
野馬除土手は馬が逃げ田畑を荒らし集落への侵入を防ぐための、牧の周囲と集落の周辺の土手で、通常二重で間に野馬堀という堀があった。土手は主に堀の土と周囲から集めた土を用い、通常、牧内側の土手「小土手」は馬の怪我を防ぐために低くなだらかで馬の勢いを殺ぎ、牧外側の土手「大土手」は馬の逃走を防ぐために高く急斜面である。傾斜と高さの違いにより、馬が堀に入っても牧内側に戻る。場所により三、四重の土手もあった。牧は主に台地上にあったため、谷津との境では、堀が目立つ所もあったが、堀を作れば、土が出るので、普通、近くに土手も築かれた。通常、谷津との境の土手は台地の縁、斜面の上に築かれたが、斜面の途中や下に築かれた土手もある。堀が目立つ場合は野馬堀と呼ぶ事が多い。木や竹の柵が併設された所もある。『東葛飾郡誌』によると、周囲の土手は75967間1尺、約140キロメートルであった。かつての四十里野の名称による160キロメートルとの説も大きな間違いではない。四十里野の名については、那須まで40里続く、房総中央に40里続く等様々な伝承がある。初期には集落を牧から分けるように作られた古土手が、享保以降の新田開発と牧の縮小の結果、新田と本村との境界の明示、縮小された牧から逃げた馬の集落への侵入防止に役立ったため、牧の外側に残された場合も多く、今も残る土手もある。
勢子土手は中土手とも言い、牧内の馬の集約捕獲時の誘導路を形作った。その性格上、分岐や食い違い構造をもつ、やや複雑な形状の土手も多い。水飲み場への馬の誘導を兼ねた土手もある。野馬土手は、かつての一割程度が残ると言われるが、他の構築物との誤認や途中の変遷もあり、正確な位置が不明の場合もある。囲土手は牧の一部を囲む、または、区切る土手であった。通常、次に記す捕込に接し、馬を集め捕馬を効率的に行うための、囲土手(かこいどてcorral)があった。幕府騎乗用等の良馬を集め飼育する御囲(おかこい)を構成する囲土手もあり、中野牧・下野牧には各2箇所、御囲があった。捕馬の際、囲土手の外側に沿って馬を誘導すれば、囲土手の外側が勢子土手の役割を果たした事になる。仕切土手とも呼ばれた。
牧内には、最後に馬を捕まえる捕込(とっこめ・とりこめ、取込・鳥込とも表記)があった。捕込は捕獲しやすさ、捕獲後の水の補給と馬の移動のため、各牧の端で街道と谷津頭の近くにあった。捕込は約200 メートル四方、中は通常3区画からなる四角形の土手である。3区画とは捕えた馬を入れる狭義の捕込、使用する馬を入れる留込または分込、再放牧する馬を入れる払込である。捕込も囲土手の一種と言えるが、区別して扱う。一部の軍馬に適した馬以外は農耕馬等として払下げられ、牧内の草銭場での薪拾い代等と共に幕府の収入となった。 土手には幕府の命で築かれた御普請土手と住民が自主的に築いた自普請土手があり、後者には公文書にないものもあると見られる。御普請土手を築く際には、農民に手当ての米が支給されたが、その後の維持管理の責任も負わされた。勢子土手はすべて御普請土手である。初期には各牧の境界は明確でなく、馬の侵入防止に集落近くに築かれた短い土手も多い。神社や屋敷の土塁が野馬除土手を兼ねていた場合には、野馬土手と認めるかどうかで意見が分かれる。
谷津は牧に適さず、水田に適したため、牧と谷津の「隙間」に農村集落が形成され、馬の追込・鷹狩・鹿狩の勢子・人足の供出、土手の補修を行い、野付村と呼ばれた。鹿狩への動員時には村名と人数等を記した幟を掲げた。集落付近には牧の馬と多くはその子孫に当る馬の供養のための馬頭観音の石碑が今でも各所に見られる。明治期の馬頭観音も牧跡の外に多い。 牧内には道も通っていたため、馬の脱出を防ぐため、出入口部分の土手の切れ目・道の乗越え部分には木戸が設けられた。街道の場合は木戸番がおり、原則として日中のみ通行でき、関所としての機能も果たした木戸もあった。江戸時代、各地に設けられた木戸と違い、人ではなく馬に対する木戸である。牧と牧を結ぶ道に設けられた木戸には、中木戸と呼ばれた場合がある。
残存する遺構の見学等については私有地の場合もあり、自己責任で行動する必要がある。
以下、各牧について、庄内牧を除き、原則として享保以降の牧の範囲を示す。一本椚牧は中野牧に含め、上野牧は初期には高田台牧と一つだったため、高田台牧より上野牧を先に記す以外、北から順に記し、印西牧を最後に記す。
佐原の清宮秀堅著、正文堂発行の『旧事考』には若干の公文書との相違が見られ、牧の異字(土偏に同、簡体字では土偏と同の下に云、東葛飾郡誌のみ土偏に回)を用いているが、古文書には字の違いはよくあり、俗称等についての記述は詳細である。
牧士については、文化財指定の墓と子孫が住んでいない住居を記す。 土手の位置・地名は明治13~14年陸軍迅速測図、地形図、国土地理院国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧システム[32]、国土交通省、千葉県教育委員会[30]ほか、各自治体等の資料と現地調査、土手の形状は迅速測図欄外の図と現地調査、『東葛郡誌』による。
[編集] 庄内牧
庄内牧(しょうないまき)は現野田市にあった牧である。名称は庄内藩領だった事に因むが、野田市役所[33]では荘内牧と表記している。途中で廃止されたため、小金「五」牧には数えない。初期の七牧の一つである。北総台地は北の方が低く、他の牧より農業用水を得やすかった事も一因と考えられる。
江戸時代初期の一連の利根川東遷工事のうち、1640(寛永17)年の江戸川開削[34]前には、地続きだった今の埼玉県側まで及んでいた可能性が高い。野田市立図書館[35]では延喜式の長洲牧があったとする説を紹介し、また、初期に中央部が新田となり、南北に分かれたとしている。
寛文5(1665)年、野田市立図書館蔵『寛文5年野田町絵図』[35](以下、野田町絵図)に後述する野馬土手がある。南部の牧の北縁に当たる土手があり、牧が南北に分かれていた一方で、土手の北側も牧と同じ「原」と記され、開墾があまり進んでいなかった事を示す。
元禄6(1693)年頃から開墾されたとの伝承記録が『旭村誌』[16]にある。旭村は南北の牧の間に当たり、『野田町絵図』と共に正しいとすると、牧が南北に分かれてから、開墾が本格化するまで間があった事になる。 元禄9~15(1696~1702)年作成の『元禄国絵図・下総国』[21](以下、元禄国絵図)、南北の牧の間に、北から柳澤・奉目・鶴嶋・花井・中根・堤根の各新田と宮崎新田村があり、牧が南北に分かれた事を示す。
享保6(1721)年か8年に廃止されたので、牧としての正式な遺構はその前のものであるが、廃止後も野馬が残り、田畑を荒らしたため、野馬土手が補修・構築された。存続した他の牧への馬の収容を行った岩本石見守への謝恩碑が野田市内にある[33][35]。他の牧の古土手に当たる、牧の廃止後、300年を経て、今日残る土手もある。
北部の牧の痕跡はほとんどない。尾崎字南谷原で野馬堀の発掘記録がある[30]。関連し得る字として、野田市中里に込角、尾崎に槙の内と小作、牧の南縁に当たる野田市谷津に木戸口がある。セブンイレブン谷津店付近である。西方、東金野井の対岸、埼玉県の西金野井に作之内と明治以降の河川改修で東側が削られた形の馬場の字があり、さらに南にも字馬場がある。南北の牧の中間に当たる、野田市清水の馬作・岩名作・真木ノ地は、初期か小金牧以前の字と考えられる。幸手市の槙野地は遠い。馬作には後述の花野井家住宅が移築された。野田市役所前の掲示によると、船形字苅込も関連がある。
『野田町絵図』では南部の牧と江戸時代初期に新田となった北部との間の部分が描かれ、旧山崎村(日光街道山崎宿)・大殿井村・野田町の間が牧となっている。牧は「原」として示され、ほとんど人家がない。野馬土手と道の交点の多くには家が描かれ、木戸の存在が示唆される。距離・方向があまり正しくない事を考慮の上、土手について記す。土手は、東・西・南の3つに大別される。
西の土手は、今の東武野田線に沿いにあった谷津へ、東から舌状に突出した台地の先端部分の宮崎新田等を牧と仕切っていたが、現在痕跡はない。2箇所ある道との交点付近にはいずれも家が描かれている。
東の土手は、現市役所の北の「原」-西-南へ屈曲-日光東往還(以下、地元での呼称日光街道)沿い東側-市役所-南-堤根北でT字に分岐-西-谷津、T字分岐-東-次のT字分岐-東-田のある谷津、T字分岐-南-谷津である。堤根北のT字分岐-東、の土手は横内と大殿井の間へ延びており、野田市駅東方、国道16号線、野田市駅入口交差点の東、ほぼ横内と大殿井の境に残る土手[35]と考えられる。 日光街道沿いの土手の一部が野田市役所付近に残る。野田市役所前-野田警察署・墓地・飲食店による分断-南のガソリンスタンドに土手、一部街道側に堀跡も残る。市役所より南ではアジサイが植えられ、開花期には花の土手のように見える。さらに南、イオン駐車場縁に痕跡がある。市役所-イオンが1キロメートル強、途中の分断が300メートル弱である。街道側の堀跡から、道から田畑・集落への馬の侵入を防ぎ、南北の牧をつなぐ役割が示唆される。野田市役所前の掲示によると、街道の両側に土手があった。国立東京博物館蔵、文化3年『関宿通多功道見取絵図』[36](以下、見取絵図)では、牧の廃止後の日光街道沿い西側に木か竹の柵があり、街道両側の土手の存在を裏付ける。また、牧廃止後の土手の残存から、野馬土手以外の役割もあったが、並木がなく、並木敷ではなかった事が示唆される。『野田町絵図』の南の土手は大和田の「ため」とある水場へ延びており、野馬土手として築かれたと考えられる。また、土手を示す線には「御」がつき(御印?)、御普請土手、幕府の牧としての認識が判る。『野田町絵図』の作成時には、街道西側の土手はまだ無かったと推定される。南北の牧をつないでいたなら、街道両側の土手は、谷津字木戸前-山崎中木戸にあったはずである。街道西の土手はトイザラスができた時を最後に失われた。市役所付近では、街道西側に土手跡の様なものが見られるが、偶然の産物の可能性も高い。『野田町絵図』では市役所付近の街道両側に♂のような記号がある。5箇所ある道と土手の交点に家は描かれていない。
南の土手は2つあり、大和田の水場の北-南東-山崎村北の日光街道と交差-南東、の南部の牧の北縁の土手と、大和田の水場の南-北縁の土手と並行して南東-山崎村北の日光街道と交差・近くに家-南へ折れ-山崎村の東-山崎村の南の日光街道と交差・近くに家-T字分岐-南-今の利根運河付近、T字分岐-東-谷津の土手である。大和田の水場の西に接して山崎村-野田町の道があり、水場の南には2つの土手を結ぶ土手に囲まれた区画がある。梅郷駅東の国道16号のさらに東、東西に走る道の北側、野田市堤根のゴルフ場内に南部の牧の北縁の土手が残る。土手は、東の痕跡的な部分も含めると、中間の削除部分をはさみ、約800メートル、一部には二重の部分も残る。ゴルフ場の西にも少し残り、1960年代まで、山崎中木戸の北縁の道沿い-東武線東にあった。北西への突出部の南縁の土手が野田市立南部中学校(南部中)南縁=わずかに痕跡残存-西の運動場南縁の花井新田字中野馬込に状態は不良だが残存-北へ折れ-運動場西縁にさらに状態は不良だが残存-北西-字上野馬込-大和田の谷津にあった。上野馬込では野馬堀・野馬土手発掘の記録がある[30]。近くの日光街道に野馬込バス停、東武線東に字野場込があり、付近の捕込の存在を示唆する。近接して上・中の野馬込の字があるのは、新旧の込か込内部の区画を指すのか不明だが、同時に別々の捕込があった可能性は低い。上三ヶ尾に後述する字古和清水がある。ほか2箇所の土手と道の交点付近に家が描かれている。牧の中の道の西側に♂のような記号がある。
利根運河は、それぞれ江戸川・利根川に続く谷津をつなぐ形で造られたため、運河が南部の牧のほぼ南縁である。日光街道『見取絵図』には、後に旧山崎町に吸収された亀山新田の南縁、日光街道の屈曲点に、街道両側に街道と交わる形の土手があり、牧の廃止後の土手の残存が判る。利根運河北、流山・野田市境、斜面の上に当たる。街道両側とも痕跡はない。街道の形状、『見取絵図』、迅速測図から、街道東の土手は、東京理科大学内の東西に走る小道の南にあったと推測されるが、推測の域を出ない。いずれの土手も、利根運河の建設時には、完全に失われたと考えられる。東の三ヶ尾に木戸前・二重堀・大作の字がある。
[編集] 上野牧
