長州藩の家臣団

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長州藩の家臣団(ちょうしゅうはんのかしんだん)では、長州藩主家毛利氏に仕えた家臣団及びその一門について記述する。

支藩[編集]

一門八家[編集]

一門六家と永代家老家にあたる。

  • 宍戸家(周防三丘領1万1、329石余・一門家老筆頭)維新後男爵
元就長女の嫁ぎ先、宍戸隆家の子孫
宍戸元続広匡就尚=就附=就延=広隆=広周就年親朝=元礼親基
  • 右田毛利家(周防右田領1万6、023石余・藩主一門)維新後男爵
毛利元政(元就の七男)‐元倶元法就信=広政広信=広定就任房良=房顕=元亮=親信
毛利元宣(元就の八男・末次元康の子)‐元勝=就久元連=就盈=房晁元美
  • 吉敷毛利家 (長門吉敷領1万855石余・藩主一門)維新後男爵
毛利元鎮(元就の九男・秀包の子) ‐元包=就直広包元直就将=就兼=房直=包詮=房裕=房謙元一=親直=重輔(親直の義弟)
毛利元氏(元就の二男・吉川元春の二男)‐元景就方就泰就芝広規広漢就禎=信任=昌祉=就貞=房嘉熙徳親彦‐寛
毛利就頼(吉川元春の三男・広家の二男)‐就詮=毛利元直(藩主綱広の三男毛利元重の子)=元雅(山内広直の次男)‐広圓就言親頼熈頼親詮‐徳正
  • 益田家(長門須佐領1万2、063石余・準一門、永代家老)維新後男爵、益田元祥の子孫
益田広兼元堯就宣兼長=久之丞=就恒=就賢元道=広堯就祥就恭=房清=元宣親施=親祥=精祥
  • 福原家(長門宇部領1万1、314石余・準一門、永代家老)維新後男爵
元就生母の実家、四人衆の一人福原貞俊の子孫
福原広俊元俊広俊広頼=広泰=元貞広門就清=房純熙賢親俊==良通

一族[編集]

広家元春の三男)‐広正‐広嘉‐広紀‐広逵‐経永=経倫(周防徳山藩主毛利広豊の子)‐経忠‐経賢=経礼(経忠の二男)=経章(経忠の三男)‐経幹経健

寄組[編集]

重臣の家柄で大組頭や手廻頭などに任命され、加判、当職(国相)当役(行相)などの家老職に抜擢されることもあった。時代により異なるが約60家があった。大身の者が多く、一門六家、永代家老とともに自身の家臣団(陪臣)を抱えていた。

清水景治清水宗治の二男)‐元貞就信就治宗貞元周就周親周元周親春親知‐親春(再襲)

大組[編集]

藩主毛利氏の直属の家臣で藩内門閥士族。馬上を許された広義の上級家臣で中士上等。8組あり、2組が交代で江戸藩邸を、その他の6組は萩城の警護を担当。別名は馬廻組、八組。

また享保3年(1718年)に明倫館創建時に儒者や軍法新陰流剣術筆道槍術礼法師範で遠近附や寺社組から昇格した家が13家ある。

遠近附[編集]

中士下等。別名を馬廻通ともいう。享保3年(1718年)に馬術、大筒師範家であるために無給通から遠近附に昇格した家が8家ある。

船手組[編集]

寺社組[編集]

下士上等。儒者、医師、絵師、茶道、能狂言師など芸で仕えた。

無給通[編集]

下士上等。無給通総頭が統率。給地を支給されない。

徒士[編集]

  • 徒士総頭が統括。

三十人通[編集]

  • 御目見え以下。この家格までが士分であった。

その他家格[編集]

  • 士雇
足軽・中間の功労者が昇進の一代限りの身分で、準士の扱い。
  • 足軽・中間(軽卒)
武士階級に属するが、士分ではなく武家奉公人と呼ばれ、士分との間に厳格な壁があった。また、一門六家、永代家老、寄組の家臣である陪臣も士分(家士)と卒の区分があり、藩内における身分はその家の中で士分に準じる者は藩士の次に位置し、卒に準じる者は藩卒の次であった。

参考文献[編集]

  • 「三百藩家臣人名事典 6」(新人物往来社、1990年10月5日)
  • 『萩市史 第一巻』 萩市史編纂委員会
  • 森本繁『戦国最強の海上軍団・毛利水軍』新人物往来社、1991年。 ISBN 978-4404018342
  • 「近世防長諸家系図綜覧」マツノ書店
  • 「防長回天史」