毛利氏
毛利氏 | |
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一文字三星(長門星)[1] | |
本姓 | 大江氏季光流 |
家祖 | 毛利季光 |
種別 |
武家 華族(公爵) |
出身地 | 相模国愛甲郡毛利莊(もりのしょう)[注釈 1] |
主な根拠地 |
越後国佐橋荘南条 安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう)[注釈 2] 長門国萩 周防国山口 |
著名な人物 |
毛利元就 毛利輝元 毛利敬親 |
支流、分家 |
徳山毛利家(武家) 長府毛利家(武家) 清末毛利家(武家) 安芸坂氏(武家) 越後北条氏(武家) など |
凡例 / Category:日本の氏族 |
毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字に三つ星(一文字三星)[1]。
出自
鎌倉幕府政所別当大江広元の四男・毛利季光を祖とする一族、したがって大江広元の子孫ではあるが、嫡流ではない。名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利荘(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を本貫としたことによる。中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。
その系譜は、
- 「尊卑分脈」には、
季光 | 経光 | 時親 | 貞親 | 親茂 | 師親 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 「毛利系図」には、
時親 | 貞親 | 親衡 (初め親茂)[注釈 3] | 元春 (師親) | 広房 | 光房 | 熈元 (熈房) | 豊元 | 弘元 | 興元 | 某 (幸松丸) | 元就 (弘元次男) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
とある。
- また、「大江氏系図」の説によれば、
大江広元 | 毛利季光[注釈 4] | 広光 | 章弁 | 公恵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
経光 | 経元 | 経親 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
師雄 | 元親 | 時元 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
となる。
概要
鎌倉時代末期に、越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋荘(さはしのしょう)南条(みなみじょう)[注釈 5]の南条館を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう – 高田郡吉田村吉田、現・広島県安芸高田市吉田町吉田)を分与し分家を立てる[注釈 6]。
時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが[注釈 7]、南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治[注釈 8]するようになる。吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。
戦国時代、毛利元就が出ると一代で国人領主から、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した。
元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争ったが、のちに豊臣秀吉に従属して、安芸ほか8か国で112万石[2]を朱印状で安堵された。 また、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島城に移す。輝元はその後、五大老に就任する。
しかし、慶長5年(1600年)、輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の2か国29万8千石に減封された。
江戸時代には、萩に居城を新たに築城し、長州藩(萩藩)となる。検地を経て幕府と交渉のすえ、36万9000石に高直しされ、江戸時代を通じての公称高(表高)となる[3]。国主(国持ち)の外様大名として雄藩の一つに数えられた。また支藩として長府藩や徳山藩、清末藩などがあった[3]。
江戸時代末期には、藩主毛利敬親の改革が功奏し長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。明治維新後、長州藩の毛利宗家は公爵、支藩の毛利家は子爵となり、貴族院議員などを輩出した。
歴史
鎌倉時代から室町時代まで
毛利季光は大江広元の四男で相模国毛利荘を父から相続したため、毛利氏を称するようになった。したがって、毛利家・毛利氏としては季光を初代とするのが相当であるが、毛利家の慣習上、天穂日命を初代とするため、季光は39代とされている。
だが、季光は北条時頼の義父であったにもかかわらず三浦泰村と結んで北条氏に反旗を翻したため、敗北して一族の大半が果ててしまった(宝治合戦)。越後にいた季光の四男経光は合戦に関わらず、その家系が残った。同族の長井氏の尽力により越後・安芸の守護職を安堵された経光は、嫡男毛利基親に越後国刈羽郡佐橋荘南条を譲り、四男時親に安芸国吉田荘を譲った。
毛利時親は鎌倉時代後期、京都の六波羅探題の評定衆を勤めたが、姻戚関係(義兄)のあった内管領の長崎円喜が執権北条高時に代わり、幕府で政権を握っているのを嫌って隠居し、料所の河内国へ隠棲する。