上野牧(かみのまき)は、今の柏市・流山市に広がっていた牧で、高田台牧と接し、初期には中野牧とも続いていた。
『旧事考』に、俗に蛇沢野といい、駒捕の地は篠籠田で、別に府士騎乗の馬場、いわゆる御囲があり、その駒捕の地は高田台で、寛政期に設けられたとある。蛇沢は後述する捕込近くの篠籠田に続く沢で、1912(明治45)年頃の『豊四季村誌』に、上の牧又は蛇澤の牧と言い、上野牧産の野馬を蛇澤野駒と称し小金牧で中等の値段だったとある[16]。『旧事考』に従うと、寛政期以降の捕込は2箇所になるが、高田台の駒捕の地はその名称と『国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)』[37](以下、鎌ヶ谷市計画書)収録の古地図から高田台牧内と考えられる。高田台牧の捕込の一つが、上野牧の捕込として扱われたか、共用だったと考えられるが、間違いの可能性もわずかにある。『旧事考』に五牧の中では最古、また、南北5里とあるが、末期にはその半分程度であった。『見取絵図』に一之牧とあり、小金牧中最古か初期の重視、またはその両方が示唆される。
柏市では豊上町を除く本来の豊四季にほぼ相当する。流山市では新田等の耕作適地や薪炭林が、請願等の結果、流山市野々下・長崎等の一部となり、北部は戦後の宅地化で江戸川台となった。1878年、名都借村による18町歩余りの官有地払受け[4]、他の個人への払下げが相当すると考えられる。現在、南柏-柏と江戸川台-柏の各駅が牧跡にある。『元禄総国絵図』に青田・駒木の新田とともに、日光街道沿いの十太夫新田が記され、牧に入り込んだ新田がすでにあった事が判る。『下総国葛飾郡大畔新田文書(秋元家)』[38]に、享保15年に上野牧の一部を大畔村が村請し、大畔新田となったとあり、かつての村と新田の境に土手が残る(2011年3月)。これらの新田開発により牧は南北に分かれた形となった。柏市・流山市は野馬土手等の保存に積極的とは言えないが、特に柏市教育委員会ではインターネットでも場所が判る詳細な野馬土手の発掘調査報告書[39]を出しており1988年以降の土手の消失過程がよく判る。流山市の報告書[40]はインターネットでの場所の特定が難しい。
脇街道の水戸街道と水戸街道から牧内で分岐する日光街道が通り、当時としては江戸からの交通の便も良く、記録が多く残る。参勤交代・日光参拝に両街道を利用した大名、歴代の水戸藩主が上野牧を通過した。柏市立柏第二小学校(柏二小)創立記念誌によれば、徳川家治の乗馬を放った記録、篠籠田での水戸候鹿狩、老中の馬捕獲見学の記録がある[41]。船橋市立船橋西図書館蔵『小金原勝景図』[42][43]に、水戸街道にあった新木戸・街道の松並木・捕込の図がある。次の、江戸方面からの上野牧の入口は、『小金紀行』を除いて、後述する現南柏駅近くにあった新木戸を指す。
1816(文化13)年、釈敬順『十方庵遊歴雑記江戸雀後編4編』[3][44]に、高い土手、土手の食違いを夜〆切る侘しき藁屋に住む番人の記述がある。
1817(文化14)年、村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』[45]別写本による『嘉陵紀行』[3]に、嘉陵が江戸から馬を見に上野牧を訪れ、水戸街道沿い、香取神社(現存)前にあった一里塚近くの草鞋を売る家で、地元の大工「和泉や弥五郎」の話として、牧は水戸街道より北が上の牧で、へいび沢原・高田台・大田前から成り、へいび沢原に馬とり場がある事、街道より南が下の牧で、日ぐらし山・五助原・平塚・白子の計七牧から成る事等の記述がある。幕府の文書との違いもあるが、牧士や野付村の分担等による地元での認識と考えられ、小金五牧としていない事も判る。へいび沢は、土人の訛から聞き取り難く、後日、人に確認し、蛇沢だったとある。柏市大青田は国立歴史博物館蔵『旧高旧領取調帳』にオウダとあり、今でもオオタ・オオウタとも言う。他の地名は中・下野牧参照。牧入口の木戸、向かって左の番屋、竹がうえられた野馬土手、牧内の松並木、水戸街道から約一里北の馬が集まる山の記述がある。山は下の牧内とあるが、方向からすると上の牧が正しい。嘉陵は見ていないが、捕込を「追込の升」と記している。現在、香取神社から見て左に、前述「下陰を」の句と一里塚跡の碑がある。日光街道『見取絵図』に、神社から見て右と道の向いに一里塚がある。 『嘉陵紀行』には馬橋の所々、『房総叢書』[2]収録『小金紀行』(その1)には、流山市名都借に水戸殿御鷹場である事を示す傍示の杭の記述がある。『見取絵図』には、現松戸市の松戸宿~久保平賀町に9箇所11基の「水戸殿鷹場杭」がある。
1820(文政3)年、高田与清『鹿島日記』[17]に、そこここで群れて草を食べる馬、かまが谷・大和田・千葉などにつづき大変広い事、臙脂鹿毛(ベニカゲ)というどうしても捕獲できず、牧長が神かと不思議がる馬の記述等がある。
1841(天保12)年、前掲『小金紀行』に江戸から流山を経て諏訪神社を訪れた記述がある。野々下を過ぎ、物売る家を過ぎると小金野とあり、諏訪神社前の「諏訪道」を通って上野牧に入ったと考えられる。神社の南が馬場のようである事、神社の東方、駒木の集落前の木戸の記述がある。
1851(嘉永4)年12月15日、吉田松陰『東北遊日記』[3]に、小金駅の後「過駅則広原漫々 即小金原 而幕府操場也 見野馬九匹」の記述がある。
1855(安政2)年、赤松宗旦『利根川図誌』に、『附手賀沼邊紀行』として宗旦の友人が安政大地震の直後に上野牧を訪れた時の紀行文があり、『鹿島日記』を引用し、臙脂鹿毛、林冠が蓋のような松並木、水戸家の鷹場、時刻が遅いせいか馬を見かけなかった事の記述がある。
1868(明治元)年、4月12日、徳川慶喜が松戸に一泊後、通過、随員は西周や護衛の精鋭隊、高橋泥舟を隊頭とする遊撃隊等であった[46]。 1885(明治16)年12月6・12日、天皇が茨城県への往復の途上、水戸藩主と同様に、松戸・小金・柏で休憩、柏での休憩は牧跡外の寺嶋五兵衛宅[16]で、旧寺嶋駐車場裏に石碑がある[47]。 1889(明治20)年4月3日、正岡子規『水戸紀行』[3]に、小金駅の後、縄手道を通り、我孫子まで約2里の所の食事を出す「むさくろしい」家で東京と違い杓文字を杓子と言う話、ふかし芋を売る店の記述がある。家のようす、縄手道、道程から牧跡の手前と推定されるが、牧に関する記述はない。
1920(大正9)年、田山花袋は『東京の近郊』[3]常磐線に、北小金を過ぎて牧に入り、通過の度、一茶の「時雨るや」の句が口から出る等と記し、土手の残存による牧の境界の明確さと、牧の知名度が示唆されるが、牧の東縁に当たる柏駅を牧の中央と記している。
品種改良用に輸入されたペルシャ馬が死亡した事に因むオランダ観音が流山市東初石5丁目にある。観音は2体あり、1676年に一基が、1868年にもう一基作られたとの事である[48]。11月第一日曜日に「オランダ観音祭り」が行われている。 同市美原三丁目にはオランダ様という馬頭観音がある[49]。栗毛の牡馬が暴れ、人を傷つけたため、野馬方で市野谷の鈴木庄左衛門が命を享け銃撃、住みなれた地まで逃げ水を飲んで死んだという伝承がある[16]。ペルシャ馬の放牧は、幕府による初期の上野牧の重視を示す。
家斉の鹿狩の際、上野・高田台牧の馬、計48頭は、佐倉牧の矢作儀へ移された[16]。
1869~1872年の豊四季への東京移住窮民は80戸263人、近傍移住窮民122戸437人、1883年163人が授産処分を受けた[4]。
安田初雄(福島大学)『本邦における近代置付放牧に関する地理的研究』[50](以下、安田論文)に当牧と高田台牧を中心とした詳細な記述がある[51]。
以前、南柏駅改札口前に風除けがあり、今も野田市街に突風注意の看板がある程、当地域には強風が吹き、明治以降も農地・家屋の風除けとして役立った土手がある一方、明治以降築かれた風除け・土地の境界・土止めの土塁もあり、該当する迅速測図[52]も土手の位置がずれ、位置の特定には注意を要する。
[編集] 捕込
捕込跡地は当初「捕込学校」とも呼ばれた柏二小で、1985年まで捕込の形を模したという池があった。裏手に捕込に続いていた土手が約30メートル残り、柏二小のホームページにも記述がある[53]。1972年頃まではさらに東に延び「く」形で、特に捕込に近い所は今より急峻だった。捕込の北半分は明治45年頃までほぼ完全に残っていた[16]。日光街道まで延びていた捕込の土手は1965年を最後に失われた。捕込には街道側に2箇所、南に1箇所の開口部があったが、街道側北の開口部の位置に同小学校の正門がある。開口部を1箇所とした資料の場合も正門と位置は一致する。『見取絵図』には一之牧取込土手と記され、二つの区画、2箇所の街道側の開口部、捕込土手上の数本の松と見られる木、街道向い側で街道に少し突出した土手がある。『幸谷観音野馬捕りの献額』[19][37]は、綿貫夏右衛門の寄贈で、上野牧の捕馬とされ、図中に九曜紋[54]がある事もこれを裏付ける。馬の捕獲と多数の見物人や複数の屋台等が描かれている。
捕込の南、稲荷神社前交差点から約300メートル南の日光街道、字捕込(とりこめ)に以前「鳥込」バス停があり、西に捕込南側の囲土手の一部と見られる土手が少し残る[42]。付近では「とりごめ」と言う事が多い。『見取絵図』に街道と直交する土手に「大込土手」とあり、捕込の周囲にあって、捕込の前に馬を追込む囲土手であった事を示す。 捕込の北、日光街道沿い字一本松に、江戸時代からあった一本松の下に、明治期に建てられたという一本松稲荷がある。捕込の松とともに、水戸街道同様、道標の役割があり、捕馬の際の目印になった可能性も高い。 『旧事考』にある高田台の捕込については高田台牧で述べる。
[編集] 地誌
柏二小南の稲荷神社境内に開拓百年の記念碑、岩倉具定が土地を地元に売却した事への岩倉公爵報恩碑がある。昭和初期の地形図では、西方、今の凸版印刷の工場がある所に土塁で囲まれた土地があり、岩倉具定の屋敷跡の可能性がある。付近から北は江戸川台にかけ、日光街道西側は、流山市となった土地が多い。北の富士見の稲荷神社に、大正10年の開拓記念碑と大正15年の開拓民の収入源となった木釘の木釘記念碑がある。 南は、柏市弁天谷・流山市松ヶ丘千ヶ井の境界-南国道6号において、牧の西縁は市境にほぼ一致する。弁財天から南東に約400メートルは堀が、その一部には大土手も残されている。国道の北約500-100メートルの区間では、市境沿いに野馬堀をはさむ二重構造の野馬除土手が残り、緑地公園として保存されている。二度屈折するため、残存する土手は約700メートルある。小金牧中、最も保存状況の良い区間である。北の過半が失われたが、途中一箇所と、土手の北端の字千ヶ井で谷津に落ち込む斜面に各数メートルの土手が残る。県教委[30]は遺跡・遺構として示していないが、使用している地形図には土手として記載されている。松ヶ丘に笹堤、赤堀の字がある。捕込の囲土手は別に東にあった。
国道北約100メートルの地点で野馬除土手から勢子土手が分岐-北東-日光街道手前に、中心線から南半分が1990年に削られた土手を含め、約250メートルが残る。勢子土手は1970年代末まで大土手と直接続いていた。先の日光街道北東、旧字中土手-新富町一丁目のスバル裏、約150メートルにわたり、高さ2.4メートル以上の土手が良好な状態で残る。迅速測図欄外には土手の高さが2.5と記され、今もほとんど崩れていない事が判る。日光街道南西より少し南にある食い違い構造で、捕馬の時、土手の南を土手沿いに北東へ進んだ馬を土手の北に出し、街道を捕込へ誘導したと考えられる。スバル裏の土手の分岐については後述する。さらに北東-1999[55]・2000年掘削跡地の家屋の列-レクサス・飲食店裏に約50メートル残り-道-駐車場のコンクリート壁に痕跡-直径約2メートルの塚状の土手が残る。レクサス裏の土手は2011年12月、縦割りに北西の半分が削られ、多少移動された形でレクサス敷地内に残る。レクサスの敷地に、1976年頃まで牛舎があり、土手が境であったが、一時あったゴルフ練習場建設時に北東部分が削られ分断された。さらに先では、塚状の土手-柏市立旭東小学校手前で東へ少し折れ-国道南の質屋裏の道-サンキ裏-柏神社斜向かいに土手があった。迅速測図では、旭東小-柏神社ではなく、旭東小・気象大間で分岐-流山街道沿い-サンキ裏-柏神社横であるが、市境-旭東小の土手の位置が不正確なためとも考えられる。1929(昭和4)年の松井天山の鳥瞰図に字乗馬ヶ谷の千葉県立東葛飾高等学校(東葛)の通用門付近に樹木の列があり、現「かどや」が「三角屋」として、移転前のホンダカーズ柏の基となった泉屋輪店が描かれる等、名称を除けば、建物の描写も正しく、通用門付近に土手があった可能性が高い。
