国重元恒

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国重元恒
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 元亀3年(1572年
または天正2年(1574年[1]
死没 寛永16年2月8日1639年3月12日
改名 国重亀千代(幼名)→国重元恒
別名 通称:与次、又右衛門
官位 出雲守
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 清和源氏義光流安芸武田氏庶流国重氏
父母 父:国重就正、母:長元連の娘
正室:高須元士の娘
継室:飯田元信の娘
女(渡辺元祐室、井上元茂室)、就恒、女(井上就政室)、就久、女(賀屋就全室)、女(飯田正左衛門室)
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国重 元恒(くにしげ もとつね)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将毛利氏の家臣で長州藩士。国重氏安芸武田氏の庶流で、安芸国佐東郡国重[2]国重城を本拠とした国人。父は国重就正

生涯[編集]

元亀3年(1572年)または天正2年(1574年[1]毛利氏家臣・国重就正の子として生まれる。天正12年(1584年12月28日に輝元の加冠を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「元恒」と名乗った。15歳の時から毛利輝元近習として仕え始め、文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役では、輝元に従って朝鮮へと渡った。朝鮮から帰国した後も輝元に付き従い、聚楽第大坂伏見へ赴いた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、毛利氏が長門周防2ヶ国に減封されると、輝元にかわって秀就が毛利氏当主となった。慶長6年(1601年)、徳川家康との面会の為に秀就が初めて江戸に赴いた際には、元恒も秀就に従って江戸へ赴いている。慶長11年(1606年)からは大坂へ7年間滞在し、慶長18年(1613年)に長門国へと帰国した。

慶長19年(1614年)、片桐且元大坂城を退去して茨木城へ立て籠もったとの報を聞いた輝元は、元恒を茨木城へ派遣して大坂周辺の様子を調べさせた。元恒はこの務めを無事に果たして帰国し褒美を与えられ、大坂の陣では秀就に従い出陣した。

元和4年(1618年)、侍鉄砲の久重久左衛門河村弥吉、足軽20人を預けられた。元和5年(1619年)に広島藩福島正則が減転封されると、幕府の命により秀就が岩国へ出馬し、元恒が秀就の供を務めた。また、同年に将軍・徳川秀忠が上洛し、秀忠と面会するため輝元も上洛した。この時、井上元直が供弓として、元恒が供鉄砲として輝元に従った。秀忠との面会後、元恒は御用の為に京に残って輝元の帰国には同行せず、元和6年(1620年)8月に帰国した。

寛永16年(1639年2月8日に死去。子の就恒が後を継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ a b 閥閲録』巻51「国重又右衛門」に収められた家譜によれば、寛永16年(1639年)に68歳で没したと記されており、この記述に従えば元恒は元亀3年(1572年)生まれとなる。しかし、同じく巻51「国重又右衛門」に収められている元恒の子・就恒の書付によれば、元恒は19歳の時に輝元に従って朝鮮へ渡海したと記されており、この記述に従えば元恒は天正2年(1574年)生まれとなる。
  2. ^ 現在の広島県広島市安佐南区沼田町大字伴。

参考文献[編集]