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こり、足利尊氏らが鎌倉幕府を滅亡させるが、毛利時親は合戦に参加せず、後醍醐天皇により開始された建武の新政からも距離を置いたため、鎌倉幕府与党として一時領土を没収された[4]。
南北朝時代には足利方に従い、時親の曾孫にあたる毛利元春が、室町幕府より九州の南朝勢力であった懐良親王の征西府を討伐するために派遣された今川貞世(了俊)の指揮下に入り活躍している[5]。元春は安芸に下向し、吉田郡山城にて吉田荘の統治を始め、隠居していた曽祖父の時親が元春を後見した。
戦国時代
安芸国の国人として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、室町時代中期には庶家同士の争いが起きたものの、安芸国内では屈指の勢力になった。しかし、毛利煕元(47代)、 毛利豊元(48代)、毛利弘元(49代)の時代には山名氏・大内氏という大勢力の守護に挟まれ去就に苦労することになる。毛利興元(50代)、毛利幸松丸(51代)の代には、大内氏と尼子氏とが安芸を巡って争い、安芸国内の国人同士の争いも頻発した。
毛利氏は当主の早死にが続いたこともあり勢力は一時衰えたが、興元の弟である毛利元就(52代)が当主となると、元就はその知略を尽くして一族の反乱や家臣団最大派閥の井上氏の粛清、石見国の高橋氏など敵対勢力を滅ぼし[6]、さらに有力国人である安芸国の吉川氏に次男である元春を、小早川氏に三男の隆景を養子に入れて家を乗っ取るなど勢力を拡大する。元就は長男の毛利隆元(53代)に家督を譲ったのちも戦国大名として陣頭指揮を続け、大内義隆に謀反し大内氏を事実上乗っ取った陶晴賢を弘治元年(1555年)の厳島の戦いで破った[7]。
弘治3年(1557年)、晴賢の傀儡であった大内義長を攻め滅ぼし[8]、大内氏の旧領をほぼ手中にする。その後は北部九州に侵入し、筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏を味方につけ[9][注釈 9]、大友氏とも争った。同3年、吉川・小早川が安芸毛利当主家運営への参画、補佐することを条件に隆元(元就の長男)が毛利家の家督を継いだ。こうして、毛利当主家を吉川家と小早川家で支える体制が成立し領国支配を盤石なものとし、これを後世毛利両川体制と呼ばれることになった。永禄3年(1560年)には隆元が幕府から安芸守護に任じられている[10]。
永禄6年(1563年)、隆元が早世し[11]、長男の毛利輝元(54代)が若くして家督を継ぐと、元就・元春・隆景が後見した。永禄9年(1566年)に輝元は元就とともに仇敵の尼子氏を滅ぼして[12]、中国路(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有し、西国随一の大名となった。さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け(大内輝弘の乱)、尼子氏の残党にも勝利した。
さらに、輝元は織田信長に追放された将軍・足利義昭を庇護し、天下統一を目指す信長の西国侵攻に対する最大の抵抗勢力となる。だが、天正10年(1582年)に本能寺の変により信長が自害したため、領地を維持したまま織田方と和睦を結んだ[13][14]。
桃山時代
毛利輝元は秀吉に臣従し、安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を安堵された。朱印状における毛利家の総石高は112万石であり、ほかに四国と九州で安国寺・小早川が輝元とは別に所領を得た。
- 天正19年(1591年)に豊臣秀吉から発給された領知朱印状・領知目録
「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」[15]
内訳は
- 2万石 寺社領
- 7千石 京進方(太閤蔵入地)
- 6万6千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万石無役
- 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万石無役
- 隠岐国 羽柴吉川侍従
- 10万石 輝元国之台所入
- 8万3千石 京都台所入
- 73万4千石 軍役 都合112万石[16]
豊臣秀吉の天下統一後、輝元は吉田郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し、本拠を移した[17]。文禄4年(1595年)、秀次事件の後に豊臣政権の五大老の一人となった。
近世
秀吉の死後は天下奪取を図る徳川家康に対抗して石田三成と接近し、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に就くも吉川広家が東軍と内通した際に毛利氏は担ぎ上げられただけとの弁明により所領安堵の約定を得た。
ところが、敗戦後に大坂城で押収された連判状に輝元の名があったことから家康は約束を反故にしたため、輝元は隠居し嫡男の秀就に家督を譲り、安芸国ほか山陽・山陰の112万石から周防国・長門国(長州藩)の2か国29万8千石[18]に減封された[19]。 このようにして毛利氏は、萩に新たな居城を造るとともに領内の再検地に着手し始め、慶長18年(1613年)に幕閣と協議したうえで36万9千石に高直しを行ない、この石高が長州藩の表高(支藩分与の際も変わらず)として公認された。
江戸時代末期、毛利敬親の時に長州征討などにより幕府から圧迫を受けたが、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎らの人材を輩出し、明治維新を成就させた。
通字と元服時の名前