スバル裏にT字形の分岐があり、南東へ直角に分岐-約50メートル残り-国道南東-ホンダカーズ西-小さな食い違い構造[56]-約120メートル残-道-常磐線-水戸街道の土手があった。国道-食い違い部分は2010年2月末に柏市によって削られ、車止めのため車椅子の通行が困難な歩道となった。この柏市内で唯一残る土手の分岐は、街道の所で誘導を漏れた馬を止め、東、元字吉野沢の小川への進入も防いだ。土手沿いの小道は古く、常磐線に利用者の少ない歩道橋がある。食い違い構造-北東の短い土手もあり、全体で南東が上の左右逆の「上」形であった。短い土手の痕跡は地表にはない。食い違い構造は短い土手の掘削時に結果的に生じた可能性もある。小川は1960年代末、国道北の土手の北側の住宅地造成に伴い、土手の間をクランク状に抜ける形となったが、その後も少しの間、農業用水にも使われた。食い違い構造付近に三井関係の土地がある。『見取絵図』では、土手を過ぎた後の小川が長沼という小さな沼で、日光街道側から見たため先の土手がなく短い土手を描いたのか、土手を曲げて描いたのか、沼の手前から南へ、土手がクランク状に回り込む形である。
旭東小手前で北西に分岐-気象大学校(気象大)正門手前の土手の一部は1974年頃まで残存した。分岐近くに、江戸時代からあったと推定されるクロマツの大木がかつてあり、切り株が残る[56]。土手は気象大正門手前の小道沿いに北東へ折れ-踏切-東葛正門付近の交差点にあったため、交差点は変形十字路である。踏切南西、市道捕込名戸ヶ谷線沿いに、1978年頃まであった土手の痕跡は、柏市によって整地され、数本の樹木と煉瓦調タイルの物体がある。踏切北東に両側に道のある細長い家屋があるが、南東の小道は用水路の暗渠である。交差点-東葛西-北の谷津にあった土手は道筋の変化により場所は特定できない。東葛の創立記念誌に校地内の西に東西に走る二条の野馬土手の記述があり、一部の痕跡が通称流山街道と平行の東葛敷地縁に1990年頃までは残っていた塀の土台の土塁と考えられる[57]。前述の鳥瞰図の、松林の直線状の縁に相当する。北東、柏駅寄りに21世紀初頭の流山街道拡幅前まであった土塁は、野馬土手とは別と見られる。大正末期の土塁であったが、適切な保全措置がとられず、崩壊が進んでいた。旧豊四季村・柏村間には開墾時の経緯から、かつて確執があり、旧豊四季村にある旧制東葛中~東葛飾高の校章は当初の「三つ柏」から次第に「三つ葛葉」になった。 今の豊四季台団地の土地には、一時期柏競馬場があった。
前述、国道北約100メートルの地点-柏・流山市境を南-水戸街道の土手は、1960年前後に失われたが、跡が土手構築時に他から持ち込んだ土の分、周囲より僅かに土地が高い両側に道のある家屋の列として残る。市境の数メートル程度の微細な凹凸は購入者の住所等、土地購入時の経緯により、二列の土手の位置を反映している。
水戸街道北、詳細な地図で判る流山市の突出部は、水源を含む牧関係の施設跡と見られ、大土手が市境の形に柏市へ突出していた。同所のマンション建設前の空中写真等で突出部の土壌の違いが判る。大土手は市境-水戸街道沿いに折れていたため、突出部がなければL字になるところ、己字状であった。己字の大土手に対し、小土手は突出部から水戸街道へ短絡し、大土手跡に、豊四季・今谷上町の境がある。大土手は街道側の半分が約50メートル残り、街道側の土地は柏市の公園と資材置き場であるが、保存状態は良くない。大小の土手は合流-北東-わずかに街道から離れた街道沿い、にあった。過半の小土手は早期に失われ、大土手だけが店舗の列のすぐ北西側に、店舗の敷地より多少高い程度、北西から見ても1メートル強、20世紀末まで大部分が残っていた。水戸街道沿いの土手のうち、市境近くの大土手を除き、約400メートルあった土手は残っていない。県教委[30]は遺跡遺構として示していないが、使用した地形図の図版が古く、土手の記号がある。すべて、柏市による駅前の道路整備と再開発により失われた。南柏駅東口前の土塁と水戸街道近くの野馬土手跡に隣接した公園の土山は、野馬土手でも跡地に復元したものでもない。
初期には柏・流山市境を南東へ土手が延びており、今も一部が向小金野馬土手[30]として残る[42]。享保以前、約300年前の古土手である。市境沿いの先では、流山市による麗澤大学構内の発掘調査の記録がある。麗澤高校ホームページに流山・柏市境と下田の森の野馬除土手に触れた記事がある[58]。
茨城県立図書館蔵・正徳5年『駅路鞭影記』[45]に、牧内での水戸街道の目印ともなるよう徳川光圀が命じて(令して?)牧士頭が松並木を植えたという伝承と新木戸に当たる木戸と番人の記述がある。牧内の水戸街道沿いに字並木がある。旅人が迷うのを憫んだ光圀が、金を小金牧司綿貫夏右衛門に付し松千株を植えさせたとする伝承もあり、大正期には、今谷新田から柏までの道の両側に残っていた[6]。
市境-北東、同街道沿い2003年まで残存の土手が豊四季・今谷上町の町境の形に折れ、同街道に突出した字新木戸に新木戸と呼ぶ木戸があった。日光街道との分岐やバス停「新木戸」より西である。房総の牧の中で紀行文に最も多く記録された木戸である。『小金原勝景図』[59]は木戸を牧の外側から見た図で、遮断機のある木戸・木戸の左の茶屋と水源・木戸の右の家・野馬除土手等の描写がある。木戸近くの今谷刑場では、幕末に処刑が行われた記録がある[60]。迅速測図では街道がスプーンカーブ状になっており、今も、車道はほぼ直線だが、歩道の幅が場所によって違い、道全体はわずかにS字状である。『見取絵図』には検問所のように折れ曲がった野馬除堤と木戸・番ヤ・木戸近くに「是ヨリ野馬御用地」の文字、現市境付近の小屋の記載がある。 1758(宝暦8)年、土浦藩主によるとされる[61]『土浦水戸道中絵図』[45][42]には江戸側から牧に入る際の、街道に突出した土手沿いに右-木戸-右-2度左-右と折れ牧に入る道が描かれ、土手と木戸の様子は現在の詳細な地図での町境とほぼ完全に一致する。近くの別雷神社は1870年創建、茨城県からの勧請で、前述「とりごめ」の発音は入植者により訛が持ち込まれた可能性が高い。新木戸の北側を構成し、水戸街道まで残っていた土手は、柏市による歩道建設で失われた。
木戸の江戸側から土手は南南東-SDAキリスト教柏教会の所で屈曲-北東にあった。大部分両側に道があり少し土地が高い家屋の列以外ほとんど痕跡はない。東武野田線西に点状の跡があり、線路際の壁も少し高い。東武野田線との交点には豊住歩道橋という跨線橋がかけられ、馬の絵が描かれている。線路南東、ローソン前にかけ、土手が約150メートル残る。土手の終点が谷津の頭で、教会の屈曲点が上野牧南端跡である。付近の道はかつての急傾斜を反映し、S字状である。迅速測図の欄外に、東武線付近での土手は二重で、大土手が高さ3.5、上辺4.0、下辺8.0の台形、堀が幅6.0、底幅2.5、深さ3.5、小土手が底辺3.0の半円形の断面の記載がある。『千代田村誌』は新土手の多くが一重で低いとした上で、市境から続いていたこの野馬土手は「新土手ながら二重」としている。
ローソン前の土手末端から東は、谷津の縁が牧の縁であった。日立柏サッカー場グランド前(日立台)、旧名戸ヶ谷の谷津から土手が、緑ヶ丘交番まで約50メートル残る。東側は谷津の斜面と一体となった構造が残るが、西側は埋め立てにより大土手だけが残る。1944年までは土手の南端が西に折れ、小さな砂防ダム状の形で、ラーメン店の所にあった谷津頭を分け、牧内の馬の水飲み場とするが、馬は牧外に出さない巧妙な構造の痕跡があった。交番から北の土手跡に僅かに高く両側に道のある家屋の列がある。 土手は柏市立柏第三小学校裏-わずかに折れた土手を道が斜断した所での土手の痕跡-柏神社西隣、にあり、水戸街道を横切る所に柏木戸という木戸があった[60]。柏木戸は前掲『水戸土浦道中絵図』では、牧から右-左-木戸-直進して牧を出る形で、新木戸より単純な構造である。木戸跡近くの牧境界沿いに、水戸藩主の休憩所にもなった茶屋が「水戸屋」ビルとなって残り、水戸屋が水戸藩主の命で建立した櫻株稲荷神社も現存する[60]。柏市[62]によると、創業が寛永15年頃、水戸徳川家から弁当箱と象牙の箸も拝領、2003年まで旅館を営んでいた。
柏木戸-柏駅北の土手と、柏神社斜向かいの柏市中央町-前述の市境への勢子土手に続く土手があり、前者は柏市立柏第一小学校(柏一小)正門付近で、同校敷地内と西北西へ分岐していた。このため、同正門前の交差点は変形十字路である。西北西の土手は国道6号北-柏高島屋第二駐車場前-柏駅付近-あさひ通り沿い-乗馬谷の谷津と折れて続いていた。柏神社-柏一小の土手沿い牧外側の道がマクドナルドJTB間の道、旧柏・豊四季の境で、土手が牧の東縁であった。前述の鳥瞰図には、柏神社-柏一小の土手の途中、建物が現存する石材店と名称は違うが銭湯の前から、柏神社-旭東小の土手をつなぐ位置の密生した一列の林がある。牧や野馬土手との関係は不明だが、鳥瞰図には柏駅近くの「小松園」に小山が描かれ、後の同園の写真に土塁がある。柏駅周辺最古の道の一つで、ビックカメラ裏に利用者の少ない歩道橋がある。国道北には北面した赤城神社があり、神社の南側が跡だった事を示唆する。
初期には、前述の呼塚は牧の外であったが、南へ、駒込、柏市立柏第五小学校のある野馬木戸、刈込作の字が続き、以前の広がりが示唆される。
明治期、現柏駅構内と付近の開墾は遅れ、駅・線路への用地転用が容易だった。青木更吉はホーム構築時、土手の土がその一部になった可能性を指摘している。柏駅近くでは、『柏市史』収録の大正12年『千代田村史』に柏一小裏から名戸ヶ谷まで、自然に崩れた所もあるが、二重の旧土堤が残るとある。柏駅付近では、前述鳥瞰図に、土塁のある医院等が描かれ、昭和初期のかなりの残存、1955年の空中写真でも駅前通り付近での残存が判る。周辺の家の建築時、土手の土を使い昭和初期までに完全に破壊されたという話は、一部で行われた可能性はあるが正確ではない。土手構築時に土を取った堀を埋めれば他から持ってきた土以外は余らない。
赤城神社から西、柏市豊四季・篠籠田境=旧篠籠村南縁が牧の北東縁にほぼ一致、断続的に土手が篠籠田市民緑地等に残る。緑地の土手は三重で、緑地の整備以前は道の脇まであった。柏市が積極的に残した稀有な土手である。牧の縁は豊上町の谷津が入り込んだ後、流山市との境に達していた。付近では谷津の斜面は低く、台地の縁の土手は堀によって縁を分離するように築かれた。土手と台地の高さがほぼ同じで、斜面の下にあるような形であった。柏市立柏第六小学校西に土手が残り、南の道と東武線間に土塁跡がある。空中写真から、線路の南にも続いていた事が判るが、単に配管の埋設跡等の可能性もある。北の篠籠田と豊四季の境付近で野馬掘の発掘報告がある[30]。
『見取絵図』には捕込の北西、柏市豊四季字道灌坂と街道西の流山市野々下字道官堀の道官堀の北西に「列卒土手」がある。列卒は勢子のことである。駅の東南の小さな谷が地形上、堀の場所と一致し、線路近くに短いが所有者によって針葉樹が植えられ保全された土手が残る。 南、流山市野々下に、少なくとも二箇所に土手があった。野下とも書いた野々下には、日光街道際の御成堤、その西の土手内、元木戸、北の土手外の字がある。野々下の土手のうち、字土手内と南の字元木戸の間に二重土手が約60メートル残る。
豊四季駅の南西、流山市長崎に、分断されたが、四重土手が残る。千葉県道278号柏流山線北にも土手があったが、付近は現流山市になり、日光街道西側が、すぐ近くの柏二小の学区外になった。牧内の新田開発、入り組んだ谷津により、付近では牧の縁が入り組んでいた。流山市長崎は元禄『下総国絵図』に「野々下村之支郷」とあり、元は一緒だった事も縁を複雑にした。牧の西端は野々下と長崎を抜け、柏市の西への突出部まであった。ここの谷津の縁に土手が残り[42]、付近に、牧士を務めた旧花野井家住宅があったが、野田市に移築された。
牧内には祠等を除き寺社を置かないのが原則で、豊四季駅北の、流山市駒木、馬の銅像が建つ前述の諏訪神社は一部が残る土手・堀で仕切られ牧外に当たる。源義家および付近の鞍掛・鞍林にある鞍掛の伝説については同神社の項参照。西の古間木(フルマキ)は古牧の意と考えられる。日光街道と交差する道が流山の諏訪神社前を通る諏訪道で、諏訪道が水戸街道に当る所のすぐ北が、柏木戸跡で、北東に進んだ所に柏の諏訪神社がある。
駅の西、線路南側、日光街道のクランクが間を通っていた土手は、『見取絵図』に図だけで示され、字市野谷新木戸とあるが、木戸の図はない。東西に走る柏・流山市境にあった土手[49]だが、住宅地の縁の線と店舗の駐車場のアスファルトの継ぎ目に痕跡を残すのみである。土手の北は、初石新田であり、上野牧は南北に分かれた形で、日光街道は一度牧南部から外へ出ていた。土手は街道の西の谷津まで延び、土手の南が字立野で野馬立場だった事が示唆される。
一度、牧を出た日光街道は、東武線西、西初石の十太夫野馬土手[30]の所で牧北部に入ったと考えられるが、2011年時点、土手の痕跡はない。 東武線の東で、牧が北から十太夫新田に突出しており、牧と新田の境の土手が、流山おおたかの森駅東に近年まで複数残っていたが、多くはつくばエクスプレスと周辺の工事により失われた。流山豊四季霊園の西に良好な状態の土手が残る。北は十太夫野馬土手、南は東-北へ折れ、牧を取り巻き、柏・流山市境を江戸川台の土手へ続いていた。
流山おおたかの森駅西方、京葉銀行近くの畑沿いの土手[56]は、前述の日光街道のクランクの北で、市野谷に続く谷津の西縁、新田と牧の境に当たり、野馬除土手があった場所の条件に合致するが、関係は不明である。
上野牧の北端は現江戸川台駅北、旧東深井村、東深井木戸前の南であった。ここで日光街道は牧を出、『見取絵図』には水戸街道ほど複雑ではないが、牧側に向かって開いた柵・番屋・街道に突き出て食違い状になった野馬除土手が描かれている。村落や寺・神社、先の宿場等が水戸街道の柏と類似する。 北東、東武線東の林に上野牧北端の二重土手が残る。迅速測図から、土手の南は、すでに薪炭林等であったと考えられる。終戦後の空中写真に、東武線と土手の交点-柏飛行場の線があり、付近の土地の所有状況の差がうかがえる。土手から南が江戸川台となった。 迅速測図には上新宿村から東往還の少し西を北上-東に折れ東深井南で東往還を横断-東の谷津の線があり、実際の土手の場所と一致する。谷津近くでは線上と、すぐ南東に別々の測量点があり、塚の存在が示唆される。旧上新宿村のこんぴら緑地-北へ約500メートル、一部二重土手や堀も含めて土手が残る。土手の北端の少し東-北-跡地の一部と見られる細長い緑地-流山市立北部中学校南東の空き地の痕跡-中学校東縁と隣接した細長い土地に土手があった。中学校前から西に向かって、道は下り坂となる。1987年『中野久木谷頭野馬土手』発掘報告書[40]が出されている。中学校の西に字囲ノ内・谷頭があり、中期に中学校付近が新田となった可能性もある。『見取絵図』には街道・平方新田間の土手があり、中学校前と見られる道を境に、北の土手が西にずれている。中学校前-北の道沿い西側(痕跡なし)-流山市美原に少し崩れてはいるが、土手が残り、道との間に野馬堀跡の用水路がある。ここから東へ折れ、北端の土手へ続いていた。
江戸川台駅東に高田台牧との境界であった高さ2メートル程の土手が流山市の施設敷地等に残る。上が少し削れ南に向け低くなるが、木立がありやや良好に残る。南では低いが緑地内にやや良好に残り、東側に堀跡と見られる湧水が流れる溝がある。土手の東、十余二に含まれる柏市西原は、高田台牧の一部であったため、土手は高田台牧との境であった。
流山市立博物館に常設展示、バス停大木戸近く、 柏市郷土資料室[60]に、三井の管理人市岡晋一郎、住民の指導者石塚与兵衛等、牧に関する展示資料がある。
[編集] 高田台牧
高田台牧(たかだだいまき)は柏市十余二・高田・西原にあった牧で、西は流山市との境に達していた。十余二に含まれていた西原はY字状の谷津と新田により、牧では半飛び地状の形で、今の柏市でもその形を引継いでいる。初期には上野牧と一続きで、正連寺を経て大堀川支流の地金堀源流を回りこみ、東の花野井や宿連寺に達していた。その後も上野牧とは大堀川のある篠籠田の谷津をはさんで近接、現江戸川台駅東の流山市との境で接していた。1879・80年、若柴・大青田・松ヶ崎の各村による合計27町歩以上の官有地の払受けがあり[4]、これらの地名にも牧跡が含まれる可能性がある。『東葛飾郡誌』に高田牧ともあり、高田原牧ともいう。『旧事考』には高田台牧がなく、大青田牧があり、縦横1里、捕駒の地は大青田とあるが、同じ著者の『北総詩誌』[2]では高田台牧がある。『日本地誌提要』には記載がない。
1810(文化7)年、流山によく滞在した小林一茶は『七番日記』に「6月14日晴小金原 下陰をさがして呼ぶや親の馬」の後、布施村での中(昼)食を記し、高田台牧か上野牧での句である事を示す。牧内での禁煙を示す「時雨るや煙草法度の小金原」や「永き日や煙草法度の小金原」「母馬が番して呑ます清水かな」も旅程・天候・季語から同様と考えられる。
『旧事考』にある大青田牧は、上野牧同様、捕込の場所に基づく高田台牧の別名とすると、捕込が大青田近くにあったと考えられる。大青田は、江戸時代、すでに新田であったため、該当する場所は、大青田に隣接した十余二伊勢原である。『鎌ヶ谷市計画書』収録の古地図にある2つの捕込のうちの1つと考えられる。大青田の北西に馬場の字があり、伊勢原には3つの土手が残り[42]、その西には流山市青田との間に1989年頃まで東西にはしる野馬土手があったため、伊勢原の西にあったと考えられるが、迅速測図にも痕跡がなく、完全な場所の特定は難しい。同様に、古い捕込の可能性があるが、千葉県教育振興財団『房総の近世牧跡』[63](以下、牧跡)掲載の『小金上野高田台両御牧大凡図』に高田台新込とあるため、新しいが使用期間が短かった捕込とも考えられる。図によると、柏市西原の東、柏市の半飛び地の付け根、ヨークマート付近と推定され、『柏市郷土資料室』でも同様の推定をしており、1952年修正の地形図でも青田との境に接して北東が上の「し」形の土手がある[64]。
迅速測図では、十余二の西、柏・流山市境に、新しいか使用期間が長かった方の捕込の跡がある。『安田論文』掲載の平面図によると、広義の捕込はほぼ正方形で、東半分が長方形の狭義の捕込、西半分のさらに北半分が溜込、南半分が分込である。つくばエクスプレス(以下、TX)際の墓地に当る。1949年の空中写真で区画が明瞭に、1961年でもある程度も認められる一方、すでに1928年測図の地形図で、捕込周囲の土手内に墓地の印が記されているため、捕込内部の土手が残る状態で墓地になったと推定される。現在、捕込の土手は全くないが、墓地の区画がかつての捕込の区画を反映していると考えられる。墓地の南東の一部は道路によって削られた。旧高田村北の台地=高田台であり、上野牧からは谷津を隔てた回り道になるが、『旧事考』の上野牧の捕込があるという高田台に地名が一致する。
牧の面積に比べ土手が多く、多くの土地が大日本帝国陸軍の柏飛行場・高射砲陣地設置、アメリカ合衆国の接収、朝鮮戦争時の再接収、冷戦期の柏通信所設置を経て、現柏の葉一帯の返還が遅れ、他の牧と比べ多くの土手が近年まで残っていたが、TXの、残存した土手を結ぶような敷設[49]と周囲の開発で、多くの土手が21世紀になってから失われた。陸軍が築いた土塁があり、判別に注意を要する。 柏の葉庭球場の池から地下水位の低さが判るように、農業用水が不足した場所が多い。
特に高田台牧では、明治の開墾後、三井組が直接土地を所有し入植者が小作農となる事が多かった。三井不動産に引き継がれた土地、米軍からの返還後、再び三井所有となった土地が多い。
法廷闘争や土地所有を有利に進めるため、三井は十余二出張所の建物や一部の土地を有力者に渡した。1879(明治12)年、大蔵卿大隈重信が「流山庄十余二」の土地を三井八郎右衛門(高福)より市岡晋一郎を経て取得した記録が早稲田大学史資料センターに残り、土地は9町4反歩余り[4]であった。翌年の迅速測図の現柏特別支援学校付近に、土塁内の敷地だけで100メートル四方を超え、L字型の大家屋と3家屋を含む「大隈邸」の記載があり、出張所の特徴[9]とほぼ一致する。迅速測図の測量点にもなり、1974年の空中写真でも堀と土塁を有した約120メートル四方の敷地跡が確認できる[65]。西と南の土塁に勢子土手を転用したと見られる大隈邸と同校の敷地とは若干のずれがある。大隈が東京まで通勤した記録はなく言わば別荘・領地であった。三井文庫に、明治8年~10年、大隈や青木周蔵の見分、岩倉具視への土地献納の記録がある[9]。鍋島藩主の側近が土地を所有していた事を示す資料も千葉県文書館[66]にある。早稲田大学史資料センターに、高田村~豊四季村の住民の『旧小金原開墾地払下願書』があり、大隈と土地の関係を示唆する。
『東葛飾郡誌』による1869~1872年の東京移住窮民6戸25人、近傍移住窮民72戸202人、1883年授産処分を受けた窮民493人である。
十余二の民芸駐車場の一隅に厳島神社があり、千葉県知事筆の開墾記念碑の裏面に「大隈及鍋島等」が土地を所有し戦後まで入植者の物とならなかった事が記され、隣に明治期の馬頭観音がある。
『千葉県内碑石一覧』[3]によると、田中村十余二庚塚雷神宮境内に大正14年『自作農制定記念碑』、十余二伊勢原大神宮境内に明治23年『小金原開墾碑』が建てられた。
守谷街道=千葉県道47号守谷流山線沿い、店舗・高田原交番間の陸軍東部百五連隊の旧営門に跡が残る土塁は陸軍により築かれたものと見られ、少し北、自衛隊敷地南の東西方向の道の南側-東-「大隈邸」跡地南縁-民芸駐車場-高田原ふるさと会館裏に土手があった。高田原ふるさと会館裏には土手が残り、土手を切った小道は切った所だけ幅が広い。さらに東で、北からの土手と守谷街道南、捕込付近からの土手と合流していた。街道南に土手が残る。
「大隈邸」南縁に前述の土手、西縁には南北の土手がかつてあり、北はYの両脇に八がついたような形で、南は流山市との境、捕込跡の墓地近くに達していた。
大隈邸の北、Y字の北半分は早期に軍用地となり痕跡はない。捕込の東に、かつて続いていた東西の土手と北東-南西の土手が残り、さらに大隈邸-東の土手と続いていた。北東-南西の二重土手の一部が失われた際の調査報告書[67]がある。東の柏市若柴に馬具山の字がある。
ゴルフ場跡地の北、前述の大堀川・地金堀の水源の一つであるこんぶくろ池は原状を最もよく残した馬の水飲み場である。森林と池があり、生物多様性の保持に効果がある。池の南に東西の土手の列と、列の西から南、弁天池横-元十余二の柏の葉の東縁に残存-国立がんセンター裏に残存(2010年)-自動車教習所による分断消失-前述の柏市庭球場の池の東(2005年残存)-原状不明-千葉大学環境健康フィールド科学センター東縁-千葉大敷地沿いに西へ折れ-東南へ折れ-大隈邸から東の土手に接続する野馬除土手があった。千葉大の東縁の北半分は土手の痕跡の可能性があるが、南半分は柏飛行場の掩体壕が近くに築かれた頃、削られたと見られる。東のららぽーと柏の葉等がある一帯は三井不動産系のゴルフ場跡地で、県教委の地図[30]にはゴルフ場の表記がある。柏の葉に三井住宅バス停がある。
国道16号東、TXとの立体交差の北-旧正蓮寺集落西縁沿い-北の香取神社脇まで、低いが木立の中に両側に道のある土手が450メートル以上残る。
柏インター付近、こんぶくろ池の北に当たる、十余二と大青田新田飛地元割の境にあった土手[30]は1979・1980年の調査後失われた。
柏インター東、十余二の北縁の道沿いに、1967年改測の地形図まで土手の表記があり、野馬除土手と見られる。
柏インター西、十余二伊勢原の流通経済大学付属柏高等学校(流経大柏)内、道路際に、公有地では保存された土手が少ないのと対照的に、良好な状態で二重の土手が残る。また、サッカーグラウンドと野球グラウンドの間にも土手が残ると見られる。
柏インター南、柏の葉西側、流山市半飛び地との境付近と、南に前述の守谷街道沿いの土手の一部が残る。 江戸川台駅東、前述の上野牧との境のほか、柏市西原の東、流山市との市境に土手が残るが、多くは失われた。1993・1998・2005年の『青田御料野馬土手』の発掘報告書がある[40]。青田御料と別に西原に字御立山がある。