毛利家では、元服時に通字である「元」(もと)のついた名(諱)を名乗るのが慣例となっていた(家祖である大江広元にちなむ)。家督継承者(当主となる嫡子)は山名氏・大内氏・豊臣家・将軍家(足利・徳川)など有力者の偏諱を受け「○元」(山名時熙の偏諱を受けた熙元、山名是豊の偏諱を受けた豊元、大内政弘の偏諱を受けた弘元、大内義興の偏諱を受けた興元、大内義隆の偏諱を受けた隆元、室町幕府第13代将軍足利義輝の偏諱を受けた輝元)と名乗り、次男以降は当主となった兄から偏諱(元の1字)を受ける形で「元○」(兄興元の偏諱を受けた元就、兄隆元の偏諱を受けた吉川元春など)と名乗った。輝元の従弟にあたる毛利秀元も一時期輝元の養嗣子であったため「○元」の名乗り方で元服し、豊臣秀吉の偏諱を受けた。その後、輝元には秀元に代わって世子となる実子の秀就が生まれ、豊臣秀頼の偏諱を受けたが、秀元と名乗りの重複を避けるため元就の1字を取っている。また、豊臣政権時代は豊臣の氏・羽柴の名字をともに賜った。
秀就の子・綱広以降の江戸時代には偏諱を受ける相手は徳川将軍となり(称松平・賜偏諱の家格とされた)、世子は元服時に将軍の偏諱(○)を受け、「○元」などと名乗る習わしとなったが、秀就をきっかけに「○元」と名乗る慣例は崩れ、他に「○広」「○就」「○房」「○親」「○熙」など祖先にちなむ字を使用するケースもみられるようになった。ところが幕末には、13代長州藩主慶親(67代)と世子定広(68代)が、禁門の変の処分としてそれぞれ慶・定の字(徳川家慶・家定からの偏諱)を剥奪の上、敬親・広封と改名させられた(広封は明治維新後に元徳と改名)。
大政奉還後、華族最高位の公爵を授爵された毛利氏は、身分的に徳川氏の風下に立つことはなくなり、誰からも偏諱を受けることはなくなった。また、明治5年太政官布告149号(通称実名併称禁止)により毛利家においては諱を名乗ることとなり、同年太政官布告235号(改称禁止令)により出生時の命名が基本となり、元服時に新たに名を付けることは禁止された。以後歴代、出生時に(元)を頭に据え「元○」の形で名づけることとなった。
家紋
毛利家の家紋は、定紋を「一文字に三つ星(一文字三星)」、替紋を「長門沢瀉」(ながとおもだか)とする[1]。下賜された紋としては、十六菊(正親町天皇から)と五七桐(足利義昭から)がある。具体的な使用は不明であるが、『見聞諸家紋』で安芸毛利として掲載されている紋は「吉文字に三つ星」である。同史料では一文字に三つ星も長井・竹藤・萩とともに連名で掲載されている。
定紋の「一文字に三つ星」は別名、長門三つ星ともいうが、同図案の家紋は長門毛利氏に限らず長井氏などの大江氏の氏族によって使用されている[1]。分家筋の徳山藩、府中藩の毛利家も同様の構図で一文字の図案を少し変えた一文字に三つ星を使用している。「一文字に三つ星」を分解すると、一文字は「かたきなし」(無敵)の意味を持ち、三つ星は軍神として信仰のあった将軍星(オリオンのベルト)を表している。全体的な形は、律令制における最高位を意味する「一品」(いっぽん)という文字を表している[20]。
替紋の「長門沢瀉」は沢瀉紋の抱き沢瀉であり、中央の花序を抱くように2つの沢瀉の葉が描かれている。毛利元就が戦の前に勝虫であるトンボが勝戦草であるオモダカに止ったことを見て戦勝したことに因んで、家紋として使われたものである。関ヶ原の戦い以降は、定紋の一文字三つ星に替って徐々に使用頻度を増やした[21]。
逸話
- 河内に隠棲した時親は楠正成に兵法を教えたという伝承が残っている。
- 新年の会において、家臣より「今年は倒幕の機は如何に?」と藩主に伺いを立て、藩主がそれに対し「時期尚早」と答えるのが毎年の習わしだったとも伝えられるが、確かな史料に基づく話ではない。
系譜
大江広元 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
毛利季光1 (大江季光) | 大江親広 〔寒河江氏〕 | 長井時広 〔長井氏〕 | 那波宗元 〔那波氏〕 | 海東忠成 〔海東氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
経光2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基親 〔越後毛利氏〕 | 時親3 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時元 | 貞親 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
経高 | 親衡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北条治良 〔越後北条氏〕 | 安田憲朝 〔安田氏〕 | 元春4 | 坂匡時 〔安芸坂氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広房5 | 福原広世 〔安芸福原氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光房6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
煕元7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊元8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弘元9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
興元10 | 元就12 | 北就勝 | 相合元綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸松丸11 | 隆元13 | 吉川元春 | 小早川隆景 | 穂井田元清 | 元秋 | 出羽元倶 | 天野元政 〔右田毛利家〕 | 末次元康 〔厚狭毛利家〕 | 秀包 | 敷名元範 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