柏市、県道7号我孫子関宿線花野井木戸交差点北東に花野井の牧士旧吉田家住宅が現存し、柏市が2009年より公開している。関係は不明だが、南東の宿連寺バス停に土塁があり、『安田論文』の地図には不鮮明ながら付近の木戸を示す記号があり、南側に字木戸ノ内がある。吉田家住宅は迅速測図でも確認できる。
元十余二の大山台モラージュ柏の北の町界沿いに、かつての「フ」形の「ノ」に当る土手が残り、北の集合住宅の庭園のような外観を呈している。
大堀川北、高田台牧南縁=旧高田村集落北縁には、西から東へ、流山市成願寺近くの流山・柏市境-柏市高田聖徳寺との中間に約90メートルずつ2箇所、熊野神社-満徳寺に断続的にかつての過半の約700メートル野馬土手が残る[42]。さらに先、柏市立柏第四小学校の東、国道16号の切り通しに、台地の縁の二重の野馬土手と堀の断面が見られる。東の延長線上、国道の東、トイザラス駐車場の南の土手は、トイザラス開業以前の空中写真で該当場所の樹木が高い事、土手上に樹齢20年以上の樹木がある事から、全部ではないにせよ、野馬除土手の可能性が高い。トイザラス前の道の東では一部二重の部分もあるが、野馬土手とは断定できない。さらに東、香取神社東の野馬土手[42]はほぼ失われたと見られる。
榎戸の表記もあるが、柏市立西原小学校によると、所在地は元々十余二字榎木戸で、校内には野馬捕りや開墾の絵が掲示されている[53]。
[編集] 中野牧
中野牧(なかのまき)は現在の松戸・柏・鎌ケ谷・白井の各市におよび、上野牧が一度の開墾でほぼ豊四季だけとなったのに対し、初富・五香・六実と三分して開墾された事、一本椚牧を吸収した事でも判るように、小金牧中、最大の牧であった。五香六実は後に一つの大字に統合された。新京成線では旧称金ヶ作の常盤平-初富の各駅が牧跡にある。
『旧事考』に、縦は東で3里、西で2里、横1里、牡牝約300、捕駒の地が中澤、別に、俗に日暮という幕府騎乗の牧があり、牡牝約300、捕駒の地は金ヶ作とある。
『日本地誌提要』に、下野牧とまとめて、東西凡28町10間、南北凡3里18町42間とある。
1687(貞亨4)年、松尾芭蕉『鹿島詣』[3][68]に「やはたという里を過ぐれば、かまがひの原という廣き野」とあり、道筋と道程から、市川市八幡-下野牧の北-厳密には吸収される前の一本椚牧-印西牧を通過したと考えられる。
1765(明和2)年、『房総叢書』収録『金ケさく紀行』は、牧監の命で牧馬払下げの証明に関し金ヶ作を訪れた記録で、船橋から(市川)大野・大町新田を経て金ヶ作に至る事、牧師が日暮に住む事等が記されている。
1805(文化2)年、秋里籬島『木曽路名所図会』[69]に鎌ヶ谷大仏と、近くの野馬土手とも見られる土塁と馬がある。
1814(文化11)年、『江戸叢書』[3]収録の釈敬順『十方庵遊歴雑記 江戸惣鹿子名所大全』[70]に、木下の路筋は鎌ヶ谷より白井までのニ里余の間、皆小金原の続きで、馬が何匹もいて、広い野のため、道がいくつあるか知らない旨記され、『木曽路名所図会』とよく一致する。
1825(文政8)年、渡辺崋山は『崋山全集』[3]収録『四州眞景紀行之部』に「釜谷原放牧、原縦四十里横二里或は一里と云、即小金に続くどぞ」と記し、スケッチを残した[68]。
幕府は中野牧の馬を将軍の乗馬に用い、将軍が鹿狩を行うほど、中野牧を最重視した。また、小金牧と同じ台地上にあり、水戸街道の宿場でよく知られた小金宿から小金原の名が、さらに、小金原から小金牧の名が生じ、中野牧は小金牧を代表する牧であった。『土村誌』[9]によると、江戸時代以前の小金原の名は確認できない。今も松戸市に「小金」のつく地名があるが、駅前とともに野馬奉行屋敷跡に当る北小金駅は牧の北、流山市向小金は上野牧との間で、いずれも牧外で、今の小金原は中野牧のごく一部である。 歌川広重・国芳は小金原御鹿狩の絵を描いており、他の小金原関係の絵も中野牧を描いた可能性が高い。 前述『嘉陵紀行』の日ぐらし山・五助原・白子は、御囲場があり三方が谷津の日暮・字五助・捕込のあった白子に当たる。谷津と今も一部残る仕切土手によって中野牧内が分けられていた事を示す。
『東葛飾郡誌』によると、1869~1872年の東京窮民、近傍移住窮民、授産処分を受けた窮民は、初富170戸536人、28戸111人、185人、五香六実114戸433人、13戸52人、109人である[4]。 1922年、農商務省食糧局『開墾地移住経営事例』[3]高木村大字五香六實の項に、東京の無資産士族だけでは開墾が進まず、最初の約300戸のうち残ったのは37戸、222人、後に県内からの移住者・分家を入れ、分家による15戸を含め119戸、595人が残った、開墾のための金品貸与を完済した者はないとあり、残った移住者も全員が小作農となった事を示す。
[編集] 鹿狩・鷹狩
鹿狩の内容については小金原御鹿狩参照。将軍の鹿狩は、将軍の権威を広く知らしめる軍事演習であり、新田の視察、害獣捕獲の側面もあった。大規模なもので、1825(享保10)年から、吉宗2回、家斉・慶喜同行の家慶各1回が行われた。寛永期の家光の鹿狩の伝承は、小規模だったらしく記録が定かではない。家斉の狩の前には中野・下野両牧の馬は下志津の六方野境田に囲土手を作り集められた[4]。下野牧東方の下志津、六方、木戸場については下野牧参照。
松戸市陣ヶ前は諸説あるが、武将の休憩所=陣に因むとされ、本来は国道6号線の陣ヶ前交差点から約1キロメートル東、国道464線沿いである。 鹿狩の時の将軍の御成道は、大半が鮮魚街道と重なり、松戸宿-千葉大園芸学部・戸定邸下-陣ヶ前-県道281号線-稔台駅付近-新京成線北-陣屋前-後述の御立場である。谷津を除き、陣ヶ前-稔台駅付近の道の南側に、かつて御成道の土手があり、ごく一部は21世紀初めまで残存した。当時の絵図に土手上の道はあるが、道沿いの土手はなく、土手上が御成道の可能性がある。御成道の土手は、本来、野馬土手ではないはずだが、陣ヶ前付近に字野馬木戸があり、野馬土手として認識された可能性がある。今残る土手は無く、松戸市立和名ヶ谷中学校近くのスクランブル交差点横の空き地(2010年)[56]と、北の交差点近く、土手の南にあったはずの庚申塔が土手の幅と位置を示すだけである。中学校前の道は鉄道連隊の軌道跡で、土手を縫うような線路の敷設を示す。
家慶が鹿狩を指揮見物した御立場(おたつば・おたちば)は、五香駅南の松飛台に、陸軍管轄の飛行場の障害として撤去されるまであった。迅速測図には猪見塚(ししみづか)とある。五香公園に碑があり、少し離れてバス停御立場、御立場商店街がある。
今の小金原の殿内交差点・バス停付近に水戸家御鷹場役所跡があり[30]、東は一時期手賀沼まで及んだ水戸徳川家の鷹狩場であった。北に役所表門に因むバス停表門がある。近くの松戸市立根木内小学校のホームページに小金牧についての記述がある[53]。 武田信吉が封じられ、役所西の茂侶神社や松戸神社・本土寺にも光圀関係の伝承があり、上野牧と並び水戸徳川家との縁も深いが、徳川昭武屋敷戸定邸は、御成道沿いの牧外に当る。
文化2(1805)年の『江戸近郊御場絵図』[21]によると、松戸市和名ヶ谷・日暮・河原塚から南は天領小金領で、牧に隣接して、将軍家の御鷹場葛西筋になっており、また、水戸家の鷹場との境には杭があった[16]。松戸市によると、1900年12月、慶喜と昭武が小金で狩を行い、かつての鹿狩どころか、鷹狩とも比肩できないほど小規模であるが、記録に残る中では、最後の将軍と最後の水戸藩主の小金原での最後の狩である。
[編集] 地誌
迅速測図が他の牧に比べ正確で土手が明示され、広大でありながら存在した土手の位置・形状がよく判る。土手が現旧市町村境界となった所、土手を縫うように鉄道連隊線路が敷かれ、後に新京成電鉄新京成線になった所が多い。新京成線に曲線が多い理由とは別に、線路敷設の場所には野馬土手の影響が大きい。
初期には、牧は水戸家役所より北、小金宿付近まで及んでいたが、元禄期までに栗ヶ沢・千駄堀・金ヶ作等の集落ができ、中野牧の北端は集落の南であった。金ヶ作西端には共に天明年間創建の熊野神社と祖光院があり、新田集落の存在を示す。『享保小金原御場絵図』[21]には集落の南が牧の北端として示され、また、金ヶ作に「四十里水場」がある。屋敷林か鹿狩関連の可能性もあるが、千葉県立松戸特別支援学校前のローソン裏のコンクリート壁の所に土塁があった。特別支援学校前にも堀跡のような雑木林がある。西に大作、北西に木戸前、北に横作、の字がある。旧高木村の道路元票は金ヶ作小作台にあった。
東、柏市酒井根下田の森に二重の野馬除土手が残る。さらに東、柏市立光ヶ丘中学校東に短い土塁がある。旧小金町飛び地と旧立野村の境で、大正9年の道標があり、土手跡の可能性が高い。
柏市南増尾クリーンプラザ裏から西、南増尾・逆井境沿いに土手が断続的に残る。逆井駅東から西へ、逆井木戸、木戸尻、木戸前の字があり、馬を捕えた「とったり庄兵衛」が付近に住んでいたとの伝説[60]があり、庄兵衛が捕込まで出向いた外、付近でも小規模な捕獲が行われた可能性がある。旧土村東部の土塁や堀は中世の城館に伴う遺構で、付近の馬場等の地名は増尾城に関連した可能性がある。当牧東部、南増尾地区は享保期に新田となり、迅速測図に増尾新田、今もバス停増尾新田がある。クリーンプラザ北、県道51号北、道と直交する低いが幅の広い、断面が台形の土塁[56]は2010年10月に失われ、土止めのコンクリート壁が残る。増尾駅西に千葉県立柏南高等学校仮校舎があった[71]字増尾木戸がある。
柏市逆井・藤心境の土手跡に土地の段差があり、藤心に字木戸外がある。南東、土手を貫いて作られた東武野田線高柳駅車両基地付近、旧沼南町・柏市境に、土手が残る[42]。谷津に面した土手の内側は明治期の地形図でも集落はないが、土手の外の台地上が牧であった。付近に中ノ牧の字がある。
五香との境に接した六実の高お(雨冠に龍)神社に開拓百年碑と香実会所跡の碑がある。六実は五香と土手によって仕切られていたが、境界は土手より東の道沿いになった。神社東方に籠益の字が残る。籠は菱川大観『奉峯館文集・始観執駒記』に捕込と同じとあり、升と同訓の益は囲・捕込の意であり、御囲か古い捕込の存在を示す。
今の常盤平を含む金ヶ作には、将軍の乗用馬等優良馬確保のための囲い「御囲場」「御放馬囲」が設けられ、多少なりとも集約的に運営された。享保期、中野牧・下野牧を管轄する金ヶ作陣屋が置かれ、幕府牧の内でも、将軍直属の牧となった。『嘉陵紀行』の日ぐらし山に当たる。御囲の江戸側で、八柱日暮近くの陣屋前に陣屋跡の碑がある。迅速測図では門前とある。『江戸近郊御場絵図』[21]に金ヶ作御陣屋が示され、『北総詩誌』に「金作村有大君駐駕趾、寛政中所構云」とある。さらに『享保乙巳小金御成道之図』[21]に陣屋前の道の木の柵と陣屋裏の牧に入った所に「放馬囲之門」が示され、陣屋裏に中野牧内の御囲の一つがあった事が判る。弘化4(1847)年『東都郭外美知志留辺』[72]の・で示された小金原は陣屋を指したものと考えられる。近くに子和清水と三井不動産系のユニディがある。子和は大正期まで多くは古和と表記された。串崎新田、庄内牧、酒々井の古和清水、下野牧の子者清水は、いずれもコワ清水とよみ、養老の滝様の伝説がある。船橋に古和釜があり、コワ=強で枯れないの意とされる。子和清水には前述「母馬が」の句碑があるが、一茶が来た記録はない。流山から市川に行った記録はあるが、途中に寄るには回り道で、市川での句とは季節が異なる。
土手は南の谷津-常盤平子和清水-西-県道松戸鎌ケ谷線の北の旧鮮魚街道南側-金毘羅神社北に残存-五香十字路にあった。常磐平駅=旧金ヶ作駅の南は北・西・南の谷津と、東の金比羅神社東-北西の谷津の土手、五助木戸-すぐ南の谷津の土手で牧内で仕切られていた。金毘羅神社東-北西の土手は印西へ向かう鮮魚街道を横切り、『享保乙巳小金中野牧御鹿狩之図』[21]に、街道を横切る所に印西木戸という木戸が示されている。土手は金毘羅神社の南の谷津まである一方、古和清水-五香の土手はなく、享保以降、印西木戸の役割は次の五助木戸に移され、土手の場所も変わったと考えられる。
五香駅東の五香十字路はかつて北の千葉県道51号市川柏線が西にずれていた(旧道残存)が、付近の鮮魚街道(千葉県道281号松戸鎌ケ谷線)上、字五助に小金の名主五助管理[73]の五助木戸があった。すぐ東が字新木戸で、新しい木戸である事を裏付ける。 『古事類苑』収録『小金御狩記』に、御狩場の原は享保の昔は中の御牧といったが、寛政の頃、二つに分け土手を作り、南部(地方)の馬を放し飼いにしたため、御囲の御牧と唱えた事、御立場のあたりは御囲の御牧、五助木戸より東は中の御牧である事、この木門より南に350間あった土手を崩し御囲中野一つ牧とした事等の記述がある。 真景累ヶ淵速記本[3]に、小金牧・生街道・五助街道の名があり、当時の知名度を示す。なお、真景累ヶ淵の登場人物の一人は鎌ヶ谷に多い姓の設定である。土手はかつて同十字路北東の道の東=五香・常盤平境界-約100メートル残存-北-柏・松戸市境沿いに鋭角に折れ-東、にあり、市境とその延長線上、ベルクス五香店北-旧ダイエー・オウル駐車場北に良好に残る。駐車場北西部に残る木戸跡に、北東の高柳新田への道があった。近くにバス停元木戸、北に高柳新田通小屋の字がある。オウル駐車場東端-同店前の交差点で僅かに北へ屈曲-北東へ屈曲-松戸六実高西にあった谷津頭-南東-松戸市立六実小学校東-北東-ほぼ市境-佐津間北の大津川の谷津に土手があった。 オウル前交差点-南へ分岐-高お神社西-市境の谷津-南西-後述の松戸駐屯地内の土手があった。 松戸六実高西の谷津頭で谷津の両側に土手が分岐-谷津の北の土手は長く延びていた。迅速測図では西隣の谷津跡に当たる松戸市クリーンセンター西の高柳新田野馬除緑地に土手が残り、サラブレッド様の馬のレリーフがある。中野牧の御囲で飼養されたアラブ馬と見なせない事もない。付近は前述の籠益に近く、〆切内・〆切外の字があり、かつての土手の位置を示唆する。県教委[30]によると〆切内に野馬土手遺跡がある[74]。土手は千葉県立柏陵高等学校方向にも続いていた。
日暮の谷津を隔てた南では、東以外を谷津に囲まれた田中新田の東縁の土手が東京都立八柱霊園の東縁となった。土手は現在わずかに残る北端以外、1944年までに削られ、他は霊園内の区画のみに跡を留める。土手跡にサクラが植えられ、春には花の土手があるような遠景を呈する。北に矢深作、南東に茨作、霊園南西の千葉県立松戸秋山高等学校西に馬乗場、北に木戸場、紙敷に馬原作の字がある。南西、市川・松戸市境に字突柵(くぐりませ)がある。
両側に堀のある一重の土手が、五香十字路南-県道57号沿い西側-松戸駐屯地内・一部土手の形状を保った土手跡が約250メートル残存-新京成線踏切の南東の鎌ヶ谷・松戸市境の県道の僅かな屈曲点でオウル脇の木戸からの土手に合流-ごく短い土手が残存-南-駐屯地内「さくら通り」-くぬぎ山駅にあった。新京成線西側の駐屯地内の松戸・鎌ケ谷市境は道跡、付近の新京成線もほぼ道跡だが、少し道がずれた跡が踏切西の駐屯地の形に残る。さらに、くぬぎ山駅西口階段の所で東からの土手に合流-西・南西と屈折-松戸・鎌ヶ谷市境が鋭角をなす地点で、松飛台西の谷津-松飛台十字路で少し折れるほぼ直線状の土手に合流-東にあった。空中写真から松飛台の土手は1944年には失われていた事と痕跡から位置が判る。土壌の色の違いから、土手の土は他から運んで来たと推定される。駅西口の土手は1974年には残存したが、新京成電鉄本社が建ち、土地の境界以外の痕跡はない。 さらに、東-本線の南=市境・車両基地-南へ折れ-市境角で西の市境へ分岐、串崎新田の外枠となった後、南と東の谷津をつなぎV字状で、Vの頂点に串崎木戸があった。車両基地西のやや良好に残る土手は、元は二重の野馬除土手で、鎌ヶ谷市側の堀と小土手は失われた。松飛台の字御囲は本来駐屯地内で、西にバス停御囲があった。鎌ヶ谷市中沢に字秣(まぐさ)場がある。
初期には串崎新田東南-西-南へ屈折-東の鎌ヶ谷市のゴルフ場・西の市川市の霊園間-鎌ヶ谷市中沢字大木戸[30]の土手があった。市川霊園東縁の北端付近の約200メートルのコンクリート塀のある土塁[56]が、1940年代まで地形図に記された土手跡と考えられる。さらに、南北に土手跡が残る可能性もある。
迅速測図の鎌ヶ谷市域の土手にある記号のイは一重の勢子土手、ロは二重、ハは三重の野馬除土手を示す。
一本椚牧は当牧の南の部分、ほぼ初富に当たる。『享保小金原御場絵図』や『鎌ヶ谷市計画書』掲載の享保期の図に一本椚牧、壱本椚牧があり、少なくとも地名としては享保期に残っていた事を示す。『旧事考』付図に、旧粟野村付近に一本椚の地名があり、現在の三本椚近くにあった一本椚に因む名称と考えられる。同図には近くに瓢箪サクの地名と池の図があり、白井市冨士のすぐ北、鎌ヶ谷市瓢箪付近と考えられる。佐津間の瓢箪池は『田中村誌』[16]で手賀沼の水源の一つに挙げられている。鎌ヶ谷村道路元標は延命寺前付近に当る字一本椚に置かれ[75]、「一本椚」のつく公園が鎌ヶ谷五~七丁目にあり[76]、中野・下野牧間を通る木下街道の東に一本椚と記した昭和期の地形図もあるが、付近は鎌ヶ谷大仏が置かれた事でも判るように、牧ではなく、厳密には一本椚新田に因む。競馬学校は一本椚牧の北東端に当たる。北に中木戸、木戸前、東に白井木戸の字がある。
初富駅西、北西が上の一辺約400 メートルのK字の土手があり、Kの縦線の南、V字の北東角との間に捕込があった。正確にはb状だったKの縦線跡は道、\の一部は残存し新鎌ヶ谷駅からも見える。捕込は『享保小金原御場絵図』に「中野一本椚牧野馬押込場」とあり、元々は一本椚牧の捕込と考えられる。捕込の遺構は小金牧では唯一、比較的良好に残り、牧関係の遺構としては、国の重要文化財の旧花野井家住宅につづき、後述の勢子土手一条とともに「下総小金中野牧跡」として、2007年に初めて国の史跡指定された。迅速測図欄外には捕込土手上の一本松の記述がある。名称と違い、中野牧のごく一部であり、注意を要する。白子の捕込とも呼ばれ、南側は字白子で、「白子」がつく公園が複数ある。詳細は『国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)』[37]参照。中野牧だけでなく、小金牧全体に関する詳細で貴重な資料で、鎌ヶ谷市内の土手に詳しいが、くぬぎ山駅付近では正誤二種類の地図が掲載され、多少の土手の見落としもある。駅付近の土手の形状が「ヒ」形が誤、「と」形が正、「と」には松飛台からの土手が続いていた。『計画書』掲載の世田谷区満願寺所蔵の図によると、県道51号の北まで牧に含まれ、明治期前に村落がなかった所は、ほぼ牧内とされていた。
K字-南の土手のごくわずかな痕跡が初富稲荷に残るが、先の私有地内の土手は2010年に失われた。 K字の北東、旧粟野村集落は北の谷津と南の土手で囲まれた典型的な野付村で、今も消防署前、県道両側に残る土手の北側の古くからの村落と南側の再開発地の町並みの違いが判る。『田中村誌』[16]に粟野の入道池という手賀沼の水源の記述がある。 旧道野辺村は西を谷津、北と東を野馬土手に囲まれた集落、南北に長い現南佐津間はほぼ現市境の西の土手と東の谷津にはさまれた野付村で、城郭関係の可能性もあるが佐津間に南木戸の字があり、鮮魚街道が通っていた。 K字南東-少し屈曲-国道464号の所で分岐―鎌ケ谷市立鎌ケ谷小学校・南西の谷津の土手のうち、鎌ヶ谷駅南側の部分が残る。
道野辺中央-北-丸山と東-同市鎌ヶ谷町境沿い-鎌ヶ谷大仏北に三重土手があった。後者から南へ二重土手が分岐、牧と木下街道が通る旧鎌ヶ谷村を分けていた。
鎌ヶ谷市市制記念公園東-東南東-白井市-南西の土手の一部が鎌ケ谷市立初富小学校西に残り、前述の史跡に指定された。分岐の一部が同校やや東の白井市富士に残る。小学校西-南へ屈折-鎌ヶ谷大仏北の池にあった馬の水飲み場の谷津頭をほぼ半周、と続いていた。
松戸市秋山牧之内、八柱村道路元票設置の紙敷木戸場、高塚新田木戸前、同隣接地の市川市に木戸口遺跡等の地名が残る。
中野牧・下野牧の牧士は両牧を担当していた事など、鎌ヶ谷市[77]に、下総小金中野牧跡、北初富の開墾五十周年記念碑、下総牧開墾局知事北島秀朝等旅宿看板、五郎兵衛から彌までの牧士三橋家の墓地、魚文の句碑、官軍兵士の墓、鎌ヶ谷大仏、牧士清田家の三代勝定が将軍から下賜された悍馬が帰途暴れたため切り殺した事に因む駒方大明神、牧士清田家の墓地の解説と写真が、白井市[78]に牧士、冨士の野馬除土手の解説、松戸市立博物館、鎌ヶ谷市郷土資料館に牧に関する展示がある。
『牧跡』の中野牧の地図は、信憑性が低く[79]参考にできない。
[編集] 下野牧
下野牧(しものまき)は、北部の船橋市二和・三咲のほか、南部の「習志野」も含み、現、鎌ケ谷・船橋・八千代・習志野・千葉の各市、一部は千葉郡に及ぶ広大な牧であった。初期には市川市東縁に達していたと考えられる。現在、新京成線では二和向台~習志野の各駅が牧跡にある。南部は東京湾に近く、明治期に農地とならず習志野等の軍用地となった土地、千葉市域では旧長作村名主武左衛門による請願の結果、地元民による開墾が認められ[80]、番号順の地名でない土地、一時期、習志野原御猟場となった土地もある。
『旧事考』に、捕駒の地は鎌ヶ谷、別に幕府騎乗の牧があり、捕駒の地が神保とある。船橋市神保町に字牛ヶ作がある。
捕込は中野牧のすぐ南、鎌ヶ谷大仏交差点東、字大込にあった。地形的に捕込に適し、金ヶ作陣屋・江戸との交通の便が良かった。『成田名所図会』[17]に捕込での捕馬の図解があり、笠をかぶって帯刀し鞍を置いて馬に乗る牧士、蓑笠を着け竿か棒を持った勢子、土手上の指揮所と見られる小屋、見物人、三軒の店等が描かれている。捕込の前に馬を追い込む囲土手があり、大込の土手と推定される。込・払場・種馬入場・小屋から成る捕込の平面図、馬が谷津の道を通って移送される図もある。捕込は戦後の空中写真でも2区画が視認できるほど、ほぼ完全に残っていたが、現在土手のほとんどは小道等となり、一部の痕跡だけが残る。捕込に続く土手が、付近の鎌ヶ谷・船橋市境、船橋市の突出部分を分ける位置にあった。大込は捕込の東に接した囲土手である。 『旧事考』の幕府騎乗の牧の神保の捕込は、地名、明示されてはいないが迅速測図と明治期の地形図、現在も一部残る土手、牧の範囲から、船橋市神保町の南、大穴町の北、三咲町の三咲神社付近にあったと考えられる。
享保の改革に伴い、成田街道沿い牧の江戸側、船橋市郷土資料館西に丹羽正伯と薬種商桐山太右衛門がそれぞれ土地を得て薬草園を設けた。薬園台参照。薬草園は幕府直営[81]との説もあるが、長崎大学薬学部[82]に、薬園は幕府の許可を得た私製のもの、『千葉郡誌』『地方資料小鑑』[2]にも、幕府から15万坪の土地の払下げを受けて設けたとある。「御薬園」と呼ばず、正伯自身も含め、薬園の奉行等の職制、正伯の死後の幕府への返還、次の管理者の赴任の記録がなく、直轄とは考え難い。薬草園は太右衛門の死去もあり、後に廃止、ほぼ全域が正伯新田となった。1919(大正8)年、東京女子高等師範学校附属高等女学校『遠足の栞』[3]に薬草が栽培され、採取もしやすい旨記述がある。『旧事考』付図には成田街道北側の西に薬園台、東に正伯、明治期の地形図では薬園台旧称正伯の表記がある。太右衛門も15万坪の薬園を開設、明治期の地形図で習志野の演習地西隣、成田街道の南北に、ほぼ15万坪ずつの農耕地がある事、各地図で街道の北に「正伯」とある事から、北が正伯、南が太右衛門の薬草園、また、薬草園の西が初期の下野牧西縁と推定される。旧馬加村の幕張駅近くに青木昆陽がサツマイモを栽培した地があり、薬園とともに享保期における牧の西~南部の開発を示す。 薬園台より西の船橋市立二宮小学校[53]によれば、かつては同校の南に野馬堀があり、初期の牧は、西にも広がっていたと考えられる。
成田街道(佐倉街道)が通り、江戸から多くの成田山参詣者が通過した。前掲『十方庵遊歴雑記』に、牧は、舟橋の東、昌伯(しょうはく)村過ぎにあり、牧の出入口に東西とも番人がおり、路傍に尺角[83]の柱があり、夜は貫を通し馬が出る事を防ぎ、街道が牧を通るのは26町、牧内は禁煙、積雪時には近郷に一軒より藁三束を馬の餌としてちらすよう号令がある等の記述がある。後の習志野演習場にも尺角の柱が描かれた絵図[84]がある。
大和田付近では大和田原とも呼ばれ、前掲『東都郭外美知志留辺』には小和田原牧、また、薬円臺の表記がある。