輝元14 | 吉川元長 | 元氏 〔阿川毛利家〕 | 吉川広家 | 秀包 〔吉敷毛利家〕 | 秀元 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀就15 | 就隆 〔徳山毛利家〕 | 秀元 〔長府毛利家〕 | 就頼 〔大野毛利家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱広16 | 元知 〔清末毛利家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉就17 | 吉広 | 元重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉広18 | 元直大野家へ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉元19 長府家より | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗元 (元朝) | 元陳 | 宗広20 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
演暢院 (有馬一準室) | 重就21 長府家より | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重広 | 重広 | 治親22 | 親著 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉房23 | 斉熙 | 斉元 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉熙24 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉広 | 斉元25 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敬親 | 斉広26 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敬親27 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元徳28 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元昭29 | 小早川三郎 | 四郎 | 五郎 | 西園寺八郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元道30 | 元治 | 小早川四郎 | 元良 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元敬31 | 小早川元治 | 元維 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元栄32 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家臣団
以下、主に戦国期(元就・隆元・輝元期)の家臣団を取り上げている。
一門衆
庶家衆
国衆
- 安芸国
- 備後国
- 石見国
- 周防国
- 長門国
- 出雲国
- 備中国
- 伊予国
- 筑前国
- 豊前国
- 肥前国
- 肥後国
- 紀伊国
家臣
- 雑賀氏(大内⇒毛利)
- 蜷川氏
- 二宮氏・門田氏(元就以降)
- 黒川氏
- 佐伯氏
- 岡氏(毛利⇒小早川)
- 飛落氏・宇多田氏
- 張氏(明出身)
- 李家氏(李氏朝鮮出身)
- 村田氏(李氏朝鮮出身)
- 寅菊氏・斎藤氏
- 能美氏
- 安田氏
- 小倉氏(六角⇒毛利)
- 弘中方明(大内⇒毛利)
- 鵜飼元辰(元就以降)
- 玉木吉保(勝楽寺⇒毛利)
- 中原善左衛門(元就以降)
- 堀立直正
- 山中元孝
- 村上元常
- 村上就常
- 村上元宣
- 妙寿寺周泉
- 岩政興致
- 小原隆言
- 波多野興滋
- 土肥了佐
- 吉田元重
- 三田元実
- 市川久栄
- 飯尾元行
- 神保景正(始め小早川隆景の家臣)
- 藤井義祐
- 野上元雅
- 小川元政
- 岩脇就延
- 石津房種
- 生駒就亮
- 三上元忠
- 中伏貞末(桑原又右衛門)
- 宇野元重
- 小沢景則
- 三浦元澄
- 平川孫兵衛
- 佐々木元為
- 蔵掛彦右衛門
- 中津江之美
- 悪小次郎(悪景政)
- 北野孫兵衛(北野季勝)
- 御手洗方賀
- 御手洗重方
- 川村重吉(毛利⇒伊達)
- 佐田彦四郎(杉原盛重家臣)
脚注
注釈
- ^ 毛利庄とも。神奈川県愛川町から厚木市(小鮎(-村飯山;飯山)・荻野(-村; 上荻野、中荻野、下荻野)・南毛利(南毛利村;毛利台、森の里などの地名が残る)にかけて。神奈川県厚木市下古沢の三島神社に、「毛利季光屋敷跡 毛利氏發祥の地」の碑がある。
- ^ 広島県吉田町吉田
- ^ 祖父時親、父貞親共に晩年安芸国に下向。この人より安芸国に在住。
- ^ 毛利四郎、安木守、尊卑分脈には毛利入道。
- ^ 刈羽郡南条村及び南条新田、北条町南条、現・新潟県柏崎市字南条)。越後南条氏本貫。南条館跡である佐橋神社が南条(字上南条)に所在。北部には佐橋荘の旧各村名である本条、安田(大江姓毛利氏流 安田氏本貫、安田駅が所在)、北条(北条氏本貫、北条駅が所在)、東条、などの大字がある
- ^ 越後国佐橋荘は嫡男の基親が相続し、この系統は越後北条氏となった。
- ^ 毛利貞親・親衡は越後の毛利領を拠点に南朝に味方し活動。
- ^ 吉田郡山城の築城者といわれる時親が曾孫の元春を後見した。
- ^ 毛利氏に内応した筑前秋月文種、筑紫惟門、原田隆種等であるが、文種は大友氏に攻め滅ぼされている。
出典
- ^ a b c d 沼田頼輔 1926, p. 324.