『東葛飾郡誌』による1869~1972年の東京移住窮民、近傍移住窮民、授産処分を受けた窮民は、二和83戸376人、1戸4人、74人、三咲83戸249人、36戸62人、194人である。前掲『開墾地移住経営事例』によると、二和・三咲で残った移住者は、東京府15戸96人、長野県5戸29人、埼玉県5戸28人、県内190戸1401人、自作農または土地所有者は127戸である。土地所有者には約6ヘクタール以上の1戸、約5~6ヘクタールの2戸、約5アール以下51戸を含む。開墾会社は西村軍次(司)らによって設立され、経営は西村重介に引継がれた。
1873(明治6)年、天皇が、西郷隆盛らを伴い『下総国大和田辺ヘ行幸繰練天覧』[21][85]のため訪れ、『下総国大和田原ヲ習志野原ト名ケ練兵場トス』[21]る事となった。天皇は野立で演習を見たが、『下総国習志野原大調練天覧之図』[84][3]には、中野牧での将軍の御立場に酷似した小山、谷津の形に似た煙、近代軍事演習でありながら鹿や猪を追う兵士が描かれた絵図がある。1881年6月28日、佐倉牧の捕込を含め『千葉県下下総国ヘ種蓄並馬耕天覧之為行幸』[21]があった。
陸軍演習場も含め、下野牧の南部が習志野原御猟場に指定された。『広報ならしの』[86]によると明治16~大正11年である。明治14年『千葉県下習志野近傍ニ御遊猟場ヲ設ク・二条』[21]があるが、いずれにせよ、明治17年『千葉県下御猟場ノ区域ヲ広ム』[87][21]では、複雑な境界を整理し、瀧台新田-前原新田は東葛飾郡との境まで、前原新田-長作村は東金街道まで、とし、明治24年『千葉県下千葉郡豊富村外三ヶ村御猟場ノ名称ヲ解除ス』で、豊富・白井・風早・手賀の各村は解除され、指定後も拡大と縮小があり、常に下野牧全域または南半分が御猟場だった訳ではない。『恩師乃木院長』[3]に、乃木希典が学生を連れ、地元の多数の猟師の補助の下、狩を行った記述があり、つてがあれば、華族でなくとも狩が行えた事、地元に猟師がいた事が判る。
捕込-鎌ケ谷・船橋市境-南西の市境の形の谷津の土手跡に両側に道のある家屋の列がある。谷津-東-御滝不動尊金蔵寺-ごみ出し場-船橋市立二和小学校南に勢子土手が残る。同校南の道路の中央分離帯のように、良く保存された部分からガードレールに痕跡を留めるだけの部分がある。土手の南北で高低差があり、土手が二和の南縁である。両側に堀のある単列の土手で、東-今の二和・三咲の境界より東で北に折れ-西に折れ-大込、と続いていた。土手が二和・三咲の境のため、三咲駅は二和側にある。県教委[30]によると、二和東字土手際に土手際遺跡がある[74]。三咲の東に牧の東縁だった土手が残り、二和の東南、三咲の南、船橋市立大穴中学校付近が字海老ヶ作である。
後期の牧の東に当たる、千葉県立船橋豊富高等学校のあるハンノキ作、南の稲荷ヶ作・鶴作台・大作、さらに東、八千代市島田台字木戸場・込ノ内、真木・真木野字瓜ヶ作の地名が残り、初期かその前の牧の広がりが示唆される。
牧の西縁の土手は、滝不動南の船橋市立御滝中学校-南三咲・金杉町境・南の谷津と、谷津の南-高根木戸駅西-さらに南の谷津にあった。ここより南、新京成線西側は、入り組んだ谷津が牧の西縁であった。高根木戸駅西方に高根木戸、東方に古和釜木戸跡地で、陸軍士官学校の地図によると、高根木戸-古和釜木戸の道から南が、習志野の演習場であった。北習志野近隣公園付近が子者清水跡、古和釜木戸は海老ヶ作の南に当たる。公有地の土手の多くが破壊された中、船橋市立高根台第二小学校は校内の野馬土手を保存し教育に活用しており、ホームページにも解説がある[53]。
南では、土手は谷津の南、船橋市立飯山満小学校校門前-東の道沿い南側-合流した道沿い南側-習志野駅西で南へ折れ-薬円台4・6丁目間-千葉県立薬園台高等学校[57]内で東へ折れ-船橋市立薬円台小学校内で東南に折れ-薬円台公園内-船橋市郷土資料館西の斜めの小道にあった。飯山満小付近では、駐車場の形と切り株にわずかな痕跡が見られるだけである[56]。薬園台高-薬円台小は、陸軍敷地となり、土手は戦前に失われた。土手跡の東側は薬園跡ではない。土手と成田街道の交点に正伯木戸または薬園木戸という木戸があった。薬円台小学校ホームページ[53]には、子者清水や薬園に関する資料が掲載されている。資料館東に別の土手が今世紀初頭まであり、明治15年の迅速測図にある、牧内の平面形が五角形の土塁に続いていたと見られる。五角形の土塁は、御猟場事務所が置かれた場所である。事務所が明治14年の設置なら、事務所の土塁とするには時期的に不可能ではないが、表記がない。牧の野馬土手との関係は不明であるが、上野牧と構造の類似が見られる。資料館前には明治期の絵図[84]にもある街道沿いの土手が残る。薬園台駅西の通りが薬園および初期の牧の西縁に当たる。
土手は木戸-街道南の自衛隊駐屯地内で南西-南東と折れ-墓地の南-船橋市立三山中学校東-県道57号東側両側に道のある家屋の列-習志野市立習志野高等学校(市習)前県道西側両側に道のある家屋の列と草地-旧称「実籾木戸」の三叉路-東習志野コミュニティーセンター-公園前の道沿いにあった。自衛隊駐屯地は旧騎兵学校で、敷地が牧跡の内外にまたがったため、土手は敷地内に取込まれ、早期に失われたと考えられる。墓地は旧陸軍墓地で、牧・演習場跡地にある。中学校前に鉄道連隊線があった。市習一帯は俘虜収容所跡地であるが、広い道は早くから土手の東にあった。西側は谷津で広い道を通しにくい地形である。道の東、収容所前にもかつて土手があり、軍用地となる前の迅速測図に道の両側の土手の表示があり、小土手の転用の可能性がある。現在は県道の拡幅のため、痕跡はない。コミュニティーセンター-公園前にも同様の土塁が残る。 市習の500メートル程西の、東西に走る船橋・習志野市境の国有地に、途中の分断をはさんで、約50メートルの土手が2箇所ある[56]。東西の谷津を結ぶ事、市境である事、軍用地となる前の迅速測図に土手を示すと見られる線がある事、軍用地は土手より北まであった事から、野馬土手が軍の土塁に転用されていた可能性が高い。市習前では船橋・習志野市境沿いに土手が分岐していたと見られ、斜面の上に一部で土塁が認められ[56]、台地の縁に沿い、国有地の土手に続いていたと見られる。 市習の南、旧実籾村の北にあった土手の痕跡は道路以外にない。 コミュニティーセンター前の土手は、京成電鉄本線の所で谷津頭を北に迂回-ほぼ小金牧全体の南端の土手が残存-千葉市立花見川小学校前交差点で十字に分岐、十字分岐-北東-北西に折れ-千葉・八千代市境-後述の陸上自衛隊習志野演習場の土手に続いていた。旧陸軍墓地の南で分岐-演習場内の市境の土手、その途中から分岐-自衛隊・日立製作所間の駒止谷(やつ)沿い南側の土手があった。前者は完全に演習場内に入り、早期に寸断されていた。京成電鉄に隣接した谷津頭の東、千葉市作新台の春日神社の石碑に「開有富」とある[88]。東西の自衛隊の土手間を結ぶ土手で、南北が仕切られていた。同様に、ほぼ南端の地点-習志野演習場内の土手のため、下野牧南東部の作新台は、土手に囲まれた御囲の形になっていた。作新台北に道潅堀遺跡として、隣接して八千代市側に高津新田遺跡として、土手が残る[30]。厳密には、十字分岐の南東の土手跡が残ると見られ[56]、小金牧全体の南端である。
陸上自衛隊習志野演習場内に船橋・八千代市境沿いの土手を含め、比較的良好な状態の土手が残るが、他の土塁との混同に注意を要する。船橋・八千代市境・同演習場北端、成田街道に新木戸(にいきど)という木戸があった。街道と交差する小道沿いにあった土手の位置は街道の南では小道の西側、街道の北では小道の東側で、市境も同じ位置にあるが、街道の北では、道が八千代市側に拡幅されたため、市境は路上にある。バス停や八千代市立新木戸小学校等、新木戸の地名が残り、西が縮小後の牧だった事が判る。新木戸小[53]によると、付近は酪農で発展した歴史がある。土手は字ヲイノ作-市境の形に北につづいていたが、ホームセンター敷地の東に大和田新田野馬土手遺跡[30]があるだけである。東に仲(中)木戸の字が残る。陸軍士官学校の地図に、新木戸から街道北側に100メートル以上の土塁がある。初期の演習場の東縁は土手に沿い、牧と市境と演習場の東縁は一致していた。
市境の西、前谷津の西、船橋日大前駅近く、坪井5・7丁目間の土手も今世紀初頭に失われたが、船橋市[89]によると駅の南の道路際に一部残る。
薬園木戸~新木戸間は明治4年5月、兵部省が要望を出し、陸軍演習場となった。大正9年『第三十二期歩兵生徒習志野原野営演習記事』[3]に下野牧を佐倉七牧とする誤った伝聞と、演習場を囲む土手の記録がある。堤防として、駒止谷沿いの土手を記録している。
馬込沢駅のある馬込沢・馬込町は、『旧事考』等に捕込の記録がなく、捕込に因むとすれば、小金牧以前の地名と考えられる。近くにあった短い土手は初期の土手と考えられる。市川緑の市民フォーラム[90]は千葉県立船橋法典高等学校北、市川・船橋市境の市川市民キャンプ場の土手を野馬土手と推定しており、位置から、初期のものと考えられる。事務局長は千葉県立高校の生物の教諭で、千葉県の公立高校の生物の教育水準の高さ[91]から信憑性が高いと考えられる。中山競馬場のある字古作・北の瓜作は初期のものか、街道の柵に因む可能性が高い。金杉参照。
小金原御鹿狩の際、東方の六方野に囲いを築き、中野・下野牧の馬を収容した事に関連する地名として、花見川の東、千葉市花見川区に畑町鶴牧、瓜掘込、鳥込(とりばみ)、馬喰作、稲毛区に六方町、四街道市に鹿放(ろっぽう)ヶ丘がある。千葉北インター北に子和清水跡がある。
習志野市の『広報ならしの』連載記事には牧の土地利用状況が判る『実籾村の原風景』等の資料がある。八千代市公式ホームページの「八千代市について」には野馬土手の写真があるが場所は不明である。中野牧・下野牧の詳細な地図については習志野台公民館地域講座参照。資料中のボウコンサクは茅根作とも考えられる。
[編集] 印西牧
他の牧が主に葛飾郡にあったのに対し、他の牧と離れて印旛郡にあった。初期には、現白井市から印西市東部に及ぶ広大な牧であったが、享保以降の縮小、自然の地形の利用、明治以降の農地化等のため、現存する遺構は少ない。木下街道・鮮魚街道が通っていたが、紀行文等での記述は少ない。
道程から松尾芭蕉も通過したと考えられる。 渡辺崋山は『四州眞景色紀行之部』に「印西牧即印旛沼の西也」と記した。 『旧事考』に、縦横1里、牡牝約150頭、捕駒の地は平塚、付図にテクラハラとある。『印旛郡誌』に、テクラ原とも呼ぶ、『日本地誌提要』に東西約28町45間、南北約17町47間とある。
初期には、印西市東部、印旛沼北岸に達し、小金牧以前、または一部無関係の可能性もあるが、印旛沼に突き出た旧印旛村平賀に駒込、その北に梅作、漆作の字がある。西はほぼ埋め立て前の印旛沼の北岸沿いに、柳作、榎作(ザク)、エゴ作、宮作、松之木作、クミサク、老作、入堀込(ボッコメ)、道作、瓜堀込(ボッコミ)、隣接して馬見台、向込内(コメノウチ)、馬々台、北に木戸口、船作、際作の字がつづく。同様に城郭に関する可能性もあるが、小林牧場近く、印西市平岡に馬込、小林に馬場、花作の字がある。付近に土手の痕跡が少なく、木の柵の作、単に境の意味の作が多いとも考えられる。
享保の改革以降、約3分の2が新田になった。「つ」形の手賀沼の南に当る。現印西牧の原駅付近は享保・延宝に新田となり、新田地名が残る。印旛沼近くの低地の新田は埋立てによるもので元から牧ではない。 東部では千葉ニュータウン中央駅東まで牧は縮小され、駅の北東、印西市大森字割野と字高堀に野馬土手遺跡[30]、南、草深字天王脇に野馬土手遺跡[30]、字新井(アライ)堀と松崎字漣に野馬土手発掘記録[30]、字新(ニイ)堀、和泉字大木戸根の地名、泉字大木戸に野馬堀遺跡[30]、武西字向新田に野馬堀の発掘記録[30]があり、縮小後の牧の東縁を示す。
明治期に開墾された区域は十余一となった。「とよひと」とされる事もあるが、迅速測図では十余市と表記され、「とよいち」と言っていた事が判る。 十余一でも、開墾会社によって開拓民から土地が奪われ、1877(明治10)年7月4日、住民山崎治右衛門が村内の香取神社で抗議のため自殺した[92]。 1869~72年の移住窮民は東京11戸52人近傍31戸66人、1883年授産処分を受けた窮民68人、1880年、西村郡司が106町歩余りの土地の払下を受けた[4]。
西部では北から、白井市平塚に馬場堤下、牛ヶ作、河原子に木戸場の字がある。 白井市鮮魚街道のバス停神々廻木戸付近の交差点の北に「く」形の土手があり痕跡が残る。南東方向にも谷津間を結ぶように現ゴルフ場を抜け、数条の土手が連なり牧南西の縁を形成していた。少し東、旧十余一村北の土手とさらに木刈の谷津に続く土手がほぼ牧の北縁に当る。木下街道沿い北西に土手が残る。
旧平塚村の東隣、白井市十余一字捕込付(とりごめづき)に捕込場(とっこみば)遺跡がある[30]。街道から北に続く道のすぐ東で、他の捕込同様、谷津頭の近くであるが、痕跡は全くない。道の西は字捕込附である。白井市[78]に、道を北に進んだ所の牧士の住宅、印西牧場真景之図等、当牧に関する資料掲載がある。住宅の東方が字真木ノ内である。
牧の西、旧沼南町には大木戸の字、近くに明治期まで土手、南、中野牧と谷津をはさんで隣接した所に馬洗井戸と馬場または番場の字、東、「つ」形の手賀沼の内側に泉木戸、北東の鳥見神社近くに馬場の字が残るが、関連は不明である。
[編集] 脚注
- ^ 約200年後、駿河に愛鷹牧が置かれた。
- ^ a b c d e f g 千葉県立図書館蔵、千葉県立図書館・資料の森(電子図書館)より選択
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 国立国会図書館蔵、国立国会図書館・近代デジタルライブラリーより検索
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 東葛飾郡誌
- ^ 『東葛飾郡史』収録 安政5年『成田参詣記』・明治36年『成田山名所図会』・前掲『下総御料牧場沿革誌』
- ^ a b c d e 『東葛飾郡誌』第十六章名所旧跡第三節旧跡城址墳墓
- ^ 第三編東葛飾郡二十二小金町
- ^ a b c d 徳川実紀
- ^ a b c d 柏市史、インターネットでは未公開
- ^ 大谷貞夫「野馬奉行考」(初出:『國學院雑誌』88巻4号(1987年)、のち大谷『江戸幕府の直営牧』(岩田書店、2009年)に所収。
- ^ 古事類苑地部四十五「牧」収録『有徳院殿御実紀』
- ^ 『広報しろい』2008年5月15日号
- ^ a b 国立国会図書館蔵、国立国会図書館・電子図書館「貴重書画像データベース」より選択か検索
- ^ 山梨県立博物館「富士山」より選択
- ^ 「小金原チヨロチヨロとむる馬ツころ」
- ^ a b c d e f g h i j k 『千葉縣東葛飾郡誌』
- ^ a b c 早稲田大学図書館蔵・早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」より検索
- ^ 中村哲夫『千葉の建築探訪』崙書房出版、2004年、40頁、ISBN 4-8455-1100-2
- ^ a b c d 松戸市より馬の捕獲、野馬土手については「市内紹介・市内散歩・文化財マップ」、ナポレオン三世の馬については「市の紹介・公共施設ガイド・博物館歴史館・戸定歴史館・デジタルアーカイヴ」を選択
- ^ 直木三十五『日本剣豪列伝』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 国立公文書館国立公文書館デジタルアーカイヴより検索、閲覧可能
- ^ アンドレ・カズヌーヴ参照
- ^ 澤護(敬愛大学)1987年『箱館戦争に荷担した10人のフランス人(人文科学編) Dix Francais a la Republique ephemere de Hakodate(The Humanities)』、2007年『S.カズヌーブに関する若干の資料Des Documents sur S. Cazeneuve』。国立情報学研究所サイニイより検索
- ^ 『川口家文書の研究』科研費補助金データベースより検索、概要が閲覧可能
- ^ 文書『東京府下民部省開墾局ニ属ス』『下総国三牧其他不毛地開墾民部省開墾局ニ属ス』『北島五位ニ開墾局知事ヲ命ス』(すべて明治2年5月3日)等
- ^ 『衆議院議員田中正造外一名提出小金原開墾地ノ所有権ヲ奪ヒタル件ニ関スル質問ニ対シ農商務大臣答弁書衆議院ヘ回付ノ件』、明治35年『衆議院議員高津雅雄外四名提出小金原開鑿ニ関スル質問ニ対シ内務大蔵両大臣答弁書衆議院ヘ回付ノ件』・『衆議院送付千葉県東葛飾郡十余二村内田市良衛門外三百六十七名提出下総国旧牧開墾地ニ関スル請願ノ件』
- ^ 『牧牛馬掛ヲ開墾局ニ属ス』
- ^ 『東京大学校教授英人フエントン蝶類捕集ノ為メ小金野ニ赴ク』『予備門訓導フエントン上下総小金野ヘ旅行』
- ^ 松戸市浅間山(浅間神社境内)の極相林(第1報) : 群落構造
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w ふさの国文化財ナビゲーションまたは千葉県教育委員会ホームページより「ふさの国文化財ナビゲーション」。基本的に野馬土手が文化財として未認識で、多くは遺跡の発掘報告によるため、記載された土手が少ない上、大半は現存しないが、地名調べには有用。使用した地図が古く、県教委が把握していない野馬土手が確認できる。
- ^ 『小金原開墾之不始末』
- ^ 国土変遷アーカイヴ
- ^ a b 野田市役所より「野田市の紹介・野田の歴史」か「文化財」を選択
- ^ 千葉県立関宿城博物館より「展示・デジタルミュージアム・利根川東遷と関宿藩・はじめに」を選択
- ^ a b c d 野田市立図書館より「電子資料室」の「企画一覧」か「紹介資料一覧」を選択、後者に『寛文5年野田町絵図』
- ^ 東京国立博物館「調査研究・情報アーカイヴ」より検索、画像は閲覧可能、小さな文字判読は不可能、詳細は東京美術・児玉幸多監修解説『五街道分間延絵図関宿通多功道見取絵図〈第1巻〉』ISBN 9784808706715 参照
- ^ a b c 『国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)』
- ^ 慶應義塾大学蔵、インターネットで存在が確認できるが、制約がありリンク保留
- ^ 柏市市内遺跡発掘調査報告書
- ^ a b c 流山市、報告書は「各課所属一覧・博物館TOP・発掘調査」
- ^ 原典不詳、著作権上詳細略
- ^ a b c d e f g h i 『柏市文化財マップ』インターネットでは未公開
- ^ インターネットでは未公開
- ^ 巻の上二十一
- ^ a b c 柏市史に一部収録
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4第33章水戸退隠及静岡移住
- ^ 摘水軒記念文化振興財団より「財団沿革」
- ^ 千葉県商工労働部観光課
- ^ a b c 流山市・商工課・商政観光係・流山100か所めぐり参照
- ^ 福島大学学術機関リポジトリより検索
- ^ 石田寛(岡山大学)『GEOGRAPHICAL STUDIES ON PASTURAGE AND PASTRAL AREA IN JAPAN』に『小金原勝景図』の捕込の図があるが現在インターネットでは閲覧不可
- ^ 千葉縣下總國東葛飾郡小金開墾地及近傍村落
- ^ a b c d e f g 該当地域には千葉県の地理歴史に関心を持ちホームページで触れている小学校が多い。承諾連絡等の制約のため、リンクは保留。少なくとも、この脚注の数がホームページで小金牧等に触れている小学校数を示す。
- ^ 相馬氏等、千葉支族の家紋
- ^ 柏市の報告書の新富町一丁目427は豊四季字吉野沢427の誤記
- ^ a b c d e f g h i j 2011年、グーグルストリートヴューで確認可能
- ^ a b 2011年現在、同高校のホームページでは小金牧に関する記述はない。必ずしも地歴の優秀な教員の存在を否定するものではない。
- ^ 県内の高校で、野馬土手に関して記した稀有な例で、県立高校に比べ、千葉県の地理歴史についての高い関心を示すが、麗澤大学内の発掘記録、高校付近2箇所の土手、付近での吉田松陰の牧についての記述等については記していない。制約等のため、リンク保留
- ^ 南柏駅西口前にも掲示
- ^ a b c d e 柏市役所内「歴史・文化財」より「柏の歴史」または「柏のむかしばなし」より該当項目選択
- ^ 茨城県立歴史館
- ^ 広報かしわ平成15年1月1日
- ^ 掲載地図の水準が低く、古文書等の掲載資料の部分のみ有用。水準の根拠は他の脚注参照。『鎌ヶ谷市計画書』によると千葉県教育委員会編。
- ^ 『牧跡』の推定は約1キロメートル東で、掲載資料と矛盾し、十余二の一部である柏市西原を上野牧として、上野牧の一部が十余二になった事にしており、公文書を含め信頼できる一次資料に反する。
- ^ 国土交通省国土政策局ウェブマッピングシステム
- ^ 一次資料である綿貫家文書も所有しているがインターネット上では未公開
- ^ 千葉県教育振興財団文化財センター
- ^ a b 千葉県立関宿博物館『常総を旅する人々』
- ^ 埼玉県立図書館蔵、埼玉県立図書館「デジタルライブラリー(貴重書デジタル画像)・貴重書」より選択、五その1絵図2
- ^ 巻の中参拾四
- ^ 千葉県立柏南高等学校ホームページ
- ^ 埼玉県立図書館「デジタルライブラリー」より選択
- ^ 京葉ガス内「ふれあいGASパーク・ふれあい交差点・地名町名の由来」
- ^ a b 場所は明示していない。
- ^ 千葉県・法令集
- ^ 鎌ヶ谷市・統計かまがや
- ^ 鎌ヶ谷市より「生涯学習・文化にふれよう・鎌ヶ谷市の文化財」を選択
- ^ a b 白井市より「白井市について・市の歴史・文化財」または「広報しろい」を選択、アドレスは頻繁に変更
- ^ 小金牧の地図の中でも水準が低い。千葉大園芸学部のトンネルから続く国道6号線や新京成開業後に整備された県道を古道とし、街道が無駄に牧の中を通る形になっている。牧の北部での、水戸家鷹場となる前の初期の範囲と、南部での、新田開発による牧の縮小後の後期の範囲が混在し、現存・消失を問わず野馬土手の見落としも多い。
- ^ 千葉郡誌
- ^ 江戸、駿河、嶺岡牧、京都、佐渡、長崎とともに幕府直営の御薬園があった。(大石学「御薬園と養生所」竹内誠監修『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』小学館、2002年12月。ISBN 4-09-623021-9)
- ^ 太左衛門と記載
- ^ 断面が1辺1尺の正方形
- ^ a b c 船橋市立西図書館蔵
- ^ 『東葛飾郡誌』第二十章拾録第一節行幸行啓志一行幸志
- ^ 平成23年1月15日号
- ^ 本文では「区域ヲ定ム」
- ^ 前述の地元民による開墾ができた事とともに千葉市公式サイト内「千葉市の文化財」に画像と、大半は『千葉郡誌』の引用の引用の三次資料がある。
- ^ 船橋市より「坪井の歴史と文化財」
- ^ 制約のためリンク保留
- ^ 県教委によると小中学校への出張授業を行う教諭の登録数は、2011年度、生物(科目)が地歴(教科)と公民(教科)の合計の2倍弱で化学についで多く、JSTによると、2008年度、千葉県公立高校の生物のSPP実施校数>他のどの都道府県の公私立高校の理科数学の合計数である。
- ^ 『小金原開墾之不始末』香取は取香と誤植
[編集] 文献・外部リンク
- 青木更吉『小金牧 野馬土手は泣いている』(崙書房2001年5月) ISBN 978-4845510795。『小金牧を歩く』(2003年8月) ISBN 978-4845510948 著作権上、当記事より詳細な記述がある。当記事と相反する記述があれば、青木の著作が正しい。
- 相原正義『柏-その歴史と地理』崙書房、ISBN 978-4845511099、南柏駅近辺の土手消失と柏市による水戸街道松並木の伐採について詳述。
個人のサイトについては、許諾を得たもののみ記す。
- 東葛人的サイト「野馬土手 - 小金牧の残光」。小金牧のすべての牧について、野馬土手等の写真が充実し、最新情報への更新が行われ、小金牧に関する最高水準のサイトである。『鎌ヶ谷市報告書』が見落としたくぬぎ山駅北の土手についても記載。
本文・脚注で、資料への直接リンクに制限があるものは、法律・技術・道義上の問題から、直接のリンクはしないが、選択・検索により資料の閲覧はできる。
関東農政局による解説は制約と正確ではない内容が含まれるため、リンクは保留する。