- ^ 領知朱印状・領知目録「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」(「毛利家文書」)
- ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 毛利氏 (コトバンク)
- ^ 『大日本史料』6編2冊849頁。建武2年12月26日条。「毛利文書」
- ^ 『大日本史料』6編37冊221頁。応安年6年4月8日2条。「毛利家文書」「入江文書」
- ^ 『史料総覧』9編909冊574頁。「萩藩閥閲録」「新裁軍記」
- ^ 『史料総覧』9編910冊412頁。「毛利家文書」「吉川家文書」
- ^ 『史料総覧』9編910冊437頁。 弘治3年4月2日条。「新裁軍記」
- ^ 『史料総覧』9編910冊442頁。弘治3年7月18日条「秋月高鍋家譜」「佐田文書」「大友家文書録」
- ^ 『史料総覧』9編910冊492頁。永祿3年2月21日条。「毛利家文書」「新裁軍記」
- ^ 『史料総覧』9編910冊572頁。永祿6年8月4日条。「新裁軍記」
- ^ 『史料総覧』9編910冊646頁。永祿9年11月19日条。「佐々木文書」「毛利家文書」
- ^ 『大日本史料』11編2冊77頁。天正10年7月17日条。「毛利家文書」。輝元は豊臣秀吉に信長死去に伴う弔意を伝えている。
- ^ 『大日本史料』11編2冊100頁。天正10年7月18日。「蜂須賀文書」。輝元は蜂須賀正勝に物を贈り、山崎の戦いの戦勝を祝った。
- ^ 『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)
- ^ 『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項
- ^ 『史料総覧』11編912冊329頁。天正19年4月是月条。「江系譜」「毛利家譜」
- ^ 慶長5年の検地による石高。慶長10年(1605年)の「毛利家御前帳」にも同様の石高が記載。
- ^ 『史料総覧』11編913冊277頁。慶長5年10月10日条。「毛利家文書」
- ^ 高澤 2008年、p. 190
- ^ 大野 2009年、p. 210
参考文献
- 高澤等著 千鹿野茂監修『家紋の事典』東京堂出版 2008年
- 東京大学史料編纂所データベース『大日本史料』、『史料総覧』
- 沼田頼輔『国立国会図書館デジタルコレクション 日本紋章学』明治書院、1926年3月。 NCID BN01712862。全国書誌番号:43045608 。
関連項目
関連項目が多すぎます。 |
- 常栄寺 - 毛利隆元の菩提寺。
- 天樹院墓所 - 毛利輝元の墓所。廃寺となり墓所を残すのみ。
- 大照院 - 毛利氏の菩提寺(偶数代の藩主)。
- 東光寺 - 毛利氏の菩提寺(奇数代の藩主)。
- 青松寺 - 江戸における毛利氏の菩提寺。
- 香山墓所 - 毛利敬親の墓所。
- 豊榮神社 - 毛利元就を祀った神社。
- 野田神社 - 毛利敬親、元徳を祀った神社。
- 祐綏神社 - 毛利就隆と元蕃を祀った神社。
- 厳島神社
- 清神社
- 吉田郡山城 - 毛利氏累代の居城。また、毛利氏歴代当主の墓所がある。
- 広島城
- 萩城 - 長州藩時代の居城。
- 山口城
- 毛利甲斐守邸跡
- 毛利博物館 - 毛利氏本邸の一部を博物館として公開した施設。毛利氏に伝来した文化財を展示している。
- 明倫館
- 萩往還
- 石州銀
- 長州藩諸隊
- 闘戦経